明けましておめでとうございます。 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。「日本人皆がイラクへの日本自衛隊派兵はおかしいぞ」 ! と反対を叫び,世界の人々が平和に暮せる良い年になりますようお祈り致します。 平成十六年元旦



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随想 

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平成16年1月分

 


師走


過ぎ去れば一年という年月は早いものである。平成15年も過ぎ去ろうとしている。

師走ともなるとなんとなくあわただしい気分になるものだ。

寒い日が続くので外出する機会が少なく,だが天気の良い日はできるだけ外出し,身体を動かすように心がけている。

暖かい日は自然に気候につられ外出するが,寒い日は意識して外出しようとする気持を持たないと外出しない。

ゴルフ練習の機会も少なくなる。頑固に小泉首相は自衛隊にイラク派兵に執念をもつているように見受ける。

航空自衛隊の先遣部隊20名くらいがクウェ-トに背広服にて派遣されている。

テレビを見ているとイスラム圏について詳しい方達のテレビの解説ではどの人達も派兵には反対する人たちが多い。

フセイン大統領が穴倉から拘束されているニュースが流れたが,だからといってテロが一向に止む気配は見られない。

独裁者の末路は哀れなものである。現在のイラクの状態はアメリカ占領軍に対しイラク国民がレジスタント,

ゲリラ的な戦いをしているように思えてくる。

アメリカ占領軍が撤退しない限りにイラク国民のアメリカに対する反感はつのるばかりのようだ゛。

夜のテレビでノーベル文学賞受賞者大江健三郎氏の話を聞いていると,とりあえずに先ずアメリカ軍が撤退し

その後平穏になった状態になってからイラクに世界各国が復興支援に協力すべきだと話されている。

そのとおりでまず平穏なイラクにする事が先決である。

今のようにテロ撲滅しようとしていて,アメリカ軍がテロとおぼしき人たちを多数拘束しても,

次から次へとアメリカに反感を持つ人たちが増え続けるだけのことで,テロ活動はいつまでも続くと思われる。

暴力・力だけでイラク国民を押さえつける事は不可能である。イラクのテロが世界に拡散するかもしれない。

その間アメリカ兵の死者はドンドンと増えつづけいる。ブッシュがイラク戦争終結宣言してからの方が

二倍も三倍も戦死者が多くなってきている。

イラク全体がゲリラ化し,泥沼化してきているようにおもえる。そんな所へ自衛隊派兵する小泉首相の気持がわからない。

国際協力と一応言われているものの,大部分がアメリカの軍隊である。世界中で200国余のなか30余ヶ国くらいの国々が

少数の人員を派遣しているだけである。

その派遣した国々からもイラク占領アメリカ軍への協力者とみなされ死傷者が増えつづけている。

フランス ドイツ ロシア 中国 などの国連常任理事国の中からでも派兵していない国々が多い。

日本はそのような国々に見習うべきである。

派遣した国々もただアメリカ占領軍の協力者としかイラクの人たちから思われているだけのことである。

イラクの人々からはただのブッシュの協力者としか思われていない。

アフガンもタリバンがゲリラ化しイスラエル対パレスチナも不穏な状態が続いている。

アメリカのブッシュによるイスラム圏への強行な姿勢が全ての禍の元になっている。

力で押さえつけようとしても成功は有り得ない。

自爆テロなどで民衆の反発が続くだけである。平和を求める政権がアメリカに誕生しない限り,

今のままでは世界の民衆による抵抗は続くことだろう。

アメリカ兵の戦死者が増え続けアメリカ国民からの戦争反対の声がでてこない限り,戦いは続く。

丁度ベトナム戦争当時と同じ事である。正義のためベトナム解放のためのベトナム戦争では

仕方なくアメリカがベトナム戦争から撤退している。

そしてそれによって初めてベトナムに平和が訪れるようになった。 

現在我々も観光のためおとずれる事ができるるようになっている。

 正義とか自由とか民主主義をば主権を持つ他国に対し武力でもって

強制的に押し付けようとすること自体が根本的に間違っている。

自由を尊ぶ民主国家のすべき事ではない。今回は日本がその一翼を担おうとしている。

日本国民も又イラクの人々もそれを強く望んでいないにも拘わらずに,

自衛隊派兵が始められようとしている







 「海外派兵や徴兵などといえば
内乱はやりますよ、私どもは」。
72年の司馬さんの言葉である。



12月10日の天声人語より


 作家の故司馬遼太郎さんは学生時代、外交官になろうと思っていた。

どこか遠いところの領事館にでも勤務して、10年ほどして小説を書きたいと考えていたそうだ。

学徒出陣でその夢はかなわなかった。

 兵隊にとられたのは1943年である。

「ひとの人生の設計を台無しにして、そんな権能をいつ誰が国家に与えたか、

とふしぎに思いました」と語っている。

司馬さんはそのとき、大日本帝国憲法のことを考えたそうだ。

国民が喜んで受け入れた憲法には徴兵の義務も含まれる。

 「たとえ欽定憲法でも、あのとき約束してしまったんだなあと思うと、年貢が納まったように得心したものです」

(『司馬遼太郎対話選集』文芸春秋)。

そうやって自分に言い聞かせながら応召した。

 いまの憲法は9条で、国家として戦争をしないこと、陸海空軍などの戦力をもたないことを定めている。

たとえ「押しつけ憲法」と批判されようと、司馬さん流にいえば「あのとき約束してしまった」。

イラクへ派遣される自衛隊員が憲法のことを考えるとしたら、得心ではなく迷いを招くのではないか。

 小泉首相は昨日、イラク派遣の基本計画をめぐって「憲法の理念」を説いた。

ただし「全文ではなく前文ですよ」とことわりながら前文の一部を読み上げた。

「憲法の理念」に深くかかわる他の部分にふれることはなかった。

「海外派兵や徴兵などといえば内乱はやりますよ、

私どもは」。72年の司馬さんの言葉である。


それほど軍隊というものへの不信感は強かった。

いま世論も派遣反対が多数を占めている。





政府はまず、ふたりの犠牲の重さ、
痛切さをかみしめなければならない。



12月1日の天声人語より


 イラクで殺害された奥克彦さんが、外務省のホームページに連載していた「イラク便り」を読む。

強い使命感を帯びて日々励んでいたことが、痛いほど伝わってくる。

