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7月は真夏

兎に角に連日暑い毎日が続く。時に雨も降ることもあって稀に比較的暑くない日もあるが、猛暑である。

地球温暖化による所為かとも思いたくなる。子供の頃はこのようなことでなかったようにも思う。

年齢を重ねるにつれ,寒・暑の影響はきつくなって来た。昔は夕方になると夕立が降りサーと涼しくなって

夏は比較的に気持ちのよい夏だったように記憶している。地球温暖化問題は次世代・次次世代とズーと後世にまたがる問題であり、

アメリカのブッシュ大統領のような目先だけの利益の為とか,日本政府がひたすらにアメリカの意向

ご機嫌を気にしているだけの性質のものとは違う。

全世界の人たちか゛頭を充分に冷やし冷静に対処して行くべき問題だ。

アメリカが推進しようとしているミサイル防衛システム開発問題はさらなる世界の核開発競争を助長し,全世界がツマラナイ所に

お金を投じ合い,互いに精力を注ぐ事にことにもなる。是非止めさせる方向に世界の世論がブッシュ大統領に圧力をかけるべきだ。




是を是とし非を非とする



松下幸之助の言葉より
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 とかく人間というものは、物事を数の大小や力の強弱といったことで判断しがちである。そしてまた、

そういうことを中心に考えた方がいいという場合もあるだろう。しかし、それは日常のことというか、いわば小事について言えることではないだろうか。

大事を決するに当たっては、そうした利害、損得といったものを超越し、何が正しいかという観点に立って判断しなくては事をあやまってしまう。

それができるということが、指導者としての見識だと思うのである。

 とかく長いものにまかれろ的な風潮の強い昨今だけに、指導者にはこうした是を是とし、非を非とする見識が強く望まれる。


ブッシュ大統領に松下幸之助の爪の垢でも煎じ飲ませてあげたい気持ちがする。

アメリカが既に世界をリードする国に成っている事をブッシュ大統領はまだ理解出来ていないようだ。

日本のリーダーもそのよう国に対し何も言えない。「よく理解している」としか。こんなことで゛独立国日本と言えますか。?




