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祇園祭りの頃
京都では祇園祭りの頃が一年の内で一番暑い時期に相当するといわれ、
又例年その前後の頃になって梅雨明け宣言が出される。
暑い夏の始まりである。
同じ年中行事が催されても,それに携わる人達はその時々により代わっている。
伝統行事はそのようにして継続,維持されてきている。年寄りから若い人達へ。
動乱や戦争があったりすれば,一時は中断する事があっても,再び復活している。
京都に長く住んでいても祇園祭見物に出かけたのは,今までに何回あっただろうか。
昔は狭い通りを巡行していたのが,四条通りとか河原町通り,御池通りの広い通りが
利用されるようになって,観光客も全国から見学に見えるようになって来た。
京都の人達は祇園祭の到来で暑い暑い夏のやってきたことを実感するのである。
反骨の人達
7月6日の 天声人語より
〈最近、自民党員として、国民に顔向けできないような事件が、あいついで起こる。
この際、腐った部分は骨までけずって、改善しなければならないというのが、私の意見だ〉。
亡くなった宇都宮徳馬さんが1967年に書いた。
このとき衆院議員。10期連続で当選したが、ロッキード事件と金大中氏拉致事件の処理を批判して、76年に自民党を離れる。
のち、参院議員。筆を執ると明せきにして火を噴くような文章が生まれた。
口を開けば、ぜっぽうの鋭さは類がない。
いわゆるタカ派について「ブタですよ、彼らは。アメリカのタカ派は、中国やソ連に対して、つめもくちばしも持っている。
日本のは、アメリカのタカ派が獲物を食い残したのをあさっているだけの、つまりブタですね。
ブタが怒るだろうがね」。これは故司馬遼太郎さんとの対談(70年)。
確固たる信念を持つ、身ぎれいな政治家でなければ、吐けることばではない。
宇都宮さんの骨太な精神は、80年に参院議員になったときの公約に沿って、
平和と軍縮の月刊専門誌「軍縮問題資料」を私費で出し続けたことに、象徴的に示されていた。
きのう葬儀が営まれ、内外の1500人が参列した。社民党・土井たか子党首の弔辞。
「先生がいわれた『世界規模の廃刀令』こそ、本当のグローバリゼーションとして21世紀の世界に引き継ぐべき仕事だと思います」。
坂本義和・東大名誉教授の弔辞。「平和と軍縮を実現するために政治家になり、それを唯一の仕事として命を懸けてきた人は世界でもまれです」。
そして会葬者に配られた次男彰二氏の文章。〈苗木を植えたり、種をまくことがすきでした。
自分の庭以外にも父は多くの苗木を残しました。
「軍縮の木」や「日中友好の木」などです。これらの木々を皆様のお手で立派に育てていただくことを願っていることでしょう〉
何時の世にも所謂反骨の人達が存在する。
その人達か世の中を明るくし前進させる原動力になっている。
種を蒔く人,植木する人達に続いて育てる人が出るものである。
どの世界.社会にでも当てはめることか゛可能ではなかろうか。
自他相愛の精神 (松下幸之助の言葉より)
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個人と個人との争い、国と国との争いは、相手を傷つけ、さらには社会全体、世界全体を混乱させる。
そういう争いの大きな原因は、自他相愛の精神というか、自分を愛するように他人を愛し、
自国を愛するように他国を愛する精神の欠如によるものであろう。
そういう精神の大切さは昔からいろいろな教えによって説かれていながら、いまだに争い事が絶えないのは、
人びとが、このことの大切さを真に悟っておらず、その精神に徹していないからだと思う。
争いはみずからをも傷つけるということを身をもって知り、人類に平和をもたらすために力を合わせていくことが肝要である。
人類が自他相愛の精神に皆が徹底し,目覚めるようになれば,真の平和な世界が実現するのだが。
人によって言葉は色々と解釈できるということか
7月22日の天声人語より
出席者に配られたペットボトルのミネラルウオーターは、すぐぬるま湯になった。
沖縄の炎天下、暑さで顔を真っ赤にしたクリントン大統領の「平和の礎(いしじ)」での演説は、
