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随想 シュワィツァ−・緒方洪庵 ギャラリ 検索リンク集


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八月という月は


八月で思い出す日は終戦の年昭和20年八月六日に広島に原爆が投下された事件である。

戦勝国アメリカでは広島の原爆投下により,戦争終結が早まり日本本土への攻撃が無くなって

多数のアメリカの将兵が救われたとして一応是認されている風潮にある。

しかし広島 長崎に原爆が投下された側の日本では,なんの罪も無い一般市民が悲惨な死に方をし,

尚,戦後50年以上過ぎた今日も後遺症に悩みながら死んで行く人たちが続いている。

8月15日は終戦記念日である。為政者は第二次大戦戦地における敗退を転戦と言い,同じように敗戦を終戦と言い換えている。

言葉は便利なもので為政者により都合の言いように使われてきた。

気が付いたら昔のような戦争の危機が到来し被害を被ると言った事にならぬよう国民皆がしっかり監視,,心しなければならぬ。

小泉首相は世論に逆らうようにし靖国神社に参拝、教科書問題にしても小さな火種が大きくなって

戦争にならないように国民は監視を怠ってはならない。

小泉首相自身一個人としての,靖国神社に祭られている人達への配慮の気持ちは判らない事はない。

無駄な戦争で命を落としただけでは,命を落とした人並びにその遺族の気持ちはそれだけでは済むまい。

多数の尊い犠牲の上に今の日本があることを肝に銘じ,二度と同じ過ちを繰り返さないよう,

これからの日本は世界の平和へのリーダーになる気概が

大戦で亡くなった人たちに対しての供養であり,決意でもある。

これからは是非そう有らねばならぬ。

今のアメリカは目先の利益,一部の人たちの利益を代表しているような大統領に指導されているように思えて仕方がない。

既に世界中何千発の核爆弾が作られている。尚,さらにそれを防御する為のシステムに膨大なお金を費し開発しようとている。

これは誰が考えても正気の沙汰ではない。ツマラナイことに対して本気になってするから世界の景気が益々悪くなって行くのである。

唯ほくそ笑んで喜んでいるのは兵器産業に携わっている人たちだけだ。

アメリカを含め世界の良識ある人たちが力を合わせ声を大きくしてそれを防がねばならない。

世界中の国々,各国が戦争への準備に費やしている費用は全部合わせれば幾ら位の額になるのだろう。

戦争は天災でない。人災で,人対人の関係で引き起こされる。

核競争開発・核戦争の世紀は既に終わった。このことが判っていない為政者が世界中にまだまだ沢山いるようだ。





もっと厳しく



松下幸之助の言葉より
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 昔の武士は朝早くから道場に出て血のにじむような稽古にはげんだという。

