人類進化の初期の段階では、母性だけが唯一の親子関係の絆として認められていた。他の哺乳類の家族同様、原初の人間の家族は、母親と子どもたちから成り立っていた。
「動物の家族は、母性本能から、そして母性本能によってのみ生じる。母親が家族の唯一の中心であり、絆である。……オスは動物の家族の形成には何1つ関与しておらず、家族にとって必須の構成員ではない。彼は母系の群れに加わってもよいのだが、普通は加わらない。家族に付いて行動しているときでも、家族との結びつきは弱く、不安定である。……メスが、オスとの結びつきによって、何らかの利益を得るのでなければ、このような結びつきは生じない。オスとの協同が役に立つときでも、オスがメスを探し出し、ついて行くのであって、群れの分離を決定し、住居地を選択するのはメスである」[1]。
文明の根源は、群れを1つにまとめ、相互協力を進化させた血縁の絆にあった。絆は母性的なものであった。なぜなら、性によって結びつく相手がしばしば変わり、一時的なものであったこのような初期の群れにおいては、父親との関係は認められず、また考えられさえしなかったからである。「性欲と出産の関係は原始の人間には知られていなかった」[2]。
原始的環境にある人々は、現在でも、性欲と出産の間の関連に対して無知である。トロブリアンド諸島(ニューギニア東端の北方にある群島)の人々は、妊娠を、性ではなく霊によるものと考えていた。女性の夫が子どもの世話をすることもあったが、彼は子どもたちを「妻の子ども」と考えていた。島の人々は、初めて受胎について彼らに語った白人を嘲笑した。チュクチ族(シベリア北東部に居住した古代アジア民族)の女性シャーマンは、自分たちは性交によらず、聖なる石によって子どもを作る、と言った。オーストラリアの原住民は、ある特別な食物を食べるか、あるいは、以前の出産の際のへその緒を下げた聖なる木を抱くと妊娠すると考えていた。スマトラのバタク族は、へその緒と胎盤を家の下に埋めなければ、女性は妊娠できない、と信じていた[3]。
原始人は、妊娠をさまざまの異なった原因によって起こると考えたばかりでなく、妊娠期間の長さについても、さまざまな考えを持っていた。このことは、妊娠がいつ始まったのか、彼らが知らなかったことを示している[4]。
多くの学者の意見は、今日の未開人種のみならず、おそらく先史時代の全世界の人々が、生殖の過程で果たす男性の役割について何も知らなかった、という点で一致している。女性のみが生命を生むという神の力を有している、と信じられていたのである[5]。
最も古い神話のすべてが、原初の信仰に従って、生物は女性によってのみ作られるという理由から、男性の創造主ではなく、女性の創造主について語っている。男性は自らを、生殖の過程において不必要なものと信じていた[6]。
最も原始的な狩猟文明は、さらにさかのぼった時代の伝説を有している。その頃は、女性がすべての魔術的手段を持ち、男性は何も持っていなかった。子を生む者、そして養う者として、女性は一般にものを育成する仕事を引き受けた。彼女たちは、生産者、貯蔵者、農作物の配分者となり、したがって彼女たちが耕した土地の所有者となった。土地を価値あるものとし、それとともに、自分たちも価値あるものとした。
彼女たちの経済的・社会的力が、こうして母権制社会の形態をとる初期の村落共同体を発展させて来た。男性は、狩猟者として、あるいは母権制の群れの防御者として貢献する労働を別にすれば、自分たちはほぼ完全に余分な存在であると考えていた[7]。「父親であること」の秘密は、女性だけが男性に明かすことのできるものであった。女性は、ほとんどの男性の理解を超えた、もう1つの伝統的な女性の手腕、暦日を記録する手段の保持者であったからだ。人間の歴史の後期に発達して来た一夫一婦制以前には、出産と性交を結びつける何らの理由も傾向もなかった。たとえ真実を推測したとしても、それに異を唱える否定的な例がいくらもあった。ある女性はしばしば性交を行なったが、決して妊娠せず、他の女性は、ある男性と暮らしているときは「石女(うまずめ)」だったが、別の男と暮らしたら妊娠した、というような例である。閉経後、あるいは初潮を迎える以前の女性は、愛人を何人持とうが妊娠しないことから、性行動よりも月経の方がより重大な要素と考えられがちであった。
現在も多くの人々のグループに見られるように、氏族の忠誠心の基盤となるのは母性だけであった。アッサムでは、部族の社会的単位は「母親」maharisであり、マレーシア人の家族では「母性」sa-mandeiであった。ガロ族とカーシ族(ともにインド北東部アッサム地方)では、母親が家族集団の長であり、すべての財産を女系に譲り、男性は何も相続できなかった。ほとんどいたるところで、血縁の絆は女性を通じて続いていた。
これは、男系の祖先しか認めない聖書の「系図」が故意に覆した古代の組織においても同様であった。セリ・インディアンの部族は、自分たちをクンカクkunkakと呼んだが、この語は「女性性」あるいは「母性」を意味した[8]。最古の宗教芸術は、「伴侶を持たない太女神の姿 地上や天界に『父』が存在する以前の、新石器時代の『母』の像であった」[9]。父性の観念は、最も初期の 文明の宗教的・社会的思考とは異質のものであった[10]。
「『家庭と母親』は新石器時代の農耕のあらゆる面に現れている。……鋤や鍬を巧みに使ったのは女性であった。女性は穀物を栽培し、選択と交配という大業を成し遂げて、野生の品種を、収穫の多い、栄養分に富んだ、栽培に適した新種に変えた、最初に容器を作り、籠を編み、粘土を輪状に巻いて壼を作ったのも女性であった。……村という形式も、また女性の創造したものである。どのようなものであれ、村は若い者たちを世話し、養う住みかの集合であるからだ。村ができると、村の中で女性が子育てに費やす時間と、社会的な仕事を持たない時期がだんだん長くなって行った。そして女性が子育てに専念するのに依存して男性は多くの、より高度の発展を遂げる。家と村と、最終的には町だけが、女性に許された範囲となる。エジプトの象形文字では、「家」あるいは「町」が、個々の養育と集団的養育の類似性を立証するかのように、「母親」のシンボルとして表されることがあった。これと関連するが、原初の建築物(家、部屋、墓)は、ギリシア神話で語られた、アプロディーテーの乳房から型を取ったという最初の鉢と同じように、たいてい円形である」[11]。
