ホーム 医療 高齢者福祉 芸術,哲学 京都伏見・宇治
随想 シュワィツァ−・緒方洪庵 ギャラリ 検索リンク集


随想  平成10年9月 10月 11月 12月 平成11年1月 2月 3月  4月 5月 6月  7月 8月 9月 10月

 
11月 12月  平成12年1月   2月  3月分  4月分  5月分  6月分   7月分  8月分   9月分  10月分 11月分 12月分 

平成13年1月   2月分   3月分 4月分 5月分 6月分 7月分  8月分 9月分 10月分 11月分  12月分 

平成14年1月分 2月分



 


一月という月


今年の冬は4月頃の陽気を思わせる暖かい日があるかと思うと,めつきり寒い日が続く。

今年は幸いに昨年 一昨年のようなインフルエンザの流行の兆しはない。感染性胃腸症の患者さんの数の方が

目立つて来院される。新しく開発されたインフルエンザの薬を準備したが使うことなくまだそのままです。

特に目立ったのは市町村における老人に対するインフルエンザワクチン予防接種の負担で安価にワクチンが打てるようになり

例年に比べて希望者が多かった。

それが功を奏したとは思はないが,インフルエンザの流行が少ない事は大変有り難いことである。

老人にとつてはインフルエンザ感染は死につながることも多い。

新しい年になっても一向に景気の回復の兆しは見えてこない。小泉内閣の構造改革の成果が具体的に見えてきていない。

1月末になってから,突然,,田中外務大臣の交代劇が突発した。

誰が見てもNGOに対するアフガン復興会議への参加阻止は国会並びにマスコミを賑わしたが,鈴木宗男氏並びにそれに従った

外務省の誤った判断であることは明白のように思える。

だが小泉首相は喧嘩両成敗の論理で外相を更迭した。それで良かったのかどうか。?

非常に疑問に思う。先ずカネに関係する官僚並びに代議士に対する政治改革なくして構造改革は考えられない。

外務省だけでなく,他の省においても同じような似たようなことが有るのではないかと想像する。地方政治においても然り。

外務省の改革をラジカルに対処しようとした外務大臣が外された。以前田中前外務大臣は外務省を指し伏魔殿とも話している。

臭いものには早く蓋をしたい気持が議員連中並びに官僚達がそのようにさせたものなのかどうなのか。

構造改革だけをすすめて行くならば失業者はドンドン増え続け弱者だけが犠牲に強いられる構図になる。

それが構造改革と称するものなのだろうか,本当に構造改革が景気回復にむすびつくかどうか疑問を持つようになってきた。

構造改革なくして景気回復は無いというが,それは本当なのだろうかどうか。,なんとなく疑わしく感ずるようになって来ている。

なんといっても是非とも代議士と官僚との腐った関係は全て断ち切って欲しい物である。三権分立は学校だけで習うものであって,

それでない世界があることを理解できない者は大人の世界が判らず,小児じみた考えの持ち主ということに

なるのだろうか。判らない。日本の前途は不透明のままである。






世界がもし100人のむらだったら



上記題名の本が小冊子の本になって発売されています。

マガジンハウス発行
定価838円(税別)


