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随想 シュワィツァ−・緒方洪庵 ギャラリ 検索リンク集


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例年に比べ暖かい3月



地球温暖化の所為だろうか,今年は例年に比べ暖かい3月だった。

彼岸過ぎ頃より桜が咲き始め,四月に入るや否や満開になりそうな気配である。

今年の冬は雪らしい雪も降らなく過ぎ去ってしまったようだった。確かに子供の頃に比べると

雪の降る確率が少なくなって来ている。大気汚染による温暖化だとすれば由々しき問題だ。

平安神宮辺りに行くと全く春の気配で、桜が5分-7分咲きである。

一方小泉内閣の構造改革とやらが功?を奏してきたのか,

じわじわと底冷えのする世の中になってきた。相変わらずの「政冶とカネ」の報道が後を絶たない。

議員の身の処し方は本人がすべき事であると,一見綺麗な話に聞こえるが,首相・党総裁としての責任逃れをしている。

首相の景気回復に対する見通しについて何の見解も話していない。

どこまで首相の言う構造改革とやらにお付き合いすれば,景気が良くなるのか皆目判らない。

一寸先は闇の政治が続いている。

「勝つまでは欲しがりません」の第二次大戦時の為政者と全く同じである。

着々と時代遅れともとれる有事法制が整備され,多分そちらの方に財源を廻す比重が増えきているのでは

なかろうか。アメリカのように戦争を続けていないと景気がドンドン悪くなる国のようになるのではかいかと危惧する。

歴史は繰り返されるであるが,繰り返してもらいたくない歴史は繰り返さないで欲しいものだ。

一見民主主義がすすんだようだが,政党によるアメとムチは巧妙になり,それに加え

義理と人情を絡ませての政治手法が日本の政治の中央政府並びに地方政治にも大手を振ってまかり通っている。

党議党則のうるさい現在の政党では色んな意見を持った人たちがいるのを一つに縛ってしまう事は民主主義に対し反する事である。

もっと議員が自由になって,一人一党でも良いから,自由な行動ができるようになれば,世の中がもう少し良くなるのでは

ないかと考えるる。

冷たいとも思われる構造改革とやらをする前に, 政 官 民の癒着をその首相の冷徹な手腕で徹底してもらいたいものだ。





もそうか、健康体なんてありえないか



3月1日の天声人語より


 いささか体力の衰えを感じる。いつもどこか調子が悪くて、それが良くなると別のところが悪くなる。

そんな繰り返しだが、最近はあきらめ始めた。この体力に見合った生活をするしかない。

そもそも完全な健康体なんてないだろう、と開き直りもしている。

 一国の経済となるとそうもいかないのだろう。高熱で空騒ぎをしたバブル期に体力を消耗し、ぐったりした体をどう回復させるか。

食欲がないから体力が衰え、衰えるから活動しない。そのため食欲不振もひどくなり、体力はいっそう衰える。

そんな悪循環に陥りつつあるようだ。

 昔は、たいていどんどん熱が出る病気、インフレだったから解熱剤などいろいろ治療法が開発された。

いまのデフレについては、治療法の開発が思わしくないらしい。政府がまとめたデフレ対策も、好評とはとてもいえない。

 そもそも経済は、あちら立てればこちら立たず式が多いから、意見が分かれる。

ただ血液の循環を妨げている不良債権の処理と、食欲の回復つまり需要喚起が必要だという点では、そう異論はないようだ。

 日銀はお札をどんどん刷ればいいというわかりやすい議論もある。

素人ではなく、影響力のある米経済学者P・クルーグマン氏の説だ。

日本はいろいろ問題をかかえているが、どこの国だってそうだ、と彼は言い切る。

経済もそうか、健康体なんてありえないか、と門外漢はそこには単純にうなずく。

 3月、自然界は徐々に活動を活発にしていく。つられて乏しい体力にも多少の活力がよみがえる。

経済もそうはいかないか



多分日本で衆知を結集して経済の回復に精力がそそがれていると思うが,素人の考えからすると全ての

世界の国々の経済がよくなったことが今までに無い。現在はアメリカの経済が良くて日本の経済が悪い。

