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随想 シュワィツァ−・緒方洪庵 ギャラリ 検索リンク集


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秋もたけなわ


10月は秋の季節の中でも一番秋らしい良い時期である。柿 栗などがとれる実りの秋でもある。

丁度暑くも無く寒くも無い時期で,時候として一年中で最も過ごしやすい季節でもある。

だが米国でのテロ事件後ブッシュ大統領が本格的なアフガニスタンのタリバンへの空爆,攻撃が開始された。

又一方アメリカ国内では郵便物による炭疽菌によるテロ事件が報道されるようになつてきた。,

なんとなく落ち着かない世の中になって来ている。日本も国会でテロ対策特別処置法案 自衛隊法改正で

アメリカへの戦争のお手伝いができる環境が一応整った。国民の意志に関係なく国会議員た゛けで決まった。

我々は何も選挙の時に全てのことに対し白紙委任状を託してはいない。

だがこれも多数決による民主主義の原則で決められたことになる。だから一番に首相 それに議員の責任は重い。

危ないブッシュ大統領のアメリカの言いなりにりにしていてよいのだろうか。?

一発か゛一億円ともいわれるスカットミサイルがアフガンに打ち込まれ,

又一箇が5-6百万円もする爆弾が連日のように雨霰のの如く惜しげも無く落とされている。

実用主義,実証主義先進国アメリカが高価な費用を費やし,それに対しての見返りの無い無駄な投資は決してしないだろうと思う。

破壊は容赦なく進み,戦争後に日本はアフガンの復興と後方支援の為に,尽くしなさいとのアメリカからの宣託を頂いている。

だが戦後はいつになるか皆目判らない。地上戦になると大勢の住民達を巻き込まれるのはヴェトナム戦争 

ソ連のアフガン侵攻時で既に実証ずみである。泥沼戦争が何年も続く可能性も充分にある。

戦争は生き物だからは予想はつかない。

既に病院 診療所などへの誤爆が報道されている。それにより何人もの罪の無い人達が爆撃に巻き込まれた。

もしも警官が犯人めがけ打つたピストルの弾が誤って周辺の市民に当たり殺すような事があれば大騒動である。

罪になる可能性も充分ある。でも空爆による誤爆は仕方ないですまされている。15%くらいの誤爆が伴うそうだ。

戦争は狂気だ。犯罪者が英雄になる。21世紀にもなった今も昔の狂気の沙汰は収まらず続いている。

それは指導者によるものなのか,それとも人間である限り続く業・原罪のようなものなのだろうか。

早く目覚めてほしいものである。




大事に立てば立つほど



松下幸之助の言葉より


 困難期、混乱期に際して大事なことは、根本的な心の迷いをとり除いて、しっかりと心を確立してゆくということです。

志をかたく堅持して、そして事に立ち向うことができるなら、その時に応じて最善と考えられる具体的な方策は、

適切に出てくるものだと思います。

その志を確固として持つことなしに混乱期に直面すれば、あれこれと心が迷うことになって、事が失敗に終わる場合が少なくないと思うのです。

まさに“貧すれば、鈍する”です。

 大事に立てば立つほど、どう生きるかについてのしっかりした信念を持つ。

そうして事に当たれば、ある程度の処置は誤たずしてできるものだと思います。



常の心構えが大切で,混乱時にはそれが生きてくる。そのためにも平時に心構えをしっかりとしたものに育てるのが大切なのか。





 
物心にバランスある姿


松下幸之助の言葉より

 今日のわが国では、科学の進歩、経済的な発展にくらべて、国民の道義道徳心なり良識というものに、

非常に脆弱な面があるのではないか、という声がある。

たしかに今日では、何が正しいか、いかにあるべきかという点があいまいになってきているように思われる。

 やはり、人間らしい生活を営むには、単に科学が進歩し、物質的に豊かになるばかりでなく、

人としての良識というか、精神面の豊かさというものが並行して養われる必要があると思う。

つまり、身も豊か、心も豊かというバランスのとれた豊かさのもとに、はじめて平和で、

