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4月と言う月は


あわただしく桜が咲き誇り,散っていった。辺りの新緑が勢いを益してくる。ツツジの花か゛咲きほころび,次第に冬から別れて

完全な春がやってきた。政治の世界も自民党員の地方選挙で雪崩れをうったように政治改革を掲げての小泉純一郎氏が圧勝し

次期自民党総裁に決まった。続く国会の首班指名で総理大臣になり,現在どの世論調査でも圧倒的な支持率を誇示している。

確かに皆の期待感が大きい事は判る。それと共に次第に首相の公選制がしきり話題になって来た。

これは良い事だと思う。改憲によっての公選制にはだが一抹の不安を残す。

国民の多数が支持しない首相が,一部の有力者の都合で総理大臣になり続けられる「おかしさ」を是非打破したいものだ。

訳の判らぬ首相が居座りつづけ,国民は唯ひたすら神に祈る以外仕方ないという状況だけはこれだけは是非避けて欲しいものです。

周辺の山々は緑が勢いよく増して活気が出てきた。でも必ず、自然は何時までも同じ状態には置いてはくれない。

国民の目は,政治のプロ化していない人たちは政治家によるアメとムチには縁が遠く極めて澄んでいる。

森首相が首相の時代,その「時間」はなんだったんだろう。ドブに捨てたようなものだったのであろうか。

さらに遡って戦争に明け暮れた第二次大戦の「時間」はどうであったのだろう。

それに巻き込まれ罪も無い尊い命を落とした人たちが多勢おられた。

時間は一部の為政者の為だけの「時間」では決してない。その「時間」を共有している者達全員の者の時間である。

世の中良くするも悪くするも政治家などの影響が一番大きい。ドロドロとした政治家達の時間とは一緒に共有シタクナイ。!

いくら一緒に共有シタクナクとも,同時代人であれば一緒にしなければならない。政治家になりたい人より,

人々が是非なって欲しい人になってもらうことだ。でも良心的な人たちの政治家への道は現在は完全に絶たれている。

「時」は戻らない。決して後戻りしてくれない,それぞれの人にとって大切な大切な時間である。

今も昔も,常に平和て゜幸せな生活を求めない人達は誰一人としていない。



春は爛漫,戸外での家族の団欒




カメのごとく歩く



松下幸之助の言葉より
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 カメの歩みというのは、一見のろいようだが、私は結局はこのあせらず、騒がず、自分のペースで着実に歩むというのが、