今までだと景気が悪くなると,暫くして時と共に自然に回復していったものだが,今回の不景気は余りにも長い。

何故か。? スーパーコンピュターによる人間の知恵をはるかに超える機械が発明されてきて

そのコンピュターの指示どおり政治を動かせば景気が良くなるといった、新しい政治手法が使われるようになってきているのでは

ないかと考える。その手法はアメリカの方が進んでいる。ブッシュ氏でも大統領として務まるのは其の所為かもしれない。

巨大な軍事産業がアメリカ経済の根幹をなしている。冷戦が終わった今も、尚アメリカが戦争を好むのもその為ではないかと

想像する。だから今もこれからも日本はアメリカに従属していないとやって行けない構造が第二次大戦の敗戦後に作られたと

思える。今,日本が会社の合併に次ぐ合併に精を出しているのは巨大な財閥をもう一度作り直そうとしている作業そのものでは

ないだろうか。だったら戦後のあの財閥解体とはなんの為だつたのだろうか。



三日の手伝い


松下幸之助の言葉より
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「三日の手伝い」という言葉があります。たとえ三日間の手伝い仕事であっても、

その仕事に一生の仕事のような心構えで真剣に立ち向うならば、そこから必ず大きなものを得ることができる、ということです。

そうしてこそあらゆる場面に直面しても動じない精神が身につくということでしょう。

 そう言うと「本業についたらもちろん一生懸命に努力する」と言う人がいるかもしれません。

しかし、私のこれまでの体験から言うと、現在与えられた、いまの仕事に打ち込めないような心構えでは、

どこの職場に変わっても、決していい仕事はできない。これははっきり申しあげることができると思うのです


三日間の僅かの期間でも良い。その間全力投球する気持が必要である。何についてもこの事は言いえる

事である。例え三日間だけの手伝いであっても全勢力を注ぐ心構えが必要だ。




 「眼で描く芸術」ではなく「心で描く芸術」



3月3日の天声人語より 


 こんなにも多くの人に好かれているのか。東京・上野の国立博物館で開催中の横山大観展(24日まで)に行って、改めてそう思った。

平日の昼間だというのに、会場はかなりの混雑だ。代表作のひとつ全長40メートルにのぼる巻物「生々流転」には長い行列ができている。

 明治元年に生まれ、戦後まで健筆をふるった画家だけに、多くの人がどこかで彼の画業に接し、その魅力を忘れられないでいるのだろう。

話題に事欠かない人だっただけに「伝説」もたくさん残っている。

 酒豪ぶりが有名だ。これは師の岡倉天心仕込みらしい。

師に「どれくらい飲むか」と聞かれて「三合ぐらいです」と答えると「そんな酒ならやめてしまえ」といわれて、以来修業を積んだという。

80歳を超えてからのインタビューでも酒量を聞かれて「いまは、一日一升ぐらいです」。

 ついそんな話を思い浮かべながら会場に入る。

しかし、激しさと柔和さとが交響する作品群の前で雑念は消えていく。絢爛(けんらん)たる「夜桜」や「紅葉」に行き当たると思わず息をのむ。

雨に煙る水墨画の方は、いつまでも見飽きない深さがある。

 これも師譲りだろうが「心」ということをよく口にした人だった。

あまり「心」を強調されても困るが、こんな話を聞くと、なるほどと思う。愛犬家だった。

ある人に「あんなに好きな犬をなぜ描かないのか」と尋ねられると「性格がよくわからないのだ」と答えた。

 「眼で描く芸術」ではなく「心で描く芸術」を唱えた画伯らしい問答だ。そんなささいな会話に画業を貫く精神を感じさせる。



第二次大戦中は「心」が余りにも強調されすぎていた。精神一統何事かならんの精神主義が旺盛でそれで戦争に敗れている。

精神も勿論必要だが,それに伴う物質的な豊かさも必要である。精神だけではどうする事も出来ない事を戦争中に

痛いほど味わった。精神が基本であり技術の修練も又必要である。そして心身共のの豊かさも必要である。

それらが相まって事が成るものと考える。



日本の伝統精神



松下幸之助の言葉より
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 私は日本の伝統精神はきわめてすぐれたものだと思います。

