ヒンズー教のデヴァダシスdevadasis(寺院娼婦)のように、古代の中東の神殿では、娼婦-巫女が女神の恵みを分け与えた。彼女たちは美と善意の比類ない結びつき( カリス charis、ラテン語のcaritas)に関わっていたため、しばしばカリスたち、あるいは美の女神たちとして知られていた。charisはのちに「慈善」charityと訳されるようになる。実際にはカリスは、母の愛、優しさ、慰め、神秘的啓示、そして性交、がすべて一体となったヒンズー教の慈悲karunaと同様のものであった。
ヘシオドスは聖なる娼婦たち、すなわちホーラたちの官能的な魔術は「男性の行動を熟させる」と言っている[1]。バビロンの偉大なる娼婦イシュタルは告げた。「思いやり深き娼婦、それが私である」[2]。マグダラのマリアは、売春をしている彼女の姉妹について言った。「私たちは姉妹たちに思いやり深いばかりでなく、全人類に対して思いやり深いのです」[3]。
「娼婦たちの母」として、イシュタルは「太母神ハルHAR」と呼ばれた。彼女に仕える女大祭司ハリーヌHarineは、「イシュタルの都市」の霊的支配者であった[4]。HARはペルシア語のhouriとギリシア語のHoraと同語源である。また以前は「女性の神殿」あるいは聖所を意味したharemの語源でもある[5]。聖所の意味は、かつてはseraglio(後宮)にも付せられていた。seraglioはセム語のserai(王妃の神殿)から派生した語である。
古代の娼婦はしばしば高い社会的地位を占め、彼女たちの持つ学識は尊敬を受けていた[6]。パレスティナにおいてカデシェト(偉大なる娼婦)と呼ばれた天界の女王の化身のように、娼婦はギリシアと小アジアのミノア島の学問の中心地において、女王のように崇敬された[7]。実際に女王になった者さえあった。ユスティニアヌス帝の妻であるテオドラ皇后は、最初は神殿娼婦であり[8]、コンスタンティヌス帝の母である聖ヘレナは、皇后-聖人になる前は娼婦であった[9]。
エジプトの物語では、ブバスティスのある巫女は、彼女の愛の一夜の代償として、男の現世の財産すべてを要求した。彼女は「私は神に捧げられた奴隷である。すなわち私は人間ではない」と言った[10]。最近までエジプトには「神聖娼婦」ghazyeと呼ばれた階級があった。ghazyeはマルムーク王朝(1250-1517)の時代には大いに尊敬され、奉仕の期間が終わると花嫁として重んじられた[11]。
神殿娼婦は病気を治癒する者として崇められた。彼女たちの分泌物そのものが医療的効力があると考えられた。スーウィー教徒の「女性の膣には治癒力がある」という諺は今もなおこの考え方を暗示している[12]。彼女たちの唾液でさえ病気を治すことができた。イエスが唾液で盲人を治す話(『マルコによる福音書』第8章 23節)は、母権制社会の伝承を模倣したものである。ニネヴェ(古代アッシリアの首都)から出土した粘土の銘板は、眼の病気が娼婦の唾液で治ることを示している[13]。娼婦はまた魔術師、預言者、占い師であった。ヘブライ語のzonahは、娼婦と女予言者の両方を意味する語である[14]。
霊を持つ女性としても知られ、多くの男性と交わった日本の巫女-シャーマンは、「聖なる母たち」と呼ばれていた。彼女たちは神の花嫁となって神殿に入り、神の霊の乗り移った神主とともに横たわった[15]。同様の慣習は、天界のみだらなニンフを模倣したインドの寺院娼婦デヴァダシスdevadasisの特徴となっていた。
娼婦という職業は一般的な職業であった。エリュクス、コリント、キュプロスその他の地にあるアプロディーテーの神殿には1000人の神殿娼婦が仕えていた[16]。古代ギリシア人が妻を召使いの地位にまで引き下ろしたとき、高等娼婦hetairaiは法的にも政治的にも男性と同等の地位にとどまった。ローマの貴族で最も身分の高い女性は、啓示が必要なとき、ユノ・ソスピタの神殿で、自ら娼婦となった[17]。バビロニアの女性はみな、結婚前に神殿で娼婦となった[18]。
