ホーム | 医療 | 高齢者福祉 | 芸術,哲学 | 京都伏見・宇治 |
随想 | シュワィツァ−・緒方洪庵 | ギャラリ | 検索リンク集 |
随想
平成10年9月分 10月分 11月分 12月分
平成11年1月分 2月分 3月分 4月分
5月分 6月分 7月分 8月分 9月分 10月分 11月分 12月分
平成12年1月分
2月分 3月分
4月分 5月分 6月分 7月分 8月分
9月分 10月分 11月分 12月分
平成13年1月 分
2月分 3月分 4月分 5月分 6月分 7月分
8月分 9月分10月分11月分 12月分
平成14年1月分 2月分
3月分 4月分 5月分
6月分 7月分 8月分 9月分
10月分 11月分 12月分
平成15年1月分 2月分 3月分 4月分 5月分 6月分 7月分 8月分 9月分
10月分 11月分 12月分
平成16年1月分 2月分 3月分
4月分
三月になって
3月の前半は比較的寒い日もあったが,例年に比較して暖かい日が続く。奈良のお水取りのころからは
暖かい日が多くなり,桜開花宣言も三月の終わり頃から始まって,住居する近所にある桜並木も桜が咲き始める
温暖化によるものかどうか,そのようなマスコミによる指摘は少ない。イラクへの自衛隊の派兵は着々と順調に進んだが
バクダットから北の地域は益々治安が悪化し,四月中旬の現在,内戦状態の様相を呈してきている。
その間ファルージャーに米軍が掃討作戦するも,フセインの同一部族イラクのスニン派は勿論のこと,
イラクの最大部族でもあるシーイ派の人たちも反米運動を起こすようになって,
大多数のイラク人たちがアメリカの占領統治に対して反対するようになってきている。
ブッシュのやり方は日本人の我々から見ても,かなり強引なやり方で統治を進めようとしている。
これではイラクの人たちが怒るのも当然で゛ある。沢山な無辜のイラク市民が殺されている。
このような戦争状態では,アメリカ兵士によって引き起こされている沢山な平時において絶対に,殺人事件として
問題になることも当然視されしまい,問題になってこない。イラク側からも反撃があり,アメリカ兵士達も大勢亡くなっている。
「テロに屈してはならない」と号令かけている指導者たちは全く安全な所から発している。スペインでは列車爆破事件が
起こり多くの一般市民が犠牲になった。その後のスペインの総選挙ではアメリカに追従し,イラクに出兵を命じた内閣は
倒れた。テロ テロといわれているが本当にテロなのかどうか大変に疑問に感ずる。
第二次大戦当時もドイツの占領軍下に置かれたフランスなどではレジスタント運動が盛んで,今ではそれに従軍した人たちは
英雄になっている。イラクも同じような様相で無謀な戦争を始めイラクを占領してもアメリカの言うとうりにはなって来ていない。
イラク市民の反感の声は当然である。それに追従しアメリカ寄りの政策を進めている小泉首相もブッシュのために莫大な税金を
投じている。三人のイラクを援助していた人たちがイラクの武装勢力によって誘拐されたが,無事解放された。
この誘拐された人たちは初めから危害は加えられないと予想はしていた。
イラクの人達のために大いに援助活躍されていた事が報道されていたからだ。
日本の首相はテロリストに屈せず誘拐犯によりの自衛隊撤退の要求に対てはし,
自衛隊の撤退はありえないと話していたが,自衛隊の人たちよりも遥かに
イラクの人たちのために,これらのNGOの人たちが尽くしているということである。
ブッシュべったり,アメリカべったりで,長期政権を続けている小泉さんは,初め言われていた変人ではなく
大変に処世術が長けた傑出した大人物であることが次第に判るようになってきている。
今のイラクの人達の武装蜂起は決してテロとしてだけではすまされない人たちが多勢いるこということである。
三人の日本人の解放していることからして明らかだ。自画自賛の好きな馬鹿な独裁者を倒さない限り,
まずは世界に平和はやってこないことは間違いない。我々はただそれを祈るだけである。
負けた人間にしかわからないことの方が
人間にとって大切なことがあるのではないか
3月1日の天声人語
ふすまの下張りには、しばしば雑多な紙が使われる。
いらなくなった紙の再利用も少なくない。
そんな下張りがときに「歴史の宝庫」になる。
先週、76歳で亡くなった歴史家の網野善彦さんに発見をもたらしたのも、ふすまの下張りだった。
網野さんらのチームが能登半島の旧家に残る史料を整理していたときのことだった。
蔵に残るものからは旧家は豪農だと思われていた。
しかし、大商人でもあったことが下張りに使われた領収書などからわかった。
「日本史の常識」をくつがえすような大胆な説を次々提示してきた網野さんは、
会うたびに「私は正統派ではありませんから」と語っていた。
蔵に保管された史料からは表向きの歴史しか見えてこない。
従来の歴史学はいわば「蔵の史学」ではないかとの思いはあっただろう。
「百姓=農民ではない」と言い続けた。
江戸時代までは、百姓というのは文字通り様々な仕事をしている人々だった。
やがて百姓は農民を指すようになり、農民や農村中心に語られる日本観が定着していく。
その見直しを唱えた。
海に囲まれた島国の閉鎖性、という見方も批判の的だった。
物も人も海を利用して活発に移動した島国の開放性を強調した。
網野史観では、日本社会はかつて実にダイナミックで、多様だった。
そして豊かな可能性を秘めていた。
「負けた人間にしかわからないことの方が人間にとって大切なことがあるのではないか」。
