古代ミーレートスの哲学者たちによれば、水は四大のうちの最初のもの、すなわちギリシア語でアルケーArchê (「万物の母」)と呼ばれるものであった[1]。水は「霊」を生んだが、霊は一般に男性原理と信じられていた。こういうわけでキリスト教徒が異教徒から取り入れた、洗礼による再生という観念は、水(女性)と霊(男性)の両方を必要としたのであった。洗礼盤は「子宮」、とくに「マリアの子宮」と呼ばれたが、マリアという名は古代のすべての「海の女神」の名であった[2]。たいていの神話は、創造の衝動が最初に生じた場所を、混沌として「無定形」な、子宮(生命の源)である海としているが、これは太母(ティアマート、カーリー、マ・ヌ、テミスなど)を表していた。こういう太母のイメージは実際には、胎児が経験し、生涯にわたって元型的なイメージとして意識下に記憶され続ける自他の区別(すなわち自己と母親との区別)の欠如に由来するものであった。母親Motherを表す文字M (Ma)は波を表す表意文字であった。
「神話学者たちが認めるところによれば、女性原理は、中世にキリスト教当局から受けたように、執拗な攻撃を受けると、静かに潜行することが多い。生命が生まれた水の中で、女性原理は男性支配の社会の潜在意識を泳ぎまわり、時折表面にぴょこんと顔を出しては、いまだに男性原理とは相容れないことを見てとる」[3]。
「水」と「母親」との間の照応関係は、母性原理が理論上抑圧されていた中世にあっても普遍的であって、錬金術師や他の「哲学者たち」は、霊魂を創造したのは神ではなく、母なる大地と母なる海であったと主張している[4]。女神を祀る神殿は例外なくと言っていいほど、井戸、泉、湖、海と関連をもっていた[5]。「湖上の貴婦人」とは、中世ドイツの吟遊詩人(ミンネジンガーMinnesinger)たちが崇拝した愛の女神ミンネMinne-アプロディーテーのことで、人魚として姿を現し、「水の性質」をもつと考えられていた。しばしば愛そのものの隠喩として水が用いられた。水と同じく愛は、茶碗状にくぼめた掌の中に入れるように、ゆったりと育む男のもとに留まった。しかし、固く握りしめようとする男からは、愛は流れ去って掌の中には何も残らなかった。そして水は愛と同じく、豊穣性や創造性という生命力には不可欠のものであった。水なくしては、物質界同様、精神界も不毛の砂漠、荒地Waste Landとなってしまうであろう。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
〔象徴・テーマ〕 水の持つ象徴的表意作用は、(1)生命の源、(2)浄化の手段、(3)再生の中心という、3つの主要なテーマに還元できる。これら3つのテーマは、最古の各伝承中に見出され、最も多様で、かつ、最も首尾一貫した、さまざまなイメージの組み合わせを形づくっている。
未分化な塊である水は、〈無数の可能性〉を表し、あらゆる潜在的なもの、非定形なもの、芽の中の芽、あらゆる発展の期待を含むとともに、あらゆる解消の徴候をも含んでいる。象徴的な死による場合は別として、水に完全には溶解せず、そこから、また出るために水の中に沈むことは、根源への回帰であり、潜在力の巨大なタンクである「源にかえって」、新たな力を汲み取ることである。この退行と崩壊の一時的位相は、次なる復帰と再生の漸進的位相の条件をなすものなのである(⇒入浴、洗礼、通過儀礼)。
『リグ・ヴェーダ』は、身体的な面でも、精神的な面でも、生命と力と純粋性をもたらす《水》を賛美する。
「活力を回復してくれる、汝、水よ、
我らに力と、偉大さと、
喜びと、幻視を得さしめよ!
……不思議の国の王にして
吾ら民衆の支配者たる、水よ!
……汝、水よ、薬には
完全なる効能を与えたまえ、
薬が
わが肉体を守る鎧となり、
かくして我に永遠に太陽を拝ませたまえ!
