ホーム 医療 高齢者福祉 芸術,哲学 京都伏見・宇治
随想 シュワィツァ−・緒方洪庵 ギャラリ 検索リンク集


随想  平成10年9月 10月 11月 12月 平成11年1月 2月 3月  4月 5月 6月  7月 8月 9月 10月

 
11月 12月  平成12年1月   2月  3月分  4月分  5月分  6月分   7月分  8月分   9月分  10月分 11月分 12月分 

平成13年1月   2月分   3月分 4月分 5月分 6月分 7月分  8月分 9月分 10月分 11月分  12月分 

平成14年1月分  
2月分 3月分  4月分  5月分 6月分 7月分  8月分 9月分 10月分 11月分


 




秋はたけなわ


10月になると秋らしさが一層ましてくる。秋たけなわである。

一ヶ月は長いようで過ぎ去つてしまえば短いものだ。

気候の悪い夏及び冬が長く感じ,春並びに秋は短いように感ずる。最近は国内政治よりも

国際的な出来事の方に関心がもたれる。

北朝鮮に拉致され24年振りに帰ってきた人たちのニュースが一番に大きく報道されていたように

思える。しかし少し省みて自分の行動を観察していると,テレビを見ていても拉致事件にチャンネルを合わせている

自分にきずく。新聞に関しても同じ事だ。自分だけの現象なのかどうか。

アジアオリンピック大会のニュースもBS放送が今月から見られるようになって

一般の放送ではなかつたが,アジアオリンピック中継をばBS放送で見ることができた。

女子のマラソンの一位が北朝鮮 二位 三位が日本。

同じく男子マラソンでは一位が韓国 二位 三位は日本だった。

全体の金メダル数では断然中国が多くて一位, 二位が韓国,三位が日本である。

釜山アジアオリンピックの最優秀選手に閉会式の時,日本選手が選ばれている。

これで初めてまだアジアの中では日本は兄貴分であるとの思いをした。

今世紀中には中国が世界でトップを争うのではないかとの予感がしてくる。

政治経済科学スポーツとあらゆる面においてである。

中国は10億以上の人口を擁しているが依然に共産党だけの一党支配だけでは

大勢の多様な違った人たちの意見をくみ上げる事は出来ない。

共産党一党からの脱却がなければ民主主義が根ずくのはまだ先のような気がする。

北朝鮮にいたっては将軍様による独裁政治では民主化からはかなりかけ離れている。

キム・へギョンさん,拉致された横田めぐみさんの子供さんの会見を読売テレビ独占中継を見ていて感動した。

日本の中学3年生15歳であれだけしっかりと会見できる子供は日本では殆ど見られないのではないかと思う。

きわどい質問に対して涙する場面も見られたがしっかりした少女で,教育の恐ろしさをまざまざ見る。

日朝が国交回復して自由に日本 北朝鮮間の間を往来ができるようになれば拉致事件で問題になっている事柄も

自然解消すると思える。日朝間のまず早い国交回復が先決である。

拉致事件の解決後 そして核問題解決してからの国交回復ではいくら交渉していても前進はない。

一方,アメリカのブッシュ氏のイラク攻撃まで日朝の早い国交回復に対し,日本と北朝鮮が往来することに対して

アメリカから「待った」がかけられている状態かも知れない。

現在の世界の諸悪の根源の多くの部分がアメリカのブッシュ氏に象徴する

アメリカの考え方 行動にあるのではないかと考えたくなる。

世界中でイラク攻撃反対の声がたかまっているにも拘わらず,

着々と英米によるイラク攻撃の準備はすすんでいるようにみえる。

9.11テロ事件にアメリカの国民は呪縛をかけられたかの如くにテロ撲滅の為のイラク攻撃に

賛意する人達が多いようにみる。

戦争によって,それもアメリカが仕掛けた戦争で亡くなっている人たちが

多勢いる事実にアメリカ国民はあまり関心を持つていない。

そのようなことを言う人たちが愛国心がないとのことなのかどうか,

アフガンの現実を知らしている方が警官に検挙されている様子をテレビ報道で見た。

世論の高まりだけがイラク攻撃にストップをかけられるのだが。

新聞報道によると9.11テロ事件がブッシュ氏に追い風になっているとか。

11月5日のアメリカの中間選挙の結果でブッシュ氏の共和党が何処まで票を減らすかかが問題である。

フロリダ州知事選のブッシュ氏の弟が負ければ象徴的にブッシュ氏批判がアメリカで高まっている事の証である。

ブッシュ氏の強行な姿勢が世界のあちらこちらにテロを生みだしている。そして世界を不安定にしているように思える。

それがアメリカ国民にはあまり判っていない。テロ事件の後遺症にアメリカが病んでいる。

現在の世界においてアメリカが世界の指導者である。そのアメリカの大統領にブッシュ氏がなっている。

このまま進めば戦争はイラクのつぎにはサウジアラビアが対象になってゆくかもしれない。

ブッシュ氏に戦争を止めさせることはできないがアメリカの大統領をやめさせることはできる筈である。

アメリカに賢明な大統領が生まれ正しい政治ができる国に早く生まれ変ってほしいものである。

今のまま続くならば,世界のいたるところでテロが起きるであろう。ブッシュ氏の方法では争いがいつまでも世界からなくならず

戦争,テロはまだまだ続く。そして死の商人兵器産業の繁栄も続くことであろう。

アメリカによる21世紀の新しい形の植民地支配が始まろうとしている。





アジアとは何か。釜山アジア競技大会の開会式



10月1日の天声人語より 



 アジアとは何か。釜山アジア競技大会の開会式をテレビで見ながら、しきりにその問いが浮き沈みした。

アジアはひとつ、という言葉もあるが、式ではアジアの多様さも実感させられた。

 そもそもどこからどこまでがアジアか。

普通ユーラシア大陸の東部分と周辺の島々のことをいうのだが、ロシアはアジア大会には参加しない。

パレスチナは参加したが、イスラエルは不参加だ。

どうやら地理的な区分とスポーツ団体上の区分とは別物のようだ。

 もっともイスラエルは74年までアジア大会に参加していたが、その後ヨーロッパに「移籍」した。

影響力を強めたアラブ諸国との確執が背景にあったらしい。

昔から西方に目を向けてきたロシアはヨーロッパ一家意識が強いのだろう。

 アジアという言葉の起源は地中海東部で栄えた古代フェニキア人からとされる。

かの地から東をアス(日の出る地方)と称したのが始まりだ、と。

極東、中東、近東という呼称もあるが、これは欧州から見ての呼称であることはいうまでもない。

 日本は江戸時代、主に欧州の文献を通してアジアのことを知った。

そして日本と中国とを別格に考え、他のアジアの国々を蔑視(べっし)する傾向があった。

明治に入ると「脱亜入欧」に走り、後には「アジア解放」を掲げて戦争をアジア各地に広げた。

「アジアの仲間」として曲折をたどった。

 入場行進する選手団を見ながら、その母国のことを考える。

戦乱、飢饉(ききん)、軍政あるいは建国、成長、安定、さまざまな思いがよぎる。

大会はアジアの多様さに触れる機会でもあろう。




ミニオリンピックであるアジア大会見ていて何故に世界の人たちが仲良くする事ができないのか

不思議に思えてくる。南北朝鮮の人たちの応援する姿を見ていて明日にでも一つの朝鮮になれないのかが

不思議である。北朝鮮からの女性応援集団 「美女集団」の応援が一際目に付いた。異様であるが

だが美女が見られるのも悪くない。美女集団と韓国の人たちのやり取りをみていても南北が一つになりたいとの

気持が伝わってくる。マラソンの中継を見ていて他国の人たちに対しても沿道に並ぶ韓国の人たちが

拍手を惜します゛にしている姿を見る。,世界は一つであり人々は仲良く暮らせるのだが

一度国家の利害が介在すると途端に人たちの間に憎悪が生ずる。不思議なことた。

正しい政治がすべての人たちを幸せに暮らせる基本的な要因であることが判る。





「誠意」が「悪意」を呼び込んでしまった事態には
不気味ささえ感じる




10月2日の天声人語より 



 人を殺す。人を誘拐する。そうした凶悪な犯罪でなくても、ひどく嫌な気分にさせられる事件がしばしば起きる。

最近の例を列挙する。

