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随想 シュワィツァ−・緒方洪庵 ギャラリ 検索リンク集


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晩秋


いつも毎年のことながら秋は寂しい。

木々は緑一色から色とりどりの紅葉に変わり,秋風も冷たさを

日ごとに増してきている。
春夏秋冬一年はめまぐるしく移り変わって

いるが,その時々の思いは年齢と共に変わってきている。

今年の秋は日本 米国ともに演じている政治ドラマに関心が向かい

自然をゆったりとして見る気持ちが薄らぎ,新聞 テレビなどの報道にくぎ付けにされ

その成り行きに注意が向いてしまっている。

でも自然は狂いなく秋から徐々に冬に変わリつつある,政治ドラマはどのような

顛末になるか判らず,流動的で予断を許せない情勢に有る。

でも大きな自然の流れからするならば,これらの政治ドラマもほんの些細な出来事かも知れない。




I T革命


俄然,政府の方針がインタネット関係にスポットがあてられるようになってからは

一段とマスコミなどで I Tが話題にならない日がないようになった。

i モードによる携帯電話の普及が若い人達を中心に爆発的に流行している。

パソコンによるインタ-ネットとは別に手軽な情報交換手段としてのiモード携帯電話は

日本が発祥のように聞いている。

年配の人達にはそれを利用する気持ちが少ないようにみうける。でも時代はそのような

人達を見捨ててでも変化は目まぐるしく移り代わり進ん行くことは間違いない。

如何にI T革命を社会に定着させるかが,これからの政治 経済などが発展させる

大きな鍵になるのではなかろうか。

I T革命は人類史上の一つの大きな革命である。日本は勿論のこと世界が大きな変革をもたらすであろうことは

間違いない。それにより世界が是非とも良い方向に変わっていって欲しいものだ。
 


米大統領選――どたばた劇の中から

11月11日の朝日新聞社説から

 なんとも異常な事態だ。投票から3日過ぎても米大統領選挙の当選者が決まらない。

 共和党のブッシュ・テキサス州知事か、民主党のゴア副大統領か。

勝敗を左右するフロリダ州の開票がまだ続いている。

あまりの小差に再集計となったが、票差はさらに縮まり、在外州民の郵送投票の締め切りまで結論がでない見通しだ。

 野球の試合にたとえれば、9回裏の逆転打の審判をめぐって、ゲームが中断してしまったというようなものである。

 米国の次期大統領がいつまでも決まらないと国際政治にも影響が出てくる。しかし、ここは辛抱強く決着を待つしかあるまい。

 それにしても、ひどい混乱だ。同州パームビーチ郡では、ゴア氏に入れるつもりの多数の有権者が、

紛らわしい投票用紙のせいで、誤って他候補に印をつけたという。再集計では何百票もの数えもれが見つかった。

 不正ではないにしても、ずさんだ。しかし、大問題にはなっていない。開票のやり直しは州地方選ではしばしばあり、

米国の選挙ではそれほど珍しいことではない、という。

 フロリダ州では騒ぎが続いているが、他の大半の州の有権者は興奮していない。投票は終わった。

あとは勝利宣言を待つばかりという雰囲気で、ニュースを眺めている。

 オフィスでも昼食の食堂でも、ビジネスマンの雑談の中心はいつものようにウォール街の市況に戻った。

