オルペウス教は、初期キリスト教時代に最も一般に行われていた秘教の1つであった。ディオニューソス崇拝がオルペウスと一体となって発展したもので、オルペウスはディオニューソスの地上での預言者であり、救世主となった息子でもあった。
「オルペウス教は救済の神学を提唱した。また原罪の教義を教えるものであった。人間の本性は二元的であり、肉体と密接に結びついたティーターン的な要素と、霊魂に結びついたディオニューソス的な要素から成っている。禁欲的道徳律によれば、前者を抑圧し、後者を涵養すべきであって、そうすれば、究極的には霊魂は、墓から脱出するように肉体からも脱出し、うんざりするような『再生の輸廻』Kyklos genesionに従わなくてもよいようになる。『私は悲しみの輪の外に飛び出した』と、オルペウス教の入信者は、コンパグノ銘板に記している。
オルペウス教は、ギリシアの宗教の中のディオニューソス的な型を根底とし、それを目的に合わせて作り直したものであった。このディオニューソス教は、オルペウス教と同じように、トラーキア北部に起源を持ち、狂宴的な秘儀の要素を多分に持っていた。オルペウス教はこの要素と結びつき、ディオニューソス教の情緒性、熱狂の教義、神による憑依を取り入れ、その粗野な狂信を斥けて、野蛮な祭式を秘跡の宗教に変えた」[1]。
禁欲的瞑想、夢想の中に肉体を離れた霊魂が経験する霊的な旅、そして精緻な啓示による「因果応報の車輪」からの脱却という点において、オルペウス教は西欧における一種の仏教であった。「オルペウス教は秘教の中に浸されていたが、その秘跡はのちの多くの秘教に取り入れられて溢れ出し、やがてキリスト教に流れ込んだ。救済は秘跡、入信の秘儀、あるいは禁欲的教義によって行われた。……オルペウス教は、かつて、ギリシア人の信仰生活に導入されたものの中で、従来の信仰心を変えさせるのに最も効果的な溶剤であった。……オルペウス教徒は、宗教の持つ国家的・世襲的原理に対して不信の種を蒔き、個人の霊魂の救済が最も大事であるとした。このようにして、オルペウス教は、その後の宗教の歴史に非常に大きな影響を与えたのである」[2]。
オルペウス教は、ギリシアにおけるオリエントの神秘思想にとって最も主要な伝達手段であった。その教義が、すなわち各地の秘教の教義であった。「心の中では何ごとも、あなたにとって不可能なことはないと固く信じて、あなた自身は不死であり、すべてを理解することができると考えなさい。……限りなく高く昇り、限りなく深く沈潜しなさい。あなたは、今この瞬間に、あらゆる所に、地上に、海中に、天国にいるのだと想像しなさい。そしてあなたはまだ生まれていず、死を超えたところにいると想像しながら、あなた自身の内部に、創造の感覚、火と水の、乾きと湿り気の感覚を集中させなさい」。入信したヨーガ行者のように、オルペウス教の賢者はくり返し次のように言う。「私は我が目の視力によらず、私が偉大なる神々から引き出した霊的な活力によって、ものの姿を私自身に表す。私は天国に、地に、水の中にいる。私は空中に、動物、植物の中に、子宮の中に、懐胎の前、生誕の後、あらゆる所に存在する」[3]。
シバリス(イタリア南部)付近で発見されたオルペウス教徒の葬礼の銘板は、ブッダのような、「因果応報の車輸」(kyklos genesion、再生の輸廻)からの脱却につい言及している。kyklos genesionは本質的にはオリエントのサンサーラsangsara(輪廻)と同一のものであった。
1837年ルーマニアで、5世紀以降のものと思われる、人物像の彫られたオルペウス教の聖礼用の金製の鉢が発掘された。彫像はオルペウス教の入信者の、死と再生の旅と、天界と冥界で出会う神々を示しており、神々はまた、入信者が入信の儀式の各段階を通過するとき、仮面をかぶった神殿の聖職者としても姿を見せている。これらの像は、チベットの聖典の曼陀羅に、死と再生の「中間の状態」に在る神々が配置されているのと同じように、鉢の上に並べられていた[4]。