「もしもたくさんのわたし・たちがこの村を愛することをしったならまだ間にあいます。

世界中をかんどうでつつんだインターネットの民話」 

以上のような文章が表紙に書かれていました。そのなかでも特に気になった個所を引用してみました。



「........いろいろの人がいるこの村では あなたとは違う人を理解すること 相手をあるがままに

受け入れること そしてなにより そういうことを知ることが大切です。

またこんなふうにも考えてください 村に住む人びとの100人のうち

20人は栄養がじゅうぶんでなく 1人は死にそうなほどです

でも15人は太り過ぎです

すべての富のうち 6人が59%をもっていて みんなアメリカ合衆国の人です

74人が39%を 20人がたったの2%を分けあっています


すべてのエネルギーのうち20人が80%を使い 80人が20%をわけあっています

75人は食べ物の蓄えがあり 雨露をしのぐところがあります

でもあとの25人はそうではありません

17人はきれいで安全な水を飲めません

銀行に預金があり 財布におかねがあり 家のどこかに小銭が転がっている人は

いちばん豊かな8人のうちの1人です

自分の車をもっている人はめぐまれた7人のうちの1人です

村人のうち1人が大学教育を受け2人がコンピュタ−をもっています

けれども14人は文字が読めません

もしもあなたがいやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに侵攻や信条,良心に従って

なにかをし ものがいえるならそうではない48人より恵まれています

..............もしもこのメールが読めたなら,この瞬間,あなたの幸せは2倍にも3倍にもなります

あなたのことを思ってこれを送った誰かがいるだけでなく 文字が読めるからです。

けれどなによりもあなたは生きているからです

..............まずあなたが愛してください あなた自身と,人がこの村に生きてあるということ

もしもたくさんなわたし・たちがこの村を愛することを知ったならまだ間にあいます

人びとを引き裂いている非道な力からこの村を救えます  きっと



後の解説の方には 「もし世界が人口1000人の村だとしたら,そこには5人の兵士 7人の教師 1人の医者がいます

村の年間支出が300万ドルのうち,181,000ドルが武器や戦争に,159,000ドルが教育に,132,000ドルが医療に

当てられます


この村は,自分自身を何回も粉みじんにできるだけの核兵器をもつています。これをたった100人で管理しています。

残りの900人の村人は,彼らとうまくやっていけるんだろうかと首をかしげ,もし仮になんらかの不注意や技術のミスで

核兵器をはっしゃしたらどうするのか,たとえ彼等が核兵器を取り壊そうと決めたとしても,この村のどこに危険な放射能を

帯びた廃棄物を処分するのか,とても心配しながら見守っています」


読んでみるとなかなかに示唆に富んだことが書かれており,読んでみると如何に自分達が幸せな境涯にいるかが

判ってきて勇気の湧いてくる本です。  是非手元に一冊を。

「村の年間支出が300万ドルのうち,181,000ドルが武器や戦争に,159,000ドルが教育に,132,000ドルが医療に

当てられます」武器や戦争のため費用が教育や医療に対する費用より沢山使われている。

武器や戦争は世界に破壊をもたらすだけである。その為に莫大な費用が使われている。

アメリカ大統領ブッシュ氏は新年一般教書で  ならずもの国家 テロ国家として イラク イラン 北朝鮮人民共和国を名指しして,

それらに対してのアメリカの軍事費予算の増額を叫んでいる。

親の代の前ブッシュ大統領に学んだのかどうか,ニュヨークでの多発テロ事件で自分に味方しないものは

敵とみなすとの論理でアフガン戦争に多くの友好国を道連れにし,世論支持率を一挙に上昇するのに成功している。

戦争がてっとり早く世論の支持率を上昇させる為の 一番手軽な方法と考えているのではないかと思うぐらいに戦争好きである

アメリカ国民はそれを見抜くことが出来ない程に馬鹿は゛かりの国民のあつまりなのだろうか。






侮れない病、風邪



1月6日の天声人語より 


 年末から年始にかけて、風邪をひいてしまった。年賀状にも手がつけられない、さえない毎日である。

いや風邪と断定していいかどうか。これには「不審船と断定」と同じような問題がある。

 そもそもが風邪のようなものの集まりでしかない。鼻水が出たりくしゃみが出たり、寒気がしたり熱が出たりいろいろで、

しかし、ほかの病気でないとされると風邪だろう、となる。

「某国船と断定」ならわかるが「不審船と断定」がちょっと変なように、風邪も断定は難しい。

 とはいえ、風邪(のようなもの)については経験豊富だから、つきあい方は知っているつもりだ。

たいていは次の三つのうちのどれかで早めにお引き取りを願ってきた。

(1)丁重にお迎えする。できるだけ相手(風邪)を刺激しないように、静かに横になって退去を待つ。

(2)闘う。医者か薬局で薬を手に入れ、症状を抑え込む。

(3)気がつかないふりをする。「例によって一杯いきますか」などと独りごちながら、酒場に駆け込む。

杯を重ねるうちに病気だか何だかわからなくなる。

 症状と都合で使い分けるが、今回は、まず悪寒に襲われたから(1)にしてみた。ただし一晩だけ。

それがだめで(2)に移行した。(3)は、時機を失した。いまさら風邪を無視するのも白々しいし、たぶん、体力も許さない。

 この病名は「竹取物語」や「源氏物語」にも出てくる。

昔から「風邪は百病の長」「風邪は万病の元」との言い伝えもある。長いつきあいで、いまでも最も身近な病気だろう。

しかし、いまもってなぞが多い。侮れない病である。



開業医が診療している中で一番多いのは風邪である。風邪は昔から誰でも知っているあの風邪であるが,レセプトで基金へ感冒の病名で

請求すると,抗生物質を使用すると,いくら抗生物質を使用しようともお金を支払ってくれない事が最近有った。

確かに適応症を見てみると感冒は病名として記載されていないのである。咽頭炎 喉頭炎 気管支炎の病名をつけねばならないのである。

適応症として記載されていないものに対し適応のない薬を使うと容赦なく保険者からは支払い請求の金額を削除されてしまう。

使った薬代は医者が全部自腹を切る形になり損失することになる。この人のこの症状.病気にはこの薬が効くからと確信をもつて使ったとしても

その薬が適応病名として入っていないなら基金からお金を支払ってもらえない場合が往々にして起きる。

それ故に保険病名という病名と,本当の病名とがまかり通るようになって来た。

医療の現場をややこしくし混乱を引き起こしている一つの大きな要因になっている。

だがそれがどの病院 診療所は勿論のこと,診察・治療の方法を教えている大学病院でさえも日常普通に行われている。

例え,いくらこんな事でよいのだろうかと思っていても,保険診療という制約の中で診療する場合は

それに従う以外仕方ないことなのである。それも細かい所になるとルールーが有ってないような場合もある。

はっきりとした統一した見解がないようだ。このまま続けていてよいものだろうか。? 疑問に思う。

感冒は保険病名にはなくて感冒を治療するには今の医療現場では抗生物質の薬を使用することができないのが現状です。

以前はそのようなことはなく,感冒という病名を使用していてもなんの障害もなかったのが,最近は次第に変って来た。

それが段々と変な方向に変わってきているように思える。

炭疸菌騒動の時 いくら炭疸菌によく効く薬だとわかっていても保険診療では使えなく,あわてて適応症をとった薬品メーカーの

話をば聞いている。おかしな馬鹿げた話である。





人生を設計する

松下幸之助のことばより
--------------------------------------------------------------------------------
 毎日、なにがなしに仕事をしている、ということでは困ると思います。

