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秋の季節に思う事



秋の季節は足早にやってくる。同じ秋でも年齢その他環境条件によって時々の思いは異なる。

今年の秋はと,ふり省るとなんとなく心は晴れない。雨が多いせいだけでもないが,心はすっきりしない。

インターネットを始め丁度3年目に当たる。ひとりごとのようなことを書き綴ってもうはや2年が過ぎた。

一番の利点はインターネットを通じ世界に自分の思い,考えをいつでも好きな時に好きな事を発信できることである。

何かに叫びたくなるようなことが起きても今まではそれに対しての表現の手段が殆どなかった。

そうすると自分の存在は「無」に等しい。インターネットがなかったならば自分の気持ちを伝える事が出来ず、

地球上に現在生きている一人の人間として存在しているのか,していないのか判らない存在としてしか考えられない。

世の中立派で良い人たちばかりではない。嫌な人とも会わねばならない事がある。欲しいと思う物が有っても,すぐには手に入ることはない。

好きな人だと思っていても,時がくれば別れなければならない事もある。

秋という季節は,特に今年の秋は別れを感じさせる季節のように思われてくる。



ユーゴスラビア連邦,ミロシェビッチ大統領の「敗北宣言」



10月 8日よりの天声人語より

 ユーゴスラビア連邦の新しい大統領が誕生した。

20万、30万という民衆のうねりが、13年間君臨したミロシェビッチ大統領を「敗北宣言」に追い込んだ。

 それに先だって、民衆は国営テレビ局を占拠した。このテレビは大統領選挙の前、

ミロシェビッチ氏が率いるセルビア社会党の宣伝に努めていた。

#党はいつでもここにいる 経験豊富で賢くて、力強く、堂々と……。

軽快なリズムに、笑顔の党首の顔が重なる仕掛けだ。

 情勢が一転すると、国営をふくむ政府系テレビは放送を中止。

再開後は「中立的に真実を報じる」と宣言し、反ミロシェビッチのスローガン「彼は終わった」の字幕を映した。

政府決定を流していた国営通信も、新大統領のコシュトニツァ氏を「選ばれたユーゴ連邦の大統領」と呼んだ。

 政府系機関紙の「ポリティカ」では、60人の記者が編集幹部に対し「公正な報道」を求めて署名。

号外で〈これまでとは異なり、客観的な報道に努力する〉とうたった。態度が一変したのは、メディアだけではない。

ユーゴ連邦憲法裁判所は、大統領選を一部無効とし、改めて選挙をすると決定した。

しかし、政権が揺らぐと自らの決定を覆し、コシュトニツァ氏の当選を認めた。

 記者や裁判官にも、深い苦悩があったに違いない。

が、きのうまでミロシェビッチ側で報道してきたのと同じ記者が、簡単に「中立」になれるものか。

同じ裁判官に公正な判断を期待しうるのか。何かのきっかけで、また変身することはないのだろうか。一抹の不安は残る。

 首都を覆う民衆の歓喜の中で、「勝利」を意味するセルビア式の3本指のサインを出す人が何人もいた。

1年あまり前、ミロシェビッチ氏の命にしたがって進攻したコソボ自治州から帰還し、

民衆の大歓迎を受けたユーゴ軍兵士たちも、3本指を立てて「勝利」を示していた。



昨年の4月にNATO軍のユーゴ爆撃について書いている。ずーと前の事かと思っていたら約1年半前の話である。

ミロシェビッチ氏の失脚は当然のように思う。遠い国のことでも今では近くの国のように思えてくる。

悪いと思われる世の中,政権はそんなに永くは続かないものである。

今生きている人たちの叡智によって必ず滅亡へと導かれていくものと信じる。

例え始め良くても,永く続く政権は必ずに腐ってくる。それは洋の古今東西を問わない。

世の中はいつも同じではない,いつも生きて呼吸している。昔から言われている盛者必衰は世の常であるようだ。



ノーベル平和賞――勇気与える金氏の受賞


10月14日の朝日新聞社説より


 だれもが納得する受賞である。韓国の金大中大統領が今年のノーベル平和賞を受ける。心から祝福したい。

 授賞理由には、独裁政権下で、命をかけて韓国の民主化のため闘ったこと、民族の悲劇である南北の敵対を終わらせる努力をし、

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金正日総書記との歴史的な会談によって、冷戦終結の希望をもたらしたことがあげられた。

