古代ギリシア・ローマの世界では、十字路はへカテ・トレビア(三叉路のヘカテー Hecate)に捧げられた。このへカテーは三相一体の女神ディアーナの老婆の相を表す者であり、「十字路の神々」Lares compitalesの母親であった。旅人たちはヘカテーの三相の像に供物をそなえた。コムピタリアCompitaliaと言われた祭典は定期的に行われ、道端にあったヘカテーの神殿で催された[1]。
4つの道が交叉する四つ辻は、ときには、ヘルメースHermesに捧げられた。そして、その四つ辻のそばには男根柱像hermsが立っていた。のちには、それに代わって、キリスト教徒たちが十字架を道端に立てた。しかし、このキリスト教の十字架のしるしは、。ヘルメース崇拝をまねたものであり、ヘルメース信者が頭や胸にヘルメースの聖なる数字4をつりていた故事によったものであった。ヘルメースの十字標は、 10世紀のアイルランドでは、まだ十字路に残っていた。その十字標は、異教の神ヘルメースのもう1つのしるしである「ヘビの杖」の2匹のヘビであることがはっきりとしていたけれども、何の疑いもなくキリスト教のシンボルであるとされていた[2]。十字架、ヘルメース柱像、ヘルメースの杖が、北欧のシンボリズムに、オーディン(ヴォータン)の絞首台の木とともに、吸収された。このことが反映して、キリスト教でも、十字路に十字架のみならず絞首台を立てる習慣を持つようになった。絞首台に掛げられた神は、昔は、十字架に掛けられたイエスと同じ役割を果たしたのであった。生贄として死んでいく神の像があったために、十字路は神聖なものとなった。キリスト教以前のヨーロッパでは、人々は十字路で集会mootを開き、その進行状況を神々に見てもらった。そのために、集会で決定されるべきことがmoot point(問題点)と言われるようになったのである。大地母神としての女神は、「自然法」の執行者であり、生誕と死をくり返す輪廻を司る創造女神であるが、つねに、生贄として死んでいく神が死ぬ場所にいた。このことは女性たちが長い間記憶していたことであった。女性たちは生まれたばかりの子を古代の母神に捧げることを習慣としていたが、イギリスの修道士アルフリックはこのことに対して不満をもらした。彼は、女性たちが「十字路に行って、子供を地上に寝かせ、そして、自分と子供を悪魔に捧げている」[3]と言った。
こうした十字路上の儀式と、その神々が悪魔のものであるとされるようになるにつれて、集会の女神は魔女たちの女王となり、十字路で魔術を行うものとされた。『ソロモンの鍵』(有名な魔術の本で、11世紀から13世紀にかけておおいに用いられた)によると、十字路は、「静かに更けた真夜中」、魔術を行うのには最適の場所であった[4]。吊された人々や、異端の者や、古代において神託を告げた人々の亡霊が、今なお、十字路に出没する、と言われた。バーナード・ラグナ(『クリスマスの伝説と習慣』 1925年、の著者)によると、クリスマス・イプの真夜中に十字路に行ってみると、誰でも自分の未来を告げてくれる霊の声が聞かれる、ということであった。 1920年代になっても、イギリスの農夫たちは、依然として、魔女の集会が十字路で行われている、と信じていた。十字路の不浄な地に犯罪人や自殺者を埋めるという習慣があったために、十字路が魔術と関係があるという迷信が強かったのである。そのようにして埋められた者は誰でも、亡霊となって出没する、と聖職者たちは言った。そのため、ときに、そうした死体に杭を打つことがあった。「亡霊がさまよい歩かないようにするために、十字路に置くときには、杭を死体に打った」[5]。おそらく、死者の霊はその眠っている教会の墓地から、魔術師たちによって起こされるのと同じように、亡霊の声を聞きたければ十字路に行けばよいと思われたことであろう。このようにして、昔は死者の霊魂を導く神であったヘルメースとヘカテーは、かつて慈愛深く統治していたその同じ十字路上で、恐ろしい「魔術」の神になってしまったのである。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
