幕末・明治維新の頃
幕末・明治維新の頃
桜田門外の変を胸に秘め
2008年は大河ドラマ『篤姫』がブームの年でした。2010年は『坂本龍馬』と決まっており、今後、幕末の史跡巡りに京都を訪れる人が増えるでしょう。
尊皇・攘夷・倒幕 いろいろな信念を胸の内に、自分の置かれた立場でより良き日本を目指した時代を、このページでは、幕末の京都を行き来した1人の
彦根藩士【貫名筑後】の侍中由緒帳を元に触れてみたいと思います。
貫名筑後について 井伊家最後の家臣団
彦根藩の家老で、井伊家の庶流である貫名家を再興しました。父は井伊直中の六男で井伊中顕(なかあき)です。
桜田門外の変により藩主直弼を失った彦根藩にあって、幼君直憲らと共に藩の信頼回復に尽し、藩政転換を進め、幕末から明治にかけてを生きた人であります。
茂次郎、茂代治、筑後、亮寿、徹は幼名と明治以降の改名を含む同一人物です。
天誅組 方広寺に集結
京都の方広寺は、「国家安康」「君臣豊楽」の隠し文で有名な梵鐘や、奈良の大仏様より大きな大仏様があった所として知られておりますが、
中山忠光を中心とした天誅組が、五條代官所(奈良)へと向かった出立点でもあります。
また、旧境内南門の辺りに坂本龍馬が住んでいたことなど、かつては土佐色の濃い地域でした。
【貫名徹 侍中由緒帳より】
一 同月晦日、大和路江支度次第急発被仰付候
但、九月朔日、松原村ヨリ乗船ニ而発足、十月十三日、到帰着候
筑後は1863年(文久3)8月に挙兵した天誅組追討総大将として出兵しました。特に鷲家口(わしかぐち 奈良県東吉野村)
に於いての戦いは激しかったようで、彦根藩分隊長:大館孫左衛門が那須信吾の槍で、彦根藩歩兵頭:伊藤弥左衛門が植村貞七により切り倒されました。
日頃より御家来衆を大事にした筑後は、2人の死を無念に思い、墓を建て手厚く葬ったと聞きます。2人の墓は、天誅組の犠牲者とともに宝泉寺
(奈良県東吉野村)に埋葬されております。
禁門の変(蛤御門の変)
1865年3月8日
殿様御出駕御供之節無滞相勤、猶又堺町於
御門内長賊乃乱妨其節指揮行届候段御懇之
御意之上、御手自猩〃緋御陣羽織地・御三
所物致拝領候
禁門の変に関する記述に、1864年6月28日「此度京都不穏之趣従御所御沙汰ニ付・・・」とあり、筑後は29日に船で京都へと向っています。
長州勢が、幕府軍との戦争(禁門の変 7月19日)に向けて、6月には京都周辺に集結し、ただならない緊張感が満ちていたと思われます。
(蛤御門には、今も数箇所被弾した痕が残っています)
第2次長州征討 被弾
筑後は、第2次長州征討(野坂戦争)で弾を受け負傷しています。
1866年6月16日
於芸州広嶋野坂戦争之節致
怪我候ニ付、従
殿様為御尋御使者御側役宇津木左近被成下
置、御懇之御意之上氷砂糖壱箱戴候
現代からすれば「死ぬ思いをしながら、氷砂糖で喜べるのかな?」とも思いますが、それほど砂糖が貴重なものであったのでしょう。
単純に甘いものといったことを超えて、薬、もしくはそれ以上に意味のあるものとして扱われています。
天誅組追討 ・ 禁門の変出兵 ・ 天狗党追討 ・ 第2次長州征討
写真は貫名家に残されている魚籃観音像(ぎょらんかんのんぞう)です。筑後は、天誅組追討・禁門の変出兵・
越前への天狗党追討・第2次長州征討といった多くの戦いに参戦したのですが、出陣の際には、
こちらの観音様を必ず携帯し陣中に据え置きました。
観音様の前を中山忠光が走り抜け、時には天狗党追討に寄せる彦根藩士の思いを感じ、新政府側として幕軍に大砲を打ち込んだことも知り・・・
歴史の事実を目の当たりにしてきた観音様が、今に伝えることとは一体何なのでしょうか。
写真で繋がる幕末 京都 堀与兵衛写真館
写真は、このページの最初に紹介したものと同じですが、ここでは、ハイカラな印象をうける市松模様の敷物に注目します。
【四条通・鴨川の東】現在は『くずきりで有名な鍵善』さんの辺りに、京都の写真館の草分け的存在である堀与兵衛写真館 祇園支店がありました。
写真の市松模様の敷物を使った撮影は、この写真館の典型的な写し方として知られております。
(2009/6/27 古写真研究家 森重和雄氏来訪 @写真の確認 A堀写真館 入日記覚書帳に「慶応三年十月十五日 一、金三分 彦根様紙写 一人」と記入されてあること
B侍中由緒帳に京都にいることが記入されていること 以上3点より堀与兵衛写真館にて撮影されたものと確認されました。)
堀与兵衛の写真館では、中岡慎太郎や近藤勇。池田屋を襲撃した新選組の志士たちが数多く撮影されています。
写真館という思いがけない場所で、意外な人物が集っていたことに興味が尽きません。
初代滋賀県令 松田道之からの書面
政府を妨害する人物をかくまったことに対して、貫名に厳重な刑罰を与えることが記されてあります。
藩としては新政府側についたものの、頼ってきた旧知の仲間に対して知らぬ顔は出来なかったようです。
「速やかに申告セサルノミナラス酒食旅金等助力スル・・・」 当時の心情を語るひとつの事実です。
筑後の屋敷は、現在の彦根東高校の中にありました。世の流れではありましたが、人の出入りも多く賑やかだったお屋敷から、一人、また一人と御家来衆が去っていきました。
いよいよ屋敷を引き払わねばならない頃、池のそばにあった大きなイチョウの木から、銀杏の実がポトン、ポトンと落ち、静まり返った屋敷中にその音が響き渡ったそうです。
その音に自分の心境を重ね合わせ、例えようのない寂しさを嘆き悲しんだと伝え聞いております。