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両性具有者(ajndrovgunoV)

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 インド・ヨーロツパの多くの宗教は、昔、原初の両性具有者がいて、男性と女性が1つになっていたとした。体は1つで、しばしば、頭は2つで腕が4本あった。『プリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャツド』によると、原初の両性具有者は、「しっかりと抱きあっている男女と同様、大きさも何も同じであった」[1]という。またある人によると、男性と女性の要素がまさに一体化して、絶えず性的至福を覚え、精神的に何1つ欠けるところがなかったという。

 シヴァShivaとその妻シーャクティ-Shakti-Kaliの姿は両性具有者のそれであった。つまり右側が男性、左側が女性であった[2]。シヴァの前身ルドラは、「半分が女性である神」であったという[3]。ブラフマーBrahmaとヴィシュヌVishnuもまた両性具有の姿で、それぞれの神妃と一体となっていた。中国の道教信奉者たちは陽と陰Yang and Yinの憂茶羅は両性具有者を表すものと考えた。

 西欧の神話でも太古の神々や最初の人聞は両性具有者であったとしている。オルペウス教の創世神話では、最初に現れた神は両性具有のパネース、またはエロースErosであるとされた。エロースは「官能的愛」を表し、その半身の女性はプシューケーPsycheで、霊魂を意味した。プシューケーはインドのシャクティに相当する[4]。へルメースHermesが並みはずれた知恵を持っていたのは、以前その母親アプロディーテーAphroditeと両性具有の形であったからである。つまり男女両生殖器を備えた者として存在していたからである[5]

 両性具有神は、しばしば、神話の中では、同時に生まれた男女の双子であった。たとえば、アセト〔イーシス〕-ウシル〔オシーリス〕、ヤナ-ヤヌス、ディアーナ-ディアヌス、ファウナ-ファウヌス、へレネ-ヘレヌス、アルテミス-アポッローンである。アルテミス-アポッローンはと太陽を表し、彼らの母親の胎内で結合したのである。デロス島にあったアポッローンの神殿には、両性具有像が1つあったが、そのことからアポッローンが妹のアルテミスとその神殿で交接したという話が起こったのであろう。さまざまな太陽神は女神と身体と身体をぴったりつけることをあくまでも求めるものだとされた。たとえば、ブラフマーでさえもパヴァーニー(=存在)という女性の分身がないと何もできなかったという[6]。エジプトの至高の太陽神はしばしば両性具有者であった。太陽はその右のは左のであった[7]。同じような両性具有神がダオメ(アフリカ西部の共和国)で今なお崇拝されている。その神はナナ-プルクで、-太陽を表す。この世界を創造し、最初の男女の人間を造った神である[8]

 多くの神話に登場する最初の人聞は、両性具有の形に造られている。ペルシアの神話では、へデン(エデンEden)の園に住む最初の男女は身体は1つであったが、アフラマズダAhura Mazdaが2つに分けた、となっている。ユダヤ人はこのペルシア神話を模倣して、アダムAdamとイヴEveも身体は1つで両性具有であるとした。ラピのある資料によると、イヴはアダムから取り出されたものではなく、嫉妬深い神が2人が性的至福にあるのを不愉快に患い、 2つに分けたのだという。性的至福とは人間にとってまさに神になったような気持になるものであった。それは神々だけのものでなければならないものであった。男性を「園」から追放するということは、女性の身体から引き離すことを意味した。そして、女性の身体はへプライ語のpardes(園)によって象徴されることが多い[9]。このことを言いかえると、神を怒らせた原罪とは神の言葉に従わなかったことではなく、性的行為にあったと言えよう[10]

 「黄金時代」についてのギリシア神話を見ても、同じく嫉妬深い神の話がある。それはゼウスZeusのことで、ゼウスは人類の友プロメーテウスPrometeusが天界の父を欺いて人類の利益をはかったとして永遠の苦しみにおとしいれた。 point.gifPrometeus. 「黄金時代」の人類はプロメーテウスによって両性具有者として造られ、その身体は土で造られた。そしてアテーナーAtheneが人類に命を与えたのである。父なるゼウスは怒って両性具有の人類を男女に分けた。そのとき、女性の部分から一片の土が裂けて、男性の部分に突き刺さった。このために女性には今でも血を流す孔がある。そして男性にはぶらぶらとぷら下っているものがあって、それは己れのものとも恩われず、つねに、己れが現れ出でた女性の身体へ帰りたいと熱く望んでいるのである。