小さな弁当箱でのさまざまな思い


7月3日の天声人語より

 弁当をめぐる思い出というのはどなたにもあるらしい。弁当を盗み食いした小2の少女のことをこの欄で紹介したところ、

いろいろな体験談を寄せていただいた。考えさせられることが多かった。

 戦中、戦後の貧しい時期、弁当をつくってもらえない子どもが少なくなかった。

「子どももつらいし、親もつらかったと思います」という岩手県のYさんは、遠足のとき、そんな子に弁当のふたに入れて分けてあげた。

その子は受け取ってくれた。「それで私は幸せでした」

 栃木県のYさんは友人の話。「お袋にうそついて毎日弁当を二つつくってもらった」というTくんは、一つを疎開児童のSくんに渡していた。

しかし、Sくんは食べないでどこかへ消えてしまう。ある日あとをつけると、Sくんは妹に渡していた。

皆から一目おかれていた番長だったTくんに40年後、初めて聞かされたという。

 先生たちも悩んだ。神奈川県のKさんの体験だ。弁当紛失にだれも名乗りでないので、先生が「私が捜します」と児童を外に出した。

捜すのを手伝わされた副級長のKさんは、女の子のカバンにその弁当を見つけた。

先生は悲しそうな顔をし、厳しい表情に変わって「だれにも言ってはいけません」と静かに命じた。

以後紛失事件はなくなった。

 京都府のYさんは「盗まれた子どもたちの悲しみ、悔しさ」にも思いが至るべきではないかという。

先生が厳しく追及するのは当然で、そうして正邪をはっきりさせることが教育ではないか、と。

 小さな弁当箱には、さまざまな思いが詰まっていた。




飽食の時代,食べることに事欠かない現在の人たちには,さして心揺さぶられる話ではなないかも知れない。

学童疎開体験のある者にとっては身につまされる話である。疎開時はとにかくにヒモジかつた。

食物を盗んでいる人を見かけたことも有り,又盗んだ大根,薩摩芋、キュリなどを生で齧って食べたことも有った。

学校での弁当の思い出は戦後間もなくの頃は昼食は家に食べに帰っていた。当時は常食が粥とか雑炊を食べていた時代で

弁当として持ってゆくことが出来なかった頃の話である。さらに食料事情がよくなり弁当を持って行けるような時の弁当は

ご飯の上に゛花鰹”゛か”とろろ昆布”か゜御飯の上に一面かけ,真中に梅干が一つ弁当の真中に載せてある「日の丸」弁当だった。







京都議定書は是非成立を


7月5日の天声人語より

 日本の古都にとっては、光栄なことなのだろう。

世界のあちこちで「京都は生き残ることができるか」が話題になり、論議の的になっている。

 古都保存ではなく、地球保存をめぐってである。「京都議定書」のことだ。このまま放っておくと地球はだんだん暖かくなって、

さまざまな弊害が出てくる。

その原因になっている温室効果ガスの排出を、各国が協力して減らそう――3年半前、京都の国際会議でそのための方策を決め、

議定書にした。

 この地球防衛のための方策が、目下、地球規模の対立を映す鏡になっているから皮肉なものだ。

そのなかで、日本がどういう役割を果たすかが注目されているから、責任は重い。

 まず米欧の対立である。

議定書からの離脱を宣言したブッシュ政権とそれを非難するEUとの対立である。

橋渡しを期待される日本だが、小泉首相の対応には危なっかしさを感じる。ブッシュ大統領との会談で、

米国支持と受け取られるような発言をしたらしい。

慎重に、慎重に、と言いたいところだ。

 そもそも経済か環境か、の対立をはらんでいる。米国の離脱の理由の一つも経済への悪影響だった。

先進国と途上国との対立も当初からあったし、世代間対立の一面もある。将来の世代のために、いまの世代がどれだけ自制できるか。

 しかし、たくさんの厳しい対立をはらむから、議定書の価値も高い。対立を乗り越えることの意義は、それだけ大きくなる。

わが国としては「京都」の名前を歴史にいかに残すかがかかっている。国際協調の失敗例にはしたくない。



目先の経済への悪影響の問題だけでなく,ブッシュ大統領にはアメリカの産業界からの利益誘導圧力がかかっているようだ。

日本国内では勇ましくて歯切れの良い小泉首相もアメリカに対する対応は危なっかしさを感ずる。今までの歴代首相も同様だった。

冷戦時代の頃,日本列島が不沈鑑となってアメリカの為に戦い頑張ると言っていた首相もいた。

何故か日本の歴代の首相はアメリカに気兼ねしているように思えてならない。日本はアメリカの植民地ではないのだ。

平和のために近隣諸国は勿論のこと世界の国々と如何に仲良くして行く事かに腐心するのが日本の首相の役目だと

考えますが。首相自身の自己満足だけに終わってしまうような事では困ります。




 信ずることと理解すること


松下幸之助のことばより
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 繁栄、平和、幸福をより早く、より大きく生むためには、信ずることと理解すること−−この二つを全うしてゆかなければなりません。

