ホーム 医療 高齢者福祉 芸術,哲学 京都伏見・宇治
随想 シュワィツァ−・緒方洪庵 ギャラリ 検索リンク集


随想  平成10年9月 10月 11月 12月 平成11年1月 2月 3月  4月 5月 6月  7月 8月 9月 10月

 
11月 12月  平成12年1月   2月  3月分  4月分  5月分  6月分   7月分  8月分   9月分  10月分 11月分 12月分 

平成13年1月   2月分   3月分 4月分

 



春は次第に駆け足にやってきた。お水取りが済み桜がほころび始めると,それからの春のやってくるのは早い。

桜か゛咲き散るのに10日もかからない。桜の季節は街中何処も桜で一杯のように感ずる。

こんなに桜の木が有るものかと驚くほどに,街中至る所に桜を見る。風に吹かれて散る桜の風情は

なんとも表現できないくらいに優しくて美しい。その散る桜の記憶は何時までも残る。

森首相も首相の坐から散り始めている。この風景だけは桜のようにあまり綺麗とは思えない。

これからの新しい発展,芽に期待したいものです。



人間疎外は人間が生む

松下幸之助の言葉より
--------------------------------------------------------------------------------
 現代文明における、科学技術の発達によって人間が軽視され、忘れられているということが問題になっています。

そういった人間疎外をなくすためには、常に人間の幸せということが前提にされなくてはなりません。

「なぜこういう新しい機械を造るか」「それは人間の幸せのためである」ということがいつも考えられ、

それに基づく配慮がなされるならば、どんな機械が生み出され使われても人間疎外は起こらないと思います。

 現実に人間疎外のような観を呈しているのは、機械が人間を疎外しているのではなく、人間自身が人間を大事にせず、

人間疎外を生んでいるものではないでしょうか。


機械にも使う人によって心か゛あり,人間疎外を来たさないということか。




不安に挑む

松下幸之助の言葉より
--------------------------------------------------------------------------------
 いつの世でも、われわれにとって完全に安穏であるという状態はないといってよい。

お互い人間である以上、程度の差こそあれ不安動揺なしにはいられないと思う。それが人間本来の姿である。

しかしだからといって、ただ不安動揺し、それにおびえてなすところなくウロウロしているというのでは、そこから何も生まれてこない。

 そうではなく、不安は感じるが、しかしその不安に敢然と闘いを挑み、これを打破していく。

むずかしい仕事、困難な要求に直面して、一面に不安を感じるが、反面かえって心が躍る。

そしていろいろの考えを生みだしこれを克服していく。そういうふうでありたいと思う。



人間は本来不安定な動揺し易い存在だが,それを克服し得るのも人間である。



修養に場所を選ぶな

松下幸之助の言葉より
--------------------------------------------------------------------------------
 人は若い間の心がけのいかんにより、後にずいぶん差の生ずるものである。

もし若い時代に自己実力の養成に励まず、修養に努めなかったならば、必ず後年、後悔するときがくると思う。

 しかるに若い人の間で「この仕事は自分の性分に合わない、あの主任の下ではどうも働き甲斐がない」と、不足をもらす人がある。

これは自己中心の物の考え方の弊害であろう。

 真に自己の適所を見出すまでには、いろいろな経験を積まなければならない。

また性格、意見の異なった指導者の下で自己を磨くことによってこそ、かえってよりよく修養が得られるものであることを、

深く知らなければならないと思う。


人生全てが修養の場とも言える。




人間はダイヤモンドの原石

松下幸之助の言葉より
--------------------------------------------------------------------------------
 私は、お互い人間はダイヤモンドの原石のごときものだと考えている。ダイヤモンドの原石は磨くことによって光を放つ。

しかもそれは、磨き方いかん、カットの仕方いかんで、さまざまに異なる、さん然とした輝きを放つのである。

同様に人間は誰もが、磨けばそれぞれに光る、さまざまなすばらしい素質を持っている。

だから、人を育て、活かすにあたっても、まずそういう人間の本質というものをよく認識し、

それぞれの人が持っているすぐれた素質が活きるような配慮をしていく、それがやはり基本ではないか。

もしそういう認識がなければ、いくらよき人材があっても、その人を活かすことはむずかしいと思う。


人間の生かし方には素質が生きるような配慮が必要か。


協調性を持つ

松下幸之助の言葉より
--------------------------------------------------------------------------------
 みなさんが、それぞれの会社の社員である以上は、多数の同僚と相接して仕事をしなければならないということになりますから、