 残酷なゼウスは、それでもときに、男根を女陰という人間の生まれたところへ人々が帰すことを許した。そのため人間は、ごく瞬間ではあるが、昔両性具有者としてあったときの至福を経験することができるのである。 1世紀のあるグノーシス派の秘儀では、その至福の時間を延ばすタントラ風の術を教えた。そのことが、キリスト教の天界の父を含めて、たいていの天界の父を怒らせた。キリスト教では、聖職者たちはそうした訓練は神意に反する行為を教えるものとしてしりぞげた[11]。キリスト教の教父たちは「2つの背中を持った獣」(原初の両性具有者の別表現)になることをとくに遺憾なこととした。

 キリスト教会の正統派は、その宗教的イメージの中に、性的なことや両性具有ということを入れるのを拒否したけれども、グノーシス派のキリスト教徒たちはそのイメージを利用した。カーリーKaliがシヴァの半身の女性であったように、グノーシス派の太母ソフィアSophiaはキリストの半身の女性であった。このことは「偉大なる光の中に」現れていた。つまり救世主は「万物の母ソフィア」と交接している両性具有者としてあった[12]

 グノーシス派のキリスト教徒の言うところによれば、「父親」-「母親」の霊が真に啓示するものを受付とめる者とは、アポリトロシスapolytrosis (解放)と呼ばれる秘跡を受けようとする者のみであるという。アポリ卜ロシスというのはタントラのモークシャmoksha (解放)と同じ考えである[13]。西欧グノーシス主義は、明らかにタントラTantrism、あるいはその原型の彫響を受け、ヒンズー教のヤプ・ユムYab-Yum(「父親」-「母親」)をそのまま持ちこんだものであった。このヤプ・ユムとは、いまやまさに死なんとするときに、聖者がその妻と性的に結ばれることを表すものである[14]。性的な秘跡とはそうしたときに行って初めて実効のあるものであった。そしてそのとき、信者は両性具有者としての原初の至福の状態へともどることができたのであろう。

 ナアセン派(へプライ語の「ヘビ」nahashが語源。初期キリスト教時代のユダヤ教、あるいはキリスト教のグノーシス派の1つで、ヘビ神オピスOphisを救世主として崇拝した)の言うところによると、「父親」-「母親」の霊がなければ、いかなる教化もありえない。そしてこの「父親+-「母親」の霊とは両性具有で、ときに「天界の」(三日月)と呼ばれた[15]。 5世紀、オルペウス教の入信式では、男性の中にある女性の霊を目覚めさせ、オルペウス教の秘儀の要旨を信者に知らしめようとした。と再生を経験して神々に会ったのち、信者は子宮を表す椀を持ち、身重の女性のように自分の腹に触れた。このことは、「男女の対照的な考え方を統一する精神的体験」を意味するものであり、「新しい生命が胎内にみごもるという考えは、こうした考えと同一なるものである」[16]

 こうしたグノーシス派の微妙とも言える考え方はキリスト教正統派の人々の嫌うところであった。男女両性を結合するなどということは、すべて絶対に罪深いことだと彼らは考えた。グノーシス派が潰滅すると、両性具有者は地獄へ送られ、男性と女性の属性を兼ね備えた奇妙な悪魔なるものがぞくぞくと誕生することになった。 16世紀のある本を見ると、王座に着き、教皇冠をかぶり、 の足をしていて、陰部に女性の顔があり、女性の乳房が垂れ下っているサタンSatanの姿がある[17]。タロット・カードの「悪魔」Devilは、通常、両性具有者で、大聖堂の彫刻に見られる多くの悪魔たちと同じであった。