 人間のすることに間違いがあるのは仕方ない、とふつうの米国人は考える。誤差が社会生活に決定的な影響を与えない限り、

数字の極端な厳密さにはこだわらない。むしろ誤差を容認する社会風潮が根づいている。

 今回の選挙では、米国人がとかく苦手とする、厳密な検証の能力が問われている。急ぐことはない。じっくり時間をかけ、

有権者の納得が得られる丁寧な作業を続けることだ。それが選挙の信頼を取り戻し、米大統領の権威を守る最善の方策であろう。

 こんなことになったのも米国史上まれにみる接戦のせいだ。

上下両院選挙でも、共和党と民主党の議席差が縮まった。

 経済が好調なことに加え、米国の介入が求められる国際紛争はない。

指導者がだれでもあまり変わらない、と思える状態である。

 加えてブッシュ、ゴア両氏は、どちらにも一長一短がある。ブッシュ氏は人柄はよいが、能力に疑問符がつく。

ゴア氏は政策通で有能だが、信頼できないところがある。

 2人とも支持基盤を無党派層に広げようとして全体に政策が中道寄りとなり、結果的に似通ったものとなった。

これも有権者の選択の幅をせばめたといえよう。

 「小さな政府の共和党」「大きな政府の民主党」と言いたてて政党の独自色を示せた時代は、もはや過去のものになったことを、

この選挙は教えてくれたのではないか。

 「対立軸がはっきり見えず面白みのない選挙」と言われたが、見せ場は最後にきた。

 民主主義における「一票の重み」を、米国民はあらためて感じただろう。その意味でこのどたばた劇は、無駄ではない。




11月10日 の天声人語より

 「速くて、正確」。それが報道機関の理想だ。が、なかなか到達できないのが「理想」である。

新聞もテレビも、「速さ」と「正確さ」の間でウロウロしている。

 大統領選で、米国のメディアは大失態を演じた。「ブッシュ氏当選確実」の誤報はたちまち世界を巡り、各国の大統領らも祝電を打った。

最大の根拠となったのは「出口調査」。投票を終えた有権者に、だれに1票を投じたかを聞き、そのサンプルから当落を推計するやり方だ。

 カーター対レーガンの戦いとなった1980年の大統領選挙の報道では、テレビの3大ネットワークのうちNBCが圧勝した。

接戦が予想されていたのに、開票率4%強で「レーガン当確」を打ってみせたのだ。

それまでわき役だった出口調査のサンプル数を思いきって増やしたのが奏功したのである。

 しかし、今回のフロリダ州のように極端に票差が小さいと、出口調査は力を失ってしまう。

テレビカメラの前で、CBSのキャスターは言った。「大統領選は、ふたがきつく閉まった瓶のようだ」。

「ハイテクのコンピューターのことは全部忘れて、白紙から始めよう。よき昔に戻ったということだ」。これはNBCのキャスター。

 「当落報道を急ぐことはない。確定票が出てからでいい」といった声は日本でも聞く。

けれど、それでは官報だ。ニュースを早く知りたいのは人の常。それに米国には、選挙管理委員会の公式発表が数日後、という事情もある。

メディアはますます競争にしのぎを削る。誤報しては何の意味もないのだが。

 第33代大統領のトルーマンは、劣勢と予想されながら精力的な選挙戦で大逆転。

予断をもった新聞の中には、誤報したところもあった。

当選が決まると、彼は〈デューイ(相手候補)勝つ〉の大見出しが載った新聞を高々と掲げた。

教訓は半世紀余り前にもあった。



ドタバタ劇というより泥仕合は法廷を巻き込みエスカレートしている。民主主義国家として世界で一番と自認し,

