人殺しはいつも行われているし、また、ときには戦争の場合のように大量に行われることもあるが、人を殺してはいけないというタブーに比肩しうるタブーはない。しかし、文明社会において、終始一貫してタブーとされてきたものは、人肉嗜食に対するタブーである。
ポリネシア人の間で、人肉嗜食ではないけれども、人間を生贄とすることが行われていると知ったとき、クック船長は、それは人類をむだに費やしている驚くべきことであると言って、次のように記した。「こうした蒙昧なる人間は、同じなら、人間を殺すという恐ろしいことをするようになった方が、はるかに望ましい……ところが、彼らはあさましくも人間の肉そのものを食べているのである」[1]。もちろん、善良な船長は、そうした誤った考えが自国の人々にもあるということに気づかなかった。キリスト教徒はポリネシア人に仲間の人間をそれ以上殺すなと教える一方で、ポリネシア人が降参するまで徹底的に彼らを殺すということを、結局はやったのである。
もし死者が生者の食するものとならないかぎりは、西欧の道徳は、つねに、大量殺人を認めてきたし、それをすすめもしてきた。古代の人身御供やカニバリズム(死者の肉体の一部を食べてそれをわがものとする呪術的儀式)がだんだんとなくなるにつれて、人が人を殺すこともなくなったかというと、そうではなかったのである。この点は注目に値することであった。逆に、文明の発達とともに、戦争の規模は着実に大きくなり、今日の高度文明技術文明は、今にも全世界を絶滅させるほどになってしまった。その上、戦争で死傷する人数は、みずからをキリスト教徒とするまさにその国民において、最高の数に達しているのである[2]。
キリスト教会は、公には人を殺すことに反対を表明しながら、もしそれが好都合な場合には、つねに正当化しようとしてきた。さらにおかしなことに、キリスト教会側の人々は、人肉嗜食を最も恐ろしいこととしながらも、彼ら自身大きな矛盾を犯している。人肉嗜食は恐ろしいことで、もしそれを行った者がいれば、情け容赦のない罰を受けるに値するとされたために、魔女たちが告発されたのはこの人肉嗜食の罪に問われたのが、いちばん多かった。しかし、キリスト教信仰のまさにその中核こそ聖餐なのである。救いも、罪のあがないも、永遠の生も、何もかもこの聖餐にすべてがかかっているのである。聖餐というものは、「象徴的な」人肉嗜食ではなく、神学上の原理説明によると、まったく現実に嗜食することなのである。
神を食するということは、文明が始まって以来、全世界的に見られる風習であった。しかし、文明の初期は、人肉を実際に嗜食する祝祭がつねに行われていたのである。「生贄になる者は」神の化身として「殺されるばかりでなく、自分を祀る者たちにその肉を食べられ、血を飲まれる。そうすることによって彼の生命は、彼らの生命に乗り移り、両者は結ばれて共生するのである」[3]。
神の化身である生贄を食べる目的は、そうすることによって神の肉体の肉になって、神の聖なる肉体が再生するときに自分も同じく再生できるようにするためであった。キリスト教の聖餐は、原始時代の共感魔術としてのカニバリズムの儀式にその源を発するものではないと言っても、それは通用しない。初期キリスト教時代の秘教というものは、すべて、カニバリズムまがいの聖餐を行えば、祀る者は祀られる者(神)と一体となれるという信念をその中心に持っていたのである。「宗教の初期の段階には、聖餐という形で神を食べることによって、自分も神の一部になれるという固い信念があった。これは疑いないことである。例えばトラーキアのディオニューソスの秘儀においては、そうした食事にあずかった人々は神の聖なる生命を自分たちも分かち持つことができるとされ、そのためにその神の名で自分たちも呼ばれることになるのである」[4]