 「今日は、悲しいニュースが飛び込んできました」。

イタリアの警察軍が攻撃されたナーシリヤの現場へ行った時の書き出しだ。

「学校帰りの女子中学生4名も尊い命をテロリストによって奪われてしまいました」

「犠牲になった尊い命から私たちが汲み取るべきは、テロとの闘いに屈しないと言う強い決意ではないでしょうか」

 バグダッドの、国連現地本部の爆破現場でのこと。

この辺でユニセフ(国連児童基金)のクリス・ビークマンさんが亡くなったのかと思っていた時、1枚の名刺を見つける。

彼のだった。「我が日本の友人よ、まっすぐ前に向かって行け!と、

語りかけてくるようです」「必ずやクリスの遺志を継いで、今まで以上にイラクの復興に貢献できるように、

心から誓わずにはいられませんでした」

 危険と隣り合わせでも、任務を成し遂げようという意志は尊い。

任務や責務は違っても、前線に居る多くの人たちはそのように思い、行動しているのだろう。

 そして、だからこそ、後方から命ずる政府には、その人たちの安全に最大の配慮をし、

状況によっては現場にブレーキをかけることも求められる。

 政府はまず、ふたりの犠牲の重さ、痛切さをかみしめなければならない。

そして、日本がイラク支援を進めるうえで最も適切な「命令」とは何なのかを、

もう一度腰を据えて考えてほしい。




 師走である。


12月2日の天声人語よ



 師走である。この二文字は、見ていても、口に出しても、慌ただしい気分を運んでくる。

 僧侶が、はせ回る「師はせ月」がなまって「シハス」になったという説について、

金田一春彦さんは「人気があるが、作った感じをまぬかれない」と書いた(『ことばの歳時記』新潮文庫)。

続けて、貝原益軒は日時がはつる月だから「しはつる月」、

それがなまって「しはす月」となったとの説を立てた、とある。

折口信夫も「シハツ」の転とし、「しはす」は、「仕事が終る」の意味だろうと言ったという。

 「十二月、くちなしの実をいただく」と書き出すのは、染織家、志村ふくみさんの「くちなしの黄」である。

「黄金の実、光の粒、私は大きな盆に盛り、しばし床の間に飾る」(『色を奏でる』ちくま文庫)。

やがて、その実は糸を黄金色に染めるのだろう。ところによっては、落ち着いた師走というのも、あるようだ。

 極月とも呼ばれ、1年を振り返る月でもある。

昨日発表された恒例の「新語・流行語大賞」には「毒まんじゅう」「マニフェスト」という政治の世界の言葉が入っていた。

自民党総裁選や総選挙が続く「政治の年」ではあった。

 「米百俵」「聖域なき改革」などで一昨年の大賞を取った小泉さんは、2年続きで選外となった。

焦点のイラク問題では「私に聞かれたって分かるわけがない」や「殺すかもしれない」のような、はぐらかしが目立った。

 季節はずれの台風が、東へ向かっている。

降り続いた雨にぬれて、ポインセチアの赤と緑が鮮やかだった。





第45次南極観測隊が3日、
オーストラリアのフリーマントルから
南極に向けて出港


12月3日の天声人語より



 1913年に出版された『南極探検』(博文館)という本が手元にある。

前年、日本人として初めて南極大陸に足跡を記した白瀬矗(のぶ)中尉が、

興奮さめやらぬ筆致で体験をつづっている。

 初めて見たペンギンに驚く。「是(こ)の片吟鳥(ぺんぎんてう)は其(その)姿鳥に似て鳥と異なり。

獣に似て獣と異なり。……頗(すこぶ)る滑稽(こつけい)な者である」。

上陸後、極点をめざしたが、南緯80度5分で前進不能に追い込まれた。

「使命は死よりも重し」。そういって「生還」の道を選び、引き返した。

 そのころ、英国のスコット隊は厳しい帰還の途上にあった。

極点に達したもののノルウェーのアムンゼン隊に先を越されていた。

「失望のきわみだ」「恐ろしい一日だった」と失意のうちに帰途に就き、やがて力尽きて壮絶な最期を迎える。

 それより先、アムンゼンは人類未踏の地に踏み込んで「これほど感動した瞬間はほかになかった」と記した。

白瀬体験記に加えて、スコットの『南極探検日誌』とアムンゼンの『南極点』(ともにオセアニア出版社)をあわせ読むと、

11年暮れから12年にかけて3者が南極で劇的に交錯したことがまざまざとよみがえる。

 第45次南極観測隊が3日、オーストラリアのフリーマントルから南極に向けて出港する予定だ。

乗り込む調査船は、白瀬中尉の名を借りた「しらせ」である。

地球環境の変化や地球の歴史を探る多くの調査を行う。

 約1世紀前の「探検」とは違う。

しかし迎える南極は、白瀬が「あゝ何と云(い)ふ壮大な眺めであらう。

勇渾(ゆうこん)な光景であらう」と感嘆した同じ姿を見せてくれるだろう。





武富士盗聴事件


12月4日の天声人語より



 盗聴にかかわることを、関係者は暗号のように「耳の件」とささやきあっていたそうだ。

捜査がついに企業トップにまで及んだ武富士盗聴事件である。

 「耳の件」にかかわった人たちは、「王様の耳はロバの耳」の床屋の悩みを味わったのではないか。

秘密の口外を厳禁された床屋は我慢しきれず穴を掘って「王様の耳はロバの耳」と秘密を吐き出してしまう。

口にせずにはいられなかった。大事な秘密ほど秘めておくのは難しく、口外への誘惑は大きい。


 「誰かが『ロバの耳』をうわさしているのではないか」。独裁者の方は際限のない猜疑心(さいぎしん)におそわれるものだ。

逮捕された武井保雄会長の独裁者ぶりも話題になっている。

すべてを掌握しておきたいという独裁者の衝動は、自分の知らないところで何かが起きているのではないか、

という不安と表裏一体だ。盗聴への誘惑は大きい。

 しかし、ジャーナリスト宅などの盗聴までして守りたいのは何だったのか。あるいは、知りたいことは何だったのか。

 「ロバの耳の王様」ミダスは、触るものすべてが黄金になってしまう伝説でも知られる。

会社を業界1位にまで急成長させたころは、まさにお金がお金を呼ぶミダス王のような心境だったろう。

その過程で「ロバの耳」のような見られたくない部分をいろいろ抱え込んでしまったのではないか。

 捜査の進展によって関係者には耳をふさぎたくなるような事実や耳が痛くなる話も出てくるかもしれない。

逮捕容疑の「耳の件」だけではすまされない闇が背後にひかえているのではないか。





デジタル方式のCDか、アナログのレコードか


12月5日の天声人語より


 レコードに替わるCDが普及し始めて20年ほどになる。

そのころから普段の生活にデジタルという言葉が入り始めた。

いまや身のまわりに「デジタル」があふれる。

