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随想 シュワィツァ−・緒方洪庵 ギャラリ 検索リンク集


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新緑の四月


月日の経つのは早い。特に最近そのように感ずることが多くなってきている。

桜も三月に満開に咲き乱れ,四月の始め頃には既に散り始めるようになつた。

自然の変化は何か急いで動いているように思える。

だが不況感は依然として変わりなく続いて変化が少ない。小泉首相の構造改革とやらは容赦なく押し進められている。

その割に景気が回復の方向に転じているような実感は受けて来ない。

変人と称されていた小泉首相も極めて常識的平凡な人であることが次第に理解出きるようになつてきた。

だが何故か判らないことだが,突然,今ごろに一人で靖国神社へ参拝したりしたあたりは,やはり全くの変人なのかも知れない。

即座に中国・韓国など,東南アジア周辺諸国から抗議の声明が出されている。

このことは昨年の例からしても誰もが充分予想がつくことであった。

靖国神社に祀られている人たちの遺族の方達の票が欲しい為の行動ならば,永田町的感覚からして極めて常識的な人である。

小泉首相が変人なのか,それとも常識的凡人なのかは今の所不明である。

だが後者の疑いの方が極めて濃厚である。多分今回の靖国神社参拝の行動に対し国民からの批判が強く,有事法制を

強引に進める行動からして,国民からの支持率はさらに下がるものと想像される。

平和憲法を持つ日本の首相であることの重みを 少しも首相は理解していない行動である。

国民が構造改革とやらに苦しんでいる事も理解できていないのではなかろうかと考える。

そのような首相を持つ国民は非常に哀れそのものだ。

政治家たちには秘書を含め驚くような巨額な額が税金から支給されていることが今回の一連の事件によって国民に判ってきた。

それにも拘わらずにさらにカネが必要とする政治家がいることは,票をカネで買ってなんとか議員になりたい人たちが

大勢いるということである。カネによって議員になる為のカネを集める必要にせまられ政治権力を乱用し,

政治を悪くしている。このような悪循環の構図がかんがえられる。カネで票を売りたい人の為の人助けしているともとれる。

此処にも又政 官 民の悪い癒着が見えてくる。

そのような政治家達が職権を利用してアメとムチの政治を進めるならばいつまで経っても日本の国の政治は変わらないし

良くはなってはゆかない。国とか地方政治を問わない大きな問題である。

こうなると政治家の質もさることながら秘書の質も政治に大いに関係している事が理解できる。

政治家秘書の公設 私設を問わずに名前を是非とも公表して欲しいものである。

政治家を選挙で選ぶ場合 政治家の質はもとより秘書の質も大いに問題になってくる。

加藤鉱一氏があのような秘書を使用していたとは誰もは想像がついていなかったと思う。

内閣府から構造改革のプランが発表されたようだが詳細については我々のところまで伝わつてこない。

もっと国民に大々的に宣伝し,沢山の国民の理解・協力を得なければ構造改革に対する不信だけがつのるばかりである。

我々にとっては一寸先は闇の政治が今も行われているとしか思えない。




一度始めた戦争をやめるのは難しい



4月5日の天声人語より 


 マキャベリの有名な言葉「戦争は始めたいときに始められるが、やめたいときにはやめられない」が重くのしかかる。

深刻になるばかりの中東情勢だが、そこに昨年9月11日の事件以来の米国の「対テロ戦争」が重なるから事態は容易ではない。

 米国は何を考えているのか。多くの人がそう思っている。

イスラエルの軍事行動に歯止めをかけられるのは米国しかいないではないか。なのになぜ動かないのか。多くの人がそう思っている。