[1]O'Flaherty, 34.
[2]Larousse, 371.
[3]O'Flaherty, 298.
[4]Larousse, 90, 132.
[5]Graves, G. M. 1, 73.
[6]Baring-Gould, C. M. M. A., 375.
[7]Erman, 301.
[8]Hays, 339.
[9]Hughes, 47.
[10]Cavendish, P. E., 27.
[11]J. H. Smith, C. G., 287.
[12]Malvern, 53.
[13]Pagels, 37.
[14]Rawson, A. T., 103.
[15]Jung & von Franz, 136.
[16]Campbell, M. I., 389.
[17]de Givry, 125.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)



宇宙卵〕 原初の両性具有者は〈宇宙卵〉の1つの様相、擬人的形象にすぎない。どの宇宙開闢説の冒頭にも、どの終末論の末尾にも登場する。世界および顕現した存在のアルファにもオーメガにも、根源的統一の充実があり、そこでは対立物が混ざり合う。まだ対立物が可能性に留まるか、あるいはそれらの両立、最終的同化が果たされたからである。ミルチャ・エリアーデは、その例を、北欧、ギリシア、エジプト、イラン、中国、インドの宗教から多数引用している。

イスラム〕 この原初の統一のイメージを人間に適用すれば、性的表現を伴うのは当然で、しばしば無垢つまり原初の美徳や、回復すべき黄金時代とみなされる。スーフィーの神秘神学はその点いたって明快で、我々が生きる見かけの世界の二重性は虚偽に固められ、罪業の状態を構成し、救済は神の現実との融合からのみくると説く。すなわち、根源的単一性への復帰以外にない。これが地面から引き抜いた葦笛のすすり泣きの意味なのだ。メヴラナ・ジャラール・ウッディーン・ルーミ一作のあの有名な『マスナウイー』の序奏に現れるすすり泣きである。

 この原初の楽譜が宇宙的規模で、夜と昼、天と地を創造し、つまり区別したのだが、それはまた「陰」と「陽」の楽譜であって、これらの根源的対立にさらに寒と暖、雄と雌を付け加える。日本では「イザナギ」と「イザナミ」であり、もともと両者は混沌の中で混ざりあっていた。またエジプトの神「プタハ」、アッカドの女神「ティアマート」も同じ。『リグ・ヴェーダ』によれば、まだらの乳牛は両性具有であり、優秀な精液を持つ雄ウシでもある。〈1〉が〈2〉を生むと『道徳経』はいう。そのようにして、男でなく両性具有者だった原初のアダムは、アダムとイヴに分かれた。

インド〕 というのは、両性具有者が両性の特質をそなえた二重の存在として表現されることが多く、まだ結合してはいるが、いままさに別れようとする姿で示されるからだ。これによってとくに、インドのエロチックな彫刻の宇宙開闢説的な意味が説明できる。「シヴァ」神は示現のまだ形をなさない原理と同一視されるからには両性具有神なのだが、よく「シャクティ」神としっかり抱き合った姿で表現される。後者はシヴァ神自身の「力」を表し、女神として表される。

ギリシア〕 両性具有者の痕跡は「アドーニス」、「ディオニューソス」、「キュベレー」、「カストールとポリュックス」にも指摘される。この最後の兄弟は「イザナギ」と「イザナミ」を連想させる。このような例は無限に挙げられる。というのは、究極的にあらゆる神は両性具有者であり(古代ギリシアの神統系譜学によって多すぎるほどの証明がなされている)、したがって相手なしでも子供が作れるからだ。M・エリアーデが強調するように、この儀礼的な両性具有は、両性の魔術的・宗教的な「力の総体」を表す(ELIM、134-135;DELH、29)。

 「全体性の表れ」としての両性具有者は、したがって時の初めにも終わりにも出現する。終末論的な救済の見方によれば、最終的に人間は両性の分離が廃止された充実を回復する。それがまさしく「結婚の秘儀」により想起され、伝承に基づく多くの文献に現れ、シヴァとシャクティのイメージにつながる。