世界のリーダーとも言われているアメリカ大統領の選挙での出来事である。



あっせん利得――参院で補強すべきだ



1月11日の朝日新聞社説から

 いわゆる口利き政治を取り締まる「あっせん利得」処罰法案が自民、公明、保守3党の賛成多数で衆院を通過した。

この国会で成立するのは確実だ。

 公共事業の入札などで政治家が役所に口を利き、見返りに業者などから金をもらう。

腐敗の温床になってきたそんな行為が、これからは禁じられる。

これまで捜査当局の前に立ちはだかってきた職務権限の壁が取り除かれることで、摘発の可能性は大きくなる。

 受け取ったカネを政治献金として合法的に処理しようとしても、

金額や時期から口利き行為への見返りだと認定されれば、処罰の対象になることも確認された。

 政治家の口利きを当然だと考えるような日本の政治風土を、大きく変える手立てになることを期待したい。

 ただ、衆院で否決された野党4党の共同案に比べると、なお検討すべき部分が多い。

 何よりも、議員の私設秘書が処罰の対象から外れているのは問題だ。

与党案では、その範囲は国会議員、地方議員、首長と国会議員の公設秘書にとどまっている。

 与党はその理由を「私設秘書は一私人に過ぎないため」と説明するが、いかにも実態からかけ離れた言い分ではないか。

 中小企業向けの特別融資制度を悪用した事件で、国会議員の私設秘書らが検察に逮捕されたばかりだ。

 公設、私設を問わず、秘書が議員の影響力を背景に各方面にさまざまな圧力をかけ、

自分の懐を温めたり、政治をゆがめたりしているのは周知のことである。

 与党案は、そうした実態を放置していい、と宣言するようなものだ。

 秘書から議員や政治団体への献金が認められている以上、

私設秘書を経由して汚れた金が動くことも十分考えられる。

 参院審議では、私設秘書を対象に含めるよう法案の修正を求めたい。

とりわけ、この法案に積極的に取り組んできた公明党は、それを自民党に強く働きかけるべきである。

 処罰の対象となる口利き行為の範囲が、国や地方自治体による契約や行政処分に限定されている点も疑問が残る。

 政治家の口利きは、予算の配分や公共事業の個所付けなど幅広く行われている。

対象をあまりに狭く限定したのでは、この法律をつくる意義が薄れはしないか。

 忘れてならないのは、口利き政治を減らすことによって、政治の質そのものを良くしていくことである

 自民党内からは今でも「あっせんは政治そのものではないか」という声が聞かれる。

 しかし、行政というものは、本来、ルールに基づいて公正に行われるべきものだ。

金銭の見返りがあろうとなかろうと、政治家の力を背景に、特定の個人や業界だけが有利になるようなことがあってはならない。


 ルールが不十分なら整備し、政治家の介入を招かないように、行政の過度な裁量権を減らすことも併せて進めなければならない。

 有権者の側も、安易な陳情に頼ることがないよう、意識の改革が求められている。



与党案がそのまま可決され,野党が提出した厳しい対案は葬りさられた。これにより抜け穴だらけの法律が施行されることになり

依然として汚れた政治が続くのではないかと危惧する。




成功するまで続ける

松下幸之助の言葉より
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 何事によらず、志を立てて事を始めたら、少少うまくいかないとか、