キリスト教の聖餐は、他の秘儀のと同じく、こうした考えを下敷きとしている。エルサレムのシリルは、「キリストの肉と血を食するのは、そうすることによってキリストと一体となり、血のつながりを得られるようになるからである。キリストの肉と血がわれわれの手足に入って、われわれは『キリスト担体』になる」と語った。聖メトディオス〔9世紀にスラブ人伝道にたずさわったギリシアの宣教師。死後ただちにギリシア正教会によって、また1000年たってからローマ・カトリック教会によって聖人に列せられた〕は、「信者はすべて、キリストの血肉にあずかることによって、キリストのような人間に生まれ変わる……キリストが人間として姿を現したのは、われわれ人間が神になるようにするためであったのだ」と教えた。しかし、同じ聖餐でも、他の宗教のものとなると、それは悪魔の儀式とされた。「悪霊は供物を食べて力をつける、だからあなたがたが供物を捧げると、あなたがた自身の手で悪霊を体内に引きいれることになる。悪霊は長い間ひそんでいて、そしてあなたがたの霊魂と一体となる」[5]。
真のカニバリズムは、7世紀まではなお、明らかにチベットの供犠と関連があった。しかし、その後は、それに代わって聖なる秘儀が演じられるようになり、そのためにカニバリズムはシンボリックなものになった。練り粉で生贄を作って、それを引きちぎり、「内臓」を皆に配って食べた。ときには、死刑囚の死体の肉をその練り粉で作った像の中に入れた。贖罪の祭典のときには、「宗教の聖なる王」と呼ばれる雄ウシの仮面をかぶった聖職者が、その生贄の像を突き刺して、手足をばらばらに切り離し、胸を切り開いて人工の肺や心臓や腸を引き出した。残った遺体は動物の仮面をかぶった踊り手たちによってばらまかれた。それは、古代、ウシル〔オシーリス〕やその他の救世主-神たちの遺体が地上にばらまかれたのと同じであった[6]。
そうした踊り手たちというと、『エゼキエル』の第24章に出てくるサバの住民たちのことが思い出される。彼らは「血を流す女たち」と呼ばれ、死者の喪に服するために黄金の冠と腕輪をつけ、「人肉のパンを食べた」という。同じような送葬の踊り手として、エジプトには、女神メウト〔ムート〕、あるいはネヘベト〔ネフベト〕(死者を食べる女神)を擬人化するために、ハゲワシvultureの羽根を身につけたムーmuu(=母親たち)という人々がいた。
最近まで、フランスの一部で、最後に刈り入れた小麦の束から取った小麦粉で人形を作って、それで人間の生贄を表す習慣があった。その人形は村長marie(昔は一族の母親の添え名)によって引きちぎられ、人々に与えられて、食べられた。メキシコでも同様に、人間の生贄が廃止されてから、練り粉の人形の胸に火打ち石の先がついた槍が射こまれた。こうした行事は、「神の肉体を食べるために神を殺す」行事だと言われた。「神を食べる」torqualoという儀式では、神の像が粉々にされて、人々に配られたという[7]。
これは、明らかに、アステカ人の宗教思想の遺物であった。生贄になる人は神の擬人であって、崇拝され、病気を癒し、人々に祝福を与え、つねに、そのそばには彼の世話をする弟子たちがいた。それから彼は殺され、彼に与えられていた特別な家(calpulliと呼ばれていた)でばらばらに解体された。育児中の母親たちは、その血を子どもに含ませるために、乳首にその血を塗りつけた。
ギリシア人の言う「生食」wjmofagivaというのは、本来、人肉を食べる狂宴orgiaであって、そのときは料理も何もしないで食べた。生贄となる者は、その狂宴に参加した人々の歯や手で引き裂かれ、生のまま食べられた。ギリシアの古典作家たちは、つとめて「生食」を忘れようとした。彼らは、野蛮人は乱交をし、家族の者を食べると言って軽蔑した[8]。