 遠くから推察するかぎり、ブッシュ政権内の「主導権争い」が影を落としているように見える。

というより、目下はイスラエルの軍事行動を支持する強硬派の影響力が強いようだ。

 「これは対テロ戦争だ」。ブッシュ大統領の言葉をイスラエルのシャロン首相がそのままつかう。

その通り、と政権内の強硬派は言う。話し合いはテロリストへの譲歩だ、と。

和平推進派に対しては「クリントン的希望的観測」といった批判が投げかけられる。

 ブッシュ大統領からは、自爆テロをめぐって「卑劣なテロだ」などの素朴な発言しか聞こえてこない。

カーター大統領時代の補佐官だったブレジンスキー氏のブッシュ評「白か黒かに単純化しようという誘惑から逃れられない」は相変わらずである。

そんな中で、孤立気味だが、国際協調派のパウエル国務長官が和平へ向けてどう動くか、動けるか。頼みの綱になってきた。

 話を戻せば、一度始めた戦争をやめるのは難しい。

昨年、米国が「対テロの戦争」と宣言したときから、そのことがつきまとっている


一度始った戦争はなかなか止める事は難しい。ずるずると長引いて双方に被害が沢山出たとしても中々に戦争を止める事は

困難である。第二次大戦のように完全に勝ったと思われる戦争においても暗い影を今もひきずつている。

戦争に良い戦争というものはない。戦争そのものは悪そのものである。

例え正義をとなえていても完全な正義はありえない。戦争の場合は両者に言い分があり正義のあることが多い。

ただ勝てば官軍で,正義は勝った側にある。歴史がそのように作られ,理解されているだけである。

いつかの時代においてもそれが正と悪は逆に転す゛る事も有り得る。

はっきりいえることは戦争そのものは人間の中にすむ悪魔の仕業で人間の無智によるものである。





自爆テロを怖がらず1人は爆弾を抱え、もう1人は買い物リストを手にして爆発。若い命が失われた。



4月6日の天声人語より 


 きのう本欄で中東をめぐって米国への不満を書いたが、一夜にしていい方向にひっくり返された。

「素朴な発言しか聞こえてこなかった」ブッシュ米大統領が、パウエル国務長官を横に従え、20分近く演説をした。

パウエル氏が来週中東に向かう。

 海外の反響などを追っていて、自爆テロをした18歳のパレスチナ人女性の話に行き当たり、胸が痛んだ。

犠牲者の1人は17歳のイスラエル人女性だった。

ブッシュ演説も「未来そのものが死んでいく」と2人の死に言及した。

 18歳の彼女は、ベツレヘム近郊の難民キャンプに暮らしていた。11人の子どもの7番目だった。

毎朝7時に学校に出かけ、午後帰宅してからは宿題と家事をする勤勉で優秀な高校生だった。

大学でジャーナリズムの勉強をするつもりだった。婚約者がいて8月に結婚する予定だったらしい。

 犠牲になったイスラエル人女性は、卒業試験の準備をしているところだった。

自爆テロを怖がらず、それによって生活を変えない、それが彼女の考え方だった。

その日は母親のつかいで買い物に出かけた。

 午後2時前、ジーンズ姿の2人はスーパーマーケットの入り口に近づく。

1人は爆弾を抱え、もう1人は買い物リストを手にしていた。そして爆発。若い命が失われた。

かの地では、そんな悲劇的出会いが毎日のように起きている。

 ブッシュ演説については「劇的な転換」と歓迎する声が多いが、イスラエルのシャロン首相がどう対応するか。

ともに軍人出身政治家のパウエル・シャロン対決が打開へのかぎを握りそうだ。



若い生命が散ってゆくのは今回だけの話ではない。過つた為政者により若い生命が失われたのは第二次大戦の特攻隊の話でも

知られている事である。なくなった人達は極めて純粋で一片の疑いを持たずに死んでいっている。

誤った為政者達による犠牲者は今も後を絶たず,世界中の至る所で現在も昔同様に沢山いる。

そのような誤った指導者 過つた行為を正すのに我々にどのようなことができるのか。?

