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Torture(拷問)

 中世では拷問は、信仰の問題に関する裁判判ではつきものとなった。異教的なコモン・ローの伝統は拷問に反対しており、告発によって有罪が確定するまで被告人は無罪とみなされた[1]。キリスト教の十字軍の戦士や異端審問官はこの趨勢を逆転させた。Inquisition. 宗教裁判所が拷問を採用したため、潔白を証明するあらゆる可能性は取り除かれてしまった。ギボンによれば、「白日の下のいかなる権力もその囚人を助けることはできなかった。彼は刑死する運命にあった」。ヴァイアーという名の証人は、異端審問官の犠牲になった者たちは、「およそ暴君が発明しうる、この上なく洗練された、人間の忍耐を超える拷問にかけられて最期を遂げる。そしてまったく無実の者が自白を強要されて罪を認めるまで、この残酷な行為は続くのである」と記した[2]

 わずかではあるが現存する記録は、宗教裁判所の忌わしい活動を生き生きと描いている。その活躍ぶりは、同時代人にもときには信じられなかったが、それほど想像を絶するものであったわけである。1637年ドアイヒシュテットで捕えられた女性は、その裁判の初日に、悪魔と交わりを持ったのではないかと示唆されて「心底、笑いころげ」、そんなことをしたと認めるくらいなら死んだ方がまし、と述べた。彼女はこのときまで20年以上も、や8人の子供たちと清廉潔白な生活を送ってきていた。3週間後、彼女は拷問がもとで死んだが、次のような告白を残した。「私は悪魔の愛人で、その命令通り、自分の子供の1人を殺害しました。また隣人のうち少なくとも45人は悪魔崇拝の仲間です」[3]

 この上なく敬虔な者でも、異端審問官の拷問装置に耐えられる見込みはなかった。16世紀のコルドバのサンタ・イザベラ修道院の女院長マグダレナ・デ・ラクルスは、「高潔の名声類稀なる」女性であったにもかかわらず、告発され捕えられた。そして間もなく、使い魔であるバルバルとピトンの助けを借りて魔術を行なったと告白した[4]

 異端審問官たちの心得は、犠牲者が「共犯者」の名を多数挙げるまで拷問を続けることであった。すると今度は、この共犯者たちが捕えられ、さらに多くの共犯者の名前を口にするまで拷問を受けたという具合に、遂にはそれぞれの区域がすべて異端者で「汚染されている」ということになった。ある女性が聴罪司祭に次のように告白した。「拷問によって、私がついたような嘘を人がつかざるを得ないようになる、とは夢にも思ったことはありません。私は魔女ではないし、悪魔を見たこともありません。それでも自分を有罪と認め、他の人たちを告発しなければならなかったのです」。ある聖職者が、有罪を宣告された魔女に、無実の人々を告発するのは止めるように促したが、彼女の返事は以下のごとくであった。「神父さん、私の脚を見て下さい! まるで火のようです(今にもパッと燃え上がりそう)それくらいこの痛みは激烈なのです。再ぴ拷問にかけられることは言うまでもなく、ハエが止まるだけでも我慢できないでしょう。あのような恐ろしい苦痛をまた耐えるくらいなら100ぺんでも死んだ方がましです。その痛みが実際どんなに苛烈なものか、誰にもわかってもらえません」[5]。このような拷問が「全身いたるところに敵意をもってくり返し行なわれ、正に英雄的な精神の持ち主以外のものは皆、白状させることができた」[6]

 ヴァイアーは魔女たちの牢獄付きの医者として働いていたが、そこで直接知り得たことを語っている。「彼女たちはしばしば拷問にかけられ……永い間暗くて不潔極まる牢獄に閉じ込められ……絶えず引きずり出されては残忍極まる拷問を受けて半狂乱となり、ついには、何時でも喜んでこのどうにも耐えようのない生よりもを選びたいと思うにいたり、もう1度恐ろしい牢獄に突き戻され、くり返し拷問を受けるよりもどんな罪でも、犯したのではないかと言われるままに告白する気になるのである」。同じく牢獄で働いていたイエズス会の聴罪司祭のフリードリッヒ・フォン・シュペーの記述によれば、「いったん告白したことを否定しようとしてもすべて無駄である。もし彼女が告白しなければ、拷問は2度、3度、4度とくり返される。『異常な』犯罪の場合、拷問の継続時間、激しさ、または頻度数には際限がない。……彼女は決して身の証をたてることはできない。取り調べる側が、ある女性を無罪とすれば面目丸つぶれと感じるであろう。ひとたび捕えてつないだ以上、手段を選ばず彼女を有罪としなければならない」[7]