アモリ人の聖なる法律によると、「結婚しようとする女性は、情交を行うために、(神殿の)門のそばに7日間座っていなければならなかった」[19]。このような法律は女神を宥めるためのものと考えられた。正式の結婚が行われず、子どもが自分の父親を知らなかった時代には、女神は一夫一妻制を喜ばなかったからである[20]。ギリシア神話では、太女神は、天界の父ゼウスに一夫一妻制を禁じ、自らが行った古代の集団婚が唯一正しい方法であるとした[21]。
神殿娼婦に対するタントラの語はヴェシュアVeshyaであり、おそらくギリシアとローマの女神の最も古い名、「かまどの女神」ヘスティアーあるいはウェスタの語源と思われる。女神ウェスタは、本来は娼婦-巫女である「ウェスタの乙女たち」によって奉仕されていた[22]。「かまど」Hearthと「大地」Earthは、ともに、北方のヘスティアー-ウェスタであるサクソンの女神エルタErthaあるいはヘルタHearthaに由来する語である。母権制社会の時代には、それぞれの女性のかまどの火が、女性の祭壇となった[23]。かまどはまたへそであり、女性にとっての宇宙の中心、神殿の中心にあるへそ石を意味し、その周囲をまわって、神殿娼婦たちが「時の踊り」を踊った。
踊る娼婦たちは「時間」Hoursと呼ばれるようになった。ペルシア語ではhouri(天女)、ギリシア語ではhorai(ホーラたち)である。エジプトの神殿娼婦もまた「時間を司る女性たち」であった。それぞれが夜の一定の時間を支配し、ラーが冥界で彼女たちの支配する時間内を通過する間、ラーの乗る太陽の舟を保護した[24]。「時間の踊り」は、ホーラたち(聖なる「娼婦」たち)の異教の儀式として始まった。ホーラたちは、キリスト教の修道士が後に昼間の時刻を祈祷によって保持したように、夜の時刻を踊りによって保持した。ヘブライ人の最も古い伝統的なフォーク・ダンスは、今でもなお、神殿娼婦の輪踊りに由来してhoraと呼ばれている。ホーラたちはまた天界の門を守護し、祝福された者の霊魂の世話をし、天界の球層を回転させた[25]。Houri.
ヘブライ語のhorfは窪み、洞穴、穴を意味し、神聖娼婦と、彼女たちが仕える女神の両方をともに意味する語であった。彼女たちの女陰が、神殿の中央にある窪み、洞穴、穴あるいは水たまりで表されるからである[26]。
同じ語のラテン語はputeus(井戸あるいは穴)で、スペイン語のputa(娼婦)の語源である。ローマ人は一般の人々をputiculi(穴)に埋葬したが、これは、すべての墓と同じく、再生の子宮を表していた[27]。共通の語根の語として、ヴェーダのputa(神聖)と、アヴェスタ語〔古代東部インドで用いられた語〕のputika(生誕の水の神秘的な湖)があった[28]。「湖の女神」は、ユーラシア大陸一帯の、太女神の添え名であった。アラム語〔紀元前300年から後650年にかけて用いられたアジア南西部の共通語〕で、太女神の神殿はAthra gaddisa(聖なる場所)と呼ばれたが、字義的には、「天界の娼婦の住む所」あるいは生殖器の穴、あるいは湖を意味した[29]。
「水に飛び込むことは、マーヤーの神秘の探索である、生命の神秘を探究することである。……宇宙の水は万物の汚れなき根源であり、同時に恐ろしい墓である」[30]。アジア全域で、水は女性的要素とされ、創造の根源、ストア哲学の説くアルケーarche(始源)であった。このような意味を持つ水に飛び込むことは性交のシンボルであり、こうして聖なる娼婦と交わった男性はhorasisと呼ばれる霊的啓示を実感することができた。この語は新約聖書に出てくるが(『使徒行伝』第2章 17節)、まぎらわしく「幻」visionsと訳されている[31]。