というのは信を誤らないためには、理解を正しく働かさなければなりません。

理解を捨てると、迷信に陥りやすく、また理解だけで信ずる心がなければ信念に弱気を生じてしまうからです。

 では信と解を全うしてゆくにはどうすればよいか。それにはまず素直な心になることです。

正しい理解も素直な心から生まれてきますし、信ずることも素直な心から高まってくると思います。

心が素直であって、信と解がともに高まれば、あらゆる場合に適切な働きができるようになると思います


中々に素直なこころになれないし,故に信ずる心も少なく、まさしく我は凡夫そのものである。




選挙風景


7月13日の天声人語より 

 参院選の公示日のきのう、東京・有楽町で小泉首相の第一声を聴いた。聴いたとはいっても、実際はよく聞こえなかった。

へんな事件があったこともあって関心があらぬ方に向かった。

 炎天下の聴衆を縫って、カメラが動く方向が興味深い。演壇に向けられるのと同じくらいたくさんのカメラが聴衆を追っている。

とりわけ年配の婦人たちがねらわれている。彼女たちが「小泉人気」の中心と見られたのだろう。

婦人たちが手を振ったり、声をあげたりすると、カメラマンがさっと群がる。

 午前10時過ぎ「小泉総理の到着です」の声に一瞬どよめきが起きたが、それほどの熱狂ではなかった。

演説が始まってすぐ、急に背後が騒がしくなった。警官がかけつける。カメラマンが走る。「血だらけだ」の声がする。

聴衆の半分近くが事件現場の方を向き、小泉首相に背を向けた。この事件は、夕刊に「男が自傷行為」と小さく報じられた。

 演説中、小泉首相に背を向けるもうひとつのグループがいた。

自分で自分にビデオカメラを向ける若い女性たちだ。背後の演説中の小泉首相をとらえ、自分と同じ画面におさめていた。

 カメラをだれに、何に、向けるか。それによって、この朝のことはずいぶん違って見えるだろう。

そんな当たり前のことを痛感した。

それはまた、私たちが何に目を向けて報道するかであり、選挙民として何に注目するかでもあろう。

 熱弁を振るう小泉首相を背景に自分を撮影する。何だかいまの日本人の風景そのもののようにも思える。この自画像をどう解釈しようか。




その解釈は当然で極めて正当なことだと考えます。

自分で自分にビデオカメラを向ける若い女性たちだ。背後の演説中の小泉首相をとらえ、自分と同じ画面におさめていた。

この風景こそが全くの正常な風景だと思う。

りわけ年配の婦人たちがねらわれている。彼女たちが「小泉人気」の中心と見られたのだろう。

婦人たちが手を振ったり、声をあげたりすると

これは可笑しい。ミーハ―族と何んら変わっていない。

若い女性たちが正常で年配の婦人たちこそ可笑しい行動をとっている。

年配の婦人たちは我々一人一人がこの世では主人公であることを理解出来ていない。

若い女性の自分達が中心でそのための小泉首相がいるとの考えている。これこそが民主主義の基本である。

我々のために小泉首相がいるのであって,小泉首相のために我々が存在するのではない。

閣僚の中に又タレント議員の中にも自分か゛中心で他の人は自分のために存在すると

考える人達がいるとすればそういった人たちの存在はそう長くは続かないと思いたい。

古い言葉であるが議員 ・官僚達は公僕と言われていた

今や公僕は死語となり議員 官僚の公務員達が威張り大概の国民は自分のみの利益のため

ひたすら議員 官僚達と仲良くなるよう媚びを売って生活しているのが現実の社会である。






教科書の効用・威力さらには魔力


7月16日の天声人語より

  教科書には、人によっていろいろな思い出があるのだろうと思った。

先日この欄で、中学の教科書を覚えていない、それで困ったことはない、と書いたところ「そんなことでは困ります」という趣旨のおしかりを受けた。

教科書への思いが深い方々なのだろうと思う。

 別の言い方をしてみたい。新潮文庫のことはよく覚えている。

図書館の本にも飽きて、本屋でおそるおそる大人の本を手にした最初が新潮文庫だった。以来、手当たりしだいに文庫本を読んだ記憶は鮮明だ。

 「モオパスサンは氷に似ている。尤(もつと)も時には氷砂糖にも似ている」(芥川龍之介)。そんな言葉に感心して次はモーパッサンを読んでみる、