古代文明は、文明がはぐくまれた母胎である母権制社会の存在を示す豊富な証拠を持っている。エジプト人は、「貴婦人Yから生まれたX」と言うように、父親の名前を省略し、母親を通して家柄をたどった[12]。エジプトの墓碑名には、母親の名前が記されているが、父親は省略されていた[13]。
ディオドロス(紀元前1世紀後半のギリシアの歴史家)は、エジプトの女王は王よりも尊敬されていた、と言っている[14]。ラムセス朝においては、母親となった女王は「強力な世界の女王」と呼びかけられた[15]。ファラオは母系の血統によって統治し、自らを「子宮から生まれた支配者」と命名した[16]。
太女神の名は、最も初期の王朝においてはつねに王の名の構成要素となっていた。ファラオの添え名は、本来はper aa(「大きな門」あるいは「大きな家」)であり、宇宙の子宮のシンボルであった。エジプトの隣国のヌビアの支配者たちは、さらに母親中心の、マーテル(「母」)という添え名を持っていた[17]。
エジプトの男性は、母親の行動様式を畏怖し、種族を維持するための行動を行なう女性に驚異の念を抱いた。紀元前1500年に書かれた金言は述べている。
「汝の母と、母が汝のために為したことを決して忘れるな。……母は重い荷として、汝を長い間その心臓の下にはぐくみ、月が満ちたとき、汝を生んだ。3年の長い年月、汝を肩にのせて運び、乳房を汝の口にふくませ、汝が長ずるに及んでも、母の心は『どうしてこのようなことをしなければならのか』と自ら問うことは決してないのだ」[18]。
エジプトの聖典は母に捧げるべき栄誉を強調している。「母は大いなる苦痛をもって、汝を生んだ。汝が書物によって知識を得るように、『教育の部屋』に入れた。汝の世話をゆるがせにせず、家の中には汝のためのパンと飲み物を用意した。汝が成長したとき、汝を生み、汝のために善きことをすべて整えてくれた母に目を向けよ。母に責められるようなことはしてはならない」[19]。
あるエチオピアの女性は、原初の母親の基本的な心理的態度について、フロベニウスに次のように説明している。
「女性の一生がどんなものか、男の方にどうしてわかりましょう。……男の方は女性と一夜をともにして、出て行かれます。男の方の生活と身体はいつでも同じです。女は妊娠します。母親となった女は、子どものない女とは別の人間です。9か月にわたる期間の結晶を、身体の中ではぐくみます。何かが生じます。何かが生じ、女の生活に入りこみ、もう決して離れて行くことはありません。彼女は母親なのです。子どもが死んでも、たとえ子どもがみんな死んでしまっても、彼女は母親ですし、いつまでも母親のままなのです。一度心臓の下に子どもを抱いてしまったら終わりです。子どもが心臓から出て行くことは決してないのです。子どもが死んでしまっても、です。こういうことを、男の方は少しも知りません。何も知らないのです。むつごとの前と後の違い、母親になる前と後の違いを知らないのです。何も知ることができないのです。女だけが、このことを知り、話すことができるのです。ですから、私たちは、夫にどうすべきか教わる必要がないのです」[20]。
古代イラン人の中では、氏族や家族の長は「祖母」hanaであった。メディア人の間では、系図は、女性の系統にもとづいて作られた。バビロンでは、「母」を表す表意文字は、ヒンズーの「家の女神」ghadevataのように、「家」と「神」の要素が結びついたものであった。呼びかけるときは、どんな場合でも、女性を先にした。上位から順に言うときは、「女神と神、女と男」で始まった[21]。バビロニアの法律では、「母親に対する罪、母親に対する拒絶は、いかなるものであろうと、共同体からの追放によって罰せられた」。
リュキア人(小アジア南西部)もまた、母系の祖先だけの系譜を持っていた。ヘラクリデス・ポンティコスは、リュキア人について、「古い昔より、彼らは女性によって統治されていた」と言っている[22]。フェニキア人はかなり後まで、人々が父親を知らず、母親の名を用いていたことを記している[23]。
エトルリアの墓碑名もまた、父親の名に無関心であった。結婚していた夫婦がともに埋葬されたとき、妻の名前だけが記された。のちのローマの文書は、この用法を逆転させ、夫の名を書いて、妻の名を省略した[24]。
しかしローマが建設される以前に、イタリアは、母権制社会であるサビー二ー人に統治されていて、王でさえも父の名を知らなかった。ロルムス(紀元前735年ローマを建設。王となった伝説上の人物)、アンカス・マルキウス(ローマの王)、セルヴィウス・トゥリウス(伝説上の古代ローマ第6代の王)は母親しかいなかった。実際、父性はギリシア・ローマ時代においてさえ、つねに注意を払われなかったのである。ローマの平民は父親を知らなかった。ロムルスとその臣下たちの神話が書きとめられたとき、ロムルスは、家臣をサビーニーの女性と結婚させた、と言われている。男性であるため、彼らは「種族の血」sanguis ac genusを持っていなかったからである[25]。このことは女性が土地の所有主であったからこそ、行われたのであった。
父権制社会の著作者たちは、ロムルスは初期のローマの氏族curiaeのそれぞれに、サビーニーの女性たちの名を与えた、と主張している[26]。この話は、これらのcuriaeが、母系による女性の祖先の名を持った「母性」氏族であるという事実を隠蔽するために作り出されたものであった[27]。すべての氏族の母親は、「天界の女王」ユノ・クリティスであった。ローマ人はユーノーを受け入れて、新しい夫としてユピテルを彼女に贈ったのである[28]。