 普遍的な人権を擁護し、ミャンマー(ビルマ)の民主化を求め、東ティモールでの住民に対する弾圧に反対したこと、

日本との歴史認識をめぐる確執に終止符を打ち、和解に向かった功績もうたわれている。

 よく知られるように、金氏は生涯の大半を韓国の民主化にささげてきた。

 1961年、国会議員に当選したが、朴正煕少将のクーデターで、「反革命派」として投獄される。

朴氏と争った71年の大統領選挙では大量の票を得たが、命を狙ったともいわれる交通事故で負傷した。

 亡命生活を余儀なくさせられた後、東京のホテルから韓国の情報機関に拉致され、海にほうりこまれそうになる。さらに死刑判決。

長い獄中生活で、座骨神経痛が悪化し、いまも足を引きずって歩く。

 不屈の闘志の底にあるのは、強烈な民族主義に根ざした民主主義への信念である。

75年に書かれた「民族への敬愛と信念」の中で、こう述べている。

 「地図を見るたびに痛感することがある。アジア大陸、中国東側にまるで一つのこぶのようにくっついているこの小さな半島が、

どうして中国の一省とならず、厳然たる独自性を持つ民族として生き残ることができたのか、という不思議さである」

 その理由として次の3点をあげる。

 外からの侵略に苦しめられながら文民優位の伝統を保った▽

徹底した平和主義で、他民族を苦しめたことがない▽教育に熱心であり、教育の普及なしには民主主義はない。

 民主主義への信念は、揺るぎない歴史観と南北の平和統一への確信につながる。

80年4月、金大中氏はこう演説した。

 「私たちが民主政府を樹立し、国民の自発的な支持を得れば、北は韓国を武力征服できなくなり、

国際世論と国民の圧力によって、真摯(しんし)な姿勢で統一の道に参加せざるを得なくなるだろう。

これは私の確固たる見通しであります」(新教出版社『民主救国の道』)

 98年、民主的選挙で大統領に選ばれた金氏は、持論の三段階統一論に基づいて北朝鮮に対する太陽政策を実行に移した。

金日成主席が死去し、飢餓に悩まされていた北朝鮮は当初、警戒心を解かなかった。

 だが、金大統領は米国を説得し、中国の協力を取り付け、国際社会の理解を得る。

地道な取り組みに、やがて北朝鮮は姿勢を和らげ、南北首脳の握手が実現した。

 おめでとう、金大中さん。

 この賞は、民主と人権、平和と和解を求めるすべての人々に与えられたものだ、ともいえよう。

分断に苦しむ人々に、誇りと勇気を与えるものである


金大中氏の北朝鮮に対する「太陽政策」は誰も思いつかないし,なかなかに実行出来るものではない。

朝鮮半島に民族統一,一つの国家への兆しが見えてきた。朝鮮半島の人たちと一緒に喜びたい。

平和裏に米ソ対立によって引き裂かれた国が元の一つの国家への達成には金大中氏の貢献は極めて大きい。

世界の偉大な政治家の一人であろう。





森首相の資質が森首相自身の問題だけで済ませるのか? !



