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マグダラのマリア(Mary Magdalene)

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 福音書は神聖娼婦マグダラのマリアから、イエスが7つの悪霊を追い出し、復活後、まずこの女のところに姿を現したと述べている(『マルコによる福音書』16 : 9)。のちにキリスト教徒が非難したため教令集から除かれた書物には、2人の関係についてさらに奇妙なことが詳しく述べられている。すなわちイエスは他の使徒すべてを合わせたよりもマグダラのマリアを愛し、「使徒たちの使徒」、「すべて知った女」と呼んで、しばしば接吻した[1]。イエスは来たるべき「光の王国」においては、マリアが他のすべての使徒に勝り、その王国を支配するだろうと言った[2]、というのである。

 グノーシス派の福音書が教令集から切り取られる前には、共観福音書やその他の新訳聖書の書物と同じくらい、「神の言葉」として受け入れられていた。だから、マグダラのマリアに関する中世の伝統はこの女性を初期の神秘的な最高位に戻している。マリアはマリア・ルシフェル(光を与えるマリア)と呼ばれた。マリアを愛したばかりに、イエスは死者の中から、ラザルスを甦らせたと言われた。「イエスがマリアに対して拒んだ恩寵は何1つなかった。イエスがマリアに与えない愛のしるしもなかった」[3]

 ピスティス・ソフィア〔Pistis Sophia 信心-知恵の意。3世紀のグノーシス派の聖典で、ギリシア語からコプト語に翻訳され、復活から12年後、地上に戻った際のイエスの教訓を述べている〕は、シャクテイあるいはデーヴィー(女神)によって、神に向けられた問答をオリエント風にしたもので、マグダラのマリアを用いてイエスに質問している。そこで女性の質問者は「深く愛された者」と呼びかけられている[4]。イエスも同じ呼びかけを用いたが、のちの編纂者たちが質問者の身元の痕跡をすべて消してしまった。だが、イエスに「深く愛された者」がマグダラのマリアだったことは明白だった[5]

 オリゲネス†はマグダラのマリアに神秘的な献身を示し、マリアを「私たちすべての母」とか「エルサレム」とか「教会」(聖母のもう1つの添え名であるエクレシア)と呼んで、マリアと女神を混同している。オリゲネスは、時の始まりから生き続けているマグダラのマリアは不死であると主張した[6]

オリゲネス
 キリスト教の教父で、西暦185-254年頃のエジプト人。ギリシア語で著作し、初期ギリシア教会に強烈な影響を与えた。初めは、オリゲネスは聖者と考えられたが、死後3世紀経つと、その審物の中にグノーシス派の要素が発見されたために、異端と宣告された。

 このように娼婦マリアは、聖母マリアの異形にすぎなかったのだ。そうでなければ、エルサレムの神殿で救世主である息子とともに崇められたバビロンの大娼婦、三相の女神マリ-アンナ-イシュタルであった[7]。「マリアの福音書」はすべて同一人であったと述べた[8]

「マリアの福音書」
 グノーシス派の初期の福音書の1つで、新約聖書の中に、一度含まれたが、のちに教令集から消された。1940年代にナグ・ハマディでその一部が再発見された。

 まったくのところ、 7世紀にはまだ聖母と娼婦は互いに混同されていた。その頃、聖別された処女の生誕の日に、教皇セルギウスは売春婦-女神リーベラの旧神殿へ毎年行列を向かわせた。その神殿の名前はサンタ・マリア・マジョーレ、「最も偉大な聖マリア」と変えられた[9]。どちらの聖マリアの意味かははっきりされていなかった。グノーシス派の詩の1つに、 2人を原初の女性の力として結びつけているのがある。「私は最初で最後の者。私は敬われる者。蔑まれる者。私は売女であって、聖なる者である」[10]

 マグダラは「神殿-塔の女」を意味する。エルサレム神殿には三相の女神を表す3つの塔があった。 1つの塔には女神マリの地上における化身である女王マリアンヌの名がついていた[11]。これはヨセフJosephを恋人にしたあのマリアンヌ、ミリアムあるいはマリアのことであった[12]。この寺院の巫女は『ルカによる福音書』 8: 1-3によれば、明らかにイエスとその仲間に金を出していた。福音書はイエスと「十二使徒」はマグダラのマリアや一団の女たちに金銭的に支えられていたと言っている。ラテン語の原典では女たちが「彼」(イエス)を養っていたとあるが、ギリシア語では「彼ら」となっていた[13]