 以上のことは、4世紀のラインフランク族の1支族であるリプアリ族の旧法と対照的であるといえるかもしれない。この旧法では理由の如何を問わず、女性を殺した男は誰でも、子孫が3世代かかってやっと支払いが完了するような過酷な科料を払わなければならなかった[8]

 異端審問官の手に落ちた者たちにとって、母親であることは明らかに不利な点であった。ボダンの勧めによれば、子供は「上手に扱えば」母親に不利なことを供述させるのに頼みとなる。子供もまた拷問にはたいへん弱い。そこで子供は拘留期間なしに即座に拷問にかけてもよいという規則が作られた。拷問にせよ奸計にせよ、10歳未満の「児童」から聞き出された証言は、宗教裁判所で採用可能であり、母親の魔術行使に関して有罪の判決を下すことができた。もっともこのような「証言」は別種の裁判では採用されなかった[9]

 魔女迫害の規則は拷問後の告白の取消しを一切認めなかった。自分の告白を取り消そうとする者は拷問部屋に連れ戻し、再び拷問にかけたが、1度は取り消しを撤回させるため、そしてもう1度は、「本当の」告白を引き出すためである。少しでも恐怖の色を示すと有罪の証拠とされた。拷問を受けた別の犠牲者の告発も証拠となった。1597年、クララ・ガイスラーという名の69歳の老女は、親ねじ締め責め具は何とかこらえたが、足に拷問を受け、つぶされたのち、それまで告白するよう求められていたことをすべて告白した。クララが名を挙げた者たちが捕えられ、同様に拷問されたとき、クララも拷問部屋に引き出され、彼らの告白が真実であると述べた。クララは「この上なく激烈な」拷問を受け、死んだ。記録によれば、悪魔が彼女の首をひねったのであった[10]

 告白撤回のいくつかのケースでは、法廷は告白は本当であり、取り消しは偽りであると自動的に決めてかかった。この場合、犠牲者は、罪を悔い改めず再び堕落した者と宣告され、火あぶりの刑に処せられた[11]

 審問官たちは、手引書の指示に従って素直に告白すれば法廷の御慈悲を得られる、と嘘の約束をした[12]。告発された魔女との約束を守る必要はなかった。ある女の犠牲者がすべてを告白し、異端の主張を撤回し、法廷の御慈悲にすがったとしても、2つの訴因によってとにかく彼女の刑は執行された。すなわち、(1)彼女は「世俗の法に反する行為」を犯した張本人である、(2)真の悔恨の情からというよりも「を恐れて」した彼女の告白は無意味である、という2点である[13]。しかしこの同じ「無意味な」告白が、死刑執行の法的根拠の1つであった。

 たとえ拷問に抗して罪を否認し続けることができたとしても無駄であった。ル・シュール・ブーヴェは、「囚人の罪の否認こそが何故拷問を続けるべきかのとくに立派な理由の1つである」と断言した。リンポルヒはその著『宗教裁判の歴史』の中で、拷問により「全く無実の者」に自白を強要することはいとも簡単なことであると指摘した。コルネリウス・ルースによれば、「悲惨なことだが、人々は過酷な拷問により、むりやり身に覚えのないことをしたと告白させられ、残忍な虐殺により無事の生命が奪われ、新しい錬金術により、人間の血から金貨や銀貨が造られる」。フォン・シュペーは、「このような拷問を受けた者のなかでもずば抜けて強健な者たちが私に断言したことだが、告白すればわずかでも苦痛が軽減するものならば、強健な彼らでも、即座に告白したいと思わないような犯罪など想像できないし、拷問のくり返しを免れるためなら彼らは10度の死も歓迎したいと思うのだ」と記した[14]

 トレドにあるスペイン宗教裁判所の記録によれば、犠牲者のなかには、拷問を加える者たちがその加虐欲を満足させるまで告白させてもらえなかった者もいた。彼らに対する拷問は数日間、いや数週間にもわたって続き、拷問に完全に屈して、何を告白すべきか言ってくれるように懇願しても拷問の手が休まることがなかった[15]。このような証拠を読めば、宗教裁判とは実に一定の形式をもったサディズムを行なう制度であったことがわかる。宗教裁判の犠牲者の大多数が女性であったという事実は、宗教裁判が大規模な性的抑圧によって生じた、隠された性的動機によるものであったことを証拠立てている。

