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Firstborn(初子、長子)

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 ほとんどのアジアの神々は、サンスクリット語でヒラニヤガルバHiranyagarbaという、「子宮の初子」を意味する添え名を要求した。どの聖職者も自分の神が創造女神の「初子」であるように望んだ。最年長の子は、他の子に対して生まれながらの権威を振るえたからである。初子になれるのはただ1人の神だけだったから、学者たちは添え名を用いて、それぞれの神が太母神が処女のときに生まれた初子の1人であると主張した。

 典型的な例は釈迦牟尼で、多くの化身となって生まれたが、その都度、女神の現世の姿である神殿乙女すなわちdevadasiの初子として生まれた。devadasiは神の処女花嫁という意味で、母神カーリーの処女の面を表すマーヤーの名前(と精霊)をもっていた。神々の生誕物語すべてに言えることだが、乙女には現世のがいてもよかったが、初子を生む前に、そのと床を共にすることはなかった。初子は神の子であるが、釈迦牟尼の場合は「万神の神」ガネーシャの息子であった[1]

 このような神の受胎の現実の仕組みはまったく字義通りであるといえた。処女母(virgin mother)になる人が、神聖な男根にまたがって、それを自分の体に挿入させることで、自らを犯した[2]。このようにして神の子を身ごもりながら、乙女は神の像の頭に花輪を置く。インドのスヴァヤマラsvayamaraの儀式を思わせる象徴的行為であった[3]。花輪は乙女の性器のシンボルであり、神の頭は神の性器のシンボルだった。神聖な結婚に備えて、神の頭と男根の頭には、ともに聖なる油が塗られた。論理的にみて、石の棒を膣の中に入れるためには、たしかにこうする必要があった。この習慣と寺院の男根は、中東や地中海世界では普通に見られた。そこでは神聖な油はクリズムchrismといわれた。だから男根神はクリストスChristosすなわち「油を塗られた者」であった。

 中東では、マーヤーはマイア、マリ、あるいはマリアとなった。マリアは神殿乙女、すなわちkadesha(ヒンズーのdevadasiに相当する)として仕える「神の処女花嫁」の1人だった。インド・ヨーロッパで典型的な型を例にとると、主の天使がマリアの「ところに来た」ことになる(『ルカによる福音書』1:28)。これは性行を表す聖書の表現であった。マリアのヨセフは「子が生まれるまでは、彼女を知ることはなかった」(『マタイによる福音書』1:25)。

 最古の時代から、神のもうけた初子はサケルsacer、すなわち特別な運命のために最初に選び抜かれた者たちと考えられた。この時代には、あらゆる種類の初物の果実が、それらを与えてくれたと思われる神に捧げられた。初めに生まれた息子は神の姿を写し、神になり、神に捧げられた。厳しい旱魃のときに、神々をなだめるために、エジプトで大量に初子が生贄にされたことが、ユダヤ人の律法学者によって旧約聖書に記録されていた。律法学者は、自分たちのヤハウェがエジプトの子どもたちの殺戮に責任があったことを主張するために、伝説に手を加えた(『出エジプト記』12:29)。

 事実、エジプトの初子-生贄には大変に古い伝統がある。『死者の書』には「初子を小さく切り刻む日に……天界の力ある者たちは、初子の大腿が積み上げられた大なべに火をつけた」[4]とある。後期の王朝になると、これが動物の生贄に変わったかもしれないが、「大腿」の象形文字は動物ではなく、人間の足を示していた。聖書はヤハウェがエジプトの「天界の力ある者たち」の行為をまねて、祭壇でアロンの息子たちを焼き滅ぼす火を送ったと述べた(『レビ記』10:2)。

 エジプトの神のように、ヤハウェは聖職者たちに言った。「すべてのういご、すなわちすべて初めに胎を開いたものを、人であれ、獣であれ、みな、わたしのために聖別しなければならない。それはわたしのものである」(『出エジプト記』13:2)。代わりに仔ヒツジを捧げて、子どもを贖うことを聖職者が許可し始めるまでは、最初に生まれた子たちはヤハウェの祭壇に捧げられた(『出エジプト記』13:15)。このように過越の祭りの伝説に登場する、過越の祭りの仔ヒツジは、本当に息子の代用品であったのだ。これはヤハウェの祭壇でイサクに入れ替わった雄ヒツジが、人間から動物の生贄への移行を表していたのと同じであった(『創世記』22:9-13)。イサクと雄ヒツジの話は、おそらくボイオティア神話にある王の初子のプリクソスの話をまねたものだろう。プリクソスは祭壇で生贄にされるところだったが、金の羊毛の雄ヒツジが身代わりとして奇跡的に現れたのだった[5]

 ヤハウェが人間の生贄の代わりに動物を受け取ったからといって、必ずしもヤハウェが他の土地の神々よりも人情味があったことにはならなかった。アブラハムの時代とされている時代よりずっと以前に、東洋の諸民族は、人間の生贄の代わりに動物を捧げていた[6]。まったくのところ、ユダヤ人は同じ時代の人々に比べると、かなり長い間古い習慣にしがみついてきたようだ。ユダヤ人はハドリアヌスの人間の生贄禁止の勅令を無視して、エッセネ派の「クリストス」の儀式のように、ひそかに人間の血で神を養い続けた[7]point.gifVirgin Birth

 ローマ人は、人間の生贄は止めたかもしれないが、初子-受胎の儀式は止めなかった。ローマの花嫁は、花婿と寝る前に、ヘルメース、トゥトゥヌス、プリアーポスなどの「油を塗られた」神の彫刻の男根にまたがって自らを犯し、最初の子どもが神の種であるようにした[8]。最初の子が「神の恩賜によって生まれた」というのはどこにも共通していたのである[9]

 キリスト教会の神父たちは、この習慣を憂えた。奇跡的とみなしたかった「クリストス」の生誕を、この習慣が日常的行事に格下げしてしまうからであった。聖アウグスティヌスは、ローマの女たちが、若い花嫁に「プリアーポスを表す化け物の上に座る」よう奨励することを非難した。アウグスティヌスは女たちがこの習慣を「真に立派で宗教的である」[10]とみていると言った。ラクタンティウス(250-330? 初期キリスト教の著作者で神父。コンスタンティヌス1世の長男クリスプスの家庭教師)は、この儀式は「神と交わることによって」花嫁を多産にする概念から生まれたと説明した[11]

 このような男根神の「神聖」に次いで、「悪魔性」も宣言されたが、中世の魔女と悪魔との性行の描写にも示されているように、この儀式は存続していたのかもしれない。魔女たちは、悪魔のペニスは硬くて冷たく、体も「石でできたもののように全体に冷たい」と申し立てた[12]。そのような「悪魔」が実際に石でできたものであっても不思議ではなかった。すなわち、それがプリアーポスか誰かの男根神の彫像の可能性があったのである。そしてその彫像が伝統的なやり方で、処女母(virgin mother)の初子として反キリストAntichristをもうけたと信じられている。


[画像出典]
大村幸広/大村次郎『カッパドキア:トルコ洞窟修道院と地下都市』(集英社、2001.4.、p.23)
[1]Larousse, 332.
[2]Rawson, E. A., 29.
[3]Legman, 661.
[4]Book of the Dead, 94.
[5]Graves, G. M. 1, 229.
[6]Robertson, 36.
[7]Cumont, O. R. R. P., 119.
[8]Simons, 77.
[9]Briffault 3, 231.
[10]Goldberg, 51.
[11]Knight, D. W. P., 103.
[12]H. Smith, 273.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)