狂いだした歯車は正常に戻すことは中々困難である。早期に歯車を過つた方向に向かないよう努力

する以外にない。狂いだした歯車に対しては,大石が転がらぬよう止めるのに楊枝で支える位の力しかもたない。






夢中の動き



松下幸之助の言葉より
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 「この観音さまはノミがつくってくれた。自分は何も覚えていない」というのは、版画家、棟方志功さんの言葉である。

私はたまたまこの棟方さんが観音さまを彫っておられる姿をテレビで拝見し、

その仕事に魂というかすべてをつぎ込んでおられる姿に深く心を打たれた。

一つ一つの体の動きが意識したものでなく、まさに“夢中の動き”とでもいうか、そんな印象を受けたのである。

その姿から、人間が体を動かしてする作業というものの大切さをつくづくと感じさせられた。

 機械化に懸命な今日だからこそ、魂の入った作業というものの大切さを、お互いに再認識する必要があるのではないだろうか。


夢中になって熱中する姿は誰も美しい。大きな仕事はそのような所から生ずると考える。




世間の常識



4月9日の天声人語より 


 一昨年秋のいわゆる「加藤の乱」のとき、たまたま日本を離れていて実時間で刻々と体験することができなかった。

英国の新聞などが報じる遠い国の「コップのなかの嵐」ふうの記事と、帰国したあとで友人らから聞く

緊迫した状況とのずれが大きいのに驚いた。

 加藤紘一氏が、あの「乱」のあとしばしば語っているのは「あんな大きなうねりになるとは思っていなかった」

「マグマの大きさを見誤った」などだ。世間の熱い思いと自分の行動とのずれを反省している。

 良識派、リベラル、プリンス、理論家などと言われてきた人だが、肝心のところでどこかずれてしまう。

外から見ているといつもそんな感じがしていた。

 自民党幹事長時代、過半数割れをした衆院議席を、個別の勧誘で過半数にした。

しかし、後に反省する。選挙で示された民意をないがしろにしたことや自民党を増長させてしまったことを、である。

 議員辞職に至った今回も世間の常識とのずれが露呈した。

前事務所代表の脱税事件では「自分の足元で起きていることがよく見えなかった」というのが反省の弁だ。

「いわゆる『永田町政治』をもう少し国民に近づけないといけない」という氏の主張には共感するが、

結局は氏も「永田町の呪縛」を逃れていない、との思いが強い。

 加藤氏の初当選は田中角栄内閣発足の年だった。

そのときの選挙公報には「やる気」と「夢を持つこと」といった初々しい言葉が躍っている。

あれから30年、日本政治は変わったのかどうか。加藤氏の転変と重ね合わせてしばし考え込んだ。


永田町の常識と世間の常識とはひどくかけ離れていることは以前から指摘されてきたことである。

世間の常識は永田町では非常識 永田町の常識は世間の非常識では困る。

政治の世界だけしか見ていない人・永田町の人達の常識が世間の常識と一致しない限りにおいては

良い政治を期待することは出来ない。

辻元氏 加藤氏が議員を辞めても尚且つ鈴木氏は議員を辞めようとせずに頑張っている。

永田町の常識と世間の常識との違いの典型的な現実である。

自民党は野党から出した鈴木議員辞職案に対し反対の態度を示し否決されている。





「打算がつきまとう友情」



4月10日の天声人語より 


 「友情と打算」という言葉を聞いて、あの世界では打算を離れた友情というのはありえないのだとしみじみ思った。

山崎自民党幹事長が加藤紘一氏に辞職を促したらしい。その後「これからは打算のない友情だけの関係になる」と語った。

 思い出すのは、ロッキード事件で傷だらけになった田中角栄・元首相の晩年である。

一審で有罪判決が出たあと、当時の中曽根首相から田中氏に手紙が届いた。

中曽根氏の秘書が田中氏の秘書の佐藤昭子さんに手渡した。

 「読んでみて下さい」と言われて佐藤さんは手紙を開く。一時議員バッジをはずしていただけないか、との内容だった。

佐藤さんは、田中には見せません、と中曽根首相に返事を書いたという。

議員をやめるつもりはなく、手紙を見せても血圧が上がるだけだろう、と(『決定版 私の田中角栄日記』新潮文庫)。

 その田中氏がウイスキーを手放さず、がぶ飲みをするようになったのは、派内に「創政会」が結成されてかららしい。

「造反」である。ロッキード事件そのものよりこの「身内に裏切られた」という痛手の方が深かったようだ。

権力のためには、情を切り捨てる世界がなまなましい。

 また思うのは、中国の詩人たちである。杜甫と李白をはじめ、友情を詠む詩が何と多いことか。

酒を飲んで別れ、再会を誓う。たいていは落魄(らくはく)の身の上だ。

中央の権力からはじき出されて、旅する詩人たちである。しかし友情には厚い。

 落魄の勧めではないが「打算がつきまとう友情」の世界に住むうっとうしさを想像したのだった。




「打算がつきまとう友情」は友情とは言えない。駆け引き関係以外のなにものでもない。友情と称するに程遠い。

良くも悪くも真に友に対しては「誠」を進言出きる関係でなければ「友情」だと思えない。

加藤氏と山崎氏の関係について,その後「これからは打算のない友情だけの関係になる」と語ったのはおかしい。

打算抜きの関係が友情であって 打算がある限りはそれは友情とは言えない。

山崎氏は友情の意味を本当に理解していないと考える。

世間には間違った義理 人情の関係をば友情ととりちがえている人達が如何に多い事か。





 使命観を持つ


松下幸之助の言葉より
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 人間は、ときに迷ったり、おそれたり、心配したりという弱い心を一面に持っている。