 (1)何かに便乗する。便乗して自分の利益を図る。牛海綿状脳症(BSE)をめぐる食品業界の偽装工作などがその例だ。

(2)相手の弱みにつけ込む。反撃しにくいような状況下で、相手を傷つけたりする。これは痴漢行為など。

 (1)と(2)とを合わせたのが、拉致事件を契機に起きた在日朝鮮人への嫌がらせだった。

事件に便乗して民族服の少女らに罵声(ばせい)を浴びせたり、危害を加えたりする。ほかにもこんなのは嫌な気分にさせられる。

(3)相手が低姿勢だと増長する。

(4)仲間を巻き込んで集団でことに及ぶ。

 札幌市のスーパー北海道西友で起きたのがこの(1)(2)(3)(4)を全部合わせたような騒動だった。

外国産の食肉を国産と偽装表示をした西友はもちろん責められるべきだが、代金返却に集まった人たちの態度には驚いた。

かなりの人が買ってもいないのに「偽装」申告をしてお金をもらったようだ。正直に申告した人にとっては迷惑至極だろう。

 携帯電話による情報交換が騒ぎを大きくしたこともあるらしい。

西友側では「誠意」を見せようと、レシート不要の代金返却に踏み切ったという。

しかし甘かった。「誠意」が「悪意」を呼び込んでしまった事態には不気味ささえ感じる。

 こんなときには、古典的な言葉を引きたくなる。

たとえば「衣食足りて礼節を知る」。それほど衣食に困っているのか。

いや、むしろ「衣食足りて礼節を失う」の時代なのか。



人間は一人だと比較的常識的な行動をするが,二人以上の集団になると

とんでもない行動を起こす人たちをみる。集団心理ともいうのか訳の判らない事が起きる。

一人で異常な行動に及ぶ場合はその人は異常者である事が多い。

普段こんなことする人ではないのにと思う人が異常な行動にでるのは良くあることだ。

三人寄れば文殊の知恵でなく二人以上集まれば何を仕出かすか判らないのが今の世間の

状況のように思われる。悪には悪の連中がつきやすいものである。それが一番始末が悪い結果を生む。





拉致事件の現地調査の報告書を見た



10月3日の天声人語より 


 「悲しみより怒りです」。そう心境を語る拉致被害者家族の言葉にうなずきつつ、

しかし怒りの声が相手に届かない歯がゆさを感じざるをえない。

驚きから悲しみへ、そして不信といらだち、さらに憤りと怒りへ、

さまざまな感情の極を渡り歩かされた家族の苦しさはいかほどかと思う。

 拉致事件の現地調査の報告書を見た。

確かに不自然な部分がいろいろ目に付く。

いや「部分」というより全体を眺めてみると、といった方が正確かもしれない。

 死因とされる自殺、交通事故死、水死、心臓病、肝硬変、ガス中毒、それらは個々に見れば不自然とはいえない。

常にどこでもありうる死因だ。しかし、その自然さを13人中8人という「死者」の数の多さと並べて考えると不自然さが際立つ。

遺骨がほとんどない、というのも不思議だ。

 今後さらに真相解明を進めなければならない。

しかし障害も少なくない。主権を侵して拉致したのだから、こちらも主権を侵して捜査を進めてもいい、ということにはならないだろう。

いわんや、非道な国だから軍事力で懲らしめようというわけにはいかない。

 あちらのいまの政治体制では多くは期待できない、

としたら、政権が変わるのを待つか、体制が崩壊するのを待つか。

これは政治判断にかかわるが、簡単なことではない。

たとえ変化があったとしても、もっと強圧的な体制ができるかもしれないし、

崩壊による副作用が大きいことも考えられる。

 このまま真相究明を進めるならば、怒りを静かに燃やしつつ、辛抱強く調査を重ねるしかない。





今の北朝鮮の状態は異常である。鎖国状態に置かれている国民の支配者が又将軍様である。

国禁を犯すことは徳川幕府時代においても死を決してのことである。

そのような国にしたのは誰かととなると,長い間日本による植民地支配それからのアメリカ ソ連の冷戦時代の

結果出来た国であることに対し,日本人として暖かい眼で見る必要があるのではないた゛ろうか。

国際情勢は冷戦は終わり一方の主役のソ連のロシア, 中国ともに世界のなかで仲良くやっている。

鎖国状態の北朝鮮だけににきつい要求をつつけるのではなく,世界の仲間に戻す努力をするのが拉致事件糾明の近道である。

それが一番近くの関係国として日本の役割があるのではないのか。 どちらにしても過ぎ去ったことは後戻りできない。

日本は大人になったつもりで北朝鮮と付き合うべきである。国家が介在するとその国のすべての人たちが憎くおもえてくるものだ。

人間とは不思議な存在である。韓国の金大中さんの北朝鮮に対する太陽政策が良い。






次から次へと出てくる原子力発電所の
ひび割れなどの損傷である。





10月4日の天声人語より 



 満身創痍(まんしんそうい)とまではいわないが、傷だらけではないかと思えてくる。

次から次へと出てくる原子力発電所のひび割れなどの損傷である。

国への報告を怠っていたり、隠蔽(いんぺい)工作をしたりしていた。

 「いずれもかすり傷程度だから大丈夫」という過信からだろうか。

東京電力の福島第一の1号機にかぎってみても、8月末に発覚した29件の隠蔽のうち5件がこの1号機だった。

9月末には新たな隠蔽が発覚した。再循環系配管のひび割れ12カ所である。

 冷却水流量を調整するシュラウド(炉心隔壁)などは、ひび割れの報告をしないまま00年に取り換えられた。

100億円もするというから高価な部品である。

 この1号機は71年から運転している東電の最古参である。

疲労が重なっているのではないかと心配になる。

専門用語では「高経年化」というそうだ。

それには「定期検査の高度化」などで対応するとしているが、まさか隠蔽を「高度化」というわけではあるまい。

 なぜ隠蔽したか。

原子力安全・保安院の中間報告では、原発は「複雑かつ精緻(せいち)な巨大システム」で、専門家が独自の領域を築いている。

部外者が入りにくく外からの監査が不十分だったから、と。

保安院の指摘以外に、修理のための運転停止による損失、部品取り換えに巨額の費用がかかることなどがあるだろう。

 79年の米スリーマイル島の原発事故の原因調査をした「ケメニー委員会」は、安全の過信が最も危険であると警告した。

いまもその警告は生き続ける。この際、関係者は改めて読み直してみたらどうだろうか。



原子力発電所の安全運転は基本である。修理代に高額な費用を請求されると困るので亀裂の発生を隠してきたのでは

ないかと思う。こんな所には政府がお金を出し惜しむからいけない。すべて公団,企業に独立採算を強要するような

政府の方針が一番の間違いのもとである。




銅鐸(どうたく)づくり
2千年前の技術に追いついていないということやね」。



10月5日の天声人語より 


 中小企業が軒を連ねる東大阪市で、銅鐸(どうたく)づくりを体験した。

場所は、月に1度、仕事場を銅鏡や銅鐸制作に提供している上田富雄さん(67)の鋳物工場である。

 島根県の加茂岩倉遺跡から出土した、トンボやシカが描かれた50センチ大の銅鐸がお手本だ。

銅80%、スズ15%、鉛5%の割合から数ミリの肉厚まで、本物そっくりに仕上げる。

制作過程を含め学術的な意味もある。

 熟練のいる作業である。体験といっても、大半はその道40年の職人がやってくれる。

こちらは簡単な作業を手伝うだけ。それでも自分の銅鐸となると熱がこもる。

 銅鐸の形の木型を縦に割り、それぞれに砂をかけて、よく固める。

木型を慎重に抜くと文様が浮き出た砂型ができる。それを二つ合わせた中に砂を固めた芯を入れる。

すき間に1200度の灼熱(しゃくねつ)の合金を流し込む。塊を割ると、金色の輝きをみせる銅鐸が現れた。

 上田さんは従業員8人の船舶用バルブメーカーの経営者だ。

6年前、加茂岩倉遺跡で大量の銅鐸が発見されたニュースに、河内(かわち)鋳物師(いもじ)の血が騒いだ。

実物公開に出向いてショックを受けた。肉厚がたった2ミリしかなかった。

以来、古代の技術者に対する挑戦が続いている。「どの部分も2ミリというのは、まだできない。

2千年前の技術に追いついていないということやね」。

 大学の先生、考古学ファン、近所の奥さんたち。

上田工房には体験希望者が絶えない。

本業は? 