……汝、水よ、我のおかせし
すべての罪、我の働きしすべての科、
我の立てし偽りの誓い、
これらは流し去りたまえ」
(ジャン・ヴアレンヌ仏訳より、VEDV、137)
これらの本質的テーマをめぐる種々の文化によるヴァリエーションは、我々が、ほとんど同一の基盤に立って、水の象徴体系の持つ広がりとニュアンスの違いをよりよく理解し、究明するのを助けてくれるであろう。
〔アジア〕 アジアでは、水は、発現の「実体的」形相であり、生命の源で身体的・精神的再生の基本要素であり、肥沃のシンボルで純粋性、知恵、恩寵、徳性のシンボルでもある。流動的なるがゆえに、水は「溶解」を目指すが、また均質的なるがゆえに、凝集、「凝固」をも目指す。かくして水は〈サットヴァ〉(純質、慈悲と善の特性)に呼応することも可能であるが、また下方、「深淵」へと流れるがゆえに、その性向は〈タマス〉(膠質、暗黒の特性)ともなり、さらには水平に広がるがゆえに、その性向は〈ラジャス〉(激質、情熱の特性)ともなりうる。
水は、〈第一質料〉であり、〈プラクリテイ〉(根本原理)である。ヒンズー教のテキストが「一切は水であった」と語れば、道教のテキストも「広大な水には辺際がなかった」という。《世界の卵》である〈ブラフマーンダ〉(ブラフマーの卵)は、《水》の表面で孵化される。同様に、『創世記』においても、「神の霊である創造の息吹は水のおもてを覆っている」。中国人は、水は〈無極〉だというが、これは〈極限の無い〉ことで混沌、最初の不分明である。《水》は、発現の可能性の全体性を表すが、「非定形の」可能性に対応する「天の水」と、「定形的」可能性に対応する《地の水》とに分けられる。この二元性を、『エノク』は性的対比として表現することになるし、イコノグラフィーはしばしば二重の螺旋によって表す。地の水は〈ナーガ〉(ヘビの意で半人半蛇の水と雨の精)の王に捧げられたラサの寺院内に閉じ込められているという。非定形の可能性は、インドでは、アプサラ(天界の水の精)によって表される。原初の水、始原の大洋といった観念は、ほとんど普遍的である。それはポリネシアにまで見出される。オーストロアジア(アジア南東部)の大部分の民族は、水の中に宇宙の原動力を位置づける。そこには、水に潜る動物の神話が付け加わることがしばしばで、たとえば、ヒンズー教のイノシシは、わずかの土を水面に持ち帰り、これが定形的発現の「胚」の誕生となる。
水は、全生命の源で、また運搬手段でもある。というのも、樹液は水だからである。タントラ教の若干のアレゴリーでは、水は、生の息吹である〈プラーナ〉(呼気)を象徴する。「身体的な」面では、水が天の恵みでもあるので、それは豊餞と肥沃の普遍的シンボルである。「天の水が籾米を作る」と南ヴェトナムの山岳民族はいう。それに彼らは、水の再生機能にも大変敏感で、彼らにとって、水は薬であり、不死の飲み物でもある。
同様に水は、一般的に、祭式の清めの手段となる。イスラムから日本にいたるまで、(「神に供えた水を司る」)道士の〈符水〉という古来の祭式や、キリスト教徒の聖水撒布も含めて、洗浄が本質的な役割を果たしている。インドと東南アジアでは、聖像(と信者)の(とくに正月の)洗浄は、清めと、再生の儀式である。「水の本性が自然を清浄にいたらしむ」と文子は書いている。水は「至高の徳」の表象である、と老子は教えている(『道徳経』8章)。水は、また、道教的知恵のシンボルであるが、それは「水が決してあらがわない」からである。水は、自在で執着せず、地勢の傾きに応じて流れて行く。水は中庸である。というのも、強過ぎる酒は(たとえ知をもたらす洒であろうとも)水で割らなければならないからである。
水は、火の逆で、〈陰〉である。水は北と、寒気と、冬至と、腰と、黒色と、八卦の1つ〈吹(だ)〉(「深み」のこと)に対応する。しかし、また一方で、水は雷にも結びつくが、これは火である。ところで中国の錬金術師たちのいう「水への還元」を、本源、胚の状態への回帰と考えることが許されるならば、「水」は火だということができ、錬金術上の「洗浄」とは、火による清めと理解すべきだということもできる。中国人の内的な錬金術では、「沐浴」と「洗准」も、「火の」本性に属する活動といえるかもしれない。錬金術の水銀は「水」であるが、これもときに「火の水」と呼ばれることがある。
チベット人が、通過儀礼の祭式に用いる水は、志願者の祈願と誓約のシンボルであることも記しておこう。