そして師範や先輩たちの木刀を身にあびながら、何くそと立ち向ううちにおのずと腕も上達していった。

また商人であれば、丁稚奉公からつとめはじめ、主人や番頭に横っ面の一つも張られながら、

おじぎの仕方からものの言い方まで一つ一つ教えられつつ、

商人としてのものの見方、考え方を養っていったわけである。

 もちろんそのような修業の過程には、好ましくない面もあったであろう。

しかし、少なくともそうした厳しい修業が人を鍛え、その真価を発揮させる上に役立ったと思う。

それは今日にも通用することであろう。



まったくそのとおりであって,現代は自分を含め全ての人達は軟弱になって来ている。

そのようなことをされればまず挫折するのか関の山である。

心しなければならないことだ。




熱中症



8月1日の天声人語より

熱中症の歴史は古い。紀元前4世紀、アレクサンダー大王のペルシャ遠征軍も、その対策に悩まされたそうだ。

戦前の日本でも、南方に展開した軍隊や、汗の噴き出す環境で長時間の作業をする製鉄所や炭坑で死傷者が相次ぎ、

予防法と対策が研究されてきた。 炎天下を避けて行動する。早めに水分や塩分を補給する。

もし症状が出たら、風通しのよい日陰で休ませ、氷などを首やももの付け根に当てて血管を冷やし、血液で体温を下げる。

そんな知識と心得があれば防げるそうだ。

 にもかかわらず、毎日のように熱中症による死傷者が出ている。

熊本県では野外活動中の中学生が倒れ、埼玉県では林間学校の小学生を引率していた先生が亡くなった。

京都の高校では練習中の野球部員10人が病院に収容され、東京でも救急出動が相次いでいる。

 京都女子大の中井誠一教授の調べでは、お年寄りが入浴中に倒れたり、

炎天下で車内に置き去りにされた幼児が亡くなったりする事故まで含めると、

毎年200人前後が熱中症で亡くなっているそうだ。

 犠牲者が多いのは、生活環境が改善されて、現代人の適応能力が衰退したからだという説がある。

国立スポーツ科学センターの川原貴部長は、例証のひとつに、普段から暑い沖縄ではほとんど発生がなく、

逆に、日ごろは涼しく、急に暑い日の訪れる東北地方や、空調の行き届いた都市部で発生が多いことをあげている。

 7月の東京は、真夏日が27日間で過去2番目、最高気温の38.1度は7月としては過去最高だった。8月も暑い日が続くそうだ。




今年も夏の暑さにはに悩まされた。この時期でのゴルフは中止し,特に暑い時期でのスポーツはスポーツドリンクを補給するのに心がけ

喉が渇かなくとも多めにドリンクを飲むよう心がけている。暑い夏は続いている。毎年暑さが増大して行くように思えて仕方ない。

地球の温暖化が影響しているのだろうか。





 自分をほめる心境



松下幸之助の言葉より
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 私はいま、二十代の夏の日のことをなつかしく思い出します。

日のあるうちいっぱい仕事をし、晩にはタライに湯を入れて行水をするのです。

仕事を終えたあとの行水は非常にさわやかで、“自分ながらきょう一日よく働いたなァ”という満足感を味わったものです。

 自分ながらきょうはよくやった、と言って自分をほめる、自分をいたわるという心境、

そういうところに私は何だか生き甲斐というものを感じていたように思うのです。

 お互い毎日の仕事の中で、自分で自分をほめてあげたいという心境になる日を、一日でも多く持ちたい、

そういう日をつみ重ねたいものだと思います。


この言葉は以前にも出てきた。一日でも多く自分を誉める日を作りたいものだ。




人間のなかの絶対悪 戦争の悲惨さを後世に伝えよう



8月05日の天声人語より 


広島に行くたびに平和記念資料館を訪れ、一巡する。原爆を投下した爆撃機エノラ・ゲイのフィルムに始まって、

被爆の惨状を伝える数々の資料を見ながら、最後は見学者が書き記した感想ノートにざっと目を通す。

 この夏は、館内を巡りながら、もうひとつの博物館の記憶が重なりあった。

昨年、米ワシントンで見学したホロコースト博物館だ。ナチスによるユダヤ人虐殺を記録する93年開館の博物館である。

 最初に訪れたときは、2、3時間待たされるというので、あきらめたほどだ。

開館のころの混雑はたいへんだったらしいが、まだまだ館外に列をつくって待たなければならない。

 スピルバーグの映画を見ているような、たたみかけてくる強い印象を受けた。

不謹慎なたとえかもしれないが、テーマパークを巡るような気分である。

もちろんテーマは娯楽からは遠い「悲惨」である。

フィルム、写真、模型、証言など豊富な資料を使って、ナチスの悪行を追う。

 博物館の付属研究所長のM・ベレンバウム氏が5年前に訪日したときの講演では

「あの博物館は人間のなかの絶対悪に焦点をあてていること、

悪に対しては中立的な態度はありえないこと」を強調したそうだ。

そう、あいまいさのない悪とその犠牲者の展示である。

 優劣の比較ではないが、広島の資料館には、そうした強烈さはない。

「20世紀の悲劇」の伝え方の違いを考えさせられる。広島の資料館の方の入館者は減少を続け、昨年度は過去20年間で最少だったという。

しかし核の恐怖は決して減少してはいない。




核の恐怖は減少しないどころが,アメリカの核防衛システムの開発推進がさらに核の恐怖を増幅している。

アメリカは「ならず者国家」の対応だとの説明をしているが,本当にそうなのだろうか。?