そう言いながら、歴史のかなたに忘れ去られていく人々を掘り起こし、刺激的な日本観を示し続けた人だった。
「木村伊兵衛と土門拳」展
3月2日の天声人語より
色彩があふれる現代、白黒写真の力にはっとさせられるときがある。
陰影の豊かさに、あるいはまっすぐに訴えかける力強さに引き込まれる。
白黒による表現は、過去や記憶にかかわることも多い。
懐かしさに誘い込まれることも、しばしばだ。
「近代写真の生みの親」と題した「木村伊兵衛と土門拳」展(東京・有楽町朝日ギャラリーで3日まで)を見て、
改めてその思いを強くした。
子どもの風景が印象的だ。たとえば土門の「傘を回す子供」。
唐傘ならではの「遊び」の光景は微笑と郷愁を誘う。
木村の「東京・江東」も下町の駄菓子屋の雰囲気をあざやかに切り取っている。
対照的といわれる二人の作風だが、子どもへのまなざしは通い合う。
都市の廃墟(はいきょ)を撮り続けた写真家、宮本隆司さんの『新・建築の黙示録』(平凡社)は、
88年の木村伊兵衛写真賞の受賞作を再編集した本だ。
「撮影とは闇の中で光と感光材を出会わせることである」という宮本さんは、
デジタル写真全盛のいまも白黒写真の暗室作業を続ける。
「光は闇があるからその存在がある」と闇の意義を説く。
以前、青木保さんも文化人類学の立場から闇の重要さを呼びかけたことがある。
光は生命や善の象徴であり、祭りでも主役として光彩を放ってきた。
その光の輝きを際だたせるのが、死や悪の象徴である闇だった。
しかし日本の都市は陰影をなくし、闇を奪ってきた。「もっと闇を」という趣旨だった。
光と闇、白と黒との間を行き来する。一見単調な運動の中に、無限の味わいが生まれることもある。
その人の芸術は一代限りで,一生の間のその人の精進の結果による。
戦争指導者が「反戦」を語り、
「旧敵」は大きな拍手を送った。
3月3日の天声人語より
華やかで穏やかな今年の米アカデミー賞授賞式に多少の波紋を投げかけたとすれば、
長編ドキュメンタリー賞の「フォッグ・オブ・ウォー」(E・モリス監督)だろう。
ベトナム戦争を指揮したR・マクナマラ元国防長官への23時間に及ぶインタビューを基につくられた作品である。
受賞あいさつでモリス氏は、イラク戦争をベトナム戦争に対比し
「40年前、この国はウサギの巣穴に落っこちて多数の人間が死んだ。
いままたウサギの巣穴に落ちていくのではないかと心配だ」と述べた。
映画公開を機に、87歳の元国防長官に改めて注目が集まっている。
母校のカリフォルニア大バークリー校で先月催された討論会への参加は、とりわけ興味深いものだった。
というのも、バークリー校は68年の「学生の反乱」の拠点であり、ベトナム反戦運動の最も激しい大学の一つだったからだ。
マクナマラ氏は語った。
「人類は20世紀に1億6千万人もの同胞を殺した。
21世紀にも同じことが起きていいのか。そうは思わない」。
冷徹な合理主義者と評されたかつての戦争指導者が「反戦」を語り、「旧敵」は大きな拍手を送った。
討論会に出席した息子のクレイグ氏も、反戦運動に加わった「旧敵」のひとりだった。
「父は戦争の亡霊につきまとわれていると思う。
いまは、その亡霊と対決する使命を果たしている」と米紙に語っていた。
95年の回顧録でベトナム戦争の反省を公にしていたマクナマラ氏は、
映画のインタビューでも「誤りを犯すのが人間だ」と、改めて人間の弱さを語ったそうだ。
人間はあくまでも人間であり,間違った指導者によって間違いが起こり,なんの罪もない人たちがその指導者の犠牲になって
死んでいっているのがこれまでの歴史である。平和ほど大切な事が指導者にはわかっていない。
そして平和の為の戦争が繰り返されてきている。指導者は長生きし,犠牲者は短命におわっている。
この矛盾をどう理解したらよいのだろうか。
バグダッドの青年が
パソコンに向かって日記をつづり始めた
3月4日の天声人語より
バグダッドの青年がパソコンに向かって日記をつづり始めた。
イラク戦争の前から、現在に至るまでキーをたたき続けた。
世界中に流れた日記は、多くの人を引きつけ、彼はインターネット上の有名人になった。
ネット上の名前をサラーム・パックスという。アラビア語とラテン語で「平和」を意味する言葉を重ねた。
日本では、03年6月までの日記の抄訳が『サラーム・パックス』(ソニー・マガジンズ)として昨年末に出版された。
それ以後の彼の日記から、いくつか拾ってみる。
戦前よりシーア派とスンニ派との亀裂が深まっていることを憂い「イラクは開放された運動場になってしまった。
多くの政治、宗教勢力がイラクを争いの場として利用している」(04年2月12日)。
シーア派の聖地カルバラなどで一昨日起きた大規模なテロは、まさに彼が恐れていた事態だ。
米大統領選も気にしている。
「ケリー候補は世界を救うスーパーヒーローになりうるか」といいつつ
「あんなにも遠くにいる人物によって一国の運命が左右されるかと思うと空恐ろしい」(2月10日)
サラームさんはしかし、素朴な平和主義者ではない。
中学時代、全体主義国家を描いたオーウェルの小説『一九八四年』を読んで、世界を見る目が変わったという。
冗談と皮肉が好きで、懐疑主義者、ときに罪深き現実逃避型人間と自称する。
「ここはぼくの祖国で、ここに住む人々を愛している。
どう説得されたって、戦争が正しいなんて思えない」。
疑ったり、逃げたりしながらも祖国に踏みとどまる。
パソコンは,インターネットは人間の可能性を開いてくれた。