セム族の1氏族である『創世記』第36章の「ホリびと」は、その家系をたどれば「ホーラ」としての太女神から出ていた[32]。ユダヤの民にはヨシュア王(紀元前640?-609?)の時代に祭祀娼婦がいて、彼女たちは神殿の隣に住み、聖なる木立のために掛け幕を織った(『列王紀下』第23章 7節)。聖書の現代訳は「神殿男娼」sodomitesと呼んでいるが、本来の言い回しは神殿娼婦を意味していた[33]。このような神殿娼婦はしばしば、「神の息子」すなわち予言者や、時には生贄の犠牲として捧げられる者を生むために、隔離されていた[34]。
神聖娼婦は「乙女」と呼ばれたが、それは未婚のまますごしたからであった。Virgin. 中世の修道女のように、彼女たちは自分たちの職務のしるしとしてヴェールをつけた。イシュタル-アシュラ-マリ-アナテは、「偉大なる娼婦」のみならず、「偉大なる処女」(kadesha聖なる者)であった。女神のギリシアにおける名はアテナであり、彼女もまた「処女」(パルテニア)として記述されている。しかしアテナの神殿であるパルテノンは、女神の他のすべての神殿と同様に、神に捧げられた、乱交を行う奴隷たちによって奉仕されていた。
後の神話は、みだらな豊穣の女神の永遠なる「処女性」を、海の水に浸かる洗礼や聖なる泉での年に1度の水浴などの、定期的に行われる処女膜再生の儀式によって正当化した。太女神ヘーラーの処女性は、年ごとにナウプリア〔ペロポンネソス半島のアルゴスに近い古代の都市で、ヘーラーの聖なる泉カナトスの所在地〕にあるカナトスの泉に身を浸すことで再生された。この神話は、女神の像を水に浸す儀式に基づく、とパウサニアースは述べている[35]。
娼婦は異教思想の中で重要な位置を占めているため、キリスト教徒は彼女たちの職業を卑しんだ。教会側の人々は、売春をすべて消し去ることは望まずに、その霊的な意味だけを削除した。聖クリュソストモス(347?-407)は、娼婦から「彼女たちに与えられている名誉」を剥奪したことにより、コンスタンティノープルの総大司教から高い称賛を得た[36]。天界の三女神ホーラたちは、ともに殉教した3人の乙女の聖人、アガペー、キオニア、エイレーネー(「愛餐」、「キオスの乙女」、「平和」)として、伝説上の処女となった[37]。本物のホーラたちは、もはや神殿ならぬホーラの家hora-house(娼家)へ追いやられた。娼家の伝統的な赤い灯火は、血のように赤く塗った直立した男根のサインを掲げていた、ローマの「ウェヌス〔ヴィーナス〕に仕える巫女たち」veneriiの家に由来する[38]。
中世のゲルマンの法律は、全財産没収という規定によって、人々がホルグhorgrを建てたり、自分の家をホルグと呼ぶことを禁じた。horgrは異教の神殿、すなわち「聖娼」の家を意味し、そこで巫女たちが古い宗教を実践していたからである。アイスランドのホルグショルトHorgsholtのような地名は、現在もなお古代の神殿を意味している[39]。
西暦1000年に、アイスランド人はせめて名前だけのキリスト教徒になることに同意し、洗礼を受けた。しかし望む者は従来どおり、horgrと呼ばれた個人的な家で、彼らの祖先の儀式を行うことを合法的に許された。これは教会が寛容な約束を撤回するまで、しばらくの間続けられた[40]。もっと以前の時代には、horgrは、mons-veneris(恥丘)あるいは聖なる木立にあるオムパロス(へそ)を意味していたようである[41]。
ときには代わりにhus(家)という語が、「崇拝の場所」として、同様の意味を持った。家母長はみな、かつては自分たちのかまどの女神を崇拝しており、そのかまどを自分の夫hus-bandだけでなく、他の多くの男性とも分け合ったからである。ここからhussyという語が派生した。「家の女神」の意であるが、キリスト教の定義によれば、多淫な女性をさす[42]。