外見上の魅力に触れるだけなら、ヴイクトール・セガランの美しい詩句を引用しよう。「ぼくの恋人は、水の美点をいくつも持っている。朗らかな微笑み、なめらかな身ごなし、一滴一滴、清水をふり注ぐような、澄んだ歌声……」(『ステラ』)(BENA、CORT、DAMS、DAVL、PHIL、GOVM、GRIE、GRIF、HUMU、JILH、LIOT、MUTT、SAIR、SCHG、SOUN)。
《水》へのヴェーダの祈りも、さまざまなシンボルの形で表現されるが、この祈りは、《水》が生気を与えることのできる、存在の物心両面にわたる、あらゆるレベルにかかわるものと理解しなければならない。
「おお、豊かなる水よ、
汝は豪奢を支配し、
恵み深い意志と
不死とを保持し、
すぐれた繁栄をもたらす
富の王、
歌人に
あの若い力を
お授け下さる
富の王ゆえに、
サラスヴァティー川よ」
(『アシュヴァラヤナ・ストランタスート ラ』4、13;VEDV、270)
〔キリスト教・ユダヤ教〕 ユダヤ教とキリスト教の伝承では、水は、まず創造の起源を象徴する。ヘブライ語の〈メム〉(M)の字は、感覚を持った水を象徴する。それは、母にして子宮である。万物の源である水は、超越的なるものを示し、このことから、水は、「神聖なる顕現」とみなさなければならない。
しかしながら、水も、他のすべてのシンボルと同様に、正反対の(しかも互いに還元し合えぬわけではない)2つの面において検討することができる。しかも、こうした両義性は、あらゆるレベルにおいて見られる。水は生命の源で死の源であり、創造的で破壊的なのである。
聖書において、砂漠の中の井戸、遊牧民の前に現れる泉は、ことごとく喜びと驚嘆の場所である。泉と井戸のほとりで、非常に重要な出会いがあり、神聖な場所として、水源は比類のない役割を果たしている。水源の傍らに、愛が生まれ、結婚が始まる。ヘブライ人たちの歩みも、現世で巡礼をする人々の足取りも、水との外的ないし内的な接触と固く結びついて、水は〈平安と光明の中心〉となり、〈オアシス〉となる。
パレスティナは、急流と泉の地であり、エルサレムはシロアム(池)の穏やかな水にうるおっている。川は、神に発する〈肥沃化〉の代行者であり、雨と露は、その豊餞さをもたらして、神の好意を示す。水がなければ、遊牧民は直ちに死を宣告され、パレスティナの太陽に焼き殺されてしまう。こうして、遊牧民が、旅の途上でめぐりあう水は、マナ(天上の飲物)にも比較しうる。水は、彼の渇きを癒して、彼に命の糧を与えるのである。だから、水は、祈りによって求められ、祈願の対象ともなる。神が、その僕の叫びを聞き入れれば、神は、にわか雨をおくり届け、井戸と泉に出会させる。来客の歓待には、冷たい水が客に供され、休息の平安が保証されるよう、客の足が洗われなければならない。旧約聖書の全篇が、水の壮麗さをたたえている。新約聖書は、この遺産を受け継ぎ、これを利用するすべを知ることになる。
ヤハウェは、春の雨にたとえられ(『ホセア』6、3)、花々に発育をもたらす露にたとえられ(『ホセア』14、6)、山から流れ下る冷水、大地をうるおす急流にもたとえられる。義人は、流れる水のほとりに植えられた木に似ている(『民数記』24、6)。したがって、水は、〈祝別〉のしるしのように見える。だが、その祝別が、まさしく神に発している点を認めるべきである。『エレミヤ』2、13によれば、無信仰のうちにあったイスラエルの民は、ヤハウェを軽蔑し、その約束を忘れ、ヤハウェを生ける水の源とみなすことを止めて、自分で水ためを掘ろうとした。だが、この水ためは、こわれた水ためで、水を入れておくことができなかった。エレミヤは、イスラエルの民の、生ける水の源である、神に対する態度を非難し、次のようにいって嘆く。「彼らは自分の地を荒野と化すであろう」(18、16)。他国との同盟は、ナイルとユーフラテスの水にたとえられる(2、18)。渇いたシカが、生ける水の在りかを求めるように、魂は、その神を求める(『詩篇』42、2-3)。こうして、魂は、水に向かう、乾燥して喉の渇いた大地のように見える。魂が神の示現を待望するのは、乾燥し切った大地が雨にうたれるのを切望するのと同様である(『申命記』32、2)。地中海世界最古の基層に由来する、このシンボリズムは、やがて詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカに、その悲劇『イェルマ』(1934)――イェルマは、砂漠が雨不足で不毛(イェルモ)のように、男日照りのため不妊の女――の中で、まったく同様の骨組みを提供することになる。