失敗したというようなことで簡単に諦めてしまってはいけないと思う。

一度や二度の失敗でくじけたり諦めるというような心弱いことでは、

ほんとうに物事を成し遂げていくことはできない。

 世の中は常に変化し、流動しているものである。一度は失敗し、志を得なくても、それにめげず、

辛抱強く地道な努力を重ねていくうちに、周囲の情勢が有利に転換して、新たな道が開けてくるということもあろう。

世に言う失敗の多くは、成功するまでに諦めてしまうところに原因があるように思われる。最後の最後まで諦めてはいけないのである。


肝に銘じて自分のものにしたいものだ。





森不信任案――政治を変える絶好機だ


11月18日の朝日新聞社説より

 森喜朗内閣に対する不信任決議案が、週明けの国会に提出されることになった。

自民党の加藤紘一氏ら非主流派は野党に同調し、賛成に回る方針である。

 可決ならば、森氏は内閣総辞職か、衆院解散・総選挙かの決断を迫られる。

否決でも自民党は分裂の危機に直面せざるを得ない。

 加藤氏の倒閣宣言に始まった波動は、野党を巻き込む局面を迎えようとしている。

 しょせんは相も変わらぬコップの中の争いだという、冷ややかな見方がある。

経済再生を最優先させるべきこの時期に、政治空白をつくるのは無責任きわまりない、といった批判もある。

 そうだろうか。確かに政治には常に権力闘争の側面がつきまとう。

しかし、今回の不信任案が問おうとしているのは、ひとり森氏の進退のみではなく、

主流か非主流かの自民党内の勝敗だけでもない。

 存在意義すら疑われ始めた政党政治を、どうやってよみがえらせ、国民の信頼を回復するのか。

真の争点は、ここにある。

 その意味で、不信任案をめぐる攻防は政治空白どころか政治そのものにほかならない。

われわれ有権者は、この点を肝に銘じつつ推移を見守っていかなければなるまい。

 1990年代の日本の政党政治には、いつも「改革」の2文字が踊ってきた。

 個別利益の配分と票の争奪をもっぱらとする政治から、「政策本位、政党本位」の政治への脱皮が叫ばれた。

93年の政権交代は自民党一党支配の55年体制を終わらせ、新たな政治への一歩を踏み出したかに見えた。

 しかし、その後の経過は、それが幻想に帰す過程であったことは明らかである。

 自民党は政権への復帰とその維持のため、なりふりかまわぬ連立工作を繰り返した。

少なからぬ政党や政治家が、草木もなびくかのように与党へとすり寄った。

 改革のかけ声はうそ臭く、空々しい。

政治を動かすのは理念でも政策でもなく、依然として利権と票にすぎないという現実に、有権者が虚無感を抱いても無理はない

そんな「改革の10年」がもたらした最大のものが、無党派層の激増だったといってよい。

 政党政治の危機を、このまま放置することはできない。

 実は、そのことを最も肌身で感じなければならないのは、ほかならぬ自民党の政治家たちではないのか。

 支持基盤の広さと厚さへの自負が強かっただけに、それが融解しつつある現状への衝撃と焦りも、大きくて当然だからだ。

 それなのに森政権の鈍感さはどうだろう。

政党政治と民意の隔たりを、なんとか縮めようとする姿勢がまったく見られない。

むしろ、その隔たりを押し広げるような、無自覚な振る舞いばかりが目立つ。


 この政権に政治を立て直す努力を期待するのは、ないものねだりというほかない。

 残された時間は少ない。好機がいつまた訪れるとも限らない。政治の危機への感度が、重く問われている。

この週末、一人ひとりの政治家に、よくよく考えてもらいたい。



11月25日 の天声人語より

 森喜朗首相はいま、旅の空。東南アジア諸国連合(ASEAN)の会議出席のため、シンガポールに滞在中だ。

しかし、どこか、うわの空かもしれない。不信任案が否決されたというのに、永田町の不穏な空気は消えないのである。

 「不信任案否決は、森首相の信任を決定したものではないと思っている」。

野中広務・自民党幹事長は、橋本派の総会や岐阜市での講演で、そう言い切った。

つい先日、なりふり構わず否決のために動いた野中氏のことばとも思えない。