 教皇アレキサンデル三世はある回勅で、拷問によって告白を強要してはならないと述べた。彼の後継者たちは、教皇の真意は、平信徒が聖職者を拷問してはならないが、逆は差し支えないということであった、と説明することにした。インノケンチウス四世が宗教裁判における拷問を許可したとき、拷問によって「四肢を切断したり、死ぬ恐れのあることは避けよ」と語ったが、しかしこれは単に形式的な発言であった。というのは、拷問部屋では日常的に手足が折られたり、つぶされていたからである。犠牲者が拷問を受けて死んだ場合、審問官たちはお互いに罪の許しを与えて、神のから見れば無実であるとする権限を教皇ウルバヌス四世に授けられていた[16]

 審問官は残忍な怪物ではないという印象を公に伝えるために、多くの言葉の上の小細工が用いられた。「拷問もなく、拷問道具さえ見ない所で」自由に告白がなされた、と記録にはしばしば記載されている。この文句の意味するところは、犠牲者たちは拷問を受けた後、別の部屋に連れて行かれ、「自由に」告白するか、または拷問部屋に連れ戻されるかの選択を迫られたということである[17]

 犠牲者が牢獄で首尾よく自殺したり、けががもとで死ぬと、悪魔に殺害されたのだと言われた。自分の喉をうまく切りおおせたある犠牲者について修道士グアッツォは、彼は「悪魔に誘惑され」、を運び去られたが、「神の正義がそう取り決めたからである」と評した[18]。自殺する機会のあった犠牲者はわずかであった。何故なら彼らは、夜間は身動きができないように鎖で縛られていたからである。しかし一方、血や化膿している傷の悪臭に誘い出された、ネズミや牢獄に巣食っている他の有害な小動物に彼らがやすやすと貧り食われてしまうこともあった[19]

 たいていの犠牲者は、遅かれ早かれを願い出たが、敬度な者たちは、嘘をついたまま死ぬことになる自分たちを待ち受けている地獄の業火の幻影にさらに苦しめられた。レベッカ・ランプという名の主婦は、と6人の子供に宛てて獄中から手紙を出したが、それをみると、拷問の前と後とでは彼女の態度がまったく変わってしまったことがうかがえる。初めのうち彼女は自信たっぷりであった。「親愛なるあなた、心配なさらないで。何千もの告発を受けるようなことがあっても、私は潔白なのです。そうでなければ地獄のすべての悪魔がやって来て私をずたずたに切り裂いてもかまいません。彼らが私の身体をひどく傷つけ、1000か所も切り刻んだとしても、私には告白するようなことは何もないでしょう。ですから何も不安に思うことはありません。我が良心、我がにかけて、私は無実です。拷問を受けるのでしょうか。そんなことはないと信じます。私は何の罪も犯していないのですから」。

 レベッカはこの手紙のあと5度の拷問を受け、拷問を加えた考たちが彼女にほのめかした犯罪行為をすべて告白したが、彼女は再びに手紙を書いた。「ああ、あなた、私のかけがえのないひと、私は全く無実なのに、あなたと別れねばならないのですか。もしそうなら、私は神を永遠に恨み続けます。あの人たちは暴力を振るって告白させるのです。私にも酷い拷問を加えたのです。あなた、何か死ねるように薬を送って下さい、さもないと拷問の最中に息絶えてしまうに違いありません。何か送って下さい、でなければ、私のをも危険にさらすことになりかねません」[20]

 1628年にバンベル監獄からひそかに持ち出された1通の手紙は、資産家であり市長であったヨハンネス・ユニウスがしたためたものである。彼の財産は審問官たちに没収された。