「バーベキュー」というのは、本来、人肉を食べる饗宴であった。barbecueの語源はbarbricotで、カリブ・インディアンが人肉を焼くために用いた葉のついた枝で作った焼き網のことである[9]。古い本を見ると、古代の人々には人肉を食べる習慣があったことがわかる。古北欧の神々、あるいは巨人たちのことをヨツンjotunnと言ったが、「食べる人」という意味のインド・ヨーロッパ語を語源とする。血を飲んで、その骨でパンを作ったという英国のジャックの巨人と同じように、彼らも人間を食べたと信じられていた[10]。
聖王や救世主を食べることと、家族の者を食べることとの間には、どういう関係があったのだろうか。この答えは、人食い人種自身がしてくれた。つまり、人が死ぬと、女性がその肉を食べ、そして、新しい子どもとしてその死者を再生させるのである。原始時代の人々は、再生するためには女性の肉体の中に入らなければならないと考えた。そうするためには、女性に食べてもらうことがいちばん手っ取り早い方法であった。これが再生輪廻という、文字どおり肉体を再び身にまとうという、世界中に見られる教義の根源であったのである。
どうやって懐妊するのかがまだよくわからなかったころ、死に瀕している人は、同じ種族の母親たちの誰かから自分がまた生まれてくるものと思っていた。自分の肉や血をその母親が新しい赤ん坊に移し替えてくれると思っていたからである。マッサゲタイ人は部族の母親たちに食べられることが唯一名誉ある死だと考えた。母親の肉体の肉となって、再生できると信じていた[11]。大地と同じように、何度も何度も子どもを生む女性こそ、神秘の呪術によって自分を再生させてくれるものと思っていた。
オーストラリア原住民の女性は、乳児が死ぬとそれを食べ、骨は赤く塗って自分の身体にぶら下げたという。こうしたまぎれもない呪術というものは、死んだ子を子宮にもどして、そして子を生む母親の血をその子の骨にまたまぶしてやることを目的としたものであった。ビビンガ族の女性は、自分たちは死者を食べて、それで彼らを再生させてやるんだと、淡々と語った[12]。ニューギニアでは、子どもが生まれるとその子に、殺されて母親にその肉を食べられた人の霊魂-名前を与えたという[13]。
1852年、ハブシュ博士はニアム・ニアム族というアフリカの部族のことで、次のように報告した。「部族の誰かが死ぬとすぐに、縁者たちは、その死者を埋めないで、死体を切り刻んで賞味するのである。そのため、この地には墓地というものはない」[14]。バガンダ原住民の話によると、女性たちはときに非常に空腹を覚え、乳児の耳を食いちぎることがあったという。おそらくこれは、子どもを食い殺してもまたその子を産めると信じて、全部食べてしまったということを、婉曲に表現したものであろう[15]。
妊娠するのは人肉を食べたためであるという考えは、未開人の間に広くある考えである。食べ尽くすことを表す語と、みごもることを表す語とは、同じであることが多い。古代バビロニアの諺に、「誰しもみごもって初めて腹がふくらむ。誰しも食べて初めて腹一杯になる」[16]というのがある。フロイトは性的ドラマこそ本当の原風景であると仮定したが、ホラティウスによると、「残忍な魔女がその腹から胎児を引きずり出して再生させる」[17]場面こそ、原風景であった。聖書では生誕を表すのに「身(bowels=腸)から出る」としている(『創世記』第15章4)。それというのも、子どもたちと同じように、古代の人々は、生殖と消化の区別がまったくつかなかったからであった。サンヒドリン〔71人からなるユダヤの最高議会。紀元前5世紀から西暦70年まであった〕は、死体を洗った水を飲んだり浴びたりすると、女性はみごもるとした。これは、明らかに、死者の霊魂が新たに母親の胎内に入るという原始時代の考えの遺物である[18]。