だから、事を成すに当たって、ただ何となくやるというのでは、そういう弱い心が働いて、力強い行動が生まれてきにくい。

けれども、そこに一つの使命を見出し、使命観を持って事に当たっていけば、

そうした弱い心の持ち主といえども、非常に力強いものが生じてくる。

 だから指導者は、つねに事に当たって、何のためにこれをするのかという使命観を持たねばならない。

そしてそれをみずから持つとともに、人びとに訴えていくことが大事である。

そこに“千万人といえども我ゆかん”の力強い姿が生まれるのである。


使命観を持てば百 千 萬人妨害しようとも恐れる事はない。使命感にただ邁進するのみである。

その思いは岩石であろうとも貫く事ができると信じたい。





東京はけっこう緑が多い。



4月12日の天声人語より


 思い立って東京タワーに上ってみた。

東京に暮らしていて、毎日のようにあのタワーを見ていても上ったことがない。

そんな人が意外に多いと思うが、筆者もその一人だった。

東京はけっこう緑が多い。大阪に比べるとずいぶん多い。

友人とそんな話をしていて、ではあそこから眺めてみよう、とその気になった。

 自慢にはならないが、塔というものにはあまり上ったことがない。

米国のラスベガスで偽のエッフェル塔に上ったが、これはあの町そのものより、砂漠のなかの人工都市の景観、

とりわけ遠景の砂漠を見たいと思ったからだった。

 ほかには、上海で、建設中のテレビ塔に途中まで上ったくらいのものだ。

急激に変わっていくあの町のかたちを記憶にとどめておこうと思った。

東京タワーの方には、それほど関心がなかった。

 展望台に着いてまず目に入るのは皇居の緑だ。

そして浜離宮の庭園と足元の芝公園で、西には神宮の森と新宿御苑が連なる。

その向こうには真っ白な富士山が見えた。

しかし、意外に緑が少ない。東京湾は別にして、意外に水も少ない。そう思った。

 東京タワーの開業は、即席ラーメンが発売され、巨人の長嶋茂雄が新人王を獲得し、1万円札が発行された58年のことだった。

当初は、修学旅行生にも東京名所の人気1位だった。これまでに約1億3800万人が上った。

 大阪の通天閣のことが気になってきた。

高さは東京タワーの約3分の1で、56年に再建されてからの来場者は、2700万人余だという。

こんどは、あそこに上ってみようか。


 大阪の通天閣は東京タワーの比ではない。上った人の人数も格段の相違である。

東京は緑が゛多いが大阪は緑がどれだけ見られるのか、これも東京の比ではないかも知れない。

東京に住んでいる人達が緑の多さを実感しておられるのか,どうかを聞きたいものである。





「国家機密」といって隠し通せるような中身ではとてもない



4月16日の天声人語より


 こんないたずらをしたくなる。背中にそっと紙をはりつけるあのいたずらだ。子どものころ、やられて恥ずかしい思いをした。

あれを思い出して、何人かの国会議員の背広に「国家機密」と記した紙をはりつけたくなった。

 共産党が、加藤紘一官房長官時代とする内閣官房機密費の「出納帳」を明らかにした。

そのコピーを見ていて、教えられることも多かった。

国会議員に背広を贈る習慣などもそのひとつだ。

もちろん1着数十万円する高級背広である。この背広のプレゼントがけっこう多い。

 結婚祝いはほぼ10万円でそろっているが、香典は5万円から30万円までばらばらだ。

日曜日のテレビで司会者の田原総一朗氏が、加藤氏から香典5万円をもらったことを香典袋を見せながら明かしていた。

出納帳にもその香典代が出ている。

 すべてが確認されたわけではないが、田原氏の例のように事実と符合する記載がかなりあることは確かだ。

これらがいわゆる機密費だとすると、記帳されているのは、そのごく一部でしかない。

しかも明らかにされた記述を見るかぎり、「国家機密」といって隠し通せるような中身ではとてもない。

 内訳別ではパーティー代や国会対策関係費などが大口で、餞別(せんべつ)もかなりの額にのぼる。

多くは普通の家族がそれだけで海外旅行に行ける額だ。200万円という高額もあった。金銭感覚の違いも実感する。

 この機密費出納帳が本物だとすると、すべて税金から出されていることになる。