何でもいい、何か1つの目的を持つ。

そういうものを日々持ってそして同時に、1カ月先、あるいは1年なら1年の間には、こういうことをやってみるのだ、

という1つの自己設計とでもいうものを持つことが大切だと思います。

 そして、それはうまくいく場合もありますし、うまくいかない場合もあります。

しかし、これはもう仕方がありません。仕方がないけれども、そういうものを持っているということ、次つぎに生んでいくということ、

それが、私は生きがいというものにつながっていくと言ってもいいと思うのです。



人生設計をして,それに対していくら努力していても出来ない事のほうが多いように思われる。

根気よく目的に向かって突き進んで行く事に努力する事それ自身が人生そのものなのかもしれない。






「日本が見えない」



1月11日の天声人語より 


 こんな詩がひょっくり出てきたとして、いったいいつの時代のことをうたったのだろう、と思われることか。

その詩はこう始まる。〈この空気/この音/オレは日本に帰ってきた/帰ってきた/オレの日本に帰ってきた/でも/オレには日本が見えない〉。

題して「日本が見えない」。

 昨年、ニューヨークであの事件を経験して帰国したKさんが同じような感想をもらしていた。

アフガニスタンで難民救援をし、一時帰国したIさんの実感かもしれない。そう考えても不思議ではないのだが、実は、ずっとずっと前の詩だ。

 書いたのは竹内浩三といい、1945年、フィリピンのルソン島で23歳で戦死した男だ。

詩人、漫画家、映画監督、批評家、何にでもなりえた男だったが、職業としては結局何にもなりえなかった。その前に骨になった。

 〈戦死やあわれ/兵隊の死ぬるや あわれ〉の「骨のうたう」の詩が早くに紹介され、知る人ぞ知る存在になった。

その彼の未発表作品が昨夏、故郷の三重県で見つかり、このほど竹内浩三全作品集『日本が見えない』(藤原書店)に収められた。


先に紹介した詩で、戦死の3年ほど前の作品らしい。

 こう続く。〈(中略)日本よ/オレの国よ/オレにはお前が見えない/一体オレは本当に日本に帰ってきているのか/なんにもみえない/

オレの日本はなくなった/オレの日本がみえない〉。

 戦争に邁進(まいしん)していた日本、日の丸があふれていたであろう日本、しかし竹内の目には「日本はなくなっていた」。

彼のまなざしは、はるかいまにも届く。



良き船頭を得たかと思った日本の国が,小泉首相は構造改革を唱える一方で誰もが納得の行かない理由で

国民の間で人気の高い前外務大臣田中真紀子氏を罷免し,どのように日本の国の舵取りをするのか益々判らなくなってきた。

政治改革なくしては構造改革はあり得ない。

長年に政権党に有った自民党にそれを望む事自体が無理な話なのではないかと思われてきた。

だからと言っても野党も頼りになるに足るのかどうか。

又戦争好きで それによってのみ国民の支持をつなぎとめようとしているアメリカの大統領ブッシュ氏と

どのように日本が拘わっていくのか,日本の外交は難問が山積し居る。日本の将来は見えてこない。

振り返るだけでなく新しい外務大臣に期待したいものです。是非伏魔殿とも言われる外務省を改革して欲しいものです。





枠にとらわれず


松下幸之助の言葉より
-------------------------------------------------------------------------------
 私たちは仕事を進めていく際に、ともすれば自分で自分の枠を決めてしまってはいないか。

