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処女降誕(Virgin Birth)

virgin.jpg 「聖なる処女」はイシュタルアシュラ、またはアプロディーテーに仕える娼婦-巫女の添え名であった。この添え名は文字通りの処女を表しているのではなく、単に「未婚」の意であった。このような「聖なる処女」の務めは、性崇拝によって太母の恩恵を分かち与えること、病を癒すこと、予言すること、聖なる踊りを踊ること、死者のために涕泣すること、「神の花嫁」になることなどであった。

 こういう神殿つきの女たちから生まれた子どもを、セム族はbathur、ギリシア人はparthenioiと呼んだが、ともに「処女から生まれた」という意味であった[1]。『原福音書』によれば、聖母マリアは神殿娼婦kadesha*のひとりであり、「神の父たち」として知られる僧侶階級のひとりと結婚したのであろう[2]point.gifFirstborn.

神殿娼婦
 神殿に仕える娼婦たちは、ローマではvirginesまたはvenerii、ギリシアではhorae、バビロン、カナアン、パレスティナではそれぞれkadishtu、quadesh、kadeshaと呼ばれた。

 マリアの懐胎はペルセポネーの場合と似ていた。三相のうちの処女の相をとるペルセポネーが聖なる洞穴の中で腰をおろして、大いなる宇宙の綴れ織りを織り始めると、そこへ男根を象徴するに変身したゼウスが現れ、救世主ディオニューソスをみごもらせた[3]。マリアも神殿で腰をおろし、運命の綴れ織りに織り込まれると「生命」を表すことになる、血のように赤い糸を紡ぎ始めると、天使ガブリエルが「彼女に入ってきた」came in unto her(『ルカによる福音書』第1章 28節)。この句は性交を表す聖書語法である。ガブリエルという名は文字通りには「天の」を意味する[4]

 ヘブライ語の福音書はマリアにalmahという添え名を与えたが、本当の意味は「若い女」であった[5]。almahはペルシアの、配偶者のいないの女神アル-マーAl-Mahに由来する[6]。もうひとつの同族語はラテン語のalma(「生きた世界霊」)で、これは実質的にはギリシア語のpsyche、サンスクリット語のshaktiに等しい。聖なる処女、すなわち神殿娼婦は、「の教師」または「の母」、すなわちアルマ・マーテルAlma Materであった。

 キリスト教徒の翻訳者たちはマリアの添え名を「処女」とすることに固執したが、このため彼らの宗教は信仰に関して、やっかいな条項を抱え込むこととなった。今日でもカール・バルト〔Karl Barth(1885- )〕のような神学者たちは、「処女降誕の教義を受け入れることが、真のキリスト教信仰には不可欠である」と断言する。こうして、真のキリスト教徒と呼びうる人々の数を激減させてしまうのである[7]

 初期のキリスト教徒たちは、自分たちの救世主が処女から生まれたことを要求したが、これは単に異教をまねたにすぎない。他のすべての救世主たちも処女降誕であった。というのは彼らは、救世主を生むことが務めである選ばれた「神殿処女」に化身した女神から生まれたからである。神々または精霊が人間の女をみごもらせるという考えは、古代世界にあってはごくありふれたものであった。旧約聖書でさえも、昔の「巨人たち」(先祖の英雄たち)は神より発した霊によってみごもった女から生まれたと語っている(『創世記』第6章 4節)。

 ゾロアスター、サルゴン、ペルセウス、イアソン、ミーレートス、ミーノース、アスクレピオスや他の多くの救世主が神を父とし、処女から生まれた。他の多くの「処女から生まれた」英雄たちの父となった「天界の父」ゼウスも、ゼウス・マルナス(「処女から生まれたゼウス」)と呼ばれた[8]。プルータルコスによれば、エジプト人たちの間では、神の霊には人間の女との性交能力があると広く信じられていた[9]

 ヘーラクレースは別のalmahすなわち処女アルクメーーネ Alkmeneから生まれたが、アルクメーネー Alkmeneという名は「の力(might of the moon)」を意味する[10]。彼女のもまた聖書のヨセフと同じく、妻が懐妊中はその寝床に近づかなかった。同様の話はプラトーンについてもあり、彼の甥の確言によれば、プラトーンの父は神アポッローンで、プラトーンの地上における両親は、彼が生まれるまで性の営みを行わなかった[11]。キリスト教徒はこれを信じ、プラトーンは太陽神を父とし、処女から生まれたと真面目くさった顔で証言した[12]

 しかし、キリスト教がローマ帝国公認の宗教として確立してからは、教父たちは他のすべての処女降誕を、悪魔が考え出したものであるとして貶めることに努め、それらの処女降誕が本当の救世主の降誕に先立つように、故意に過去の出来事であるとした。殉教者ユスティノス*は、「私は、ペルセウスが処女から生まれたと聞かされると、これもまた、欺瞞のがわが宗教をまねたのだと思う」と記している[13]

ユスティノス〔Justinos ho Martyros(125-165)〕
 2世紀のキリスト教護教論者。異教徒の家庭に生まれ、改宗前に哲学を修めた。彼の著作である『弁明』と『対話』に加えて、のちに書かれた多数の作者不詳の作品も誤って彼の手になるものとされた。