殷の時代の中国は、生誕と再生は同じであると考えた。「霊魂」と「再生」を意味する鬼の絵文字は胎児であった[19]。
ヤノマモ族の言うところによると、彼らは、昔、母神マモコリヨマが死んだ親や子どもを食べてもよいと言ったからと言って、人肉嗜食をしたという。しかし、その後、彼らはその母神を崇拝しなくなり、人肉嗜食は罪だとして、死者を火葬にすることにした。それでも、今なお、彼らは死者の灰を食べ物に混ぜて食べている。祖先の灰を皆でいっしょに食べることは、縁者のきずなを強めると思われる聖なる儀式なのである[20]。
アフリカの南東部では、もし女性が別の縁者のグループのところに嫁いでいくときには、死んだ祖先の頭蓋骨に穀粒を盛ってそれを食べなければならない。彼女が子どもを産むと、長老たちは死者とその子の間によく似た点があるかどうか見る。穀粒はウシル〔オシーリス〕のミイラの上でも、またベツレヘムBthlehem(=パンの家)で生まれたアドーニスの身体の上でも、同じように、栽培された。そしてその穀粒はウシル〔オシーリス〕やアドーニスを崇拝する人々が、厳粛な霊的交感のうちに、食べた。そうすることによって自分が神と同じような者になり、神同様、自分も再生できると思ったからであった。ハワイの原住民もウシル〔オシーリス〕によく似た神を持っていた。その神は身体を切り刻まれて、方々の大地-子宮に埋められた。彼の身体のいろいろの部位から食べ物が実った[21]。
ほとんどすべての宗教にはカニバリズムが見え隠れしている。神を食べる聖餐はキリスト教にも異教にもあったが、それとは別に、初期キリスト教教会は、本当に人肉嗜食をしたと言われた。ローマ人の言うところによると、キリスト教徒は子どもを殺して食べ、その血の中に供犠を司る人を漬けたという。正当派キリスト教会側の人々(パウロ使徒団)はこうした非難に対して否定はしなかった。しかしそうした非難に値することをしたのは、ただ、グノーシス派の人々だけであると主張した。殉教者聖ユスティヌスは、マルキオン派の信徒たちは実際に近親相姦や人肉嗜食をしたと言った。カイサリアのエウセビオス(263?-340。神学者、歴史家)は、カルポクラテス派の人々もやったと言った。エピファニウスは、モンタノス主義者や拝蛇教徒たちもやったと言った。アレクサンドリアのクレメンス、イレナエウス、5世紀の初期キリスト教会の長老サルビアンといった人々はすべて、異端者が食人種の行うような儀式をやって教会の名誉を汚したと言って非難した[22]。
厳しいタブーであったにもかかわらず、ヨーロッパでは中世になっても人肉嗜食が行われていた。飢えに瀕し、疫病が流行すると、ヨーロッパの町々では、多くの者が行き倒れになったが、ときにはある人の姿が突然消えてしまうことがあった。1435年、ガロウェイのソウニィ・ビーン家の人々は、何代にもわたって人肉を嗜食してきたといって告訴された。彼らはエディンバラの法廷で拷問にかけられて死んだ。しかしその死に方を考えれば、彼らが自白したとしても、その内容は疑わしいものである[23]。1661年、スコットランドで4人の魔女が拷問にかけられて、フォーファーの教会墓地から、洗礼を受けなかった子どもの死体を掘り起こして、それを食べたと自白した[24]。しかし、そんなことはありえないのである。洗礼を受けない子どもが教会墓地に埋められることなどなかったからであった。魔女に次いで、人肉を嗜食したといって頻繁に告訴されたのはユダヤ人であった。
Persecution of Jews.