 たとえば、ラジオのデザインにしても、元来、デザインは固定したものでないのだから、三角でも円でもよいはずなのに、ほとんど箱型である。

このことに限らず、不思議なことに人間は自ら枠をつくり、その中に入ってしまうという悪い傾向がある。

これも自己を保有する一つの行き方かもしれないが、窮屈な枠の中で窮屈なものの考え方をしていては、

心の働きも鈍くなり、自由自在なよい智恵が出てくるものではない。ものにはいろいろな見方がある。

時と場合に応じて自在に変えねばならない。そこにこそ発展が生まれるのである


人間には自由な発想が求められる。一つの枠に捕らわれると中々に其処から脱出するに困難である。

奔放で気侭な自由自在な考え方がいつも求められる。




人は、結局は自分の愚かさを、人間の愚かさを知れ



1月15日の天声人語より  

最近の出来事でよく理解できないのは「荒れる成人式」だ。あちこちで騒ぎが起き、その対策をいろいろ講じているらしい。

ここは、偉大なる警句家ラ・ロシュフコーの言葉を手がかりに、事態を考察した。引用は彼の『箴言集』(岩波文庫)から。

 「大多数の若者は、単にぶしつけで粗野であるに過ぎないのに、自分を自然だと思いこんでいる」。若者とはそもそもそんなものだ、という。

ただ、当の若者がそれを当然として開き直っているとするとしゃくにさわる。

 酒が騒ぎを引き起こすという見方もある。若者はまだ酒の魔力をよく知らない。酒に溺(おぼ)れやすい。

「われわれが一つの悪徳に溺れずにすむのは、悪徳を幾つも持っているおかげであることが多い」。ちょっとあぶない悪徳の勧めだ。

 「自分は人に好感を与える、という自信は、えてして人を不愉快にする決め手になる」。

確かに自分だけ舞い上がって、他人の心中を想像できない輩(やから)にかき回されることがある。

警句家に言わせると「ひとしきりしか歌われないはやり唄(うた)にそっくりの輩がいる」、そんな輩だろう。

 式を仕切る大人の側に問題はないか。

「年寄りは、悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる」。そういう人もいる。

「うんざりすることが許されない人を相手にしていると、ほとんどきまってうんざりする」。そういうこともある。

 17世紀に生きた「箴言(しんげん)」の人は、結局は自分の愚かさを、人間の愚かさを知れ、と言っているのだろう。

簡単なようで一番難しいことかもしれない。



17世紀に生きた人の言葉が21世紀になった今の時代て゛も通ずることは,

人間は一生、一代限りでは人間そのものの進歩が少ないということである。

知識は時代とともに増大し科学は進歩するが,智慧はその人一代限りで終わってしまう。

昔の偉大な人たちの足元にも及ばず死んで行くのが人間の一生である。後代の人には受け渡す事は出来ない。

アメリカ大統領のブッシュ家のように戦争すれば国民の支持率は上昇するといった知識は

親子そして何時までも,何代に渡っても知識として受け伝えすることはできる。





笑い事ではすませられないブッシュ米大統領の失神事件



1月16日天声人語より 


 笑い事といっていいのかどうか。ブッシュ米大統領の失神事件である。

スナック菓子を食べて気を失った事件の翌日、大統領は4回も冗談を言わなければならなかった。

そうやってまわりを笑わせる必要があったと聞くと、重大事であったと思えてくる。

 日曜の夕、カウチに寝そべり、お菓子をボリボリやりながらアメリカンフットボールを観戦する。多くの米国男性にとっては至福の時間だろう。

しかし、気がついたら床に倒れていた。

 大統領であるがゆえに問われることがある。短時間にせよ執務不能な状態に陥った。屈強なボディーガードも防ぎえなかった。

危機管理の死角である。原因はプレッツェルという菓子で、のどにつまらせたらしい。

しかし、健康上の問題がかかわっているのではないかとの疑いも生じる。

 そのプレッツェルである。軟らかいタイプと硬いタイプがある。軟らかいのはよく屋台などで売っている。硬い方は普通袋詰めで売られている。

ホワイトハウスはその種類については口を閉ざしている。「よくかんで食べるようにとの母のいいつけを守ればよかった」。

大統領はこの冗談を繰り返す。

 「米国の中枢を直撃した」プレッツェルについて、英紙記者は皮肉たっぷりのルポをした。

売店などを取材して歩いた結論は、致命的な危険はなく「よくかんで食べれば大丈夫」だった、と。

 事件の翌日、専用機に同乗した記者団に大統領は特大のプレッツェル袋を差し入れた。「よくかむこと」と大書されていた。

「笑い事ですませたい」。その思いが伝わってくる。


この新聞記事を読んで直ぐに思い出したのは,父親の前ブッシュ大統領が来日して,晩餐会のテレビ中継で見た,

あの宴たけなわの時に突如椅子から転げ落ち倒れた光景である。見ていて一瞬癲癇発作のように思えた。

でもその後の新聞記事報道では旅の疲れで倒れたような事が書かれていた。

今回のテレビを見ていての失神事件もそのようなことでないかと憶測する。

プレッツェルという菓子で詰まらせ失神したと考えるに医師としての自分には考えがたい。

健康上の問題がかかわっているのであれば,笑い事では済まされない。

今のアメリカ大統領の世界への影響は非常に大きいからである。






決意を持ち続け




松下幸之助の言葉より
-------------------------------------------------------------------------------
 指導者にとって大事なことの一つは、志を持つということである。