東洋人が、水をまず〈祝別〉のしるし、シンボルとみなしたのは、まったく当然である。というのも生命を可能にするのは水だからである。イザヤは、新しい時代の到来を預言するとき、「荒野に水がわきいで……かわいた地は水の源となろう」(『イザヤ』35、6?7)という。『黙示録』の預言者も、別のことを語りはしない。「小羊が……彼らを命の水の泉に導いて下さるであろう」(『黙示録』7、17)。
水は、ヤハウェによって大地に与えられるが、もっと神秘的な別の水もある。この水は〈知恵〉に属するが、その知恵とは、天地創造の際、水の形成を司った知恵である(『ヨブ』28、25-26;『簾言』3、20;8、22、24、28-29:『シラ』1、2-4)。賢者の心の中に、水は在る。その心は、井戸と泉に似ており(『箴言』20、5;『シラ』21、13)、その言葉は急流の力を持っている(『蔵言』18、4)。知恵のない者はといえば、こわれた瓶に似たその心が、知識をもらしてしまう(『シラ』21、14)。ベン・シラは、モーセ五書(《律法》)を《知恵》にたとえるが、それは、五書が《知恵》の水をまき散らすからである。教父たちは、聖霊を、渇いた心に注がれる知恵の贈り主と考えた。中世の神学も、このテーマに同一の意味を与えて表現した。こうして、サン・ヴィクトールのフーゴにとって、《知恵》はその水を有し、魂は《知恵》の水によって洗われることとなる。
水は〈霊的生活〉と《霊》(これらは神によって与えられ、人間によってしばしば拒否される)のシンボルとなる。
イエスは、サマリヤの女との会話の中で、このシンボリズムを踏襲する。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないであろう。……わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(『ヨハネ』4、14)。
旧約聖書において、何にもまして生命のシンボルであった水は、新約聖書において《霊》のシンボルとなった(『黙示録』21)。
イエス・キリストは、サマリヤ女に対して、生ける水の持ち主として現れる(『ヨハネ』4、10)。彼は泉である。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」(『ヨハネ』7、37-38)。水は、あたかもモーセの岩から出たように、イエスの胸から湧き出で、さらに十字架上では、槍が、彼の切り開かれた脇腹から水と血を流させるであろう。生ける水が流れ出るのは、父なる神からであるが、生ける水が伝わるのは、キリストの人性によってであり、言い換えれば聖霊(聖霊降臨祭の聖歌の原典によれば、〈生ける水の泉〉にして〈愛の火〉であり〈至高の神の賜〉である聖霊)の賜によってである。聖アタナシオスは、この教理の意味を、次のように明らかにしている。「御父は水源にして、御子は川と呼ばれ、我々は聖霊を飲むのだといえる」(『セラピオーンに』1、19)。したがって、水は、〈永遠性〉の意味をおび、この生ける水を飲む者は、すでに永遠の命を共有しているのである(『ヨハネ』4、13?14)。
生ける水、命の水は、宇宙発生論上のシンボルとして現れる。水が永遠なるものに通じるのは、それが浄め、癒し、若返らせるからである。ニュッサのグレゴリオスによれば、井戸は、淀んだ水を保っている。「しかし浄配(キリスト)の井戸は、生ける水の井戸である。それは井戸の深みと川の流動性を持っている」。このことは上で引用したロルカのテキストとも関係がなくはない。
テルトゥリアヌスによれば、神の《霊》は、種々の要素の中から水を選ぶが、とくに水が好まれるのは、水が初めから豊穣で単純な、まったく透明の、完全なる物質と思われるからである(『洗礼論』3)。水は、それ自体で浄化する効力を持ち、だからこそ、神聖視される。そこから、祭式における洗浄で、水が用いられることになる。その効力によって、水は、あらゆる違犯とけがれを拭い去る。罪を洗い落とすのは、洗礼の水だけで、この水は、1度しか授けられないが、それは、この水が、別の状態、つまり生まれ変わった新しい人間の状態に達せしめるからである。この古い人間の廃棄、というよりも歴史の一契機の死は、大洪水にたとえられるが、それは、大洪水が、消滅、消去を象徴するからである。つまり1つの時代が消失して、別の時代が現れるのである。