一番よいのではないかと思う。

手堅く歩むから力が培養されてゆく。逆にパッとやればどうしても手堅さに欠けるから、欠陥も出てくる。

だから見たところでは非常に伸びたようだが、あとであと戻りをしなければならないということも起こってくる。

 ウサギのカケ足では息が切れる。といってハヤ足でもまだ早い。

一番いいのはやはりナミ足で、カメの如く一歩一歩着実に歩むことではないかと思う。

人生行路だけではない。事業経営の上でも、大きくは国家経営の上においても同様であろう。



一時的に良くとも,息の長い生き方が良い。一回限りのギャンブルを打つような生きかたの人をよく見かける。

商売だったら何時までも信用されるような商売をしたいものである。信用を大切に絶対に嘘はつかずに,

カメのような生きかたをしたいものです。



道理に合わぬ事は変わる。変えねばいけない「政治」の世界も



 4月21日の天声人語より 

 昔のアメ売りは人気商売だった。奇抜な服装をしてアメを売り歩いた。騎馬武者の格好をして「ほにほろほにほろ」と歌って歩いたり、

唐人の服装で「あんなんこんなん」と歌い歩いたりしたという。江戸時代のころで、その意味不明の歌が、何ともおかしい。

 この総裁選で、ついにアメ売りが出てきた。

橋本陣営から出た党三役留任話のことだ。古い言葉をつかえば「アメとムチ」のアメだ。ポスト・人事を約束して多数派工作を図る。

昔ながらの手法だが、当面は空振りだったようだ。

また、ムチといえば、派閥の締め付けだろうが、これも昔ほどはうまくいかないようだ。

 本人たちがアメのつもりで差し出したものが喜ばれない。ムチを振り上げても怖がってくれない。

言ってみれば「ほにほろ」と騎馬武者が出てきたようなもので、時代錯誤が失笑をかう。

本当にそうだとしたら結構なことだ。

 実際、旧来型の派閥論理が通用しなくなってきたところがある。流動化の兆しがある。

自民党内の選挙とはいえ、世間の風が吹き込んでいる。

 少し気がかりなのは、いつの時代にも強力なアメ、実弾とも言われるおカネのことだ。

かつて総裁選といえば、巨額のカネが動くと言われたものだ。そちらの方はいまはどうなのか。これも心配ご無用、ならば言うことはない。

アメとムチ政策の本家、ドイツ宰相ビスマルクは「人は流れをつくり出すことはできない。

流れに乗ってカジを取ることができるだけだ」と言った。その流れは、いま何か。「守旧」でないことははっきりしている。



古いものは悪く,革新的な事が良いとは言い切れない。古いものでも良いものは良い。

唯古い慣習だけにとらわれるものは次第に澱んでくる。濁る。慣れが悪い心を呼び起こす。

権力のある座にある者は常に自己を戒め,権力の乱用,横暴に心すべきである。

私心なく常に謙虚な人が権力の座に着くべきである。

庶民の味方するが如き権力者もいる。

大勢の人たちが組めば何でも可能だとして,力,権限を乱用する人たちを見かける。

新しいものだけが決してすべて良いとは思わない。非常識な多数を頼んで無理を

押し通うそうとする人たちを見かける。今の議員の後援会組織は堕落している。

昔のように議員の政策に共鳴して集まった人たちでなく,議員を中心に自分達の職場で゛の権益を増やすがための

互いの互助会のようなものに成り下がっている。政策などはどうでも良い,互いが各々の自分の利益さえ増えれば

それで良いと思う人たちの集団になってきている。

大勢で渡ればどのような悪いことでも,世の中通るものだと,議員を中心に囲んでの官官民の利益共有組織が目に付く。

大変暗くて悲しい世の中になってきている。

政党活動に熱心な親戚,知り合いの組織に,知らない間に勝手に組み込まれたりして,

其のためによって他の政党から反撃されたりするのは悲惨だ。

知らない間に勝手に,性質の悪い親戚,知り合いに利用されるのはかなわない。世の中複雑怪奇である。

インターネットが無ければ自分の立場を証明する方法・手段は今までは何も無かった。ただ泣き寝入りするだけである。

インターネットを通じ実名を挙げてまでもと言わないが,身近に起こっている「いやがらせ」ともとれる

複雑怪奇な事についていつでも発言できる。今までに常識では考えられない事が何回かあった。

嫌がらせは形を変え執拗に続いた。当時ノイローゼになり不安でたまらなくなってしまっっていたことがあった。

誰もが何処にも何も言えず唯泣き寝入りで過ごす時代は徐々にインターネットを通して解消されるのではなかろうか。??






政治の事など知らなくて済むような世界になって欲しい



4月19の天声人語より

 作家の志賀直哉にこんな文章がある。「人々が皆(みんな)政治の事など知らなくて済むようになれば、それが最もよいと思う」(わが生活信条)。

しかし、私たちはいま、志賀の願う世界とはまるで違う世界に住んでいる。

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 志賀直哉の文章に戻れば、あれには、政治とは余計なものだ、という達観があろう。達観できない人には、