〔一般〕 十字路は全世界のいたるところで象徴的重要性を持つ。道の交差という状況はそこに立つ者にとって、十字路を世界の中心、真の中心のようにする。十字路の象徴的重要性はここから来る。すぐれて顕現の場(超自然的なものが出現したり、啓示がなされたりする場所)である十字路には味方にすると有利な、大体は恐ろしい霊が出る。どこでも伝統的にオベリスクや祭壇、また石や小聖堂や立て札が十字路に建てられた。そこは足を引き止め思索に誘う場所である。十字路はまた、1つの世界ともう1つの世界、ある生活と別の生活、生と死をつなぐ経由地でもある。
〔中南米・慣習〕 ペルーのアンデス山中には本物のピラミッドが十字路に築かれ、旅行者は奉納の石をそこに置いていくのがしきたりだった。これは現在も残る伝統である。同様の伝統が、シベリアでも確かめられた。お産で死んだ女たちが幽霊になって出るとアステカ人が考えるのも、やはり夕暮れの十字路である。女たちは危険な霊となって、「出会った人間に恐怖を与え、このため彼らは、てんかんや麻痺を引き起こす」。
〔アフリカ・慣習〕 アフリカの、とくに森林とサバンナ地域で十字路は聖なるものとして重要性を帯びる。遊牧の民であるフラニ族は林間の空き地の十字路で顔を合わせればそのたびにこれに名前を施す。それは出会いの十字路、あるいは居留の十字路とされ、一定の祭式の後に聖なる地となる。先導の師、秘儀通暁者は夢により、または特殊な植物を使い、この場所の精霊たちと交流する。そして秘められた力の濃さによって、そこは居留の地あるいは数日間の出会いの場となるのである。動物、ぶちのヤギや、雄ウシ、ヒツジが生贄にされる。またこの十字路で鳥たち、ことにキジバトの鳴き声と動きから占いがされる。キジバトは神々の使いで敵意のない心の持ち主だからである。
アフリカのマリのバンパラ族は十字路に道具、生綿、布など、霊であるソバたちへの供物を置く。ソバは頻繁に人間の運命に介入してくる霊である。パルバ族、ルルア族、その他のカサイ地方に住むパンツ一語族の場合も同じである。
通過地である十字路は、誰がしたのか知られないまま、共同体にとって否定的で使い道のない危険な残りかすを処分できる場でもある。たとえば、バンパラ族は村のごみをそこに捨てるが、ごみには霊たちが中和したり、プラスの力に変換できる不純な力が詰まっているからである。同じ理由で、彼らは死者の持ち物を十字路に置く。十字路の精霊たちはこのように捨てられた力を吸収するとみなされている。そうした力は「1種の食物であるが、精霊たちは、この食物から汚れをすべて拭い去ったうえで人間に贈り物として返す」ことになっている。集団生活上重要な種蒔きのとき、この精霊たちの加護が請われる。やはりバンパラ族で、目に見えない霊たちを一番恐れずにすむ老人たちが、正式な父親の子ではないと思われる赤ん坊を十字路に捨てに行く。ここにはまた異常者、とりわけ水頭症者が埋葬され、割礼を受けた者が忌みごもりの間に「汚した」物が捨てられる。この期間は子供でもなければ大人でもない通過の時期とされ、彼らが触れる物は「不純」になるからである。中央アフリカのコンゴのリクバ族、リクアラ族も同じような信仰を持ち、十字路に危険な力を持つごみを捨てる、とJ・P・ルブッフが書いている。
〈他界〉の十字路もこれに劣らず重要で恐ろしい。カサイのパンツ一族は神の裁きが行われるのは《銀河》の十字路であると考えている。そこで、地界と超越的な天界の途中にある魂たちが《東》と《西》、すなわち楽園の方向か、地獄の方向かに振り分けられるのである。
このシンボルを実際に応用して使うことは多く、たとえば、十字路の土は神明裁判や占いで使われる材料の1つになった。畑の世話をする役目を負うルルア族やパルバ族の女たちが初穂を奉納するのも十字路である。村が飢饉に脅かされると、村人全員が近くの十字路を行列して回り、それぞれの十字路に先祖の魂に捧げる食料や古い家庭用品を置く。子供が離乳し、授乳期に伴う性交渉の禁忌の明けた女性が死んだ子供たちの魂に白い雌鶏を捧げに来るのも十字路である。
セヌフォ族も十字路に捨てられたごみの山を「夜になると家の守護霊がよく訪れる」聖所とみなす。彼らはそこにたまごの殻や、守り神に捧げられた動物の骨や、血とまぜあわせた家禽らの羽などを祈願成就の奉納物として置く。この奉納物の選択により、セヌフォ族が十字路・ごみという複合体に再生の力があると考えていることがはっきりとわかる。
B・オラーの著作で引用されているJ・イトマンによれば、カメルーンの森林地帯で十字路は豊餞の儀式にかかわる霊たちと関係がある。ギニアでは十字路の供物が数多くの部族、ヤクバ族、トマ族、ゲレ族、キッシ族、その他で確認されている。
