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6月4日の天声人語より
いまはあまり聞かれなくなったが、かつてよく話題になった言葉に「核アレルギー」がある。
日本人の核アレルギー、つまり核兵器への「過敏症」を言った。当たり前だろう。
人類最初の被爆国である。どれだけ過敏でも過敏すぎるということはない。
「持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核三原則のうち、前2項目は自明ともいえる原則であった。
最後の「持ち込ませず」は、論議と疑惑の対象であり続けた。
日本に寄港する米国艦船は核を搭載しているのではないか。
米国政府の方は「非核」アレルギーだったろう。
日本人はなぜあんなに大騒ぎをするのか。そう思っていたのではないか。
核搭載可能な艦船は当然核を搭載する。
日本に寄港するときだけいちいち外すなどということはありえない。そう考えていたのではないか。
日本政府は一貫して「核持ち込みはないと信じる」と呪文のように唱えてきた。
資料や証言からは、しらを切り続けたと思わざるをえない。もちろん国民の反発を恐れてのことだ。
そうしなければ政権がもたないことを熟知していた。
福田官房長官の発言は「持たず、つくらず」に踏み込んだ発言だったようだ。
歴代政権があれほど気をつかってきた部分に政府首脳が踏み込むとは、
大胆といえば大胆、不用意といえば不用意だ。
印パの核戦争の可能性に世界が危機感を深めているときである。
普通は「非核三原則」を強調する。
それが、非核政策の転換をほのめかすとは日本脅威論をあおっているとしか思えない。
その国際感覚のなさこそ脅威である。
小泉首相は少なくともリベラルな人とは思えない。政府内で非核三原則について議論はあったのかも知れない。
それがポロリと福田官房長官の談話として出たのかもしれない。
今更に核に頼る世界各国の政治家の考えが分からない。核に対して世界で唯一の被爆国日本の発言はこれからも重い。
苦労を希望に変える
松下幸之助の言葉より
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仕事のコツを体得するということは、決して楽なわざではないと思います。
相当精魂を込めてやらなければならないと思うのです。
それはやはり一つの苦労だと考えられます。
しかし苦労であっても、それをやらなければ一人前になれないのだということを、
青少年の間から、常に先輩に聞かされていますと、それは苦痛でなくなってくるのです。
それは希望に変わるのです。
ですから、そのコツを体得することに対して精魂をかたむけるということができてくると思います。
そのように、いろいろむずかしい問題にも、心を励まして取り組んでいくところに、
自己の完成というか、自己の鍛えがあると私は思います。
仕事のコツを体得するに苦労としてでなくて,希望としてやり遂げる自己を作るのは
中々に至難の業である。
常識を破る
松下幸之助の言葉より
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私たちを取り囲んでいる常識というものは、想像をはるかに越す根強さを持っています。
しかし私たちは、その常識を尊ぶとともに、ときには常識から自分を解放することが必要だと思います。
そしてそのためには、やはり強い熱意が要請されます。
熱意のたぎっているところ、人は必ず新しい道を開きます。
常識では考えられないことをやってのけ、運命を切り開き、新しい発明発見をします。
常識を破るのです。
常識は大事であり、破るがために常識をはずれたことをするのは、世の中を乱し、周囲に迷惑を及ぼすだけです。
そうではなくて、熱意の発するところには、次つぎと新しい着想が生まれ、必然的に常識が破られていくのです。