何らかの志、決意というものがあってはじめて、事は成るのである。

だから志を立て決意をするということが必要なわけだが、それは一度志を立て、決心すればそれでいいというものではない。

むしろ大事なのは、そうした志なり決意を持ち続けることであろう。

そのためには、やはり、たえずみずからを刺激し、思いを新たにするようにしなくてはならない。

 一度志を立て、決意することによって、非常に偉大なことを成し遂げられるのも人間であるが、

その志、決心をなかなか貫き通せない弱さをあわせて持つのも、これまた人間である



人間は強さと弱さの両面を持っている。決意を持ちつづける事は大変な事である。

日々新たに決意を思い出し持ちつづける事である。一般にいわれている「継続は力なり」は言

葉として簡単だがなかなか実行は大変なことである。






担保を出し連帯保証人を立てなければ、相手にもされない。




1月20日の天声人語より



 担保を出し連帯保証人を立てなければ、相手にもされない。

そんな金融界の「常識」を壊そうと、中小企業の社長さんたちが法律の制定を求めて署名運動を進めている。

 音頭をとるのは、全国で4万社が加わる「中小企業家同友会全国協議会」。

不満は、担保や保証人にとどまらない。返済を滞らせたこともないのに「本部の方針」と融資を打ち切られる。

必要な書類を要求するばかりで、契約書は渡さない。

 それでなくても銀行は生き残りに懸命だ。

借り手の将来性を見極めて金を貸すという基本がないがしろにされ、そのつけが弱い立場にある中小企業に回っていると協議会は見る。

 超党派での制定を求める「金融アセスメント法案」の柱は次のようなものだ。

融資を通じての地元への還元ぶり、担保や保証人を求める度合い、貸し付けを断る際の説明の有無などを

、都道府県に置かれた評価委員会が格付けし、公表する。

それ以上の強制力は考えていないが、各行の振る舞いを明らかにすれば、不当な慣行はなくなるとの読みだ。

 心強いのは、米国に25年前から金融取引での差別扱いを禁ずる法律があることだ。

最近では、地元の中小企業などへの貢献を当局が厳しくチェックし、許認可にも影響するほどの力を持っている。

 北海道では、道議会をはじめ自治体のほとんどが法制定を求める意見書を採択したという。

署名も50万人に迫る。

社長さんたちは、当の金融機関も回っているが、「顧客本位でやっているから、法律まではいらない」という答えばかりが返ってくるそうだ。




今の世の中のお金を借りる時に一番困る事は担保を出せ 保証人を立てよといわれる事である。

担保は別にして保証人になってくれる人を探すのには大変苦労がいる。このような制度ができればと

考えるが,銀行側にとってはつらい決断である。






生きている間に自分の葬式の話を書いた人もいた




1月22日の天声人語より 



 死亡宣告をされてから生き返る。愛知県で今月7日にあった話だ。

おめでたい話だが、まわりはさぞ驚いたことだろう。まさに臨死体験をくぐったであろう本人はどうだったのか? さまざまなことを思う。

 そんな「奇跡の生還」をした人もいれば、生きている間に自分の葬式の話を書いた人もいた。

中国の詩人、陶淵明(365〜427)である。李白とともに、酒の詩人ともいわれた。

おめでたい生還の話を聞いて、急に彼のことが気になり出した。

 手元にある『陶淵明』(一海知義・岩波新書)などを頼りに、その詩を再読する。

いわゆる挽歌(ばんか)詩である。普通、他人の死を悼んで書くものだが、彼は自分の死を悼んで書いた。

 第一首は「納棺」の場面で、子どもや親友の嘆くさまを描写しつつ、こう締めくくる。

年万年タッタノチニハ/恥モ栄誉モ知ッタコトカ/心残リハ コノ世ニイタトキ/酒ガ存分飲メナカッタコト〉(一海氏の和訳。以下も)。

第二首の「葬送」も、自分の前には酒やごちそうが並んでいるのに手が出せない嘆きから始まる。

 第三首が「埋葬」で千年タッテモ朝ハ来ナイ/千年タッテモ朝ガ来ヌノハ/達人賢者モドウシヨウモナイ〉

親戚(しんせき)は悲しんでいるかもしれないが、もう鼻歌を歌う他人もいる。

〈死ンデシマエバ言ウコトハナイ/体ヲアズケテ山ノ土トナロウ〉。

 達観しつつも自分の酒や生への未練を詠み、それをまた自ら笑う。

死と生について考えさせられることが多いこのごろだが、そんなとき、この「超俗」の詩人と杯をかわしたくなる。





「死ンデシマエバ言ウコトハナイ/体ヲアズケテ山ノ土トナロウ」なんという達観した気持にはなれないものである。

自分だけ1人だけは生きている間は永遠に生き続ける人間としか考えられない。

達観することは達観した状態になつてから,初めて達観できるものかも知れない。

生きている間はずーと迷える凡夫である。それはそれとして良いのではないかと達観している。






復興をめざすアフガニスタンの現状



1月23日の天声人語より  


私たちにとっては、戦後すぐの状況を思い浮かべるのがわかりやすいかもしれない。復興をめざすアフガニスタンの現状である。

焦土と化した国土、そして多くの人が飢餓線上をさまよった時代を思い出してみる。

 復興会議後の記者会見で、暫定政権のカルザイ議長も「戦後日本」に言及した。

そのめざましい復興ぶりを見習いたいとも語った。

しかし、あの時代の日本に比べてもアフガンは、はるかに困難な問題をいくつか抱えている。

 まず、復興を担う人材が決定的に不足している。

これは共同議長の一人、緒方貞子氏の言葉だが、20歳代から40歳代にかけての世代が空白だ。

20年以上にわたって国土が戦場になった結果だが、その間は、教育の空白の時代でもあったから。

 また、その戦争が単なる外との戦争だけではなく、内戦でもあったから後遺症が大きい。

良くも悪くも「一億総ざんげ」的であった日本とは違って、まず国内の和解を図っていかなければならない。

 その他数え上げるといろいろあるが、カルザイ議長らの話を聞いていて頼もしく思ったこともある。

たとえば各国からの支援金について「特定の個人やグループに渡るということは絶対にありえない」と強調し

「これは約束です」と断言する口調に並々ならぬ決意を感じた。

 「自己決定」という言葉をたびたびつかっていた。

自分たちの国を自分たちでつくっていく、その覚悟である。「いずれ私たちも他国を支援するようになりたい」とも語る。

誇り高さがにじみ出る。それが良い方向に働くことを、と願った。




20年以上にわたって国土が戦場であったアフガニスタンと2,3年の空爆と原子爆弾投下の日本では比較にはならないが

第二次大戦時代 そして苦しい戦後の食料困難の時代を経験したものとして,復興は大変な難事業である。

戦争を知らない世代にとっては夢の話であろう。

二度と戦争は有ってはならないと言う気持は当時の戦争体験の日本人には染み付いているが,新しい世代はどうであろうか。

戦争は馬鹿げている。懲りていないアメリカの今の大統領は大変戦争好きのようである。

そのアメリカの影響が大きく世界の隅々まで行き渡るのが今の現代である。




ウイルスが原因の風邪に抗生物質は効かない




1月27日天声人語より  


大人たちの基礎的な科学知識を○×10問で調べたら、日本は14カ国中12位だったそうだ。

経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査で日本の高校生は世界トップ級だったのに、なぜ大人はふるわないのか。