大変に疑問に思う。

政権が変わったから,大統領が交代したからとて急に「ならず者国家」の脅威が増すとは考えられない。

大統領の私的な思惑により 唯 ツマラナイ事にお金を費やしたいだけのことのようだ。自己への利益の欲望が見え隠れしている。

こんなことではアメリカの先が見えて来た。これからは衰退して行く以外にないと思う。時代錯誤のはなはだしさも良いところだ。!

米ワシントン州ホロコースト博物館を作るような国がどうしての事なのだろうか。

さらに考え進むならば戦勝国はナチの悪を絶対悪として暴く事はできる。

広島における事柄を絶対悪として敗戦国が暴くことができるだろうか。広島の資料館の入館者の減少を続けるのも

仕方ないことではないだろうか。





欲望は生命力の発現


松下幸之助のことばより
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“欲の深い人”というと、ふつうはよくない人の代名詞として使われているようだ。

いわゆる欲に目がくらんで人を殺したり金を盗んだりする事件があまりにも多いためであろう。

 しかし、人間の欲望というものは、決して悪の根源ではなく、人間の生命力の現われであると思う。

たとえて言えば船を動かす蒸気力のようなものであろう。

だからこれを悪としてその絶滅をはかろうとすると、船を止めてしまうのと同じく、人間の生命をも断ってしまわねばならぬことになる。

つまり欲望それ自体は善でも悪でもなく、生そのものであり、力だといってよい。

だからその欲望をいかに善に用いるかということこそ大事だと思う。


欲望は自動車に例えればアクセルに相当する。それを上手くにコントロールするのが善にたいする意識で

ブレーキに相当する。両者相まってこそ正常な進歩・前進ができるのだろう。





出世や権威、権力に執着するのは愚かだ


08月17日の天声人語より 


 戦死した特攻隊員が生きえたかもしれない平凡な戦後生活、そのとき頭の中にもう一人の男性のことを思い浮かべていた。

 以前いただいた小冊子に出てくる「父」である。

栃木県の正木かつ代さんが父の思い出をつづっている。

かつ代さんは、旧満州から引き揚げてきた父が37歳のときに生まれた。

 少女時代のかつ代さんに父のいい思い出はない。商品を売りに出て、帰宅したときには、いつもお酒のにおいをさせていた。

生活苦で母はたいへんだったのに、転居して始めた商売でも、父は威張った客を追い返したりした。

そんな父を見て、かつ代さんは我慢できず、なじり続けたが、父は怒りもせずにこにこ聞いていた。

毎晩2合の晩酌とテレビのプロレスと歌謡曲に夢中で「甲斐性(かいしょう)のない父」という思いだけが膨らんだ。

 就職して2年目の冬、その父から分厚い封書が届いた。

「出世や権威、権力に執着するのは愚かで、自分の選んだ道を好きなように生き抜きなさい」。

初めて父の自分への気持ちを知って、かつ代さんは一晩泣き明かしたという。

 父の死後、母からこんな話を聞かされた。

「父ちゃんは戦地で敵の急襲を受け、両隣の人も即死したのに、自分だけ奇跡的に助かった。

もし無事に故郷(クニ)に帰れたら、威張らず、怒らず、笑顔で自分のやりたいことだけやって暮らしたいと思ったと言っていた」。

 かつ代さんは長年の父の行動のなぞが一瞬のうちに氷解した思いで、涙した。

彼女の父だけでなく、そんな戦後を生きた「父」がたくさんいたのだと思う。




生死をさまようような数奇な過酷な体験がそのような人間を作りあげたとも言える。

出世や権威、権力に執着し 自分が選んだ道をば好きなように歩めず,

威張り、怒こりちらしながら,自分のやりたいこをやって暮らせたら良いのにと考えながら

何もせずに毎日を過ごしているのか゛大方の凡人ではなかろうか。

いつの時代も戦争だけはなんと言っても避けたい,庶民にとつて良いことは全くない。 ご免である。!!





