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Fig(イチジク)

FICUS_CARICA01.JPG  福音書には、季節はずれに、イエスのために果実を実らせるのを拒んだために、イエスがイチジクの木を呪って、永遠に実がならないようにしたとある(『マルコによる福音書』 11: 13-22)。この話にはおそらく、有名な女神-シンボルに敵意を表す意図があった。イチジクは、心臓の形をした葉が「女陰の伝統的形」を表しているために、つねに女性と見られた[1]。ローマ人には、をはやした好色なヤギ神と、イチジクの木の女神、ユノ・カプロティナの合体と関連する「乱暴で奇妙な儀式」を祝う習慣があった[2]

 イエスの好敵手である神、ミトラMithraも母性的イチジクの木に関わっていた。この神を真の救世主と呼ぶものもあった。ミトラが創生の岩petra genetrixから生まれ、崇拝者の羊飼いに発見されるとすぐ、イチジクの木は、ミトラを養子にした。イチジクの木はミトラに絶え間なく食物(果実)と衣服(薬)を与えた[3]。『創世記』によると、イチジクの葉は世界初の衣服で、アダムとイヴは知識を得るとすぐ、これを身にまとった。イチジクの木の養子になる話は、釈迦牟尼伝説でも異彩を放っていた。釈迦牟尼は5の満月の日に啓示を受けたが、ボダイジュ、すなわち知恵の木、聖なるイチジクficus religiosaに守られていた[4]

 イチジクはインド-イラン系共通の太母のシンボルであった。バビロニアのイシュタルも神聖なイチジクの木Xicum(大地の中心にいる原始の母)、すなわち救世主タンムーズの守護女神の形になった[5]。のちにコーランを著した父権制の著作者たちは、イシュタルの木を地球の裏側から下に向って伸びるザックームZakkum(地獄の木)に変えた[6]

 ドゥーシーと呼ばれる古代ゴール地方の神々は、中世ラテン語ではイチジクを食べる人(=fig-eaters) ficarii と書かれた。これは、イチジクもハスも女性の生殖器を象徴したことからみて、ホメーロスの「ハスの実喰いたち(=lotus eaters)」lwtofavgoi〔Od. 9.84〕と同じ意味であった[7]。アングロ・サクソン語のfuckはficus(イチジク)に由来した。今日まで、イタリア人は、中をあげるのと同じように、「くたばれ」 fuck youを意味する軽蔑的な性的な合図を「イチジク-手」 mano in ficaでやる。「イチジク-手」は2本のの間から突き出した親によって形作られる、男根-女陰で、起源はオリエントであった。ヒンズー教では、「イチジク-手」を聖なるムドラー(手振り)と呼び、ローマ人の家長たちはこの手振りを悪い魔力から身を守るために使ったと、オウィディウスは言っている[8]。しかし、キリスト教徒には「ひわいな手」 manus obsenusであった[9]

 他の生殖器を表すシンボルと同じく、昔ウェヌス〔ヴィーナス〕にとって神聖と考えられた他の多くの品物とともに、イチジクは愛の護符の中に入れられることが多かった。これらの品物には血、パン、ハト五芒星形があるが、独身者が夢の中で未来の花嫁を見られるように『ゼケルボニ』〔Zekerboni。夢占いに関するピエール・モラの論文。Bbiliothèque de l' Arsenal図書館に保管されている写本No. 2790〕に載っている護符まじないにイチジクを加えた。

「その者たちは粉にしたさんごと、何か細かい粉状の磁鉄鉱を手に入れ、それに白いハトの血を混ぜて薄めて、練り粉にし、青いこはく織の絹布で包んでから、大きなイチジクの中に封入しなければいけない。これを彼らは首にかける。そして寝床に入るときは、その間ずっと特別の祈りを唱えながら、土曜に備えてその五芒星形を長枕の下に置かなければいけない」[10]

[1]King, 28.
[2]Rose, 217.
[3]Hooke, S. P., 85.
[4]Ross, 88. ; Wilkens, 45.
[5]Harding, 48.
[6]Campbell, Oc. M., 430.
[7]Knight, D. W. P., 153.
[8]Dumézil, 367.
[9]Gifford, 90.
[10]de Givry, 325.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)



聖書〕 イチジクは、オリーヴやブドウの木と同じく、豊かさを象徴する木の1つである。しかし、この木もまた、否定的な面を持っている。枯れると悪い木になるし、キリスト教の象徴体系の中では、ユダヤ教を指す。《新約》の救世主を認めなかったため、実を結ばなかったと解される。異端性のために小枝を枯らしてしまったような教会を表すこともある。

 イチジクは、宗教的知恵のシンボルである。エジプトでは、通過儀礼の意義も持っていた。隠者たちは好んでこのイチジクの実を食べた。

 旧約聖書にも新約聖書にも、このシンボルのことが書かれている。『創世記』3、7で、アダムとイヴとは、自分たちの裸に気づいて、イチジクの葉をつなぎ合わせ腰帯をつくった。