ではその伝統精神とは何か。

 その一つは「和を以って貴し」とする平和愛好の精神です。

1350年も前に、この「和」の精神が聖徳太子によって掲げられています。

 第二は「衆知を以って事を決す」という、つまり民主主義です。古事記にも800万の神々が相談して事を決したとあります。

日本は真の民主主義の本家本元だと言えるでしょう。

 第三は「主座を保つ」。古来日本人は常に主座を失わずに外来のものを消化吸収し、日本化してきました。

この和、衆知、主座という三つの柱を守っていくことは、今後においても大切なのではないでしょうか。



今の世の中極端に言えばあまりにも,アメリカ至上主義がはびこつている。決してアメリカのプラグマチズム 実用至上主義が

効率第一主義か最高とは思われない。勿論良い所もあるが日本の伝統的主義も良い所がある。

日本の伝統的な良い所をも忘れずに,各国の良い所をも見習って行くべきである。





スイスの国連加盟への動き


3月7日の天声人語より 


 他国のことだからとやかくはいえないにしても「そうか、ついに」と複雑な気持ちになった。

スイスの国連加盟への動きだ。日本人はとりわけあの国への関心が強いようで、お手本として見てきたところがある。

 我が子の頭の上にリンゴを載せ、それを矢で射抜くウィルヘルム・テルの物語は多くの方がご存じだろう。

ハプスブルク家の横暴な代官に抵抗する話の一場面で、スイスの伝説の英雄だ。

アルプスと時計とチョコレートの国として知られ、何よりも永世中立の国として理想化されもした。

 だが、そこに至るまでには血に染まった歴史がある。ひとつが出稼ぎ兵である。

古くから若者が傭兵(ようへい)として各国に雇われていった。屈強な若者は貴重な輸出品だった。

スイス人同士で戦わねばならないこともしばしばだった。ナポレオンのロシア進攻では、万単位のスイス人傭兵が戦死したといわれる。

 傭兵はほんの一例だが、強国に囲まれたヨーロッパの小国が生き延びるために払わねばならない代価は、小さくなかった。

いまも、秘密保持の厳重さを誇る銀行は、他方で世界の「裏金」の集積所として批判も受ける。中立国とはいえ、武器輸出国でもある。

理想化ばかりもしていられない。

 今回の国連加盟の是非を問う国民投票では、主としてドイツ系が反対にまわり、フランス系が賛成にまわったという。

そんな国内の分裂状況もかかえている。

 米国など大国主導の国連に加盟しては「中立」が揺らぐ。

反対派の主張だが、加盟する以上、その「中立」を生かす道を探ってほしい。



スイスの永世中立である伝統は国連に加盟する事により中立が破れるとは思いたくない。

今,現在国連本部がアメリカに存在する事自体が国連の本来の機能を喪失させている所がある。

スイスが永世中立のままでいて国連に参加し,国連本部をスイスに移すことである。

今の国連はあまりにも中立を犯している。アメリカ寄りの団体になり下がっている。

そして中立国の国連職員が公正な事務処理が出来,悪い事には悪いと言える国連作りを

しないと,今の国連はアメリカの出先機関としてしか機動していない。

国連本部をスイスに移すべきである。そしてアメリカ軍以上の国連軍を作り,アメリカ一辺倒の

世界を変えるべきである。できれば国連軍以外に各国が戦力・ 軍隊を持たないことである。

全世界の核兵器も全て国連が一括して統括管理すればよい。

そうすれば争いのない又は少ない世界に そして理想の世界に一歩でも近ずくのではなかろうか。






利は元にあり



松下幸之助の言葉より
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 昔から「利は元にあり」という言葉があります。これは利益は上手な仕入れから生まれてくるということだと思います。

まずよい品を仕入れる。しかもできるだけ有利に適正な値で買う。そこから利益が生まれてくる。

それを「利は元にあり」と言ったのでしょうが、実際、仕入れはきわめて大事です。

ところが、この「利は元にあり」ということを、ともすれば単に安く買い叩けばよいというように解釈する人があるようです。

しかし、決してそうではなく、仕入先を、品物を買って下さるお得意先と同じように大切にしていくことが肝要だと思います。

そういう気持がないと、結局は商売は繁昌しないと言えましょう



売り先相手同様に仕入先をも大切にして行くということか。





「終局」の判断が難しい



 3月9日の天声人語より 


 勝敗の判定というのは難しいものだ。といっても、終わった冬季五輪の判定のことではなく、囲碁の世界でのことだ。

王立誠棋聖が柳時熏七段の挑戦を退けて棋聖位防衛を果たしたが、途中の第5局で「珍事」が起きた。

 囲碁ファンはご存じだろうし、ファンでない方にはわかりにくい話だから、ごく簡単に説明しよう。

そのままいけば柳氏が勝つはずの碁だった。氏は終わったと判断し、いわば店じまいに入った。

そのため、必要な一手を省いて別のところを打った。

 放置すると柳氏の六つの石が死んでしまう。対局は中断した。相手の王氏の見解は「終わっていない」。

結局、立会人らによる判定は「終わっていない」だった。王氏の逆転勝ちである。

 素人だとけんかになりかねない場面だが、そこはプロ棋士である。

もちろん判定に従ったが、後々の語りぐさになりそうだ。どこで「終局」とするか、が問題だった。

囲碁に限らず、その判断が難しいときがある。

 米国のアフガニスタン攻撃はほぼ終わったと思っていたら、まったく違った。むしろ激しさを増している。

死傷者を出した米国は、兵力増強を図っている。

中東での報復の悪循環も出口が見えないし、インドでは、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒との争いが広がっている。