背広へのはり紙は「国家機密」よりは、「税金仕立て」の方がいいか。


背広が税金で賄われているとは驚きである。それも機密費という隠れ蓑にかくされていて国民には全く知らされてきていない。

嘘か本当か共産党の調査力には驚く。ムネオハウスの時も確か共産党から出て来ている。

機密費がこんなショウモナイ事に使われていると思うと,税金なんか払いたくなくなってくる。

税金をとる人と使う人は別人になつており,税金の納入は国民の義務として押しつけられている。

一方使う方については何に使われているのかは全部は判らない。疑問符をつくような所には使ってもらいたくない。

ムネオハウス 背広などといったものには是非使ってもらいたくないものの一つである。

軍艦や飛行機などの兵器類にもあまりに使ってもらいたくない。

税金の無駄遣いは是非止めてほしいものです。首相始め議員連中は自分達が勝手に税金を使う権利を与えられていると

錯覚を起こしているようだ。一人一人の国民の声に 何に使うのが良いかを耳を澄まし,聞いていただければ

税金の無駄遣いはなくなるのではないかと期待する。

本来はそうあるべきものである。




国民の声をじっくり聴いた上でことを進めてほしい



4月17日の天声人語より 


 「これは戦争だ」。首相がそう宣言すると、戦車が動き始め、ミサイルが撃ち込まれる。

イスラエルの現状だが、もし政権が違っていたら、シャロン政権でなかったら、違う展開になっていたかもしれない。

 ひとごとではない。

戦争であるかどうかを決めるのが極めて難しい時代になっている。

同じ事態でも見る人によって違って見える。

事態を広げようとするか、縮小しようとするかの意志も見方を左右する。

「対テロ戦争」を宣言した米ブッシュ政権も政権内は一枚岩ではない。

 わが国の武力攻撃事態法案でいえば、たとえば「武力攻撃が予測されるに至った事態」を、だれがいかに判断するのか。

最終判断はもちろん首相だろうが、そのとき、どんな材料をもとに判断するのか。

情報を集めたり、あげたりするルートは大丈夫だろうか。

 そして何よりも、私たちが政府を信頼できるかどうかが大事だ。

この間の農水省や外務省の対応を見ているだけで、政府の手足、目、耳であるべき行政機関の頼りなさを思い知らされた。

日ごろ国民の安全を守れないような人たちに、非常時の対処を任せられるか、との思いもある。

 小泉首相の言葉「備えあれば憂いなし」も、こう解釈したくなる。

日ごろきちんと国民のための政治をしていなければ、非常時にもうまくいかないだろう。

あるいは、非常事態を招かないよう、日ごろの政治・外交をしっかりやってほしい、と。

 ことわざでいえば、ここは「急がば回れ」ではないか。国民の声をじっくり聴いた上でことを進めてほしい。




全てのことの最終的な判断は首相による。それも国民の声をじっくり耳を傾けからにしてほしい。

靖国神社参拝のように勝手に首相の一人判断で事を決めてもらうのは困る。

是非,来年も再来年も靖国神社に参りたいならば即刻首相を辞めてもらいそうすれば毎日参拝してもらっても結構です。

一日に何回参拝されようと,国民は文句は言いません。諸外国からも又なんの文句も出てこないと思います。

小泉さん,貴方が日本の首相だからこそ周辺諸国から苦情が出ることを判って頂いるのかが不安です。

是非首相でおられる間は国民の声にじっくり耳を傾けてから行動を起こしてください。

そんなことは出来ないと言われるならば首相を辞し,好きなように行動されたら良いと思います。

そうすれば何をされようとも誰も国民は文句をつけないて゛しょう。





市民を巻き込んだ憎悪の応酬



4月19日の天声人語より 


 日本の政界だったら、手打ちうどんを一緒に食べて「手打ち」をできるかもしれないが、パレスチナではそうはいかない。

パウエル米国務長官の停戦仲介はひとまず失敗に終わった。

 仲介や調停ということがいかに難しいか、痛感させられる。

困難さをざっと数えあげてみよう。

事実かどうかは別にして「向こうは核爆弾をもっているが、こちらには人間爆弾しかない」というパレスチナ人の言葉を聞いたことがあるが、

まず力の差が大きすぎる。