いったい自分をどう思っているのか、と首相は不安を募らせているだろう。

 野中氏は「緊張感をもち、謙虚さをもって、政局安定のために毎日毎日を刻んでほしい」と首相に注文も付けた。

首相の側に立てば、これほど失礼千万な言い方はない。

けれども首相は腹など立てず、殊勝にこう語るのだ。

 「大いに叱咤(しった)激励をして、緊張感をもってしっかり当たってくれ、というつもりであったというふうに、周囲から聞いている」と。

もともと「森の中(森野中)政権」と呼ばれた、いびつな内閣なのだ。

首相の生殺与奪の権は、実力者・野中氏の手中にある、といってもいい。

ゆさぶりで首相を操る。

そんな政治状況のもとに、国民は置かれている。

 中国古代に、太公望呂尚(りょしょう)という人がいた。魚釣りをしていたところを王に見いだされた、との伝説に登場する逸材だ。

あるとき王が「どのようにすれば、天下の人びとが従ってくれるだろう」と聞いた。

 呂尚は答えた。「この天下は、王の天下ではなく、国民全体のもの。

その人びとと利害を同じくする者は天下の主となり、天下の利益を勝手気ままにする者は天下を失います」

 不信任案否決の道筋で明らかになったように、野中氏に象徴される自民党は、もっぱら派閥の論理でしか動かない

「天下の利益」を勝手気ままにしている。




今回の自民党執行部の対応には少なからずがっかりした。

野中さんは京都出身の代議士であり,以前からの発言されている事や行動に対し

共感する事が多く,自民党員にしては清新な発言をされ リベラルで,私心のない行動力に対して尊敬していた。,

自民党にもこんな人がおられのかと自民党を改め見直していたのですが,

今回の加藤さんの森首相不信任案への賛成発言問題に対し

自民党幹事長としての対応はやはり自民党の悪い所を見出した感じを受けました。

しかし「不信任案否決は、森首相の信任を決定したものではないと思っている」との発言に,

やはり野中さんらしい真骨頂を見出します。

誰が見ても,今,森首相を信任している国民は少なく,世論調査による統計もそれを如実に表しています。

国民の代弁者である国会議員達の集まりならば,信任されること自体がおかしな話である。

報道機関を通じ知るところによると自民党員に対し不信任案に賛成する人は自民党から除名するとの方針だった。

其の為か「 この週末、一人ひとりの政治家に、よくよく考えてもらいたい。

の朝日新聞の社説論説は空しい言葉に終わってしまっています。

党の方針,規律
を守らない者が出ることは党の結束が乱れ,党の存続にもかかわるとの考えは

良く理解できる。だが国家の利益よりも,尚,党の方針・存続の方が大切だとは思わないのが普通である。

自民党山崎派の
山崎拓さんが山崎派の人達に対し  「私は不信任案には賛成するが皆さんは自分達の考えに

基ずき賛成又は 反対して頂いても結構,自由にしてください」  と
話されているのに感銘した。

民主主義というものは本来こう有るべきものと感じました。特にこのような大事な法案に対しては

特にそのように思います。第二次世界中の際,戦争に協力しないものは非国民だと指弾していた軍部主導の強権政治の

悪夢を思い出します。

加藤鉱一さんの行動に一貫性がなく男らしくないとの評を聞きますが,国民の多数が空しさと,もどかしさで閉塞感に

有る中,一石を投じられた意義は大きかったと思います。加藤,山崎派の行動には自民党の中にも「党」はいつも国民と一緒

有らねばならないという良識がまだ残っているのではないかとの感じを持ちます。

でも一方主流派に対しての反主流派による派閥抗争,権力闘争の行動の一つとも考えらないこともない。

これからは自民党,さらに他の政党をも含め,政治家全員が良識をもって,国民の殆どが尚政治に閉塞感を感じている中

国民が今一番何を望んでいるかを正しくくみとり,全国民が納得するような明るい展望を示してくれることを期待したいものです。

 


 寛容の心で包含

松下幸之助の言葉より
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 世の中にはいい人ばかりはいない。