といったふうの乱読で、背伸びをしたいころだったから、教科書も含めた子ども向けの本には背を向けた。

 それほど豊かな時代ではなかったが、本に限らずいろんな遊びがあったし、学校の勉強以外にやるべきことがいろいろあった。

先生もあくせくしていなかった。生徒からすれば、教科書から決定的な影響を受けることなどなかったように思う。

 教科書に対する考え方は、国と時代によってさまざまだろう。世代によっても違うかもしれない。

マーク・トウェインのように「教育とは、学校に邪魔されないで獲得すべきもの」とまで言い切る自信はないが、

ただ、教科書が絶対視されるような国家、社会はいかにも窮屈だと思う。

 とはいえ、好きな言い回しではないが「たかが教科書、されど教科書」だろう。

その「たかが」を強調しすぎたかもしれないという反省はしている。



教科書から決定的な影響を受けることなどなかったように思う。教科書が絶対視されるような国家、社会はいかにも窮屈だと思う。

そのような時代に育ち,そして自由に好きな本をよみこなせ,教科書の影響が少なかったと言える人たちは

余程に,環境・才能に恵まれた僅かの人達だと思う。

教科書を丸暗記させられた時代があった,戦後の一時期は戦中の教科書に一部墨を塗った教科書で学んで来たものとしては

やはり教科書並びに それを教えた先生の影響はかなり大きかったと思う。

韓国 並びに中国からの日本への教科書への非難 注文する気持ちはよく理解できる。

間違った事を子供達に教え間違った考えを持つた大人を作らないためにも,教科書にはくれぐれも注意して書かれる必要がある。

戦中の間違った考えをば間違った先生の教え方で受けて育った者として,今もその影響は続いているのではないかと思うことがある。




コロンブスの「新大陸」は、いまや世界最強国である


7月21日天声人語より

  コロンブスはイタリアのジェノバの生まれといわれる。そのジェノバでの主要国首脳会議(サミット)だが、多少の皮肉を感じざるをえない。

コロンブスこそはゆがんだグローバル化の端緒をつくった男といえなくもないからだ。

 偉大なる航海者であったかもしれないが、大いなる錯覚をしていたことはご存じの通りだ。

東洋を目指して西へ行くという大胆な冒険を企て、行き着いたのはアメリカ大陸に隣接する島々だった。

 昔は、新大陸を発見したコロンブスと教えられたものだが、これはヨーロッパからの見方にすぎない。

「新」大陸も何も、あの大陸は昔から存在していたし、多くの人々がそこで暮らしていた。

その人々を奴隷としてヨーロッパに「強制連行」したのもコロンブスだった。以後の先住民の悲惨な歴史は紹介するまでもないだろう。

 コロンブスは欧米中心史観の象徴であったし、10年ほど前の「新大陸発見500年」記念をはじめ、折に触れて様々な議論がかわされた。

どちら側から見るかで、歴史はずいぶん違ったものになる典型的な例でもあった。

 かつての「新大陸」は、いまや世界最強国である。

このごろ少々身勝手ではないか、と西欧諸国からは批判を浴びている。

その主要国をまとめて、身勝手だと批判する反グローバル化の活動家たちがサミット会場を取り囲んでいる。

 コロンブスの航海は古い物語だ。しかし、コロンブスを非西欧から見るという発想の転換は、そう古いことではない。

地球規模の問題を考えるとき、忘れてはならない発想であろう。



欧米中心史観の象徴のコロンブスが悪いのではない。新大陸を発見しそこに住んでいる人たちが悪いのでもない。

現在アメリカが世界の最強国であり、その国の言動が如何に全世界に影響与えるかを理解できていない

ブッシュ大統領が率いるアメリカが悪いだけのことである。戦中の東条首相の時の日本,森首相の時の日本,小泉首相の現在の日本も

同じ日本国なのである。国民をリードするりーダーの資質によってその国の評価が変わってくる。国全体の行動も変わる。

今の新大陸のアメリカという国のリーダーは世界の向かう方向がわからずにトンチンカンのことをしだして来ているので

世界が曲がった方向へと変わりつつあるように思う。




利害を超える


松下幸之助の言葉より
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 ある日、私のところに「自分の会社で造る製品の販売を引き受けてもらえないか」という話を持ってこられた人がいた。