 「最愛の娘、ヴェロニカよ、何十万回もおやすみを言おう。私は無実なのに牢に入れられ、無実なのに拷問を受け、無実なのに死んでいかねばならない。というのは魔女の牢獄に入れられた者は誰でも魔女になるか、頭の中で何かをでっち上げ、そして(神よ、哀れみ給え)その何かをあたかも思い出したかのようにして告白するまで拷問を受けるかしなければならない。私の場合はどうであったか、聞かせてあげよう。……拷問吏は私の両手を縛って親指ねじ締め責め具で責め立てたので、爪の間や他の場所から血が流れ出し、そのため、この1あまり、手を使うことができなかったが、それはお前にもこの手紙の字からわかるだろう。……その後、彼らはまず私の衣服を剥ぎ取り、両手を後ろ手に縛り、宙吊りの拷問にかけた。そのときは天地の終わりがきたと思ったよ。8回も彼らは私を宙吊りにし、その度にどすんと落とされたので、私は恐ろしいほどの苦痛を味わった。拷問吏は言ったものだ、『閣下、後生ですから、嘘でもいいから何か自白するよう頼みます。何か考え出して下さい、なぜなら、これからあなたが受ける拷問には耐えられるはずがないからです。たとえ今回我慢しおおせても、この先、拷問を免れることはないでしょう』。……さて、お前、以上が私が自白した一切だ。この自白のため私は死なねばならないのだ。だがこの自白というのが全くの嘘、でっち上げたものなのだ、神に誓ってな。というのは、これはすべて、私がすでに耐えた以上の拷問にかけると脅されて、恐怖心からつかざるを得なかった嘘だったからだ。というのは彼らは犠牲者が何かを自白するまでは決して拷問を止めないからだ。どんなに敬虔なものでも、魔女にならなければおさまらないのだ。1人として逃れられる者はいない。……愛しいお前、この手紙は誰にも見つからないように隠しておきなさい、さもないと私は今まで受けなかったような拷問を受けるだろうし、この手紙を届けた獄卒は首を剥ねられるだろう。手紙を出すことはそれほど厳しく禁止されているのだ。……この手紙を書くのに数日かかった、私の手は両方とも不自由なのだ。みるも哀れな姿だよ。さようなら、お前の父ヨハンネス・ユニウスは2度と再びお前に会うことはないだろうから。……愛しいお前、6人が即座に私が有罪だと自白した。すべて偽証だ。彼らが私に語ってくれたのだが、強いられてそうしたのだ。彼らは処刑される前に、神の御名にかけて私の許しを乞うたのだ」[21]

 拷問は婉曲に「尋問」と呼ばれた。慈悲深さを装って、異端審問の手引書は、告発された者は最初は「血を流さずに、穏やかに」尋問すべし、と勧めている[22]。この段階で十分な告白を引き出せた場合もある。コンスタンス教区のある魔女は、地面に掘った小さな穴に水を注いで、電を伴う嵐を起こしたことを告白したが、この告白がなされたのは、「足が地面につくかつかないかの状態にして、両手の親で吊り上げられるという、一番穏やかな最初の尋問にさらされた」後のことである[23]

 それほど穏やかではない他の拷問方法には、拷問台、親ねじ締め責め具、足締め具、笞、焼きごて、肉をねじり取るペンチ、血が爪の間からほとばしり出てくるまで手足のを縛るための紐などを用いるものがあった。審問官たちのお気に入りは、吊し刑の用具strappadoであった。これは滑車で、後ろ手に縛った犠牲者の両腕にロープをかけて吊し、両肩がはずれるまでぐいと引いたり、緩めたりするのに用いた。水責めもまたよく行なわれた。この拷問は、のどの奥に差し込んだじょうごに、何ガロンもの水を無理に流し込んで腹を膨らませるものである。ときには、水と一緒にリンネルの長い布切れを流し込んでは引き出したり、あるいは膨れたお腹を棒で叩いたりした。足や手を金属製の火鉢であぶりながら、煮えたぎる油をたれよろしく塗ることもあった[24]。ほとんどの刑具には「栄光は神のみのもの」Soli Deo Gloria という敬虔な銘が彫り込まれていた[25]

 17世紀の医師ヨハン・メイファースは、数百の魔女裁判を目のあたりにしたが、彼は、自分の見たことを忘れることができるなら大形貨幣1000枚も惜しくはない、と書いた。「ねじり取られた脚、眼窩からえぐり出された眼球、油を塗られ硫黄の火で焼かれた囚人。吊し刑の最中の女性の陰部に、炎を上げて燃えている硫黄の塊を拷問吏が押し当てているのをメイファースは見たことがある。また彼は犠牲者たちが告白するまで、または死ぬ(悪魔に絞め殺された、と審問官は説明した)まで拷問吏たちが恐怖に慄きながら、どんちゃん騒ぎをしているのをじっと見守ったこともある」[26]

 処刑はさらにもう1つの拷問であり、悲惨にも故意に長びかせることがあった。たとえばスペインでは、異端者は焚刑半ばで生きたまま炎の中から引きずり出され、何時間にもわたって断末魔の苦しみを味わってから再び火中に投じられた。ヘッセンにある「魔女の塔」では、犠牲者は地上4、6mの壁がんに吊され、弱い火でゆっくりとあぶられ死にいたった。おびただしい数の焼け焦げた骨や頭蓋骨がこの塔のまわりに埋められているのが発見された[27]。奇妙なことだが、この塔はのちに小説家ザッヒャー=マゾッホの所有物となった。マゾヒズムとして知られている倒錯は彼の名に由来している[28]