相当いい人もいるが相当悪い人もいるわけです。

ですから、きれいな人、心の清らかな人、そういう人ばかりを世の中に望んでも実際にはなかなかその通りにはなりません。

十人いたらその中に必ず美ならざる者も正ならざる者も入ってくる。

そういう状態で活動を進めているのが、この広い世の中の姿ではないでしょうか。

そこに寛容ということが必要になってきます。

 力弱き者、力強き者があるならば、両者が互いに包含し合って、そこに総合した共同の力を生み出してゆく。

そういうところにわれわれ人間のいき方があるのではないかと私は思うのです。


含蓄有る言葉である。このような寛い心には凡人にはなかなかなれないものです。





インタ-ネットでの利用法


インターネットには色んな利用法が秘められている。ネットからの情報を集める手段として,手紙の変わりに互いの

情報を交換したり心の交流に使う手段,商売している人なら商売の宣伝に,自分の意見や思いを世の中に

伝えたい時には簡便な方法としても使える。

政治家もマスコミが自分の言っていることは正確に伝っていないとボヤクだけでなく,進んでホームページを

作り国民に是非直接伝えたいことがあるならば,ドンドン利用して頂き本当の気持ちを発表していただきものです。

国民が質問したい事があれはそれに答えていくとといった方法で直接に国民とのスキンシップができるようになれば

良いと思う。

政治家本人が忙しく,直接にいちいち答えられないならば,秘書にそれをさせればよい。

有力な政治家の中にはホームページを持っている人は少ない。,ホームページを作っておられる方のものを見ても

まだ自己宣伝の段階で,選挙用として使われているのが大半のように思える。

料亭で有力者と会合する時間があるならば,直接に国民と接する為,パソコンの前に座る時間を作り,国民と会話する政治家が

多く出てくれば良いのにと願いたい。

情報交換の場は料亭だけでなく次第にインターネットにもある事を気ずいて欲しいものです。



良寛さん展を観て


良寛さん没後170年記念展が京都文化博物館で11月17日から12月17日までの期間

開催されている。
折角の機会なので以前から良寛さんに強く関心があったので観に行ってきた。

書物とか写真などで既に接し知っていたので,直接に観たからとて別段に新しい感慨を持つに

いたらなかった。逆に何故明治以降の文化人達が良寛さんに関心を持つに至ったかの方に興味がある。

人間良寛は静かで素直である。争わない逆らわない自然のままに自然と共に素直に生きられた生涯

だつたようだ。そのような生き方に対し明治以降の文化人達は自分達とは違った姿に接し共感,心の

落ち着きを抱いたのではなかろうかと思う。

「裏をみせ表をみせて散るもみじかな」 「死ぬる時には死ぬるが良きに候」

近代の人々が目指す方向とは違った逆の生き方の人に却って新鮮さがあったのではなかろうか。

流麗な書体で書かれた詩歌 和歌 贅言などの観賞に参加している人達の顔を見ていても,

誰もが静かで穏やかだった。人相のいかついような人は一人として見ることはなかった。



アメリカ大統領選挙に対する感想




アメリカ大統領の選挙は接戦で最後にはフロリダ州の選挙結果がアメリカ大統領になるか否かまでになり,

ブッシュ陣営 ゴア陣営の差が数百票で大統領になる可能性が出てきた。

不明票が沢山有るとかで,手作業の開票が進められている様子がテレビで映し出されている。

其の様子は一枚一枚隣の人に見せながらのノンビリした風景である。

なんとお粗末な原始的な風景を世界一文明を誇っているアメリカでの出来事のニュースである。

又票の取り扱いに対しての判定に両陣営が訴訟合戦を演じて泥沼状態にある。

最高の民主主義 文明国を任じて止まないアメリカの本当の正体を垣間見る思いがする。

何もアメリカが全て正しくて進んだ国と思っているのは日本の第二次大戦に敗れた後遺症では

なかろうか。決してそのような国でない事を信じて,日本も自信を取り戻す時期に来ているのでは

なかろうか。正しいか否か決めるに全て裁判でないといけない社会を日本がお手本にするのは

如何なものだろう。日本の欠点といわれているyesかnoだけでなく其の間がある,足して2で割る

曖昧さとも言われている所にも長所が有るのではないかと考えますが。



根廻し


日本独特の非民主的な賛成反対に対しての裏からの解決法はいけない。

正面から正々堂々と討論して其の討論を充分聞いてからそれぞれ賛成反対の賛否を取り問題解決するのが

本道である。それを初めから個別に当たり賛成反対の討論する前に全て裏から廻って賛否をとりつけるのは

日本独特の姑息で卑怯なやり方である。表面的には穏やかに事は解決しているようだが,

全く民主主義に反する行為である。何時間掛けても良いから徹底的に討論してそれから賛否をとるのは

欧米に大いに見習うべき事である。


嘘と真実


嘘も100回繰り返すと真実になるとの信念で生きている人を見かける。

このような人は極めて稀であるが,教養は低くとも口達者が信条で全て世の中

四角を丸にして見せるという人によくあることである。

自然科学の場合 話を聞いて嘘を真実と思い込んだらひどい災難に遭うことになる。

或る人が知らずして解答にに窮した場合,自信がなく嘘をついて急場を逃れるのは非常に

性質が悪い。其の場合「判らない」と答えるのが自然科学に携わっている者の

最低の倫理である。新しい知見でわからない場合嘘なのか真実なのか判断に苦しむ事がある。

医学の場合,其の時代には真実だったが,時代を経るにつにつれ嘘に変わる場合もある。

そのような場合はどのように判断すればよいのだろう。









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