北欧の未開部族の間では、女性が財産の所有者であり、氏族の長、宗教上の指導者であった。ローマの著作者たちは、北方諸国を、「女王」Kvaensに統治されている「女性の国」と呼んだ[29]。先史時代のアイルランドの女王は古い書物で言及されているが、女王の夫たちは名前を記されていない。ロンバルディア人は、彼らの祖先は、夫を持たなかった原初の処女神であるガンバラから出ていると主張した。異教時代のブリテン島とスカンジナヴィアでは、子どもたちは、父親ではなく、母親の名を名乗った。古いドイツの記録は、人々を母親の名のみで呼んでいる[30]。
これは極東でも同様であった。中国の姓は、「女」を意味する記号から作られている。この習慣は、人々が、父親ではなく母親しか知らなかった過去の時代から行われていたと言われる[31]。中国東北部の満州族は、聖なる女系氏族による世襲の女王統治制度を有していた[32]。中国の書物は、チベットを「女性の国」、日本を「女王の国」と呼んでいる。日本の天皇家は、世界の母である、至高の太陽女神「天照大神」の子孫であった。日本の伝説では、祖先であった部族の首長は普通は女性であった[33]。
中国人は、父性を理解して一夫一婦制の結婚を教えた最初の人は伏羲であったと言う。しかし伏羲には父親はなく母親しかいなかった[34]。
同様にギリシア神話における父性の最初の発見者は、アテーナーに仕える大祭司で、彼女のヘビ-夫の1人であるケクロプスである[35]。しかしアテナは、エーゲ文明の本女神、「宇宙の母」の名であり、青銅器時代に単独で統治し、至高権を持っていた女神であった[36]。エ一ゲ海全域において宗教的儀式は巫女の手によって行われていた。巫女は、のちの神が神格化された男性であるように、神格化された女性、すなわち女神から流れ出て、現実に女神となった者とみなされていた。かなりのちの時代になって、最初は巫女の助手として参加するまで、男性が公式の礼拝に出ることは許されなかった。男性の神は女性の神に従属していたのである[37]。
西欧においてもまた、太女神が唯一の全能の神と考えられていた。父性は氏族の中では、たとえ認められたとしても、たいそう脆い絆であって、宗教的思考に組み込まれることはなかった[38]。「太初、どこの国でも太女神は、神よりも古くから崇拝され、少なくとも優位にあった。ユーフラテス川からアドリア海に至るすべての国において、『主神』は初め女性の姿をとったことが認められている」[39]。
「家族の歴史に関する最近の研究によると、セム族のいた全地域で痕跡が認められる、神と、彼の(原文のまま)崇拝者との間の血縁関係を、最初の父性として認めることは、全く不可能に近い。セム族が最初に血縁の絆を形成するのは、母親の血であって、父親のそれではなかった。これは他の原初の人々の間でも、社会のこの段階においては同様であって、もし部族で神格化されているものが部族の始祖の親として考えられていたとすれば、その崇拝の対象は、当然、神ではなく、女神であったであろう」[40]。
近代の男性の学者は、しばしぱ古代母権制社会の証拠を隠し、あるいは否定しようとした。聖書を翻訳したときのように、可能なときはいつでも、太女神への言及を自動的に「神」という語に置き換えた。クモンのような信頼できる学者でさえ、シリアの太女神についてのアプレイウス(125P-Pローマの哲学者、風刺作家)の叙述omnipotens et omniparens(全能にして、すべてを生み出すもの)を翻訳するとき、叙述を曲解して、「地上を支配する神(原文のまま)の絶対無限なる権威の概念」とした[41]。
フランクフォートは、「すべての生命の根源が女性の中に見られるため」、メソポタミアにおいて、太女神は至高の存在であった、と言った。サッグズの言によると、女神は「新石器時代の宗教の中心的象徴」であった[42]。
エジプトでは、彼女は、「永遠にして無限の存在、天界、地上、冥界およびそれらのすべての生物とものを創造し、支配する力を持てる者……天界の女神、神々の女王たる『太女神』……原初の時代にテム(ラー)を育て、他の何ものも存在せぬ時代に存在し、現在存在しているものを創造せし者・・宇宙の万物を支配し、すべての神々を保護し、地上において最も大いなる力を持てる者・…・・生命を与える者『太女神』……過去・現在・未来のすべてであった」[43]。
世界と、世界に存在するすべてのものを創造したうえで、太女神はさらに文化的な技術を創った。農業、建築、織物、陶芸、文芸、詩、音楽、絵画、暦、数学である。これらの技術は、主として女性の手によって発達したものと考えられ母親の巣造り、相互の意志伝達、遊戯などを通じて生まれてきた。「女性は文明の根源となる要素の創造者である。……生活の実態やあらゆる芸術、あらゆる詩的感情を特徴づける豊かな認識と理解はすべて、女性の再生本能によって表徴され、女性にとって最も重要な関心事である、個を超えた、種族の繁栄を望む気持から放射されたものである。その放射の根源は種族に関して抱く女性の衝動にある」[44]。
ヒンズーの聖典は、女神がアルファベット、ピクトグラフ、曼陀羅その他の魔術的なしるしを発明し、そこから女神の添え名サミーナ(しるし、名前、イメージ)が生じたという。ヒンズー教の聖典プラーナは、女神が別の添え名サーヴィトリーの名のもとに、ヴェーダ、ラーガの旋律、昼と夜、年、月、季節、インチ、秒、その他の計測単位のすべてを生み出したと述べている。また、論理、文法、曜日、時、死、食物、記憶、勝利、宗教的儀式、時の三女神(過去・現在・未来)、そしてすべての神々を生み出した[45]。
太母神カーリー・マーとして、女神は聖なるサンスクリット文字を記した骸骨の首飾りを身につけた。この文字は彼女が発明し、魔法の力を付与したもので、サンスクリット語でものの名前を言うだけで、女神はそのものを創造することができた[46]。この概念が新プラトーン主義の、のちにはキリスト教の、創造的言語、つまりロゴスLogosとなったのである。
サンスクリット語のmatraは、ギリシア語のmeterと同じく、ともに「母親」と「計測」を意味した。数学mathematicsは派生語で、「母の知恵」を意味する。母性motherhoodの語源は多くの計算に関する語を生み出した。計量のmetri、求積法mensulation、配分するmete、精神mens、知能mentality、幾可学geo-metry、三角法trigono-metry、液量測定hydro-metryなどである。
