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新年にあたっての幸せ論
新年おめでとうございます。
伏見医師会の先生から新年の幸せ論がメールで送られてきたので紹介します。
青木 恵美さんと言う方が書かれたものらしく,それをさらに引用させてもらいました。
新年を迎えて考える。
ヒトは言う、「シアワセになりたい」。
じゃあシアワセっていったい何?
こないだダンナと話した話題。「シアワセって、食べ物にたとえるとわかりやすい」。
「シアワセ」だけで考えるとなかなかわかりにくい。そうやって考えてみると・・・とっても面白い。
おいしいものを食べるとシアワセな気持ちになる。
でも、毎日おいしいものばかりだと「おいしい」と思わなくなる。
大好きなケーキも、たまに食べるからイイ。
毎食後にケーキが出てきたら、いくら好物でも食傷気味になっちゃう。
それにしても、いくらおいしいものでも、お腹いっぱいのときは嬉しくない、
シアワセをあまり感じない。
いっぽうお腹がペコペコのときはどんなものでもおいしい、つまりシアワセ。
考えてみる。たとえば同じ「マクドナルドのハンバーガー」でも、おいしいと思うときとそうでない
(上のような理由などで)ときがある。
「マクドナルドのハンバーガー」はぜんぜん変化しない、
いつも同じ味なのに、「シアワセ」は変化する。ナゼだ???
つまり「シアワセ」は「感じる本人次第」ってコト。
そう考えるととっても面白いね。「不幸」があってこそ、「マズい」ものを知ってこそ、シアワセがわかるって、
なかなか気がつきそうで、気がつかない。
シアワセが山の頂上だとしたら、ずっとシアワセばっかりでは山でなくなって平地になってしまうのだ。
ふむ。
もしあなたが今、「不幸」だと感じていたり「つまらない」「シアワセじゃない」としたら、
それはシアワセの第一歩だよ。
山があるから谷がある、谷があるからこそ、山は高く素晴らしく感じるんだ。
たとえ谷が長く続いても諦めちゃいけない。
「夢がかなえられない」「ビビっとくる異性に出会えない」などとお嘆きのあなたへ。
それは、これからのシアワセの予感だよ、そう考えよう。
そして、シアワセとは、絶対のものではなく、相対的なものなのだ。
だからシアワセを感じるよう自分を作りかえてみよう。
人間「気の持ちよう」なのだ。
そうやって生きてると楽しくなるよ、夢が近くなるよ。
だって人間はそして神様は、嬉しそうに楽しそうに生きてるヒトが好きだから、そういうヒトのまわり
にシアワセって集まってくるの。
あなただって、不幸そうに生きてるヒトより、シアワセそうにしているヒトと友達になりたいと思うでしょ?
まあ、そんなわけで、コレがわたしの「シアワセ」論。
以上幸せは心の状態や 心の持ちよう状況・身体の条件によって変わってきて,幸せにもなれるということを判りやすく
教えてくれているようてす。一理有ると思います。心に残る大変面白いエッセイなので紹介いたしました。
ことわり:無断の引用で,もし不都合があるならば何時でも削除いたします。
書物
最近あまり本を読まなくなってきている。色んな便利なものがあり,テレビとかビデオ,それにインタ-ネットなどと
気軽に情報を得易くなってきたのも,その一因のようです。
じっくりとまとまった情報を得るにはまだまだやはり本が主役である。
小説などもテープで吹き込まれたのが売っていたり, CDで売られているものをパソコン画面で読んだり,
又インターネットの青空文庫でも小説を読む事ができるようになって来た。
長編小説とか学術論文などをじっくり読み,調べたりするにはまだまだ本の方が優れている。
少し調べる百科辞典類とか辞書類はパソコンの方が得意のようです。
まだまだ書物は他の情報媒体に取って代わるまでにいたっていないように思う。
将来は必要な部分だけ印刷して読んだり声で聞いたりできるものが,
例えばCDとかDVDに取って代わり,しかも値段が安くで手に入れることができる時代が
きっと来るような気がする。それまでは書物の世話になることが続きそうだ。
病気になつて
病気になったときの心理状態は又特別である。
我々医師は健康な状態で患者さんを診る。患者が訴える事が時々理解できない事が有ります。
それは病気の人の心理状態と健康な者の心理状態が違う事によって起きるもので,病気をする事の少ない医師には