 『列王妃』1、4には木々がイチジクに向かって自分たちを統治するよう要請する話が出てくる。新約では、イエスがイチジクを呪う(『マタイ』21、『マルコ』2、12以下)。イエスがイチジクにことばを掛ける、つまりイチジクの知恵に問いかけている点に注目したい。イエスは、ナタナエルに「私はあなたがイチジクの木の下にいるところを見た」(『ヨハネ』1、49)という。ナタナエルは知識人であった。

イスラム〕 イスラムの神秘主義では、イチジクは、オリーヴの木と組み合わされて、さまざまな性質の二重性を表す。

ficusreligiosa.jpg東アジア〕 東アジアでは、イチジクの持つ役割は大変重要である。ただこの場合、イチジクの変種の巨大なパゴダのイチジク、つまりバンヤン樹、植物学者たちのいう神木としてのイチジク〈ficus religiosa〉〔右図〕が問題になる。『ウパニシャッド』や『バガヴァッド・ギーター』にうたわれる「永遠のイチジク」や「世界樹」は、この木のことである。これが大地と天とを結びつける。

 仏教でのイチジクの役割は、これと同じであり、釈迦が《悟り》をひらいたボダイジュ、またの名は〈ボーデイの木〉は、世界軸と同一である。イチジクは、初期の仏教彫刻では、釈迦と同一である。彼はさまざまな姿をしてこの世界軸に参入する。

 東南アジア全体で、このパンヤン樹には、精霊が住みついていると考えられている。〈力と生命〉の象徴になっている。スレ族では、出産のシンボル、レンガオやセダン族(ヴェトナム中部の原住民)では、長寿のシンボルである(CDRT、DAMS、GVEV)。

インド〕 イチジクは、不死と高い水準の認識を象徴する。釈迦は、好んでこの木の下で弟子たちに教えを説いた。

 ヤナギと同じく、不死の象徴ではあるが、長寿の象徴ではない。というのも、中国人にとって、不死は精神と認識によってのみ想像できるものだからである。

 インドや地中海世界の伝承で、聖なる木とされるイチジクは、しばしば豊穣祈願の儀式とも結びつけられる。ドラヴイダ族の考えでは、豊穣を生む力を持つのは、この木の乳液によっている。乳液(latex)は、その本質から、《水》という自然の基礎要素に含まれている、世界のエネルギーの一部としてのラサ(味)と同じであるから。『創世記』にいう《大空の下側の水》はこの《ラサ》と同じものを指す。乳液は、生命の液オジャスであり、この液が胎内の子供に生命を伝達する。この魔力を使う呪術の儀式は、数多く存在する。これらは全部、乳液を含む木の重要性を示している。J・ブルノワの伝える、ドラヴイダ族の慣習(若い雌ウシの胎盤をワラに包んで、乳液の出る別の木の枝(ブラニアン樹branianという)に結びつける)も、ウシが乳をよく出し、子をたくさん産むことを願ったものである。

 インド全域で、このパゴダのイチジクは、ヴイシュヌとシヴァ両神の木とされる。イチジクの崇拝は、ヘビの崇拝と結びつけられる。両者の組み合わせは、とりわけ豊穣を生むとされる。

 現代インドのイチジクの葉は、古代ギリシア・ローマ芸術におけるブドウの葉と同様、ショーツ代わりであり、そこにはおそらく象徴的意味も含まれている(BOUA、72)。

 ローマ人の信仰では、ロムルスとレムスは、イチジクの下で生まれ、「永い間、民会で人々はこの双子の神をイチジクの木の下で崇めた」(パウサニアース、7、44;8、23、4:9、22、2)。

 インドでも同じような信仰があり、ヴィシュヌ神が対象になる。ギリシアでは、イチジクはディオニューソスに捧げられた。

アフリカ〕 イチジクや乳液の出る木を、このようにはっきりと神聖化するのは、インドのドラヴィダ族や古代クレータ島の人々の特徴であるが、ブラック・アフリカでも見られる。J・プルノワはチャドのコトコ族にも同じ信仰が見られるという。彼らにとって、〈ヤガレ〉yagaléというイチジクの枝を切り落とすと、不毛の原因になる。コトコ族の女性は、母乳の分泌をよくするために、樹皮に切り込みを作り、その樹液を集める。

 イチジクは、中央アフリカのパンツ一族系の多くの部族でも神聖化される。

ギリシア〕 ギリシアの初期の農耕崇拝においては、イチジク泥棒の密告者は、〈イチジクの実を暴く〉責任を負っていた(スケーSukéという)。

 イチジクの実は、アツティカでも持ち出し禁止にされていた。盗賊の密告者のことを、シコファントsukofavnthVという。これは、イチジク泥棒の密告者が語源で、のち密告者やゆすりの名人を表すようにもなった。

 北アフリカでは、この木の実は〈死者から与えられる豊穣のシンボル〉とされる。睾丸と同義語になったため、日常会話では避けられる。実の取れる秋を表す〈クリフ〉khrifで置き換えられた。