乱交は、ミンネ(愛)という新しい添え名を持つ女神を崇拝する吟遊詩人minnesingerによって、嘆かれるよりはむしろ進んで高く評価された。吟遊詩人たちは、彼らの女神ミンネを堕しめるものとして、商業化された売春には反対であった。「あらゆる心の女王、何ものにも縛られずに生まれた唯一無二の愛が競売されるのだ! 我々男性が女性を征服するということは、女性に何という恥ずべき貢ぎ物を要求するものか! 我々は、苦々しい思いで、嘘で、そして欺瞞で、『愛』を求め、それから女性の身体と心の喜びを期待する。しかしその代償として、彼女が受け取るのは、苦痛と、堕落と、悪の果実と、枯死する病でしかない 彼女の土に種がまかれた結果として」[43]。
しかし神学者は商業的売春を、トマス・アクィナス(1225?-74)の矛盾した表現を用いれば、「法に触れない不道徳」として認めた。アクィナスは、売春は男性が互いに男色に耽るのを防止するために必要である言った。「売春を世界から取り去ってみるがよい。そうすれば、いたるところで男色が行われるだろう」と彼は言った[44]。売春によって男性は、誰とでも性交を行う女性を堕落した者とみなすようになった。しかし、彼女たちは同じく誰とでも性交を行う顧客は、衝動に負けた、弱い犠牲者と思われたのであった。ほとんどの娼婦が、いかなる男性の性欲よりも強く、そしてより説得力のある衝動、つまり生きるための資金を稼ぐ必要にかられて行動したという真実は、まったく認識されなかった。それは安易な生活ではなかった。運がよくても娼婦は、自らが見知らぬ男の卑しい召使いとなるよう強いられた。悪いときには、客の責め苦に苦しむ犠牲者となることもあり得た[45]。
神学者の意見に反対する一部の著作者たちは、娼婦は喜んで他の人に親切を尽くすのであるから、人々の尊敬を受けるべきだと主張した。ロレンゾ・ヴァラ〔1407-57。イタリアの人文主義者、批評家〕が15世紀に書いた『快楽について』De Voluptaeは、ホラティウスの「快楽はすべて善である」Omnia voluptas bonas estをそのまま挙げて、古代の風習への復帰を求めた。ヴァラは記している。「娼婦や売春婦は、貞節と純潔をそなえた修道女よりも人類にふさわしい」[46]。もちろんこのような意見は優勢ではなかった。2世紀後、英国の徒弟たちは売春宿に乱入し、娼婦を殴打して、「聖灰水曜日の前日」Shrove Tuesdayを祝った。英国ではまた、男たちが、彼らが贔屓にしている娼婦のひざの腱を切って「罰する」のが習慣となった。ひざの腱を切られた女性は、一生不自由な足で歩いた[47]。金持ちに囲われた女性たちを纏足によってよく歩けなくする中国の習慣を思い出す者もあろう。
禁欲主義のために、かえって驚くほど暴力的な性的幻想をいだいている神の代弁者たちによれば、神は、地上で男たちが罰するより厳しく、地獄で娼婦を罰するという[48]。修道士たちは、世俗的な生活を剥奪され抑圧された結果、性的行動を楽しんでいると思われる現世的生活を送る人々に、ひそかな羨望と強烈な嫌悪感を持った[49]。その嫌悪感は地獄についての多くの不快な幻想に捌け口を見出した。1622年にリェツの司教座聖堂参事会員であったフランソワ・アルヌー師はそのよい例である。
「そしてふしだらな女たちだが、これらの女たちは最も残酷な、火の焔を吐くドラゴンをその腕に抱かせられる。ドラゴンは、女たちの足と腿に蛇のような尾を巻きつけて縛り、その残酷な鈎爪を突き立てて、全身にかみつくであろう。またよだれを垂らし、ひどい悪臭のする口を女たちの口に押しつけ、その中に火と硫黄と劇薬と毒液の入り交じった焔を吹き込む。そして鼻疸にかかったぞっとする鼻から、悪臭を放ち毒を含んだ息を吐きかけるだろう。……このドラゴンは女たちの腹部に、一千の苦悩、一千の疝痛、ねじれるような激しい痛みを味わわせる。呪われた者たちはみな苦痛にうめき声をあげ、悪魔たちはそれに和してわめき立てる。『ふしだらな女を見よ! 売春婦を見よ! たっぷり責め苦に苦しむがよい! それ、それ、悪魔ども! それ、デーモンども! それ、地獄の怨霊ども! 娼婦を見よ! 売春婦を見よ! この娼婦に飛びかかり、できるかぎりの責め苦を与えよ!』」[50]。