 デジタル方式のCDか、アナログのレコードか。当初から論争があった。

「小型で便利、音がシャープで雑音がない」とCD派がいえば、

レコード派は「音に温かみ、ふくらみがある。

多少の雑音もふくらみのうち」と。

 連続した波として音をとらえるアナログに対して、

デジタルは、すべての情報をいったん0と1という信号に分解する。

無と有、オフとオンとの単純な組み合わせだから、電気信号にしやすい。

精密だから切れ目が気になることはない。情報化社会に不可欠の存在だ。

 この原理の違いもあって、人間をアナログ派とデジタル派として対比させることがある。

緻密(ちみつ)なことが苦手で、物事を大雑把にとらえがちなアナログ派に対して、

デジタル派は物事を分解して考え、何事にも白黒つけようとする。

あいまいさを好まない。アナログ派はアナクロ(時代錯誤)といわれかねない時勢だ。

 精神科医で作家のなだいなださんが「好(い)い加減のすすめ」をしたことがある。


宗教でもイデオロギーでも中心には純粋で過激な信者がいる。

中心から外れるほど「好い加減」だ。どちらの派にもつかない「好い加減」というのもある。

この「好い加減」こそ宗教戦争の危険が潜む現代に必要だ、と。

 アナログかデジタルかという発想自体も改めた方がいいのだろう。

デジタル時代に「好い加減」に適応するしかないか。






セバスチャン・サルガドの写真展「エッセイ」を見た


12月6日の天声人語より



 ブラジルの巨大な露天掘りの金鉱の底で、おびただしい数の人々がうごめいている。

カンボジアで、地雷被害者の手術にとりかかろうとする医師の姿がある。

エチオピアの難民キャンプ、カブールの廃虚、上海の高層街のシルエット……。

 東京・恵比寿で開かれているセバスチャン・サルガドの写真展「エッセイ」を見た

(来年1月12日まで、都写真美術館)。

ブラジル出身のサルガドは、世界各地で、人間の営みの諸相を撮り続けている。

 生活や任務のためにひたむきに働く人々や、戦乱、飢餓などを背負わされた人々の姿が並ぶ。

モノクロームの画面は、現実の厳しさを伝えながら、独特の透明感によって詩情をもたたえている。

 古代ギリシャの長編叙事詩「オデュッセイア」が思い浮かんだ。

トロイア戦争の木馬作戦で知られる伝説の英雄オデュッセウスが、

難破など様々の苦難を経て故国にたどりつくまでの長い漂泊を描く。


物語とサルガドが写した世界とは異なる。

しかし、困難を伴うはるかな遍歴をする人間の姿がオデュッセウスの漂泊とどこか重なった。

 この詩の作者と伝承されるホメロスの像が、上野の都美術館の「大英博物館の至宝展」で展示されている

(14日まで。来年神戸、福岡、新潟を巡回)。

大理石の老人の胸像で2世紀の作という。

詩の約千年後に作られた像が、さらに2千年近い日々を経て、はるばる日本まで来た。

 サルガドの写真の人々だけではなく、博物館の文物も、それを見ている人々もまた、

それぞれのオデュッセイアの途上にあるのかと思われた。





ふたりの死はまことに重く痛切


12月7日の天声人語より



 いちょう、けやき、さくら。いちょう、さくら、さくら。

散り敷いた枯れ葉を踏みながら、東京の青山墓地脇の坂道を歩く。

やがて、枯れ葉のほとんど見当たらない道に出た。青山葬儀所の前である。

 今、この中に、殺害されたふたりの外交官と家族がいる。

そう考えると、痛切な思いが、新たにこみあげてきた。

遠いイラクから、成田、そして東京へとふたりが運ばれ、近づいてくるにつれて、哀悼の思いは強まった。

 外務省の仮庁舎での記帳は、5千件を超えたという。

事件後、ふたりの誠実な仕事ぶりを見聞きして、多くの人々が、哀悼の意を募らせているのだろう。

 その思いを共にしたうえで、「遺志を継ぐ」ということを考えておきたい。

事件の直後から、川口外相が口にしていた。

小泉首相も、葬儀で「あなたがたの遺志を受け継ぎ」と述べた。

上司にあたる人たちが「遺志を継ぐ」と語るのは当然かもしれない。

奥さんたちの志が「イラク復興への貢献」だったことも確かだろう。

 しかし問題は、どのようなやり方でその志を継ぎ、目標に近づけるのかということではないか。

国論が大きく分かれている「自衛隊のイラク派遣」が、本当にイラクへの貢献となり、

日本にとっても正しい選択となるのかどうか。


ふたりの死はまことに重く痛切だけれども、是非の判断は、別の厳粛さをもってなされるべきだろう。

 葬儀所の前の街路樹から、時折、残り少なくなった葉が舞い降りてゆく。

国際政治の修羅の中で倒れ、故国に戻った命への、無言のあいさつのようにも見えた。




8日は日米開戦の日、
そしてレノンの命日でもある




12月8日の天声人語より


 日本がイラクへの自衛隊派遣を断念した。先月、そんなニュースが世界に流れた。

そのことについて尋ねられたウォルフォウィッツ米国防副長官は答えた。

「日本という国には多くを期待していなかった。軍にかかわることでは、常にためらう国だから」

 しばらくして日本を訪れたラムズフェルド米国防長官は

「日本は自由主義諸国のなかで2番目に大きい防衛予算をもっている」

「近年は、軍事面で重要な進展を見せた」と語り、軍事分野での日本の貢献をたたえた。

 誤った情報をもとに副長官がもらした感想を長官が打ち消したかたちだ。

長官の言明を公式見解とすれば、副長官の言葉は本音といえるかもしれない。

日本への「期待」については国防総省のなかにもかなりの幅がある。

 小泉首相が「日米関係や日米同盟の重視」をいうとき、いつも気になるのは、

米国とは何か、である。


ブッシュ大統領を思い浮かべているのか。共和党政権のことなのか。米国なのか、米国民なのか。

 ベトナム戦争さなかの69年12月、ニューヨークに「戦争は終わった」と書かれた大きな看板が出現した。

下に小さく書き添えられていた。「きみがそう望むなら」。

オノ・ヨーコさんとジョン・レノンの共作で、反戦運動を励ますねらいだった。

 水戸市の水戸芸術館で開催中の「YESオノ・ヨーコ」展(1月12日まで。

広島、東京などへ巡回)に展示されている看板を見ながら思った。

あの戦争でも反戦や厭戦(えんせん)の世論が政府を動かした、と。

8日は日米開戦の日、そしてレノンの命日でもある。





アフガニスタンの村で6日、
米軍の攻撃によって9人の子どもが死んだ。


12月9日の天声人語より



 いまの子どもたちはビー玉遊びをすることがあるのだろうか。