常識的なことをしていたならば新しい発明発見はできない。その熱意が大切である。
危機管理能力のなさを露呈した
6月5日の天声人語より
少し遠くから眺めてみよう。先の戦争で敗戦国となり、新しい憲法をつくった国のことだ。
戦争放棄と戦力不保持をうたう世界でも珍しい憲法だ。
世界最初の被爆国として核兵器を持たない宣言もしている。
ところがその国が戦争に備えた法律制定の準備を始めた。
政府首脳が非核政策転換をほのめかす発言をした。あわせて考えると穏やかでない。
亡命希望者を排除するような閉鎖的な傾向をもつ国で、政権への支持率は80%からその半分に急落したりする。
熱しやすく冷めやすい。
こういう国が近くにいると気がかりなことだろう。
そう思われかねない国に私たちは住んでいるが、さらに気がかりな事態が進行している。
防衛庁のリスト問題だ。情報開示を請求した人たちのリストをつくり、それに個人的な情報を加え、庁内で回覧していた。
戦争に備える有事法制の担当庁でのことである。
あの法案の欠陥の一つは、日本に攻め込むような敵国の想定が現実離れしていることだが、
リスト問題では守るべき国民を敵と想定しているのではないかとの疑いが出てきた。
情報開示を請求する人物はそもそも怪しい。防衛庁への敵対行為だ。そんな意識がにじみ出ている。
職業や経歴を調べて、さらに要注意人物を拾い上げる。そうなったらかつての思想警察に近い。
リスト発覚からの右往左往もお粗末だ。防衛庁側の弁明は二転三転した。危機管理能力のなさを露呈した。
その点、防衛庁も普通の役所と変わりない。
これで「有事」の対応能力も疑わしいことがわかったのがせめてもの収穫か。
日本が戦争に備えた法律制定の準備を始めた。有事法制は外国との戦争のためでなくて国内における災害騒乱などの
有事が起こったときの準備のみにしておくべきである。
今回の自衛隊内部のテンヤワンヤの騒動からしてその準備の必要性が益々に感ずる。
自衛隊の方達も昔の日本の軍隊を模範とされているとは思わない。
日本の国は日本の自衛隊だけで守るべきである。日本は独立国である。
自然に学ぶ
松下幸之助の言葉より
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自然の営みには私心もなければ、とらわれもないと思います。
言ってみれば文字通り素直に物事が運び、素直な形でいっさいが推移していると思うのです。
一輪の草花にしても、私心なく自然に花を咲かせているのです。
そういった花の姿をみて、もちろん何も感じない人もいるでしょう。
しかし、素直な心になりたいという強い願いを持っている人の場合には、
あるいはそこに何らかのヒントを見出すかもしれません。
そういうことを考えてみると、お互いが素直な心を養っていくための一つの実践として、大自然の営み、
自然の姿というものにふれて、その素直さに学んでいくということも大切だと思います。
自然に学ぶは医学の世界でも古くから言われている。自然を素直に見れば学ぶ事は限りはない。
「アラブ人といかに共存するかが最も重要な問題だ」。
6月8日の天声人語より
ダヤンという名前をご記憶の方は多いだろう。左目の黒い眼帯が特徴的で「イスラエルの鷹(たか)」と恐れられた将軍だった。
国防相や外相を歴任し、81年に亡くなった。
先日、その甥(おい)にあたるウジ・ダヤン氏が来日し、記者会見をした。国家安全保障会議議長という要職にある。
叔父のようなカリスマ性は感じられない。とつとつとした口調でイスラエルとパレスチナの現況を語った。
1時間にわたってほぼ同じ趣旨を訴え続けた。
「私たちは話し合いに応じる用意があるし妥協の用意さえある。ただしテロの脅威の下ではだめだ」。
その繰り返しは、いまの状況の困難さを示すばかりだが、救いを感じる場面もあった。
国防軍の中に軍務拒否の集団がいることについて質問されたときだ。
ダヤン氏はそうした集団がいることをあっさり認めた。
