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皐月の季節の頃

さして暑くなく冷える日も少なく,一年で一番良い時期のように思う。

これからは暑い夏に向かい勢いを感ずる。

寒い冬よりも暑い夏の方が好きだ。暑い夏に向かう5月の頃は特に緑を意識する。

毎年恒例の鴨川の納涼床が開かれ,京都情緒が一段と増す。

千年続いた都,京都らしさが納涼床一つにも感ずる。

新しいビルが乱立して行く中,古くて奥ゆかしさ,京都らしさを少しでも多く残して行きたいものだ。

そこで生活している人達のことを考えると一方的に強制するのも,気がとがめる話である。

行政の力でなんとか援助の手を差し伸べながら,全部が納得するような形で良き物は残して行きたいものです。



公平な態度(松下幸之助の言葉より)
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 国における法律の適用には万が一にも不公平があってはならないが、

会社や団体における規律や規則についても、これまた同じことが言える。

会社の規則というものは、一新入社員であろうと社長であろうと等しくこれを守り、

それに反したときは等しく罰せられるということで、はじめて社内の秩序も保たれ、士気も上がるのである。

 だから、指導者は常に公平ということを考えなくてはならない。

利害とか得失、相手の地位、強弱にかかわりなく、何が正しいかというところから、公平に賞すべきものは賞し、

罰すべきものは罰するという姿勢を遵守しなければならないと思う。




5月18日の天声人語より

 森喜朗首相が「神の国」発言について、国会で「陳謝」した。「天皇中心」という表現の意味はこれこれ。「神の国」の意味はこれこれ。

だから「決して天皇が神であるという趣旨で発言したものではない」という結論を導きだしていた。

 台本を書いたのが森首相本人か、ほかの人かは知らないが、なかなかの知恵者だと思う。

問題の発言は、「天皇を中心とする神の国」である。

長くもないこのことばを、わざわざ前半と後半の二つに分けて説明したところに、苦心の跡が見えた。

 たとえば「五十歩百歩」ということばがある。これを分解して「五十歩」は人が50回歩むこと、

「百歩」は100回歩むこと、などといくら述べ立てても、「五十歩百歩」の意味を説明したことにはならない。

首相の弁舌も、これと同じではないか。

 「天皇中心」も「神の国」も、苦しくはあるけれど、説明らしきものにはなっていた。

しかし、その説明をどうつなげても「天皇中心」「神の国」にしかならない。

「天皇を中心とする神の国」という一連のことばからは、首相の説明とは異なる、

多くの人たちが危険な発想を感じ取った意味合いが浮かび上がるのだ。

 首相は「陳謝」したという。

しかし、テレビで見るその態度、物腰は、陳謝ということば本来の意味とはかけ離れた印象だった。そのはずである。

「誤解を受けている面についてはおわびするが、発言は取り消さない」のだから。

自分の言い分は正しい、誤解したのはそちらの方だ、というのでは陳謝らしい陳謝になるはずがない。

 この姿勢は、沖縄での「陳謝」でも同じだった。

自民党幹事長時代の「沖縄の教組と新聞は共産党に支配されている」という発言について「迷惑をかけたのなら、おわびしたい」と述べたが、

取り消しはしなかった。

 問題発言とうわべの陳謝。今後も繰り返されそうな予感がする



森首相の諸々の発言は首相自身が世界に通ずる我々の日本の総理大臣としての器が有るか否かが問われる。

個人の資質に問題がありそうとも言われている。世界の要人達と会見していて下手な事を発言され,国際問題に発展するのが心配だ。

自民党にさらには日本国内に,森首相以外に首相になる人材がいないのだろうか。

いても自民党の派閥の力学で適任者がみつからないのだろうか。

どうも納得がゆかない。皆に判り易い政治をして欲しいものです。



叱ってもらえる幸せ(松下幸之助の言葉より)

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 叱ってくれる人を持つことは大きな幸福である。叱ってくれ手のないことは寂しいことである。

どんな人でも、より多く叱ってもらうことにより、進歩向上が得られるのだ。

 叱られて反感を持ち、不愉快な態度を示すことは、再び叱ってもらえる機会を失うとともに自己の進歩はもうそれで行き詰まりとなる。

叱ってもらうことは自己向上の一大資料であることを感じて、これを受け入れてこそ、そこに効果が生まれるのである。

 修業途中にある諸君は、叱ってもらうことの尊さを知り、叱られることに大いなる歓びを感じる境地に到達しなければならないと思うのである。




6月1日の天声人語より


 西アフリカ・シエラレオネの首都フリータウンは、文字通り「自由の街」を意味する。

18世紀末、解放された黒人奴隷を移り住ませたことから名づけられた。その国がいま、内戦による恐怖に覆われている。

先週は反政府勢力の待ち伏せで、2人の記者が射殺された。

 犠牲者の一人、ロイター通信のカート・ショークさん(53)は、世界のあちこちの紛争を取材し、優れた報告を送り続けてきた。

ロイターは死を悼み、1993年5月、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争さなかのサラエボで彼が書いた記事を、ホームページに再録した。

 〈一組の恋人たちが、川の土手にもう4日も横たわっている。死んでいるのだ、固く抱き合ったまま〉と記事は始まる。

包囲されたサラエボから脱出を試みて撃たれたのである。

ともに25歳、高校のときからの恋人だった。が、彼はセルビア人、彼女はモスレム人。互いに殺し合う双方に、それぞれ属していた。

 「彼は即死した。彼女はしばらく生きていた。はって行って彼を抱き寄せ、あんなふうに腕を組んで死んだ」。

目撃した兵士は語った。

彼女の父親は「せめて2人を一緒に埋めてやりたい」と願う。

しかし、むずかしい。出ていけば、必ず撃たれるからだ。

「化け物同士の戦いだ。だから、2人はまだあそこにいる」。父親の嘆きでルポは終わる。

「ロミオとジュリエット」の遺体は、続報によれば、さらに4日たってようやく収容された。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の発表では、シエラレオネ難民は、アフリカの中で最も多い48万7200人。

人口500万足らずの国で、10人に1人が国外に逃れた。何の関係もない住民の手足を切り落とす、といった残虐な行為も報じられる。

 人間の悲劇を直視し、伝えようと、ショークさんは今度はシエラレオネに入った。2週間後、命を絶たれた。



愛は人間にとって一番崇高なものである。戦争は人間が犯す一番愚劣な行為で有る。

無残にも戦争によって愛が踏みにじられて行く過程が対比しながら書かれて興味深い。

読んでいて涙が自然に涌き出てくる話だ。




自然に学ぶ (松下幸之助の言葉より)


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自然の営みには私心もなければ、とらわれもないと思います。

言ってみれば文字通り素直に物事が運び、素直な形でいっさいが推移していると思うのです。

一輪の草花にしても、私心なく自然に花を咲かせているのです。

そういった花の姿をみて、もちろん何も感じない人もいるでしょう。

しかし、素直な心になりたいという強い願いを持っている人の場合には、あるいはそこに何らかのヒントを見出すかもしれません。

そういうことを考えてみると、お互いが素直な心を養っていくための一つの実践として、

大自然の営み、自然の姿というものにふれて、その素直さに学んでいくということも大切だと思います。




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