力が拮抗(きっこう)している場合の方が話し合いのテーブルにつきやすいだろう。

 イスラエルがパレスチナ自治区への軍事侵攻を既成事実としてしまった。

そのため和平交渉の前提をつくるのがたいへんになった。振り出しに戻すために精力を注がなければならない。

さらに市民を巻き込んだ憎悪の応酬が続くうえに、双方の指導者がいわば宿敵同士という難しさが加わる。

 イスラエル側が「対テロの戦争である」という米国の大義を借用していることから、米国からのイスラエル非難が鈍りがちだ。

しかも、そもそも米国はイスラエル寄りだと見られてきた。その中で仲介者としていかにバランスをとるか。

 数えていくと、きりがないほどだ。米紙の社説は映画の題名そのまま「ミッション・インポッシブル」の見出しを掲げていた。

つまりは不可能な使命。パウエル長官も、困難さを突破することができなかった。

 パウエル長官については「自信に満ちたオプチミスト(楽観主義者)」との評がある。

そのオプチミズムでもって改めての挑戦を願おう。




イスラエルとパレスチナの情勢を新聞などで知る限りにおいては,余りにもイスラエルのやり方が極端で且つ横暴に見える。

パレスチナの最高指導者のアラファト議長府を取り巻くとは恐れ入つたことである。無茶苦茶な話だ。

アメリカ以外の国々がパレスチナを非難してもアメリカの後ろ建てがある限りにおいて,

イスラエルはいつまでも元気である。

そのアメリカが仲介に入るのだから失敗に終わる可能性が初めから見えいるようだ。

国連がパレスチナの何処か,名前は忘れたがそこへ虐殺事件に調査団を派遣する予定だったのが

取りやめになつた。これもアメリカの圧力があったのかどうか。イスラエルとパレスチナの情勢は今も泥沼状態である。

イスラエルには隠れたアメリカの後ろ盾を感ずる。アメリカ同様に余りにも横暴すぎる。




「あれこれ考えないことです。なるようにしかならないのですから」。


4月21日の天声人語より


 20代で数学者として頭角を現し、30代で精神分裂病を発症、

長く苦しんだあと奇跡的に快復し66歳でノーベル経済学賞を受けたジョン・ナッシュ氏の半生を映画「ビューティフル・マインド」は描いている。

 米国の名門プリンストン大学で孤独に数学に取り組み、ついに現在「ナッシュ均衡」として知られる新しい理論を生み出す。

思い通りの研究職に就くことができ、結婚もする。

そのころから暗号解読の才能を政府に買われ、秘密任務に精を出す。

 この任務が、話の展開のかぎになる。次第に常軌を逸していく行動。

周囲から不可解と見られる振る舞いが、本人にとってはやむにやまれぬものであることを描きだす。

 数学者と精神病と聞くと、G・カントールが思い浮かぶ。

19世紀後半に「無限」の正体を突き止めようと奮闘した天才は、

中年期からシェークスピアは実はF・ベーコンであるという説の証明に没頭し、精神病院で生涯を終えた。

 ナッシュ氏が妄想の世界から戻れたのは、20世紀の精神医療のお陰なのか。

映画の元になった伝記の著者シルヴィア・ナサー氏は、そんな単純な見方はしない。

快復の要因の特定は難しい。入院治療が自殺を防いだ可能性を認めつつ、

その後のほとんどを病院の外で暮らしたのがよかったのかもしれないと見る。

 伝記によると、妻アリシアさんは必要最低限の世話だけして、うるさいことは何も言わなかった。

それが夫に一番良いと見抜いていた。「あれこれ考えないことです。なるようにしかならないのですから」。

その境地には頭が下がる。


「あれこれ考えないことです。なるようにしかならないのですから」とは全てがこれに尽きると考える。

誰がなんと言おうとも,仕方ない事はどうしようもない事である。そのようなことがあまりにも世の中沢山有りすぎる。

多分世の中「なるようにしかならない」ことだらけである。

これがすべて本音で,もがき苦しむ人があるならば,向上心のさらに優れた人達だと考える。







福祉はみずからつくるもの


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 お互いの福祉を向上させていくことは好ましいことであり、基本的には大いに推進されていい。