 すぐ思いつくのは、大学教育がだめだからという理由だ。

だが、問題ごとの出来具合を見ると、別の要因が大きいのではないかと思えてくる。

 18歳から69歳までの約2千人に聞いた。

正答率が6割を超えたのは「大陸は何万年もかけて移動している」(答えは○、正答率83%)、

「人類は原始的な動物種から進化した」(○、78%)、「大気中の酸素は植物から作られた」(○、67%)などだ。

 地球表面はいくつかの岩板でおおわれ、それが少しずつ動いているというプレートテクトニクス理論を多くの人が聞き知っているのは、

地震国だからだろう。米国には、聖書の記述に反する進化論を学校で教えることに反対する人たちが今もいる。

日本社会では、進化論は抵抗感なしに受け入れられてきた。

 成績が悪かったのは「初期の人類は恐竜と同時代に生きていた」(×、40%)、

「男女を決めるのは父親側の遺伝子」(○、25%)、「抗生物質はバクテリア同様ウイルスも殺す」(×、23%)などだ。

 恐竜と原始人が一緒に出てくる漫画やお話は多い。それで誤解する人がいても不思議ではない。

ただ、最後の問題の出来の悪さは気になる。ウイルスが原因の風邪に抗生物質は効かない。

そういう基礎知識を医師が日常の診療で患者に伝えていれば、結果は違ったかもしれない。




抗生物質はウィルスには効かないが,昨年からは抗ウイルス剤が発売されるようになった。

風邪はウィルスによるだけによるものではない。例えそのような状態でも次第に細菌による混合感染へと移行が考えられる。

だから風邪には診療所に来院するような患者には抗生物質を投与する事が多い。抗生物質にも耐性菌が増えて来ているので

抗菌剤を投与する事がある。若くて元気な人は対症療法で治ってゆくが,高齢者の場合は死にいたる病でもある。

万病の元とも昔から言われている。感染が免疫系に働き色んな病気を引き起こす事が判ってきている。

単なる風邪から無理を重ね肺炎を引き起こし入院を余儀なくしなければならない場合も起きる。

麻疹 耳下腺炎 などもウィルスによる病気だが細菌による二次感染が怖い。だから抗生物質を投与する場合が多い。

医師が日常の診療で患者に伝えていれば、結果は違ったかもしれないとの事だが,バクテリアという言葉は紛らわしい。

抗生物質は細菌同様ウイルスも殺すとの質問ではもっと正解率が高かったとと思う。

バクテリアという言葉は現在あまり使わていない。

昭和の始め頃に使われていたかもしれない。現在では一般には使わない。患者は此れくらいの事は教えなくとも良く知っている人が

多いように思う。問題の出し方が悪いからであって,医師の患者に対しての説明,教え方が悪いだけとは思わない。

感冒k薬は薬局に行けば買える。それでも治らない人が診療所を訪れる場合が多い。

早く直したいから注射を打ってくれという人もいる。でも今の保険制度では抗生物質の投薬と注射との併用は一般には認めてくれない。

早く治るには若い人達だったら安静にして休むと早く治ると教えても,

会社が忙しくて休む事が出来ないとの答えが帰ってくる。

せめて会社は病気の時位はゆっくり休めるような配領して欲しいものだが,

会社自体がギリギリの人数で仕事をしているからそういうわけにもゆかないようだ。

現在の社会の歪の一面を見るようだ。





圧力はかけていないが一般論は語った、とは政治家S氏である





1月28日の天声人語より


  さすが外務省というべきか、「これはもうカミュの世界」という言まで飛び出したそうだ。

カミュといえば『異邦人』などで知られるフランスの作家で、戦後大流行した不条理の哲学の旗手だった。

口走った事務次官は、そういえばその世代か。

 カミュの『シジフォスの神話』を思い浮かべる。ギリシャ神話を題材にした随筆だ。

最も狡猾(こうかつ)な知恵者といわれたシジフォスが地獄に落とされ、刑罰を受ける。

大石を山頂まで押し上げる刑である。その大石はもう一歩のところで必ず転げ落ちる。

最初からやり直しだ。これを永遠に続けなければならない。

 たとえばカミュは不条理をそのように描いた。

アフガン復興会議での非政府組織(NGO)参加拒否問題をめぐるごたごたでは、確かにシジフォスのような「徒労感」に襲われる。

 次官は「政治家の圧力はなかった」と言うのだから「参加拒否」は外務省独自の判断だったのだろう。

その対応のまずさには自ら恥じ入ったことだろう。