 マグダラのマリアから祓われた7つの悪霊は7つのマスキム、あるいはアナナキ、すなわち7つの地下の領域に住むシュメール-アッカドのような霊で、女神マリから生まれたと思われている。この多数の霊の誕生はマリの宗教劇に表現されていたが、これがマグダラのマリアから生まれたという申し立ての説明になるかもしれない。アッカドの銘板に「それらは7つである。海の深みに存在して、 7つなのだ。天界の輝きの中で7つなのだ。海原の深み(マリア)から、つまり隠れたところから現れる」[14]とある。

 福音書にはイエスの墓に参ったのはマグダラのマリアとお付きの女たちだけで、男は誰もいなかったとある。これは女たちだけがイエスの復活を宣言し、女神の中心的秘儀から男たちは隔てられていたためであった。巫女たちは、秘儀が成功に終わったことと、救世主の復活を宣言した。男性の使徒たちはイエスの復活について何も知らず、そのことに関しては女の言葉を受け入れるより仕方なかったと聖書にある(『ルカによる福音書』 24: 10-11)。使徒たちは神聖な習慣を知らず、復活が予期されていたことさえわかっていなかった。「彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった」(『ヨハネによる福音書』 20: 9)。

 偉大なる娼婦マリ-イシュタル運命を宣告された神が冥界に行ったとき、油を塗った、すなわち洗礼を授けた。神は女神に命じられるままに、冥界から上がってきた。つまりマリ-イシュタルが神をキリストにした。キリストが生贄の犠牲として、現身の姿で死んだとき、巫女たちが嘆きの声をあげた。ギルガメシュの叙事詩で、「香り高い油でお前を聖別した娼婦は、今お前のことを嘆いている」[15]と犠牲者は告げられた。同じようにエルサレムの神殿娼婦はタンムーズのために泣いた(『エゼキエル書』 8: 14)が、このタンムーズとイエスは同じと見られた。マグダラのマリアが埋葬のためにイエスを聖別し、昔からの聖王の戴冠のときのやり方で高価な香油を頭に注いだと、イエス自身が述べている(『マタイによる福音書』26 : 7-12)。聖油の洗礼用容器は、キリスト教芸術ではマグダラのマリアの遍在するシンボルであった。ただ聖母マリアにも神聖容器という娼婦の添え名がついていた[16]point.gifJesus Ben Pandera.

 聖母マリアと娼婦は、中世を通して、つねに彼らの特質の交換をしあってきた。聖母マリアは一貫して売春婦の特別の保護者であり続けた[17]。現在ロンドン博物館にあるキリスト教徒の魔法の指輪には「聖なるマグダラのマリアが私のために祈ってくれますように」という銘が刻まれている[18]

 教皇ユリウス二世はローマ教皇印によって「神聖」売春宿を作った。それは後継者レオ十世とクレメンス七世のもとで繁盛した。この売春宿の儲けが、神聖マグダラのマリア団の修道女たちを支え、修道女とmagdalenes (売春婦)が同一人だということがわかった。教皇インノケンチウス三世も未婚の女virginesと呼ばれるローマの売春婦の教会collegiaに目を掛けた。教皇はその売春婦と結婚した者は天国で特別にたたえられるだろうと公に宣言した[19]

 マグダラのマリアのその後については、キリスト教は多くの神話を加えた。マグダラのマリアはしばらくエフェソスで聖母マリアと暮らしたと言われた。この話は、おそらくエフェソスの女神と関連があるマリアの名前を説明するために考え出されたのだろう。その後、マグダラのマリアは、やはり古代の海-母マリにちなんで名づけられたもう1つの町マルセイユに出かけた。ペゼレイで遺骨が発見され、マリアのものであると宣言された。マリアの住まいは聖パウム(神聖なる木)に作られた、以前は異教徒に神聖とされていた洞穴であった[20]。そこで30年間、マリアは飲まず食わずで暮らしたが、その間の唯一の滋養物は毎日耳から採った「素晴らしい食事」すなわち天使の美しい歌であった[21]。その洞穴の上に教会が建てられた。地方の酒造家たちは、まるで古代の豊穣の母が今もその敷地を占有しているように、良い酒を祈願して、マリアに奉納のロウソクを捧げる[22]