狭いところでもできる手軽な遊びだ。小さなガラスの玉でいろいろな楽しみ方があった。

 アフガニスタンの村で6日、米軍の攻撃によって9人の子どもが死んだ。

彼らの多くは、ビー玉遊びをしていたらしい。穴を掘ってゴルフのように入れていく遊びだったのか。

円を描いてカーリングのようにはじき出す遊びだったのか。

 ニューヨーク・タイムズ紙によると、家の前で遊んでいたのは8歳から12歳の男の子7人だった。

遊びに夢中で何が起こったのか知る由もなかったのだろう。

9歳と10歳の女の子2人は、家のそばを流れる小川に水をくみに行くところだったという。

 米軍は、この攻撃で潜伏中のテロリストを殺害したと発表した。

しかし死亡した男について村人らは別人であると語っている。

イランで3年間、井戸を掘る仕事をして10日前に帰ってきたばかりだという。

5日後に、婚約の祝い事をひかえていたともいう。

 「子どもたちがいるとは思いもしなかった」というのが米軍側の説明だが、

民家を攻撃しながら通用する釈明ではあるまい。

アフガンでは去年7月、結婚式会場が攻撃されて48人が死亡したのをはじめ、

米軍の誤爆などで民間人がたびたび犠牲になっている。

「思いもしなかった間違い」が積み重なっている。

 死んだ子どもたちの親は、散乱する小さな靴や帽子を指さして

「この子たちがテロリストだって!」と怒り、嘆いたそうだ。

「大義」の陰で、人々の怒りや悲しみも降り積もっていく






一度でいいから本物のサッカーボールを
けってみたい
イラクの少年の夢


12月11日の天声人語より



 「一度でいいから本物のサッカーボールをけってみたい」。

ゴム製ボールしか知らなかったイラクの少年の夢が、日本の高校生の活躍で実現した。

 今春、イラク戦争中のバグダッドの変電所に「人間の盾」としてとどまっていた福岡県の牧師木村公一さんに、

少年らが英語で話しかけてきたのがきっかけだった。

「ナカタを知ってる?」。イタリアで活躍する中田英寿選手の話から始まった。

 変電所の職員住宅に住む14歳のフセン君らは、父親の月給でも買えないほど高価なボールへのあこがれを語った。

木村さんは「届くように努力する」と約束した。

 その話を4月の帰国報告会で聞いた明治学院高校の小暮修也先生が高校生たちと話し合った。

「私たちもイラクに生まれていたかもしれない」「ひとごととは思えない」。

小暮先生が顧問をするボランティアサークルの高校生たちは動き始めた。

 先に購入しておいたボールに寄せ書きをしてもらいながら、寄付を募った。

東京・品川駅頭での2回の呼びかけで、約500人が募金をしてくれた。

16万円ほど集まった。子ども連れのお母さんたちの反応が大きかったそうだ。

10月にバグダッドを再訪した木村さんにボール30個を託した。

フセン君は「信じられない」と言って木村さんに抱きついたという。

 フセン君らはボールを抱えた写真とともに感謝の寄せ書きを木村さんに託した。

少年なりに自国の現状を憂える言葉も交じっていた。「ボールを贈ってくれてありがとう。

でも軍隊はいりません」。高校では今週、壁新聞で経過を報告した。






「創作四字熟語」の優秀・入選作で、
この1年を振り返ってみる。



12月12日の天声人語より


 国の針路を左右するような課題を抱え込んだ重たい歳末となった。

そのせいか、今年起きたあのこともこのことも、随分遠いことのように思われる。

住友生命が毎年募集している「創作四字熟語」の優秀・入選作で、この1年を振り返ってみる。

 全国から寄せられた約1万点のうち、最多の16%が「タイガースもの」だったという。

長い「虎無沙汰(こぶさた)」の後だけに、道頓堀川では5千人以上が「橋喜乱舞」した。

 アジア発の新型肺炎に世界がおびえマスクでの「被面阻禍」で「平温無事」を願う姿が目立った

冷たい「穀菜痛夏(こくさいつうか)」に負けずに作物を育てあげたのに、

「愛米何処(どこ)」と嘆かせる犯行が続いた。

オレオレという「我称連呼(合従連衡)」や、宮家をかたる「殿下御免」など、

人の心理につけこむ犯罪も後を絶たない。

 総選挙でのマニフェストは「政権効薬」なのか、一時の膏薬(こうやく)だったのか。

「憂慮道路」の行方など見ながら判断することになる。

財政難から、国は「八方取税」の構えで、「嗜好(しこう)停止」に踏み切った人もあるだろう。

医療費の自己負担増には「三割達者(打者)」を目指すしかないのか。「後世捻(ねん)金」も心配だ。

 1年を通して世界をゆるがしたのは、イラクの戦争だった。

大規模戦闘終結宣言の後にも多くの命が奪われ「苛苦(いらく)復興」に陥った。

あの開戦の攻撃を、四字熟語もどきに作ってみれば、世界の憂慮の中での、

米英による「専制攻撃」ではなかったか。

そして、イラクへの復興支援が「撃主(ぶっしゅ)支援」に偏りはしないかと気にかかる。

 厳しい年が、暮れてゆく。



イラクへの日本の小泉首相が進める支援はブッシュ支援としか感じられない。

命をかけて日本の自衛隊が何故にブッシュ支援の為に行かなければならないのか。?

本当のイラクへの支援は早く米英国をイラク占領を終わらせ撤退させる事にある。

空白を作るとテロが横行するとして米英はためらつている。以前にベトナム戦争で米英が撤退して

何がおこったかをみれば却ってゲリラやテロは収まると考えるのが常識である。

そのための努力することこそが真のイラク国民への支援である。

ブッシュ支援する事により益々余計にイラク国民を混乱 困苦に落としこんでいる。

早く国連を主体にした真の復興支援に切り替えるべき努力をすべきである。

日本の戦国時代に,ある外国が封建制度にしばられた日本国民のためといって攻めてき,

その外国が日本を占領すれば外国人に対し全日本国民が怒りでもって反発し,

さらに混乱を来たすのと同じ理屈がおきている。

早く外国勢は始めの目的である在庫武器の消費のための戦いは終わってしまったのだら

占領は早期に終結させるべきである。

イスラム系統のテレビ放送を使い「日本は戦争の為に自衛隊は派遣していないと」宣伝しても

本気には取られることはない。ブッシュの支援にしかイラク国民には写らないだろう。

イラク国民が求めない自衛隊派遣を強行する小泉首相の真の目的の話を是非聞かしてほしいものである。

犠牲者が出てからでは遅い。! 小泉さん,貴方が派遣命令最高責任者としてイラクで最初の亡くなる人になるならば

国民はなんとか少しは自衛隊派兵にも納得するかもしれないが。でも自衛隊派兵はやめとくべきである。!