 一度始めた「戦争」をやめるのはいかに難しいか、つくづく思い知らされる。

「戦争をやめる最も簡単な方法は負けることだ」とは英国の作家G・オーウェルの言葉だが、実際そうかもしれない。

あるいは、囲碁の決着のように立会人が間に入ることだ。



戦争に囲碁のように立会人が入り,戦争が終わるようになれば一番良い。

でも現在は一度始めた戦争は延々と続いているのが普通である。

戦争を中止させる強力な立会人ができれば問題が直ぐに解決する。

それが本来ならば国連の仕事だが,アメリカに有る国連ではそれを望む事は無理な話である。

スイスが国連に加入して強力な軍事力をもつた中立的立場を貫ける国連と、国連本部を作ることである。

将来的には世界連邦になってゆく中核になる存在のようなものを作られると良い。



結局,戦争で犠牲になるのはだれか



3月10日の天声人語より 



 「東京は燃えている」。作家の伊藤整は日記にそう記した。

「旧市内の大半がこの烈風の中で今焼けてしまおうとしているのにちがいない」。

45年3月10日未明の東京大空襲である。

 東京でも西の地域に住んでいる人たちは、東方に米爆撃機B29が襲撃するさまを茫然(ぼうぜん)と眺めていた。

一色次郎は「世田谷にいて、火炎がごうごうと鳴る音が聞えた」と記した。このときの死者は10万人を超えるとされる。

 当時の手記を読み、写真を見ていると、あの無差別爆撃がもたらした無残さにいまさらながら驚かされる。

半年前の同時多発テロとそれに続く「戦争」と重ね合わせて考えてしまう。結局犠牲になるのはだれか。

 当時の日本政府は、軍部を中心に本土決戦の机上プランを考え始めていた。

折しも硫黄島が米軍の手に落ちようとしているときだ。

2月末、最高戦争指導会議でこんな会話が交わされたそうだ(『大本営機密日誌』種村佐孝)。

 本土作戦で敵を撃破した後はどうするのか、と首相に尋ねられ、軍首脳の一人は「敵を撃破したらゆっくり考える」。

もう一人は「サイパン奪回作戦を考えている」。一方で「戦さは水物である。必ず可能とは考えられぬ」とも語る。

 威勢のいい言辞と同時に責任逃れを図る姿勢がうかがえる。

そうやってずるずると戦争は長引き、本土でも戦地でも犠牲者はふえるばかりだった。

 この東京大空襲の記録を集めた「東京大空襲・戦災資料センター」が、きょう開館する。

ニューヨークの崩壊したビルの跡地をどうするか、あちらでは議論が続く。



大昔より戦争で犠牲になるのは一般の庶民 普通の人たちである。何も好んで戦争を庶民が始めたのではない。

全て当時の支配者並びに支配者になろうと企んだ人たちによって始められている。

そして有無を言わせずに庶民がそれに巻き込まれ,その一番の被害者が庶民である。

支配者は交代する毎に庶民が被害を被るだけである。戦争は悪いと知っていても政治欲,権勢欲のある人たちにより

どの時代でも,ずーと戦争は続けられている。どんな社会においても 形が変わっても普遍的に言える事だと思う。




修養に場所を選ぶな


松下幸之助の言葉より
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 人は若い間の心がけのいかんにより、後にずいぶん差の生ずるものである。