反面に,情報過多におちいり昔だったら何もしらないことに対し心を悩ませている所もある。
坂口厚労相は記者会見で「牛やら鶏やら、モウ、ケッコウ」
3月5日の天声人語より
京都の府知事が「最悪の結果を迎えているのかもしれない」と述べた。
府内での鳥インフルエンザ拡大についての発言だ。率直な気持ちなのだろうと思う。
ただ、「最悪の結果」という言い方は、少し気になった。
事態はまだ動いている。今よりも悪い結果に陥らないように、手だてを尽くしてもらいたい。
それにしても、ここ数年、牛、コイ、鶏と、身近な動物たちが重い病気になったり、
大量に死んだりしている。この、想像もできなかったほど多くの命の喪失は、
日々どれだけの数の動物たちが人間の糧となっているかをも示している。
図書館で「家畜」の棚を見た。並んだ数百冊の本の背中には、人との深いかかわりが浮かんでいる。
「食べ物としての動物たち」「牛と日本人」「日本名牛百選」「鶏の復権」「鶏と人」
「北海道養鶏百年史」「豚・この有用な動物」「トン考」。人への貢献に、改めて手を合わせたい気持ちにさせられた。
先日、と言ったそうだ。
正直な気分からふと出た一言かもしれないし、あくまで冗談のつもりだったのかもしれない。
ただ、このセリフを言いたいのは、むしろ牛や鶏の方ではないだろうか。
最近まで、牛たちは牛の肉骨粉を食べさせられていた。
国内外で鳥インフルエンザの流行が広がる中、鶏が大量に死んでも届けず、獣医師にもみせない。
感染とは関係の無い遠い所で、飼われていた鳥が相次いで捨てられた。
生き物の扱い方にも、人の世が映っているようにみえる。
ここ数年、牛、コイ、鶏と、身近な動物たちが重い病気になり,どうして起こるのかと疑いたくなる。
何処かの国の生物兵器とやらの被害でなければ良いのにと思う。
これだけ科学が進歩しても,まだまだ病気は克服できていない。合理主義・実用主義の普及,徹底と同時に
科学が進歩したがゆえの結果かも知れない。
ここの火星人は、なぜかトマトしか食べない
3月6日の天声人語より
その生命体が、地球に一歩近づいてきたような、やや早まった気分に誘われたのが、
火星での水の確認だ。
しかも、水は大量にあったはずだという。
火星での運河や洪水を物語っていた人たちの、たくましい想像力を思い起こしながら、
その翼に乗ってみたくなった。
1940年に没した詩人、小熊秀雄は、漫画の台本「火星探険」を残した。
地球の子ども、テン太郎が、火星の首都ミルチス・マヂョル市で、町を案内される。
「ごらんなさい この素晴らしい火星の運河を」「この運河はなんに使ふんですか」
「火星では一年に数回大洪水があるのです、その時に畑に水をやるんですよ」(『小熊秀雄全集』創樹社)
ここの火星人は、なぜかトマトしか食べない。
火星天文台には、地球のより千倍も大きな望遠鏡がある。
のぞいてみると、父親である天文学者、星野博士がしきりに計算しているところまでくっきりと見えて、
思わずテン太郎は、大声で地球に呼びかける。
正岡子規には、星にまたたきかけられた、という歌があった。
〈真砂なす数なき星の其中に吾に向ひて光る星あり〉。
テン太郎の声が、光となって届いたのかも知れない。
火星探査車オポチュニティーがつかんだのは、宇宙生命存在の気配だ。
その気配が、いつかは実感になるのだろうか。
地球と宇宙とを結ぶ天然のステーションである赤い星は、科学と夢想のあわいにも浮かんでいる。
昔から火星は何かと身近な存在である。月は夢を,火星は現実を与えてきてくれている。
無限の資源が火星にあるかもしれない。
世界の人々は地球上の人間同士の争いでなく,その資源を地球に運ぶ手段の開発で争ってほしいものである。
忘れ去られていく数え方もある。
3月8日の天声人語より
1匹が1本になり、さらに1丁から1さく、最後に1切れになる。クイズのようだが、何のことだかおわかりだろうか。
マグロの数え方である。泳いでいるマグロは「匹」だが、水揚げされて横たわると「本」で数えられる。
解体される過程で名前も変わる。頭と背骨を落とした半身が「丁」、「ころ」と呼ばれる塊を短冊状に切り分けると「さく」になる。
スーパーなどでお目にかかるのが、たいていこれだ。さらに一口大にしたのが「切れ」で、人の口に消えていく。
様々な数え方を整理した『数え方の辞典』(飯田朝子、町田健・小学館)を見ていると、
日本語の複雑さと豊かさに改めて驚かされる。
日本文化の細部を照らし出してもくれる助数詞の数々である。
こんな体験をしたことがある。貴人への献上品の一覧を記す古い文書を紹介したことがあった。
そのなかに「ちりめん一匹」とあった。「献上品としてはあまりにみみっちいのではないか」とまじめに指摘してきた人がいた。
小さなちりめんじゃこ1匹と勘違いしたのだった。もちろん絹織物の一つの縮緬(ちりめん)のことである。
布の数え方も複雑だ。1匹は2反のことである。1反といえば、ほぼ大人1人前の布の大きさにあたる。
絹布10反で「ひと締め」という。巻かれて商品として売られているときには「巻き」や「本」である。
忘れ去られていく数え方もある。
タンスの「ひと棹(さお)」はまだ残っているとしても、行李(こうり)の「ひと梱(こり)」は風前のともしびだろう。
職人や手仕事の世界の衰微と命運をともにする言葉たちだ。
知らない事がまだまだ多くある。図書館の書棚を見上げて,こんなに沢山な知識を99.9以上に知らずして死んで行くのではと
いつも思いながら眺めている。