人間らしい幸せな生活をおくることができるのではないだろうか。


云われるとやはり其のとおりである。




中立の立場はない。善と悪との戦いだは本当なのか


10月9日の天声人語より
 
 爆弾とともに食糧を落とす。米英によるアフガン攻撃はそんなふうに始まった。

ブッシュ米大統領は「アフガニスタンの抑圧された人々はアメリカとわが同盟国の寛大さを知るだろう」と食糧投下の意義を語った。

 事態は必ずしもはっきりしない。それにしてもアフガンの人々は空から「寛大さ」が降ってくると感じただろうか。

大いに疑問だ。

このことについて、英ガーディアン紙が非政府組織(NGO)の声を集めている。

 「食糧投下が軍事行動の一部と見られると、かえってまずい。

むしろ今後の食糧支援を難しくする」「軍事行動と切り離された、公平な援助とみなされるために、

そうした援助は国連に一元化した方がいい」など大方は懐疑的だ。

 彼らの多くは、国境を封鎖しての軍事行動は事態を悪化させるばかりだ、一刻も早く国境の開放を、と語っていた。

ペシャワルにいる日本のNGO「難民を助ける会」職員は現地のNGOとともに5000人分の食糧を確保、

きょうにも数台のトラックを使ってアフガンからの難民に配るつもりだ。

 ブッシュ大統領は「この戦いには、中立の立場というものはない」と言う。善と悪との戦いと見るからだ。

テロの首謀者とされるビンラディン氏は、用意していたのであろうビデオで「世界は二つの陣営に割れた。

信仰と不信仰との」と語る。

 宗教戦争にしてはならない。しかし、両者の「聖戦」意識が気がかりだ。

日本の役割のひとつは、反テロの立場に立ちながら、

戦線の拡大を食い止めること、つまり宗教戦争化を防ぐことにあるだろう。


戦争には聖戦もない替わりに,又善による悪の戦いもない。昔から続く戦争はただ人間が受け継いでいる

一番愚かな行為ということだけのことである。

戦争により莫大な利益を得る人もいるし,一方泣くに泣けないような被害を被る人達が沢山に出る。

戦争そのものは悪である。支持できる戦争は何一つない。止めるべきである。一日でも早く中止すべきである。





アフガン側から見ると国際社会が見捨てた国アフガニスタン



10月10日の天声人語より



 「国際社会が見捨てた国」と前国連難民高等弁務官の緒方貞子さんがいうアフガニスタンが、不幸なかたちで世界の注視を浴びている。

遅ればせながらアフガン関係の勉強を少ししたが、自分の無知と無関心に恥じ入っている。

 たとえば、アフガニスタンの人々自身が「アフガニスタン?」と自分の国を知らないことさえあるという。

外国に出て初めて自分がアフガニスタン人といわれていることを知る。それほど深く部族ごとに分断されていて、国としてのまとまりがない。

 イランの映画監督モフセン・マフマルバフ氏がかの地を舞台にした「カンダハール」を撮ったが、

それとともに今春、著した報告は、現況を克明に描く。

町中で、2万人の人々が飢えて死んでいくのを目の当たりにした。10万人の難民が徒歩で北へ向かう光景は「最後の審判」のようだった。

 しかし「これらの光景は世界のどのメディアにも流されない」。彼は、アフガニスタンは他国の干渉よりもむしろ無関心に苦しめられた、と考える。

石油があれば話が違った。しかしこの国が世界に提供できる産物はアヘンだけだ。

 監督の結論はこうだ。バーミヤンの仏像は破壊されたのではなく、恥で倒れた。

世界の無知の前に仏像の偉大さなど力にならないと知って倒れたのだ。もちろん、象徴的な言い方だが、胸に迫る。

 タリバーンは遠くから見ると危険な原理主義者だが、近くで見ると飢えたパシュトゥン人の孤児である、とも言う。

彼の報告は、事態を遠くからだけでなくアフガン側から見る必要もあることを教える。



ニュヨークのテロ事件で一斉に全世界の目がアフガニスタンに注がれるようになった。

遠くの国のことは人々はあまり関心がない。当然といえば当然の事たが,富や貧が余りにも片寄りすぎてきている。

平等が建前の共産主義でさえも貧富の差が出ることが判った。どのようにすれば良いのか呆然として立ちすくんでいるのが

今の世界の社会情勢ではなかろうか。戦争だけは是非避けるべきである。