ブッシュを助けるだけの事である。





そこには「無」の一文字が刻まれている


12月13日の天声人語より


 JR横須賀線の北鎌倉駅で降りる。すぐ前に円覚寺がある。

北条時宗の創建で、鎌倉五山の一つだ。

夏目漱石が参禅し、後に小説『門』の中で描いたとされる。

 昨日が誕生から満100年で、没後40年でもあった映画監督、小津安二郎は、ここに眠っている。

山門をくぐり、石の階段をほぼ上り詰めた墓地の一角に、四角で黒い御影石の墓がある。

そこには「無」の一文字が刻まれている。

 小津は日中戦争で召集され、戦場を体験した。

南京に駐留していた時、古寺の住職に書を頼んだ。それが「無」の一字だった。

何枚も書いてもらい、友人たちにも送った(『ココロニモナキ ウタヲヨミテ』朝日ソノラマ)。

 無常、虚無、絶無、無窮、無碍(むげ)、無尽……。

人を想像へといざなう一字である。

解釈は、それこそ無限にあるのかも知れない。

墓前で手を合わせながら、ふと思ったのは、「無い」という文字がここに「在る」ということだった。

 小津監督は、人生で、そこに「在る」ものが失われたり消えたりする過程を、繰り返し描いた。

「晩春」「麦秋」「早春」「秋刀魚の味」。


歳時記のような題の付いた落ち着いた画面の底には、避けられない別離や、

いずれもたらされる不在への予兆などが、せつなく流れていた。

 「無」には、かつて在ったものに対する哀惜が含まれているのかもしれない。


作品を見る側では、監督が写しとどめた「現在」が、かつて在った「あの時」となって哀惜の念を募らせる。

 「無」の脇には、生前愛飲した長野・蓼科の地酒が手向けられていた。





99回走って一度も勝ったことがない。
きょう100戦目を迎える。


12月14日の天声人語より



 負け続ける競走馬がいる。99回走って一度も勝ったことがない。きょう100戦目を迎える。

高知競馬のハルウララ、7歳の牝馬(ひんば)である。

 競馬が異常なまでのブームになった30年前を思い出す。

地方競馬出身のハイセイコーが中央競馬に移り、連勝を重ねたときだった。

怪物と称され、出世物語を体現したヒーローに祭り上げられた。

しかし、その年のダービーで予想を裏切って敗北する。

故寺山修司は、その敗北に「ヒーローなき時代の混迷」を読みとった。

 また70年代、黙々と走り続け、99戦にたどりついた馬をハルウララに重ねあわせたくなる。

ヤマニンバリメラといった。時々勝つことはあったが、負けを重ねた印象ばかりが強い。

力を抜かない懸命の走りに、少なからずファンはいた。故障のため、100戦を前に引退した。

 ハルウララは、2着に入ったことが4回ある。これまで稼いだ賞金は100万円を少し超える程度だ。

億単位の賞金を稼ぐ中央の強い馬とは比べものにならない。

それでも応援ツアーが組まれるほど人気を集めている。

1着を当てる単勝馬券は「当たらない」ということで、交通安全のお守りにされるほどだ。

 作家の重松清さんは、負けるとすぐくじけてしまういまの子どもたちに向けて、

ハルウララの物語を本にする予定だ。

「負けることに負けてほしくない」との願いが込められる。

 ハルウララの母の名はヒロインといった。

100連敗に達するのか、予想外の勝利を収めるのか。

どちらにしても、ほっとさせられる、そんな現代のヒロインである。






やつれた様子で「ネズミのように」捕まった
イラク戦争の「正当性」自体も俎上(そじょう)に
上ることになろう。



12月16日の天声人語より



 バグダッドでフセイン元大統領の銅像が引き倒されたのは約8カ月前だった。

フセイン体制の崩壊を象徴する場面だった。

現実のフセイン元大統領はといえば、銅像のように仰々しく崩れ落ちはしなかった。

やつれた様子で「ネズミのように」捕まった。

 隣国ヨルダンの新聞は「アラブ人にとっては悲喜劇」との見方を掲載していた。

悲劇は彼が米軍に何の抵抗もせずに捕らえられたことで、

喜劇は35年もの間イラクを支配した男があんなふうに捕まったことだ、と。

 独裁者の拘束に安堵(あんど)と喜びが走る一方、

アラブ世界の受けとめ方は、そう単純ではないことをうかがわせる。

ヨルダンに亡命していた娘の一人も泣きながら

「強いイラクの男がこんなことになるなんて信じられない」と語ったそうだ。

 「助けるものはおらぬか? 捕虜になるのか? わしは生まれながら運命にもてあそばれる道化だった」。

シェークスピアの「リア王」は裏切られて狂い、うめいた。

フセイン元大統領は「自分は、いまでもイラクの正統な統治者だ」と強腰も見せているらしい。

 米軍によって殺害された2人の息子と違って、

フセイン元大統領が生きたまま拘束されたのは幸運だったというべきだろう。

彼が犯したとされる数々の「犯罪」をイラク人注視のうちに検証することができる。

その過程で、イラク戦争の「正当性」自体も俎上(そじょう)に上ることになろう。


 「ひどいではないか、わしを墓から連れ出すとは」とはリア王のせりふだが、

証は、死者たちの無念の言葉に耳を澄ましながら進めねばなるまい。





1903年の今日、米国の東海岸で、
ライト兄弟が初の動力による飛行に成功


12月17日の天声人語より


 それは、飛んだというより、浮かんだのかも知れない。

離陸から12秒、距離は36メートルだった。

 1903年の今日、米国の東海岸で、ライト兄弟が初の動力による飛行に成功した。

100年もたったというよりも、まだ100年しかたっていないのかという思いが強い。

 それほどの、激しい変容があった。

車並みの速度から超音速へ、1人乗りから500人乗りへ。

人や物を行き来させるための最速、必須の装置となった。その変化を促したのが戦争だった。

 飛行機への思い入れが深かった作家、稲垣足穂の『ライト兄弟に始まる』に、こんな記述がある。

第二次大戦のさなかの43年12月17日、初飛行から40周年を祝う大統領主催の式典がワシントンであった。

招かれていたライト兄弟の弟オービルは、その夜、航空関係者にこう語ったという。

「悪い奴が飛行機を歴史上最も致命的な武器に使用している」(『稲垣足穂全集』筑摩書房)。

一方で兄弟は、初飛行から間もないころには、日本の陸軍に売り込みの手紙を出していた。

 100周年を記念して米国立スミソニアン航空宇宙博物館の新館が開館した。

復元されたエノラ・ゲイの展示には原爆被害の実態は記されていない。

空襲、空爆という、相手との隔たりを保つ戦争の手口は、地上の被害を無差別的、甚大にする一方で、

攻撃する側の罪悪感を小さくしたのかも知れない。


 「何もおそれない そして舞い上がる 空に憧れて 空をかけてゆく あの子の命はひこうき雲……」(荒井由実)。

機影を追う人々の思いも願いも様々だ。



一発の広島原爆投下で35万人が瞬間に亡くなり,その後遺症も含め一発の原爆で延べ45万人が今までに亡くなっている。

復元されたエノラ・ゲイが米国立スミソニアン航空宇宙博物館の新館展示されるに対してのアメリカ人の

日本への配慮がどの位あったのか。その展示しようとする神経がどうしても理解できない。

やはり文明人の顔をした第二次大戦中の「鬼畜米英」のスローガンどうりのアメリカ人観は正しかったのかと。

東条英機のような反米だけでなく,小泉純一郎のような米国追従だけでもない,言うべきことは言い

賛同すべきことには協力できる日本の総理大臣か早く出てきてほしいものである。

今のままでは日本は米国の半植民地国家である。





囚(とら)われた「独裁者」


12月18日の天声人語より


 「どこの国の独裁者でも、自分だけは囚人になりたがらないもんだ。

自分だけは人民すべての共有する恐怖を、分担しない権利を保有しているものだ」

(『武田泰淳全集』筑摩書房)。

フセイン元大統領の、この「権利」は、既に失われたようだ。

 最後の隠れ家には、アラビア語版のドストエフスキーの『罪と罰』が残されていた。

「選ばれた強者には罪を犯す権利がある」と考えた貧しい学生ラスコーリニコフは、

金貸しの老女を殺して金を奪う。

しかし、この「権利」の行使は、予期に反して激しい罪の意識をもたらした。

この本が元大統領のものだとすれば、意外な取り合わせのようでもあり、

その題名が妙に生々しくも思われる。

 ワシントン・ポスト紙によると、ベッドの脇の収納箱の上には、本が10冊ほど積んであった。

「戒め」や「罪」という題の、アラビア語の詩集や、夢判断の本があった。

 小さな冷蔵庫の上には米国のせっけんとシャンプーがあり、

かつての暮らしをしのばせるかのような金色の鏡もあった。

食料は、卵、きゅうり、にんじん、りんご、キウイ、肉の缶詰、蜂蜜、紅茶と、豊かそうだった。

「慈悲深い神よ」というような、アラビア文字も見られた。


 ドストエフスキーは、18歳の時に、兄あてに、こう書いている。

「人間は神秘です。どうしてもその謎を解かなければなりません。

(略)たとえ一生をついやしても」(『筑摩世界文学大系』小沼文彦解説)