「脳が壊れた者にしかわからない世界」の記録である。
3月9日の天声人語より
たとえば地下鉄の階段の前で立ちすくむ。上りなのか、下りなのかがわからない。
時計の針を見ても左右の違いがわからず4時と8時とを取り違えてしまう。
靴の前と後ろとの区別がつかない。
脳卒中をたびたび経験した医師の山田規畝子(きくこ)さんが自らの体験をつづった
『壊れた脳 生存する知』(講談社)は、後遺症の症状を実に冷静に観察している。
「脳が壊れた者にしかわからない世界」の記録である。
「病気になったことを『科学する楽しさ』にすりかえた」ともいう。
脳の血管がつまったり破れたりする脳卒中の患者は多い。
一昨年10月時点で137万人にのぼる。高血圧の699万人、歯の病気487万人、糖尿病の228万人に次いで4番目だ。
この病気が厄介なのは、いろいろな後遺症が現れることだ。
極めて複雑な器官の脳だけに、現れ方も千差万別らしい。
医師にも個々の把握は容易ではない。
視覚に狂いが出た山田さんも、何でもないような失敗を重ねて「医者のくせに」と、冷たい目で見られたこともあった。
リハビリが大事である。山田さんは生活の中で試行錯誤を続けた。
階段の上り下りにしても「目で見て混乱するなら見なければいい」と足に任せた。足は覚えていた、と。
とにかく無理は禁物だという。育児をしながらの毎日、しばしば「元気出して。
がんばって」と励まされる。しかし「元気出さない。がんばらない」と答えるようにしている。
脳梗塞(こうそく)で先日入院した長嶋茂雄さんも、リハビリを始めるらしい。
無理をしないで快復をめざしてほしい。
脳卒中には誰もなりたくない。でも脳卒中に襲われる事がある。でも言えることは脳相中にならないような努力を
リハビリで回復する努力の10分の一,百分の一でも良いからすべきだと思っている。
長い医師生活からの体験からである。
メディアも「サムライ・レディー」と紹介する。
3月10日の天声人語より
黒ずくめの衣装を着るのが好きな彼女は「サムライの子孫」を自称し、メディアも「サムライ・レディー」と紹介する。
14日のロシア大統領選に立候補しているイリーナ・ハカマダさんだ。
プーチン大統領圧勝の予想の中、孤軍奮闘する改革派の日系ロシア人である。
いまのロシアで公然とプーチン批判をするのは、はばかられる雰囲気があるようだ。
しかし彼女は「うそと恐怖で成り立っている社会だ」「すべてがプーチン大統領の気分しだいで動く」と厳しく政権批判をする。
選挙に民主主義の装いを与えるためだけの対立候補だ、といった陰口もささやかれている。
もちろん彼女は否定する。
いまの権威主義的体制が抑え込んでいる「ロシアの魂」を解放するのが使命といい「沈黙していてはいけない。
声をあげよう」と呼びかける。そうしないとソ連に後戻りしてしまう、と危機感に訴える。
ソ連に亡命した元日本共産党員の故袴田陸奥男氏とロシア女性との間に生まれた。
経済学者から企業家に転身して成功、そして政治の舞台に上った。
尊敬する人物は「鉄の女」といわれたサッチャー元英首相らしい。
ロシアではいま、改革派に逆風が吹いているようだ。
貧富の差の拡大や治安の悪化は、改革派がもたらしたもので、それを立て直そうとしているのがプーチン大統領だ。
そんな見方をする人も少なくない。
多少は抑圧的でも、強い指導者が必要なときだ、として現政権支持へ傾いている。
「改革派の火を消すな」と唱えるサムライ・レディーに、はたしてどれだけ支持が集まるか。
3月11日の天声人語より
少なくとも私の知る限りで、西洋文学の古典のうち、
ダンテ『神曲』ほど数多く日本語訳が出版されているものはない――。
こう記す今道友信著『ダンテ「神曲」講義』には、地獄篇(へん)の冒頭部分の訳が並んでいる。
「われ正路を失ひ、人生の羈旅半ばにあたりてとある暗き林のなかにありき(山川丙三郎)」
「人生の道の半ばで、正道を踏みはずした私が、目をさました時は暗い森の中にいた(平川祐弘)」。
このいずれとも違っている。
昨日、東京の医療少年院を仮退院した男性が、神戸での殺傷事件のさなかに書いていた
「懲役13年」という文章のことだ。「魔物は俺(おれ)を操る」などと
心の葛藤(かっとう)をつづった文の末尾にも地獄篇の一節があり、それはこうだったという。
「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、俺は真(ま)っ直(す)ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた」
ほかの幾つかの訳にも当たってみた。すると、寿岳文章訳と酷似していた。
「ひとの世の旅路のなかば、ふと気がつくと、私はますぐな道を見失い、暗い森に迷いこんでいた」。
「ひとの世」というところに目が引きつけられた。
あの事件で、世の中そのものが闇に迷い込んだような、当時の思いがよみがえったからである。
あれから7年、彼は21歳になった。
「旅路のなかば」に近づいて、本当に暗い森の出口を見つけられたのだろうか。
社会は男性をどう包み込んでいけるのか。被害者や家族の悲しみは、今もはかり知れない。
「ひとの世」は、重くて大きな迷いと謎を負いつつも道を探ってゆくことになる。
一回きりの人生だ。大切に時間を使いたいものである。でも湯水の如く贅沢に時間を過ごしているようだ。
それも一回きりの人生。昔の人たちはその人生が自分のままにならない時代もあった。
そんな時代には決してしてはならない。
象の「はな子」