それにより儲けを企てる人があるとすれば,そのような事は考えたくないし決して有ってはならない事だ。

是非とも戦争は多くの人々を苦しめるだけで避けるべきである。





世界を100人の村に縮小するとどうなるか




10月27日の天声人語より

 
 アメリカの中学校の先生が、こんな内容のメールを自分が教えた生徒たちに流した。まずはその内容をざっと紹介する。

 世界を100人の村に縮小するとどうなるか。

その村には「57人のアジア人、21人のヨーロッパ人、14人の南北アメリカ人、8人のアフリカ人がいます。

70人が有色人種で、30人が白人。

70人がキリスト教以外の人で、30人がキリスト教」に始まってこう続く。

 「89人が異性愛者で、11人が同性愛者。

6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍。

80人は標準以下の居住環境に住み、50人は栄養失調に苦しみ、

1人が瀕死(ひんし)の状態にあり、1人はいま、生まれようとしています」

 さらに「1人(そうたった1人)は大学の教育を受け、そしてたった1人だけがコンピューターを所有しています」と続く。

そのうえで「自分と違う人を理解すること、そのための教育がいかに必要か」を説く。

 この縮図の数字の根拠ははっきりしない。少々変な数字も交じっているようだ。

しかし、こうやって考えてみることの重要さはよくわかる。世界一豊かな国で教えることの意義も大きいと思う。

先生はまた「もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上に屋根があり、寝る場所があるのなら、

あなたは世界の75%の人たちより恵まれています」といった解説を加えていく。

 このメールはJTBサンフランシスコ支店経由で日本のJTBに送られてきたものを紹介していただいた。

 その村にいる2人の日本人としても他の98人のことに無関心ではいられない。




このように解説をしてもらうと非常に判り易い。この文章は10月27日の天声人語だがショックを受けたので

二度でも三度でも読み返し,又多くの人達に知って欲しいものである。

何気なく毎日を屋根の下で普通の生活が出きるということは世界の75%の人達よりもズーと恵まれているのである。

59%の全世界の富が6人の人に占められていて,その6人ともがアメリカ国籍で,そのアメリカが今世界で一人勝ちして

世界をリードしている。今回の戦争もアメリカ指導で行われているのが非常に気になる所だ。






非対称の世界 アメリカとアフガニスタン




10月11日の天声人語より


 非対称という言葉がしばしばつかわれる。対称が、互いに対応してつりあっていることをいうなら、

当然ながら非対称は、つりあいがとれていない状態だ。

 ナイフという小さな武器で大惨事を引き起こしたテロ事件が始まりだった。

最も原始的ともいえる武器で、文明の利器の旅客機を乗っ取り、世界のビジネスセンターに激突させた。

ほんの少人数で、世界最強国を震かんさせたこの始まり以来、非対称は広がり、深まっている。

 世界の多くの人がその映像を見て、衝撃を受けた。しかし、アフガニスタンの多くの人はあれを見ていないだろう。

きのう紹介したイランの映画監督モフセン・マフマルバフ氏の報告にも「映像のない国」という章がある。

 テレビはなく、新聞には写真と絵がない。そして映画館もなければ、映画をつくる人もいない。

彼は「映像のない国」についてそう語る。

私たちのように、まず映像で事態を把握したのではなく、もっぱら言葉で事態は語られるだろう。

 世界最貧国のひとつである。

そこへ世界最強国が最新兵器を使って攻撃を仕掛けている。

そして攻撃する側が恐れるのは戦場での対空砲火より、むしろ母国での日常生活への反撃である。

 いや、攻撃を仕掛けている国だけでなく、世界のどこで反撃がなされるかわからない。

米側は限定攻撃といっても、それへの反撃は無限定の可能性が高い。これが最新の非対称性だろう。

 大義はどうか。当初、米国側に大きく傾く非対称だった。しかし誤爆をはじめ誤算が積み重なると、