自由と秩序と繁栄と



松下幸之助の言葉より
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 自由という姿は、人間の本性に適った好もしい姿で、自由の程度が高ければ高いほど、生活の向上が生み出されると言えましょう。

しかし、自由の反面には、必ず秩序がなければならない。

秩序のない自由は、単なる放恣にすぎず、社会生活の真の向上は望めないでしょう。

 民主主義のもとにあっては、この自由と秩序が必ず求められ、

しかも両者が日を追って高まっていくところに、進歩発展というものがあるのだと思います。

そして、この自由と秩序と一見相反するような姿は、実は各人の自主性において統一されるもので、

自主的な態度こそが、自由を放恣から守り、無秩序を秩序にかえる根本的な力になるのだと思います。




自由奔放と秩序 相反するものがバランスよく整って初めて進歩繁栄がある。




カンを養う


松下幸之助の言葉より
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 カンというと、一見非科学的なもののように思われる。しかしカンが働くことはきわめて大事だと思う。

指導者は直感的に価値判断のできるカンを養わなくてはいけない。

 それでは、そうしたカンはどうしたら持つことができるのか。

これはやはり経験を重ね、修練をつむ過程で養われていくものだと思う。

昔の剣術の名人は相手の動きをカンで察知し、切っ先三寸で身をかわしたというが、

それは、それこそ血のにじむような修行を続けた結果であろう。

そのように指導者としても、経験をつむ中で厳しい自己鍛錬によって、

真実を直感的に見抜く正しいカンというものを養っていかなくてはならない。



ゴルフもそうだし,毎日の診療もそうである。かなりのことはカンが関係し,必要とされている。

それは,それこそ血のにじむような修行と長年の修練と経験によって培われるものである。




我執



松下幸之助の言葉より
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 一人ひとりの人が、それぞれに自分の考え、自分の主張を持つということは、民主主義のもとではきわめて大事なことである。

が、同時に相手の言い分もよく聞いて、是を是とし、非を非としながら、

話し合いのうちに他と調和して事を進めていくということも、民主主義を成り立たせる不可欠の要件であると思う。

もしもこの調和の精神が失われ、それぞれの人が自分の主張のみにとらわれたら、

そこには個人的我執だけが残って争いが起こり、平和を乱すことになる。

 今日のわが国の現状、世界の情勢をみるとき、今少し、話し合いと調和の精神が欲しいと思うのだが、

いかがなものであろう。


我執は争いの元である。自分の主張を持つということは、民主主義の元でもある。

しかしそこに調和を見出す事は中々に困難な作業だ。





矢面に立つ精神



松下幸之助の言葉より
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 人間が大事に際して、その難局の「矢面に立つ」ということは、人生としてはおそろしいことであり、大変に勇気のいることである。

スリルがあるとか、あるいはこれはおもしろいな、という人も、今日の青年の中にはいるかもしれないが、

ほんとうに腹を割ったところ、あまり愉快ではないと思う。

しかし、こういう場合に敢然として、その矢面に立つことも男子の本懐と喜んで事に当たることも大切である。

 そしてそういう人こそ、大事において、うろたえず、ものを決断することのできる人であり、

人多くして人なき社会において、ほんとうの人物として立っていくことのできる人であるという思いがする。


なかなかに大変な事である。時と場合によっては矢面に立つことは命がけの事もありえる。至難のことだ。




力を合わせて



松下幸之助の言葉より
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 不況の風が吹き、不景気の波が押し寄せるという情況に世間があるときには、