3月12日の天声人語より
武蔵野の雑木林の名残をとどめる東京・井の頭公園の中に、都の「自然文化園」はある。
象の「はな子」が、上野動物園からここに移ってきて、今月で50年になった。
生まれはタイだ。
戦後初めての象として東京にやって来たのは、1949年、昭和24年の9月だった。
その夜、2歳の子象は、間もなくインドから来る大きなインディラに合わせて作られた
象舎のさくの間をすり抜けて、宿直室の雨戸をたたいたという。
自然文化園に移され人気者になった。
しかし、56年と60年には人身事故があった。
そうした悲惨な出来事も経ながら、半世紀余り、異国で生きてきたのである。
はな子という名前には、戦争がかぶさっている。
『上野動物園百年史』によると、43年に、空襲を想定した猛獣の処分命令が出た。
象は3頭で、タイから贈られたメスの象が花子だった。
毒入りの餌を口にしようとしない花子たちは、絶食死させられた。
腹をすかせた象が、職員を見ると前脚を折り、鼻をあげるしぐさをする。
芸をすれば餌がもらえると思っているように見えたという。
先日、来園50年記念の会があった。
入園者からの多くのお祝いのメモが張り出してある。
「100才 おめでとう」。はな子は57歳ぐらいだから、やや気が早い。
そう思ったが、贈られたパンやバナナに鼻を伸ばす姿を見ていて、気持ちが変わった。
はな子のような動物たちが長く穏やかに生きられる時は、
人もまた、長く穏やかでいられるのではないか。
「100才」には、そんな願いが込められているように見えてきた。
鯉 牛 鶏と動物の死が報じられ.殺されている。全てが人間の勝手から発生している。
人間の世界が荒れているから動物達にも迷惑を与えている。
さらに考えてみたら毎日が弱肉強食で生きさせてもらっている我々である。
せめて人間同士は・・・・と考えたい。
韓国の国会が盧武鉉大統領の
弾劾訴追案を可決した。
3月13日の天声人語より
「民主のために、自主のために/この地の人間解放のために」。
87年7月、ソウル・延世大学のデモで催涙弾の直撃を受けて死んだ李韓烈さんが残した詩の一節だ
(『韓国 民主化への道』池明観・岩波新書)。彼の「民主国民葬」には100万人の市民が参集したという。
当時の全斗煥政権は、民主化を求める国民のうねりに押され、憲法改正に踏み出さざるをえなくなった。
大統領の直接選挙などを含む改正憲法は、87年10月に公布された。現行憲法である。
それまで韓国の憲法はたびたび「改正」を重ねてきた。
多くは、独裁政権が延命を図るためだった。
際だった例外は、李承晩政権を倒した60年の民主化運動による改憲と87年の改憲だ。
いずれも流血の犠牲の上に築かれた。
昨日、韓国の国会が盧武鉉大統領の弾劾訴追案を可決した。
大統領の権限にどう歯止めをかけるかがしばしば議論になる中、歯止めどころか権限の全面停止である。
大統領を「休職」に追い込んだ野党は「救国の決断」「議会民主主義の勝利」と自賛した。
確かに国民を代表する議会が痛撃を与えた図だ。
しかし、新聞は総選挙前の政党間の政争が背景にあると見る。
この間の動きを「総選挙を“人質”にした大統領と野党の“弾劾ゲーム”」
(朝鮮日報)「誰のための真剣勝負なのか」(東亜日報)と危惧(きぐ)する。
大統領と国会との対立を憲法裁判所が裁くことになる。
三権分立のあり方が、これほど鮮明に問われるのもまれだろう。
国民が勝ち取った憲法の下、「民主と自主」の中身も問われる。
日本も韓国も理想と現実に翻弄されている。アメリカ支配からの脱却こそが現在の理想の世界への現実である。
車輪が注目されるのは、
たいてい異変が起きたときだ
3月14日の天声人語より
車輪の発明は人類の歴史のなかでも特筆されるべき発明だろう。
しかし、発明者はもちろん、時期も場所もはっきりしない。
古代メソポタミアの出土品から見て、少なくとも約5千年前には実用化されていたようだ。
物を運ぶためのものだったろうが、
メソポタミアでは国王の遺体を墓まで運ぶ霊柩車(れいきゅうしゃ)としても使われた。
やがて戦車として利用されるようになり、改良が重ねられた。
軽量化してスピードを上げるためのスポークもその過程で生まれたといわれる。
車輪の原理は古代も現代も変わりはない。
しかし、車輪への依存は、時代とともに深まるばかりだ。車輪のない現代文明は考えられない。
自動車、自転車、電車も、そして空を飛ぶ飛行機にも欠かせない。
文明の重さを背負いながら、黙々と働いている。
陰の存在である車輪が注目されるのは、たいてい異変が起きたときだ。
横浜市で02年1月、29歳の主婦が外れた車輪の直撃を受け、死亡した。
トレーラーの車輪で約140キロの重さがあった。
目撃した人は「タイヤが横にすっと飛び出たかと思ったら、まっすぐ主婦に向かって行った」と、
凶器に変じる瞬間を語っている。
同じように車輪が外れる事故が相次いでいたのに「整備不良が原因」と自動車メーカーは言い続けた。
ようやく先日、部品の設計・製造に欠陥があったことを認め、リコール(無償回収・修理)を届け出ることにした。
外れた車輪の暴走がいかに危険かは容易にわかることだ。
欠陥を否定し続けたメーカーの組織にも重大な欠陥があったのではないか。
5千年前に発明された古代メソポタミア文明である車輪がメーカーの構造上の欠陥で一人の人を殺し
問題になっている。その発明の土地に住んでいる住民が大量に惨殺されているが
何も問題になり大騒ぎになってこない。この矛盾は何故か。?