しかし問題は誰がそれを生み出すかである。

 今日、一つの風潮として、国民は国がいろいろやってくれるだろうと思い、

国は国民の税金を頼り、足りなければ増税したらいいという安易な考えがある。

それぞれが何とかなるだろうと考えているわけである。

しかし、福祉を高めていくのに必要な資金は、みな国民が営々として働き生み出した税金にほかならない。

つまり福祉を行なうのは形の上では国であっても、国民なのである。

そういう認識を深くし、福祉の向上のためにお互い何をすべきかを考えることがきわめて大事だと思う。


医療とか福祉は国民の深い理解が有って初めて成り立つものである。

政府だけに頼るものではない。国民の理解が有ればこそ進むものと考える。

医療 福祉に携わるものはその原点を忘れてはいけない。

政治家は勿論の事,国民も医療従事者も医療 福祉を政争の具に使ってはならない。





人の病を治す専門家の医師と、社会の病をただす専門家の検事への信頼が

揺らぐ社会は住みづらい。




4月24日の天声人語よ 


 約2年間で医療事故の報告が1万5千件と聞くと、さすがにぞっとする。

大学病院など全国82の病院に限っての事故報告だから全国で実際に起きている事故は

もっと大きな数字になるだろう。

毎日のように、どこかで何件かの事故が起きていることになる。

 川崎市の病院での「安楽死」事件が明るみに出たときだけに医療への不安が増す。

この事件では、患者や親族の苦しみを見るに見かねてといった切実さや、悩み抜いた末の決断といった

医師の肉声があまり伝わってこないのが気にかかる。

それがあればいいというのではないが、医師の使命について考えさせられる。

 大阪高検の公安部長が逮捕されたのにも衝撃を受けた。

こちらは、犯罪を摘発する法律の専門家が自ら法を破っていた疑いである。しかも暴力団との「連携」があったという容疑には驚いた。

 「法はクモの巣のようなものだ。何か小さいものは引っかかるが、大きなものだと壊して逃げてしまう」。

検察というと、この西洋の古い言葉を思い浮かべる。網を破ろうとする「巨悪」を捕獲してくれることへの期待が強い。

それが自ら網をくぐり抜けて「ビジネス」に励んでいたというから、使命以前である。

 この事件は、まだ不明な点も多い。

逮捕された前公安部長が内部告発をしようとしていた矢先の逮捕らしい。

内部告発が、捜査を察知しての「牽制(けんせい)」だったとの見方もある。そこはすっきりさせてほしいものだ。

 人の病を治す専門家の医師と、社会の病をただす専門家の検事への信頼が揺らぐ社会は住みづらい。




世の中すべてのことについて信用 信頼が基本である。互いの信頼のない社会は住みずらい。

世の中が良くなるには政治家の信頼がまず基本だが,政治的解決の言葉が有る位に政治というものには

不透明さがつきまとう。

身近なことである医療 司法への信頼だが,その信頼も揺らぎつつあるとのことだが,

医療にたずさわるものとしては大変残念な事である。

医療も福祉も人的な要素の関係する所が非常に強い。機械化 オートメ化できる度合いが少ない分野である。

医療従事者の一人として忙しい時 家庭に悩みがあるとき 自分に対する健康への不安があるときなどは

良い仕事が出来ない。健康を気ずかい、ゆとりある環境がまず良い仕事をする為の第一条件である。