こちらの非対称は揺らぎ始める。


窮鼠猫を噛む。だけでなく失うものの無い人達の反撃は恐ろしい。何が起きるか判らない。

一億円もするスカートミサイルを打ち込むならば一億円分の援助すればどれだけに

その人々が助かる事か。そんな甘い事なんか出来ぬとの声がきこえてきそうだが。

だが相手をいくら痛めつけてもテロで亡くなった人達は生き返ってこない。

強いものには巻かれろで全世界の人達はアメリカに協力している。

テロ自身は憎んでも憎んでも足りることはない。だがその根底には明日の命も判らない人達の貧があることにも

気ずくべきである。非対称の戦いは続いている。





諸行無常の教え



松下幸之助の言葉より

 その昔、お釈迦さまは、“諸行無常”ということを説かれました。

この教えは、一般には“世ははかないものだ”という意味に解釈されているようですが、

私はむしろ“諸行”とは“万物”、“無常”とは“流転”と考え、諸行無常とは、すなわち万物流転であり、

生成発展ということであると解釈したらどうかと思うのです。

言いかえますとお釈迦さまは、日に新たでなければならないぞ、ということを教えられたのだということです。

 これはたんに仏教だけの問題でなく、お互いの日々の仕事をはじめ、

お互いの人生、社会のあらゆる面に当てはまるのではないでしょうか。


いくら生きたくても死ぬ時には誰もは死ななければならない。それを心の底に持ちながら日々新たで

時を惜しんで毎日を精一杯暮らすの心構えが必要とするものである。



人一倍失敗を重ねたが故のノーベル賞



10月12日の天声人語 より


 ノーベル賞受賞の野依良治(のよりりょうじ)さんと共通する体験がひとつある。ナイロンが空気と水と石炭からできている。

幼いころ、そのことにひどく驚いたことだ。

 空気と水、はわからなくもない。しかし、あの真っ黒な石炭から半透明の繊維ナイロンができるとは、と感心した記憶がいまでも鮮明だ。

二人の違いは、もちろん歴然としている。こちらはそれっきりで、野依さんはその驚きを育て続けたことだ。

 発表後のインタビューなどを聞いていると、わかりやすいが、味わい深い言葉がいろいろあって、その人柄がうかがえる。

「研究生活は失敗の連続だった」「大きな発見はほとんど偶然からだ」。謙そんではなく、まさにそうなのだろうと思う。

 そう断言できるほど失敗を重ねてきた。

たぶん、人一倍失敗を重ねてきた自信があるのだろう。

授賞理由になった「不斉(ふせい)合成」も、別の実験をしていて、偶然発見に至ったらしい。

ただし、この「偶然」は少々くせものだと思う。偶然を招き寄せる力があったからだと思う。

 学生時代はスポーツやマージャンに熱中して「劣等生」だったといい、その後の研究生活でも、合間に音楽や美術に傾倒したという。

この一見、研究には無駄とも思えることの積み重ね、そうやって培った幅の広さも「偶然」を招き寄せることができた一因ではないか。

とは、無駄にばかり時間をつかいすぎた者の勝手解釈だが。

 「化学はおもしろく、美しく、ときに役立つ」という。朝、ハッカの香りのする歯磨きをつかいながら、その言葉をかみしめたのだった。



「○○はおもしろく、美しく、ときに役立つ」は案外に他の言葉を入れても通ずる言葉のようだ。

物を新鮮な目で見て失敗を人より多く重ねても,くじけない気概がノーベル賞に通じたのだと考えたい。



臨床家になれ



松下幸之助の言葉より


 経営、商売というものは、これを医学にたとえれば、臨床医学に当たると思います。

その意味では、これに当たる者はみな、実地の体験をつんだ臨床家でなくてはなりません。

 ですから、かりに販売の計画を立てる人が、自分自身、販売の体験を持たずして、その知識、才能だけに頼って、

いわゆる机上のプランをつくっても、それは生きたものとはならず、失敗する場合が多いのではないでしょうか。

やはり、臨床の仕事をしていく以上、実地の体験から入らなくては、一人前の仕事はできにくいと思うのです。

 この臨床の仕事をしているという心根をお互いいつも忘れないようにしたいものです。



実際に毎日が臨床に携わっている者としても,興味深い言葉である。医学としての知識と実地の経験は