いろいろな事件があって、外務省も少しは考えているかと思ったらこれである。「徒労感」は深い。

 圧力はかけていないが一般論は語った、とは政治家S氏である。

その一般論「政府に批判的な組織が、なぜ政府主催の会議に出たいのか」などを聞かされると、反論する気力も失う。

そもそもNGOとは、と最初から説明をしなければならない「徒労感」である。

 外務省を指揮する立場の外相も、涙ではなくユーモアで切り返すくらいの余裕がほしい。

不条理劇というよりは、笑劇だが、どうにも笑えない。


外務省の官僚が外務省の圧力議員の話を聞き入れて,外務大臣のいう事を聞かずにほしいままにするとなると

穏やかではない.事務方はずーと同じ仕事についているから仕事の内容も良く判っている。

医師会の例をとつてしても,医師会長並びに理事は時代とともに再々代わるが事務方はず-と同じ人物が携わっている。

そうなると事務の方が毎年の行事の要領とか会務の運営の仕方をよく知るようになる。

事務方の協力がなければ毎日そして毎年の仕事ははかどらない。

会長は事務の事務長の機嫌をとり,会員も又機嫌をとるようになるつて事務方は威張ってくる。

会自体は事務の人々の協力無くしては進まない。そこに権力みたいなものが生じてくる。

悪い習慣が常態化してくる。さらには大きな組織になると政治とカネにまつわる事件が生じてくる。

田中外務大臣にそのような外務省における姿の政治の改革をしようとしているのを国民が認めていたから

期待をもち支持していたのである。それを小泉首相が喧嘩両成敗として政治改革の目を摘み取ろうとした

と感じたから国民が怒ったのである。支持率は急減している。

痛みの伴う構造改革だけを叫んで何故に政治改革はしないのかと。

国民は政治はカネに泥まみれになっていると感じており,続々とでてくる不肖事件報道に呆れかえってているのである。

そのことを小泉首相は良く知って欲しいものである。



自分を飾らず



松下幸之助の言葉より
--------------------------------------------------------------------------------
 私は、毎日の生活を営んでゆく上において、自分をよく見せようとお上手を言ってみたり、

言動にいろいろと粉飾することは大いに慎みたいと思います。

これは一見、簡単なことのようですが、口で言うほどたやすいことではありません。

ことに出世欲にかられる人は、自分を他人以上に見せようとする傾向が強いようです。

 しかし、人はおのおのその素質が違うのですから、

いくら智恵をしぼって自分を粉飾してみたところで、自分の生地はごまかすことはできず、必ずはげてきます。

そして、そうすれば、そのときには一ぺんに信用を落とすことになってしまうのです。

私は、正直にすることが処世の一番安全な道だと思います



自分を飾らずに正直に生きることが処世の一番の秘訣である。





昔前の政治に逆戻りしたような気がする。



1月31日の天声人語より 


 いわゆる常套句(じょうとうく)の連発だった。

深夜の小泉首相の記者会見で耳に残ったのは、いつか聞いたような「事態の打開」「正常化」「混乱を招いた責任」などの言葉だった。

永田町用語というのだろうか、こうした言葉がつかわれるときには用心した方がいい。

これまでの経験では、たいてい「事態」や「責任」をあいまいにするときにつかわれた.

 こんどの外相・事務次官更迭では、混乱の原因がどこにあるのか。異常な事態をだれが招いたのか。

それらが明確にされないまま「けんか両成敗」のかたちをとった。釈然としない.

 子どものころの記憶がある。友だちと言い争いをしていると先生がやってきた。

事情を聴きもしないで「けんか両成敗」と宣言した。2人とも罰を受けた。

何と理不尽な、と憤慨した記憶である.

 この「両成敗」は、ちゃんと記録に残る伝統的裁き方らしい。

15世紀のお触れ書きにあって、けんかをした者は「理非」に関係なく「斬罪(ざんざい)」だというから厳しい。

たぶん、威嚇効果をねらったのだろう。予防には効果があるとしても、裁きとして「理非」を問わないのは困った伝統だ.

 こんどの更迭劇では「刺し違え」という古めかしい言葉もささやかれている。

そうした言葉を聞かされると、一昔前の政治に逆戻りしたような気がする。

民へのわかりやすさを売り物にしてきた小泉政治が、いっぺんに旧来型の政治に戻ったような気分だ.