その上で「イスラエルが民主主義の国であり、開かれた社会であることの証明である」と語った。
不服従を最も嫌う組織の軍隊にそうした集団がいる。それを幹部が認める。
軍が国民の支持を得ているという自信からだろうが、
「反軍運動」を隠そうとはしないその態度を好ましく思った。
会見の翌日、また自爆テロでイスラエル兵ら18人が死亡した。イスラエル軍は報復を続ける。
事態打開への明るい材料はない。
タカ派で通っていたダヤン将軍は後年ハト派に転じたとされる。
パレスチナ側との話し合いを主張して右派政権内で孤立し、79年に外相を辞任した。
「アラブ人といかに共存するかが最も重要な問題だ」。それが辞任の弁だった。
現在のイスラエル・パレスチナの問題はアメリカの資本主義的な考えが裏側で左右してややこしくしている。
ダヤンのようにイスラエル人とアラブ人といかに共存するかを真剣に最も重要な問題だとの認識に両者が立つならば
ことは簡単に解決すると考える。
富の本質
松下幸之助の言葉より
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時代によって富についての考え方も変わってきます。
これまでは単に蓄積された物が富と考えられてきましたが、
経済の進歩した今日では、その物を生産し得る能力、生産力こそが真の富だとも考えられます。
それでは生産力だけを増やせばいいかというと決してそうではありません。
生産は必ず消費に相応じなければなりません。
いくら生産しても、それが消費されなければ何の値打ちも持ちません。
すなわち、消費力があればこそ、生産力があるのです。
したがって生産力と消費力のバランスをとりつつ増大させていくことが、富の増大であり、
繁栄の道もそこから生まれてくると言えるのではないでしょうか。
富の本質は生産力と消費力のバランスをとりつつ増大させることに有るとすれば分かりやすい。
神秘な世界 「時間」
6月10日の天声人語
時間のことを考えて無為に時間を費やした時期があった。青春といわれる時期だ。
自分が生まれる前に流れた長い長い時間、そして自分が死んだあとに続くであろう無限の時間のことを考えて、沈み込んだ。
「永遠」という時間の単位に恐怖を覚えた。
いまでも恐怖感は残るが、年をとるにつれてはるかに実際的になる。この変化も時間のなせるわざだろう。
「ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟。人の齢(よはひ)。春、夏、秋、冬」。こんな枕草子の一節に心ひかれる年齢になった。
子どものころ、時間は何とゆっくり過ぎていったことか。1日が何と長かったことか。
しかし、年齢とともに時間は速度を増し、やがて時間に追いすがるようにして生きるようになる。
スポーツ選手の時間はどうなのだろう。たとえばボクシングの選手は1ラウンド3分間で闘う。
その凝縮された3分という時間は途方もなく長く感じられるのではないか。
対してラウンド間の1分の休憩はあっというまに過ぎることだろう。そう想像する。
サッカーは15分間の休憩を挟んで90分間ピッチを走り続ける。時間の伸縮が激しいゲームだ。
ゆっくりパスをまわしているかと思うと動きが急に速くなる。選手が駆け上がっていく。シュートの瞬間、時間が凍りつく。
ボールがゴールネットを揺らし、時間は停止する。観客はその奇跡の一瞬を待ち続ける。
勝者にも敗者にも同じ時間が流れるはずだ。しかし、あるときは「時間よ止まれ」と祈り、あるときは「時間よ急げ」と祈る。
そんな祈りが交錯する日々だ。
時間と空間が交わる一点に自分が存在する。無限の時間の今現在 そして無限の空間の此処に人々が生存している。
与えられている時間は各自それぞれ皆に平等に刻んでいる,此処と言う空間の場所は誰にも平等に一箇所しか与えられない。
与えられるものは全ての人々にとつては平等である。今の此処にしか自分は存在しない。