私はいろいろとその人の話を聞いてみて、この人はえらい人だなと思った。

普通であれば、自分にできるだけ有利になるよう交渉する。それがいわば当たり前である。ところが、その人は「すべてをまかせる」という、

自分の利害を超越した態度をとられた。

私はその態度に感激し心を打たれた。

 われわれはともすれば自分の利害を中心に物を考える。これは当然の姿かもしれない。

しかし、それだけにそれを超越したような姿に対しては、心を動かされる。これもまた人間としての一つの姿ではないか。


自分の利害を超越した態度には中々になれないものである。

人間は近視眼てきにしか物が見えない。世の中を超越したような姿に対しては、心を動かされる。

世の中にこのような人達がおられることを心すべきである。





京都議定書をめぐる対立


7月25日の天声人語より
 
 「たぶんこれは、日本にとって、アメリカからの独立を表明する戦後最大の決断だったろ

ドイツのボンで開かれた温暖化をめぐる国際会議での日本の態度について、米国の環境団体の代表がそう語った(英国BBC)。

 複雑な気持ちにさせられる。まず、そんなにたいへんな決断だったのか。

それにしても、んどの決断が「最大」と言われるほど米国追随外交は世界の「常識?」だった。そうした「いまさらながら」の感想だ。

 もっとも、別の環境団体の見立てでは、京都議定書を葬り去ろうとしたのは米国と石油輸出国機構(OPEC)であり、

壊そうとした日本とカナダ、オーストラリアの策動にもかかわらずEUと途上国が救い上げた、と。

 イタリアのジェノバでのサミット、そしてボンでの会議と見てくると、世界の勢力地図が変わりつつあるのではないか、と思えてくる。

ジェノバで取材した同僚からは「こんなサミットは、これまで経験がない」との感想を聞いた。

 厳戒態勢下、隔離された会合という面のほか、新しい対立が持ち込まれつつあるという予感がする、と。

「イデオロギーの対立とは言い過ぎかもしれないが、哲学的とも見える対立を感じる」。そのひとつが京都議定書をめぐる対立だった。

 地球規模の問題で、いかに合意をつくっていくか。

米国抜きで成立したこんどのボン合意を、世界自然保護基金(WWF)のJ・モーガン氏は「地政学的な地震だ」と形容した。

気候変動とともに、地球規模の政治変動にも注目しなければならないようだ。



難しい理屈は別として,アメリカが全ての正義を遂行しているとは誰も信じていない。

今は力が全てだとして解決できる時代でもない。利益誘導政治,アメとムチで世の中,全て動をかせる時代も去りつつある。

早く是非そのような世の中になって欲しいものである。





人間の幸せのための政治


松下幸之助の言葉より
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 私たちが決して忘れてならない大事なことは、政治は結局、お互い人間の幸せを高めるためにある、ということです。

過去においては多くの人びとが政治によって苦しめられ、お互いの血を血で洗うということもありました。

 しかし、そうした好ましくない姿は、政治の本来の姿ではない。

政治は本来、お互い人間のそれぞれの活動をスムーズに進めることができるようなものです。

れらの調整調和をはかり、共同生活の向上をはかって、一人ひとりの幸せを生み高めることをその使命としているのです。

この“政治は本来、間の幸せのためにある”ということを私たちはまず正しく認識しあう必要があると思います




現実はまだまだ政治というものが一部の人たちの為にしかあるように思われて仕方がない。

今も昔も変わって来そうで変わってはいない。急には変わらないのか,又永久に変わらないものかどちらだろうか。?



参議院選挙戦



7月29日の天声人語より 

 表向き熱気を感じさせた参院の選挙戦だったが、ちょっと冷ややかな気持ちで投票日を迎える人もいる

。「いつもの一票を投じるときのうれしさの混じった気持ちが今回は全くないから」。東京都のY子さん(69)からの便りだ。

 国会議員や候補者たちは、改革の中身、そして「痛み」が本当にわかっているのだろうかと疑問に思う。

そういってY子さんは、明治政府のことを考える。廃藩置県をはじめ大改革をした。少々の痛みではすまなかったろう。「国の改造だったのだから」。

 Y子さんの指摘で、苦笑したのはちょんまげの話だ。武士がちょんまげを切ることの痛みがどんなだったか。身を切られる思いだったろう。

そうやって自らも痛みながら改革を断行した、とY子さんは想像する。

 いま、テレビで政治家たちを見ていると頭にちょんまげが見えてくる。彼らはそれに気づかない。

自分のまげを切る痛みも感じないで、この国の改革などできないのではないか。Y子さんの思いだ。

 もっとも、明治4年の断髪令は、断髪してもいい、という勝手令だった。

抵抗する守旧派もいたが、文明開化の風潮に乗って我先にと断髪に走ったのもまた確かだ。昔も今もブームに乗りやすい国民であ

 Y子さんは便りをこう締めくくる。去年、生命保険会社が倒産した。

15年間掛けた保険が満期になる3日前だった。支払われるはずの500万円が宙に浮いた。

ごく最近、40万円だけ支払うとの連絡があった。まだ茫然(ぼうぜん)としている。気持ちの整理がつかないまま彼女はきょう、投票に行くという。



小泉首相の率いる自民党が勝った。森首相で戦ったならば多分,今の5分の1の票もとれなかつたと思う。同じ自民党がだが。

リーダーの責任は重い。小泉改革の臭いだけで今国民が躍らせられている。なるほど昔も今もブームに乗りやすい国民であ

これでよいのだろうか。小泉首相の言っている改革が全てが良いとは思えない。

向かおうとしている方向は理解できるが,これからは国民として充分に是是非非の立場で見ていこう。

少なくとも議員の汚職 官僚の汚職 外務官僚のような税金の無駄ずかいは厳重に監視し政治は質素倹約をむねとする

それからが構造改革の手始めではなかろうか。。




自分自身への説得


松下幸之助の言葉より

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 説得というものは、他人に対するものばかりとは限らない。自分自身に対して、説得することが必要な場合もある。