オリエントにおけると同様、オルペウス教の信仰においても、顕示されるあらゆる効力の背後にある力は、太母神であった。太母神が独り立つ姿が、オルペウス教の鉢の中央に置かれ、彼女の周囲には、他の女神や神々が車輪の型に配置されている[5]。彼女は「暗黒の母なる夜」であって、彼女から、「眠り」、「愛」、「夢」、「運命」、「記憶」、「老年」と「死」が生まれたのであった。ゼウスでさえ、「暗黒の母なる夜」を恐れた。「このことは宇宙の偉大な原初の力の1つとしての、『夜』に対する古い信仰を反映するものと考えられる」[6]。
「母なる夜」は、ディオニューソスとオルペウスの両方に繋がりを持つ「破壊者」ペルセポネーと同一であった。一度入信すると、オルペウス教の神秘主義者は、「わたしは『冥界の女王』ペルセポネーの胸の中に深く沈んだ」と告げることができた。オルペウス教徒が死後冥界へ下降するとき、ペルセポネーはとくに彼を迎えて、「死ぬべき運命と引き替えに神にする」ことを彼に約束するのであった[7]。
『ハーデース(冥界)への下降』Descent into Hadesは、オルペウス教の手引書の題名であり、またオルペウス教入信儀礼の中で最も本質的な儀式であった。神自らが冥界に下降して、啓示を得てこの世に戻り、その啓示の上に秘儀が創られたからである[8]。
ギリシア・ローマ神話によれば、オルペウスは、草叢でヘビに咬まれて死んだ彼の花嫁エウリュディケーを取り返すために、冥界に降りて行く。これは原初のトラーキアの死にゆく神の神話を、後世になって改訂したものであって、オルペウス教の教義は後からこの神話に接木して作られたのであった。
エウリュディケーは、実際は「宇宙のディケー」、あるいはテュケーで、運命の女神であり、「因果応報の車輪」を司る女神であった。彼女は、本来はデーメーテールの母権制社会における「憤怒の女神」の1人であり、古代ギリシアの記述者によって、ゼウスの娘に変えられた[9]。冥界では、彼女自身が「死の女神」ペルセポネーであって、彼女を咬んだ「草叢のヘビ」は彼女自身のトーテム(象徴)であった。
最も古いオルペウス神話は、オルペウスは、彼の聖なる分身であるディオニューソスを崇拝するマイナス(熱狂した女信者)たちMainadesによって引き裂かれたと述べている。神話学者は、マイナスたちの行為に対してさまざまの解釈を与えて、生贄の動機を隠匿しようとした。一説には、オルペウスが性の狂宴を拒み、異性愛ではなく、男性の同性愛を唱導したために、マイナスたちは彼を殺したのだという。彼女たちはオルペウスに対してひどく怒り、マケドニアにおいて、オルペウスの教えに耳を傾けたという理由から彼女たちの夫をすべて殺した。オルペウス教の祭司はエジプトの服装をしているが、これは父権制社会の禁欲的観念が、エジプトのラーの祭司からオルペウス教に伝えられたことを暗示するものである[10]。
他の物語は、オルペウスはマイナスたちに殺されたのではなく、神々の秘密を人間に啓示したことに対する罰として、ゼウスの雷霆によって殺されたと述べている。オルペウスが冥界へ行き、そして帰って来たのち、彼の肉体から切り離された頭は、ディオニューソスを祀る洞穴に置かれた。そこで彼の頭は、アビュドス(エジプト中部)にあるウシル〔オシーリス〕の頭のように、歌い、かつ語り続けた。
死後の神秘を教える者として、オルペウスは神託を授ける神となった。彼は、アイギナ(ギリシア南東部)にヘカテー、スパルタにデーメーテール・クトニアの神託所を作ったと言われているが、これらの神託所は以前は女神が所有し、女神の名で呼ぱれていたものであり、以上の説は古代ギリシアの混合主義を示す2例と言えよう[11]。一説にはオルペウスの名前は、エデッサ(メソポタミアの北東部)の有名な神託神殿ウルポイに由来していると言うが、他の説では、彼の名を「死者の国」エレボスと結びつけている[12]。アリストテレースは、オルペウスは実在の人物ではなかったと主張している[13]。