プラーナ聖典によれば、女性は長い問、時を測り、空間的広がりを測って来たため、計測と造型にすぐれた技量を持っており、それ故に子どもを生むことができる、とかつて男性たちは考えていたという。男性は、もしこれらの女性の技量を会得すれば、彼らもまた子どもを生むことができる、と想像した。「男性の祖先」は、大地を測る方法を学びさえすれば、「楽しく子孫が作れる」のに、と互いに語り合った[47]。
中近東においても、数と文字は太女神が発明したもので、太女神の巫女が特別な関わりを持っていた、アッシュールバニパル(紀元前668P-626?)は誇らかに、自分は銘板を書く高貴な技術を習得した最初の王であると宣言した。この仕事はmaryanuと呼ばれた特別の書記に属するものであった[48]。エジプトでも同様に、書記に対する語はMaryen、あるいはMahir(「偉大なもの」あるいは「母親」)であった[49]。聖なるものの中でも最も神聖なバビロンの市の神殿には、子どもを生んだ女性以外は入ることを許されなかった。したがって、maryanuは本来は、セム族の女神マリ・アナ、あるいはイシュタル Ishtarとして知られる女神に奉仕していた母親たちであったと思われる[50]。
ヒッタイト人の間では「老女」として知られる巫女たちが、字を教え、記録を採り、王に忠告を与え、医術を行なった[51]。「運命の三女神」は3人の記述者Gulsesの姿をとって具現した。これは「記述する女性たち」Die Schreiberinnenと呼ばれるドイツの運命の女神、およびローマの運命の母神ファタ・スクリブンダ(「記述する運命の女神」)に相当するものである[52]。
古代ギリシア以前には、アルファベットは、原初の3人のミューズによって作られたと考えられていた。これらのミューズはギリシア人の名祖(なおや)となった運命の三女神すなわちグライアイと同一視された。
ラテン語のアルファベットは、魔力carmensの母である古代の女神カルメンタCarmentaによって作られた。あるいは、セヴィリアの聖イシドルス(576-630 セヴィリアの大司教、学者、歴史家)によれば、アルファベットは、「月母神」イオが、彼女のエジプト名、アセト〔イーシス〕の名のもとに作ったと言う[53]。
エジプト人は女神を、時の計測者、書物の家の女主人、建築術の家の女主人として、崇敬した[54]。建築術の創設者として、彼女はセシャト(建築家の測量の女神)と名づけられた。彼女は「来世の王の住居」であるピラミッドを建てた。また、アロンおよぴイスラエル人が崇拝した偶像として、聖書でよく知られている「金の仔ウシ」のヘル〔ホルス〕も作った[55]。
古代人は母性を、すぐれた知力、理性の力、魔術の知識と結びつけて考えていたため、父性を発見して、神をその象徴としたときでさえ、男性が母権制社会に対抗することはむずかしかった。父親が子どもから受ける尊敬は妊娠、出産、保育、扶養、日常の教育を行なう母親と比較すると、取るに足らないものであった。
『マカベア書』は、子どもに対する思いやりは、母親の方が父親より深い、と言っている[56]。『マハーニルヴァーナタントラ』Mahanivanatantraは、「母親は子どもを生み、また育てるのであるから、父親よりすぐれている」と言っている[57]。メナンドロス(紀元前342-291ギリシアの喜劇作家)は、「母親は、父親が愛すよりも深く子どもを愛している」と書いた[58]。したがって、子どもは父親よりも母親のもので、古いアイルランドの諺はこれを「仔ウシは母ウシのもの」To every cow belongs her calfと言っている[59]。マヌ法典は「子どもの尊敬を受け、子どもの教育者であるという点で、心の教師は俗事の教師に十倍まさり、父親は心の教師より百倍まさり、母親は父親より千倍すぐれている」と述べた[60]。
女性のすぐれた知能に関する古代の考え方を支えるものとして事実上の生物学的利点が挙げられるかもしれない。母親または将来の母親として、哺乳動物のメスは、オスよりも物事にただちに反応する敏捷さを必要とした。「女児は男児より成熟した技量を持ち、そのため、とくに他の人々から受ける刺激に対し、男児より早く正確に反応する傾向がある。女児は環境の必要とするものを分析し、予見するのにすぐれ、さらに、男児より言語能力がある。……なぜそうなのかはわからないが、知覚的で認識力があり話すことが上手なのが女児の特徴であり、そのために女児は大人の要求を理解し、見通すことができる」[61]。
現代の女性は次のように述べている。「子どもを生んで これは大仕事だった からは、すべてのことがそよ風の吹くようなものに思える。そして私たち女の何と多くの者が心の扉を閉ざしてしまうことか。女だけに与えられた自然の贈り物である、底知れぬ資源の海の表面を騒がすだけで、何ごともその水面の下まで入り込ませることはないのだ」[62]。
長い間、男性は女性に反対することを恐れて来た。女性は男性より緊密に自然の力と結びついている、と彼らは信じていたからである。西アフリカの部族は、「女性は男性より強力である。なぜならば神の神秘や秘事は、女性にだけ明かされているからだ」と証言している。エポ族の女性は呪術によって支配される社会を作ったが、男性が秘儀を学んでからは、もはや彼らは女性を秘儀に関与させようとはしなかった。クィーンズランドでも、男性が一度呪術を学ぶと、余りにも呪術に対する生来の素質がありすぎるという口実で、女性が呪術を行なうことを禁じた[63]。
北欧では、「母なる大地」と「女神フレイア」に率いられたヴァニル神族すなわち古い神々は、父なるオーディンに率いられた、。アジアから来た新しい父権制社会の神々、アサ神族によって価皮された。工一ゲ海では、父神ゼウスに従う者たちが古代ギリシア時代以前の母神レアー(ヘーラー)の崇拝者と戦った。バビロンでは、マルドゥックが母のティアマートに対して反乱を起こし、ティアマートは自分の息子に殺され、世界創造の職能を奪われた。メキシコでは、アステカの伝説上の指導者が、姉のマリナルホキトルを征服し、男性と動物の前支配者であった彼女は、のちには「悪い魔女」として物語られた[64]。