両輪の如きものであって,片方だけでは立派な臨床医にはなれない。

これにさらに加えるならば自分自身の健康と人の痛みへの同情心愛情心である。






小異を捨て大同につく

松下幸之助の言葉より


 明治維新の立役者は勝海舟と西郷隆盛である。当時官軍にも幕府側にも戦いを主張する人は少なからずあり、複雑な情勢であった。

しかし、勝海舟も西郷隆盛も戦うことを決して軽視はしなかったけれども、それ以上に、日本の将来ということを深く考えたわけである。

そういう両者の一致した思いが、江戸城無血開城を可能にしたのだと思う。

 結局、指導者が目先のこと、枝葉末節にとらわれず、大所高所からものを見、大局的に判断することがいかに大切かということである。

何が一番大事であり、何が真に正しいか、たえず小異を捨て大同につく、それが指導者としてきわめて大切な心がまえだと思う。




指導者は目先のことにとらわれずに大局的な私心を捨てた心が大切である。

小泉総理並びにそれ以上にブッシュ大統領はさらに心もとない気がする。世界を指導してゆく人である。

アナン国連事務総長にノ−ベル賞を与えて,もっと頑張って欲しいいう世界の人達の気持が判る。





「以前はブッシュ大統領のことを書けば皆大笑いしてくれた。
いまは彼をリンカーン大統領みたいに扱わなければならない」



10月19日の天声人語より


 笑いを職業にする人たちが、深刻な状態に置かれている。実際、笑い事ではない。

もちろん9月11日の同時多発テロ以来のことである。

 英国では「ミスター・ビーン」でわが国にもおなじみのコメディアン、ローワン・アトキンソン氏がタイムズ紙にたいへんまじめな投書をした。

英国政府が準備している反テロ法案が「宗教的憎しみをあおること」を禁じる内容を含んでいることに懸念を示したのだ。

 「宗教者をパロディーにするのが私の大事な仕事だった」という氏は

「宗教も含めて笑いの対象にならないものはないと信じている」と言い、

そのよしあしは、法ではなく観客、聴衆に判断を任せるべきだと訴えた。

 米国では、たとえば、ユーモアを売り物にするコラムニストがぼやいている。

「以前はブッシュ大統領のことを書けば皆大笑いしてくれた。いまは彼をリンカーン大統領みたいに扱わなければならない」(A・バックウォルド)。

 確かにあれは笑いを凍りつかせる事件だった。

その事態が依然として続く。

しかし一方、笑いや皮肉やユーモアのない世界はつまらないだけでなく、危険でもあるだろう。

笑いにもいろいろあるにせよ、多くは対象を突き放して見るところから生まれる。

大げさにいえば批評精神の産物だ。

笑いを封じ込めることはしばしば批評の抑圧につながる。

 きのうふれたわが国会のトマホーク論争などは、アトキンソン氏の手にかかったら爆笑劇に仕立てられるだろう。

ただし、見せられるわれらは、引きつった笑いを強いられる。いや笑い事でない、と。



笑いの対象だったブッシュ大統領がリンカーンなるとは恐ろしい社会現象である。

それこそは後世のお笑いの対象になるというよりも

怒りの対象になる可能性がある。何時かきっと笑い転じ怒りに変わるのではないだろうか。

そうでなければよいのにと願いたい。




人の話に耳を傾ける



松下幸之助の言葉より


 日ごろ部下の言うことをよく聞く人のところでは比較的人が育っている。

それに対して、あまり耳を傾けない人の下では人が育ちにくい。そういう傾向があるように思われる。

 なぜそうなるかというと、やはり部下の言葉に耳を傾けることによって、部下が自主的にものを考えるようになり、

そのことがその人を成長させるのだと思う。

けれども、自分の言うことに上司が耳を傾けてくれない、というのではただ惰性で仕事をするということになって成長も止まってしまう。 

上司としてどんな場合でも大事なのは“耳を傾ける”という基本的な心構えをいつも持っているということであろう



人の話に耳を傾ける事は言うは易く 行いは難しである。一つの考えに凝り固まると

なかなかにそれより出ることは難しい。

柔軟な心が常に必要とされてくる。思い込みだけは避けたいものである。