アテネへの道を断たれた高橋選手の無念さ
3月16日の天声人語より
マラソン発祥の地を駆けるQちゃんの姿を思い浮かべるのは楽しいことだった。
しかし、もし高橋尚子選手が代表に選ばれていたとしたら、誰が外れたのかと考えてみる。
名古屋で逆転優勝を果たし、四つの選考レースを通じての最高タイムを記録した
土佐礼子選手が外せるだろうか。
世界選手権で日本人3位になったあと、半年たらずの大阪で見事に優勝した
坂本直子選手を外せるのか。
そのいずれの場合でも、ふたりを落とす説得力のある理由は、見つからなかった。
「五輪で勝てる人を」というのは、あくまで希望、願望の世界の話であり、
「勝てる」と請け合える人はいないだろう。
昨日の代表選考は、公表されているルール、基準のもとでは順当と言えるのではないだろうか。
しかし同時に、アテネへの道を断たれた高橋選手の無念さも、どれほどかと思った。
そもそも、マラソンを始めるきっかけになったのが、5000メートルに出場した97年の
世界選手権のアテネ大会だったという。
「マラソン発祥の地で、自分がマラソンを始めたいなと思ったアテネで、
最後の締めというか、区切りの最後に持っていけたら」と、昨秋語っていた。
8月の22日、五輪のマラソンの出走地点・マラトンには、その姿は無い。
しかし多くの人が思い起こすに違いない。
日本の女子陸上選手で初めて五輪の頂点に立ったシドニーの瞬間を、
軽やかで厳しいあの走りを、ひとなつっこい笑みを。
これまでの比類のない活躍に改めて拍手を送りながら、
Qちゃんの前に、新しい道が開けることを祈りたい。
名古屋マラソンに何故高橋尚子選手が出場しなかったのかが疑問に思う。
もし出場して優勝でもしていれば文句なくアテネオリンピックに出場できたのに
残念なことである。
3月18日の天声人語より
アメリカ映画などでよく耳にするせりふに「リーブ・ミー・アローン」がある。
直訳すれば「ひとりにしておいて」、少し意訳すると「ほっといて」「そっとしておいて」あるいは「じゃましないで」
「ほっといて」の権利には長い歴史がある、と米国の法律家R・B・スタンドラー氏が、ある論文で指摘している。
すでに1834年、連邦最高裁が言及している権利だという。
その後、「ほっといて」権は、プライバシーの権利を簡潔に表現する言葉として定着していった。
確かに「ほっといて」と言いたくなるようなことがあふれる現代社会だ。
かつては井戸端会議でささやかれていたうわさ話や世間話を、いまは多様なメディアが多数の人に向けて流す。
そっとしておいてほしいと思うことでも公になってしまうことがしばしばだ。
田中真紀子前外相の長女が自分の私生活を取材され、報じられることに抵抗するのはもっともなことだろう。
記事を掲載した週刊文春の出版禁止を求めるのも当事者としては当然かもしれない。
しかし、出版禁止という重大な命令を出すかどうかの裁判所の判断は、容易ではないはずだ。
週刊誌は多くが出回ってしまった。
発売前の広告を見ても、記事の概要はわかってしまう。
禁止の効果は薄いだけでなく、論議を呼んだことで宣伝の役割を果たしたとさえいえるだろう。
出版禁止の重さばかりが浮き上がる。
「ほっといて」という切実な声には謙虚に耳を傾けなければならない。
しかし、それがすべて、と甘受もしきれない命令だった。
何か政治的臭いがしてならない。衆でもって個人をいじめ,その出足をくじく。政界ではよくある手法である。
何か週間文春になんとなく暗さを感じる。陰湿である。
田中真紀子前外相自身の問題ならば別に大して差し仕えないが娘さんのプライバシーを傷つけるのは
どうかと思う。自民党的嫌がらせの延長線上のものだろうか。
アフガン南部に駐留する
米兵たちの声を星条旗新聞は伝える
3月19日の天声人語より
「テロとの戦いはアフガニスタンで始まった。そしてアフガニスタンで終わるだろう。
イラクは、その物語の一章にすぎない」。アフガニスタンで指揮をとる米軍将校の言葉だ。
米軍の準機関紙「星条旗新聞」に今月、現地報告として紹介されていた。
01年9月11日の同時多発テロ直後、ラムズフェルド国防長官は
「対テロ戦争はまったく新しい種類の戦争だ」と語った。
「敵はテロリスト集団の国際的なネットワークだ。
この戦いに締め切り時間はなく、出口を想定した戦略も通用しない」
その年10月、米英軍の空爆で始まったアフガン戦争は11月のカブール陥落で一段落したかに見えた。
しかしその後もタリバーン政権の残党やテロ組織アルカイダの掃討作戦は続く。
新政権ができても「出口」に達しない。
「タリバーンと親米派とを見かけで区別することはできない」
「この国では、誰もが武器を持っていて、それを使うのを恐れない」。
アフガン南部に駐留する米兵たちの声を星条旗新聞は伝える。
現地の人たちに溶け込むのも難しい。
その上、自分たちが勝利しつつあるのかどうかもわからないという。
戦争でタリバーン政権を倒した。しかし、それでテロを一掃できたわけではない。
困難な「戦い」はむしろその後だ。
「アフガン戦後」は、テロとの「戦い」が戦闘で解決できるものでないことを教える。
ある米兵の言葉が印象的だ。
「子どもたちにアメリカ人は邪悪な悪魔でないことをわかってもらうことだ。
20年もすれば彼らがテロの防壁になってくれるだろう」
テロとの戦いを本気で子供の代まで続けようとしている気持が,そもそも間違いである。
テロの根元もみつけ政治をしようとする指導者が米国大統領にならない限り
永遠に戦いは続くだろう。国連を強化して一国だけに武器が偏在するから今のような
結果を招いている。まず兵器産業,死の商人の繁栄を米国から無くす事である。
軍隊は国連以外に持たない。治安を維持する警察隊だけが各国に存在するようにすれば