 聖マルタがプロヴァンス地方までマリアの供をして行って、そこでたくさんの奇跡を行った。タラスク(すなわちケルトの神タラニス)という名前のドラゴンに出会うが、マルタはマリアの帯でドラゴンを縛り、頭に神聖な水を注いで滅ぼした[23]。大いなるヘビを従えた生を与える者と死をもたらす者の2面を持つ女神の古い像が、マリアとマルタに改名されたようだ。マリアが誕生と愛と死を司る典型的な女性の三相一体として現れることはさらによく見られた。揺鑑のかたわらの神聖なマリアとしては、マグダラのマリアはイエスを取り上げた産婆(あるいは生誕-女神)であった[24]。売春婦と葬式の巫女としては、マグダラのマリアは性と死に結びつけられていた。最後に、マリアが初めの「教皇」、すなわちキリスト教会の創始者だというグノーシス派の示唆があった。これは精神的な権威は男から女にも渡るが、またその反対に女から男に渡ることもあるというオリエントの観念に従っている。point.gifPeter, Saint. マリアが福音書の記者、聖ヨハネと結婚したという説もあった[25]。 12世紀のミラノでは2棟の聖堂で、マリアと聖ヨハネは一緒に崇拝されていた。この聖堂は聖ヨハネの修道士たちがサンクタ・デイ・ジュネトリクス(神の聖母)の添え名を持つ聖マリア・マジョーレの売春婦たちvirginesと力を合わせて、建て、管理していた。いわば両性具有と言える聖堂は1943-44年に発掘されたが、その発見は秘密にされた[26]

 13世紀にディアーナの神殿の1つが、マグダラのマリアに献じられるようになった。復活祭には、マリアがマルセイユの支配者たちを改宗させた話が祭壇で唱えられた。のちにこの聖歌は抑圧された。それよりもっと後になると、マリア崇拝者はミサを行うことも禁じられた。 1781年に、マグダラのマリアの神殿は破壊された[27]


[1]Pagels, 22, 64.
[2]Malvern, 47-49.
[3]de Voragine, 355.
[4]Mahanirvanatantra, 173.
[5]Malvern, 12.
[6]Malvern, 60.
[7]Briffault 3, 169.
[8]Marveln, 39.
[9]Brewster, 401.
[10]Malvern, 55.
[11]Keller, 371.
[12]Enslin, C. B., 48-49.
[13]Morris, 114.
[14]Wedeck, 23.
[15]Malvern, 16.
[16]Brewster, 338.
[17]Briffault 3, 216.
[18]Budge, A. T., 297.
[19]Briffault 3, 216. ; Encyc. Brit., "Prostitution."
[20]Attwater, 237. ; Brewster, 338.
[21]de Voragine, 361.
[22]Malvern, 77.
[23]Brewster, 345.
[24]Miles, 107.
[25]de Voragine, 363 ; Attwater, 237.
[26]Morris, 12.
[27]Malvern, 75-76.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)



 マグダラのマリアは正統説の新約聖書では脇役にすぎないものの、1945年にエジプトの土中から発見された正典外初期キリスト教文書〔ナグ・ハマディ文書〕のいくつかでは重要な役割を演じている。『ビリポ福音書』や『マリア福音書』などの文書では、マリアはイエスお気にいりの弟子の一人として、イエスのおそらくは妻か恋人として描かれている。

 マグダラのマリアは、『ルカによる福音書』八・一〜三ではイエスの信奉者たちの一人として言及されている(マグダラ〔MagdaleneあるいはMagdalen、Magdalaという姓は彼女の故郷の村マグダラに由来する)。「一二人がイエスのお供をした。悪霊や痛から癒された何人かの女たち、つまり七つの悪霊から解放されたマグダラの女ことマリア、ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちもいっしょであった。彼女らは自分の財産を出して彼らに奉仕した」。ヨハンナは王に仕える者の妻であり、また彼女たちは財を寄付しているところをみると、みな富裕な家の出の者であったと思われる。