一般に知られている伝説では、オルペウスは、アドーニスの祖先であるキニュラス(ギリシア語のcinyraは「竪琴」を意味し、セム語のKinnor「竪琴」と同語源)や、イエスの祖先のダビデのように、有名な詩人で、竪琴の名手であった。オルペウスの竪琴は、レスポスの神殿に聖遺物として保存され、手を触れてはならないものであり、タブーとされていた。レスボス島の僭主の息子ネアントスはあるときオルペウスの竪琴を弾いたが、間もなく彼はイヌの群に襲われて八つ裂きにされた。イヌの群は、イヌの仮面をかぶった巫女のマイナスたちであったのかもしれない。のちに竪琴は星の間に置かれたが、現在もなお、「琴座」として夜空に現れる[14]。
オルペウス教の入信儀式の神秘的で重要な語句の1つに、「我、小さき児は、母の乳の中に倒れぬ」という句がある。これは、おそらく、ペルセポネーの胸のもとでの死と、それに続く彼女の養ない児としての再生に関連するものと思われる。
古代の祭式には、ユダヤ教の律法が特別に禁じたものが含まれていた。「あなたは子やぎを、その母の乳で煮てはならない」(『出エジプト記』第23章19)。この儀式に対するユダヤ人の恐怖はきわめて大きく、彼らはミルクと肉製品には違う皿を使うべきだと主張するほどであった。しかし、彼らの神はかつては、ペルセポネーのような、「穴」としての母神アシュラと、聖なる結婚の儀式によって、結婚したのであり、この儀式には仔ヤギをその母親の乳の中で料理することが含まれていた[15]。この語句が聖書記者にとって何を意味していたのかは、誰にもわからない。この禁令は、確かに、動物に対する優しさや、ヤギの母性愛に対する崇敬が動機となっているのではない。それには何かほかの、ある神秘的な理由があったのである。
紀元2、3世紀頃には、オルペウス教は、キリスト教の最も容易ならざる競争相手であった。教会が、オルペウス教の救世主とキリストを同一とする案を考え出すまで、この事態は続いた。4世紀のキリスト教美術は、オルペウスの姿をしたキリストを描き出している。キリストはプリュギアの帽子をかぶり、竪琴を奏で、足許には生贄の仔ヒツジが描かれていた[16]。アレクサンデル・セヴェルスは、彼の家の礼拝堂にキリストとオルペウスの聖像を並べて置いた[17]。
オルペウス教の福音は、地中海沿岸地方一帯において、少なくとも1200年の間にわたる長い間布教されていた[18]。そしてキリスト教の教理に大いに貢献し、また中世の吟唱詩人の物語においても再び語られた。
詩人たちはオルペウスを変えて、王プルートーンと女神ユーノーの息子である英国王サー・オルフェオとした。オルフェオの妻はエウロディス(エウリュディケー)であった。彼は岩の裂け目を通って冥界に入り、異教の妖精の国を見出した。それは、女王の水晶の宮殿を取り囲む木立と花園の国で、女王の宮殿には黄金と宝石で作られた柱があった。そこには「死んだと思われているが、本当は死んでいない人々」が住んでいた。オルフェオは、彼の国の都の、当時トラーキアと呼ばれていたウィンチェスターへ帰った。すなわち、吟唱詩人の物語では帰ったとされている[19]。中世の地理の概念とは大体この程度のものであった。
しかし、オルペウス教は西欧キリスト教社会に、トラーキアとウィンチェスターを一緒にするような混乱した地理の概念や、騎士道物語的な伝説以上のものを与えた。オルペウスの啓示は、事実上、キリスト教のそれと区別し難く、とくにその後の、永遠の祝福を得るために肉食と性の快楽を慎んだ禁欲主義者の「清められた」方式とは、見分けがつけ難かった。死後に受ける罰の観念を導入したことでも、キリスト教との類似は驚くべきものがある。プラトーンの『国家』(紀元前4世紀)の作中人物であるアデイマントスは述べている。「オルペウス教の啓示は、非良心的な教師によって『誤用」された。彼らは、善人には幸福な不死を賄賂として差し出し、悪人を永遠の罰で脅迫した。そのため人々は、善そのもののために善を心掛けるのではなく、恐怖から善を行っている」[20]。こうした障害はオルペウス教にのみ限ったことではなかった。Hell.
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)