 心理学的に言って重要な点は、審問官たちが女性を泣かせることにやっきになっていたように思われることである。魔女が拷問中に涙を流さなければ、それが有罪の証拠であるというのが彼らの規則であった。彼らは彼女が泣くように、「十字架に架けられたキリストが流した愛の涙にかけて」切に望んだ。しかし彼女が実際に泣いたとしても、結局、火刑に処せられた。何故ならまさしく泣いたことが、審問官を欺くために悪魔が彼女に涙の贈り物をした証明となったからである[29]。また、もし涙を流さなかった場合、彼女は「沈黙」の罪に問われたが、これは焚刑に値する犯罪であった。イングランドでは、沈黙の罪に対する処罰は過酷拷問peine fort et dure つまり圧死であつた[30]

 イングランドは大陸で用いられた拷問具を輸入しなかったが、スコットランドでは輸入した。イングランドの魔女発見人が用いたのは消極的、つまり血を流さない拷問であり、たとえば、餓死させたり、(自白するまで眠らせないように)魔女を「泳がせ」たり「歩かせ」たりした[31]。身体を縛る拷問はいろいろと用いられた。告発された魔女は裸にされ、テーブルの上に脚を組んだ状態で縛られ(部屋の四隅に結ぴつけられた紐が首にまかれることもあった)、この姿勢は彼女が自白するまで続いた。告発された魔女が裁判を待つ間、牢獄できつく手かせ足かせをはめられていたので、法廷に引き出されたときには四肢は壊疽で腐っていたということもあった。どんな裁判にせよ、受ける前に「獄舎熱」(発疹チフス)で死んだ者は大勢いた。

 魔女泳ぎの刑は水責めの名残りをとどめるものであった。右手の親を左足の親に、左手の親を右足の親に縛りつけられた犠牲者は、ロー一プの先を持って川や池の両岸に立っている2人の男に水に沈められた。もし身体が浮けば、水は魔女を退けるという論拠に立って、魔術行使の証拠となった。また身体が沈めば、告発された者は無実となったが、溺死を遂げるのがたびたびであった。有罪か無実かはロープを握っている男たちによるところが大であった。

 暴徒と化した農民集団は、魔女の嫌疑がかかっている者に対する独自の拷問法をしばしば考え出した。1603年にはサフォークのキャットンで、一群の男たちが80歳の老女を空中に放り投げ、殴打し、顔に塗った火薬に火をつけた。最後に、「あらかじめ用意してあった、短剣やナイフのきっ先を上にして刺し込んだ腰掛に何度も突き倒したために彼女はひどい刺し傷を受け、重傷を負った」[32]

 「針刺し」は魔女発見人たちのお気に入りの技で、彼らは魔女の身体に7.6cmの錐を刺し込んで、魔女であることを示す痣、つまり「悪魔のしるし」を突き止めることができると主張した。悪魔のしるしは感覚のない場所と考えられていて、それ故、突き刺しても痛みは全く感じないはずであった。たいていの魔女発見人は、舞台用の短剣のように、引込み式の刃のついたインチキな道具を用いて、「痛みを感じない」場所を見つけた[33]。スコットランドの針刺し人たちは正規のギルドを結成した。彼らのうちで比較的名が通っていたのは、ジョン・ペイン、ジョン・バルフォア、「名うての針刺し人」ジョン・キンケイド、マシュー・ホプキンズであった。最後のホプキンズなどはサフォーク州の老女数百人を錐で刺し、やがて、この州全域が魔女で汚染されていると発表した[34]

 痣探しが失敗したとしても必ずしもそれは決定的なものではなかった。ババリアの魔女発見人ヨルグ・アブリエルが、ある女の身体に痣を見つけられなかったとき、自分にはこの女が魔女のように見えるとだけ言って、続いて彼女を拷問し魔女であると認めさせた[35]

 厳格なカルヴィン主義のスコットランドは、大陸と同じくひどい拷問を実施した。もっとも、迫害の程度は大陸ほどではなく、それは、迫害によって教会の得るところは何もなかったからである。おそらくスコットランドの魔女裁判のなかで一番有名なのは、国王ジェームズ6世(イングランドのジェームズ1世)の臨席のもとに行なわれたものであろう。王は自分の乗った船があやうく難破しかけて、戦懐を味わわせた嵐を引き起こしたのは告発された魔女たちであると確信していた。記録によれば、彼女たちはネコの死骸を海に投げ込んで嵐を起こしたのであった。彼女たちもまた、ザルに乗って海を渡った[36]