人間の一生は短く二百年 三百年とは生きられない。長くともせいぜい百年である。これは人間である限りの与えられた宿命である。
昔からずーとそうだつたし,将来もそうである。この世は「夢」 「幻」に例えている偉人が多いが,現実はやはりそうなのである。
皆がその事に目覚めて,それぞれに与えられた命の大切さに気ずけば世の中もっと良くなると思うのだが。
失言で本性を見せる。その点では日米大差ないかもしれない。
6月11日の天声人語より
政治家の失言をめぐる話題はいつの時代も事欠かない。日本では、福田官房長官の核政策をめぐる発言が波紋を呼んでいる。
これは、失言というより問題発言といった方がいいかもしれない。
一方、海の向こうのブッシュ米大統領といえば失言頻発タイプのようだ。
先日もブラジル大統領に「あなたの国にも黒人はいますか」と尋ね、
同席のライス補佐官が「米国よりも多いといわれています」とあわてて取りなしたとの報道があった。
黒人女性で国際問題が専門のライス補佐官の困惑はいかほどだったか。
米国にとって南米は近いようで遠いのか、レーガン元大統領にも失敗談がある。
ブラジル訪問のとき「ボリビア国民と大統領に」と乾杯のあいさつをし、急いで「ボリビアは次の訪問国でした」と訂正した。
次の訪問国はコロンビアで、ボリビアに行く予定はなかった。
レーガン氏の「失言癖」は有名だ。ニクソン元大統領も失言が少なくない。
ブッシュ氏も含めて歴代共和党政権の持ち味か。笑ってすませられる失言もあるが、冷や汗が出そうな失言もある。
「ロシアを永久に非合法化する法案に署名した。5分以内に爆撃を始める」。
こんなレーガン発言が放送されたことがあるそうだ。マイクテストが誤って流れた。
冗談好きの彼らしいおふざけだったが、米ソ冷戦さなかのこと、物騒極まりない。
日本の政治家は日ごろ言いたくても言えなかったことを口にしてしまう。そうした失言でしばしば物議をかもしてきた。
失言で本性を見せる。その点では日米大差ないかもしれない。
失言癖の指導者では困り者である。人々は誰もは指導者の言葉には研ぎ澄ました耳を持っている。
ポロリと出す失言に本音を知ることがある。国民はその事に敏感に反応しないくては駄目である。
「総務省と郵政公社という審判とプレーヤーが一体の中で
公正な競争は期待できない」
天声人語6月12日より
ボールはころころと転がってゴールに入った。大歓声がわき上がる、と思ったら、妙に静かだ。
ひとり小泉首相が「ゴール、ゴール」と叫んでいる。そのうちぱらぱらと拍手が始まる。
抵抗勢力といわれた人たちからの拍手である。
郵政関連法案が成立した場合の予想図の一つだ。
「自民党が小泉内閣をつぶすか、小泉内閣が自民党をつぶすかの戦いだ」と久々に元気のいい言葉が
小泉首相の口から飛び出したのは4月末だった。
事前に自民党の承認を経ないで法案を国会提出するときである。
このとき、もう首相の負けだとの見方があった。
首相が目指す郵政事業の民営化と民間の参入が簡単にはできない方向に法案は向いていた。
「骨抜き」と「先送り」である。
民営化に反対する自民党の議員たちは、法案と民営化とを切り離すことで了解していた。
途中、小泉首相が「法案は民営化への一里塚」と述べて、郵政族の反発をかったが、小競り合いの部類だろう。
きのうの国会でヤマト運輸の社長が改めて郵政事業への参入を否定した。
「総務省と郵政公社という審判とプレーヤーが一体の中で公正な競争は期待できない」と述べた。
なかなか巧みなたとえだ。
民間が参入できる分野を決める権限と、その後の運用を総務省にゆだねれば、そういうことになる。
小泉首相がけったボールに、味方と思っていた民間業者はからんでこない。
力なく転がるボールはゴールに近づいているが、敵の守備陣も本気で阻もうとはしない。
これではゴールが決まってもだれが勝者なのかわからない。
郵政事業としては種んな事業が行われいる。郵便物の配達くらいは早急に民間業者に参入してもらっても良いと考える。