現在聖域なき構造改革で小泉首相の政治方針によつてアメリカに倣った実利主義 経済優先の考えにもとずいた

医療の分野おいても改革を押しすすめつつある。

そのようなことでは良好な医療 福祉は絶対に望めないと信じます。

現在の状態を押し進めるならばもっとひどい医療事故が多発する可能性が充分にでてくることが予想される。

Aの病院の経営者がBの経営者に代わればそれで良いといったものではない。

国公立病院乃至それに準じた病院には赤字であろうとも財政援助は政府主導ですべきでものである。

アメリカのような経済優先・実用主義優先だけでは良好な医療は絶対望めない。

身近な例をとれば判ると思う。安い費用では良い旅館には泊まれないし食事もそれなりの料理しか食べられない。

医療も福祉も同様である。安い費用で良好な医療 福祉を求めようとするのはそれは無理な話である。

粗雑になり事故も起きる要素・環境が今よりももっと増えてくる。このようになろうともいた仕方のない事だと思う。

安上がりの医療 福祉はそれなりのものにしかにならざるを得ないと考えます。

人間の能力以上のことを求めても無理な話である。

旅館で泊まり食事するだけならば安くて粗悪であろうとも身体が健康であるから我慢もできるあろう。

だが医療 福祉はそのようには行かないと自分は考える。

今の医療環境をみてもすべて完全にしようとなれば医師はスーパーマン的な人間にならねば務まらない部分がある。

どこかをを減らさないとやってゆけない。医師が何処に重点化するかによつてその医師の特徴が出てくる。

診療所 病院の特徴もそこにある。

命にかかわるか,少なくとも一番困った状態の時くらいには経済を抜いた完全な手当てを受けたいと

誰もが願うものではないでしょうか。




パソコンは魔物である


四月に書いた記事が此処から以下が忽然と消えている。自分の操作ミスか否かは判らない。

大勢の人達が一日に何千何万と見てもらっているホームへージでないから全く影響はないものと考えるが

自分としては気持が悪い。なぜ途中で消えてしまったのか不思議である。他の人が操作しているとすれば

不気味な話である。常にホームペジの中身を点検している訳でないから他の個所で変な所もあるかも知れない。

でも全ては自分の責任である。

ホームページを開けようが閉じるようが自分の勝手である。

自分の気持としては何らかの方法で言葉か文書でそれも本となると大変な費用がかかるから

ホームページというものは簡単な媒体で発表てきることはありがたい。

よく以前書いたことだが自分は表面に出ずに影に回り悪い事をしている人たちを沢山見かける。

名ずけてこれを透明人間と言っている。自分が表面には出ずに自分の意志とか思いを他の人を利用し

思いのままにする人たちの事である。本人は傷つかずに他を利用して自分の意志を遂げようとする。

傷つくのは利用された人間だけである。影の透明人間はいたって常に元気である。

そんな人たちによって世の中が蹂躙されている事は想像に難くない。

どちらにしても不思議な事が起きている。

いくら変なことが起ころうともドンドン書こう。隠れて影で悪いをする人がいなくなるまで。




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