象徴・解釈〕 この程度の比較では、寓意や類似の域を出ないが、ジャン・セルヴィエは次のような象徴上の解釈も出している。「数多くの粒を含むイチジクの実は、豊穣のシンボルであり、この点で岩上や共同浴場の供物、聖堂や守護神や《見えざるもの》への捧げものともされた。旅人たちが、必要の際には分け合って食べる供物となった。なぜならこの実は《見えざるもの》からの贈りものであったから」(SERP、38、143)。
 (『世界シンボル大事典』)


シカモアの木[エジプトイチジク](sycamore)
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神聖〕 エジプトの神聖な木で、河畔の庭園やイアルの野に生える。イチジクはイチジクでも、エジプトイチジク(Ficus Sycomorus)だ。の形をしたが、その枝に止まりにきたものである。枝と木陰は墓の彼方のが得た安全と保護を象徴する。

キリスト教・虚栄〕 イチジクとは〈虚栄のイチジクficus fatua〉なりと、教皇グレゴリウス1世は『モラリア』27、79に書いた。徴税人ザアカイは、群衆に妨げられてキリストの姿が見られないのでイチジク=クワの木に登った。イチジクの木に登ることは、精神的に一種の「狂気」に参加することである。この狂気とはあらゆる地上的なもの、創造されたものに対する関心を解脱することなのだ。この動作のここでの意味は無関心という狂気であり、人の意見に対する一定の軽蔑、さらには反画一主義を象徴する。この木が虚栄心(fatua)の象徴なら、それに登るのは虚栄に目もくれないことを意味する。(『世界シンボル大事典』)


 ギリシア語では、イチジクの樹は"sukh:"、その実は"su:kon"と呼ばれる。
 "sukh:"は、学名"Ficus Carica"〔初めの画像〕である。
 宇宙樹=生命樹としてのイチジクについては、point.gif『自然究理家(Physiologos)』第34話「両手利きの樹」の訳註を参照されたい。
 ここに出てくるバニヤン樹も、ギリシア語は"sukh:"である。


 たとえば、ニューギニアのセピック地方の成人式をむかえる青年や、アフリカのカメルーンのファリ族の娘などは、現在でも青々とした植物の葉で、股間をかくしている。その他、祭や宗教行事のとき、たとえば腰布を巻いたりパンツをはいていてもその上に、青々とした植物の葉を腰につけるところがある。それは、日本でいえば神事につかうサカキのようなものだからである。悪霊払いをすると信じられている植物がそれぞれの地方にあり、その聖なる植物の葉をつけることで、災禍をおこす悪霊払いをするわけである。何回も繰りかえしていっているように、紐衣そのものが生霊を体内にとどめて災いを防止するものだが、悪霊払いをする植物の葉をもつけて、二重に防止しているわけである。とくに、成年式や成女式では、一人前の社会構成員になるに際し、いいかえれば結婚し親となる資格を受けるに際し、自分の性器に責任ある自覚が必要となる。その自覚を喚起するために、悪霊払いの葉を股間あるいは腰につけるわけみそぎである。したがってこのような植物の葉とは、禊とお守りの役をはたすわけである。
 したがって、一般に考えられているように恥部をかくすために葉をつけているのでもなければ、葉なら何でもいいわけではないことに、留意したい(旧約聖書によると、原罪をおかしてしまったアダムとイブは、イチジクの葉を腰に巻いた。この影響があるため、現代人は植物の葉で恥部をおおうのは、差恥心からだ、と誤解しているのだ)。(深作光貞『衣の文化人類学』p.46-47)

 原罪を犯したアダムとイプが性器をかくすために使用したイチジクの葉とは、旧約聖書によれば「イチジクの葉のエプロン」である。ヨーロッパ中世の彫刻や絵画では二人ともたった一枚の葉で前をかくしているが、これは原典に忠実でない。エプロンである以上、複数の葉、おそらく枝つきの葉であったろう。聖書の日本語訳ではこのエプロンを「裳」と訳しているが、裳とは腰全体をおおうスカート的なもので、前だけかくすエプロンとはちがい、これもまた適切な訳でない。楽園から追放するとき、エホパ神は二人に皮衣をつくって与えたが、原罪をおかしてから楽園追放になるまでの間、二人はずっとイチジクの葉のエプロンを手でおさえていたのか。もし、手を離すとしたら下腹をかくしているエプロンの上を紐で腰に取りつげねばなるまい。こうすると、その格好はまさに先ほど述べた紐衣に植物の葉をはさんで前に垂らしたニューギニアの成人式の青年の格好、あるいはアフリカのファリ族の娘のそれとなる。紐衣の前方だけに植物の葉を垂らしたアダムとイプということになろう。ぞれはともかくとして、紐衣の前方になぜ植物の葉をはさみつるすかといえば、前述のとおり、聖なる葉で悪霊や邪気の侵入を防ぐための呪術的儀式である。(同上、p.55)