あたかも「究極の正義」を目指すかのようなブッシュ流の発想が気がかりだ



10月25日の天声人語より


 ブッシュ大統領が「イーブル」という言葉を連発している。「悪」のことだが、日本語の語感では「邪悪」に近いか。

いま米国が戦っている相手のことを指している。

 もちろん自分たちは「正義」の側にいるとする。この正邪論は単純でわかりやすい。しかし、落とし穴もある。

当面最も気になるのは、「悪」との戦いとしてしまうと、その戦いはいつ終わるのか、だ。

「悪人は死ぬかもしれないが、悪は決して死なない」(モリエール)から。

 まさか人類の悪を根絶しようと思っているのではないだろうから、そこまで心配する必要はないかもしれない。

しかし、あたかも「究極の正義」を目指すかのようなブッシュ流の発想が気がかりだ。

 格言集のようで恐縮だが「究極というのは、政治の言葉ではない」(ディズレリ)。

最善ではなく、せいぜい次善を求め、最悪ではなく、より少ない悪を選択する。

こうした謙虚さが政治には必要なときがある。

 「お尋ね者 生死を問わず」発言から「十字軍」失言、それに「無限の正義」作戦とそれを変更しての「不朽の自由」作戦など、

この間つかわれた言葉を拾っていくだけでも米国の「聖戦」意識の強さがうかがえる

のためには少々の「誤り」も許されるだろうといった錯覚に陥りはしないか気がかりだ。

 米国防総省がこの間のアフガン攻撃で2件の誤爆があったことを認めた。

テロとは無関係な人々が犠牲になった可能性が大きい。その罪の重大さに鈍感になってはいないか。

「正義の御旗(みはた)」に目がくらんではいけないと思う。



全てが正か邪悪かどちらか云った,世の中そんなに単純なものではない。

悪い所も有るが良い所もあるといった事の方が多い。

AかBかどちらかかと云ったような発想がブッシュ大統領を含め欧米人に多い。

戦争か平和かというと誰もは平和を取る。正か悪かというと誰もは正をとる。

誰もが正義の戦いをしている。アフガニスタンのタリバンは聖戦(ジハ−ド)と言い,アメリカは「不朽の自由」作戦と言い

お互いが正義の戦いをしている。

歴史を振り返れば常に両者が正義の戦いを繰り返し行われて来た。

結局は勝てば官軍で勝つた方が正義者となる。一つ此処で云える事は戦争そのものは悪なのである。

指導者がその悪を許して,庶民はその被害者となる。

だから戦争を許している両方の指導者は悪であり馬鹿である。

さらに云うならば民主主義社会ではそのような指導者を選んだ国民も馬鹿なのである。

現在は支持率が高いブッシュ大統領の支持率も戦争が長引きそして犠牲者が大勢出れば

下がるのは火をみるより明らかである。

何が狂うが如くにして戦争になびくのだろうか。犠牲者は必ずに両者に出る。

国連がもっと平和に対しての指導力を発揮すべきだか゛

本部がアメリカにあれば仕方ないことなのだろうか。歯がゆいことだ。




インテリの弱さ



松下幸之助の言葉より


 今日、よく耳にする言葉に“インテリの弱さ”ということがある。

これは、インテリには、なまじっかな知識があるために、それにとれわれてしまい、

それはできないとか、それはどう考えてもムリだ、

と思い込んでしまって、なかなか実行にうつさないという一面を言った言葉だと思う。

 実際、“ああ、それは今まで何度もやってみたんだが、できないんだ”と決め込んでいることが、

われわれの身のまわりには意外に多いのではなかろうか。

ときには、自分の考え、また自分をとらえている常識や既存の知識から解放され、

純粋な疑問、純粋な思いつき、というものを大切にしてみてはどうだろうか。


其のとおりだ。自分の考え、また自分をとらえている常識や既存の知識を捨てて純粋な疑問、純粋な思いつきで

がむしゃらに事を運ぶ事も大切である。






世界を100人の村とすれば6人が全世界の富の59%を所有し、
その6人ともがアメリカ国籍。



10月27日の天声人語より

 
 アメリカの中学校の先生が、こんな内容のメールを自分が教えた生徒たちに流した。まずはその内容をざっと紹介する。

 世界を100人の村に縮小するとどうなるか。