カストリア〔古代のケレトルム。ギリシアのマケドニアの都市、州〕にある洗礼者聖ヨハネ教会の女性用の区画の壁には、娼婦に下された神の罰を示す絵が描かれていた。地獄で縛られている女性が、2人のデーモンに足を広げさせられ、第3のデーモンが彼女の膣に赤く熱した鏝をつきさしている。性を売り物にしたために罰せられたその女性の隣には、「むなしく媚びを売る女」という札を貼られたもうひとりの女性が、性を売り物にできなかったという理由で、同様の罰を受けていた[51]。この教会に詣でた女性たちは、性を利用したら地獄に堕ちると、それぞれ都合のよいように考えて、神の許しを得たのかもしれない。
教会側の人々は職業的売春婦と、恋人と愛し合う女性との間に区別をつけなかった。両方とも「娼婦」であった。父権制社会の道徳を代表する意見は、女性は男性を求めたり、選択する権利を持つべきではない、というものであった。女性にとって情熱的に恋をするということは、中世の教会のもとでは悲劇となった。数時間の愛のしのび逢いの代償は、女性と、その愛人の両方に永遠の苦悩を負わせた[52]。グリューネワルド〔ドイツの画家、建築家。1470-1528〕の絵「恋人の断罪」はこの考え方の核心を説明している。地獄でやせ細って生ける屍となった、一組の罪深い恋人たちが描かれ、彼らの肉体には蛆虫が穴を掘り、女性の頭にはとぐろを巻いた蛇が冠のように乗り、生殖器をヒキガエルがかじっている。15世紀に描かれた聖アウグスティヌスの『神の都市について』De Civitate Deiの挿し絵によれば、恋人たちは地獄でいっしょに焼き串に刺され、悪魔の扇ぐ石炭の火で炙られている[53]。
性の喜びに対してこのような身の毛のよだつ刑罰を心に描く西欧の宗教を考えてみれば、総体的に言って、西欧の文明が、あらゆる形式の愉しみを破壊しようとする病的な衝動にとらわれているのを知っても、驚くにはあたらないことである[54]。
しかし、キリスト教の天国においてさえも、娼婦は、ウェヌス〔ヴィーナス〕やメレトリクスのような異教時代のローマの娼婦-女神を模倣した特別の保護者を持っていた。カトリックの公式の娼婦の保護聖人は、聖アフラ、聖アプロディーテー、そして聖モードリン(マグダラ)であり、女神の以前の添え名を単に列聖したものである[55]。娼婦たちの第一の保護者は聖母マリアであった。アントワープでは今世紀にいたるまで、売春婦たちが数日間、年ごとの祭りを行って、教会まで行進し、特別に彼女たちの神と呼んでいる聖母に蝋燭を捧げた[56]。
中世にしばしば語られた話によると、修道女が修道院から抜け出して、数日間売春婦として生活しようと決心したとき、聖母マリアは迷える修道女の姿となって修道院で代わりを勤め、そのために彼女は失踪を発見されず、追跡されなかったという[57]。この話のドイツ版では、修道女のベアトリクスは修道院を出て、異教徒の恋人と15年間暮らした。再び修道院にもどったときに、彼女は、聖母マリアがその間じゅう彼女の代役としてお勤めを行っていたのを知ったという[58]。
中世の売春宿は、必ずしも女子修道院と明確に区別されてはいなかった。異教の巫女たちの集団であるcollegiaの痕跡が両方の組織にまつわりついていた。ひとつの共同体の中で男性と女性がともに住む初期の「共同修道院」は、ときには神聖な売春婦の宿となった。数人の教皇はローマに「聖なる売春宿」を持っていた。ナポリ王妃ジョアンナは、ローマ教皇庁があった(1307-99)アヴィニヨンの町に、「大修道院長」という名の娼婦たちの宗教的な家を建てた。ヴィクトリア朝時代には、歴史的な先例は忘れ去られたが、娼婦の女主人を、「尼僧院長」と呼ぶ習慣は、一般的なものとしてまだ残っていた[59]。Mary Magdalene.