オーストラリアでは、マルム(「母親」)という名の女神が、女性に優位を与えたことを憤った男性たちによって悪魔とされた。彼女は女性を自らの像と同じに作り、「魔法の果実」(子孫)を、女性にだけ与えて、男性には与えなかった[65]。マレクラ島(南太平洋ニューヘブリディーズ諸島の1つ)では男性は、彼らの儀式が、女性たちから盗んだものであることを、率直に認めている。
女性は宗教儀式を創始したが、実際には行なわなくなっていた[66]。ティエラ・デル・フェゴ(南米南端の群島)の人々は、かつては女性が呪術で世界を支配していて、すべての宗教的秘儀は彼女たちの女神である月に捧げられていたと述べている[67]。男性が太陽神信仰を受け入れたとき、太陽神に率いられた男たちは、まだ秘儀に加入していない未成熟の少女だけを残して、部族の成人女性をすべて殺したのであった[68]。見えすいた嘘をつくイアトムルの伝説は、女性が聖なる対象と呪術の秘密を作り出し、それらを男性に「与え」、いかなる女性もこれ以上秘密を持たなくてすむように、自分たちを殺してほしいと、男性に「頼んだ」のだ、と述べた[69]。
同様の多くの例が、母権制社会の崩壊は、男性が女性に加えた激しい攻撃によるものとして神話化されたことを示している。女性から指導権をむりやり奪ったこのような神話は、世界中いたるところに見られ、決して見過ごすことはできない[70]。エンゲルスは「母権の敗北は世界の歴史における女性の没落であった」と記している[71]。
いくつかの点で、これは、基本的に平和な杜会秩序から、攻撃により確立され維持される階級的社会構造への全人類の没落を意味するものなのかもしれない。父権制社会は階級組織を強調し、母権制社会はより平等を目ざす傾向があった[72]。新石器時代の集落の文化は、母権制社会の家族に基盤を置いた政治形態を持ち、協力的で、争いを好まず、非暴力的であった。破壊的要素の不在は、相手を是認することから生まれる生命を愛する精神によるものであり、学者は、ほとんどの母権制社会の核心にこの精神を見出している[73]。
この是認の精神は、最近まで存在した母権制社会、あるいは半母権制社会においても見られた。女性原理を崇拝し、「女性の統治者」と呼ばれる真の指導者によって選ばれた部族の首長が支配するアメリカのインディアンは、白人より「キリスト教徒」的な行動をとり、キリスト教伝道者を驚かせた。ある伝道者は、「たいそう驚いたのは、外観は全く未開の人々が、やさしさと思いやりをもって互いを遇していたことであった。このような態度は、最も文明化された国の人々の間にも見られない」と述べている。
インディアンの女性は「国家の生命」、「大地の女主人」として知られていた[74]。女性に対するインディアンの崇敬の念を理解できなかった白人の質問者に答えて、あるインディアンは、「男性が女性の望みに従うのは当然だ。女性は我々の母親なのだから」と言った[75]。
ドブ島の人々のような攻撃的未開人でさえ、母性を・唯一の戦争を防ぐ手段とみなしていた。「母の乳」として知られる母系血縁関係のグループの間では、相互の信頼感がとくに強かった[76]。
女性が行動と道徳の基準に置かれた社会は一般に、男性支配の社会より親切であるとされていた。子どもたちは粗暴な罰も与えられずに育ち、当然のこととして人はみな親切だと考え、結果的に敵意を持たない、暴力を振るわない大人に成人した。嫉妬、貧欲、搾取は最小限度で、抑圧はほとんど行なわれず、犯罪の話もほとんど聞くことがなかった。
人々は概して人柄が良く、信頼され、また人を信頼した。女性は男性と同等に扱われた。性に対する態度も肯定的で、寛大だった。人々は、きびしい環境が生き残るための過酷な労働を要求するような場合でさえ、「母なる自然」が彼らの必要なものを用意してくれるという確信を持っているように見えた[77]。
男性に支配される社会は、過酷な罰を課す傾向があり、若考に敵意を持ち、競争心を起こさせ、性に関しては「やさしく愛情に満ちたものではなくて、加虐的要素を持ちがちであった。この中のいくつかは生物学的理由にもとづくものかもしれない。動物でも、メスは子どもの世話をし、オスはメスを求めて戦い、自分たちのことしか考えない。原初の女性は、自分より弱いものを『養い』育て、保護したが、彼女の配偶者である、恐ろしい野蛮な男たちは追跡し、殺すことしか知らなかった」[78]。
「新しく生まれた人類がまっすぐ立つことを学んだとき、母親をたいそう頼りにして保護を求めて母親のかたわらで立った。そのとき女性は女神であり、聖なる崇拝を司り,会議の席では女性の声が重んじられた。女性は愛され、崇敬され、家系は女性を通じて数えられた。何者がこのエーリュシオン(ギリシア神話で神々に愛された人が死後,幸福な生活を営んだ野)に乱入して、そこから自由と幸福を奪ったのか? それは人間の男たちである。人類が誕生し、年代がたつにつれて、道徳的感覚を犠牲にして合理性が栄えた。……人類の向上と繁栄に対する母親の貢献には一顧も与えずに、男性は自らを高みに押し上げ、支配力を与えてくれる人々から、あらゆるものを、貢ぎ物として奪うことのみを、全力を集中して考えて来た。……自己本位の情緒が奔放に荒れ狂うことが許された男の心には、自分に反対する人間を殺さずにおくことなど、蚊の命を惜しむほどの理由もないことだった。そして平均的な『正常な』男性の性格とても、比較考量してみれば、明らかに同じ方向に傾くのである」[79]。
バッハオーフェンは、「母性の観念はすべての人の間に普遍的兄弟愛の感覚を作り出したが、それは、父性の発達とともに消滅した」と述べている。古代社会は、母親の血で繋がれている者は、共通の霊魂を共有していると信じていた。したがって、この集団の一員は自分を傷つけることなしに、他の一員を損傷することはできなかった。
エジプトその他の国では、母親を同じくする子供たちと、父親を同じくする子供たちは、注意深く区別されていた。前者は「本当の」兄弟で、互いに自分のことのように世話をし合う義務があった。テレマコスが述べたように、「誰が自分の父親かは、教えて貰わなければわからないが、母親が『自分自身の』親であることは、すべての子供が知っている」のである[80]。