理解が困難ではないかと思います。無理にとは言わないが時々医師も病気にかかるのも良いではないかと思います。
同じ事は全ての場合にあてはまるのでないでしょうか。特別な状態・境遇,例えていうなならばお金.財産がないとか,
職がないとか,身内が亡くなったり,身内の人が病気になったり、受験.入社に失敗した時など,
其のような人の場合のの心理状態は普通とは異なっていると考えたいです。
そのような状態の人に対しては努めて心して,人に接しなければいけないと反省しています。大変難しい事だとは思いますが。
透明人間
人が見えなくなるの状態には決してなる事は出来ません。映画の世界ではよく見かけますが。
でも現実の世界で見かけるものではないかと思います。
Aの人がBにCがBの悪口をいっていると告げ,同じく又Aの人がCにBがCの悪口を言っていると告げたとしますと,
BとCとは争いの状態に置くようになってしてしまうわけです。その時のAさんが透明人間と言いたい訳です。
所謂世論操作もこの一種ではないかと考えます。
政府.マスコミにより仕組まれたり,それに外交・政党間・会社間・近所同士などにもよく見かけることだと思います。
以上上げた例は単純なな図式ですが,世界中毎日の新聞を読み,世間の噂を聞いたりしていると,
いろんな透明人間が確かに存在し,
活躍しているのではないかと思われて仕方ない事がよくあります。
善良な人達を争いに巻きこんだり,世論とか,時の流れを作ったりしている。
それでいてて透明人間は何も傷を負わず,存在し続け,又次の悪い事を企んだりしているといったことです。
透明人間は巧妙だからその正体を見出す事は困難なので,本当に居るのかどうかはわかりません。
しかし世の中透明人間が存在する可能性の有る事を知っているのも,智慧のひとつではないかと思ったりしています。
そのような卑怯ともとれるような事が世の中まかり通っているように思うのですが。もし本当だったら残念な事です。
不立文字 教外別伝
文字を通じては物事の本質・悟りは得られないとの禅の教えの一つと理解しています。だから禅宗では書物をあまり
読まないかというと,沢山な教えの書物があって,一番宗教の中でも多い方であるように感じます。
大切な事は最後は以心伝心自己が悟る以外に仕方ないことのようですが,
それまで過程では書物などを通じできるだけ理解に勉める。
どの宗教も同じような方法を取っているのではないかと感じます。
同様に医学にしろ,社会一般の教えについても当てはまる事だと考えます。
最後の所は何についても自得しなければいけな事が多々あります。
現在ゴルフのレッスンを受けていますが,一通りの事は教えてもらえるのですが,
それこそ先生に手取り足取りして習っています。
しかしそのとおりに身体がついてゆかないことの方が多くある。ボールを打ってどのくらい飛ばすかは自分で体で感じとって
覚えて行く以外に仕方ない事のようです。何事についても最後の所は自分で会得しなければならない。
其の最後の,最後でない最後については自分で会得に努力する以外に仕方ないように考える。
毎日が最後でない最後を会得する為に努力しながら過ごしている。そういったことだろうか。
間違っている事と違っている事
最近考えた事に,誰もは間違った事はしていないと思うようになりました。明かに人道に反している事は別として,
それぞれ顔が一人一人違うが如くに,物の考え方,行動もそれぞれの人が自分が正しいと思う事をしているだけのことで,
決して間違った事は誰もしていないと思うようになりました。
間違いと,違いは一字違いの事ですが,その意味,内容は大変に違ってきます。
意見の相違も一方が間違って一方が正しいとは言いきれない事が往々にしてあります。
只違っているだけのことをとりあげては,貴方は間違っていると言いきることができない事の方が世の中多いように思います。
自分の考えが一番正しくて,自分の考えと違う人に対して,その人の考えは間違っていると考える事は,
心の狭い人間が考える事ではないだろうか。相手の立場に立って考える余裕も時には必要になってくるとと思いますが。
平成10年12月 平成11年1月 2月
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