アポメイでは「四方位を見る者」と呼ばれる神オリリメリを、4頭人面で表す像が、ナイジェリア(ヨルバ族)にあることをR・E・デネは、伝えている。
バンパラ族にとって十字路は、「中心点、創造以前の神の始原の状態を現している。それは創造主が空間を規定し、創造を秩序づけるために、すべてに先だって自分自身の本質を用いて描いた原初の交差点の転写である」。
〔アメリカ・ヴードゥー教〕 これらの伝統は黒人奴隷によってアメリカに伝えられ、さまざまに混じり合った。ヴードゥー教の儀式で第一番に祈りを捧げられる神はレグバ、あるいはダホメのフォン族ではアテイボン・レグバ、またハイチではエシュ・エレグバラ、またナイジェリアやブラジルのヨルバ族では単にエシュと呼ばれているが、この神は人間と他の神々の間をつなぐ伝令とみなされている。ブラジルではこの神を「十字路の人」と呼ぶが、それは「2つの道が交わる所にはエシュがいて、エシュが人間に占いの術を授けたといわれるからである」。キューバでは「エレガ」(リュディア・カブレラ)の名で、そしてハイチでも、アフリカと同じように、この神は門に現れる。なぜなら「道を開けたり、閉じたりする」からである。この神はハイチでは十字路と街道の主、あらゆる入り口の番人で、呪術を司る神である。呪術師は十字路でこの神に祈藤を捧げ、呪術を行う。あらゆる象徴的形象と同じく、レグバにも吉凶の2面がある。凶の側面を示す例は「レグバ・アオヴィ」または「不幸のレグバ」といわれる小像である。ダホメのフォン地方の森のいくつかの十字路に建てられているこの像を見ると孤児になる危険があるとされる。
〔ギリシア・神話〕 十字路は運命との出会いの場である。オイディプースが父親のラーイオス王を出会いがしらに殺し、悲劇が始まるのは十字路である。自分の運命からひたすら逃れようとした長い旅路の果てに、まさしく、1つの十字路でその運命が彼に襲いかかるのである。
人はそれぞれ十字路、交差点である。そこで自分自身のさまざまな側面が交わり、競い合うからである。天上の女神、海洋の女神、冥界の女神というアプロディーテーの3側面はよく知られている。彼女は貞潔の女神、豊鏡の女神、売淫の女神でもある。彼女は交差点において卑俗でみだらな愛の女神となる。ラテン語の〈トリウィウム〉(trivium)は交差点を意味し、フランス語のtrivial(下品な、卑俗な)の語源であることは興味深い事実ではないだろうか。交差点に長居する女神、交差点のアプロディーテーは通りすがりの愛を象徴する。彼女は彫刻家スコパスの作品では自分の乗るヤギと一心同体なのである。
〔ローマ・宗教〕 ローマ人は不幸な運命に出会わないように、ラール神を十字路の守護神とし、これを礼拝した。土地の神々の保護、交差する街道のまわりの家々への加護、付近の種蒔きをした畑の庇護、村や都市の保護を得ようとして、ローマ人は十字路に供物をしにやって来た。そして、そこには小聖堂でなければ、少なくとも祭壇が造られた。こうした建造物の側には休息や瞑想のためのベンチが置かれた。
1月(門の神ヤヌスの月)に行われた十字路のラール神の祭りは市民のあいだで非常に重要なものとなった。そこで、アウグストゥスはラール神を自身に対する崇拝に取り込んで、ラール神の像に自分の像を付け加え、万人の運命の《保護者》と認められようとした。
〔インド〕 インドでも、加護を求める祈願の祭式が十字路の通過を助けるために決められていた。ヴェーダの結婚の典礼によると、新婚の2人の乗った牛車が娘の家から新居へ行くとき道の交わる所を通ると、行列の人々全員がこう叫ばねばならない。
「うろつき、うかがう悪鬼ども、
やつらが新婚夫婦を見つけぬように、
正しき道より彼らがここから出られますよう
悪鬼どもが走って逃げ出すように
お前の車の2つの車輪、おお スールヤ
祭司はそれらをよく知っている
しかし、秘密に包まれた〈唯一の車輪〉
それが何か知っているのは霊感を受けた者のみ」
(『リグ・ヴェーダ』、『グリヒヤスートラ(家庭経)』1、6VEDV、310)