 魔女集会covenの首謀者と目されたのは学校教師ジョン・ファイアン博士であった。彼は数々の拷問をものともせず、勇気の手本を示したが、その勇気も役に立たなかった。「彼の両手の爪はすべてはぎ取られ(その道具はスコットランド語でturkasと呼ばれ、イングランドではペンチと呼んでいる)、その爪あとに針を2本ずつ突き刺された」。彼は「首捻り」thrawing、舌刺し、3度にわたる足締めの刑などの拷問を受けた。彼は「足締め具」をつけた両脚をさんざん強打されても耐えたので、彼の両脚は砕かれぺしゃんこになり、もうこれ以上はないというくらい小さくなり、骨や肉はつぶれて血と髄が多量にほとばしり出て、そのために永久に便いものにならなくなってしまった」[37」。彼は火刑場には手押し車に乗せて運ばれた[38]

 迷信の犠牲になったこの男の記憶は、彼の死後作り出されたかなり猥雑な話によって汚されてしまった。ファイアン博士はある村娘の愛を得たいと切望し、彼女の兄弟に賄賂を贈って、恋のお守りを作るのに必要な彼女の陰毛を3本手に入れようとしたと言われた。その少年は母親に現場を押えられ、代わりに母親が雌ウシの乳房の毛を3本引き抜いた。ファイアン博士はこれを受け取り、恋のお守りを作ったが、その後彼は、恋煩いのためうなり声を上げる雌ウシに村じゅう追いかけ回される羽目になった[39]

 西洋文明はその歴史を通じて、無力な人々を虐待する数々の見せ物を公認してきたことで恥辱にまみれている。このような見せ物は、映画のように、現代の「娯楽」では、人工的に考案されてもいる。G・B・ショーによると、「公開の笞打ちはつねに人だかりのするものである。その見物人たちの中には、人の裂傷や苦しむ様を見て恐ろしいほどに激しい悦惚感にひたっている連中が多々みられるであろう」[40]。関係者も狼狽するほど群衆が騒然とすることもあった。新教徒がイングランドの残忍な見せ物であるクマ苛めを廃止した理由は、この見せ物がクマやイヌにとって残酷だからというわけではなく、それが見物人に過剰な喜ぴを与えるからというものであった[41]

 動物と女はつねに犠牲者であり、両者ともがないと主張する聖職者は、女は動物と同じだとさえ考えた。この上もなく残酷な拷問を受けた者のなかには、魔女、娼婦、姦婦など、性を悦しんでいるという嫌疑をかけられた女たちがいた。英国植民地時代のアメリカでは、姦婦は人前で笞打たれた。

「公開の笞打ちは代償的性的体験、すなわち、然るべき処罰という体裁をとった、サディズムと集団観淫症とをない混ぜにした体験、を提供した。……彼らはこのような機会には集まってきて、自由奔放に欲望を満たした罪に問われた女が、腰まで背中をあらわにして、エロチックと言ってもいいような暴力を振るう男に笞打たれるのをじっと見守った。この官能的暴力行為はのちにサド侯爵によって一般に知られるようになった」[42]

 西欧文明は快楽よりも苦痛を選ぶようになった。つまり苦痛を与えることは許されることであり、公開に適しており、敬虔な行為でさえあるが、一方、肉体的快楽は胡散臭く、秘密にすべきで、「邪悪な」ことであると考えるようになった。この行動の2様式は反比例の関係にあるように思われる。ある社会が一方を抑圧すれば、他方が栄えることになる。実験動物を用いた研究によれば、非常に攻撃的になるように条件づけられた個体は、普通以下の性衝動しか感じないし、交接にはほとんど興味を示さないことがわかる。人間の場合も、腹を立て敵意を抱いている個人は、ほとんど性欲を感じないということが観察されている[43]

 性的に抑圧された人間は西欧社会、とくに教会に多数いたが、このことが宗教裁判を引き起こしたのであった。宗教裁判ほど極端には走らないがやはり悪業といえるものがいくつかあった。医者たちはこぞって苦痛の有益な効果を称揚した。パウリー二の『笞打ち健康法』(1968)は憂鬱病、中風、歯痛、夢遊病、聾唖、慕男狂などの病を「早く簡単に治療する」には思いきり笞で打つのがよいと勧めている。エディンバラのカレン教授は、「体じゅう笞打ったり、殴ったりする」のは躁病患者の治療に役立つと教えている。精神異常者の治療に関するもう1人の専門家であるジョン・バティは、「わずかの危険も犯さず、適度の苦痛を肉体に与えることは可能である。笞打ちはしばしば有効な治療法である」と記した[44]