 長いあいだキリスト教の伝統は先の引用の直前の章(『ルカによる福音書』七・三六〜五〇)で言及される女性をマグダラのマリアであると一貫して、しかしおそらく誤って考えてきた。ガリラヤ南部の町ナインに住むとあるパリサイ人の家でのこと。パリサイ人(モーセxの律法を厳守するユダヤ教徒)の多くはイエスを疑ったが、このパリサイ人はイエスを夕食に招いた。福音書には次のようにある。「その町に罪深い生活を送っている一人の女がいた。イエスがパリサイ人の家で食事中と知って、香油の入った石膏の壷を持参し、泣きながら後からお足もとに寄り、まず涙でみ足を濡らし、やがての毛でそれを拭い、み足に口づけして香油を塗った」。

 パリサイ人シモンが罪の女の同席に反村すると、イエスは次のようなたとえ話をしてシモンの異議に応じた。「この女の人が見えるか。私があなたの家に来たとき、あなたは足洗いの水をくれなかったのに、彼女は涙で私の足を濡らし、の毛で拭いてくれた。あなたは口づけしてくれなかったのに、彼女は私が来てから私の足にロづけし続けた。あなたは頭に抽を塗ってもくれなかったのに、彼女は香油を足に塗ってくれた。それゆえあなたに言う、彼女の多くの罪は許されている。多く愛したゆえにである。許されることの少ない者は愛することもまた少ない」。引用した右の二つの章が福音書で続けて記述されているため、マグダラのマリアと娼婦(らしき女性)は同一人物であると伝統的に見なされたのである。

3women.jpg 第二の伝統的な習合は、マグダラのマリアと、マルタとラザロのきょうだいであるベタニア〔イエルサレム近郊の町〕のマリアとのあいだにもときとして生じた。ラザロは『ヨハネによる福音書』第一一章でイエスによって死から蘇った人物である。「マリアは主に香油を塗り、み足を自分ので拭いた女で、そのきょうだいラザロが病んでいた」。混同はイエスに香油を塗るという行為だけではなく、シモンが二人いたことからも生じた。『マルコによる福音書』〔第一四章〕には次のようにある。過越しの祭りの日にイエスが捕縛される二日前、イエスと弟子たちは「らい者シモン」の家で食事をしていた。そのとき身元の分からない女性がこの家にやって来た。そして高価な甘松(ナルド)の香油をイエスの頭に注いだ。

 また、マグダラのマリアは福音書のいくつもの記述においてイエスの疎刑や埋葬の際にも登場する。『ルカによる福音書』では、彼女はイエスのなきがらを弔xうため、アリマタヤのヨセフが弟子たちのために設けたイエスの墓に何人かの女性たちとともにでかけるが、イエスは死から蘇ってここにはもういないと「輝く衣装を身に纏った二人の男」〔天使〕から告げられる。そこで彼女らは使徒たちにこのことを伝えたところ、信じてもらえなかった (同様の話は『マタイによる福音書』でも語られる)。『マタイによる福音書』では、イエスの礫刑を目にした(サロメを含む)女性たちの一人に挙げられている。同福音書第一六章の復活の話では、ふたたび「七つの悪霊」が言及される。「週の第一日日の朝早く、イエスは復活して、まずは以前に七つの悪霊を追いだしてやったマグダラのマリアに御自身を現された」。

 『ヨハネによる福音書』の記述によれば、マグダラのマリアは墓のところにやって来てくると、墓の入り口を塞ぐ石が移されているのを見て、弟子たちのもとに走って戻り、次のように言ったという。「主が重から運び去られてしまいました。どこにいってしまったのか分かりません」。そこでシモン・ペテロともう一人の弟子が墓のなかを調べているあいだ、彼女はそとで涙を流していた。すると、はじめは気づかなかったがイエスを見た。そしてイエスに命じられ、他の弟子たちのもとに赴いてイエスは父なる神のみ許にお帰りになっていると告げた。