水は、浄化する効力を持つが、その上、救世論上の力をも行使するであろう。潜水は、再生力を持ち、水は、復活に作用を及ぼすが、それは、水が、死にして同時に生であるという意味においてである。水は、歴史を拭い去るが、それは水が存在を新たな状態に復元するからである。潜水がキリストの埋葬にたとえられるのは、キリストが地の底への降下の後に、よみがえるからである。水が再生のシンボルであるのは、洗礼の水が明らかに「新生」に通じ(『ヨハネ』3、3-7)、「先導する」ものだからである。ヘルマスの〈牧者〉は、「死の水の中へ降りた後、そこから生きて上がってきた」者たちについて語っている。これは「生ける水」のシンボリズムであり、「青春の泉」のシンボリズムである。カッリストゥスによればアンティオキアのイグナティオスは、私がおのれの内に持つのは、「作用を及ぼし、話す水である」といった。デルポイのカスタリアの泉が、ビュティアにインスピレーションを与えたことも、思い出されるであろう。命の水は、神の《恩寵》なのである。
礼拝は、とかく泉のまわりに集中される。すべての巡礼地には、水源と泉が含まれている。水は、その特効のゆえに、癒すことができる。何世紀もの間、教会は、水への崇拝に反対して幾度も立ち上がった。民間信仰は、いつも水を、神聖な、また神聖化する価値とみなしたのである。しかし異教的な逸脱と迷信への回帰の危険が、いつも迫ってきていた。魔術的なものが神聖なものの隙をうかがって、人間の想像力の中で、これを歪めようとするからである。
水が創造に先立つものなら、また再創造のために存在することも、きわめて明白である。新しい人間には、別の世界の出現が対応するのである。
ある場合に、我々が上ですでに述べた通り、水は、死をもたらすことがある。「大水」は、聖書の中で試練を告げている。水の猛威は、大災害のシンボルである。
「……的を外さぬ矢の如く、稲妻が走り、
つよく引き絞った弓のように、
大雲が標的をめがけて飛び、
弩砲は憤怒に充ちた
雹を投げつけるであろう。
海の波涛は彼らに向かって荒れ狂い、
川も彼らを情け容赦なく飲み込み、
全能の息吹は彼らに向かって
吹きつけ、ハリケーンのように
彼らを吹きとばすであろう……」
(『知恵の書』5、21-23)
水は、激流となってすべてを飲み込み、災害をもたらし、疾風は、花ざかりのブドウ畑を破壊する。こうして、水は、災いをもたらすこともある。この場合、水は、罪びとを罰するが、義人に打撃を与えることはできないから、彼らは「大水」を恐れるには当たらない。「死の水」は、罪びとにしかかかわりを持たず、義人にとっては、「命の水」に変わるのである。火と同様、水も神明裁判の役を果たしうる。投げ捨てられた者は裁かれるが、水が裁くのではない。
上下の二元性のシンボルとして、雨水と海水がある。雨水は真水で、海水は塩分を含む。生命のシンボルは、〈清い〉水の方で、こちらは創造的で浄化力を持つ(『エゼキエル』36、25)。〈苦い〉水は、呪いをもたらす(『民数記』5、18)。川は幸いをもたらす水流であることもあるが、また怪物に庇護を与えることもある。荒れ狂う水は災いと無秩序を意味する。
悪人は荒れ狂う海にたとえられる……(『イザヤ』57、20)。「神よ、わたしをお救いください。大水が流れ来て、わたしの魂にまで達しました。わたしは泥の中に沈みます……」(『詩篇』69、1-2)。
穏やかな水は、平安と秩序を意味する(『詩篇』23、2)。ユダヤの民間伝承では、神が天地創造の際に行った、天の水と地の水との分離は、安心と不安、男性と女性を象徴する、雄性の水と雌性の水との分割を示す。そしてこれは、我々がすでに述べたように、宇宙のシンボリズムと軌を一にするものである。
大洋の苦い水は心の苦痛を示す。サン・ヴィクトールのリカルドゥスは、次のようにいうであろう。人間は、自分自身の悲惨に気づくとき、苦い水を越えなければならない。この「聖なる苦さ」が、やがて喜びに変わるのである(『人間の内的状態について』1、10;V196、124)。
〔イスラム〕 イスラムの伝承でも、水はたくさんの実在を象徴する。
コーランは、天から降ってくる「聖水」を、神の〈しるし〉の1つとして示す。楽園の《庭》には、生ける水の流れる小川と泉がある(『コーラン』2、25;88、12など)。人間自体、「ふき出す水(精液)」から創られた(『コーラン』86、6)。
「神よ!天と地とを創られたのは
神なり
また神は天より水を降らせ
その恵みで神は果実を生えさせる
汝らの糧として」
(『コーラン』14、32;2、164)
無信仰者の行いも、渇いた者の眼には水と映る。しかしそれは、蜃気楼にすぎない。その行いは、深海の暗闇の水に似て、絶えず大波が押し寄せてきて覆い隠す(『コーラン』24、39?40)。「現世の命」は、風に吹きとばされる水にたとえられる(『コーラン』18、45)。