「もう、12年連続の赤字。タイガースよりひどいわ。でも、ものづくりを通じて昔の人の魂に触れる。

やめられませんなあ」



二千年前の技術で作られた銅鐸が,進んだ今の科学の世界でも至難であることは人間の技術は一代限りである

証でもある。昔にも切磋琢磨した人たちがいたという事である。又いまもそのような人達がいるということて゜ある。






ジョージ・ケナン氏
ブッシュ米大統領のイラク攻撃の姿勢を強く批判



10月6日の天声人語より



 舌鋒(ぜっぽう)の鋭さは相変わらずだ。

ジョージ・ケナン氏である。

98歳の彼が米連邦議会専門の週刊紙「ヒル」のインタビューに答えて、ブッシュ米大統領を厳しく批判した。

関節炎のため車いすに乗っているが、元気で鋭敏さは衰えていないと同紙は伝えている。

 ケナン氏といえば、外交官として戦後の米外交の基本をつくった人とされる。

ソ連の膨張主義に対して「封じ込め」で対応する冷戦外交である。

戦後すぐその言葉と考え方を提唱した彼は、後に「封じ込め」という言葉が独り歩きしてしまったと回想している。

意図しなかった軍事介入まで含まれてしまった、と。

 「赤狩り」といわれた反共運動「マッカーシズム」が米国で吹き荒れたとき、

彼は「文化のカーテンを下ろし、米国を文化的孤立に追い込むものだ」と批判した。

ベトナム戦争時にも米政府批判にまわった。

 こんどのインタビューでは、ブッシュ米大統領のイラク攻撃の姿勢を強く批判し、及び腰の野党民主党を叱責(しっせき)している。

米国が唯一の超大国だとしても世界中の苦難や危険に立ち向かうことはできない」と説く。

 戦争に勝利することの難しさについて彼はかつてこう書いた。

一国民全体の態度や伝統ないしはある体制の性格を変更するようなものである場合には、

それこそ勝利は恐らく軍事的手段をもってはまったく達成し得ず、

また短期間には到底実現し得ないものなのである
」(『アメリカ外交50年』岩波書店)。ブッシュ米大統領に読ませたい心境だろう。

 時流に流されない老リベラリスト健在である。





ブッシュ氏は着々とイラク攻撃の準備をしている。そのようなニュースが流れてきても国連始め何処の国からも異論が出ない。

余りにもアメリカの戦力が世界の中で突出している。世界中の国々にアメリカ軍が駐留している。していないところはアメリカから

「ならずもの国家」と言われている国ぐらいか。そんなアメリカが我が物顔に正義, テロとの戦いを旗印にしたいこと放題のことをしている

ように見受ける。何処の国からも文句は出てこない。ブッシュ氏に大統領になってから余りにもそれが顕著である。

ジョージ・ケナン氏のような人たちがアメリカの中からドンドンと多勢出てきて欲しいものである。

何処の国も文句をつけ,いうだけの器量のある首相はいない。それとも言えないのか。





鎖国状態の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の異様さ



10月8日の天声人語より 



 幕末から明治初期にかけて欧米を訪れた日本人たちは、さまざまな驚きをもってあちらの社会を見てまわった。

機械文明の発達に目を見張る一方、人前で男女が抱き合う光景などを見てあまりの「礼儀知らず」に驚いたようだ。

長い鎖国の中で独特の礼儀を築いてきた日本人から見てのことである。

 鎖国状態の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の異様さを思い、そんな過去の光景が浮かぶ。

幕末までさかのぼることはないかもしれない。

半世紀ちょっと前まで多くの日本人は天皇を神と考え「神州不滅」を信じてきた。そんな近い過去もある。

 拉致事件で被害者がさせられたという「現実体験」「現実研究」が気になる。

たとえば抗日戦の歴史をたどり、故金日成主席や金正日総書記の「偉大さ」を教え込むのだろうか。

それほど外の世界とは違う「現実」を築いているのだろう。

 拉致された人々は暴力的に連れ去られ、それまでとはまったく違う環境に置かれた。

解放される見通しがないとすれば、生き延びるために何とか適応しなければならない。

あるいは適応すれば、帰国を許すといった甘い言葉をかけられたのかもしれない。

 深い心の傷を抑え込んだまま適応を余儀なくされる。

長い年月の間には、かすかな希望を抱きつつ、あきらめの感情も忍び寄るかもしれない。

やがて「現実」は変容し、私たちの「現実」とずれてしまうこともありうる。

 拉致被害者の深い心の傷と戸惑いに配慮する必要がある。

私たちの「現実」との距離をどうやって埋めていくかも考えなければならない。




拉致されて北朝鮮で生活した人たちにこれから北朝鮮と日本が国交回復した暁には

日本と北朝鮮とのの橋渡しの役割を担って頂きたいものである。

北朝鮮の事情も判り,そして日本のことも判る人達だから,現在日本人が抱いている北朝鮮への不安を

払拭する役割を担って欲しいものである。拉致とか核開発を続けては世界の仲間入りできない事は

北朝鮮も百も承知しているはずである。ある程度体制は変らざるを得ない。

鎖国状態をとかれれば北朝鮮の人たちも馬鹿ではない。キム・へギョンさんの会見を見ていても

新しい世代の人たちはしっかりとしている。多分新しいことにも順応が早く,

きっと立派な統一朝鮮を築き上げると信じたい。




ノーベル物理学賞の小柴昌俊さんに続いて
化学賞でも田中耕一さんの受賞が決まった




10月10日の天声人語より 



 ノーベル物理学賞の小柴昌俊さんに続いて化学賞でも田中耕一さんの受賞が決まった。

感慨深いダブル受賞だ。

 小柴さんが今春の東大卒業式の祝辞でこんな話を披露した。

自分の結婚式でのことだ。東大嫌いで知られる物理学者の故武谷三男氏がこうあいさつをしたそうだ。

「今日の婿さんは東大を出たけれどビリで出たからまだいくらかの見込みはある」。

小柴さんは自分の卒業時の成績表を公表して武谷氏の話を裏付けた。

 小柴さんがノーベル賞に至るには、大胆な発想、行動力、機敏な判断と決断力などいろいろあるが、

その裏には民間企業の協力もあった。

地下1千メートルに巨大な水槽をつくって素粒子の観測をする。

企業と交渉し、先端技術を凝縮した観測装置「カミオカンデ」をつくりあげた。

日本の最先端技術の協力があった。

 化学賞の田中さんは、その最先端技術を追求する企業のエンジニアである。

大学院に進まないで、島津製作所に就職した。民間企業の社員の受賞は、日本人では2人目だ。

科学研究は大学だけのものではないことを改めて教える。

 9日夜、記者会見に現れた田中さんは「受賞の連絡を受けたときには何のことかわからなかった」と語った。

そして「寝耳に水で、いまでも信じられない」。

突然だったことを示す作業服姿を「申し訳ない」とわびていたが、むしろ新鮮に映った。

新しい時代を感じた。

 2人の受賞は後に続く者たちに励ましを与えてくれるだろう。

どんな境遇でも実績を出せる、と。

大学の成績が少々悪くてもかまわないことも含めて。




ノーベル賞の物理学賞 化学賞のダブル受賞は日本の国にとって非常に嬉しい事である。

小柴さんは何回ものノーベル候補にのぼりやっとの受賞であるが,田中さんは思いもかけない突然の受賞であつた。

小柴さんが76歳 一方田中さんが43歳で年齢も対照的である。

田中さんは一企業人からの受賞で,それも島津製作所である

京都人にとっては身近で古くからある京都の企業の老舗である。

その為かどうか非常に身近で親密な気持がわいてくる。

田中さんの素朴な人柄をテレビをとうして見ているとホノボノとしたものを感じ,心にポーと暖かい明かりをつけてくれる存在のように思えてくる。

アチコチらで引っ張りだこになり,外国記者達との会見で「そっとしておいてほしい」の言葉はどのようにいったらよいかと通訳に質問している

言葉が印象的であった。 Leave me alone 




経済心理学
心の動きが市場での経済行動にも現れるという。




10月11日の天声人語より  


「世間に欲しきは金銀なり」とは井原西鶴の言葉だが、お金が欲しくないという人はまずいないだろう。

もちろん損するよりは得をしたい。経済学という学問はそうした人間を前提にしている。

難しくいえば、合理的な判断をすることを前提にしている。

 人間はもっと複雑なのではないかと思うが、それでは理論が成立しなくなる。

そうした従来の経済理論とはちょっと違う考え方が出てきた。

よく見てみると人間はいつも合理的な判断ばかりしているわけではない。

それを経済学にも取り込むべきではないか、と。

 今年のノーベル経済学賞には、そんな分野を切り開いた研究者が選ばれた。

米プリンストン大学のダニエル・カーネマン教授である。

その経済心理学には門外漢にもなるほどと思わせるところが少なくない。

 たとえば、損得「勘定」に「感情」の要素を取り入れる。同じ10万円でも、得する場合と損する場合とでは感じ方が違う。

損する場合の方が多額に感じる。カーネマン教授の算定では、損するときの方がざっと2倍の多さに感じるそうだ。

 判断するための情報の受けとめ方も必ずしも合理的ではない。

硬貨を投げて表裏を当てる。しばらく表が多かったとする。そんなとき多くの人は、次は裏だと思う。

そのように直前情報に左右されやすい。こうした心の動きが市場での経済行動にも現れるという。

 実際の気温の変化より体が感じる気温の変化の方が大きく思えるように、

経済でも変化を過大に感じやすいともいう。いまの深まる不況感もそうだといいのだが。




経済動向は生き物である。一つの目標を掲げても次ぎ次ぎと世界は変る。

一筋縄で処理が出来ない事が人の心理を取り入れた経済学があるようだ。

ただ竹中さん一人に頼る小泉首相のやり方に不安が残る。そこへアメリカから竹中支援の横槍が入る。

政治家の行動,マスコミの行動を取り入れた経済学があつてもよいのではないか。

今の日本の経済はアメリカの都合の良いようにふり廻されているのではないかといぶかる。