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
強いタブーに封じこめられている習俗は、その習俗を語る者の「語り」が常に問題となる。六車由実は、日本の人身御供の民俗学を分析した書において、次のように言う。「つまり、人身御供のレッテルは、都会の知識人による異郷(辺境)への偏見の所産であり、その祭を都会人の好奇心をくすぐる奇祭として紹介する際の、常套的な表現であったと言えるのである。そしてそれは、次第に、祭の担い手である村人たちの間に、祭の起源を説明する、いわば『自己の語り』として受容されていった。(『神、人を喰う:人身御供の民俗学』p.103)
社会的に容認された、あるいは制度化されたものとしての人間を食する行為。したがって、極端な飢餓や精神異常の状況で生じた食人行為や、食人鬼のように神話・伝説で語られる非現実のものは含まれない。しばしばカニバリズム(cannibalism)ともいわれるが、これは、新大陸発見当時の西インド諸島住民の一部に対する呼び名をカニバル(canibal)あるいはカリバル(caribal)と聞きとったことに由来し、それが食入者を意味する用語として文献に定着するにいたったものである。食人俗についての報告は、スキタイの一部に関するへロドトスの記述をはじめ、古くから残されているが、記録が豊富になるのは、大航海時代以降のことであり、野蛮人、未開人の発見されるところ、きまって食人習俗についての言及がなされている、といってよいほどである。したがって食人に関する報告の量だけからすれば、この慣習は世界的な広がりをもって分布を示すことになる。しかし報告資料の信頼性についは多大の疑問がある。
南アメリ方東岸部で行われていた食人慣行は、現在でもしばしば証拠として引用される古典的な事例であるが、それは16世紀なかばに木版画入りで出版されたシュターデン(H. Staden)の手記によっている。シュターデンは、食入者である野蛮人に捕われて、10ヵ月余を一緒に生活し、その間に実見したこととして記録している。その手記によると、トゥーピン・インバ族(トゥピナンバ)を含む当時のブラジル東岸諸族間の戦争は、復讐を基本的な動機とし、捕えた捕虜を殺して、その肉を食べるのは復讐と憎悪の表現行為であり、空腹に由来するものではなかった。捕虜は勝利者の住む村へ連行され食物や身のまわりの世話をする女を与えられ、一定期間をすごす。そのあと友好的な近隣集団の人々を招いて祭が催された。羽毛や彩文により身体を飾られ、木綿製のロープを巻かれた捕虜が広場にひきだされ、そのまわりで、威嚇、憎悪、揶揄の表現をともなった踊りが行われる。捕虜を捕えた戦士に殺す権利が与えられており、踊りのあとで、首長から手渡された羽根飾りのある特別にあつらえた梶棒を使い、戦士は犠牲者のうなじを一撃して殺した。四肢の解体と内臓の取りだしは男性によって行われたが、調理は集まった女性たちによって行われた。敵を捕えて殺すことは戦士にとって名誉とされ、殺害のたびに戦士は新たな名前を獲得した。
上記トゥピン・インバの場合は、犠牲となるのが食入者の集団に属さない敵対者であることから、族外食入とされ、食人の対象者が身内である場合の族内食人と区別されることがある。後者の例としては、ベネズエラ領のヤノアマ族に関して比較的最近の報告がある。それによれば、戦闘で殺された者の遺体は、近親者の手によって火葬に付される。一定期間保存された骨の一部は、祭りの機会に細かくくだいて粉末にし、バナナがゆに混ぜて仲間たちが食べる。そうすることによって戦死者の霊は地上から解放され、天に昇ると信じられている。
食人の動機が何であるかによって分類する試みもあり、(1) 人肉嗜好としての食人(タウンガ Ta'ungaの手記にあるニュー・カレドニアの例など〕、(2) 宗教・呪術的な理由による食入(上述の例やアフリカから報告されている妖術者の食人など)、(3) 食糧欠乏状態で容認される食人(ダーウィン C. R. Darwinが報告したヤーガンの例など)、が区別される。このような食人習俗の分類、あるいは生態学的・栄養学的観点からの食人の研究もあるが、こうした理論的研究が、きわめて信頼度の低い資料の上に成りたっていることは留意しておかねばならない。ダーウィンが『ピーグル号航海記』の中で触れたヤーガンの食人は、のちにプリッジズ(T. Bridges)やグジンデ(M. Gusinde)の詳しい民族学調査が行われ、否定された。エヴァンズ=プリチャード(E. E. Evans-Pritchard)はザンデの食人に関する記録を検討し、食人が行われていた可能性を否定はしなかったが、資料の信頼性については疑問を呈している。同様に最近ではアレンズ(W. Arens)が、食人習俗があったとする証拠として不充分であるとして、考古学的資料も含めたすべての記録をしりぞけている。上記ヤノマモ族の族内食人のようにかなり信頼度の高い報告もあるから、アレンズのように全面的な否定は困難かもしれないが、食人に関する今後の研究が、厳密な資料批判の上に進められねばならないことは確かである。
文献
W. Arens, The Man-Eating Myth, New York: Oxford University Press, 1979〔折島正司訳『人喰いの神話 人類学とカニバリズム』東京:岩波書店、1982〕。
(友枝啓泰)『文化人類学事典』