心理学者は、母親と父親のイメージが、精神にはさまざまな影響を与えることに同意を示している。結合の感情は母親と密接な関連があり、分離と疎隔は父親と関連がある。精神学的用語で言えば、自然の外的および内的世界と自己は、母権制杜会の秩序の下では切り離せないが、父権制社会は、両者の絶対的分離をあくまで主張する[81]。
過去の社会は母親のイメージの一時的な喪失に対してさえ恐れを抱いた。アプレイウスは、自己再生する季節が来て、女神が世界を去った期間のことを語っている。「どこにも快楽と喜びと楽しさは見られず、すべてのものは粗野で乱雑な状態に放っておかれ、夫婦の生活と真の友情と子どもたちへの親の愛は地上から消え失せてしまった。そこには、広大な無秩序と、激しい嫌悪の情と、すべての愛の絆に対する誤った無視があった」[82]。女神が永久に神話のイメージから消え去ったとき、疎外感は普遍的なものとなった。
「初期の新石器時代の秩序は、男性の上に女性があり、父親の上に広大無辺の母親があった。……王朝政治と父権制社会の成熟に伴っていたるところで、父親に味方し、母神の地位を引き下ろす動きが進むにつれて……至高の価値を持つシンボルから本質的に分離した感覚が、次第に、中東全域の特徴的宗教感情となって行った」[83]。
「教母(matrist)」社会と「教父(patrist)」社会に関するG・R・テイラーの分類は、前者が自信に満ちた見解を持つ社会であるのに対して、後者は犯罪、否定主義、恐怖の社会であることを明らかにした。「教母」社会は次のような特性を持っている。(1) 性に対する寛大な態度、(2) 女性の自由、(3) 高い女性の地位、(4) 貞節より幸福を評価、(5) 民主的政治原則、(6) 進歩的意見、(7) 自発性、外向性、(8) 最小限の性差別、(9) 快楽主義、快楽受容、(10) 母親崇拝。
教父社会は反対の傾向を示している。(1) 性に対する禁欲的態度、(2) 女性の拘束、(3) 女性蔑視、罪悪視、(4) 幸福より貞節尊重、(5) 権力主義的政治、(6) 保守的、改革反対、(7) 抑制、自発性への恐怖、(8) 最大限の性差別。例、服装の差別、(9) 快楽への恐怖、禁欲的自己否定、(10) 父親崇拝[84]。
「太母神」の崇拝者たちは、性愛を含むすべての「愛」の儀式を祝った。性愛はしばしばすべての愛のシンボルとされ、抱擁や乳房を吸うなど、母親と子どもの行動と同じ身振りや動作で、表現される。これに反して、「父神」の信奉者は神を恐れるよう命じられた(『申命記』6:13)。聖パウロは、神を恐れないものは、すなわちすべて罪人である、と宣言している(『ローマ人への手紙』3:18)。
キリスト教は、信奉者に多大の恐怖を与えたが、その恐怖には人間の想像力が考え出した最も加虐的なものである地獄と、神学考たちによれば、「ほとんどの」人間をその地獄へ永遠に引き渡す、宥和されることのない神が含まれていた。
しかし原初の「母神」は慰めと安らぎを与えた。エスキモーのシャーマンは、現在も母神を宇宙の霊魂と呼んでいる。決して姿を見せないが、その声は聞こえる。「やさしい、女性のような声で、たいそう美しく、穏やかで、子どもでさえ恐怖を抱くことはない。その声は、宇宙を恐れないようにと語りかける」[85]。
モンタギューは、母親のイメージは今もなお恐怖を和らげるのに使われる、と言う。「男性の防壁が崩れ落ちたとき、危機に陥ったとき、死に瀕したとき、男性の最後の言葉は、最初の言葉と同様に、おそらく『お母さん』であろう。そのとき彼は、母に対するかつての感情を取り戻す。彼はこれまでも母親を拒否したことは決してなかった。しかし表面的に母親から離れるように強制されていたのである」[86]。ユージン・オニールは、この秘められた渇望を、次のような劇的な言葉で表明した。
「男性の姿をとった神を創造したときに、誤りが始まった。……そのことが生を誤った方向に導き、死を不自然なものにしたのである。我々は、生を、『母なる神』の生みの苦しみの中から創造されたものとして考えなければならない。そうすれば、なぜ彼女の子どもである我々が、苦痛を受け継いだのかがわかる。我々の生命のリズムは、愛と出産の苦悩に引き裂かれた母の大きな心の鼓動であることを我々は知る。そして死は彼女との結合を意味し、彼女の本質、彼女の血そのもの、彼女の平和そのものへの回帰であることを、我々は感じるだろう。その胸は利己主義で高鳴り、疲れた人々には余りにもきびしく、全く慰めを与えようとしない男性の『神』を持つよりも、このほうがずっと論理的で満足すべきものではないだろうか」[87]。
カガバ・インディアンは、同様の感情を、彼らの女神を歌ったもっと素直な、しかし同等の力強さを持つ歌の中で表明した。
「歌の母よ。我々全ての種子の母が、太初に我々を生んだ。彼女は人類のすべての種族の母であり、すべての部族の母である。彼女は雷の母、川の母、木とあらゆるものの母である。彼女は歌と踊りの母。古くからの仲間である。石の母、穀物とすべてのものの母……彼女は踊りの道具とすべての神殿の母、そして我々の持つ唯一の母である。彼女は動物の母、唯一の母、さらに銀河の母である。洗礼を始めたのは女神自身だった。彼女は、我々に、石灰石のコカ皿を与えた。彼女は雨の母、我々の持つ唯一の母、彼女だけが万物の母、彼女だけ。そして母は、すべての神殿に記憶を残した。彼女の息子たち、救世主たちを残すとともに、彼女は記念に歌と踊りを残した」[88]。
心理学者はしばしば、黄金時代の普遍的神話を、子ども時代のシンポルとみなしている。しかし、プラトーンが黄金時代について記したとき、彼は同時代あるいはつい最近の出来事として、ギリシア人にはよく知られていた母権制社会から、明らかにいくつかの細部を借りたのであった。「そこでは野蛮な行為も、共食いもなければ、いかなる戦争も、仲間同士の裏切りもなかった。……統治機関もなければ、女性や子どもの個別所有もなかった。なぜならすべての人間は大地から再び生まれ返って、過去のことは何も記憶していないからである。したがって、私有財産や家族のようなものは存在しなかった」とプラトーンは述べている[89]。これは、調査の結果、新石器時代の農耕者たちによるかなり大きな共同体が発見されるまでは、プラトーンの想像の産物と考えられて来た。