 キリストについての秘密の知識(ギリシア語でグノーシス)の所有を表明したために、のちにグノーシス派と呼ばれた非正統的なキリスト教徒たちは、マグダラのマリアが礫刑ののちにイエスから最初に声をかけられたことをもとに、さらなる話をつけ加えた。彼女はイエスの親密な弟子たちの一人であるが、すべて男性である十二使徒の一人ではないという身分によって、秘密の教え、それもとくにいかにして男性と同様に女性をも救いを得ることができるかを示したり、あるいは神の女性的側面について触れた秘密の教えを説くための格好の媒体となつた。そしてもしマグダラのマリアが娼婦と見なされていたならば、彼女を霊的真理の源泉へと高めることは、ユダヤ=キリスト教における女性の扱い方にお馴染みの、処女か娼婦かという二分法を打破する試みであった。

 いくつかのグノーシス主義の福音書は、マグダラのマリアがシモン・ペテロと教理のうえで村立しているさまを述べている。シモン・ペテロはカトリックの伝統における教会の創設者として、彼女の異端的立場に対立する正統的立場の代表者であった。二人の弟子はナグ・ハマディ文書中おそらくもっとも有名な『トマス福音書』で衝突する。同書114でシモン・ペテロは言う、「マリアをわれらのもとから追いだしましょう。女は救いに値しないのですから」。しかしイエスは次のように答えた。「私は彼女が男となり、おまえたち男と同じ生ける霊〔ギリシア語の「プネウマ」〕 になるよう彼女を導くであろう。自分を男にする女はみな天国に入るであろうから」。のちに加筆されたと思われるこの一節は象徴的に解釈する必要がある。エレーヌ・ペイゲルスが『グノーシス諸福音書』〔The Gnotic Gospels〕で述べているように、「女」とは「人間」のことであり、また「男」とは「神」のことであると思われる。言いかえれば、弟子たちは自分の人間性を克服しなければならないのであり、女性にとってそれは、別の文書で「女のなせる業」 — つまり性行為と生殖 — と呼ばれているものを避けることをおそらくは意味する。

 また『マリア福音書』によると、弟子たちがイエスの甦りの直後に集まったとき、ペテロはマグダラのマリアにたいし、かつてイエスから聞いたことを自分たちに話してほしいと頼んだ。「なぜなら、救い主はほかのどの女よりもあなたを愛していたのを私たちは知っているのだから」。そこでマリアが典型的なグノーシス説である七段階のの向上について話すと、ペテロはそれを笑い種にし、イエスがこのことを男の弟子たちに知らせずにマリアに教えたなどということがありえようかと尋ねた。マリアは泣きながら答えた。「私が頭のなかで勝手にこのことをでっちあげたと思うのですか、それとも私が救い主について嘘をついているとでもお思いですか」。このとき別の弟子のレビが彼女をかばい、ペテロにたいして気を鎮めるよう諌め、そしてイエスが「私たちよりも彼女のほうをより愛していた」のを思い起こさせた。この話では、マリアは甦ったイエスに現実に会ったのではなく、ペテロやその他の男の弟子たちが疑いを抱いた幻のなかで会ったとされる。この遠いは、ペイゲルスの考えでは、誰でもマリアのように直接に — ペテロによって象徴される聖職位階制度を経ずに — 救い主と出会うことができるというグノーシス派の主張を強調するうえで 決定的に重要であるという。

 現存する『マリア福音書』は最初の六頁が欠落しているものの、ローマ時代末のギリシア系エジプト人による神秘的著作でキリスト教的色彩の希薄な『ポイマンドレース(Poimandres)』と明らかに構成上の類似を示している。両書とも問答文形式を用い、を免れない人間の運命と性欲とを関連づけ、が漸進的諸段階を経てついに最終的な平安へと至る様子を描写する。

 ナグ・ハマディ文書中の一書で、グノーシス主義の教師ウアレンティノスの一派が記したとされる『ビリポ福音書』では、マグダラのマリアは「つねに主のお供をして歩いた」三人の女性のなかの一人、「救い主の伴侶」として語られる。どの弟子よりもイエスから愛されたため、皆の嫉妬をかったという。