もし若い時代に自己実力の養成に励まず、修養に努めなかったならば、必ず後年、後悔するときがくると思う。

 しかるに若い人の間で「この仕事は自分の性分に合わない、あの主任の下ではどうも働き甲斐がない」と、不足をもらす人がある。

これは自己中心の物の考え方の弊害であろう。

 真に自己の適所を見出すまでには、いろいろな経験を積まなければならない。

また性格、意見の異なった指導者の下で自己を磨くことによってこそ、かえってよりよく修養が得られるものであることを、

深く知らなければならないと思う。


修養の場所には必ずしも場所を選ばない。どこにいても其処が修養の場である。





小泉政権への失望感が「ムネオ憎し」に向かわせている



3月17日の天声人語より 


 早くも都心で桜が咲き始めた。また心落ち着かない日々になりそうだ。あれは、桜が満開のころだったか。

去年、自民党総裁選をめぐって大きなうねりが起き、異常なまでの小泉人気がわき上がり始めたのは。

 ずいぶん昔のような気がするが、桜と合わせて考えると、季節が一巡りしようとしているにすぎない。

そしてちょうど1年前は「戦後初『緩やかなデフレ』」の見出しが新聞に躍り、経済がはっきりとトンネルに入っていく時期でもあった。

 いま、小泉人気は急落し、いわゆるムネオ「人気」に取って代わられている。

鈴木宗男代議士の証人喚問から自民党離党へと、注目はこの人物に集まる。皮肉な光景である。

 小泉人気の一因は古い自民党的体質への決別が目に見えるかたちで現れたからだろう。

言動、外観そして手法でもそれを期待させるものがあった。

ムネオ「人気」は、まさにその古い体質が目に見えるかたちで明らかになっていくからだろう。

言動、外観そして手法ともに。

 小泉政権への失望感が「ムネオ憎し」に向かわせているという解釈もできる。

そうすると失望感が深ければ深いほど「憎し」の度合いも強まる。鈴木氏に同情するわけではないが、一種の人身御供である。

 次は加藤紘一元幹事長らしい。いずれも離党によって終わる問題とは思わないが、片がついたとされたときのむなしさが気にかかる。

何も変わりはしない。そのむなしさだ。良くも悪くも高まっていた政治への関心が急速にしぼむのではないか。

小泉政権にとっては、重大な岐路である。


古い体質の政 官癒着の鈴木宗男は議員を辞めずにガンバッテイル。政 民癒着で献金を集めた加藤絋一も議員を

辞めずにガンバッテイル。議員の秘書に与えられる費用を流用した辻元清美は議員をなんとか辞めた。

庶民の一人として辻元清美の身の処し方が一番共感が出きるのは僕ひとりだけだろうか。






協調性を持つ


松下幸之助の言葉より
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 みなさんが、それぞれの会社の社員である以上は、多数の同僚と相接して仕事をしなければならないということになりますから、