10月22日及び 10月26日の天声人語より

 日曜の朝なのに憂うつな話題で恐縮だが、ソウルでの森喜朗首相の発言を取り上げないわけにはいくまい。

またか、と笑い飛ばすには少々重いことがらだからだ。

 日本人拉致疑惑について森首相は、秘められていた「第三国で発見」案を、無関係のブレア英首相に披露した。

さらに「シラク(仏大統領)さんにもそういう話をした」と記者団に説明している。この案への評価はさまざまだろう。

しかし今回の発言は、日本の外交姿勢の根幹にもかかわってくる。

 18世紀のヨーロッパの外交官たちが競って読んだ『外交談判法』(岩波文庫)という本がある。

フランスのルイ14世の外交の一翼を担ったカリエールが書いた。

時代も環境も現代とは異なるけれど、その中身は今日でも示唆に富む。

 カリエールは外交に当たる者の条件をいくつも並べている。

たとえば(1)気分にむらがなく、物静かで忍耐強く、相手の言うことに気を散らさずに耳を傾けられる

(2)何を言うべきかをよくよく自分で検討してみないうちは、しゃべりたくてむずむずしても、その欲望に抵抗できるような自制心を持つ。

 森首相にあてつけているようにも読めるが、出版されたのは1716年。当時も現代と同じように、

外国との交渉に適さない政治家や外交官がいたのだった。

〈重要な謀(はかりごと)を挫折させるには、うまい時機をえらんで暴露するのがいちばんである〉といった個所も、色あせていない。

 凡才は国内で、その力量にふさわしい程度の仕事に従事すべし、とも著者は説く。

国内なら失敗を埋め合わせることもできようが、外国での失敗は取り返しがつかないというのである。

そのまま現代に当てはめるのは無理としても、なかなか刺激的な言い方だ。

 最後に一点。森首相は「第三国案の話は中山正暉代議士から出た」と語った。

責任転嫁のように響いて、どうもいただけない


人間の性癖は、なかなか改まらないものらしい。

「拉致打開発言」でもみくちゃになっている森喜朗首相は、たとえば5年前にも、同じようなもみくちゃを味わった。

 1995年5月。当時は自社さ連立内閣で、村山富市氏が首相を務めていた。

森首相はそのとき、自民党の幹事長。騒ぎは、森氏が講演で「村山首相が、仕事をしていくのに限界がある、

と言っているのを私も聞いた」と発言したことに始まった。これが「村山首相が退陣を示唆」と受けとられた。

 村山首相は「新聞を見て『何だこれは』と思った」と感想を述べた。

森氏はあわてて首相に釈明し、党内には「報道は真意を伝えていない」などと説明した。

が、閣僚らから「弁解しなくてはならないようなことは言うべきではない」と批判があいついだ。

 極めつきは野中広務自治相(現自民党幹事長)である。「重大な時期に、非常に許しがたい。政治家の資質に欠けている。

怒り心頭に発している」と切り捨てたのだった。

そして今回もまた、「首相としての資質」が問われている。

 思えばこの4月、首相に就任した当日から、野党は一斉に資質を問題にした。

その後の「神の国」発言、「国体」発言、「寝ててくれれば」発言……と、

そのたびに資質がやり玉にあがった。

 (1)気分が高揚し、つい口数が多くなる(2)問題発言を指摘されると「真意が伝わっていない」などと居直る(3)騒ぎが収まらず釈明するが、

そこでも一言多かったり、つじつまが合わなかったりして火勢は広がる。

ほぼこのパターンが繰り返されてきた。

しかし、もうたくさんである。末期的だ。

資質をめぐる騒動で、大切な時間がどれだけ失われたことか。

 きのうの党首討論で、森首相は「私は昔から、きわめて冷静沈着でございます」と胸を張ってみせた。

ぜひ、冷静沈着に、出処進退を検討してもらいたい。



新聞その他のマスコミの報道を見る限り,今の日本の政治情勢は普通では無い。

森さんは,首相でなければリップサービスが良いし,明るい性格で,人柄も良く普通の人のように思うのだが。




 まず与えよう



松下幸之助の言葉より
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 持ちつ持たれつという言葉もあるが、この世の中は、お互いに与え合い、与えられ合うことによって成り立っている。