イブン・アルアラビーの《(英知の)台座》についての注釈の中で、ルーミーは神の《玉座》をのせている水を(『コーラン』11、9)、《慈悲深き神の息吹》と同一視している。「永遠なる神の顕現」について語る際に、ルーミーは「海が泡で覆われ、泡の1粒1粒から、何かが形を成し、何かが具現した」という(《詩集》)。
ジーリーは、宇宙を氷で象徴するが、氷の実体は水である。水が、ここでは〈第一質料〉である。
より形而上的な意味において、ルーミーは宇宙の神的な《土台》を大洋によって象徴するが、その《水》は神的な《本質》である。水は全創造を全うし、波が被造物である。
その上、水は〈純粋性〉を象徴し、清めの手段としても用いられる。イスラムの祭式における祈り、〈サラート〉(礼拝)は、礼拝者が、その様式を細かく規律で決められた洗浄によって、宗儀的純粋性の状態に置かれて、初めて有効になしうるのである。
最後に水は〈命〉を象徴する。命の水は、闇の中に見出され、死んだものを再生させる。2つの海の出逢う所に投げ出されていた魚は、《洞窟のスーラ(章)》で(『コーラン』18、61;18、63)、水に浸けると生き返る。このシンボリズムは、不死の《泉》での沐浴という、通過儀礼上のテーマの一部もなしている。このテーマは、イスラム神秘主義の伝承、とくにイランにおいて、たえず繰り返される。アレクサンドロス大王に関する伝説の中で、大王は、アンドラスという料理人をつれて、《命の泉》を求めて旅に出るが、ある日のこと、その料理人が、塩漬けの魚をある泉で洗うと、魚が生き返ったのを見て、料理人は、自分でも不死を手に入れる。この泉は、〈闇の国〉にあるが、この国はおそらく雌性で〈陰〉である無意識のシンボリズムに対比すべきものであろう。
〔象徴〕 世界の、他のあらゆる伝承においても、水は、同様に本源的役割を果たしているが、その役割は、すでに明確にした3つのテーマの周辺に有機的に関連づけられながらも、殊のほか万物の起源に執着を見せている。宇宙発生論の観点に立つと、水は混同してはならない正反対の2つの象徴的観念複合体を包含している。すなわち「降下する」天の水である《雨》は、大地を受胎させるためにやってくる天界の精液である。したがってこれは、男性の、天の火と結びつく水であり、ロルカが《イェルマ》において求める水である。他方、〈最初の〉水、大地と白い黎明から〈生まれたばかりの〉水は、女性的である。大地は、ここにおいて、月と結びつくが、この月は申し分のない受胎能力、妊娠した大地のシンボルであり、この大地から水が出てくるのは、受胎から発芽への成育が行われるためである。
いずれの場合にも、水のシンボルは、血のシンボルを含んでいる。しかし血についても、同一の血が問題なのではない。というのは、血もまた、二重のシンボルを包含するからである。すなわち太陽と火に結びつく天の血と、大地と月に結びつく月経の血とである。この両者の対比を通して、光と闇の基本的二元性が認められる。
〔アステカ〕 アステカ族においては、太陽の定期的再生に欠くことのできぬ人間の血は、〈チャルチワトル〉(「宝の水」)と呼ばれるが、これはすなわち緑の翡翠のことで(SOUM)、間違いなく「赤」と「緑」の相補性を示すものである。水は緑の内的力である、赤い血の象徴的等価物であるが、それは水がその内部に、赤に対応する命の芽を持っていて、これが冬の死の後に緑の大地を周期的によみがえらせるからである。
〔ドゴン族・バンパラ族〕 これまた、緑色の、神の精液たる水は、ドゴン族の宇宙発生論において、大地を受胎させて《二双子の英雄》をもうける(GRIE)。この双子は、腰から上が人間、腰から下がヘビの形で生まれる。彼らは緑色をしている(GRIE)。
しかし、豊餞をもたらす生命力である、水のシンボルは、ドゴン族とその隣人バンパラ族の思想において、はるかに先まで進む。というのも、水は神の精液だが、また〈光〉であり〈言葉〉だからである。この再生の御言葉の、主要な神話的アヴァターラ(権化、化身)は、純銅の螺旋である。しかしながら、水と言葉が現実態となって現れ、世界創造をもたらすのは、もっぱら湿った言葉の形をとってである。この湿った言葉に対立するものとして、顕在的生命のサイクル外にとどまる双子の片割れがいて、こちらをドゴンとバンパラは「乾いた水」と「乾いた言葉」と呼ぶ。乾いた水と乾いた吉言葉は、思想、すなわち人間と神の両面における潜在性を表す。