 「理非」を問わない「両成敗」のつけは、いずれ小泉政権が払わされるのではないか。後味の悪い更迭劇だった。




今回の外務省の騒動の原因は族議員であるところの鈴木宗男氏にある。国会での話している様子を聞いていると

やんちゃな男の子がやたらしゃべりまくるの形相に見えて好きになれない。

あのような人とは話したくないと誰もは感ずる。議員として選出されているのだから不思議である。

選出した地区の人たちにとって便利な人なのかもしれない。

今の選挙制度は選挙地区の人たちに利益をもたらすような事さえしていれば議員になれるのである。

だから議員になりたい人たちは後援会を作りその人たちの便宜さえあたえておれば何時までも

議員になれるのである。天下国家のことは何も考えなくとも,身近な人たちの世話さえこまめにしていれば

いつまでも議員になれるといつた制度である。

憲政史上初めてつくられた後援会とはかなり様相が異なってきている。堕落している。腐敗している。

それを良いことにしている人たちが大勢いる。だから政治腐敗 堕落の事件がが新聞紙面をにぎわしている。

これらは氷山の一角で水面下では法律にふれないような悪事が沢山行われていると考える。

まずそれに対する政治改革をば小泉首相に望んでいたのである。




外相更迭――けんか両成敗は通らぬ




31日の朝日新聞社説より



 田中真紀子外相が更迭された。

 アフガニスタン復興支援国際会議への非政府組織(NGO)の参加拒否問題で、野上義二事務次官と対立した揚げ句、けんか両成敗となった。

外務省への圧力を指摘された鈴木宗男衆院議院運営委員長の辞任も決まった。

 一連の人事の理由を、小泉純一郎首相は「国会審議の紛糾に対する責任」と語っている。おかしな話だ。

 この問題は、参加を拒否した外務省事務当局の判断の是非と、鈴木氏がどこまで関与したかが肝心な点である。

 それについて首相が何ら判断を示さず、事実関係の究明をあいまいにしたまま、当事者3人のクビを切って事足れりとするのでは、

事の本質を隠したまま幕引きを急いだと言わないわけにはいかない。

 参加拒否は外務省の判断の誤りである。

外相に何も説明せずに拒否した事務当局のトップと、参加拒否を撤回させた田中前外相を同列に扱うのは納得できない。

 前外相が外交知識に欠け、外務官僚との摩擦から外交機能そのものが停滞していたのは紛れもない事実だ。

田中氏もその責めは負うべきだろう。

しかし、だからといって、首相が今回の問題で前外相に詰め腹を切らせたのは筋違いというものだ。

 多くの人々の関心を引きつけた田中氏が去り、機密費をはじめとする外務省の改革がなおざりにされるとすれば、

元の木阿弥(もくあみ)になってしまう。


 考えるべき第一は、外交と国民の関係である。

アフガン復興に限らず、草の根レベルで活躍できる市民主体のNGOは、これからの時代、外務省が協働すべきパートナーである。

その活動を、上から統制しようとする感覚自体が、時代遅れだ。

 第二は、政治家と行政の関係である。

 族議員と官僚が一体になって政治を牛耳る手法は自民党の積年の弊害だが、外務省と鈴木氏はそれに似た関係にあった。

 政府の公的な立場にいるわけでもない与党議員が、非公式に政策決定に介入する政治の構造そのものが、見直しを迫られている。

外務官僚はそれがわかっていない。

 首相の政権基盤にとっては、田中前外相の更迭は、もろ刃のやいばである。

田中氏の自民党橋本派への対抗心や官僚主導への反発は、脱派閥・脱官僚政治をめざす首相にとって援軍でもあった。

 目の前の国会審議の混乱を乗り切っても、この人事が反発を買って内閣支持率が落ち込むなら、

与党の抵抗を抑えて改革を進める力はたちまち弱くなる。首相は、重大な試練の場に立っているのだ。

 後任の外相人事は重要である。

外務省に時代の風を吹き込んで省内改革を進めるだけでなく、小泉改革が与党の圧力に屈しないことを象徴するような人を選ぶべきだ。

そうでなければ、外交の立て直しもおぼつかないだろう。



新しく外務大臣になった川口氏の動向に注目しよう。政治改革の無い構造改革は弱者に鞭打つが如きものに終わる。

首相は辞任すればそれで責任はすむが,倒産とかリストラで死に追いやられた人たちの立場はどのようになるのであろうか。?




趣味としてのゴルフと囲碁



ゴルフは健康の為に続けている。学べば学ぶほどに奥深いものである。

エンドレスの修練である。年齢とともに身体が理論のようにはついてはこない。無理をすれば

身体に悪い。最初の健康の為の運動の趣旨から外れる事になる。

簡単なゲームのように見えるが奥深いものである。なんとかもう少しスコアを上げたいものである。

寒 暑のある夏冬は休むから一向に上達しない。

囲碁は最近パソコンで囲碁の相手を見つけ出す事が容易になった。考えるケ゛―ムで一応の定石を

勉強したいと考えているが時間が無い。二兎追うものは一兎を得ずかも知れない。

趣味はあくまでも趣味である。パソコンも趣味のうちに入るか。

全てが中途半端に思える。趣味だからそれでも良いとするか。





全ては古くなるが


自分自身を含めて全てが古くなる事がわかる。世の中はドンドン変わっている。変わらない方が不思議である。

常態のものは何一つない。医学もそうである。日進月歩で新しいことが常に開発されてきている。

一つとして変わらないものはない。但し人間の智慧は変わらない。これは時代とともに表現方法が異なっても常に変わらない。

時代を超えて真理とか哲学とかは究極の所では変わっていない。

あらゆる分野の人たちを貫いている1本の柱である。

異なる分野で活躍ひている人たちを理解し合える琴線でもある。

全てのことは古くなるが根の部分に当たる所は常に変わることはない。

その時代にあつた花がいつも咲き乱れている。





Homeへ

                                     12月分   平成14年1   2月分