宅配便が既に民間により行われている。郵便物も安くて早く着くなばらその方が良い。値段も安くなればさらに良い。
年初めにお年玉附き年賀状を出さなければ普通の人間でないかのような風潮を作り年賀て儲けている郵政省のやり方に対し
もっと自由な年賀のやり取りが有っても良いと考える。
職員による誤配,団子配達による嫌がらせもなくなる。配達業務だけでも早くに是非民間でもやって欲しい。
新旧の住民が、手を携えて地元の行事に汗を流す
6月16日の天声人語より
京都・西陣に住む写真家、小針(こはり)剛さん(43)らは今月、近所の軒先を借りて2日間にわたって「なつかし物市」を開いた。
取り壊される町家や工場(こうば)で使われていた道具など約千点を安く売った。千人ものお客でにぎわった。
なによりうれしかったのは、近隣の人たちがのぞきに来てくれたことだ。
7年前、どうしてもこの町に住みたくて空き家を探していたときは不審者扱いだったのだから。
2カ月、毎日、歩き回って「あそこ、空いてるよ」と耳打ちしてもらえるようになった。
借りた民家は築120年、20畳の土間と高い天井のある織屋建(おりやだ)てだ。
西陣織の出荷額がピーク時の4分の1近くに減り、町家800軒が空き家になっている。
小針さんらは市民グループ「町家倶楽部(まちやくらぶ)」をつくり、インターネットで借り手と家主を結ぶ仲人役を引き受けている。
職・住を一体で満たす古い民家85軒に、陶芸家や建築家ら100人以上が移り住んだ。
ものづくりにかかわる新参組は、機会をみつけては合同で展覧会やイベントをする。
町への来訪者は確実に増えた。小針さんも頼まれてときどき学校の教壇に立つ。
崩れた壁や雨漏りのする屋根を自分で直す喜び、行水のある暮らしを語る。
千年の歴史を背負った誇り高い住民の多くは、新参組の動きをまだまだ横目で見ているようだ。
しかし、所有する町家を手軽な宿として提供する織元も現れた。
新旧の住民が、手を携えて地元の行事に汗を流すこともある。
織りの工場が次々に消える町で、新参組が、人と人をつなぐ接着剤になるかもしれない。
時代が変っても新しい町の人々の違ったつながりが有っても良い。
「悪役」ヒトラーの有名な言葉
「大衆は、小さなうそより大きなうそにだまされやすい」。
ブッシュ大統領の方はどうか。
あの善玉悪玉論も大きなうそではないか。
6月18日の天声人語より
俳優の室田日出男さんが亡くなった。悪役を演じると、すごみのある人だった。
演技の世界では、そういうすごみのある悪役がどんどんいなくなっていくような気がする。
かつてのように、善玉、悪玉がはっきり分かれるドラマが少なくなったせいだろうか。
現実の世界では、「悪役」は入れ代わり立ち代わり現れ、テレビのワイドショーに話題を提供する。
鈴木宗男代議士もその一人だったが、ついに司直の手が入った。
製材会社から500万円をもらって林野庁へ働きかけをしたという疑いだ。
大物も標的になっている。
イラクのフセイン大統領だ。こちらは存在自体が悪とされるらしい。
ブッシュ米大統領は、場合によっては存在の抹消、つまり暗殺も可、の指示を出したと米紙が報道した。
歴代大統領が禁じ手にしてきたとされる暗殺の容認である。
歴史に残る「悪役」ヒトラーの有名な言葉を思い浮かべる。
「大衆は、小さなうそより大きなうそにだまされやすい」。
フセイン大統領は大きなうそをついてイラク国民や世界をだましている、とは米国の言い分だろう。
では、ブッシュ大統領の方はどうか。あの善玉悪玉論も大きなうそではないか。そんな疑いもある。
政治の世界の大きなうそとは、単なる大言壮語ではなく、ときにビジョンであったり世界観であったりする。
だから乗せられやすい。
大きなうそは政治への熱狂を呼ぶことがあり、極めて危険だ。小さなうそは政治への冷笑を招くだけだ。
鈴木代議士をめぐる疑惑は、後者の例だろう。いまの日本政治を映す。
