井伊家 最後の家臣団 彦根藩 家老 貫名筑後
井伊家 最後の家臣
井伊中顕 (いい なかあき)
このページでは、史料を元に貫名筑後に関するさまざまなことを記していきます。
父、井伊中顕について
貫名筑後の父である井伊中顕は、11代藩主 井伊直中の6男として寛政11年(1799)に生まれました。通称は恭之介といいます。ちなみに知名度の高い井伊直弼は、直中の14男で弟になります。
恭之介は、生後間もなく中野助太夫家の婿養子となりましたが、文化13年(1816)に直中の反感をかうできごとがあり、養子先の中野中経は隠居を命じられます。そして、恭之介は井伊家へ取り戻され、井伊の苗字と直中の“中”の字を頂いた井伊中顕を名乗ることとなります。
筑後の名の始まり
中顕は、文化14年(1817)に直中から筑後の名を頂きます。(後に、この筑後の名を頂き 貫名茂代治→貫名筑後となります) 当時、世子以外は他家に養子へいくか、扶持を与えられ部屋住みとなることが習わしでしたので、生涯において井伊姓を名乗り、知行を与えられた中顕は特別な存在でした。兄である井伊直亮とは、たびたび御殿を一緒に散歩する仲で、そういった境遇のもと、中顕の性格は大変気高いものとなっていったようです。
宝珠院 生前行年八十ニ歳真像
宝珠院 (写真師 田本研造)
井伊中顕の正室であり、筑後の母である宝珠院です。墨書きで、『明治二十四年六月下浣 函館■會所町 寫真師田本ニ於而 貫名顕義之ヲ腹寫セシム』とあります。維新で職を失った彦根藩士の間では、新天地を見出そうと北海道に行った方が何人かおられ、筑後の弟である 貫名顕義もその一人でした。顕義は、昆布を扱う会社を函館に興し、宝珠院はたびたび函館を訪ねております。因みに、田本という方は日本の写真界の草分け的存在の方で、土方歳三の洋装姿の写真は特に有名です。
筑後の妻 道子
横地家は美人の多いことで有名でした
筑後は22才で、藩士 新野親良の養女と婚姻します。
江戸時代の武家社会では、個人ではなく家を単位とした縁組が進められました。筑後との婚姻に向けて、嘉永3年(1853)6月27日に横地家から新野家への養女願いが出され、同月末に筑後との縁組が許され、12月18日に婚姻の運びとなります。その3年後に妻は亡くなったのですが、その方の妹である道子(写真の方)と再婚します。
貫名家の再興
貫名の苗字は、家祖井伊共保から4代後、井伊盛直の子 政直が遠州(静岡県)山名郡貫名郷に来て名乗ったことが始まりとされています。【保元 元年(1156)井伊氏、赤佐(奥山)貫名(袋井)の三家に分かれる。関連する話として、貫名家4代目貫名重忠は日蓮聖人の父とされています。 由緒ある名跡とされながら、彦根の井伊家においては長らく絶えておりました。このことを憂慮した11代藩主井伊直中の指示で、静岡にある菩提寺龍潭寺(りょうたんじ)と彦根にある清凉寺(せいりょうじ)の過去帳を調べ、後に井伊中顕の子 筑後が貫名家を再興することになりました。
井伊家へ宛てられた貫名重忠の末孫からの書状
井伊家と日蓮宗 (天明七年 丁未 1787)
書状には、貫名姓は特別なものであるといった意味を込めて、井伊家へ日蓮の佛舎利を進上する旨が書かれてあります。
貫名重忠を日蓮の父とする日蓮宗のなかでの貫名姓や、当時の藩主井伊直英(直幸)の時代にさかのぼった
井伊家のなかでの貫名姓の存在といったものが想像できます。
10代藩主 井伊直幸(直英)筆 馬図
筑後は、直亮に伴われ、よく弓馬の修練に出かけました。特に流鏑馬(やぶさめ)の上手さには定評があったようですが、こんな逸話も残されております。
ある時、直亮は馬役の者に「筑後に分からぬように、お茶の葉を混ぜたものを食べさせ、暴れ馬にするように」と命じました。少し驚かせてやろうといった思惑だったのでしょうが、筑後は見事なまでに馬を従えて直亮の御前に登場したそうです。