世界の創成の基礎である、湿気の原質を、その内部で誕生させた宇宙の卵が、形成される以前は、すべての水が乾いていたのである。しかし天界の至高神《アンマ》は、その分身《ノンモ》(湿った水の神で、顕在的生命の指針であり、原理である)を造ったとき、彼が宇宙に与えた境界の外にある、天上界の自分の手もとに、この最初の水の半分をとっておいたので、「乾いた水」が残ったのである。同様にして、表現されない言葉、思想は「乾いた言葉」といわれる。それは潜在的価値しか持たず、子をもうけることはできない。人間の小宇宙にあって、それは本源的思想のレプリカであり、現在の人間の出現以前に、アンマから精霊《ユルグ》によって盗まれた「最初の言葉」である。D・ザーアンにとって(ZAHD)、「自意識なき未分化の言葉」であるこの最初の言葉は、無意識に対応する。それは、夢想の言葉であり、人間の自由にできない言葉である。ユルグの化身であるジャッカルまたは青いキツネは、最初の言葉を盗んだので、無意識の、不可視なものの、したがって未来の(未来は不可視の時間的構成要素にすぎない)鍵を持っている。ドゴン族の、最も重要な占いの体系が、この動物への問いかけに立脚するのは、このためなのである。
ユルグが、普遍的に無意識のシンボルである、冥界の火と月にも結びつけられることを記すのは興味深い(PAUC、ZAHD、GAND)。
あらゆる現象を2つの範疇(水と火とか、湿気と乾気といった、相対立するシンボルによって支配された2つの範疇)に分ける基本的区分の仕方は、アステカ族の葬儀にかかわる宗礼のうちに、顕著な例証を見出す。他方もろもろの事実の示すところによっても、《天地》は、本来1対なりという観念を伴った、この象徴的二元性のアナロジーは成り立つ。「溺れて死んだり、雷に撃たれて死んだ者、ハンセン病や痛風や水腫にかかって死んだ者のすべて、要するに水と雨の神がこの世から連れ去ることによって、いわば区別した者のすべて」は土葬にされた。それ以外の死者は、すべて火葬にされた(SOUA、231)。
〔ケルト〕 水と火のかかわりは、ケルト人の葬儀にも見出される。清めの水は、ドルイド憎が魔力を追い払うのに使ったもので、その水の中に、「供犠の火床から取り出した燃えさしの薪を入れて消した。ある家に死人が出ると、その家の戸口に、死人のまったくいない家から運んできた清めの水を一杯入れた大瓶を置いた。この家にお悔やみにきた者は、全員、家を出るときこの水を自分の体に振りかけた」(COLD、226)。
アイルランドのあらゆる原典で、水は、ドルイド僧に属する自然の基本要素とされ、彼らは、水を「縛(いまし)める」権利と、その縛めを「解く」権利を持っている。コーマク王の、悪いドルイド僧たちは、こうしてマンスターの水を縛め、そこの住人たちを、渇きによって服従させたし、またその水の縛めを解いたのもモグ・ルースというドルイド僧である。溺死刑は、不義を働いた詩人に適用される刑罰である。しかし水は、また、清めとしての価値により、〈受動的純粋性のシンボル〉である。水は、これに呪いを唱えて、預言を引き出す詩人たちにとっては、〈啓示の手段で場所〉である。ストラボンによれば、ドルイド僧たちは、世界の終末に(本源的要素である)水と火だけが支配するだろう、と確言した(LERD、74?76)。
〔ゲルマン〕 ゲルマン人の場合、全生命の祖となるのは、永遠なる氷の表面に、春最初に流れ出る水である。それというのは、この水が、《南》の風により生気を与えられ、集まって、生ける肉体、最初の巨人ユミルの肉体を形づくり、そこから他の巨人や人間、場合によっては神々までが生まれ出たからである。
〔ギリシア・創世神話〕 女性の、血祭としての水、淡水、湖水、淀んだ水と、海の、泡立った、豊餞化する、雄性の水といった具合に、へーシオドスの『神統記』では、入念に区別がなされている。大地(ガイア)は、初めに、「快楽を味わうことなく」、ボントスという「不毛の海」を産む。ついで、大地は、その息子ウラノスと交わって、「大きな深淵を持った大洋」をもうける。「大地は、情愛の助けを借りずに、波の荒れ狂う不毛の海を産んだ。だが次には、天との抱擁により、大地は、深い渦巻を持った大洋を産んだ」(へーシオドス『神統記』130-135)。不毛の水と豊饅な水の区別は、へシオドスの場合、愛の介在に関連づけて考えられている。