 いっぼうマルタの姉妹であるべタニアのマリアは、三世紀の正統派信徒団内で流布した『使徒教会職制』と呼ばれる文書では、「悪しき手本」の役割を果たしている。同書はパウロ書簡と同様、女性をまったく従属的な地位に置く。同書において、使徒ヨハネはどうして「師キリストはパンと杯を祝福し、『これはわが体であり血である』と語ったとき、私たちと同席していた女性にはそれらをお与えにならなかった」のかを思い起こす。マルタはそれに付け足して言う。「師はマリアにはお与えにならなかった。というのも師は彼女が笑うのを見たからです」。マリアは言う、「私はもう笑いません。師はかつて説教のときに私たちに言われました。『あなたたちの弱さは強さによって埋め合わせることができる』と」。マリアの努力にもかかわらず、「使徒教会職制」は司祭と司教になれるのは男性だけであると明言している。またrルカによる福音書」第一〇章では、マルタはマリアが主の話を聞くのをやめて家事を手伝うよう忠告することをイエスに頼むが、そんなマルタを、イエスはやんわりと諌める。それにたいしてのちの『使徒教会職制』では、台所にいるマルタが良しとされ、いっぼうイエスのそばに座るマリアは疑わしいとされる。

 非主流のキリスト教においてマグダラのマリアが演じる特別な役回りは、初期グノーシス派とともに終焉したわけではない。先述したように、いくつかの伝承では、彼女はイエスの妻とされている (イエスが水を大人数分のぶどう酒へと変えたカナの婚礼は、二人の結婚式であったと解釈されている)。こうしたマリアの話の解釈は、一つには、明らかに健康で正常なユダヤ人男性が三〇歳になるまで結婚しないはずはないという考えに基づいている(この歳にイエスは聖務を開始したと伝えられる)。正統説を信じない懐疑論者は、あらゆるユダヤ人男性は商売を学び、家庭を持つよう社会から期待されたはずだから、よってイエスも成人に達して同様のことを行なったのに違いなく、また正典とグノーシス主義双方の福音書におけるマグダラのマリアの曖昧な性格は、イエスの妻というその特別な地位に由来すると主張する。

 これと関連する逸話では、舞台はパレスティナから南フランスヘと移り、マリアは最後の晩餐で使用した杯もしくは皿 — いわゆる聖杯 — か、あるいはもっとも広まった推測では、イエスとのあいだに生まれた子供を携えていたとされる。この子供はそののちフランス王家の先祖となつたという。こうした解釈では、聖杯は「イエスの血統」を伝えるマリアの子宮の比喩となつた。そしてこの解釈に従って、地中海沿岸のフランスおよびスペインのさまざまな「黒い聖母」は、幼な子イエスよりもむしろイエスの子供を伴った姿で表現されるようになつた。

 諸福音書にはマグダラのマリアはイエスの亡骸に香油を塗るために墓に赴いたと述べられていることから、彼女はトリノの「聖骸布」〔イタリア語でSanta Sindone〕、すなわち一人の男性の前向きと後向きの姿が写っていて、一部の人々からイエスの遺体を包んでいたと信じられた長さ四二二メートル、幅一メートルの麻布と関係があるとも言われている。 (C・S・クリフトン『異端事典』p.217-222)


 画像1)
  16世紀のドイツの画家 Jan van SCOREL(b. 1495, Schoorl, d. 1562, Utrecht) の「Mary Magdalen」。
  手にしているのが、マグダラのマリアのシンボルである聖油の洗礼用容器(典拠はマルコ14; 3-9)。太女神の風格を感じさせる。
  画像出典: <http://www.kfki.hu/~arthp/html/s/scorel/magdalen.html>
 なお、<http://www.magdalene.org/>に、マグダラのマリア関係の画像が集められていて便利。

 画像2)
  14世紀のスペインの画家Ferrer BASSA(active 1324-1348)の「Three Women at the Tomb」。
 「この女たちというのは、マグダラのマリア、ヨハンナ、およびヤコブの母マリアであった」(『ルカによる福音書』第24章10節)。
 画像出典:<http://www.kfki.hu/~arthp/art/b/bassa/ferrer/3women.jpg>