 人間の謎に迫ったあの一冊は、囚(とら)われた「独裁者」に、何を思わせているのだろうか。



100パーセントの悪はなく,又100パーセントの善もない。色々な報道を見る限りにおいて

アメリカはイラン・イラク戦争当時フセイン大統領をば利用するだけ利用している。

フセインを独裁者に成長させたのもアメリカかもしれない。

そして援助も事欠かずに化学兵器も大国から手に入れてフセインはイラクの反乱軍に使用している。

無惨にも化学兵器で殺された人々子供女性達の姿をむテレビ 報道写真で接し驚いたものである。

確か当時はアメリカがイラクを支援していた時代の話しである。

現アメリカのラムズフェルド国防長官と親しく握手した報道写真を再々に見ている。

「人間は神秘です。どうしてもその謎を解かなければなりません」の光景である。

国際司法裁判制度が国連下にでき,全ての争いがそこで裁かれるようになれば

戦争は地球上からなくなると思うのだが。

10兆円もする日本国土ミサイル防御システム購入に努力をするよりも

国際司法裁判制度確立の為に努力をする方が平和憲法を持つ大国としての役割りにふさわしいと

考える。





納税者の意に沿うことが、
あの国ではいかに重要なこと



12月19日の天声人語より



 豊かな人からたくさん取って貧しい人々にまわす。

税金にはそうして平等を促進する役割もある。

日本は世界で最も平等な社会なのに、

税金を集めて再分配すると中程度の平等社会に落ち込んでしまう。

 ジニ係数という指標をもとに東大教授の神野直彦さんが指摘をしていた

(『別冊「環」税とは何か』藤原書店)。

財政がきちんと機能していない。それなのに税の負担感ばかりが強い。

比べてスウェーデンやフランスが財政の効果をよくあげている、と。

 一方、納税者意識が薄いとは、日本人についてよくいわれることだ。

気前がよいといってもいいし、「年貢の納めどき」といったあきらめが強すぎるという面もある。

政府は政府で納税者を甘く見てきたのではないか。

 イラクの復興事業をめぐり先日、米国が「危険を冒さなかった国には

参加させない」という強引な方針を示した。

内外の反発を招いたが、ブッシュ大統領の苦しまぎれとも見える弁明が印象的だった。

「納税者は理解してくれる」「わが国の納税者の期待するところだ」。

納税者の意に沿うことが、あの国ではいかに重要なことか。


 神野教授は1928年総選挙の政友会のポスターを引用していた。

「地方に財源を与ふれば 完全な発達は自然に来る/地方分権丈夫なものよ ひとりあるきで発てんす」。

中央と地方とで税金をどう分配するか。75年前と同じ課題の前で悩んでいるいまの日本である。

 与党の税制改正大綱決定から、来年度予算案の決定へ。

納税者として警戒を怠ることができない重要日程が続く。



お上に収める税金に対して国民は文句をつけようがないという封建制度的発想はなくなっていないようだ。

納税者の意に沿うことが、あの国ではいかに重要なことかを是非日本も見習ってほしいもので゛ある。

だがお上が勝手な納税者意識を作ってしまわれれば封建制度的発想となんら変わりはないと思う。





「文化の多様性」を誇った国が
どうしたことかとの疑問がわく


12月20日の天声人語より



 スカーフをめぐってフランスで論争が起きている。

ファッション論争ではなく、宗教論争である。

イスラム教女生徒が公立学校でスカーフをかぶることを禁じる法律をつくる、

とシラク大統領が表明したからだ。

 シラク氏が尊敬するドゴール元大統領が「265種類ものチーズがある国」といって

「文化の多様性」を誇った国がどうしたことかとの疑問がわく。

表向きは教育の場での政教分離の徹底ということらしい。

 「カトリックの農民を共和国の市民にするのがフランスの学校の役割」という言い方がある。

欧州では、影響力が絶大だった教会と闘って政教分離を獲得してきた国家の歴史がある。

しかしいま、スカーフによって政教分離が脅かされているわけではないだろう。


 まさかことあるごとに聖書を引くブッシュ米大統領の「政教密着」へのあてつけではあるまいが、

政治的意図もささやかれる。


アラブ系移民が多いフランスでは移民排斥を唱える極右が勢力を伸ばしている。

イスラム教へ強い姿勢をとることで、その支持層にも訴えようとしたとの見方だ。

 スカーフをイスラム圏の女性抑圧の象徴と見る人々をはじめ、新法支持者は意外に多いようだ。

イスラム教徒は抗議の声をあげている。「何を着ようと自由」という宗教を超えた反対もある。

 スカーフのほかキッパというユダヤ教の帽子や大きな十字架も禁止の対象になるらしい。

抗議運動にはユダヤ、キリスト教から合流する動きもあるようだ。

宗派を超えた連帯を促そう、という「深謀遠慮」だったらいいのだが。






年末にかけて日本各地で演奏される第9は



12月21日の天声人語より


 ベートーベンの交響曲第9番の日本初演は1918年6月だったとされる。

捕虜として徳島県の収容所に入れられていたドイツ兵が演奏した。

第一次世界大戦の末期、ドイツが敗色濃厚なころである。

 収容所は比較的自由な雰囲気で文化活動も盛んだった。

それにしても楽器をそろえるだけでも大変だったろう。

手製の楽器もあったろうし、ファゴットをオルガンで代用させるなどの工夫もしたらしい。

初演は、45人のオーケストラに90人の合唱団という堂々たる編成だったという。

 第二次世界大戦中にも第9は流れた。

日本の敗色が深まっていく44年夏のことだ。

東大の出陣学徒壮行会で演奏された。出陣学徒が奔走した結果だった。

 食糧難著しいころである。

頼まれたオーケストラは「体力不足で第9は無理だ」と渋ったが、

第3、4楽章だけでも、ということで実現した。

切迫した空気のなかで流れた第9は格別の感動をもたらしたことだろう。

 ヨーロッパでいま第9は、憲法論議に巻き込まれている。

欧州連合(EU)憲法草案に、第4楽章の「歓喜の歌」が統合のシンボルとして採用されているからだ。

当初、賛成する独仏に対し、英国、北欧などが渋ったという。

結局、草案には盛り込まれることになった。

しかし憲法自体は論議が難航し、成立のめどが立っていない。

 年末にかけて日本各地で演奏される第9は、歴史の波にもまれながら、

様々な人々に感動を与えてきた。「苦悩から歓喜へ」。

劇的な展開をするこの曲は、時代や国境を超えてなお引き継がれていくだろう。




だんだん太陽が衰えていく、
最も衰えるのが、きょう冬至である



12月22日の天声人語より



 午後の短さを実感するこのごろだ。真昼を省略して、朝からなだらかに夕暮れに向かうように感じられる。

気がつくと、いつのまにか薄暗くなっている。

 昔の人は、だんだん太陽が衰えていく、と感じたらしい。最も衰えるのが、きょう冬至である。

「一陽来復」。翌日からまた日が長くなるのは経験上わかっている。

しかし、ひょっとしてこのまま太陽が衰弱してしまいはしないか。

そんな恐れもつきまとったのではないか。

 インドでは冬至にブランコの儀式が催されたそうだ。

祭官がブランコに乗ってまず地面に触れ、太陽に向かって高く舞う。

衰弱の極にある太陽が、大地の女神と交わって活力を与えられる、という考えからだ

(『日本民俗文化大系 演者と観客』小学館)。

世界各地に、同じような「衰弱からの再生」を祈り、祝う行事がある。

 日本では、衰弱した太陽にではなく、各人の体に活力を与えようという風習が定着してきた。

「冬至には、三吉の家でも南瓜(かぼちや)と蕗味噌(ふきみそ)を祝ふことにした」。

故郷の長野県を舞台にした島崎藤村の小説「家」にもこんな一節が出てくる。

 この日に食べるものは地方によっていろいろだが、カボチャや小豆粥(あずきがゆ)を食べる風習は各地に残る。

最も広く行き渡っているのは、柚湯(ゆずゆ)だろう。


由来ははっきりしないが、江戸時代にはもう広がっていたようだ。

栄養を補給し、体を暖めて寒さを乗り切ろうとの願いが込められる。

 この日を新しい年の始まりとする考え方もある。


太陽が再生する日を、毎年訪れる太陽の誕生日として祝うのも、またいいか。





「忘年会」


12月23日の天声人語より



 「それだけがあっても十分とは言えないが、もしそれが無かったら、味わいというものが足りなくなる……」。

先夜、ごくありふれた忘年会の一つに連なり、目の前のビールの泡を見ていて、ふとそんなことを思った。

 ビールの泡の持つ科学的な効用というのは、聞いたことがある。

空気とビール本体の間に入って両者を遮り、新鮮さを保つ働きがあると。


しかし、軽い泡の重みというものは、もう少し別のところにありそうに見えた。

 ビールをつがれて、泡ばかりだとすれば、不満が出る。

しかし、泡がまったく無かったとしたら、茶一色の液体を、寒い日本の冬に、冷やしてまで飲もうとするだろうか。

つがれた途端に消え始める白い泡の、はかなく頼りない姿も、ビールをビールとして成り立たせている。

グラスに耳を寄せれば、プチプチと、泡のはじけるような小さな音も聞こえる。

 いわば、「それだけでは満足できないが、それ無しでも満たされない」存在なのだろう。

たかが泡のことなのに、どこか人の世にも通じそうだと思ったところで想像ははじけ、散会となった。

 「忘年会」という言い方は、漱石の『吾輩は猫である』や、内田魯庵の『くれの廿八日』に出てくる。

しかし、「年忘れ」の語は、古く室町時代から見られるという。

とは年の暮れに、一年の労苦を忘れ、無病息災を祝うために親類や友人が集まって催していた。

今では、職場、グループが中心になった。


 忘年会とは、それぞれの1年が詰まったビンの栓を抜くことかもしれない。

泡が出るとは限らないが。




今夜はクリスマスイブだが


12月24日の天声人語より


 大正の時代に「正チヤンの冒険」という漫画があった。

少年が、リスをお供にしておとぎの世界を巡る。

 関東大震災の起きる1923年に創刊されたアサヒグラフや、朝日新聞にも連載された。

正チャンのかぶる、てっぺんに球のついた「正チャン帽」が人気を呼んだ。

 正チャンの絵を担当した樺島勝一が描いた政治風刺漫画が、

創刊の年の12月のアサヒグラフに載っている

。政治家が大震災の復興資金の調達で大風呂敷を広げたのに実際は少なかったという、二コマものだ。

今でもよく見かけるようなサンタクロースの格好をした政治家が、大きな袋をかついでいる。

 漫画の中では、人々はサンタクロースにそっぽを向いているが、

この当時から「プレゼントを運んでくるのはサンタクロース」という図式が定着していたことが分かる

(『サンタクロースの大旅行』岩波新書)