〔トルコ・バビロニア〕 生命を誕生させた大地の血祭としての淀んだ水も、多くの創造神話中に見られる。中央アジアのトルコのいくつかの伝承によると、水はウマの母である。バビロニアの宇宙発生論では、まだ天も地もなかった一切の始まりにおいて、「未分化の物質である原初の水だけが、ずっと昔から広がっていた。その塊から、アプスーとティアマートという2つの基本的原質が現れた……。アプスーは、男神とされ、大地を浮かべている淡水の塊を表す。……ティアマートの方は、海、塩水の淵に外ならず、そこから全被造物が出てきた」(SOUN、119)。
〔エジプト〕 同様に、水の中から顔を出した泥土の頂き、これがエジプト神話中に最も頻繁に見かける天地創造のイメージである。「原初の水から現れた大きなハス、これが最初の朝の太陽の揺りかごであった」(POSD、67、154)。
〔ドイツ・ロマン派〕 女性的、官能的、母性的なものとしてとらえた水を、みごとに歌ったのは、ドイツ・ロマン派の詩人たちである。その水は、夜の、月光にきらめく乳白色の湖水で、そこにリビドーが目覚める。「水という、空気の融解から生まれた、この最初の子供は、その享楽的な素姓を否認することができず、天の全能とともに、愛と結合の要素として、地上に現れる……。古代の賢者たちが、水のうちに万物の源を求めたのは誤りではない……。我々のあらゆる快感は、つまるところ、我々の内にあるこの本源の水の運動が、我々の内において、種々の流れ方を示す結果にすぎない。眠り自体、この見えざる宇宙の海の上げ潮に外ならず、目覚めはその引き潮の始まりにほかならない」(ノヴァーリス、NOVD、77)。そしてこの詩人は、「詩人たちだけが液体に関心を持つべきであろう」と結論を下す。
〔精神分析〕 大地とその住人に、豊饅をもたらす源という、水の古いシンボルから、魂に豊穣をもたらす源という、水の分析的シンボルへと、我々は立ち戻ることもできる。そこでは、川や海が、人間存在の歩みと、欲望や感情の変動を表すことになる。大地についてと同じく、水の象徴体系の場合も、表面と深部を区別してしかるべきである。航海ないし水面での主人公たちの彷捏が意味するところは、「彼らが人生の危険にさらされている」ことであり、「この危険を、神話は深みから現れる怪物によって象徴する。海中の領域は、こうして、潜在意識のシンボルとなる。退廃も、土の混じった水(地上的欲望)や、その浄化の特性をなくした淀んだ水(澱や泥土や泥沼)で象徴される。凍った水、氷は、最高度の淀みを、魂の熱気の欠如、愛という活力のある創造的な感情の不在を表す。つまり、凍結した水は、精神の完全な停滞、死んだ魂を象徴する」(DIES、38-39)。
水は、無意識のエネルギーと、魂の定かならざる原動力と、密かな未知の動機のシンボルである。夢の中で、かなりしばしば起こるのは、「釣りをしながら水辺に座って」いることである。「いまだ無意識な精神のシンボルである水が、魂の内容(釣人が水面に引き寄せようと努めており、やがて彼の心の糧となるはずの魂の内容)を閉じ込めているのである。魚は心的な動物である……」(AEPR、151;195)。
〔フランス・文学〕 ガストン・バシュラールは、明るい水、春の水、流れる水、恋情を起こさせる水、深い水、眠っている水、死んだ水、複合的水、淡水、荒々しい水、言葉を自由に使う水などに関して、精緻をきわめたヴァリエーションを描いたが、それらのことごとくが、この鏡のようにきらめくシンボルの持つさまざまな面を示している(BACE)。
「鏡というよりは微かな震……小休止にして愛撫、泡の合奏にかさなる、流れるような弓のパッセージ」(ポール・クローデル)。
〔現代・環境学〕 ジュール・グリティが、1976年に「情報・伝達研究センター」(CRIC)のために、水の浄化と再生のキャンペーンを準備する目的で行った調査は、都市と田園の住人のうちに、水の象徴体系が根強く生きていることを明らかにした。汚水は、腐臭や汚物や病気や死のように、嫌悪を催させる。「汚染は水のガンである」。全員が水を原初的な生命の基本要素と考えている。「命の泉であり……水がなければ、命もない……太陽と同じくらい不可欠な……生命の縮図」である。25歳以上の女性、とくに母親たちは、女性と水との間の、特殊な関係を感じている。調査書の著者は、次のように結論を下している。「基本的なンボルが……人間の心と想像力のうちに、集団の精神構造のうちに、根強く生きていることを、我々はもう1度確認する。技術化され、工業化された文明は、それがもたらす、欠乏と汚染によって、欲望と不安をかき立て、ものをいうさまざまなしるしへの欲求をも勢いづかせているのである」。
(『世界シンボル大事典』)