 西欧男性の苦痛に対する強迫観念の最も奇妙な表れの1つは、この観念が、苦痛を「与える者」としての女性に投影されることである。これはまるで、男がこぞってそれまでの歴史で女性に対して犯した罪の償いをしようとしているかのようであると言ってもよい。笞打ちはヴィクトリア朝の「清教徒たち」の間では異常なほど流行した。出版業者ジョージ・キャノンは笞打ちを「一種の淫溺」と呼んだが、これは「大昔から存在しており、今日のロンドンでこの行為にふける者の数は夥しく、20にも上る壮麗な施設がもっぱらこの業務で成り立っている」[45]。ある著述家によれば、「カバの枝笞を愛好するものは……愛の女神ウェヌス〔ヴィーナス〕の崇拝する者(つまり異性との性交の方がいいと思う者)とほぼ同じく、ありふれた存在である」[46]

 しかしカバの枝笞を振るうのはウェヌス〔ヴィーナス〕であった。たいていの場合、母親に似た女、継母、叔母、女家庭教師、家政婦、体つきが大きくて堂々とした娼婦タイプの女である。スウィンバーンは「カバの枝による笞打ちの強烈な魅力の1つは、笞打たれる者が、自分は、激怒する美しい女の犠牲者であり、なす術もないと感じていることにある」と語った。聖ジョージ・H・ストックが記すところでは、「優雅で育ちの良い女性が、あたりを払い、優美な物腰でカバの枝笞を振るうとき、笞打ちと苦痛はともに真の快楽となる」。ダグデイルは『愚かなベッツィ』という題名の好色本を出版した。この本は「ある若い娘のきわどくも痛快無比の物語で、彼女の恋人はまず彼女にむりやり彼のお尻の皮膚をすりむかさせてから、処女を奪った」[47]。ヴィクトリア朝の「趣」のある典型的な文章は次のようなものである。

 「その間にマーティネットはゆったりした部屋着を脱ぎ捨て、1本の笞で武装した。この笞は、よくあるような杖と切り枝でできたものではなく、無数の枝のついている丈夫なカバの幹で作られ、小さめの木そのもののようであった。この武器を手にした彼女は何と恐ろしげに見えたことか! リンゴを奪われたユーノーも彼女のように恐ろしげに見えたことであろう。彼女の素晴らしいうなじと両腕はむき出しのまま、両煩はほてり、巨大な胸は波打っていた。口も利けないほど怒りに打ち震え、枝笞で笞打つ魅力など眼中になく、野蛮な『ひっぱたき』以外には、彼女の現在の復讐心を満足させるものはないであろう」[48]

 これは数世紀に渡る圧制のなかで虐待された女(または無視された女神)の幻影、そして好色文学の中で表面化した幻影でなくてなんであろう。この幻影はまさにその単純さによって真に原型的なイメージを表現しているのかもしれない。この種のさまざまな本の著者は男であって女ではなかった。これらの本には男が心の目でみたいと思った各種の幻影が描かれている。あるポルノ作品では、若者が母親を侮辱したため、母親よりも年配の「乳母」(通例は養育係または世話係)として登場する女性に笞打たれる。乳母のとっぴな科白は以下のごとくである。「この若い殿方は、誰にも自分の罪深い行ないを止めさせることはできないと考えていた、と断言できます。でも私は彼のこの厚かましいお尻を笞打って、お尻の皮を残らず剥いでしまうつもりです。そうして彼を回心させてみせます」。若者は嘆願した。「今度だけでいいからチャンスをくれ、最愛の乳母よ! ああ、後生だから! もう1度行儀よくするチャンスを下さい! ああ、殺されてしまう! 乳母よ! 下ろして! 下ろして! 下ろして下さい! 乳母よ! 乳母よ!」 乳母は答えた。「私のかわいい紳士さん、喚き、泣き叫び、蹴とばし足をばたつかせて、嘆願しなさい。でも何をしても無駄です。血がつま先からしたたり落ちるまでは笞打ちを止めません。この素晴らしい笞の御利益をたっぷり味わわせてあげます!」[49]