その村には「57人のアジア人、21人のヨーロッパ人、14人の南北アメリカ人、8人のアフリカ人がいます。

70人が有色人種で、30人が白人。

70人がキリスト教以外の人で、30人がキリスト教」に始まってこう続く。

 「89人が異性愛者で、11人が同性愛者。

6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍。

80人は標準以下の居住環境に住み、50人は栄養失調に苦しみ、

1人が瀕死(ひんし)の状態にあり、1人はいま、生まれようとしています」

 さらに「1人(そうたった1人)は大学の教育を受け、そしてたった1人だけがコンピューターを所有しています」と続く。

そのうえで「自分と違う人を理解すること、そのための教育がいかに必要か」を説く。

 この縮図の数字の根拠ははっきりしない。少々変な数字も交じっているようだ。

しかし、こうやって考えてみることの重要さはよくわかる。世界一豊かな国で教えることの意義も大きいと思う。

先生はまた「もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上に屋根があり、寝る場所があるのなら、

あなたは世界の75%の人たちより恵まれています」といった解説を加えていく。

 このメールはJTBサンフランシスコ支店経由で日本のJTBに送られてきたものを紹介していただいた。

 その村にいる2人の日本人としても他の98人のことに無関心ではいられない。



戦争を好むアメリカの気質にはこのあたりが本音・本質がかくされているとも考えたくなってくる。

アメリカの中でも多数の「give me some money」と言ってくる乞食の人達の層が多いように見かけた。

となると寡占の富を占めている人々はほんの僅かの人達によっている。

其の人達により世界が振り回されうごかされいている可能性もある。






見えない脅威相手の見えない戦い


10月28日の天声人語より 


 同時多発テロの後、米国のテレビ記者が「わが国が外敵にこれほど侵略されたのは史上空前のこと」と話すのを聞いた。

事件の衝撃、深刻さを考えると、その通りだろう。だが、米大陸が思わぬ外敵の侵略に悩まされた例なら、過去にもある。

 ひとつは、日本でもおなじみのモンシロチョウだ。

19世紀半ばの南北戦争以前には北米に一匹もいなかったのに、まもなくカナダを経て米国に侵入し、

わずか30年で勢力範囲を全米に広げてキャベツ畑を食い荒らした。

 「てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡つて行つた。」(安西冬衛)。

ときには海を越えるほどのチョウのおう盛な行動力については、今もなぞが多い。

19世紀末に出版されたチョウの本には「毎年の被害総額は10万ドル」と書かれているそうだから、

米政府も新参者には手を焼いたらしい。

 時代がさかのぼってさらに深刻だったのは、15世紀末のコロンブスによる米大陸発見以降、欧州から米大陸に運ばれてきた病原菌である。

カリフォルニア大学のダイアモンド教授は著書『銃・病原菌・鉄』の中で、

天然痘やインフルエンザなどの免疫を持たなかった米先住民の人口は200年足らずで95%も減ったと推定している。

 人類史は未知の病原菌との戦いの歴史でもある。

だが、通常は土壌や動物の体内に潜んでいる炭疽(たんそ)菌が、

何者かの手によって郵便物に仕込まれて米国各地で感染者を出すようなバイオ(生物)テロを、だれが予想しただろう。

 見えない脅威相手の見えない戦い。もどかしさは募るが、文明の試練を克服するには忍耐が肝要だ。




天然痘やインフルエンザなどの免疫を持たなかった米先住民の人口は200年足らずで95%も減ったとは驚きである。

そのような短い歴史しか持たぬアメリカがどうして今のような世界をリードするような国になれたのだろうか。

又それも驚きである。炭疽菌が何者かの手によって郵便物に仕込まれて米国各地で感染者を出すようなバイオ(生物)テロに

対しての見えない脅威相手の見えない戦いがアメリカ国内で始まっている。

アメリカに協力したが為にわが国もそのような脅威にさらされるのだけはご免である。