ブッシュ氏のやり方とヒットラーのやり方とには余りにも似ている所がある。
大国アメリカを後ろ盾にしてヒットラーほどに演説は上手ではないが,むしろ下手である。
アメリカ国民だけが ドイツ国民だけが他国よりずば抜け優れている。
他の国々は我々についてこいとするやり方はよく似ている。
チャップリンが映画でヒットラーを揶揄し地球の風船をもてあそんでいる
姿は今のブッシュ氏にも当てはめる事ができる。
大国の指導者は常に謙虚で世界の幸福を常に模索する人であらねばならぬ。
戦争はヒットラーも好きだった。
これが日本のサッカーだ
6月19日の天声人語より
一人一人の肩をたたき、抱擁しながらトルシエ監督は選手をねぎらった。
選手は唇をかみ、うなだれ、涙を流していた。こんなとき「よくやった」と言っても仕方ない。
選手にとっても「負けた」というくやしさだけだろう。
ワールドカップの日本代表は敗退した。
ここまでよく来たという思いと、ここまで来たらもう少し上へ、という思いが交錯する中での対トルコ戦だった。
実際チャンスはあった。
しかしゴールを割ることはできなかった。
スターを集めたフランスが1点も得点することができないまま敗退した。
サッカー熱でいうと出場国中最下位であろう米国がベスト8に勝ち進んだ。いろいろある大会だ。
できればもう少し日本代表の試合を見たかった。
「日本は作法を重んじる国だ。ぼくの息子たちにはリアリズムを忘れることなく、エレガントにプレーするよう命じよう」。
4年間、日本サッカーを育ててきたトルシエ監督は自著『情熱』(NHK出版)にそう記す。
ぼくの息子たちとは、もちろん選手たちのことだ。
「リアリズム」とは一種のずるさで、たとえばファウルぎりぎりのプレーで相手選手を阻む。
「エレガント」、つまり上品で美しく。この両立はなかなか難しい。しかし、トルシエ監督の目標に日本選手は近づいたと思う。
ただ、これが日本サッカーだ、という際立ったスタイル確立までには至っていない。それは4年後の楽しみだろう。
韓国は劇的な逆転勝利を収めた。速くて、ばてなかった。あのイタリアに競り勝った。日本は消えたが、祭典は続く。
この六月のサッカ―のテレビ観戦は面白かった。テレビの視聴率も50%近くまで上がっている。
人間はもともとに闘争心のある動物である。このようナスホ゜ーツで闘争心を昇華させれば良い。
戦争だけは絶対にやるべきでない。戦争をその国の指導者がやると言えば国民はついてゆかねばならない。
まずやると唱えた指導者が戦いの最前線に立たなければ戦争は始められないことにすれば
戦争は止むと思う。身近なことにも応用できる。
常に悪い奴が一番安全な後方から号令をかけている。
弁明
6月20日天声人語より
弁明というのは難しいものだ。
ワールドカップでも日本代表のトルシエ監督の「きょうで私の冒険は終わった。
美しい冒険だった」に比べ、韓国に負けたイタリアのトラパットーニ監督は、審判に文句を言うなど恨みがましかった。
くやしさはわかるが、美しくない。
逮捕直前の鈴木宗男代議士もあちこちで弁明をした。
いくつかの事実は認めつつ「不正をしたという認識はない」と語る。
そうした弁明から、にじみ出る思いを読みとることができる。
以下はその数例である。
〈なぜ私だけなのか〉。同じようなことを他の政治家もしているのに、なぜ私だけがこんな目に遭わねばならないのか。
企業からお金をもらう。役所に口利きをする。政治家の生業(なりわい)ではないか。
〈仕組まれたわなだ〉。マスコミが私を悪人に仕立て上げた。
それに乗じて検察は私を狙い撃ちしている。
声は大きいし、雑なところもあるが、私はそれほど悪人ではない。
よってたかって私を追い落とそうとしている。
〈私ほどよく働く政治家はいない〉。苦労人の私がここまで来ることができたのは人一倍働いたからだ。
利権から遠いと見られていた外交という分野も私の努力で開拓したし、選挙区のためには粉骨砕身の日々だった。