景気は一向に良くなる気配はない。100円ショップが盛況で一応リッチな気分にしてくれる。

今だかって世界全部がが同時に景気がよくなることはなかったのではなかったか。





今年のノーベル平和賞に決まったカーター氏の授賞



 10月12日の天声人語より 



 去年の2月、ニューヨークの書店でカーター元米大統領の著書をたまたま見かけた。

ベストセラーの上位にランクされていた。邦題は「夜明け前」とでもなるのだろうか。

副題には「田舎の少年の思い出」とあった。

 大恐慌とそれに続く時代に、米国南部で育った子どものころのことが細かに描かれていた。

当時の南部では黒人への差別が公然と行われていた。

その中でカーター氏の母親がほかの白人と違って、分け隔てなく黒人と接していたことがつぶさに語られる。

カーター氏の一番の親友も黒人少年だった。

今年のノーベル平和賞に決まったカーター氏の授賞理由には、優れた人権感覚が挙げられている。

これも母親から受け継いだ資質だったのかもしれない。

 大統領時代のカーター氏は対立陣営からしばしば弱腰だと批判された。

しかし大統領を退いて以降、北朝鮮や中東、キューバなどで国際紛争調停のために粘り強く活動していた。

 カーター氏は先月、米紙にブッシュ政権を批判する投書を寄せた。

「人権擁護で世界から尊敬されていた米国が、いまや人権で攻撃される対象になってしまった」。

リベラル派の真骨頂だった。


 今年の平和賞では事前にブッシュ米大統領が下馬評に挙がっているという報があった。

しかし選考委員会の地元では「ノーベル賞委員会はそこまで頭がおかしくはない」との声があがった。

イラク攻撃が現実味を帯びる中、なんでそんな人に平和賞をという意味だったのだろう。

 カーター氏への授賞は、ノーベル賞委員会の価値観を強く示したものだった






元大統領カーターさんは以前から好きなアメリカの政治家の一人である。このような方がアメリカの大統領になれば

きっと少なくとも今より住み良い世界が訪れていると思う。戦争嫌いで平和を愛するアメリカの大統領が是非とも

出て来て欲しいものである。どの世の中を見てもウサンクサイ感じの人たちがどの世界でも幅をきかし

のさばっている。ケシカランことだと感じても裏の手とか汚い手を使いながら勢力を伸ばし私欲を肥やしているようだ。

そのようにして諦めるのは簡単だが,やはりカーターさんのような人がアメリカの大統領になり世界を平和に

導いて欲しいものである。アメリカでの政治家を選ぶ権利は世界の人たちにはない。アメリカ人だけに有る。

そのアメリカがテロ後遺症に病んで,とんでもないブッシュ氏支持表明している人たちが多いようだ。

世界はアメリカの動向に振り回されている。




株式市場には、先人から伝えられた数多くの格言が残る


10月13日の天声人語より 


 株式市場には、先人から伝えられた数多くの格言が残る。

江戸時代の米相場までさかのぼれるものも少なくないそうだ。

 まず目に付くのが、欲にかられての深追いへの戒めだ。

「売り買いは腹八分」や「頭としっぽはくれてやれ」に説明はいるまい。「見切り千両」ともいう。

「もうはまだなり、まだはもうなり」は応用がきく。もう下がるまいと思っても、まだ落ちる余地はあるもの。

そして、逆もまた同じというのだ。

 市場の大勢につけばいいのか、自らの判断を貫くのか。ここは難しい。

「人の行く裏に道あり花の山」は、投資家が最初に耳にする言葉だろう。

付和雷同を慎んでこそ、見事な桜にも出会える。「幽霊と相場は寂しい方に出る」ものらしい。

でも、「当たり屋に付け」という身も蓋(ふた)もない言葉もある。

要は、「相場は相場に聞け」の謙虚さで見定めるしかないようだ。

 さて、現実の株価は落ち続けている。底値の目安もあった。

「半値、八掛け、二割引き」。計算すると元の値段から32%の水準となる。

ここまで行けば大底というのが経験則のようだ。

 この物差しなら、4万円目前までいった日経平均株価は、1万2000円見当で止まったはずだが、

実際はこれをはるかに割り込む。

バブルの急膨張とその後の不況の深刻さは、過去の相場師の予想を超えているのだろう。

 こうした時こそ専門家の卓見に耳を傾けたくもなる。

しかし、近年の格言に「エコノミストは理路整然と曲がる」というのがあった。

曲がるとは、読み違えのこと。やけに説得力がある。




株には関心がないが,いろんな格言があって面白い。株が下がることはその会社の評価が少ないことで日本の

株も下がるばかりようである。





拉致被害者の家族は一様にその複雑な思い


 10月16日の天声人語より



 「期待と不安と」。再会を待ち受ける拉致被害者の家族は一様にその複雑な思いを語っていた。

それはそうだろう。24年間もの空白である。

しかし北朝鮮からチャーター機が飛来し、再会が実現した瞬間「複雑な思い」は吹き飛んだ。

肩を抱き合い涙を流した。単純に喜びを表現した。

 24年間でさまざまな隔たりができたかもしれない。しかし変わらないものが少なくとも一つあった。

互いに肉親のことを忘れず思い続けたことだ。空港での再会の場面はそのことを教えてくれた。

 シェークスピアの「ハムレット」に出てくるこんなせりふを思い浮かべる。

「愛が時にうち勝つか、時が愛にうち勝つか」。再会の瞬間はまさに「愛が時にうち勝った」としかいいようがない。

長い空白の時間を飛び越えて、肉親の愛がほとばしる光景だった。

 夜の記者会見では、帰国した人たちは皆多くを語らなかった。

一方で再会後の振る舞いはいろいろだったことが家族の話からうかがえる。

 浜本富貴恵さんはたいへん陽気で「恥ずかしいほどよく笑っていた」と兄の雄幸さん。

富貴恵さんの夫の地村保志さんもホテルに向かうバスで車窓のカーテンを全部開いて外に手を振ったりしたそうだ。

他方、バスの中でほとんど会話がなかったという蓮池薫さんは自分の姿が映るテレビを凝視していたという。

 「あの瞬間は忘れることができないと思う」と男同士で抱き合った再会の瞬間の感激を蓮池さんの父秀量さんが語った。

戸惑いはあるにせよ、その言葉がきのうから始まった新しい展開の原点ではないか



24年間でさまざまな隔たりができたかもしれない。しかし変わらないものが少なくとも一つあった。

互いに肉親のことを忘れず思い続けたことだ。空港での再会の場面はそのことを教えてくれた

再会の瞬間はまさに「愛が時にうち勝った」としかいいようがない。肉親の愛を見せつけられる場面を

テレビは報道しつづけてくれた。

極端なことを言えば当事者たちの内輪だけの話のことだが,テレビを見ていると肉親の愛はこちらに伝わってくる。

拉致事件の人たちの報道にチャンネルを廻している自分にきずく。

早く日朝正常交渉し国交を回復して欲しいものである。





テロ組織との戦いは、常に国連に登録しながら進めるのがいい。



10月17日の天声人語より 


 インドネシアのバリ島には、争い事を処理する巧みな仕組みがあるそうだ。

何か争い事が起きると当事者が役場に出かけて争いの登録をする。

登録後は争いをむしかえした方が相手に代償を払うか、神に供え物をすると誓う。

争いが終われば登録を抹消する(中村雄二郎『魔女ランダ考』岩波現代文庫)。

 多くの人を引きつけてやまないバリ島は独特の文化を育ててきた島だ。

先の争いの処理もそうだが、独特の文化のなかには暴力を封じ込める仕組みも含まれる。

何よりもお祭りを大事にする平和な島だった。

 その島の一角が血に染まった。

12日の爆破テロで、いまのところ200人近くが犠牲になったとされる。

多くが外国からの観光客である。島の魅力が観光客を招き、結果的にテロリストまで引き寄せてしまった。

 何とも無残なこのテロは、ブッシュ政権の対イラク攻撃方針が的はずれであるとあざけっているようにも見える。

米国主導の「対テロ戦争」の見直しを迫る。

イラクを攻撃してフセイン政権をつぶせば、テロはなくなるのか、と。

 テロ集団は国際的なネットワークを張り巡らせている。

イラクとつながりがあるとしてもそれがすべてではないだろう。

バリ島での事件は、防備の薄いところをねらって世界のどこもが標的になりうることを改めて示した。とすると、

国際協調を強めてテロのネットワークを封じ込めていくしかない。

 争い事を役場に登録するバリ島にならえば、国際社会の役場は国連だろう。

テロ組織との戦いは、常に国連に登録しながら進めるのがいい。



一人勝手のアメリカのブッシュ氏のやり方をみていると.テロ組織との戦いは、常に国連に登録しながら進めてほしい。

国連が中心になって世界の平和へ貢献してほしいものだ。今の世界では世界の警察官は自分だと思い込み

勝手にアメリカが行動している。

第一に国連本部がアメリカに存在する限りにおいて正常な国連活動を期待するのは無理な話である。

永世中立のスイスに置くか,日本が永世中立を宣言し国連を日本に持つてきても良いのではないか。






患者側としては「医療者よ、しっかりして」と叫びたくなる。



10月18日の天声人語より 



 手術件数が一定数に満たないと、保険から病院に支払われる手術代が安くなる。

こういう制度が4月から始まっている。

手術の腕は、数をこなさなければあがらない。

件数の少ない病院は、技術が十分磨かれていないと考えられるから支払いを減らす、という理屈だ。

 例えば心臓のバイパス手術は年間100件が基準とされた。

これを満たさない病院は6割にのぼる。病院関係者からは改革への反対論がこぞって出された。

理由の一つは「件数を満たそうと不要な手術が行われるようになる」というものだった。

患者のためにならないと心配する声は、今も聞かれる。

 おそろしいことだ。

制度改革が、ではない。お金のために不要な手術もありうると当たり前のように考える日本の医師たちが、である。

 バイパス手術を年に200例以上執刀する南淵(なぶち)明宏さんは今回の改革を支持する一人だ。

脳や心臓などの難しい手術については、安全性を高めるため各県に1カ所程度に集中させるのが望ましいと考える。

それが世界の常識だとも話す。