人の立場を重んじない、いわゆる協調性の少ない人は困ると思うのです。

 自分はこう思うが、あの人はああ思うのだな、それも一つの考え方だろうな、というように人の言に耳を傾ける、

というところに協調性が成り立つのです。

もちろん、自己というものを卑屈にして強調せよというのではありません。けれども自己にとらわれた主張は協調性を欠きます。

この点は、どのような立場にいようと考えなければならない、非常に大事な問題ではないかと思います


もっともな話である




使命観を持つ

松下幸之助の言葉より
--------------------------------------------------------------------------------
 人間は、ときに迷ったり、おそれたり、心配したりという弱い心を一面に持っている。

だから、事を成すに当たって、ただ何となくやるというのでは、そういう弱い心が働いて、力強い行動が生まれてきにくい。

けれども、そこに一つの使命を見出し、使命観を持って事に当たっていけば、そうした弱い心の持ち主といえども、非常に力強いものが生じてくる。

 つねに事に当たって、何のためにこれをするのかという使命観を持たねばならない。

そしてそれをみずから持つとともに、人びとに訴えていくことが大事である。

そこに“千万人といえども我ゆかん”の力強い姿が生まれるのである


使命感を持つ事により弱い人間も強くなりえる。




父親から息子への,中国映画『山の郵便配達』


03月25日の 天声人語より

 けわしい山の道を、若者と老いた父親が登り、下っていく。

犬が1匹、前になり後になって走る。若者の背には、重い荷物がある。ぎっしりと手紙や小包が詰まっている。

 1980年代初め、中国・湖南省の山岳地帯である。父親は長年、少数民族の人びとが暮らす山中のいくつかの集落に、郵便物を届けてきた。

2泊3日かけて、100キロ以上も歩く。届けるとともに、差し出す手紙類を預かる。だから荷物は軽くはならない。

 帰り着くと、つぎの郵便物を持って同じ行程をまた歩く。家庭を顧みる余裕もないままに働き続けた。酷使した体は衰えた。

息子が、代わりにその役割を引き受けることになった。父親は、最初の1回だけ付き添うことにした。触れあうことの少なかった父と子は、

あまり言葉を交わさずに歩く。

気持ちをうまく表現できないのである。

 中国映画『山の郵便配達』(4月、東京・岩波ホールで公開)は、そうした父子の最初で最後の旅を、淡々と、本当に淡々と描く。

都会に出た孫からの年に1度の送金が、孤独なおばあさんに届いた。父親は、添えられた優しさあふれる手紙をおばあさんに読んで聞かせる。

彼女は視力を失っているのだ。


 が、手紙はない。紙幣を包んだ白い紙を、父親は「読む」のである。そして息子に、続きを読んであげなさい、と促す。

戸惑いつつ、息子も「手紙」を読む。口調に優しさが加わっていく。父と子の心が近づく。
そんな挿話が、控えめにつづられる。

 湖南省の作家、彭見明(ポンヂエンミン)の短編『山の郵便配達』(集英社)の映像化である。のために、だれのために働くのか。親子とは何か。

生きるとは、どういうことか。そんな問いかけがあるようにも思うが、いや、どうでもいい。映画も短編も、実にすがすがしい。

飾をすべて取り去った人間に触れたからに違いない。




地道な仕事を父親の後を継ぐ息子,心が触れ合いながら素直に人のために尽くす親子の情景が中国映画で描かれている。

昔,普通一般に日本でもよく見かけたが,現在では忘れかけらつつある風景である。

このような心があってこそ初めて日本でも何代も続いてゆく「老舗」が存続しえると考える。

親と子の心が1つにならない限り老舗は続くものでは無い。

現在は昔のような長子による相続といった制度がなくなってしまった。

老舗として存続させるには親子家族全員が心を一つにしなければ決して続き得るものでは無い。

中に一人として伝える心が無ければ必ず老舗としての家は自然に分解消失していってしまう。

「老舗」をば誰もが尊び畏敬の気持ちで眺められている。でも,親 子供 孫へとその「心」が伝わらなければ「老舗」は決して続くものではない。

それ故に貴いのではなかろうか。次第に地道なことに対しての努力が軽視される世の中になってきている

このことは大いに見直されるべきことだと思う。



余りにも世の中便利になって来た


世の中便利になりすぎてきた。インターネットもその1つだが,今月はあまり書きたく無くて書くことが少ない。

でも書かないと気がすまないので書いたが,この書く事も生きている証としてのものであっても良いと考える。

便利な世の中になってくると努力する人が少なくなり,如何に楽して生活を充分にエンジョイしようとする人たちが

増えてきている。若い人達に我慢とか辛抱を説いても通じなくなってきた。

大人の中でも法律に触れない程度に悪い事をしてでも楽な生活を考える人たちを見かけるのも

恐ろしく嘆かわしい事である。



Homeへ


                                       2月     3月     4月
zg