そう読みとった。
過去にはこんな弁明もある。「諸君が求めておられるのは、わたしが泣いたり、わめいたりすることである」。
しかし、情に訴えることはしない、と死を覚悟しての弁明である(『ソクラテスの弁明』)。
史上屈指の弁明と比べるのは酷だが美しい弁明は難しい。
〈なぜ私だけなのか〉。同じようなことを他の政治家もしているのに、なぜ私だけがこんな目に遭わねばならないのか。
企業からお金をもらう。役所に口利きをする。政治家の生業(なりわい)ではないか。
これは鈴木宗男代議士の本心であり,事実だと思う。
事件の発端ともなった田中真紀子氏 それを追及した辻元清美の足をすくわれるが如くに秘書給与の問題が
持ち上がり議員を辞職 党を離党している。
こんな事では悪を追求する人が無くなってしまうか,少なくなるのではないかと思う。
一番悪い奴がいつまでも健在で同じ世の中が依然として続くのではないかとも思う。
需要と供給の関係で官官民の汚職は三者が同じ気持でないと成り立たない。
議員が少なくとも一度悪い事をすれは゛議員に出馬できなくなる法律を作れば口利きによる悪事はなくなる。
本来は公正て有るべき官庁職員が悪事を働ければ退職金なしで職場を離れさせる。
官官に口利きしてもらう場合に国民は書面で頼むことを義務付ける。
そのようにすれば発端となる無理な頼みごとも皆無になると考える。
以上のような法律が成立すればわるいことをする人が少なくなるのではないだろうか。
新聞の人生相談にも強力なライバルが現れる。テレビとインターネットだ
6月25日の天声人語より
毎日800通の手紙に目を通す。お風呂に入りながらのことが多い。そこから選んで返事を書く。
その返事は世界の1200の新聞に掲載される。
50年近くそんな毎日を送ってきた人生相談専門の米コラムニスト、アン・ランダースさんが83歳で亡くなった。
世界で最も影響力の大きいコラムニストといわれたこともあるが、彼女はしばしば「私はいわば隣のおばさん。
良い聴き手なだけ」と語る。「ただ相手の痛みを感じることができる」と。
いや、それだけで50年も続かないだろう。気骨のあるおばさんだった。ベトナム戦争には反対を続けた。
銃規制に賛成で妊娠中絶に賛成、といういわゆるリベラル派だ。
彼女を目の敵にする人たちも少なくなかったが、節を曲げなかった。
半世紀にわたる米社会の鏡である。
その間の変化については相談の内容がだんだん深刻になってきたといい「人々は非情で、下品になってきた。
疑い深く、人を信用しなくなった」と手厳しい。
とはいえ「人類は生き延びるでしょう」と楽観論に落ち着く。この楽観論が彼女の持ち味でもあった。
新聞の人生相談にも強力なライバルが現れる。テレビとインターネットだ。
テレビの人生相談については「テレビに出るということが重要なのではないか。
その興奮を維持するのに無理をしていると思う」。後者については「素晴らしいおもちゃ。
とりわけ孤独な人には」などと90年代のインタビューで語っていた。
彼女は1万人以上の人生にかかわり、助言をしてきた。そして一つしかない彼女の人生を閉じた。
インタ―ネットは新聞やテレビに比べてまだまだ影響力が少ない。これからは誰もがインターネットするようになれば
影響も次第に出てくる。誰もが気楽に発言できるのも前者の二つに無いところの特徴である。
これから各人が思いをインターネットで発言するようになれば少しは世の中ましになるのではなかろうか。
ブッシュ演説で気になったのは悪い癖だと思うが、
米国と世界とを一体視している
世界は米国と一体ではないし、一枚岩でもない。
6月27日の天声人語より
彼女は重いバックパックを背負って歩道を歩いていた。
バックパックには自爆テロのための爆弾が入っている。彼女は迷い始めていた。正しいことをしようとしているのだろうか。
私を待ち受けているのは地獄なのか天国なのか。