〔ギリシア・神話〕 ギリシア神話の中で、定義も、起源も、活動の範囲も不明確な、ある1人の神が「交差点の女神」と呼ばれたが、それがへカテであった。彼女は、アルテミス、デーメーテール、アポッローン、さらにまた他の神々、女神たちと混同されるこの「職能」名がつけられたのは、彼女を3つの世界、天界、地界、冥界の支配者とすることで意見が一致していたからである。彼女は3つの身体、3つの顔を持ち、人間へのあらゆる幸の分配者、あらゆる栄光の源、そして呪法の最高権威という3役を演じるとされた。街道の十字路や道の合流する林間の空き地に3つの頭か、3つの身体を持つ女神の像が建てられ、旅人が供物を供えた。彼女は誕生を助け、命を保ち、終末の日を定めた。古代ペルシアのマズダ教にも3つの顔、3つの役割を持つ三位一体の女神が見られる。シラクサではへカテの祭りは3日間続いた。食べ物が女神の似姿で飾ったタラテルと呼ばれる鉢に入れられ十字路に供えられた。そして貧民たちが女神に代わってそれらを食べた。残った物はタイム(thym)の枝と一緒に捨てられた。十字路をオクシュテュミア(0xythymia)と呼ぶのはここから来ている。冥界も支配したので、夜と闇の女神としてヘカテーの祭儀は洞窟でも行われた。とくにイヌが原罪の生贄としてこの女神に捧げられた。女神は魔術師や呪術師の前に雌ウマ、雌オオカミ、雌イヌの姿をとって現れることがある。ギリシア人はヘカテーが幽霊、幻影、妄想を生む想像力に特別な影響力を持っていると考えている。祭りの間に出現する巨大な亡霊はヘカテー(女神Hecateに対し、Hさcatee「ヘカテーされたもの」を意味する)と呼ばれる。もちろん、呪術師やへカテの司祭らはこうした玄プを呼び出すことにたけている。恵みの神で恐怖の神、3つの顔の女神は十字路が象徴する未知のすべてを凝縮する。ヘルメース像を建てるのもこの十字路のイメージから釆ている。ヘルメースはユングによれば、異世界間を結ぶ神の仲介的機能を象徴する霊魂導師であり、暗い冥界の地下の道を通り魂を導くのはヘルメースの役割なのである。ユングは十字路に母のシンボルも見る。相反するものの結合、すべての結合の縮図。ここから十字路の持つ吉と凶の両価性が生じている。
全ヨーロッパで悪魔や魔女がサバトを開くために集まるのは、魔の山の頂上と十字路である。
〔キリスト教〕 キリスト教世界の十字路に数多く十字架、キリスト礫刑像、マリア像、諸聖人像、礼拝堂、小聖堂が建立され、いくつかの国ではろうそくの火が絶えることがないのは、悪魔祓い、償いの供犠、祈願を目的としてではないか。なぜなら十字路は人間にとって有益な面を持ちうるからである。そこは光を見つけられる所、善い精霊や、親切な妖精やマリア、聖人たちが現れる場所なのである。
〔一般・象徴〕 結局、いかなる文明にあっても、十字路とは未知との出会いであり、未知を前にした人間の一番基本的な反応は恐怖なので、このシンボルが第1に表すのは不安である。夢の中で十字路は重要で厳か、ある意味で聖なる出会いの密かな願いを示す。また「人生の岐路」にいる、新しい進路の決定的な選択をせまられているという気持ちを表す。あらゆる伝承が象徴的に教えるところでは、十字路では一旦止まることが絶対必要のようである。まるで選んだ道を続けていく前に、瞑想、さらには供犠が必要であるかのように。
十字路はまた内的そして外的な「他者」を見出す場でもある。そこは絶好の待ち伏せ場所なので注意と警戒が要求される。三相一体のヘカテーと霊魂導師の。ヘルメースがいるのが十字路であるのは、そこで我々が自分のために、自分の中で、天界、地界、冥界の3つの中から選択をしなければならないからである。人間の真の冒険である内的冒険において、十字路に見出されるのはいつも自分だけである。決定的な答えを期待して来るが、あらたな道、あらたな試練、あらたに始まる旅路しかない。十字路は終わりではなく、休止であり、彼方への誘いである。そこに留まるのは他者に好意的な行為、あるいは悪意ある行為をしようとするとき、または自分自身について、選択の力がないとわかったときだけに限られる。そのとき、十字路は行動の場ではなく、瞑想と待機の場である。十字路はまた希望の場でもある。そこにいたる道は行き止まりではない。あらたな十字路は正しい道を選ぶあらたな機会を与えてくれるのだ。ただ、一旦選択すれば変更はきかない。このシンボルの意味を完全に示す次のような場面を持ついくつかのコントがある。主人公が通りすぎると十字路そのものが消滅する。選択の問題は解決され、消えたからである(SOUM、ALEC、DIEB、FOUA、FOUG、LEBM、HOLS、DENY、ZABH、MARV、METV、MAUG)。
(『世界シンボル大事典』)