人の立場を重んじない、いわゆる協調性の少ない人は困ると思うのです。

 自分はこう思うが、あの人はああ思うのだな、それも一つの考え方だろうな、というように人の言に耳を傾ける、

というところに協調性が成り立つのです。

もちろん、自己というものを卑屈にして強調せよというのではありません。

けれども自己にとらわれた主張は協調性を欠きます。この点は、どのような立場にいようと考えなければならない、

非常に大事な問題ではないかと思います


協調と自己主張とのバランスの取り方が難しい。自己の主張がが強いと協調に欠けてくるし,協調しすぎると

相手に飲まれ流されてしまう。自己主調をしながら相手ともうまく協調するのが一番だが。




すっきりと責任を取る。そのお手本を見せてほしい


3月23日の天声人語より

 
 サッカーでは「守備の人」戸田選手が決勝ゴールを決めた。21日の対ウクライナ戦である。

いまのサッカーは、攻守の役割が固定していてはうまくいかない。

チームとしても選手個人としても「攻」と「守」とをどうつなげていくか、が勝負だ。

 政界では、攻撃型の辻元清美代議士が一転して守勢に立たされている。

鈴木宗男代議士の証人喚問などでは、歯に衣(きぬ)着せぬ物言いで切り込み、得点をあげた。攻守ところを替えた。

指摘された「疑惑」については「濡(ぬ)れ衣」と反論しつつも、攻めに比べると歯切れが悪い。

 彼女の政策秘書をめぐる「疑惑」だが、事情に詳しい人に聞くと、一般的には「ありうる話」だという。

名義だけの秘書だが、給料が国費から出ているだけに、看過できない。

 「疑惑」のかけらもないのだったら、いつもの調子で突っぱり切ればいい。

しかし、少しでも「疑惑」らしきものがあるなら、徹底的に調べてすべてを明らかにすべきだ。

鈴木氏のかかえる複雑で多岐にわたる疑惑に比べて、この政策秘書をめぐる疑惑の解明は、それほど難しいこととは思えない。

 これは、与野党の道義をめぐる争いでもある。

どちらが道義上優位に立てるか、の。

非力な野党は、せめてこの争いでは優位に立つ必要があるだろう。疑惑をもたれた場合には、逃げないで堂々と応戦する。

もし、自分に非があれば、すっきりと責任を取る。そのお手本を見せてほしいものだ。

 その場合、サッカーと同じでスピードが肝心だ。もたもたしていると、事態は悪化するばかりである。


辻元清美はすっきりと責任を取り,そのお手本を見せてもらい素晴らしいと思う。

一方の鈴木宗男 加藤絋一両人は党に対して迷惑かけたとして

離党するが,国民に対してはどのように責任を思っているのか。議員を辞職することに対し恋々としている。

こんな人たちが再び郷土の支援を受け議員になれるとすれば、現在の選挙制度自体が間違っている。

郷土の人たちにさえ利便を与えていれば,いつまでも腐敗議員でも議員になれるという事である。

政 官 民癒着で,多分このような人たちは地方政治における便利屋のようなことをもしているだろうから

地方における官 民との癒着も濃厚と考えられる。

全ての政 官 民癒着の接着剤的存在である。これではいつまで経っても政治は良くならない。

鈴木宗男は外務省に対して,自分が言ってもいないことがメモとして残っていると憤慨しているが,官に何かをいう場合には全て

要望書として書面にし捺印,官僚に差し出せば良い。秘書に書かせて本人がサイン するだけでも良い。

官僚に頼むからには大切な事柄かと思う。其の書類を残しておけば自分の言わない事柄をメモに書かれたと言った

ことはなくなるだろう。全国の国民が見ても納得する事しか要望できなくなる。

議員の要望も曲がり腐ったような要望は少なくなると考えるが。






冗談の効用


3月25日の天声人語より 


 冗談じゃないと言いたくなることが多いこのごろだが、冗談の効用というのもある。

昨年9月11日のテロ事件から半年たったが、米国の若い世代で事件にまつわる冗談がはやっているらしい。米紙が報じていた。

 記事は、高校生の間での流行を追っている。

「ぼくはときどきテロリストとかファンダメンタリスト(原理主義者)と言われる」と語るのは、3歳のときにクウェートから移住してきた少年だ。

「でも、仲間内で言われる分には傷つかない。お互いに言い合っているから」。

 ちょっと変なやつと思われると「タリバーン」と呼ばれたり「炭疽(たんそ)菌をもっているんじゃないか」と言われたりする。

姿が見えないと「ビンラディンのようなやつだ」。

 自分の部屋を「グラウンド・ゼロ」、つまり崩壊した貿易センタービル跡のことだが、そう称するのは、あまりに乱雑だから。

ちまちましたことにこだわると「それじゃ9月10日じゃないか」と事件前に言い及ぶ。

 冗談といじめの区別がつかなくなることを心配する先生もいるが、専門家はおおむね肯定的だ。

あの恐ろしい事件から距離を置くことができるようになった。無理に忘れようとしたり、心の内側に封じ込めようとしたりしていない。

その点を評価する。冗談の効用である。

 日本社会と同じで、米国社会もあまりにまじめすぎて心配なときもある。

一方で、冗談やユーモアが重用される場面が多々あるのも確かだ。

ただし、よく経験することだが、米国人が「日本人は冗談を解しない」といって批判するときは、大まじめである



テロ事件はアメリカ国民にとってかなりのショックであった事がうかがえる。でも今も攻撃をうけている国々の例えば

パレスチナ イスラエル アフガニスタンなど そして湾岸戦争におけるイラク等の人たちの気持にどうしてなれないものかと

不思議である。アメリカ人は大変な戦争での災害による被害を受けている国々 そこの人たちがいることを忘れているようだ。

第二次大戦後も朝鮮戦争から始まりヴェトナム戦争 カンボジア戦争 それに湾岸戦争と

アメリカが関係した戦争が時期を置いて続いている。

国家の体制が 経済体制が戦争をしないともたないような国になっているのかも知れない。

それら全ての戦いがアメリカの正義の為の戦いとして戦ってきている。

戦場になっている国の人たちの気持が今回初めて一部の人がほんの少し経験したのかも知れない。

真珠湾攻撃によるアメリカ人の被害よりも日本における原爆投下を含めての爆撃は比較にならない位に凄まじい

経験を日本国民は強いられてきている。だから戦後 日本は戦争放棄する事をうたつた憲法を守る事が出来たのである。

そうしてアメリカでは。?