テロする人たちは無くなる。まず武器を国連下で管理する事である。
弟の死が利用されている。
3月20日の天声人語より
弟のエイブさんを亡くしたときリタ・ラサーさんは70歳だった。
01年9月11日、エイブさんはいつものようにニューヨークの世界貿易センタービルで働いていた。
旅客機がビルに衝突した後、エイブさんは家族に「僕は逃げない」と電話で話した。
車いすの同僚がいるから付き添って救助を待つ、と。
3日後の演説でブッシュ大統領は「自分は助かるかもしれないのに四肢麻痺(まひ)の友人のそばに残って
最期を迎えた男」とエイブさんをたたえた。
ラサーさんは演説に違和感と不安を抱いた。「弟の死が利用されている。
はるか遠くの国で、罪のないたくさんの人々を殺すための口実にされようとしている」
仕事をやめて平穏な生活をしていた彼女だったが、演説を機に米紙に投書するなどの活動を始めた。
やがて同じような気持ちを抱く9月11日テロの遺族とともに、
非暴力・平和を訴える非営利団体「ピースフル・トゥモローズ(平和の明日)」を創設した。
02年1月には仲間とともにアフガニスタンに行った。
米軍の爆撃で負傷した女性に会い「ごめんなさい、本当にごめんなさい」と涙したことを英紙が報じている。
その年8月には広島を訪れ、被爆者との連帯を語った。
イラク戦争の開戦直前の去年3月、抗議行動に参加して逮捕された。
「ピースフル・トゥモローズ」には、いま100家族以上が参加しているという。
その軌跡をまとめた本が『われらの悲しみを平和への一歩に』(岩波書店)として邦訳された。
イラク戦争1年の20日にも、ラサーさんたちは街で平和を訴える。
アメリカでは愛国法とかができ,政府のする戦争には反対できない雰囲気があるようだ。
第二次大戦の日本は反戦を唱えば「非国民」とされて牢獄につながれた。
その戦時へと流れが変わりつつ現在ある。その流れを止められるのは今しかない。
それはブッシュを大統領から辞めさせる以外にない。
台湾の総統を選ぶ
投票日の前日に総統が銃撃された。
3月21日の天声人語より
日本最西端の地は沖縄県の与那国島だ。島の西の端を西崎(いりざき)という。
入り日を思わせるその岬に立ち、さらに西の果てを見ていたことがある。
がけをはい上がってくる黒潮の気が、小さなユリの花弁を震わせる。
水平線に目をこらすが物影はない。しかし時にはそこに台湾の姿が浮かぶと聞き、
その地の意外な近さを思った。
台湾の総統を選ぶ投票日の前日に総統が銃撃された。
下腹部の銃創の写真は、生と死が紙一重だったことを示している。
暴力で生命を奪い、世の中を脅そうとするかのような事件が台湾でも起きたことに、改めて憤りを覚えたが、
陳水扁(チェンショイピエン)総統や副総統の落ち着いた対応には救いを感じた。
総統の妻呉淑珍さんは、85年に政治テロとみられるひき逃げ事件に遭い下半身不随になった。
自分の政治活動のためにこんな目にあったと申し訳なく思っている時、淑珍さんはベッドの上でこう言った。
「台湾で民主化運動に参加したなら、夫婦のうちどちらかが犠牲になる必要があり、
自分は喜んで身代わりになる」(陳水扁『台湾之子』毎日新聞社)。
後に、名誉棄損の罪に問われて収監された時、面会に来た淑珍さんは、不自由なため回転いすから何度も落ちた。
無理に笑顔をつくるのを見て思う。
「この一切の苦痛、政治犯の代価は我々で終わりにしなければならない」。
「私が求めるのは、おびえる必要がなく、喜びと希望に溢れる社会なのだ」。
こうも記した陳総統に、西崎から百余キロ先で日本と隣り合う島の針路が再び委ねられる。
隣人として、見守ってゆきたい。
台湾の総統選挙は接戦だった。一発の銃弾が結果を分けた可能性もある。それだけ接戦で前日の銃撃だとすれば
なんとなくに疑問が湧いてくる。
何故に腹部でなくて頭部 心臓を犯人は狙わなかったかと。殺人を決して容認するものではない。
だが劇的な一発の銃弾が選挙の結果をわけたとすればこれは大問題である。
木から林、森へ。
濃く深くなるのは緑だけではない
3月22日の天声人語より
木が林になり森になる。
木1本から、まばらに木が連なり、やがて濃く深い広がりへと至るさまが文字で分かる。
林と森の間柄について、歴史学者の上田正昭さんが、
今月創刊された年鑑『森林環境2004』(築地書館)で言及している。
育成するという言葉「ハヤス」の名詞形が「ハヤシ」。
自然の樹林がモリであり、人工の加わった里山から平野の樹林がハヤシだった。
しかし、古文献でモリとハヤシが常に厳密に区別して使われていたかというと必ずしもそうではない、と。
森林の癒やしの効果について、林野庁が新年度から本格的に解明を始めるという。
例えば、森林浴が、免疫力の向上やストレスの軽減にどう働くのかを医学的に調べる。
できれば、都会周辺の林や鎮守の森などでも調査してもらいたい。
今では、深い森だけではなく、小さな林もまた貴重な存在となっているからだ。
もし、近隣の林でもその効果が裏付けられるとすれば、里山の見直しにもはずみがつくだろう。
「森の学校」という映画がある。
霊長類学者の河合雅雄さんが自分の子供時代を書いた『少年動物誌』(福音館書店)が原作で、
各地で巡回上映されている。
昭和10年代の、少年と家族と生き物たちの物語が丹波・篠山の豊かな緑の中で描かれる。
人間の、親と子という縦のつながりがある。
人と、時を共にして生きている動植物との横のつながりもある。
森や林の中では、この二つのつながりが色濃く交差し、また寄り添うようにも見えた。
木から林、森へ。濃く深くなるのは緑だけではない。
蚕は主役を演じている
3月23日の天声人語より
人間が恭しく敬称で呼ぶ昆虫はあまり例がないだろう。
お蚕さまである。虫からつややかな絹糸が生まれる不思議さが敬称にも込められる。