 今夜はクリスマスイブだが、さかのぼれば、日本での最初のクリスマス祭は、

室町時代の守護大名大内義隆がザビエルにキリスト教の布教を許した山口の教会で、

1552年に行われたという。

最初のクリスマスツリーは、幕末の1860年に江戸のドイツ公使の宿舎に出現した。

とは言っても、宿舎の柱すべてに杉の葉を巻きつけ、

これにいくつもの提灯(ちょうちん)や砂糖菓子をぶら下げていたそうだ。

 正チャンの登場から80年になったのを記念して、

今年は原画などの展示会があり、復刻版(小学館)も出た。

その解説で、中条省平さんは「『不思議の国のアリス』に似たファンタジー」と書いていた。





奄美大島に移り住んで
南島からの発信を続けた
島尾の原点である。



12月25日の天声人語より


 加計呂麻(かけろま)島は奄美大島のすぐ南にある面積77平方キロほどの小さな島だ。

住民は自分たちの島が加計呂麻といわれていることを知らないようであった、と書いたのは

、この島で45年8月の敗戦を迎えた作家の故島尾敏雄である。彼にとっては運命の島だった。

 派遣先がその島と決まったとき「身内を走りすぎた戦慄を忘れることはできない」。

モーターボートに爆薬を積んで体当たりをする特攻部隊の隊長だったから、死地への旅だった。

しかし、出撃指令が出て待機中に敗戦、死を逃れた
(『新編・琉球弧の視点から』朝日文庫)。

後に奄美大島に移り住んで南島からの発信を続けた島尾の原点である。

 加計呂麻島も含めた奄美群島が沖縄とともに米軍政府下に置かれたのは、敗戦の翌年だった。

軍政下の苦しい時代、奄美の文化はむしろ活況を呈したのではないか、と島尾は見ていた。


本土への従属感から解放されて、独自に軍政に対抗しようとする気概があふれていたのではないか、と。

 約8年間の軍政の後、奄美群島が本土復帰を果たしたのが50年前のきょう25日だった。

当時の新聞は、旗行列やちょうちん行列で喜ぶ島の人々の表情を伝えている。

 復帰後の荒々しい変化で、「文化の行きとどかぬ人間まるごとの古いアマンユ(奄美の世)」が消えつつあり、

本土の流行が風俗を平板にしていく。島尾は悲しげに見ていた。

 近年、島唄(しまうた)をはじめ奄美の文化への関心が高まっている。

島尾の憂慮はさりながら「アマンユ」はなお力強さを失っていない証しと見ることはできないか。





ワシントン州で飼育された牛が
牛海綿状脳症(BSE)に感染



12月26日の天声人語より


 米国では、ここ3、4年、牛肉の消費量が増え、価格が高騰していたという。

ダイエットをめぐる1冊の本がベストセラーになったことと無縁ではない。

 このダイエットは、穀類などの炭水化物を控えて、肉などの高たんぱく食品を食べることを勧める。

肉好きの米国人には、ありがたい「ご託宣」だったろう。


安心してステーキをむさぼることができる。ブームを呼んだ。

70年代から提唱してきたアトキンス氏は、ブームのさなかの今年4月、事故死した。

 1冊の本で変わった流れが、1頭の牛によってまた変わるかもしれない。

米国北西部のワシントン州で飼育された牛が牛海綿状脳症(BSE)に感染している疑いのあることがわかった。

 米国では1億頭近くの牛が飼育されている。

そのうち毎年3500万頭ほどが食肉用にまわる。

9割が国内で消費され、1割が輸出用だ。日本への輸出が最も多くその3割を占める。

日本政府はいち早く輸入停止を決めた。

「唯一の同盟国だから」などという配慮を見せなかったのはよかった。

 日本や欧州に比べてBSEの検査が緩やかな米国がどんな対策を講じるか。

政府高官らは「クリスマスにビーフを食べます」と語っていたが、もちろんそれで世界を安心させることはできない。

テロからの安全にはあれほどの厳しさを見せる国が、食品の安全にどれほどの労力をそそぐか。

 たった1頭の牛が世界注視の的になり、政府や市場、人々の食卓にまで影響を与える時代である。

そして本当にたった1頭なのか、が最も気になるところだ。



一頭だけがBSEに罹っているとは誰にとっても考え難いことである。強権でもって自国の損失になる事には早く蓋をしたい

気持はわかる。だがあるかないかも判らないようなイラクの大量破壊兵器には神経質と思えるほどに

気にした同じ国の態度とは思われない。そうして多くのイラク国民に死傷者をだし,自国の兵隊の他に 国連 赤十字

そして多数の国々からも犠牲者がでている。

そのような被害状況からみればBSE問題はたいしたことではないとでもかんがえるのだろうか。

日本や欧州に比べてBSEの検査が緩やかな米国がどんな対策を講じるのかどうか。







初陣 死を覚悟して暇乞(いとまご)いをする


12月27日の天声人語より


 初陣、初めての戦である。死を覚悟して暇乞(いとまご)いをする。


中村勘九郎が戦場に赴く若武者を演じた東京・歌舞伎座の12月公演「絵本太功記

 尼ケ崎閑居の場」は、ただならぬ切迫感を漂わせた舞台だった。

 明智光秀の謀反が題材で、勘九郎は息子の十次郎役だった。

光秀の母は、主君を討った息子の不義を責める。

十次郎は、父が引き起こした戦に出陣せざるをえない。

大義のない戦だとしてもやむをえない。許嫁(いいなずけ)の初菊は泣いて引き留めようとする。

しかしあきらめるしかない。あわただしく催された祝言の杯は、また別れの杯でもあった。

 数々の戦に赴いた若者たちの姿が走馬灯のように浮かんでくる。

1937年、母を残して中国戦線に送り出された「出陣学徒」はこう書き留めた。

出征兵を送る万歳の声が続くなか「『征(い)きたいでしょう』。

ときどき人に訊(き)かれる。私は黙って笑っておく」(岩波文庫『第二集 きけわだつみのこえ』から松永茂雄のメモ)。

戦地に赴く胸中は単純ではない。

残された者たちの悲しみは、いつの時代にも変わりないだろう。


戦に大義があろうとなかろうと、たとえ後に名誉が与えられようと

征くのはかけがえのない人なのだから


 歌舞伎は、過去の物語のようなふりをして現在を映すことがしばしばある。

今年で400年とされる歌舞伎の強さである。2世紀前の作「絵本太功記」にも、そんな力があった。

 中国各地を転戦した松永は「オデッセイ」と題した詩を残した。

「おろかな私たちは空しいさだめのままに/名も知れぬ無限の戦(いくさ)を戦っている」



戦争は人々に必ず不幸をもたらすと判っていてもどうして戦争はつづくのでしょうかね。






イランの大地震で被害が集中したバムの町は


12月28日の天声人語より



 14世紀のアラブ人旅行家、イブン・バットゥータは、

ペルシャの町イスファハンに行った時のことを、こう記している。

「町の規模と華麗さにおいて、数ある町々の中でも最高の町の一つであるが、

(略)紛争のために、その大部分が荒廃に帰している」(『大旅行記』東洋文庫)