「私は空を見上げた。人々を見た」。そして子どものころ信じていたこと「他人の人生を遮る権利は誰も持っていない」を思い出した。
そうして自爆テロを思いとどまった20歳のパレスチナ女性のことを米紙が紹介していた。
自爆テロの志願者は訓練されたテロリストだけではなく、女性や年少者へと幅を広げている。
状況の深刻さを物語っているが、彼らは実行のとき、ためらいはないのか。
いつもそのことが気になっていた。
一瞬のためらいがあっていいはずだ。そしてそのためらいは貴重だ。そう思ってもいた。
ブッシュ米大統領が中東和平へ向けて提案をした。
パレスチナ国家の樹立という目標を掲げながら、その前にパレスチナ自治政府を米国風に「民主化」しなさいと要求している。
目の前にニンジンをぶらさげて、ウサギに変身したら食べさせてやろう、と言っているようにも聞こえる。
また、ブッシュ演説で気になったのは「米国と世界は」という言葉が出てくることだ。
たとえば「米国と世界はパレスチナの努力にこたえるだろう」などと。悪い癖だと思うが、米国と世界とを一体視している。
しかし、世界は米国と一体ではないし、一枚岩でもない。
変身の要求の前に、自爆テロを思いとどまらせるような状況をいかにつくるか、ではないか。
ブッシュさん,自爆テロは許せない戦争だと短絡する前に,若い女性が自爆テロへと思いつめる状況があることも考えてあげてください。
ゴルフを楽しむ
ゴルフには色々な楽しみ方がある。まずゴルフを知っている楽しみである。
例えば野球のゲームのルールを知らない人にとっては野球の面白さが分からないのと同様,
ゴルフに興味のない人にとってみればゴルフを見ていてもあまり面白くない。
だがゴルフをやり出すとゴルフのテレビ番組なんかがあればそれに釘付けにされ時間の経つのもわすれてしまう。
ゴルフの練習にしても通いだすとゴルフの球を打たないと,
なんとなくその日一日中が身体の調子が悪いことがある。
ゴルフの球を打つことがかなりのストレス発散になっているようだ。
コースを回ると広々とした自然の中でのびのびとクラブが振れる。
まずどこに飛ばすかを考える。だがいくら考え打ったとしても,思ったようにはボールは飛んでくれない。
思わぬところに飛んでゆくのが今の技術水準である。
変わった難所にボールが飛んで行くと,そこからの脱出を如何にすれば良いかと,いろいろとその方法を考えるのも又楽しみの一つである。
うまく脱出すると「やった」といった気分になる。
ショートホールで打った球がピンそば来ると,とつても嬉しい気持ちになる。
ホールインワンはまだしたことはないが,何時の日か一度はしてみたいと思っている。
ホールインワンするとゴルフ保険に入っているので四十万円がもらえことに一応はなっているそれも楽しみだ。
ホールインワンはピンが見えない所で起きる確立が高いらしい。
欲をだすと上手なショツトは打てないということであろう。何事も無心でするのが一番良いようだ。
ついつい欲をだし飛ばしてやろうと考え,思い切りドライバーを振ったときは大体にOBするか,
ダブってチョロをすることが多い。それが分かっていても止められない。
それは稀にジャストミートすると思わぬ飛距離が出ることがあるからである。
その快感のために思い切り振る癖がついてしまっている。ドラゴン賞がかかっている所ではその傾向が特に高い。
上手な人になると,所によってクラブを変えられるが,
いつもパー4以上のコースではティショットではドライバーを使っている。
ゴルフを学びだしてくると,いろいろな技術が解説されているが,奥が深くて学ぶだけでも大変である。
まして身につけるとなると,もっと大変である。
その技術を一つ一つ身につけるのも楽しみの一つである。
ゴルフには自然との出会い 人との出会いがあって,ゴルフとの出会いは非常に良かったとおもっている。
人生を豊かにし,出来る限りの健康ゴルフをこころがけていきたい。
勝負は時の運。ただゴルフは最終的にはリンクスと自分との戦いである。