 「医療不信とは患者が病院を信用しないことだけれど、より深刻なのは医療者どうしの相互不信ではないか」と南淵さん。

専門医がほかの専門医を信用していない。それだけではない。

あちこちの病院を訪れてみて、看護師や臨床工学技士らと医師の間に信頼感が欠けていると実感することが少なくないという。

 不要な手術への懸念が出るのも医師が医師を信頼していないからにほかならない。

患者側としては「医療者よ、しっかりして」と叫びたくなる。




今までの医療制度は経済的な面からの指導が優先している。医者はそれに対し法律だから従わざるを得ない。

誰がそれを作っているのか判らないが多分厚生省の下級役人達だと思う。

それに違反すると保険からの支払いが受けられない。医学的に正しいこをしたとしたとしても保険制度で定められた

事に対し反するならば保険料は支払われない。今の医療制度が全てそのようになっている。

オカシナことが正々堂々と医療界にまかり通っている。

技術が確かでも患者の来院数が少なければ支払う料金が少ないというのはもってのほかである。おかしい。

多勢来院する所ならば医者になりたての新米か゛手術しても料金が高いのでは納得いかない。

今までの保険制度をいじるだけで医者を指導しようとする医療制度の中身が間違っている。

健全な医療経営をするには医学の勉強するより保険制度を勉強した方が良いとの風潮が出てくる。

これではいけない。真面目に医学を勉強し,真面目に診療している人たちが安心して診療が出来る環境をば

作って欲しいものである。

いきよい確かな技術をもつた人の診療報酬がすくないとなれば、悪いとおもうことにでも順応しなければ

医療経営がなり立たないとなれば,その制度に従わざるを得ないのが今の現状ではないでだろうか。

今の大学での教育には医者には看護とか臨床に携わる人たちの科目を教えていない。

チーム医療が叫ばれる現在,やはり医者もコメディカルのことは一通りの勉強が必要ではないか。

まして保険医療制度の勉強は学校では皆目教えていない。現在の医療現場は保健医療制度に診療が縛られている。

おかしな話である。真面目に医学を勉強し,真面目に診療している人たちが安心し診療が出来,且経営が安定した環境に

なって欲しいものである。医療,介護には経済優先・効率化はなじまない。

医療は患者と医者との信頼関係がなければ成り立たない,治る病気も治らない。





つまり「愛国」の言葉が飛び交い始めるときが危ない



10月19日の天声人語より 



 愛国心という言葉が教育をめぐって語られるとき思い浮かべるのは、1世紀少し前の内村鑑三の言葉だ。

「義務として愛国を呼称するの国民は愛国心を失いつつある国民なり」(『基督信徒のなぐさめ』)。

 教育基本法改正をめぐって中央教育審議会が「愛国心」や「愛郷心」を盛り込んだ素案を示した。

法律に盛り込むことは内村のいう「義務として」の愛国ということだろう。

内村も愛国心を否定しはしない。ただ、それは自然に発達するもので、わざわざ「養成」するものではない、と。

 拉致被害者が帰郷した場面をテレビなどで見ていて、その素直な感情表現に心打たれた。

抑えていた望郷の念が一気にあふれ出たようだ。

愛郷心というのか、この感情はごく自然のものだろう。法律で説かれるまでもなく。

 北朝鮮では、被害者らは皆あちら流の「愛国教育」を受けたのではないか。

そして故郷を思う気持ちをいったん心の奥深く閉じ込める必要があったかもしれない。

しかし、とうてい消し去ることはできなかった。

 イラクでは、フセイン大統領が信任投票で100%の支持を得たという。

表向きは驚くべき「愛国」の表現だが、数字をそのまま受け取るわけにはいかないだろう。

この時期、反米感情などが愛国心を盛り上げたことがあったにせよ、反対派が存在しない100%という数字は異常だ。

 もう一度内村の言葉を引けば「愛国の空言喧(かまびす)しくして愛国の実跡(じっせき)を絶つに至る」。

つまり「愛国」の言葉が飛び交い始めるときが危ない。どこの国にもいえることだろう。




第二次大戦の時に少年時代を過ごしたものとして愛国心を強制された。愛国心は自然にかもし出てくるもので

強制的にされるものではない。愛国とは何かとなると複雑である。

今のアメリカがおかしい。アフガン戦争に反対する人たちには愛国心がないという。だが戦争は悪である。

正義の戦争はありえない。戦争は戦争を呼び,テロを誘発する。又テロに対して戦争が起きるとの悪循環が起きている。

悪循環を断ち切る必要がある。アメリカで戦争に反対を叫んでいる人こそアメリカでの真の愛国者だと思う。

愛国は真の愛国でなければならない。戦争反対する人は愛国心がないとするブッシュ氏はおかしい。

丁度アフガン戦争時に世界の国々にたいし味方しないものは敵だとの発想と同じである。ブッシュ流発想である。

ブッシュ氏のごとくに9.11テロ事件を愛国心へのすり替えは全く良くない政治家の典型である。






首都ワシントン周辺での連続無差別狙撃事件



10月20日の天声人語より 



 道路を横切ろうとしていた72歳の男性。ベンチに座っていた34歳の女性。芝刈りをしていた39歳の男性。

給油していた54歳のタクシー運転手。こうした人たちが次々と犠牲になった。

米国の首都ワシントン周辺での連続無差別狙撃事件である。

 10月に入ってから9人が死亡、中学生を含む2人が重傷を負った。ライフル銃のような強力な銃で遠方から狙い撃ったらしい。

そうした訓練を受けたプロの呼称をとって犯人はスナイパー(狙撃手)と呼ばれている。

 この事件が不気味なのは、狙われた人がまったくばらばらで、つながりが見当たらないことだ。

連続殺人では、しばしば女性ばかり狙うとか子どもばかりとか白人(黒人)ばかりとか偏りがあって犯人像を推測できるときがある。

今回はそれができない。

 どこか遠くからライフルの銃口に狙われている。だれもが標的になりうる。そう考えると、具体的な恐怖として迫る。

ワシントン周辺の住民はそんな恐怖のなかで暮らしている。

 従来の連続殺人の要素と、恐怖や混乱を引き起こすことを目的にした

テロの要素と両方をはらんだ新しいタイプの事件だという分析もある。

イラクを標的に外敵攻撃に向かおうとするブッシュ米大統領は「気分が良くない。

自分の国にこんな冷血の殺人者がいると思うだけでむかつく」と語った。

 「外患」に新たな「内憂」が加わった。そういえば昨秋以来の炭疽(たんそ)菌事件もまだ解決していない。

白い粉の恐怖に続いてこんどは見えないスナイパーの影におびえる。「内憂」の解決を迫られている。



自分のアメリカ国内のことがうまく政治ができない大統領にどうして世界の政治がうまく出来るのか。

戦争による恫喝によって世界を君臨させているのではないかと思える。

やはりつかまった犯人はイスラム教に変った黒人で退役兵士のようである。狙撃の上手な兵士だたのも

納得できる。銃の所持が自由な国での出来事である。何かきな臭いイスラム圏の反感が

犯人を狙撃に向かわせた事は充分に考えられる。

広い国土で警察署の派出所がいたるところにある日本と違い銃を所持して自己防衛する考えは理解できる。

自己防衛の銃が一歩間違えると他を殺す凶器にも変る。恐ろしい事である。なんとか予防する方法は。

少なくとも銃器類は国に対しての登録制にしてはどうかと思う。

同じように各国で作られた兵器類は全て国連に登録しその動きを監視するようにすればよい。





善意から出たのだから何でも許される
「悪人における始末のよさは、彼らのゲームにルールがあること



10月21日の天声人語より 



 悪人と善人とでどちらがつきあいやすいか。善人に決まっている。

多くの人がそう答えるかもしれない。

その常識をひっくり返して「悪人礼賛」を説いたのが評論家の故中野好夫さんだった。

 「由来ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情との二つにつきる」と書き始めるこの随筆は、

善意と純情から出たとする行為にいかに迷惑を被ったかを書き連ねる。

善意から出たのだから何でも許される、責任をとらなくてもいい、といった思い込みがあって始末が悪い、と。

 「悪人における始末のよさは、彼らのゲームにルールがあること、

したがって、ルールにしたがって警戒をさえしていれば、彼らはむしろきわめて付合いやすい」。

善意からの行為が最悪なのはどこから何が飛び出すかわからない「無文法(ノーグラマー)」にあって、警戒の手がきかない、と。

 国家とのつきあいは悪人とのつきあいに似ている。

だまし合いをしながらも一定のルールがある。

ところが、このところ様子が変だ。拉致事件を起こした国のことだが、核兵器開発を進めていると表明したそうだ。

拉致事件では疑惑を多々残しながらも一応は国家犯罪を白状し、謝罪した。核開発では開き直りの様相である。

 「がけっぷち外交」と称する韓国の新聞があった。

追いつめられてがけっぷちで爆弾をちらつかせる。そうすれば、まわりはなだめにかかるだろう。

そう考えたのか。このゲームは危険すぎる。

 中野さんは、「聡明な悪人」に敬意を表している。ルールをよくわきまえた悪人である。

核をめぐってはその「聡明さ」が必須だ。




身近なことで言うならば,善意でしたとしても された本人は迷惑なことがある。おせっかいな人達によくみかける。

本当に善意でしているのか疑いたくなることもある。善意からしたからとて,すべてが許されるものでもあるまい。

心の奥は読めない。善意を装い悪意をしでかす人もいるだろう。

北朝鮮の問題は暖かく世界が国際社会に迎え入れて,いずれ南北統一朝鮮ができる時期があると思う。

まず国際社会の仲間に暖かく北朝鮮を迎える事が第一である。

独裁政治が今の行動をしむけているだけの話である。





ふるさとの訛(なまり)なつかし



10月23日の天声人語より 

 〈ふるさとの訛(なまり)なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく〉と詠んだのは石川啄木だが、