政治に期待しすぎるなという戒めかもしれない。この政治の時代に、ひときわ味わい深い。




身体が病んだ時はその器官が非常に気になる。常にその部分に気持ちが向くものである。

政治も同様,関心が向かなければ順調に事が運ばれている証拠である。

病に取りつかれると何時までも其の所が気になるものである。

人間関係も同様順調な時は気にならず風の如き存在だか,一旦こじれば虫歯よりも性質が悪く

常に痛んで気になる。

世の中おかしなもので,自分の子供の事より他の人のことに干渉し,とやかく文句言って来る人を

見かける。身近にそのような人がいるとノイローゼになる。だが言ってくる本人はいたって元気である。

そのような人は干渉しないと当の本人がノイローゼになるのかも知れないのだろうか。

非常に性質の悪い人たちである。




リンコ゛の気持ちは良く判る


戦後のひと時流行った歌謡曲の一節である。何も言わないけれどもリンゴの気持ちはよく分かると。

普通はそうであったし,そういったものである。今の時代何を考えているか分からない人を良く見かける。

話す言葉の内容も嘘で固まり,本当と理解するとひどい目に会う事がある。

嘘も100回同じことを繰り返し話せばそれは真実になるといつた人をみかける。

或る社長に話した事があった。「誠」があれば何時かは「真実」は理解してもらえるものだと思うと。

だかその人は口唇を指しながら全て世の中はこれだと話された。

その人の人生は言われた如くに口だけで,全てを押し通し全うされている。今,世の中見ていても

口だけの世渡り上手の人を沢山みかける。例え心と反対の事を話しかけられていても,その人が自分の気持ちを話しているものと

理解するのが普通である。心の中・心の奥底までは誰も読む事は出来ない。

でも「リンコ゛の気持ちは良く判る」で自然に真実は顔つき,動作,行動などを通じ自然伝わってくるものである。

しかしながら伝わらずに判らない事も往々にしてあり得る。全て映画のストーリのように勧善懲悪にはならない。

善人がハッピーエンドで済むことは無い。世の中はそんなに単純なものでなさそうだ。大人の世界では子供のような人には

理解出きっこないと言われる事が往々にしてある。でも子供のような純真な気持ちこそが世の中を良くして変えてゆくものだと考えたい。

そのように信じ毎日を生活して行きたいものです。





人の評価


各人が他の人を評価する事が良くある。Aの人が立派だとBの人が評価した場合,それを聞いたCの人もAの人が立派だと考えているとは限らない,

自分がAの人を立派だと思っていない場合,Aに対するBの人並びにCの人の評価でそれぞれの人の評価が変わり得る。

端的にいうならば同じような考えを持つ人同士は互いに立派だと評価し合い,肌の合わない考えを持った人同士の評価が低い場合が多いと

言う事である。人は十人十色で色んな人達がこの世にいる。人の評価によって評価する人の評価も変わってくるということである。

評価する対象が芸術作品でも,物の考え方でも何でも良い,その人が如何に評価するかをもって

評価する人の評価は変わって来るものである。



三橋節子美術館


大津市長等公園内に三橋節子美術館がある。

偶然のことから初めて訪れてみた。三橋節子と個人の名前が掲げられている美術館だから

個人で建てられた私設美術館と思っていたが,そうでなくて,れっきとした大津市立美術館であった。

梅原猛著の「湖の伝説」で有名である。

34歳の時に右腕を骨の腫瘍の為に切断,その後右腕をなくし,左手で絵画を描きつづけておられる。

そして35歳の若さで亡くなった。だから作品はそんなに多く展覧していなかったが,琵琶湖 又は

近江の伝説から題材をとった作品が多い。作品自体の批評するような力は持ちあわせてていない。

だがその生きざまが素晴らしく,題材となる伝説も胸迫り涙が出るほどの話ばかりである。

唯不思議に感じた事は大津市立の美術館なのに,美術館内で三橋節子の作品の写真 ビデオなどが売られていたが

絵画の題材の元となった琵琶湖 滋賀県内の説話・伝説の本が売られていなかったことである。



薬の効果


薬の効果で見事に効くのは,特に抗生物質の効果である。その薬が細菌にその原因となる菌に丁度合ったならば

直ぐに炎症は治まり,症状は驚くほど良くなって行く。急性の炎症の場合,細菌を同定しどの薬剤が効果あるかどうかの

試験をするのに,かなりの時間が必要とする。それよりも長年の経験からこの薬が効くだろうと考え投薬して,

その薬がぴったり合っていたら病気の治りは早い。それは長年の経験と勘による所が少なくない。

細菌は耐性菌が出来やすいから,出きるだけ新しい薬を使う方が良い。でも発売してから早く使うと思わぬ薬の副作用に出会って

難儀したことが有る。だからと言って古い薬では抗生物質の場合効かないことがあったりして,医者泣かせの所

がある。慢性疾患に対するようなむ長期投薬する場合は発売されてからしばらく様子をみて,

大病院などで使われ副作用が出ないことが判ってから使っても遅くないと考えている。



芸術家達



時たまに芸術を志している人に出会う事がある。我々が心も及ばないような事に情熱を燃やしている人達を見かける。

何故こんなものにと思うようなことに全力を費やしておられるのを見かけることが有る。

その人の人生全てを投入し,自分が良いと思う作品に没頭しておられるのが羨ましく感ずる。

人生を振り返って見て,なかなかに自分の思うように行かないのが人生であつて,足踏みすることが多い。

芸術作品も売るために作られた作品より自分の思いを凝結された作品の方が心惹かれるものだ。







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