両性の区別〕 とはいえ、死後に人間が原初の統一を回復するはずという実に普遍的な信仰には、たいていの宇宙開闢説において、現世では何が何でも両性を完全に区別すべしという要請を伴う。なぜなら(ここで最古の信仰と最新の生物学が一致する)、人間が生まれながらに完全に一方の性に片寄ることはないからだ。「各人間がその肉体と精神的原理において、男性と女性を兼ねるのが創造の基本法則である」とバンパラ族は断言する(DIEB)。

割礼〕 割礼とクリトリス切除に対する最も流布した説明はこれに基づく。この2つの儀式は、子供を決定的に見かけの性に移行させるのが目的で、女のクリトリスは男性性器の名残であり、男の包皮は女性の名残とみなされる。それはまた中国の〈伏義〉と〈女禍〉がヘビとして互いの尾で結合する結婚の意味である(両者はさらに互いの属性を交換する)。また、ヘルメース思想の〈レビス〉の意味も同じで、太陽と、天と地をも表し、見かけは二重でも基本的に一であって、 硫黄と水銀でもある。

ヒンズー教〕 ヒンズー教の象徴は、原初の両性具有者のみならず、この未分化、この統一への最終的復帰にも準拠する。このような回帰が〈ヨーガ〉の目的である。中国の不死鳥は、再生の象徴で、両性具有である。不死の胚胞を生むための、「精液」と「硫黄」の結合は、〈ヨーギ〉の体内で行われる。原初の状態への復帰や宇宙の偶発事からの解放は、〈対立物の一致〉coincidentia oppositorumと原初の統一の実現によって成就される。つまり、中国の錬金術師がいうように、存在の両極、〈命〉(=生命)と〈性〉(=本性)を溶解させるのだ。

プラトーン〕 プラトーンは、『饗宴』(189e)の中で、両性具有者の神話を持ち出す。「その頃、両性具有者は別の種族であって、男性・女性の双方からその形態と名前をもらっていた」。アダムの両性具有に触れたいくつかの〈ミドラシュ〉(ラビの聖書解釈)や、キリスト教グノーシス派の教義を思い出そう。両性具有が再び獲得すべき原初の状態として提示されている。同様に、男と女が元は1つの身体に2つの顔をつけていたとする伝承もあり、神が2人を分けて、めいめいに背中を与えたとされる。その時以来、男女は別々の生活を送るようになった。『創世記』の神話に従って、イヴがアダムの肋骨から出たというのは、すべての人間が〈元は区別がない〉ことを示す。

聖書〕 1つになることが人間の目的である。オリゲネスとニュッサのグレゴリオスは、神の姿に似せて創られたこの最初の人間の中に両性具有者を見出す。神の列に連なるよう人間は誘われ、その際この両性具有の状態を再発見する。これは分化したアダムが見失い、「至福を与えられた」新しいアダムのおかげで回復されるものなのだ。新約聖書でいくつかのテキストがこの統一について触れている。

 聖パウロや『ヨハネ』では、両性具有の状態が〈霊的完成〉の特性であることを強調した後で、ミルチャ・エリアーデは書く。実際、「男と女」になる、あるいは「男でも女でもない」状態になるというのは、言語が〈悔い改め〉metanoia、つまり価値の全面的逆転を描こうとする際に用いる造形的表現なのである。「男と女」になるというのは、逆説的な点では、再び子供になるとか、再び生まれるとか、「狭い門」から入るというのと同じことである(ELIM、132)。

 男性といい女性といい、どちらも対立する無数の様相の1つにすぎず、再び相互に混じり合う運命にある。

錬金術〕 両性具有の状態が実現する有様は、鉱物と植物において研究するのがよかろう。というのは錬金術の見地からすれば、やはり鉱物と植物も男性と女性に分かれるからだ。あらゆる対立は、天と地の結合によってなくなるはずで、その結合は人間により実現され、人間の力は宇宙に対して全面的に発揮されるべきなのである。
 (『世界シンボル大事典』)


[画像出典]
The Divine Androgyne
両性具有の豊富な画像を提供してくれている。