 教父たちの努力にもかかわらず、イエスの処女降誕は、キリスト教徒たちが信じた最初の処女降誕でも最後の処女降誕でもなかった。子どもを生ませる力があるとされていた古代の男根像は実際に、フータン、グエリコン、アエギディウス、ルニョー、ギニョールという名で呼ばれる聖人となった他の男根像を生みだした。これらの男根像も同じく受胎させる力があるとされ、子どもを得たいと望む女たちは大いに崇拝した[14]。タスカニーやポルトガルの女たちは、司祭の手で特別に聖別されたリンゴを食べると妊娠できると考えていた。スペイン人はマルスの処女降誕を記憶していて、どんな女もマルスの母ユーノーのようにユリの花を食べると妊娠できると考えた。霊魂は蠅、蛆、となって女の体内に入り、受胎させることができると信じられていた。このような例はしかつめらしく記録に残されたが、たとえばギリー・ドウナク・シュラヴォリックという名のスコットランド人の場合がそうである。彼の母親は、ある古戦場で裳裾をたくし上げ、その「隠し所」に戦死した勇士たちの骨の灰が入ったとき彼をみごもったのである[15]。「性行為が豊穣儀礼の一部となっていたほとんどの異教の国々では」、神による懐妊が「妊娠の説明として広く受け入れられていた」ように、キリスト教徒も、霊による懐妊は依然として信じうると考えたが、それは、たとえ父親と目されるものが、すでに死んでしまった英雄、悪魔、インクブスはては(いくつかの宗派において)例の精霊であったとしてもである[16]

 上述のような擁護しがたい信仰が生き延びたのは、これが男たちにとって重要であったからである。処女母(virgin mother)などというあり得ない説は、万人が切望した、オイディプース的な葛藤に対する解決策(すなわち、決して性欲などによって子どもへの献身的な愛情をそがれることのない、無垢なる母性)であった。聖職者はイエスに兄弟姉妹がいたという、ほかならぬ福音書の証拠さえも否定して、はからずも自分たちの不安をさらけ出した。聖アンブロシウスは、マリアは二度と懐妊することはなかった、なぜなら、神がその母-花嫁として、「天の寝室を男の種子(精液)で汚すような女」を選んだはずがないからである、と断言した[17]

 神学者たちは結局は、異教の女神が本来そなえている二つの部分を切り離したにすぎない。この女神が本当の意味での女らしさを失わないのは、あふれんばかりの性欲と母性という二つの面を併せ持っていたからである。片方の面は娼婦-誘惑者という烙印を押され、もう一方の面では彼女は、母親の役割を禁欲的なまでに果たす女であった。女神の古い添え名であるサンクタ・マトローナ(「聖なる母」)は、架空の聖マトローナとして聖人列伝に加えられたが、彼女はその偽の伝記では「女隠者」となっていた[18]。処女降誕説の始原的な素朴さは、冗長な言葉で仰々しく飾り立てられた。説明するためと称してはいるが、実際には、穿鑿好きな眼からこの説を隠すことになった。「物体に光が当たるとができる。人間としての聖母マリアは体内に充満する神聖に堪えることはできなかった。しかし至高なるものの力が彼女をで覆った。一方、神の霊的な光が彼女の中で人間の姿をとり、それゆえ、彼女は神を生むことができた」[19]

 聖職者たちはしばしば、処女降誕の教義は「品性を高めるものである」として女たちに示したが、それは彼らが女の生来の性欲を下劣なものと見ていたからである。女の性欲と母であることとが、一人の女の全体を構成する二つの要素であると認識されるのは稀であった。前述の教義が、達成不可能な理想を称揚することによって、みごとに本当の女らしさを貶めている、と見抜ける明敏な女たちもいた。19世紀末に、ある女性は次のように書いた。

 「思うに、処女降誕が、普通に母親になるよりも次元が高く、甘美で、高尚なものであるという教義は、世界中のすべての母親にとって恥辱である。……この教義と、それに類似した教義から、世界中の修道院と尼僧が存在するようになったが、これらは1000年にわたって、男であることを名誉とし、これに反して、女であることを恥辱とし、異常なこととし、ばつの悪いことと思わせてきた。私は、この偽りに満ち、抹香臭くて自然に反する主張と私の母とを並べてみるのである。……彼女は子どもを生んだ母という点において、マリアその人と同じく聖なる存在であった」[20]

[画像出典]
Dante Gabriel Rosetti (1828-1882)
Ecce Ancilla Domini (The Annunciation) (1849) , Birmingham City Museum
 画面は修道院よりは病院を思わせ、白い衣装のマリアは病室で「受胎告知」を受けているようである。二人の頭に後光が描かれていなければ、患者と看護婦を描いた作品に見えるだろう。
 画面には、基本的に神聖な印象というものが欠けており、マリアの表情の翳りにしても、当惑や驚きよりは不安や戦慄に近い感情をうかがわせる。
 なにやら冷え冷えとした空気が流れる画面は、神を失った時代というものの、ひとつの証言であるのかも知れない。
 西岡文彦『名画でみる聖書の世界<新約編>』(講談社、p.56)



[1]Briffault 3, 169-70.
[2]Budge, N. D., 169.
[3]Campbell, P. M., 101.
[4]Augstein, 302.
[5]Brasch, 25.
[6]Larousse, 311.
[7]Augstein, 38.
[8]Graves, W. G., 320.
[9]Angus, 113.
[10]Graves, G. M 2, 378.
[11]H. Smith, 183.
[12]Shumaker, 152.
[13]H. Smith, 183.
[14]Knight, D. W. P., 141.
[15]Briffault 2, 452.
[16]Holmes, 35.
[17]Ashe, 182.
[18]Boulding, 370.
[19]de Voragine, 206.
[20]Stanton, 114.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)