自分の心を励まし、勇気をふるい起こさねばならない場合もあろうし、また自分の心を押さえて、辛抱しなければならない場合もあろう。

そうした際には、自分自身への説得が必要になってくるわけである。

 私がこれまで自分自身への説得をいろいろしてきた中で、いまでも大切ではないかと思うことの一つは、

自分が運が強いと自分に言い聞かせることである。

ほんとうは強いか弱いかわからない。しかし、自分自身を説得して、強いと信じさせるのである。

そういうことが、私は非常に大事ではないかと思う。


なるほど素早い心の切り替え,自己暗示が如何に大切かがわかる。自分への説得をだ。




小泉人気による自民党参院選挙勝利の結果,これからが心配


7月30日の天声人語より 


 英紙フィナンシャル・タイムズの週末特集を見て、思わず笑ってしまった。第一面に、小泉首相の巨大なイラストを掲載している。

姿は、エルビス・プレスリーである。

 例の純白に金ボタンの衣装、そして日の丸ギターをさげている。これに日本人が熱狂している、というわけだ。

一昔前のロックンロールの王者に見立てられた小泉首相への見方は、しかし、甘くはない。

 この参院選挙は、日本だけでなく、世界にとって、とくに世界経済にとって極めて重要な選挙になるかもしれない、と言う。

ところが、外の世界から見ると、あの国は、小児病にかかっているのではないか。そう言って異常なまでの小泉熱を心配する。

 いや、皮肉な英国人が思うほど単純ではない。投票する側にも迷いがあったはずだ。何しろジレンマが多い。

最たるものは、小泉人気の源だ。彼の魅力は一見、旧来の自民党らしくないところにある。もうひとつは、小泉改革に伴う痛みのことだ。

改革と痛みとをてんびんにかけてどちらが重いか。そのどちらの中身もよくわからないから期待と不安とが入りまじる。

 小泉熱のわりに投票率がそれほどでもなかったのは、その表れではないか。


とはいえ、小泉風が吹いたのも確かだ。

ここは、とにかく「小泉自民党」のお手並み拝見といこうじゃないか、ということか。

 英紙の小泉プレスリーで変なところがひとつある。マイクを手にしながら口をへの字に結んでいることだ。

皮肉に解釈すれば、彼はまだ歌を歌っていない。これから何を歌うかを世界が見守っている。



外の世界から見ると、あの国は、小児病にかかっているのではないか。そう言って異常なまでの小泉熱を心配する。

何もしていない小泉首相にこれだけの期待票が集まるとは異常である。

これからがどのような政治をして行くのかが心配と期待とが半々ある。

第二次大戦中の「勝つまでは欲しがりません」のスローガンを思い起こす。

勝てばきっと豊かな生活が待っていると,大人から子供までそのマジックの言葉にに惑わせられ,

どん底の苦しみを耐えに耐えた苦しい期間が続いた事があった。

痛みを伴う構造改革がまさかそのような二の舞を強いるものでないと信じたい。


インターネット時代

日本でもインターネットに接続する人たちが急速に増えてきている。今までは個人の意見とか考えを発表する機会は極めて

制限されていた。これ迄には雑誌とかパンフレットのようなものに書いたものしか読んでもらえなかった。

それも我々の場合,そのような機会は年に数回有れば良い方だった。

ホームページを開設するようになってからはいつでも書け,読んでもらえる人が有ればいつでも書いて発表できる。

有り難い世の中になった。

いつも,それが人々に読まれるか否かは別の問題である。でもインターネットに接続している人たちが読もらおうとすれば

と゛の人にでも読んでもらえるということだ。外国の人でも読もうと気持ちさえあれば読める状態にある。

色んなホームページがあって読む側に立ってばどれを読んだら良いのか大いに迷う所である。

又便利にもなつた。知りたいことが有れば「検索」すれば知りたいことが直ぐに出てくる。

インターネットを始めた頃に比べれば飛躍的に情報量が多くなりヒットする確率も高くなった。

いつもの事だが日本語を書ける位に英語が書ければといつも思う。

まさか英語圏の人たちが日本語を英語に翻訳してまでして読んでくれるような人たちは皆無だと考える。

言葉の壁が全世界で無くなれば,インターネットは世界の人たちの考えや気持ちの違いがずーと狭まるのにと思うのだが。




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