やはり東北出身の寺山修司には、啄木の短歌を意識した作であろう、こんな短歌がある。

〈ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし〉。

 ふるさとの風景をさまざま短歌に詠んだ寺山は、終生なまりを残したままだった。

それが彼の語りに独特の味わいをもたらしてもいた。同郷の人には親しみと懐かしさを感じさせるなまりでもあったろう。

 作家の野坂昭如さんが『文壇』(文芸春秋)と題した本で、方言の「強さ」にふれている。

講演旅行での経験で、たとえば作家の五木寛之さんのことをこう評する。

「五木の九州訛は、風貌容姿とそぐわないから、なにやら誠実さを加味する」。なまりには、そんな効用もある。

 拉致被害者の人たちもふるさとの言葉に囲まれて、心なごんでいるのではないか。

「こんなぎょうさんの人がねえ、集まってくれて」と語る浜本富貴恵さんのように、

ふるさと言葉が出てくると本人たちも生き生きと映る。

 こんどの旅では、まずふるさとの山河に再会し、感無量だったろう。

そして親族や友人たちとの再会、会話で遠い過去を少しずつ取り戻していく。

そのとき幼いころから親しんできた言い回しは、心の深くに響いたのではないか。

 寺山にはこんな短歌もある。〈ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らむ〉。

想像の光景だろうが、はずむ心が見えてくる。

被害者の人たちも幼いころのはずむ心を取り戻しただろうか




お国なまりは他の土地の人にとって変に聞こえることもある。文章もそうだが標準語で書いているつもりが

京都弁で書いているかもしれない。要は話は思うことが相手に通じさえすればよい。

「こんなぎょうさんの人がねえ・・・・・・」のぎょうさんの言葉は我々関西人として普通に使っている。

違和感はない。沢山な・・・がふつうなのだろうか。

日ごろ使っている言葉は知らない間に出るものだ。親しみがあって良いのではないかと考える。

他の土地の人には違和感を感ずる。イントネーションもそうである。

関西弁はおっとりした感じの言葉で話すものである。





あの「リリー・マルレーン」



 10月24日天声人語より


 これほど数奇な運命をたどった歌も珍しいだろう。

あの「リリー・マルレーン」である。作曲したドイツの音楽家のノルベルト・シュルツ氏の訃報(ふほう)に接して、

あの歌のたどった運命を改めて思い浮かべる。

 詩は第一次世界大戦に従軍したドイツの詩人の作である。

それがシュルツ氏の目にとまったのは38年のことで、彼はベルリンのなじみのバーで、数分間で曲を仕上げたという。

レコードにしたが、当時はほとんど売れなかった。

 第二次大戦中の41年、ドイツ軍が占領したベオグラードのラジオ局から毎晩決まった時間にこの歌が流れ始めた。

その放送をアフリカの砂漠に進駐していたロンメル将軍率いるドイツ軍の兵士たちが心待ちにし、聴き入った。

「砂漠のキツネ」と連合国軍に恐れられた知将ロンメルも耳を傾けたことであろう。

 やがて連合国軍の兵士たちもこの敵国の歌を口ずさむようになる。

戦地での愛と別れをうたうこの歌はイタリア語やフランス語へ、そして英語へと翻訳され、敵味方を超えて欧州戦線に広まった。

 44年、連合国軍を慰問する女優マレーネ・ディートリヒがうたい始めたことで、この歌はまた違った運命をたどる。

ものうげにうたう彼女と切り離せない歌になっていく。戦争が終わっても世界の多くの人が彼女の歌に魅せられ続けた。

 戦意高揚の歌ではなくどちらかといえば厭戦(えんせん)の歌だ。

だからこそあれだけ多くの人の心をとらえたのだろう。

シュルツ氏を「一曲で、それも一曲だけで思い出されるであろう作曲家の死」と英タイムズ紙は「追悼」している



シュルツ氏を「一曲で、それも一曲だけで思い出されるであろう作曲家の死」と英タイムズ紙が報じているそうだ。

リリー・マルレーンの名前は知っていてもシュルツ氏の名前は知らない。

哀愁の帯びた曲である。だが引き付けられる歌である。

戦意高揚の歌ではなくどちらかといえば厭戦(えんせん)の歌だ。だからこそあれだけ多くの人の心をとらえたのだろう。

これは人間は本来戦争は嫌いな動物ではないかと考える。ただ兵士になる事は戦う事が職業である。

戦いが嫌でも戦わなければならない。上官の命令はそむく事はて゜きない。

そんなことをして戦争で多くの若者が死んでいったのが戦争の歴史である。なんの関係もない相手を殺して。

多くの人を殺せば戦場では英雄になる。平和時には一人殺せば犯罪者。

戦争は狂気じみた行為である。歴史を振り返れば当時の権力者の欲望を満たすために行われ来ている。





モスクワでの劇場占拠事件



10月25日の天声人語より 


 ミュージカルの2幕目が始まったところで事件が起きたそうだ。

モスクワでの劇場占拠事件である。武装集団が舞台に上がって「何をしようとしているか分かるな」と叫んだという。

まさに暗転である。観客の混乱と恐怖はいかばかりだったか。

 劇場型といわれる犯罪がある。

普通、犯罪は人に知られないようにしようとするものだが、劇場型は見られたり知られたりすることを目的にする。

できるだけ多くの注目を集めようとするから目立つことをする。しかし、劇場そのものが標的になるとは。

 武装集団は人質に携帯電話を使うことを許した。

これもまた普通とは逆をいく。爆弾などを仕掛けた劇場内部の危険な状況を人質に伝えさせる。

「突入しないで」などと訴える人質の声を聞かせて、当局を牽制(けんせい)する。

巧妙に計画された攻撃であることを示すやり方である。

 バリ島では外国人観光客の多い場所がねらわれて爆破テロが起きた。

ロシアでは、観光客ではなく地元モスクワの人に人気のあるミュージカル公演がねらわれた。

「ロシアはチェチェンから手を引け」というメッセージは明確なようだ。

 普通の市民を人質にして、政府に要求を突きつける。

どう見ても許されない行為だが、ロシア政府のチェチェン介入にさまざまな問題があったことも確かだ。

いわば政府の「失政」のつけが市民に降りかかる。

それも生命の危機にさらされる。理不尽な事態だ。

 テロ対策は、対チェチェンのように軍事力で抑え込むだけでは、うまくいかない。

そのことを痛感させられる事件でもある。




モスクワ劇場占拠事件で大勢の人たちが人質になった。チェチェン共和国独立を考えている人たちによる

占拠事件である。門外漢としては独立したければ独立させてあげれば良いのにと考える。

ロシアにとつてはそうはいかない事情があるようだ。チェチェン共和国を独立させれば周辺の国々が独立を

要求してくるとの事情もあるらしい。イギリスでのアイルランドでも同じような例である。

独立運動は続くと思う。戦争は止まない。

又,占拠事件の解決方法も日本人としては荒っぽい解決方法ののように感じた。

日本ではペルー日本大使館の占拠事件が思い出される。確か日にちをかけトンネルを掘り突入している。

被害者は一名とか。こちらではガスを流して117名以上の被害者がでているようだ。

人質の数からすれば仕方ないことなのかもしれないt@。

バリ島のテロによる爆破事件st何か世の中何か狂っているのではないかと思いたくなる。




ベトナム戦争のことを語った。



10月26日の天声人語より

 英語の達者なベトナム青年ドアン・バン・トアンさんは「あの戦争のことを決して忘れてはいけないと思う。

しかし、私たちは開かれた心をもっていたい」とベトナム戦争のことを語った。

 先日ベトナムへ小旅行したときの案内役の一人トアンさんは23歳、まったくの戦後世代である。

いずれ米国へも行きたいと夢を語る明るい青年だった。

 75年4月のサイゴン陥落から四半世紀を超えた。

名前をホーチミン市に変えた都市は、オートバイがあふれかえる喧騒(けんそう)の街だった。

外見上戦争の傷跡を示すものはほとんど見当たらない。

米国の空爆を避けるため地下都市を築いた近郊の村クチも各国からの観光客でにぎわっていた。

 帰国してすぐ作家の日野啓三氏の訃報(ふほう)に接した。