散る桜


天声人語の3月26日より


 はかなく散る桜を日本人はこよなく愛した。そういわれることが多い。

『伊勢物語』の〈散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにか久しかるべき〉の世界だが、

確かに散る花を詠む歌は、驚くほど多い。

 百人一首にも入っている〈ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ〉(紀友則)などはどなたもご存じだろう。

しかし、これが日本人の心の風景のすべてかといえば、そうでもない。

 満開の桜の下、団体でにぎやかに宴会を楽しむ。

これは、散りゆく桜を見送る感傷とは別物だろう。同じ桜を愛(め)でるのでも、愛で方が少々違う。

演劇評論家の河竹登志夫氏の「憂世と浮世」論を思い出す。

 無常観が底にある平安、中世の「憂世」と現世享楽的な「浮世」とを対比させている。

氏が紹介する江戸時代の『浮世物語』の作者の言葉が明快だ。

「今は何に限らずその場その場にして、先の事など考へず、飲めよ謡えよ一寸先は闇と…

その日その日を面白をかしく暮らすのが浮世」である。

集団花見はこの系列だろう。

 以下は勝手な推論だが、戦争の時代、再び「散る桜」が大々的に復活した。

そこでは、桜は「はかなく」散るというよりは「潔く」散るとされる。「咲いた花なら散るのは覚悟」のあの世界である。

そうやって多くの若者が戦場に散った。

 東京の桜があっけなく散っていくのを眺めながら、そんなことをあれこれ思った。

そしてつい政界での「散り際」についても考えてしまう。

一連の事態を見ていると、桜と違って心にしみるような散り方は難しい。



桜の季節は今年は早く来た。まだ散る所までもゆかないが,例年四月の入学式に見る桜は今年は見ることが

出来ないだろう。桜の見頃はほんの僅かな期間である。第二次大戦の頃は桜のように潔く散る事をよしとした風潮があったが,

政界での問題の議員達の散り際の往生さの悪さが目に付く。議員の数字だけが力だとする間違った民主主義の退廃的末期現象は

大手を振って強行されている。カネと義理と人情でカキ集めた票が議員達の生命線でそれで議員になっている人が多い。

ムチとアメを巧みに使い分けることのできる議員が有能な議員とされている。

党派はただ数集めの為にある集団としての存在だけしかない。

稀に正論を言う人が出たとしてもガンジガラメに党議党則で縛り 殆どがトップダウン方式で事が決まってしまう。

とちらにしても全て長く留まると澱みができるのは当然である。

せめて散り際くらい潔く散って欲しいと思うが,でも鈴木 加藤氏は辞職しない。

議員と言う職業はそんなに魅力ある職業なのだろうか。




広島に原爆投下


3月29日の天声人語より 


 そのとき、彼は「マイ・ゴッド!」と叫んだそうだ。

広島に原爆投下をした直後の米爆撃機「エノラ・ゲイ」の機中でのことだ。

「やったぞ」という「快哉(かいさい)」だったのか「何ということをしてしまったのか」という悔悟の言葉だったのか。

仲間の間では解釈が分かれたという。

 「エノラ・ゲイ」の副機長だった彼、R・ルイス氏の手記が27日ニューヨークのクリスティーズで競売にかけられ、

35万ドルで落札された。

機中でつづられた手書きのメモで、米紙の依頼だったという。

 45年8月6日未明の出撃から時間を追ってつづる。

原爆投下直後のことは「私たちは一体何人を殺したのか? 正直いって、語る言葉が見つからない。

神よ私たちは何ということをしてしまったのか」。

 手記から見る限り、快哉の叫びではなかった。

ルイス氏は、その後も悩み続けたらしい。しかし皆が彼のようではなかった。

「眠れない夜などなかった」と語る当時の機長P・ティベッツ氏は「やるべきことをやった」と主張し続ける。

 その彼も、米コラムニストのボブ・グリーン氏には、少し違う顔を見せたことがある。

広島の犠牲者の話を聞かされたとき「だれが間違っているのか、何が正しくないのか、わたしにはわからな


自分が正しいのかどうかもわからないのだ」(『DUTY』光文社)と。

 機中の手記で「100年生きたとしても、この数分のできごとを心から消し去ることはできないだろう」と書いたルイス氏は、

キノコ雲から血か涙のようなものが滴る彫刻を残して83年に亡くなったという。




広島に原爆投下した「エノラ・ゲイ」の副機長だった彼、R・ルイス氏の手記が35万ドルで競売にて落札された。

大変な金額である。一人の兵士が機内で書いた手記がそんなに価値有る位に人類にとって大変な事件であった。

60年前の出来事である。それも初歩的な原子爆弾投下での話である。

それが全世界にそれに何十倍もの破壊力のある水素爆弾が何千発も存在している時代になつている。

アメリカ大統領のブッシュ氏は大真面目にそれを邀撃するための実験を繰り返している。