それぞれの会社も何らかの形で、その影響を受けないわけにはいきません。

 ただそんなときに一番大切なことは、全員の冷静な判断と力強い協力だと思います。

船長が沈着に針路を誤たず、船員が冷静に協力を惜しまなければ、その船はどんな嵐にあっても着々と進んでいくでしょう。

それを、それぞれが慌てて勝手な判断をし、勝手な振舞をしたならば、

それがたとえ善意から出たものであっても、船の前進は望めません。

 不況、困難なときこそ、“和親一致の精神”が一番に求められるのです


今の不況の時に特に心しなければならないことである。

松下幸之助さんは今の不景気・不況の日本での各会社におけるリストラを見ていかように判断されただろうか。





構造改革に伴う「痛み」は



08月26日の天声人語より 

 外国で医者にかかったときなど症状をどう説明したらいいかとても困る。

言葉で正確に説明できる人は、その外国語に熟達した人だろう。

日本語はオノマトペ(擬音、擬態語)が豊富なので、その助けを借りることが多い。これが外国では通用しない。

 「ズキズキしていた頭が急にガンガン鳴り始めて」とか「キリキリまではいかないのですが、

ずっとシクシクしていて、ときどきキュッと痛みます」など痛みの表現だけでもどれだけあることか。

 『言語』誌8月号がオノマトペを特集していて、いろいろな比較をしている。

犬は確か欧米でも「ワンワン」と鳴いていたが、あちらの人には「バウワウ」と聞こえるらしい。

トルコでは「ハウハウ」鳴くし、ロシアでは「ガフガフ」だそうだ。

 文化圏によって微妙な音に敏感な人々もいる。

血を吸って膨れた蚊の腹がパンクして血が噴き出す音が「ソーホ」で、灰色大クマが野牛の皮をつめで切り裂く音を「シニット」という。

これは北米先住民のネズパース語だ。

 日本でも地方によって独特の言いまわしがある。「キンカンナマナマ」は、降り積もった雪が踏み固められてツルツルになった状態のことだそうだ。

金沢市あたりでつかわれていたが、だんだんと聞かれなくなり、消え去ろうとしているらしい。

 痛みに話を戻せば、例の「痛み」をどう表現しようか。本格化するはずの構造改革に伴う「痛み」である。

予告されただけで始まる心理的痛みもあって、すでにシクシクし始めている。それがキリキリの激痛にまでいくとたいへんだ


小泉首相の構造改革はこれからが本番である。

大方の人たちは参議員選挙でそれを支持している。その痛みが自分には降りかかからないとの考えて゛の支持だと思う。

キリキリした激痛を伴う改革だけは避けて欲しいものです。

まずはあまり痛みの伴わない改革から初めてほしいものである

小泉首相が一番最初にやるべき改革は贅沢三昧に税金の無駄使いしている各省庁の改革である。

報道されている外務省の放逸は呆れるほどにそれが長年つづけられて来た。どうして今まで放置されてきたのだろうか。

高額の退職金が支払われる官僚の天下り先の特殊法人等々 まず国民に痛みを伴わないで済む,

やるべき改革は山ほどあるのではないだろうか。

職 職権の乱用などは,直ぐにでも是非早くにメスを入れていただきたい。

決して中央だけのことではない。これなどは大なり小なりに地方政治においても行われていることだ。

全国の市町村が中央にならつて綺麗になるならば直ぐにでも景気は上を向くかも知れない。

全国に張り巡らされた岩
盤の如き利益誘導の組織システムがそれを頑固に拒んでいる。

政権を担当する人たちは悪弊の垢がつかない前に次からつぎへと早く交代 すべきである。

質素倹約は歴史上見れば善政を布いた人たちの常套手段で有った事は明白である。

バブル時代における沢並びに 使い捨てか゛美徳の如くささやかれたのが,そもそもが不況の始まりである。