ベトナム特派員時代に小説家として歩む意志を固めた人だ。

サイゴンの広場での少年の公開射殺をともに目撃した作家の故開高健が、そのときの日野氏のつぶやきを書き留めている。

 「おれは、もう、日本へ帰りたいよ。小さな片隅の平和だけをバカみたいに大事にしたいなあ。

もういいよ。もうたくさんだ」(『ベトナム戦記』朝日文芸文庫)。開高も「彼の優しく痛切なつぶやき」に共感した、と。

 あの戦争が終わって四半世紀、という感慨とともに拉致被害者の異国での四半世紀のことを思う。

北朝鮮にいる子どもたちはトアンさんとあまり変わらない世代ではないか。

彼らはどんな将来への夢を描いているのだろうか。

同じ「社会主義国」といっても開放政策をとるベトナムの若者とはまったく違う夢だろうか。



アメリカが介入したあのベトナム戦争はなんだったのかと考えさせられる。

戦争で多くの人たちが亡くなっている。北ベトナムはアメリカに勝利した。

サイゴンを陥落させた。その結果はなんだったか。??

人間の愚かさを此処から一つでも学ぶと良いと考える。




国家や権力者、あるいはテロ集団
強大な組織や暴力装置、冷酷な計算が背後にひかえている



10月27日の天声人語より 



 作家の故埴谷雄高氏がこんな文章を書いたことがある。

「腰かけている肘掛け椅子からふと左手の床を見下したりすると、そこにぼかりと口を開いた暗い、

底知れぬ深淵を認めて愕然(がくぜん)とするといった事態……」

 日常のなかにぼかりと開いた深淵(しんえん)におののくような事件が続く。

モスクワでは、ミュージカルを見に行った人たちが武装集団の人質になり、ついには突入作戦で少なくない犠牲者が出た。

東京では、自宅前で迎えの車に乗り込もうとした政治家が刺殺された。

 米国の首都ワシントン周辺では、日常生活のひとこまを狙ったスナイパーの銃弾に次々と犠牲が出た。

バリ島では、ディスコに興じていた人たちが一瞬にして爆破テロの犠牲になった。

振り返れば、帰国した拉致被害者たちもまさに日常から力ずくで引きはがされた人たちだった。

 こうした事件が個人の衝動や欲望からだけではなく、国家や権力者、あるいはテロ集団にかかわっているとき、

深淵の闇は一段と深まる。強大な組織や暴力装置、冷酷な計算が背後にひかえていることが多いからだ。

 「1人の死は悲劇だが、100万人の死は統計でしかない」と言ったのはスターリンだったか。

粛清で死者の山を築いたかつての独裁者である。権力者とは、しばしばそういう発想をする人種であろう。

 その発想に対しては「否」と異議を唱え続けたい。

私たちはひとりひとりの生を大事に思い、ひとりひとりの死を悼む。いつもそこから出発する、と。

「闇の深さ」に対抗するには、そこから始めるしかないのではないか。




私たちはひとりひとりの生を大事に思い、ひとりひとりの死を悼む。その心はこの世から戦争を

無くす事である。勝っても負けても戦争は人を殺し傷つけるものである。

何年か経てば誰のためのなんの戦争だかが判らなくなる。歴史がそれを証明している。

テレビ 新聞で世界の情報が瞬時に入ってくる時代である。それが良いのかどうか判らない。

向こう三軒両隣だけの情報ならば戦争はこの世にないことになる。





人間の頭脳と電子頭脳とを戦わせる。



10月28日の天声人語より 


 人間の頭脳と電子頭脳とを戦わせる。チェスの世界では、この興味深い対決が数年来続いている。

チェスの世界チャンピオンと高性能のコンピューターとの対戦である。「人知」と「電知」との争いは一進一退の様相だ。

 96年にコンピューターの挑戦を退けた当時のチャンピオン、ロシアのG・カスパロフさんは「こちらが手を抜いたふりをすると、

あちらにすきが生じる。

駒を犠牲にするいわゆる捨て駒に敵は対応できない」「コンピューターは本当の脅威にだけ反応する」などと語り、

心理作戦では人間が上だと余裕を見せた。

 翌97年、コンピューターが反撃に出た。

同じカスパロフさんを相手に捨て駒作戦も交えて戦い、結局2勝1敗3分けで勝利を収めた。

カスパロフさんは消耗しきった様子で「重圧に負けた」と語ったという。

 師のカスパロフさんからチャンピオンの座を奪ったやはりロシア人のV・クラムニクさんがこの10月、

3週間かけてコンピューター「ディープフリッツ」と対戦した。2勝2敗4分けの引き分けだった。

 ここでもクラムニクさんの微妙な捨て駒作戦が勝敗の岐路だったらしい。

「ディープフリッツ」は惑わされずに応じて大事な一番に勝利を収めた。

「人間的なチェスをする機械だ」とはクラムニクさんの評だ。

ここで人間が負けると、もはやコンピューターにかなわないといわれるところだったが、かろうじて踏みとどまった。

 「疲労困憊(こんぱい)です」と語るクラムニクさんに対して「ディープフリッツ」は当然のことながら、いささかの疲れも見せなかった。



コンピュターとでは将棋では負けるが,囲碁では勝てる。囲碁は詰め碁が強くて,大局的な判断はできないようだ。

将棋はあまりしないがアレと思うような手で負けてしまう。

いずれ人間は何をしてもコンピュターに負ける時代がやってくるだろう。

IT化についてはやって便利なものとまだまだやっては不利益を来たす部分が有る。

その判断は人間がすることでコンピュターに任すことはできない。

コンピュターはあくまでも人間が使う道具の一つである。コンピュターは初歩の段階でスイッチを押すと電燈かつき

ラジオ テレビがついて,技術がいらなくなり誰もが便利に使えるようにならないといけない。

人間がコンピュターに使われるようでは駄目である。あくまでも人間の道具としての一つでないとならない。






「智に働けば角が立つ。
情に棹(さお)させば流される。
意地を通せば窮屈だ」。




10月29日の天声人語より 


 夏目漱石は山路を登りながら考えた。

「智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ」。

この『草枕』の有名な書き出しをしばしば思い浮かべるこのごろだ。

 拉致事件をめぐってさまざまなことを思い、考えさせられた。

被害者が帰国したときの感動と涙に始まって、一連のできごとでは「情」に流れることばかりだった。

拉致という非道な行為やそれを実行した国への憤り、これもまた当然の「情」だろう。

 しかし「情」に流されてばかりもいられない。

死亡を伝えられた被害者をめぐる謎は多いし、帰国した被害者の永住のためには克服すべき難題がいろいろある。

そうした状況を冷静に把握し、打開策をさぐるためにも「智」を働かさざるをえない。多少「角が立」ってもやむをえない。

 きょうから始まる日朝正常化交渉では、「意地を通す」ことも必要だろう。

拉致事件や核開発問題で言うべきことを相手にまっすぐ言う。

最初からそんな姿勢では交渉全体が「窮屈」になりはしないか、などと遠慮はしていられない。

 いまは「情」も「智」も「意」も尽くして、事態打開にあたるべきときだろう。

ただし、あまりどれかに偏すると物事はゆがみやすい。三つのバランスを保ちながら進めることだ。

 『草枕』は「兎角(とかく)に人の世は住みにくい」と続く。

しかし、その「人の世」をつくったのは神でも鬼でもなく「唯(ただ)の人」である、と。

こんどの交渉相手も、多々問題はあるにせよ、所詮(しょせん)「唯の人」である。

そう思えば、打開の糸口もつかめるのではないか。



拉致事件は天声人語に何度も書かれているような複雑なものでないと考える。

確かに漱石の草枕で書いた「智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ」。は

真理だと思う。人間生きている限りにおいて遭遇することをズバリ指摘している。

北朝鮮問題は韓国 アメリカ 中国 ロシアとも関係してくる。

これらの国々は既に世界との交流があり,世界の仲間である。

早く諸外国とともに協力し北朝鮮を暖かく世界の一員になれば拉致事件は自然に

解決出来てくる問題である。拉致家族には酷な話だが既に死んで亡くなった人たちは生きることはない。


 