ユダヤ=キリスト教の伝承を別にすれば、売春はしばしば、まったく合法的な生活形態となっていた。アフリカの黒人が、この問題についても宣教師の意見を全面的に受け容れたことは決してなかった。白人の法律は、アフリカの女性から、彼女たちが子どもを養う手段としていた財産と、農耕、貿易、工芸の独占権を奪った。アフリカの女性は自尊心の壊滅的な喪失に苦しんだ。彼女たちの社会においては、自分の収入を持たない女性は軽蔑のまなざしで見られたからである。白人が彼女たちの性的魅力に代価を支払うことを知って、多くのアフリカの女性は、彼女たちに遺された最後の手段として売春を始めた。アフリカ人は今もなお、成功した売春婦を罪を犯した者とみなすよりは、むしろ仕事に従事している有能な女性実業家として考えている[60]。
これとは対照的に、キリスト教社会においては、女性の売春を経歴として公然と認めざるを得ないような社会状況にいたることはほとんどなかった。しかし多少なりとも考えをめぐらせば、多くの若い娘たちが売春に「堕ちて」ゆくという事実がそこには存在した。18世紀のロンドンには、当時の小冊子によれば、売春によって生きてゆこうともがく少女たちが群をなしていた。その小冊子は次のように非難を浴びせている。「最も厳しい季節には、小さな者たちは互いに重なり合い、山となって公道で眠っている。その中の何人かは、男たちの半ズボンの腰のベルトにすら背が届かないほどなのに、妊娠していて、小教区の厄介者になっている」。これらの少女たちに同情するどころか、小冊子の作者は、彼女たちを邪な娼婦と呼び、「不用意な者に罠を仕掛ける途方もない『罪悪』であり、多くの若い純潔な紳士の魂と肉体をともに破滅させる手段となる」と述べている[61]。
当時の用語によれば、wenchは男女両方の子どもを意味した。ドライデンは、「ふんだんに食べ、飲み、遊ぶ(wench)」ものとして紳士を描いているが、この叙述は明らかに、街路で家のない少年または少女を拾い、特異な性の遊び相手をさせる男を意味した。のちにWenchは単に、紳士の性の要求にこたえる下級階層の女性、召使い、あるいは農婦を意味する語となった[62]。
19世紀までに、14歳以下の数千人の少女が英国の警察記録に「一般娼婦」として記載された。1860年ロンドンには13歳以下は少なくとも500人、16歳以下は1500人を上回る数の登録された娼婦がいた。ヴィクトリア朝時代の紳士は子どもの純潔を奪う趣味があり、少女たちは娼家で最も高い代価を要求した。経験を積んだ子どもの娼婦は、初めて処女を奪われる者の叫びと抵抗をまねるように、また、処女の確証となる出血を起こさせるために、膣に蛭やガラスの破片を入れておくよう仕込まれた[63]。
ジョセフィン・バトラーは英国における売春組織の調査を行い、その結果、「承諾年齢」〔結婚・性交などに対する承諾が有効と認められる年齢〕は法律によって14歳まで引き上げられた。しかし、それでもなおさらに年少の多くの少女たちが誘拐され、売春宿の閉じこめられていた。「法律は誘拐事件に手ぬるく、少女たちの人身売買に対する罰は取るに足らぬものであった」。男性だけで構成されている当局は、性病が流行し、売春との関係が明らかになってから、やっと売春に注目した。そのご売春宿に対する法的規制が行われたが、閉鎖を意味するものではなく、医学的検査を義務とするものであった。それによって売春宿は男性の顧客にとって安全となると考えられたのである[64]。
娼婦はれっきとした人間とは考えられなかった。娼婦に対する18世紀の専門用語は「肉体的便宜」a fleshly convenienceであった[65]。 convenienceという語はまた屋外便所をも意味した。古代の崇敬された神聖娼婦から今日に至るまでの道程は、退行の長い道であったと言えるかもしれない。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)