そんな所にお金を使うならばそれだけの額のお金を貧しい国々に援助すれば,テロの温床とも言われている

貧困を救う事ができる。だがそれをしてもアメリカの裕福な人たちへの恩恵は全く何ももたらさない。

それらの人たちを中心にした政治がアメリカを動かしているようだ。そして全世界をも。

そのような世紀に我々は生きている。 




全てがトップダウン方式 上意下達て゛決まっている


民主主義は皆の投票で意思が決まる事になっている。でも首相も首長も議員もすべて一旦選挙で当選すれば其の中で事を

決めてしまっている。民の意向を聞こうとせずにトップダウン方式でそれに従うように命じてくる。

自分達の意向とは全く異なった事に対しても従わざるを得ない場合が往々にし出て来ている。

現在構造改革とやらが首相の意向でドンドン進められている。でも社長にはそれに反対するだけの力が無い。

リストラが始り減給されて来ると社員は社長を責める。でも構造改革とやらに協力せざるを得ない状態に社長は追い込まれしまっている。

社長は倒産したくないからリストラ 減給を強行する。本来ならば構造改革を推し進めている首相 政治家に

矛先を向けねばならないところを社員はただ社長に文句を言い,矛先を向けているだけである。

そのような現象がアチコチテで見られているのではなかろうか。首相としても何とか景気回復したいが為に構造改革とやらに

取り組んでいるものと思う。でも だったら初めに大変な無駄使いをしている不正な政治機構改革を先ずやってほしいものです。

少なくとも,早くに鈴木 加藤議員は辞職すべきである

現在,全世界が一つの経済のメカニズムに取り込まれている。アメリカは惜しげもなく軍用機を飛ばし爆弾を投下している。

何億円 何兆円ひょつとすると何10兆円ものお金が破壊の為だけにそれも正義を遂行する為に費やされ 殺人が正当化されている。

そんな矛盾を平気で現在行われているのを誰もが文句言わず見ているだけである。

世界の中の誰が見ても一番ツマラナイ事に対し惜しげもなく無駄な大金が投入されているのである。

日本も世界の仲間からはずされるのを恐れてアメリカのお手伝いをしている。

そのような所に何故お金を投入するのか判らない。肝心なことにお金をもっと廻すべきである。

アメリカの意向ばかり気にしていたら何もできない。アメリカに対等に話すことの出きる政治家が出て欲しいものである。

近隣諸国東南アジア 中国 ロシアとともに そしてヨーロッパ諸国とも連絡しつつアメリカの独善主義に対して注文をつけ

ストップをかけられるような政治家が是非出てくることを願いたい。 



タヌキと官僚


極めて私的な話のことである。自宅からかなり離れた所有地にそこのご近所から

タヌキの死骸があると言う連絡が入った。

早速に京都市南区十条大宮にある市民美化センターに電話したところ最終的には所長が電話に出てきて

個人の土地には入ることができないから,公道まで死骸を運んでいただきたいと話してくる。

しかし空き地は草が生えているだけの所だからどうぞ入って頂いても結構ですがと話すが、

頑固にも個人の土地は入る事は禁止されていると言いつづける。

所有している個人がどうぞ入って頂いても結構ですよといっているのだから,別に問題ないのではないではないかと

思うが,頑迷にも個人の所有地に入れないとの一辺倒である。

業を煮やし市役所の本庁の監督課は何処で電話は何番かと聞くと,こちらから聞いて見るとの

事になって所長が連絡する事になった。

官僚といっても市役所の所長で市職員である。府職員も市職員も官僚には違いない。

省庁に勤めている国家公務員だけが官僚ではない。

余りにもその頑迷さには驚く。良いように考えると若い頃からの融通のきかなさがその習性が身についているのかも知れない。

タヌキなんか出没しない所にそれも人家のほんの近くに死ぬなんてどのような間抜けなタヌキなのかそれも変である。

だれかがいつものイヤガラセで死骸を放置した可能性が極めて濃い。

その嫌がらせした人物と悪く考えると所長がグルになっているとも考えられる。

官僚とタヌキ取り合わせが極めて妙である。今の官僚は 公僕と言うよりもタヌキに近いのではなかろうかと

いつも思っている。勿論このような人たちは全職員からすればほんの一握り人たちだけだとかんがえる。

それに対して府会議員・市会議員が官僚に圧力をかけていることは想像するに難くない。

地方の政界では国会議員は神様に近いのではなかろうかとも想像する。

政界は欲に絡んだ議員後援会が本来の政治後援活動がなくなって,混迷しているのが全ての政治腐敗の根源と考えるが。?

全ては身から出た,身近から出た錆かと思う。これからもおかしい思うことはドンドンと書こう。!

矛盾とおもわれることが止るまで なくなるまで。







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