予想されたとおり基地の重要性を強調する内容だった。
いささか気になった点が2つ。「5年前からわれわれは、沖縄での基地を整理する手続きを始めた」と大統領は述べた。
この「整理する」の部分の英語は「consolidate」。会社、土地などを「合併する、統合整理する」とか、権力、地位などを「固める、
強固にする」といった意味合いを持つ。
語源は「力を合わせて固定する」というラテン語だそうだ。・・・・・(ここの部分誤って一部消してしまう)
しかし、同時通訳で聞いていた稲嶺恵一知事は「基地の整理・縮小について触れたが、今後もさらに努力を」と感想を語った。
地元紙の夕刊も1面の大見出しで〈整理・縮小には意欲〉とうたっている。ことばの違いの恐ろしさよ。
大統領は演説を、琉球王朝の最後の王、尚泰王(しょうたいおう)の琉歌で締めくくった。
「戦いの時代は終わりを迎えている。平和の時代は遠くはない。絶望することはない。
命こそ宝だ」と。原歌は〈戦世(いくさゆ)んしまち 弥勒世(みるくゆ)んやがてぃ なぎくなよ臣下 命(ぬち)どぅ宝〉。
明治政府が力ずくで、長い歴史を持つ王朝を廃した「琉球処分」の際、
故郷を去らねばならなくなった王が別れを惜しみ「臣下よ嘆くな、命を大切にせよ」と語りかけた歌だ。そして実は、
力ずくでつくられた米軍基地に反対してきた人びとが、励ましの合言葉にしてきた歌でもある。
おととい、周囲約17キロの嘉手納基地を2万7000人が取り巻いた「人間の鎖」でも、「命どぅ宝」のゼッケンやポスターを見た。
「平和の礎」で、あえてこの歌を引いた心は、何だろう。歌は人によっていろいろ解釈できる、ということか。
沖縄サミットが終わったが,期待していたことは何もなかった。
これでは沖縄でサミットする必要がなかったのかと思えるほど,静かにセレモニーとしての会合だった。
森首相はサミットは成功だと言っているが,どうたったのか。
サミット主催国の首相の指導力によって変わったものになったのか,どうかは判らない。
首相を変えてもう一度沖縄サミットを行い比較できないものなのだろうか。
期待か大きいだけに拍子抜けの感はゆがめられない。
人間の幸せのための政治 (松下幸之助の言葉より)
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私たちが決して忘れてならない大事なことは、政治は結局、お互い人間の幸せを高めるためにある、ということです。
過去においては多くの人びとが政治によって苦しめられ、お互いの血を血で洗うということもありました。
しかし、そうした好ましくない姿は、政治の本来の姿ではありません。
政治は本来、お互い人間のそれぞれの活動をスムーズに進めることができるようにするものなのです。
それらの調整調和をはかり、共同生活の向上をはかって、一人ひとりの幸せを生み,高めることを政治の使命としているのです。
この“政治は本来、(全ての)人間の幸せのためにある”ということを私たちはまず正しく認識しあう必要があると思います。
政治が政治に特に関心を持つ人達だけに幸せをもたらすもので有ってはならない。
権力の濫用によっての,一部の人達のみに対する私利私欲増幅の為だけの物でも有ってはならない。
全ての人間の幸せのための政治,人々のための政治であらねばならない。
こんな判りきったことが行われていないのが現実の今の世の中のように思われて仕方がない。
あっせん利得罪
議員が人に斡旋して自分が利益を上げることに対する罰則が話題になっている。
こんな法律は既にあるのかと思っていたのだが,無かったとは驚いた。
これでは誰もが議員に成りたがるのも当然である。
議員が私利私欲に走っても何も咎める法律がなかったとは。
あっせん利得罪は秘書には及ばないようでは片手おちである。
正当な政治活動が阻害されるとの理由で反対する議員もいるようだ。又人情が薄くなると言う人もある。
政治は社会の隅々まで行き渡っている。庶民が不正・欲を頼むのは種々な人たちがいるので仕方ないとしても
世の中が良くなるにはまず政治が,それに携わる各議員の倫理感の健全化・公正,正義感が第一だ。
道義的責任と法的責任,そして優しさによる奉仕