それはお金とか品物といった物質的な面もあれば、思いやりといったような心の面もある。

 聖書の中にも、「与うるは受くるより幸いなり」という言葉があるというが、

人間とは他からもらうことも嬉しいが、他に与え、他を喜ばすことにより大きな喜びを感じるというところがあると思う。

そういう喜びをみずから味わいつつ、しかも自分を含めた社会全体をより豊かにしていくことができるのである。

「まず与えよう」これをお互いの合言葉にしたいと思うのだが、どうであろうか。


グッサリと身に応える言葉である。なかなかに凡人には出来るものではない。

普通は貰ってから返すか,ある程度何かを期待してしか思いつかない。

まさか「得」を期待して,あっせんの「利」を相手にまず与えようといった事をいっているのではなかろう。




長い人生体験が
人を変える



同じ家族として又同じ学校で学んだもの同士そのなかでは家族,学校も同じ環境だから

同じような
思想考え方を学び取る事になる。一旦にその場所を巣立つと又違った環境に置かれ

再びそこの環境での影響を受け出す
。そのような事を何回も繰り返し繰り返ししてゆくのが人生である。

となるとある年齢になって,以前一緒に生活したもの同士が再開し会った時一緒だった頃の相手と

違った面を発見する事がある。良くも悪くも「朱に交われば赤くなる」を何度も繰り返しているのが長い人生の道のりである。

世の中全ての面で全く同じという人は100%いない。良いところを多くもっている人とは深く付き合うよう努めたく思うし,

いやがらせ(いじめ)をするような人とはだきるだけ避けて生活するのが生き方のコツではないかと納得するようになつて来た。



礼儀


礼儀を売りにしている人を見かける。所変われば礼儀も変わるではなかろうか。

根本は相手に嫌な感じを与える所作だけ避ければ良いと思っている。

礼儀正しいと自認している人でも貴方は礼儀知らずだと責め,却って他の人に嫌な思いを

与えるている人達をよく見かける。その人こそ礼儀をわきまえていない人であって,僕から言わせれば礼儀知らずのひとである。

其の人たちにとっては自慢する事は唯礼儀と称するものしか自慢するものがないからである。

それだけが自慢で,他にはとりえが少ないことが多い。

でもその人が他の人にに迷惑さえかけなければそのような人がいても

世の中それはそれとして良いのではないかと考えている。





礼儀と不道徳 そして犯罪

以前に道義的責任と法的責任そして思いやりによる奉仕について書いたことがある。

同様の考え方でゆくと礼儀は思いやりによる奉仕に相当し,不道徳は道義的責任

犯罪は法的責任論に相当する。

礼儀に喧しい人でも自分自身は気が付いていないが不道徳な事を平気でする人を見かける。

そしてさらには犯罪とも感じられるような事をも自己の能力・甲斐性た゛と信じ,それも平気でやる人を見かける。

それでいて本人は其の事に気ずかず,只礼儀についてだけ喧しく言うのは礼儀について説く資格が

本当に其の人にある人なのかどうか。。





さまざま


世の中色んな人達がいる。なんでも習い事をするとその教えているお師匠さんの作品が一番良いということになり,

一所懸命にそのお師匠さんの真似をすることになる。

洋画の梅原龍三郎の模写をした事があるが中々に同じようには描けない。逆に梅原龍三郎が僕の絵を模写しても

同じように描けないのではないかと思う。なんでもそうであるが,ある人が立派と認知されて,

其の人の真似をしても其の人以上には其の人らしくは決してなれるものでない。

だから世の中人さまざまで良いのではないかと思う。

ノーベル賞とか文化勲章などの如き名誉称号を生きている間にもらえれば,何かで其の人がそれに値しないような

人物で有ることが判った時にはどうするのだろう。

それぞれ,他の人には真似が出来ない人達が仲良く集まり社会が成り立っていると考えてよいのではないだろうか。


矛盾


世の中よく見ると社会現象で矛盾だらけの事が多く目に付く。この世での人間存在自体か既に矛盾な存在といわれているから

それくらいのことは仕方のない事と言えばそれまでの事だが,なんとか矛盾の少ない世の中に持ってゆきたいものだ。

情報科学などの先端科学は驚く程の進歩をしている。一方人間の営みとしての社会現象は形は変わっても殆ど進歩らしい

進歩は見ない。賄賂 汚職 政治腐敗 窃盗 強盗 殺人など昔と全く変わってはいない。

人間そのものは昔も今も同じと言う事である。科学が飛躍的に進歩前進しているから,人間そのものも進歩しているように

錯覚しているが,人間そのものは昔と全く同じ事を繰り返しているように思う。

昔も社会に献身的に貢献した人達がいた如くに,今の世の中でも立派な仕事をしている人達が大勢おられる。

情報科学などを駆使して如何様に社会に貢献する人たちを多くしていくかである。

インターネットは国境がないから国境を越えてそのような人たちが連帯し世界をより住みやすい世界に変えるかである。

国境がないというものの,言葉の壁がなんとか乗り越える方法を解決しない限り難しい話だと思う。




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