 イランの大地震で被害が集中したバムの町は、既にこの当時、イスファハンのはるか南東の地で、

数百年以上の歴史を刻んでいたのである。

東西文明の行き交う道が国土を横切るイランは、度重なる戦争の舞台ともなった。

そうした歴史の証人でもあった巨大なバムの城塞(じょうさい)跡も、ほぼ全壊したという。

 城塞と同じく、多くの住民の家々もれんが造りで、被災者は、がれきの下敷きになった。

「最初の48時間が非常に重要だ」。


ハタミ大統領は、人材と機材について国際社会に支援を訴えた。

日本も、緊急かつ最大限に応えるべきだ。

 このような大きな災害の度に思うのは、国際的な救援の仕組みの強化の必要性だ。

各国の報道をみていると、人員や機材には濃淡をみせながらも、それぞれが救助隊を送り出そうとしている。

しかし、時間との競争なのに効率は良くない。

 少しでも早く必要な所に必要な支援隊を送ったり、

平時から各国の救助能力を標準化したりするための世界の司令塔、

いわば「国境なき救助隊」を育ててゆきたい。


今後の国連の仕事としても重要だ。

 地震、津波、噴火。自然災害との闘いの歴史では世界でも有数の日本は、

そうした仕組みづくりでこそ、力を発揮できるはずだ。





 暮れも押し詰まってきた。


12月29日の天声人語より



 暮れも押し詰まってきた。

年末で気忙(きぜわ)しくなると、夕食をよくゴッタ汁の鍋にしてしまうと書いたのは幸田文だった。

 すき焼きや寄せ鍋は具を補う世話がいる。それがじれったい。

ゴッタ汁だと一度に煮立って、大勢で一斉にたべられるのがいい。

「だから、年末の和合、活気、心忙しさ、寒さへの抵抗、出銭のかなしさ入り銭のうれしさなど、

歳末の私の感情はかなり細かにここに映っている勘定で」と続く(『文芸朝日』64年12月号)。

 通り道で、松飾りを売っていた。

日本で、この風習が長く続けられてきたのには「一種の社会政策的な意義があったように思われる」と記したのは、

佐藤春夫である。

 この時期、山村から切り出した小松や松の枝などを都会で使うことになれば、

山村の年末年始もいくらか利潤が生まれる。

「都市の金銭を山村や農村にも融通するための一方法として、

松飾りやしめ飾りは、無用の用ともいうべき用を果たしているようにわたくしには思える」

(『定本 佐藤春夫全集』臨川書店)

 昨日、東京は好天で、上野のアメ横は買い出しの客でにぎわっていた。

満員電車並みの一角もある。

押されて泣き顔の少女があり、「おじいさん、迷子になるよ」と叫ぶ青年がいた。

「千円でいいよ」「持ってってよ」「千円だよ」。

勢いよく千の字が飛び交うが、お札の方が勢いをつけるのは、まだこれからのようだった。

 せわしさが募る。片をつけようと思うことも、なかなかはかどらない。

しかしそれもやがては、元日のゆるやかな時の中へ溶けてゆくのだろう。





「戦争には徹頭徹尾反対する」と語る


12月30日の天声人語より



 最近の言葉から。「昔見た映画に、お釈迦様がうろうろしているシーンがあって、それが美しかった。

人間って迷っている姿が本当の姿で、美しいのかなって思う」と画家の高山辰雄さん。

 イラクで犠牲になった外交官井ノ上正盛さんは小学5年のとき、作文に書いた。

不作の土地を捨てていくアフリカの人の姿に「言葉で言い表せないほどつらい気持ち」を抱き、

日本の「休耕田をアフリカの人たちに少しでも生かせないものかと思った」

 10年前、カンボジアで殉職した警察官高田晴行さんの母幸子さんは

「自分で悲しみを乗り越えて生きていくよりしょうがない」「死んで半年ぐらいして友達に会った。

何も言わずに肩に手を置いて悲しそうな顔をしてくれた。

そんな態度が、お悔やみを言ってくださるよりも忘れられない」と。

 ベトナム戦争を取材した米国写真家エディ・アダムズさんは「戦争には徹頭徹尾反対する」と語る。

いま、世界の有名人を撮っている。「もう、たくさんだ。こんなのは撮れない」と泣きながら仕事をするのは嫌だから。

 「物事の深みは隠されている。どこに? それは表面上に隠されている」との

イタリア作家の言葉を引きながら小津映画の魅力を語るのは

台湾の侯孝賢(ホウシャオシェン)監督。

 「みなさんは、今年一年で何回泣きましたか。

その涙にはどんな理由があったり、なかったりしましたか。

心は身体と同じで、いつも動かしていないと、すぐにかちかちに硬くなってしまう。

涙には人の心をストレッチするやわらかな力があるのです」と作家の石田衣良(いら)さん。





2003年の日本列島に響いた。



12月31日の天声人語より


 「映画の中に軍服姿を全く登場させなかった」と小津安二郎作品について語ったのは吉田喜重監督だった。

生誕100年記念のシンポジウムでのことだ。

軍服が街にあふれていた時代にも、画面ではひとりの軍人も歩かせていない、と。

 1年を振り返りながら過去100年のことを思う機会が多かった。

「蟹工船はどれもボロ船だった」と働く人々を描いた小林多喜二は70年前、拷問死した。

同い年の作家の死を小津はどう受けとめただろうか。

「放浪記」の林芙美子も1903年生まれだ。

彼女は「弱き者よ汝(なんじ)の名は貧乏なり」といいつつ、貧困と放浪のなかでたくましく生き抜いた。

 夭折(ようせつ)した童謡詩人の金子みすゞ、詩人の草野心平と小野十三郎、

前衛芸術の滝口修造、版画家の棟方志功、作家の深田久弥らが今年生誕100年を迎えた。

 アイヌの知里(ちり)幸恵と沖縄出身の詩人山之口貘(ばく)とを忘れるわけにはいかない。

19歳で亡くなった知里は、アイヌの伝承詩を美しい日本語に訳し、遺作とした。

「おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう」と詠嘆しつつ

(『アイヌ神謡集』岩波文庫)

 山之口は極貧の生活のなかで詩を書き続けた。

「蛇皮線の島/泡盛の島/詩の島/踊りの島/唐手の島」の沖縄に

「こんどはどこへ行くというのだ」と呼びかけたのが51年夏のことだった(『山之口貘詩文集』講談社文芸文庫)

 同じ年に生まれ、さまざまな人生を送り、多彩な表現をしてきた彼らの声が、2003年の日本列島に響いた。




政治は魔物



良い政治は明るい社会を生み出すが,一方悪い政治は世の中を破滅させ暗黒の世界を作り出す。

政治は神様がするものでなく,又は天から与えられるものでもない。ただの人間が政治をつかさどっているだけである。

政治に携わる人こそ立派で,万人の信頼にたえられる人々であるのが目標であるが,往々にして世の中まともな

考えも持たぬ人か゛政治に携わることが普通に見かける。

世の中よくしたもので,こんな人がどうして政治家になれるのかと疑うような人たちをみかけるが,

それにはそのような人たちを支援し,応援する人たちが現れるものだから,これも又不思議なものである。

これこそが腐敗政治の始まりである。政治は一部だけの人たちのものでは決してない。

支援する人たちだけの利益をあたえるものだけが政治家の役目ではない。

政治家は,まず全ての人が公平無私で無ければならない。だが自分の損得だけで政治家を志す人も多くいる。

支援する人たちも自分の損得のためだけで支援する人たちもそれ以上に多くいる。

歴史を返りみれば政商といわれる人たちの大体がそのような形で財をなした人たちが多い。

政治の独裁者は力とカネで人々を押さえつけ政治を長年の間統治できる人である。

政治こそは魔物である。人々の幸 不幸は殆どが政治により決まる。

行われている政治の下で努力しよりましな幸せを求め懸命に生きているのが一般普通の庶民の生き方である。

できるだけ神様に近いような人たち,少なくとも公平無私で人格者だけが政治に携わることのできる制度をば

人類の智慧で開発・発明するよう努力すべきである。

最近特に強くつくづくとそのようにおもうようになってきた。

そのようなことがない限りにおいて「歴史は繰り返す」である。

誰がかんがえてもおかしいということがまともな事として通じる世の中がいついつまでも

延々と後の世まで続くことになるのではないか。




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