「村民を不当に使ういかなる支配階級も、地方共同体が消費することを許されない余剰生産物を得るための強制労働も、怠惰な贅沢を求める趣味も、私有財産への嫉妬ぶかい要求も、権力への常軌を逸した欲望も、勢力拡張のための戦争も、そこにはなかった。学者たちは長い間、軽侮の念をもって、『黄金時代の神話』を斥けて来たが、現在問われなければならないのは、神話ではなくして、彼らの学識と言うべきである。
このような社会は、まさに、おそくとも最後の氷河期が終わる頃には存在し奔めたのであって、その時代には、長い迂程を経て、動物を家畜化し、植物を栽埠することに成功して、豊富で多様な食米1が供給できる、小規模の定住共同体が局立するにいたっていた。その共同体は、種々の余剰穀物を貯蔵しておく機能をもち、それが、若者たちに安心感と十分ち食糧を与えた。生活力の高まりは、明硯な生物学的見通しによって強化さホた」[90]。
紀元前7000年に母権制社会の共同体カあった、現在のトルコ南部のチャタル・ヒュユックにおいては、巫女は多くいたが、首長職や、敵対者がいたという証拠は何も発見されなかった。子どもたちは母親の墓に埋葬された。技術と手工芸が隆盛し、黒昭石の鏡、銅と鉛の装身具や工具、毛織物、芸術的彫刻を施した木製の器などを産出した。1500年間 アメリカ合衆国の存続の7倍にあたる長い期間 この共同体は、大量虐殺や戦争と無縁であったと思われる数百の遺体の骨が発見されたが、暴力による死のしるしは、何1つ見出せなかった[91]。
母権制社会のシュメール人は、3000年の問、「肥沃三日月地帯」(中近東地域)を支配していたが、戦争が行なわれたという記拠をほとんど残していない[92]。このような平和な社会の新石器時代の遺構が、ハッスーナ、テル・ハラフ、サマラ(イラク中剖アッバス王朝初期の首都)、ウバイドで発掘されている。これらの地域には神々は存在していなかった。聖なる図像には、子どもを抱いたり、乳を与えたりしている裸の女性が描かれているだけであった[93]。
父権制社会の宗教は次第に古代の母権制社会を、主として暴力によって駆逐した。しかし、一部の学者たちは、この変革が、満足すべきものでも、また最後のものでもないことを暗示している。表面的には息子に追い払われた「太母神」は、女性から生まれたすべての人間、つまり全人類、の精神のどこかに宿っている原型であって、完全に取り除くことはできないものである。強く否定すればするほど、女神のイメージは強迫観念となって現れる[94]。古代の神話が、無視された神性の烈しい怒りについて語るとき、それは単なる寓意ではなかったのである。
学者でさえも、明らかに母系の血統を示す祖先を意味する日常語に、注目を払おうとしない。たとえばforebears(祖先)はfore-bearers(以前子どもを生んだ者)の短縮形である。祖先は、extractionであるが、明らかに、引き出されたものと関連がある語である。同様にdescent(家系)は「子宮から下りたもの」である。原初の時代から、仕事や礼拝における協力と親睦をはぐくんだのは母性の精神であった。
「母性をトーテムとする氏族は、人問の集合体がとりうる、最も成功した形態であった まさに、唯一の成功例と言ってよいかもしれない。……多くの政治的組織、宗教的神権政治、国家、民族は、真の、そして完全な社会的連帯感を作り上げようと、空しい努力を続けて来た。これらは人工的な組織であって、社会的人間は、その存在を負うている原初的な絆を、他の適切な形態にうまく置き換えることに、かつて成功したためしはなかったのである」[95]。
中世のバラッドは、母親がすべての家庭内で究極的な権威となっていた異教徒の世界を描いている。バラッドの主人公ジョニー・コックが、母の助けを求め、母を通じて女神の助けを求めたように、息子は危機の際に、父親ではなく、母親に訴える。しかしキリスト教は、女神と女神の神殿の破壊に専念した(『使徒行法』19:27)。アレクサンドリアのクレメンス(150-215。ギリシアの神学者、著述家)はキリストの言葉を引用して、「わたしは女の仕事を破壊しに来た」と言った[96]。キリストは、信奉者に、彼らの家族を捨てるように言い(『ルカによる福音書』14:26)、キリスト自身の母に向かって、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」と言っている(『ヨハネによる福音書』2:4)。教会の教父は、母性に対する痛罵を記した[97]。西欧の宗教は、結果的には男性に支配された権力指向を実践する場となったのである[98]。
多くの男性の学者は、「女神」は決して存在しなかった、たとえ存在したとしても、性的混乱や(あるいは)豊穣と漠然と結びつけられた「信仰」上の像にすぎない、と偽りの主張を今もなお試みている。「母神」に対する宗教的感情は、むしろ、神である族長に対する感情よりもはるかに深く、はるかに情熱的であったことは認められていない。神性を持つものは女神も男神もともに神godsと呼ばれた。明らかに垂れ下がる乳房をもった聖なる人物を描いたエジプトの宗教芸術が、「神」godsの画であると説明されている[99]。
学者たちは、原初の存在は、創造神ではなく、創造女神であった、と記してある古文書を引用することを、注意深く避けて来た。「太母神」は古代社会の中心的統合理念であったが、彼女が古代史の書物で言及されることはない。先史時代の母権制社会の証拠に対して、学考たちは激しく否認し、そのため、彼らの目は偏見によって、しばしば盲目となるのではないかと疑いたくなるほどである。それは、父権制社会の文化の信奉者が、その文化に妨げられて他のいかなる異なった見解をも理解できないのと全く同じである[100]。