 英国の首相を4度経験したウィリアム・グラッドストーンは、定期的に笞打ちに耽り、そのため売春宿をひいきにしたが、この事実は1975年に彼の日記が出版された時に判明した[50]。もちろん、イギリスのパプリック・スクールの苛めと笞打ちの習慣は不幸な者を多数生み出したが、彼らの性衝動は歪められ、快楽とも苦痛ともつかぬ混乱状態に陥ってしまった。詩人スウィンバーンはそのよく知られた典型例である。しかし、さらに古いある伝統がすでに全キリスト教国にこの種の混乱に陥る種子をまいていた。あらゆる形の性行為にまとわりついている罪や疹しさの意識、(父なる神に課せられた)受難のゆえに崇められる、遍在する苦難のキリストのイメージ、子供は苦痛を伴う罰を与えて「神を恐れる」ようにしつけなければならないという一般に受け入れられた理論……このようなことが多く積み重なって残酷な文化を確立した。この文化圏では、男は他人を苦しませる能力の多寡によって、人生における自らの成功の度合を判断するのがしばしばであった。この能力が本当の意味の権力であった。

 明らかに女や子供を拷問するのを楽しんだ男は、心理学的には、自分が愛情を抱くことができないことを暴露していたのである。サディストたちは加虐的行為により満足を見出すが、それはこの行為が、他の点では彼らには目もくれないような人々から感情面の強烈な反応を引き出せるからである。サディストは愛すべき存在になる術を知らない。この無力感は、彼が相手を苦しめることができれば、充実感に変えられるのである。犠牲者には報復の機会がないにもかかわらず、サディストは自分が勇気ある人間であるというような感覚を得ることもできる。他人に過酷な拷問を加えることは、彼らの激しい怒りを無視することにほかならない。囚人の場合のように、無力故にこのような怒りを表すことが全くできないとき、犠牲者は完全支配の対象となる。これは正に、父権制的思考によりその可能性が芽生えて以来ずっと、男が女をそうしたいと切に願ってきたことである。

 サディズムは精神障害者の宗教と呼ばれてきた[51]。また性的不能者の宗教でもある。罪の概念と、正常な性的関係が要求する優しさと愛情とを和解させることができないキリスト教徒は、苦痛と罰という歪んだ強迫観念を抱くにいたったのであった。西欧の歴史家たちは好んで、古代異教世界の野蛮で残酷な行為を、「キリスト教の」優しさの道徳律と対比して記述した。しかし、道徳律への2つの接近法のうちで、異教世界の方が全体として寛大なものであったと思われるであろう。少なくとも異教世界の残酷さは、宗教裁判から20世紀の諸戦争と強制収容所に及ぶ、西欧文明の残酷さほど情け容赦なく効率的であることは決してなかった。


[1]Lea, 117.
[2]Robbins, 500, 540.
[3]Haining, 103.
[4]Summers, H. W., 69.
[5]Robbins, 501.
[6]J. B. Russell, 43.
[7]Robbins, 102.
[8]Bullough, 154.
[9]Scot, 15, 16, 21.
[10]Robbins, 43, 104, 503.
[11]Lea, 125.
[12]Kramer and Sprenger, 226, 125.
[13]Kramer & Sprenger, 226, 125
[14]Robbins, 103, 482-83, 309.
[15]Plaidy, 157.
[16]Coulton, 154-55.
[17] J. B. Russell, 221.
[18]Robbins, 18, 508.
[19]H.Smith, 287.
[20]Robbins, 303-4.
[21]Ewen, 122 -23.
[22]H. Smith, 285.
[23]Kramer and Sprenger, 149.
[24]Plaidy, ch. 8.
[25]H. Smith, 286.
[26]Robbins, 346.
[27]Summers, G. W., 496-97.
[28]Robbins, 450.
[29]Daly, 64.
[30]Robbins, 506.
[31]Ewen, 124.
[32]Robbins, 509.
[33]W. Scott, 240.
[34]H. Smith, 294.
[35]Robbins, 42.
[36]H. Smith, 293.;Robbins, 196.
[37]Robbins, 198.
[38]Rosen, 201.
[39]Seth, 9-40.
[40]Pearsall, N. B. A., 181.
[41]Woods, 141.
[42]Rugoff, 22-23.
[43]Fromm, 190, 193.
[44]Bromberg, 53, 102.
[45]Pearsall, N. B. A., 257.
[46]Weintraub, 163.
[47]Marcus, 255.;Pearsall, N. B.A., 258-63.
[48]Marcus, 258.
[49]Marcus, 256-57.
[50]Sadock,Kaplan & Freedman, 62.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)