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アナト(Anath, Anatha, Anat, Neith, Ath-enna, Aynat)

anath.GIF 西セム系の太女神。シュメールのイナンナ(別名インニン;ニンニ)、アッカドのイシュタルとほぼ同一性格。
 フェニキア神話では、バアル神の娘、アラインの姉妹。ウガリト神話では、死者にを供給する女神とされる。前2000年紀中頃からヘレニズム時代までのオリエント世界で広く崇拝された。
 以下、バーバラ・ウォーカーの説明である。


 生誕との女神マリMariの双子の姉妹で、カナアン人、アモリ人、シリア人、エジプト人、ヘブライ人に崇拝された。ギリシア語を話すキュプロス島のフェニキア人は、アナテのことを「アナトAnat、生命の力強さ」と呼んだ。ラムセス2世時代のエジプトの石柱には「天界の女王」「万物の女王」と書かれていた。プトレマイオス王朝においては、アナテはエジプトとパレスティナを支配する女神であった。セム語系の文書を見ると、アナテの名は、「パレスティナの汚れなき乙女」「シオンに住む純潔なる知恵」となっている[註1]

 エルサレムの神殿には、何百年にもわたって、神Elとこの女神アナテが祀られていた。アナテは「天界の女王」、アナト、アシュラマリ、ミリアムMiriamと、その名はいろいろであった[2]。アナテの至聖所ベテアナテについては、『ヨシュア記』第19章(38節)に言及されている。ヤコブの子孫の族長たちの中には、自分のことをアナテの息子だと称した者もいた。例えば、「牛のむちをもってペリシテびと六百人を殺した」(『士師記』第3章 31節)シャムガルがそうであった。シケリア島では、フェニキア人の居住地はアナテの名にちなんでマック・アナテと呼ばれた。ギリシア人はフェニキア人の居住地をパノルモスPanormos〔現在のパレルモ〕と呼んだ。全世界的なの母親の意味である[3]

 アナテあるいはアナトAnatの太古の時代の供犠についての記述が、ラム・シャムラの粘土板文書(1929年、北シリアの古代カナアン人の都市ウガリットの遺跡であるラス・シャムラで発見された楔形文字板)にある。アナテは、男性の精液ではなく、男性の血によって受胎した。それは、アナテ崇拝は遠く新石器時代にまでさかのぼるからである。当時は、生命を親から子に伝えることができるのは、血のみであると考えられていた。アナテへの生贄として多数の男性が殺されたと思われる。その祭儀のとき、アナテの神像はまるで顔料や紅で塗られたように真っ赤であった[4]。「アナテは男性たちを強く打ち据えてはほくそ笑み、殺してはじっと見つめ、喜びのあまりにその肝臓も歓喜にうち震える……彼女はその兵士たちの血の中に腰をおろした。アナテはその聖所の中で男性を大量に殺しに殺し、卓の間で思う存分に切り裂いた」[5]。エジプトでも同じような祭儀があり、巫女たちはその裾を高々とたくし上げて雄牛アーピス Apisの手足を切り裂いた。そこで巫女たちはアーピースから噴き出る血にその腰を浸し、そして受胎した[6]

 ケツァルコアトルの性器の血から新しい生命を造ったメキシコの「の腰簑を着けた女神」〔=コアトリクエCoatlicueのこと〕と同様、アナテも生贄にした男性から切り取った男根を、ヤギ皮の前垂れ、つまり、神楯aigisに吊した[7]。このアナテがギリシア神話にはいると、アテーナーAthenaとして永遠に清純無垢の女神となった。アテーナー神楯は、リビアの巫女たちが祭儀のときに前垂れとして用いていたのが、胸当てとして用いられるようになった[8]アテーナーは、なお、その神楯aigis蛇(=男根)をからませていた。そして同時に、「破壊者」としてのアテーナーの側面を表すために、ゴルゴーンの首もつけていた。「恐ろしいもの」という意味であるゴルゴーンという名が、の女神としてのアテーナーの添え名であった[9]
 point.gifMedusa.
 point.gifMetis.
 point.gifNeith.