これは決して宿命ではない。





 使命感半分、給料半分


 人間には、“欲と二人連れ”という言葉もあるように、自分の利によって動くという面と、使命に殉ずるというか、

世のため人のために尽すところに喜びを感ずるといった面がある。

だから人を使うにしても、給料だけを高くすればいいというのでなく、

やはり使命感というものも持たせるようにしなくてはほんとうには人は動かない。

もちろん使命感だけで、給料は低いというのでも、これはよほど立派な人でない限り不満を持つだろう。

普通の人間であれば、使命感半分、給料半分というところだと思う。

 そのようなあるがままの人間性に則した処遇をしていくところに、適切な人の使い方があると言えよう


人には自分の利によって動くという面と、使命に殉ずるの部分があることはゆがめられない。

人間の生き方として両者が丁度バランスが取れたところに本当の人間らしさが見えてくるような気がする。



不況そして構造改革


不況感は益々深刻化してきている。構造改革を掲げる小泉首相の発言もアメリカのテロ事件に発した

アフガニスタン戦争で影か薄く感じるようになって来た。

戦中の日本を思い浮かべるような,賃上げに対して辛抱 リストラに対しても辛抱 辛抱辛抱が社会の常識に

なりつつある。一方のアメリカでは景気良く,それも不毛の地 初めから化石状態だと言われているアフガニスタンへ空爆して

ドンドンと景気良く爆弾を投下している。日本も後方支援の為に自衛隊を派遣する環境は整い出動する事になる。

ひょっとするとそれが原因で国内に炭疸菌をばらまかれて被害者が出たらそれこそ惨めである。

起こらない自信は政府に有るのだろうか。本来の日本はアメリカとアフガニスタンの間に入って戦争を止めさせる役割が

一番適していたと考える。結局はアメリカの片棒を担ぐ事になった。

片棒を担ぐにしてもタダとは行くまい。艦船を動かすのに費用もかかるし自衛隊員に対しても特別手当を支給する必要が

ある。税金がそんな所に使われたくない。少しでも不況回復へ資金に廻したい所である。

構造改革の政府内での取り組みに対する精力 時間もアフガン戦争に割かれ,我々の目からするとはっきりとしてこない。

アメリカの景気産業は好況に沸いているだろうし,まさか日本が景気わるいからとてそのような産業の片棒だけは担いで

もらいたくない。何か全世界がアメリカに振り回されているように思われる。

いっそうのこと構造改革で自衛隊も会社組織にして損益が出るような所には出動しないと。全世界がそのようにすれば

軍隊はもともと非生産的存在だから必ず赤字が出ること明白で世界中の国々から軍隊はなくなり,

戦争は起きなくなるののではないだろうか。

前世紀の遺物である軍拡競争だけはすべきでない。

ロケットで人工衛星から地球めがけ核爆弾 化学兵器 生物兵器のどれかを落とせばそれで人類滅亡は必至である。



人間は進歩しない。



科学は進歩しても,人間そのものは少しも進歩していない。扱う道具が石器から現在のハイテク関係の機械に変わっただけである。

一代は長く生きてもせいぜい100歳を越える事は少ない。その間に蓄積した技術 知能は全て死と共に灰になる。

人間には学習能力があるから,先人の智慧 知識 技術は学習することができる。

一人でも偉大な偉人が出現すれば文化はそれだけ少し進歩する。時代による意識の違い流行によって表現の仕方が変わるものの

全ては一代限りのものである。しかし時代が進むに連れ世の中が便利にはなって来た事だけは確かである。

個人の表現方法として作品は展覧するとか本とかの紙によるメディアしか此れまでは無かったが,

今は容易にインターネットというもので安易に発表ができる。調べるのもインターネツトで調べる事ができる。

インターネットは全世界に通じているが唯言葉の壁がそれを妨げている。さらに技術が進歩しインターネットの言葉の壁が

取り除かれるならばアッと言う間に同じ価値観を尊ぶ人達が増えて来て,戦争は馬鹿げていることに気ずき

戦争がこの世からなくなる時代が来るかどうか。


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