長い歴史の中でそれが間違っている事は明白にも拘わらず国民はすっかり騙されて,バブルに酔いしびれて

それが真実と感じてしまって沢並びに 使い捨てか゛美徳と考え実行していた。

不況は其のツケの結果でもある。

小泉首相は勇断をもってやって頂きたい。まずできるだけ痛みの伴わない改革から初めて欲しいものだ。

国民の期待は大きい。





戦争は自分たちの出世や欲望のためだけで人の命を扱った


08月29日の天声人語より


 最近の言葉から。「なんとか怒りをださないような書き方をしようと思うんだけれど、つい出てくる。

小型の暴君ネロみたいなのが、いたるところにいて、

戦争を回避しようとせず、自分たちの出世や欲望のために、兵士の生命を安く扱った」
と作家の古山高麗雄さん。

「未復員兵」として戦争を書き続ける81歳だ。

 元陸軍軍曹の尾下大造さんは、フィリピンで住民を銃殺した。

上官の命令だった。

住民の最期の言葉「おれは死にたくない」は「絶対に忘れることができない」。

 村山富市元首相が怒りを口にした。小泉首相が靖国参拝にあたって発表した談話が、

95年の村山談話を踏襲していたことから「私の談話を引用してまで、なぜ参拝したのか。矛盾だ。

これでは『村山談話』は単なる作文になる。恥ずかしい限りだ」。

 「人間がつくったものはハンマーで壊せる。

ハンマーは世論で、それは君たちがつくりあげる
ものだ」と子どもたちに呼びかけるのは、

被爆体験をもとに平和教育を進めてきた長崎県の元小学校教諭山川剛さんだ。

原爆の怖さを強調するあまり、子どもたちが悲観的になりすぎるのを心配する。

 「算数の応用問題ができない子供の半分は、算数ができないのではない。

国語力が不足していて、問題の意味が分からないのだ」とは大野晋さん(国語学)。

 作家・作詞家の阿久悠さんは「今の社会で何が欠けているか。それは『成熟』という言葉ではないか。

子どもは12、13歳までに子どもの要素を使い切らないと、大人になってとんでもないことをする恐れがある」。




内容は変わっても人間は愚かなことを形を変え繰り返し繰り返し行っている。

歴史に学ぶべきことも形が変わると人は判らなくなってしまう。応用問題が解けない。

それに一番良くないことはムードを醸し出し,力のない人が恰も能力がある如くに煽動する政治家たちやのマスコミである。

熱しやすく冷めやすい国民性を持つた日本人はそのような人達によって踊らされて,熱狂する傾向がある。

熱狂すると何も考えずに唯ムードだけが先行し,本質が見極められなくなって,出来事は進行する。

歴史を振り返っても明治時代に財閥に成長した商人の殆どが政商である。政治家と組んで大儲けし財閥へと成長していった。

現在もその道筋は大なり小なり変わってはいない。

政治と金儲けとは密接な関係にある。それが全ての悪の根源とも言える。

この関係は全世界 時代を超えいつまでも変わりっこないのだろう。

良い政治家とはそのような事とはまったく関係なくそれを厭うような人達である。

そのような人達はかなかに出てこないものだ。故に歴史に名を残すような人物は少なくて稀である。

現在は世界が狭くなり国際化が叫ばれ世界中を巻き込んでの事にって複雑化して来た。その判別が困難になつてきている。

良いものだけが伸びるのではなく,外来から入ってきたセイダカアワダチ草 ブラックバスのように悪いものが

日本 本来の良いものもを一掃して,はびこる事だってありえることだ。実用的功率主義を象徴するハンバーグ文化が決して人類の

発展に良いとは思えない。







苦難もまたよし


松下幸之助の言葉より
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 わが国では、毎年、台風や集中豪雨で大きな水害を受けるところが少なくない。