 アナテは、毎年、カナアン人の崇拝する神にの呪いanathemaをかけた。そのため、その神はの神になってしまった。モトMotである。モトは去勢されて「不妊」になった神で、多産なバール神Baalの一側面を表す神である。エジプトのセテフ〔セトSet〕と同じように、モトも不毛の季節を表すが、自分と双子で豊穣を表す神アレインを殺した。典型的な聖王を表すモトMot-アレインは、聖処女アナテの息子でもあり、また自分の母親の花婿でもあった。イエスと同様、モトは神の子羊であった。モトは言った、「わたしはアレインで、バールの神の息子である。さあ、生贄の用意をしろ。わたしは子羊である。小麦を祓い清めて、聖王としての任期満ちる生贄となる用意はできている」[10]

 アレインの死後、アナテが彼を甦らせ、代わりにモトを生贄にした。アナテはモトに、汝は天の父エルに見捨てられるであろう、と言った。エルは十字架上のイエスを見捨てた神と同一の神である。イエスは、「わが神El、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言った(『マルコによる福音書』第15章 34節)。このイエスの発言は、太古の時代の礼拝方式を模したものであった。この方式はエルサレムにおける過越の祭りの祭儀の一部となっていたのであった。

 こうした聖なる行事には、アナテがモトの持つ葦の王笏を折る場面があった。それはモトを去勢することを表した — このことはまた、のちにキリスト教の福音書の一部にも現れることになった。王笏を折るということは、老い衰えた聖王モトが、その統治期間中の収穫期を終えて、大地女神アナテとの関係を断つということを意味した。そのためアナテはモトを殺し、その肉体を切断して、血をふりまき、そして大地を新たなるものにして、翌年の収穫を祈った。「アナテは子の神モトを捕らえ、鎌でモトを切り殺した。そして、からざおでモトを打った」。エジプトの救世主ウシル〔オシーリスOsiris〕の肉体と同様、モトの切断された肉体は畑に撒かれた[11]

 神をこのように殺す女神アナテは、当然、のちの父権制社会の伝説では、悪魔とみなされるようになった。アビシニア〔エチオピアの旧称〕のキリスト教徒たちは、アナテのことをアイナトAynatつまり「大地の邪眼」と呼んだ。彼らが言うには、アイナトは老いた魔女で、キリストに殺された。そしてキリストは、アイナトの死体を焼いて、その灰を風で吹き飛ばせと言った、という[12]。イエスがこのようにアイナトに敵意を持ったということは、昔イエスがモトと同一視されていたのを、伝道師たちが巧みに利用して、アイナトを逆に殺させたことに由来したものと思われる。

 キリスト教の福音書に、アナテのの呪い「のろわれよ。マラナ・タ」Anathema Maranatha(『コリント人への第一の手紙』第16章 22節)という言葉があるが、これは、およそ「花婿よ来たりませ」と訳されてきた。本当の意味は花婿のがさし迫っていることを言うのである。そしてこの言葉は生贄として捧げられる者に対して発せられる厳粛な呪いの言葉なのであった[13]。ラテン語のsacerが「聖なる」という意味と「呪われた」という意味の二つの意味を持っているように、この言葉も二つの意味を持っていた。呪われて死んでゆく神はすべて、昔は、神へ奉納される者anathemataであったのである[14]。聖なる結婚のために選ばれた、それから呪われて殺された神々の例は、あらゆる国々に見られる。ケルトの女神がゆゆしい言葉を口にすると、クーフリンCu Chulainnやディアムイドのような者は死ぬ運命に落ちた。「狩猟の神」と呼ばれた神も、「呪われた狩猟家」le Chasseur Mauditになった。

 こうした一般に呪われた神人たちの起源というのは、もとをただすと、古代インドにあると言えるであろう。「罪ある者」シヴァShivaは、サティーSati-カーリーKaliに選ばれて、処女に化身した彼女と聖なる結婚をしたが、そののち、殺されて冥界へと下った[15]カーリーは、原初の深淵を擬人化したものとして、ときにカラ-ナートKala-Nathと呼ばれた。アナテという名前と関連があったかもしれない[16]

 呪って殺す力がアナテにあるために、天界の父さえも彼女を恐れた。あるときエルが彼女の命令になかなか従おうとしなかった。アナテはエルの頭を強く打った。血が流れて、エルの白い頭髪やあごひげが血糊でべったりとなった。エルはアナテの求める物をすべて与えて、「あなたの邪魔をする者はすべて粉砕されるであろう」と言った[17]。こうした中東地方の神話がギリシアに入って、天界の父の忠実なる娘としての女神の話になるには、長い経過があったのである。 point.gifAnne, Saint.


[1]Ashe, 30-31, 59.
[2]Briffault, 3, 110.
[3]Massa, 48.
[4]Hooke, M. E. M., 83.
[5]Gray, 80.
[6]Graves, G. M. 1, 255.
[7]Gaster, 416.
[8]Graves, W. G., 410.
[9]Knight, S. L., 130.
[10]Larousse, 77.
[11]Larousse, 78.
[12]Gifford, 63.
[13]Budge, G. E. 2, 253.
[14]Hyde, 111.
[15]Larousse, 335.
[16]Bardo Thodol, 147.
[17]Pritchard, A. N. E. 1, 124.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)