今の世の中優しさによる奉仕する人は極めて稀である。
道義的責任をとる人も少ない,法的責任もなんとか逃れようと
工夫する人達が多くなった。終戦と同時にアメリカ文化を中心とした
欧米文化が最高の文化として日本に流れ込んできた。
日本固有の考え方,文化は陳腐なものになって,何かあると権利を主張するように
なって来た。一方それに伴う義務は忘れがちである。
なんとなくギスギスとした社会になってきている。アメリカ同様に多勢の弁護士が大量に必要と
する社会になって,現実に弁護士の数を増やす計画が実行されようとしている。
なんとか優しさによる奉仕とまでは言わないが,せめて道義的責任がとれる
社会に日本の社会が留まってほしいものである。
子供のような人
世間知らずの人を子供のような人と揶揄する一群の人達をみかける。
その揶揄する人達をじっくり眺めてみると,ずる賢く,私利に敏く,社会の裏に精通し,悪い事するのに
決して自分は直接にせず,人を介して悪いことをし,表面的な社会の体面を重んじ,同類の人達同士には
義理人情が厚そうにみせかけ,悪事をするに,あたかも良いことをするがごとくに人に依頼する。
そのような人をみかける。
一方子供のような人はうぶで,純真で,どんな悪事にも嫌悪感を感じ正直にしか生きることの出来ない不器用な人達である。
しかし最近の新聞をみていると子供でも,大人顔負けの残虐なことを引き起こし,驚くような記事をみかけるようになった。
これでは「子供のような人」は死語になりつつあるのかと思えてくる。
パソコンの故障
パソコンが故障して,初めて判ることは自分が如何にパソコンに依存し生活しているかという事である。
故障は予期せぬ形でやってくる。パソコンを始めだして10年以上は経っているが。
今もそうだか,始めの頃パソコンの故障はもっと多く有ったが,なんとか自分で修理していた。
今度の故障はシステムが動かなくなり,再インストールする以外方法がなかった。
だがそれをするとデーターが皆飛んでしまうので業者に頼むことにした。
来た業者の人を見ると二十二三歳の若者である。そうすると自分が始めた頃は十歳台で未だパソコンを扱っていない年齢になる。
聞いてみると初め出して5年位だと言う。それがテキパキと修理して帰って行った。
パソコンは若い人達に適した道具であることが判る。
i モードの電話が若者中心に爆発的に流行している。こういった機械ものは若者向きなのかもしれない。
何年パソコンを扱っていても理解習熟度は扱っている年月の長さではない。
パソコンを扱う適齢年齢があるのかも知れない。
いじめ(いやがらせ)と死,それは犯罪にはならないのか
いじめ(いやがらせ)をして偶々そのいやがらせをされた人がそれが誘因で死んだ時に嫌がらせをした人は
罪にはならないのだろうか。
新聞に掲載されるような嫌がらせ事件は罪になるかも知れないが,よく世間に見かける嫌がらせではまず
罪にはならないと考えるのが常識,普通である。
狡猾な人が色んな嫌がらせをしているのを見聞する。死を期待して嫌がらせをするとしていたならば
それならばその人は犯罪者である。でも法律上罪にはならない。
ストーカーは警察で取り扱われるようになった。だったら当事者が深刻に感ずるいじめ(いやがらせ)も
同様に警察で取り扱うべきではなかろうか。
いやがらせの予防法はそのような人には決して近ずかないことである。
今までに身近にも嫌がらせによる死なのか偶然の事故死なのかわからないような例にいくつか遭遇している。
日々好日
一日一日を大切に暮らす以外に充実した人生は成り立たない。
インターネット時代到来で自分の感じたこと思ったことを率直に書ける時代になって有りがたいことだ。
多分インタ-ネットがなければ心の交流が無いだろうと思われる人達と意見が交換できるようになったことは
有り難いことである。
世間は益々に狭くなり,世界も狭くなって来ている。
色んな情報媒体が出てきて,どれを選べば良いか迷うようになった。
新聞 本 ラジオ テレビ インターネット ビデオ CD DVDと数多くある。
しかしやはり本が内容充実してまだまだ一番だと感ずる。
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