しかし、これまでの例からみると、大雨が降って川があふれ、街が流れてもうダメかといえば、必ずしもそうではない。

数年もたてば被害を受けなかった町よりも、かえってきれいになり、繁栄していることがしばしばある。

 もちろん、災難や苦難はないに越したことはないが、思わぬときに思わぬことが起こってくる。

だから苦難がくればそれもよし、順調ならばさらによし、という心づもりを常に持ち

安易に流れず凡に堕さず、人一倍の知恵をしぼり、人一倍の働きを積み重ねてゆくことが大切だと思う。


嘆くばかりでなく禍が転じて良いこともあるということだ。嘆いているだけが能でもあるまい。

安易に流れず凡に堕さず、人一倍の知恵をしぼり、人一倍の働きを積み重ねてゆくことが大切だと思う。






富山県の八尾(やつお)町の「風の盆」踊り


09月03日の天声人語より


 この季節、夕刻近く風がほおをなでると、思い浮かべる。きょうも踊っているだろうか。

そろそろ町流しが始まっているだろうか。富山県の八尾(やつお)町の「風の盆」である。〈日暮れ待つ青き山河よ風の盆〉(大野林火)。

 9月の最初の3日間、夜を徹して踊り明かす。あそこには、この「風の盆」という名前にふさわしい街並みとおわら節と踊りがある。

おわらの演奏に胡弓(こきゅう)が加わるのが特色で、その音色がまた「風の盆」にふさわしい。

 胡弓が取り入れられたのは100年ほど前からで、松本勘玄という旅芸人の発案らしい。

大阪で浄瑠璃の修業をし、のちに全国を巡り歩いたが、八尾に腰を落ち着けた。

その彼が、八尾の町を流していた盲目の旅芸人佐藤千代の胡弓を聞き、思いついたという。〈人混みのどこかに胡弓風の盆〉(川上季石)。

 日が暮れると、踊りと合奏の一団が町流しを始める。編み笠(がさ)を深くかぶって顔を隠した若い女性たちの動きは、独特だ。

上体をそらし、しなやかに動く手が、その動きを速めたかと思うと、ぴたりと止まる。この一瞬の静止にはっとする。


 このごろは毎年30万人近くの観光客が訪れる。地元にとってはありがた迷惑という面もあるらしい。

にぎやかな普通の盆踊りとは違って、微妙な音と動きを味わうものだ。無遠慮なカメラのフラッシュやあまりの騒がしさは、優雅さを損なう。

 深夜、ひっそりとした町で、流しの一団に出会う。そんなぜいたくは難しくなってきたようだ。

かつて見た情景を思い浮かべながら夢想にふけるしかないか。



まだ「風の盆」を見たことはないが,なんともいえない日本情緒が文書を通して読むだけでもジワリと伝わって来る。

「胡弓(こきゅう)が加わる音色がまた「風の盆」にふさわしい。

日が暮れると、踊りと合奏の一団が町流しを始める。編み笠(がさ)を深くかぶって顔を隠した若い女性たちの動きは、独特だ。

上体をそらし、しなやかに動く手が、その動きを速めたかと思うと、ぴたりと止まる。この一瞬の静止にはっとする。」

日本の良き伝統は連綿として残っている。又いつまでも残し続けていって欲しいものである。是非とも後世に伝え残すべき事柄である。





今も,世界という空間を越え時代を超え必要なものは何か


旅をすると良く判る事だが,どの国の人も日本人と同じ人間として心打たれることに対しては皆同じである。

それは時代を超え所が変っても言いえる事である。

誰もが戦争を望まないし,毎日が無事で幸せな生活を望んでいる。

しかし支配者が己の欲望を満たすために大勢の庶民を犠牲にして来た。

絶対的に確立した支配者に対しては誰も何も言えない。抵抗することは出来ないし不可能となる。

民主主義の基本は主権は国民にある。このことは小学生の時業で習っていて 誰もがよく知っている事である。

しかし現実の世界は支配者がおり,その人に盾をつくならば酷い目に会い 痛い目に会う。

そのことを自然に長い人生経験から学習し「長いものには巻かれろ」の智慧がついてくる。所謂大人の智慧である。

ドンキーホーテには,誰もなろうとしない。子供の如き心,悪い事は悪いと言い続ける気持ち,率直に言う言葉を失ってしまっいる。

それが今の大方の大人達である。

毎日が「アメとムチ」に操られながら暮らし過ごしているのが大部分の人達である。

触らぬ神には祟りなしで,言いたいことも言わず毎日が無難に過ごせるのが賢明な 賢い生き方であるとの考えになってしまう。

それでよいのであろうか。?

これからのインタ-ネットの時代は そのようなことを打ち破る力があると思うのだが。どうだろう。

 「人間がつくったものはハンマーで壊せる。ハンマーは世論で、それは君たちがつくりあげる

良い言葉だと思う。

皆が声を出すようになれば世の中きっと良くなって行くと信ずる。信じたい。

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