フロイトは女性の価値に対して無知であったため、人間の最も基本的な絆を理解することができなかった。彼は、おそらく母と子の絆に付与すべきであった第1位の重要性を、性欲に与えた。フロイトは、30年にわたる研究の末、女性が真に欲しているものは何かをついに知ることができなかったことを認めた。 その理由は、もちろん、すべての女性が欲しているものはペニスであるとあらかじめ思い込んでしまったことにある[101]。彼は極端に走り、母親が子どもを愛するのは、ひとえに子どもが彼女にとってペニスの代替物であるからだと想像しさえした。
「フロイトのこの洞察が誤っていた理由は、現在では明らかとなっている。白己成長の過程の分析において、彼は、家族の構成メンバーである母親の肯定的影響を考慮に入れなかったのだ。むしろ、人格の中に占める父親の規律、ユピテル的、権力指向的、抑圧的、組織的要素を過度に強調しすぎて、生命を与える天分、寛いだ柔軟な態度、生命を伝え、生命を育てる役目を持つ母親の機能を過小評価した。すなわち母親の思いやりと責任感、嬰児への授乳、言葉によって『わたし一おまえ』の親密な問柄を確立しようとする懸命な努力、愛を表現する限りない手段を、過小評価したのである」[102]。
キリスト教の女性蔑視の考え方に、フロイト流男根中心主義が加わると、問題家庭によく見られる共通のパターンとなる。ソシアルワーカーが述べているように、このパターンは一向に後を断たない傾向にある。
「そこには、つねに、情緒的支持を与えまいとする夫と、自分は価値のある人問だという感情を持つことができない、不幸な妻がいた」[103]。マンフォードは、母親蔑視によって子どもたちは男女ともに、生気に満ちた生活体験から切り離された状態におかれることを指摘している。この生気に満ちた生活体験こそ将来、社会的状況の下に協力機関に参加するための基盤となるものであるのだ。「人格の中の、母となり子どもを育てるという衝動を抑圧することによって、科学者もまた、未来の生活に対する正常な、親としての関心を失っている。その関心によって未来ははぐくまれるものなのに。この態度を、無知と言うべきか、運命忍従と言うべきか、誰も断定はできない。しかしこうした態度によっては、成熟に到達し得ないことは確かである」[104]。
ギルダーの学説によれば、男性のほとんどは、女性との親密な関係を通じて未来感覚と活力的に結合することによって、初めて心理的成熟に達しうる、という。女性は、「彼女の性そのものの一部として」未来の感覚を持っている。つまり、進化と成長の感覚、将来得るもののために楽しみをとっておく考え方、生命の相と季節の感覚、個々の人間の価値に対する信頼である。これらの感情は、人間の道徳の根源そのものなのだ」[105]。
実際、これらは明らかに母権制社会の宗教の持つ輪廻観、未来指向の人生観の中で形成される感情である。こうした宗教は、人生の無限の「意味」を神経症的に探求することとは無縁である。なぜなら、人生はそれ自体正当化される必要があるという考え方を、母権制社会の宗教は決してしないからだ。それらはまた、父権制社会の宗教が課した不安、過ち、罪の意識とも無関係である。その父権制社会の宗教は、男性の威嚇と支配に基盤を置く社会秩序によって、幼少の頃から不安感を抱いて育った男性の手で発展して来たものであった。
力は正義であるという道徳律は、直線的、階級社会的な男性の神学体系の典型であった。女性の道徳律は、人類をまず何よりも文明人たらしめる緊密な協調精神を育成し、より微妙な、より肯定的なものであったように思える。
男性にとって基本的に必要なのは、女性的なものの価値を認め、見習うことであるにもかかわらず、父権制社会は、別の方向に向かって組織されているように思える。女性は男性の価値を認めることによって個人としての価値感覚を得るように強制されている。母親としての価値ある地位を喜んで望む代わりに、多くの女性は、いまだに父権制社会の家族の「奥」にいながら、母親であることを、無価値と考えるように教えられているのである。
「出世階段を昇って行く有能な女性の経歴は、いずれも父親から娘への贈り物のように見える。男性の罪の意識を和らげる手段として、父親が、妻には故意に拒んだ仕事へと娘を駆り立てる場合もあるだろう。あるいは、男性の虚栄心を満足させるため、女は無価値だという危険な感情を娘の心の中に起こさせ、そのために、男のような生き方だけが彼女を納得させるものとなったのかもしれない。しかし、娘はつねに、母親の自我が父親の手によって損われるのを見て、我がことのように傷つくのである。彼女は母親の立場に深い同情を示すか、あるいは、『パパの言うなりになっているママ』を軽蔑し、ときには同情と軽蔑の混じった感情を抱くが、きまって、『ママの人生をそっくりそのまま、もう一度生きる』ということにほとんど病的な恐怖を感じながら、成長するのである」[106]。
ブリフォールトその他の学者たちは、母親の役割の過小評価は、女性同様男性にも害を及ぼすと考えた。「男性は『父権制社会の原則』のほとんどを捨て去るべきである。女性は、価値ある民族の理想はすべて、究極的には女性の自然の本能と一致しており、またその本能から生じたものであることを、知るべきだ。……男女両性間の関係の基準となるべき妥協案は、人問の真の価値を規定するような案である。……古代においてそうであったように、『聖なる火』を守るのは、『ウェスタ神殿の母親たち』の役割である。男性への経済的依存をなげうつばかりでなく、女性自らがその生みの母である最も深奥なる現実を、束縛から解き放つ仕事が女性の肩にかかっている」[107]。
ブッダでさえ、『スッタニパータ』(ブッダのことば)第1章8「慈愛」において基本的母親の像に帰着した。「母が子を、己(おの)がひとり子を、生命を賭けてまで、守り愛するように、人は、全世界に対して、上に、下に、また横に、あまねく、惜しみなく、争いの心や敵意を交じえずに、無量の慈愛の心を起こすよう心掛けるべきである。この精神の状態が、この世で最善のものである」[108]。しかし、「母親」という手本なくしては、いかなる者もこの境地に達することはできないのである。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)