また、井伊直弼が弘化3年(1846)に江戸より彦根へ宛てた書状には、筑後は騎射が上手であることが書かれてあります。(正確には、直亮の下で気ばかり高くなった筑後に対し、「もっと見識を広めなくてどうするのか!これでは将来を案ずる。」といった内容ですが。)
井伊家での筑後の存在
父、中顕が気高い人であったことは前述しました。そのような気風に影響されることを心配された筑後は、中顕の元から引き離され、15才までの間を直亮の御殿で過ごしたのですが、井伊直亮という方も長年にわたり大老を務めたような人でしたから、そういった意味では、親元を離した甲斐があったかどうかは疑問の残るところです。
〜 ここで、弘化2年(1845)にスポットを当ててみます 〜
筑後14才、中顕46才、直亮52才、直弼30才。
藩主である直亮には実子がいませんでしたから、年齢的にも筑後の存在は楽しみなものであったでしょう。直亮は、直弼のことを疎んじていたようですから、直弼からすれば、筑後・中顕・直亮の関係は少なからず気になっていたと思われます。(筑後が貫名を名乗るまでは、井伊姓であったことなど)たとえば、兄である中顕と直亮のことは承服できたとしても、筑後が若くしてそのような風を吹かすことは、直弼の生い立ちから言って、鼻持ちならなかったのではないでしょうか。
井伊直弼が同年に江戸より彦根へ宛てた書状には、「貫名氏之勢ヒ不怪事、世間ニても是の評判に候・・・」と始まるものがあります。
大政官提出用 履歴書より
現在まで、筑後がいつ頃から貫名姓を名乗っていたのかは不明とされてきましたが、大政官に提出したものと思われる新たな史料から詳細が分かりました。
生まれた当初は井伊茂次郎と称しています。そして、弘化2年7月に直亮の養い(養子とは異なる)となり、これを機会に貫名茂代治と改めたことが記されています。
井伊家において特別な名跡を、14才という若さで再興するに至ったのは何故なのでしょう?
当時の14才は成人と見なすのか、あるいは、中顕が井伊姓を名乗り続けてきたことに区切りをつけなくてはいけなかったのか・・・
それとも、直亮に考えるところがあってのことなのか。
いずれにしましても、直弼が江戸より書き記した「貫名氏之勢ヒ不怪事・・・」の手紙が、直亮の養いとなった翌月に書かれていることなどと共に、筑後の井伊家での気苦労を想像してしまいます。
家紋を見る
家紋にはさまざまな意味が込められており、その家の歴史を語り継ぐ分身とでも言えるでしょう。使用にあたっては許可を願い出、時には、藩主から使用の禁止・変更
が申し渡されたりと厳格に管理されていました。彦根藩の家紋は橘と井の字が変形したものが基本となっていますが、これは、『家祖 共保は井戸から生まれ、その手に
橘の木が握られていた』といった逸話からきています。
日蓮宗の寺門はご覧の通りで、井伊家との関係を連想できますし、貫名家は実の部分の線が増えており、こちらは本流からは一歩下がりましたという意味合いが
込められています。
彦根井筒 |
彦根橘 |
貫名家 |
日蓮宗 寺紋 |
彦根城の二の丸稲荷 と 神仏習合のご神像ニ玉稲荷
不確定ではありますが、今日までの調査結果を元に修正いたします。(2011/4/5)
今までは一柱のお稲荷様として書いていましたが、伏見稲荷の方に再考いただきましたところ、『二の丸稲荷と二玉稲荷のニ柱である』
となりました。それを受け以下を記します。
一つは、霊験あらたかなお稲荷様として古くから言い伝えられている二の丸稲荷。その名の通り彦根城二の丸の神様で、
中顕と筑後が住んでいた屋敷図にその印が見られます。いつ頃から鎮座されているかは、伏見稲荷が発行する書付が見つかっておりませんので現時点では分かりません。