私たちの父はすべての子供たちを戦争の世界から
救おうとしたのだと思うと、胸が詰まる」。
ケネディ元米大統領の娘キャロラインさんが、
ソ連のフルシチョフ元書記長の子供と面会




10月30日の天声人語より 



 最近の言葉から。「敗戦を北朝鮮のピョンヤンでむかえた」作家の五木寛之さんは、

戦後の混乱のなかでやむをえず赤ん坊を手放した親たちのことを思い出す。

 「その赤ん坊たちは、いま、どこでどう暮らしているのだろう」。

子たちを「放置」した親は「だれに抗議するわけにもいかない。

自分を責めるしかすべのないそんな親たちのことを思うと、胸がつぶれそうになる」。

 「私が薫を思う気持ちは、薫が(北朝鮮に残してきた)子供を思う気持ちと同じです」と蓮池ハツイさん。

息子の拉致被害者、薫さんは「おれの24年間を無視するのか。おれはおれなりにやっている。それを無駄だったと言うのか」と

永住帰国を説く友人たちに語ったという。「彼の心には二面性がある。24年間、植え付けられた思想は簡単に変えられない。

親を取るか、子を取るか、苦渋の選択にたたされている」とは薫さんの兄透さん。

 「私たちの父は、危機を和平の始まりに転換させた。すべての子供たちを戦争の世界から救おうとしたのだと思うと、胸が詰まる」。

40年前のキューバ危機についてケネディ元米大統領の娘キャロラインさんが、ソ連のフルシチョフ元書記長の子供と面会したとき語った。

 「小学生のころ、電車の運転士になりたかった」というノーベル化学賞の田中耕一さんは

上京して「新幹線ののぞみに初めて乗れ、うれしかった。出張でのぞみは高いので」。

 拉致され、死亡したと伝えられた田口八重子さんの兄の飯塚繁雄さんは「私もいつかは花束を持って飛行機の前に立ちたい」。



天声人語は職業とはいえ代々よく続いている。その時代時代の一番話題性のあることがとりあげられている。

社説を読む人より天声人語を読む人が多いのではないかと思う。

読み忘れたとか,もう一度読みたい人に便利なように引用しそれに対する自分の思いを書いている。

自分だけで随想を書こうとすれば後が続かない。書く事を職業にしていないからそれでもよいのでは

ないかと考えている。




北朝鮮に拉致され、死亡したと伝えられた
人たちの墓の「不在」への疑問が増す。




10月31日天声人語より
 
 東京都が都心の墓地に歴史散歩道をつくるそうだ。

桜の名所として知られる青山墓地など自然環境に恵まれたところが多く、いわゆる著名人の墓も少なくない。

観光コースとして人気を集めるかもしれない。

 中国の上海で葬儀場を訪ねたときのことを思い出す。さまざまな形式の葬儀が営まれていた。

「同志の死を悼む」といった無宗教の「社会主義的」葬儀もあれば、魔よけの垂れ幕を張り巡らせた昔ながらの葬儀もあった。

 巨大なコインロッカー室のような大部屋には位牌(いはい)がずらりと並べられていた。

小さな仕切りのなかに遺影と花が飾られ、遺族が花を交換する姿もあった。土地不足で墓を持てない人が多いらしい。

一方で、豪華な墓地の宣伝パンフレットなども出回っていたから、この面での貧富の差も大きいのだろう。

 映画などで見る韓国の葬儀は、盛大である。

大勢の親族や友人が集まって飲み食いし、歌い、泣く。

そんなことを考えていくと、北朝鮮に拉致され、死亡したと伝えられた人たちの墓の「不在」への疑問が増す。

その消息への疑問とともに。

 親や先祖を大事にする伝統は、儒教文化圏に共通する。

社会主義化した中国でも、親から子への連綿としたつながりは大事にされ、親族の結束も固い。

韓国では、年上を敬う「長幼の序」が色濃く残る。

日本でも、墓参りは多くの人にとって重要な年中行事だ。

 分断後の北朝鮮は、そうした面でもがらりと変わってしまったのだろうか。

進展しなかった日朝国交正常化交渉を見守る拉致被害者や家族のつらさを思う。



天声人語を書かれている方も拉致事件に非常に関心をもたれているようだ。拉致事件のために国内の政治のことは

一刻も疎かにすることはできない。政治とカネの問題 農林大臣の秘書の口利き料問題が秘書だけの問題だけで

済ますのはおかしい。監督責任が大臣にあり,その大臣を任命した首相にも責任がある。

足元の政治改革なくして構造改革はありえない。庶民の苦しみを首相は理解したているのかと聞きたい。

外務省始め諸庁の改革 役人達の天下りよる税金の垂れ流しをまずくい止める事である。




随想を書き始めて


今年の10月で丁度5年目に入る。はじめの頃は思いつくままに自分の考えを色々と書いていたが,そんなに書く事もなく

尽きてくる。一期一会のつもりで一番書きたいことを書けば良いのだが本当のことはなかなかに書けないものである。

三番目か四番目に書きたいようなことを書いている。

あたりさわりのないことしか書けない。本当のことが書けないことは「腹ふくるる」感じである。

今はそれで良いのではないかと思っている。

政治が全て世の中の事を支配下においている。政治が良くならなければ世の中良くならないと考えるようになった。

身近な所の政治活動をしている人たちをみていると自分の利益だけを追求している人たちが多く見かける。

アメリカが「くしゃみ」すれば日本は肺炎を起こすのではないかと思う程に日本の政治家達はアメリカにぴりぴりしている。

日本で首相交代すれば先ずにアメリカ詣でか゛行われている。

アメリカにある程度対等に話せるのは,国連の安保理事会を含めロシア 中国 フランスくらいである。

イギリスはアメリカべったりでイギリス国民の声は生かされていない。

私にとっては第二次大戦中に嫌というほどに教育された「鬼畜米英」は今もすくっているのかも知れない。

確かに冷戦後に一人勝ちしたアメリカの影響は世界の隅々まで行き渡っている。

第二次大戦後の大きな戦争に全てアメリカが関与している。アメリカさえ平和的な行動をとれば

世界はそれなりに平和が続くであろうと考える。

日本の国内政治は曲がりなりにも小泉首相で厳しい構造改革に耐えながら明日への良き夢を見現状に甘受している。

身近な京都市の政治にはあまりにもボス達の力が大きくてまともな政治が行われていないのではないかと感ずる。

一番触れたくて触れられない事である。最近少しだけ改善されつつあるように見られる。

少しずつでもよいから改善されればそれだけでも良い。一度には無理だろうから。

政界の浄化は官庁における不正の摘発 汚れた人間関係の刷新が必須である。

政権党議員が率先して国 地方の政界浄化にまず手をつけなければ,同じことが続き繰りかえされるだけである。


(1)一度あっせん利得の罪を犯した議員は二度と議員になることが出来ない。

●(2)収賄ないし不正を犯した官僚は退職金なくして即座に職場を追放する。

●(3)国民が口利きを政官に願いでる場合は署名捺印し文書ですることとする。

(3)が全ての悪のはじまりであり,政官民の三者の悪の合意が無ければカネと政治の問題は

発生しない。一人だけいくらもがいても不祥事件は起き得ない。


以上のことを国並びに地方政治において適用すべきである。

このような法律を作れば今のような馬鹿げた政治とカネの問題は解消すると思うが。

おカネが無ければ議員になれないような議員は作らない事である。

それが全国民の基本的な態度であらねばならない。

一歩でも二歩でもよいから国内の日本の政治が良くなれば少しでも世の中明るくなり住み易くなる。

世界の政治はアメリカ大統領が変らなければ良くならない。ブッシュ氏では戦争はまだまだつづくであろう。




各国の為替のレートはどうして決められるのか


各国の貨幣のレートがどうして決まるのか不思議である。

日本円に直すと東南アジアの貨幣の価値は低い。その為か衣料品とか電気製品が外国産のものが目に付くように

なって来た。服も下着も帽子も買うと中国製 タイ製 ベトナム製などと書かれている。

100円ショップの製品は殆どといってよいほどに東南アジアの外国製である。

貨幣のレートが低いから安くできるのだと思う。日本製は殆どみかけなくなってきている。

名前が日本製名前がついているから買ってみると中国製であったりする。

それなりに有り難いことだが,何か東南アジアの人たちに気の毒のような気がしてくる。

貨幣の為替は自然に株と同じで買いとか売りできまるとするならば,お金を沢山もった人が勝手に

操作できるのではないかと思うが。

アメリカが世界で一番の金持ちである。経済の世界もアメリカのするがままに動いているのかと

思うと情けない話である。ITのパソコンの基本ソフトのWindowはアメリカで発明されている。

スーパー,コンビニエンストアとか全てがアメリカの真似で毎日の生活をしているように思える。

医学の世界も例外ではない。此れでよいのかとと思うことが多々有る。


Homeへ

                                 9月分     10月分      11月分