もう一つは、写真に見られる二玉稲荷です。御年193才、推測ですが、中顕が養子先から引き戻されたのが文化13年(1816)で、その頃を基準にしますと、1622(元和8年)彦根城築城にまつわるのでしょうか?こちらは神仏習合の影響を受けた興味深いご神像があり、京都大学の客員教授・仏像彫刻・伏見稲荷の神職・高麗美術館・・といった多くの専門家に見ていただきましたが、皆さんが初見で詳しいことは分かりませんでした。
御出生 丹後山中・新田大明神様御種といったことから、今後新たな発見があるといいのですが・・・
開運と勝利の神 魔利支天
魔利支天(まりしてん)は、天部(仏教を守る神々)のなかのひとつで、陽炎(かげろう)が神格化されたものです。陽炎は実体が無いことから、
『敵に捕らえられて傷つけられることが無い』といったように転じ、兜の中に魔利支天の小像を忍ばせるなど、古来より武士が崇拝する神様として広まりました。
京都 建仁寺の境内にある摩利支尊天堂(日本三大魔利支天)には、見えないとされている魔利支天の像があるのですが、手には様々な武器を持ち、たとえば、
針と線は敵の眼と口を縫い合わせ黙らせてしまうために持っているのだそうです。
写真は魔利支天の御鞭(むち)ですが、魔利支天の手に握られる武器ではなく、信仰する者が呪術を執り行う際に使ったであろう物と思われます。
呪術のことは秘法とされており詳しく分かりませんが、誰にも知られないように敵の名を紙に記し、鞭で叩くといった使い方が伝えられています。
勝負は時の運ではなく、自らが働きかけることによって戦の勝利を確信しようとしたのでしょうか・・・
乾闥婆王 曼荼羅(けんだつばおう まんだら)
神様の話ばかりが続きますが、もう少し神仏の信仰に触れてみたいと思います。
写真は乾闥婆王の曼荼羅です。私たちが目にする機会の多くは立像になりますが、左の写真では岩の上で足を組み、大きな眼を見開きながら、
左手に宝珠、右手の三戟に十五鬼の首を貫いた姿で描かれています。周囲の動物は、その鬼たちが恐怖におののいている様子です。
この鬼神は、左下の牛から時計回りに猪・野狐・猫・鳩摩羅天・児・女・婦女・鳥・雉・彌猴・羅・獅子・馬・蛇とされており、
不思議な組み合わせといった印象を持ちます。乾闥婆王は、酒や肉を食べずに香りを栄養とし、大勢の神の前で美しい音楽を奏でる神だそうですが、
描かれた曼荼羅の迫力からは、そのような繊細な神の印象は想像もできませんね。
井伊神社と佐和山神社
往時の雰囲気を残す権現造の社殿(井伊神社)
11代藩主直中の時、藩祖 井伊直政・2代 井伊直孝を祀るため、清凉寺の南側の辺りに護国殿が建てられました。明治になって、護国殿は
神仏分離令により清凉寺の境内から離され佐和山神社となります。
筑後と、息子の貫名豊蔵は佐和山神社宮司でしたが、やがて宮司不在の神社となり、昭和13年(1938)に佐和山神社は井伊神社に合祀されます。
現在の井伊神社もまた、その経緯をなぞるかのように荒廃が進んでいるのですが、その原因のひとつに、『神社のお務めは、井伊家ゆかりの者に限る』
と制約されていたことが挙げられます。往時を偲ぶものが無い佐和山神社ではありますが、実は、建物は昭和20年の戦災で焼失した
敦賀市の天満神社に移築されています。
敦賀の村から、養子先として彦根藩の大工方で何人かが働いていたそうで、そんなご縁から敦賀の地に残っているそうです。
佐和山の下には、4代藩主 井伊直興が日光東照宮修営の総奉行をしていた時、日光造営にあたった大工達を招いて建築をさせたといわれている彦根日光
大洞弁才天があります。
佐和山神社の由緒
境内 千九百坪・信徒 二万七千三百七十人 (佐和山神社)
佐和山神社の由緒書きは、『滋賀縣 犬上郡 青波村 大字古澤 字石ヶ嵜 鎮座』と書き出されます。 ※現在では彦根市古沢町として地名を残しています。
かつて琵琶湖だったこの一帯は、戦時中に埋め立てられてしまったので、昔の風景を知る人は少ないでしょうが、『石ヶ嵜(崎)や古澤』からは山の姿が浮かび、
『青波』の地名からは、さざ波の音や、いにしえの青が映し出される気がします。