絹糸はまた富の源でもあり、敬意を払われてきた。
かつては日本の主要な輸出品でもあった。しかし化学繊維の登場によって、傾いていく。
約50年前にはまだ80万戸を数えていた養蚕農家が減少を続け、
いまでは3千戸を切った。風前のともしびとも見える。
ところが蚕は、新しい舞台で脚光を浴び始めた。
絹糸の元になるまゆは人体になじみやすいたんぱく質でできている。
細菌やカビの増殖を防ぎ、紫外線を通さないなどの性質もあるようだ。
素材として利用価値が大きい。そのたんぱく質を使ってすでに化粧品などが実用化されている。
蚕の遺伝子解明にも日本は力を注ぐ。
先月には、世界に先がけてカイコゲノムを80%解読したとの研究成果が発表された。
こちらの方は、医薬品や農薬の開発につながるらしい。
昆虫テクノロジーといわれる最先端分野で蚕は主役を演じている。
何千年も人間に尽くしてきた蚕はもはや野生に戻ることはできない。
同じ長いつきあいの蜜蜂などとは違って、自力で餌を手に入れることはできないし、逃亡能力もない。
人間に危害を与える恐れもない。しかもまゆづくりという特殊技能を持つ。
研究材料として、最適ともいえるおとなしい昆虫だ。
卵から幼虫へ、そして何度も脱皮を繰り返し、やがて糸を吐いて自分を包み込む。
その一生で生命の神秘を教えてくれる蚕が、生命科学の発展にも献身している。
蚕は時代の代わりと共に新しい利用価値が見出されてきている。
昔の生糸を作るだけでなく最先端の医薬品 農薬 化粧品などに利用されようとしている。
技術の進歩と共に他のものについてもいろんな利用方法が変ることが出てくる可能性はある。
過激派ハマスの精神的指導者ヤシン師殺害
3月24日の天声人語より
「彼をやっつけた」。イスラエル軍によるイスラム過激派ハマスの精神的指導者ヤシン師殺害について、
イスラエルのメディアはそう伝えた。米軍がイラクのフセイン元大統領を捕まえたときと同じ言い回しだ。
英国のストロー外相が殺害を「違法で、受け入れられない」と非難しても、
イスラエル側は「英国もフセイン大統領を暗殺しようとしたではないか」と反論する。
あなたたちと同じように対テロ戦争をしているだけ、と開き直られると米英政府も返す言葉に困るだろう。
どう見ても事態を極端に悪化させる暗殺である。
イスラエル政府内でも閣僚2人が反対したそうだ。国民はどう思っているのだろうか。
「わが国の状況は超現実的だ」とみるのは、数少ない平和活動家の一人ウリ・アブネリさんだ。
「多くの人々は戦争や自爆テロ、暗殺にうんざりし、解決のためには代償を払っていいと思っている。
世論調査ではいつもそうだったのに、政府に代わって本気で代案を出そうとする政治勢力がいない」。
最近のホームページでそう記す。スペインで起きた政権交代が米英でもイスラエルでも起きるべきだ、とも。
雑誌を発行していたアブネリさん自身、何度も暗殺の危機に遭遇した。
「公衆の敵ナンバー1」と名指しされ、イスラエルの秘密警察につけねらわれたという。
しかし訴え続ける。「占領者である私たちが主導してパレスチナとの和平を進めるべきだ」
ヤシン師殺害については「犯罪より悪い。愚かな限り」と英紙に語り、
解決不能な宗教戦争に陥ることを危惧(きぐ)する。
戦争は狂気の状態にある。人殺し 暗殺 拉致 誘拐 などなんでもありの状況を生み出す。
当事者は正常ではない。そのような状況を無くすには国際司法裁判制度 国連軍の強化 貧富の格差を無くすための
国連の政策遂行の能力を高める事である。
先頭に立つのは大国が良い。日本が一番に相応しいが今の小泉首相のァメリか追随外交ではとっても無理な話である。
オランダは様々な顔を持つ国だ。
3月25日の天声人語より
自転車に乗ってスーパーへ買い物に行くような気さくな人だったそうだ。
先週亡くなったオランダのユリアナ前女王である。
ほぼ1世紀を生きた彼女の死は、変転を重ねたあの国の歴史へと思いを誘う。
母のウィルヘルミナ女王は、ナチス・ドイツの侵攻で英国に亡命した。
アムステルダムの隠れ家で日記を書き続けたユダヤ人少女アンネ・フランクも、
英国からのオランダ女王のラジオ演説に耳を傾けた。
44年5月11日には「敬愛する女王様」がラジオで「帰国したあかつきには」「急速な解放」という
言葉をつかったと期待を込めて書きとめている(『アンネの日記』文芸春秋)。
オランダは様々な顔を持つ国だ。
風車、チューリップ、運河といった風物、世界の海に雄飛する中での日本との長い交流の歴史もあれば、
レンブラントからゴッホに至る美術の伝統もある。哲学者のスピノザもいた。
暗い運命を暗示するのが、ワーグナーのオペラで知られる「さまよえるオランダ人」だろう。
神を呪ったため、永遠の航海を科せられた幽霊船伝説である。
強国に囲まれ、覇権の波にもまれてさまよってきた地でもあった。
迫害の中にありながらアンネは「わたしはオランダ人を愛します。
この国を愛します」とたびたび書き記した。
ナチス時代は別にして、古くから亡命者や難民を受け入れてきた開かれた国だとの思いが強い。
イラクへ軍隊を派遣したいまの政府は、難民規制への動きなども見せているようだ。
「開放的で寛容」という良き伝統を大事にしてほしい、と遠くから思う。
3月の26日は、米軍が沖縄の慶良間列島に上陸し、
沖縄の地上戦が始まった日にあたる。
3月26日の天声人語より
「ブルー・シャトウ」「帰って来たヨッパライ」「世界は二人のために」。
東京に美濃部革新都政が誕生した1967年、昭和42年には、こんな歌が流れていた。
亡くなった寺島尚彦さんが、沖縄の戦跡で着想を得て作詞作曲した「さとうきび畑」もこの年の作品だ。
しかし、全国に一気に広がったという記憶は無い。
森山良子さんは一昨年、「自分の歌唱の非力さを痛感させられた初めての曲だった」と、
本紙で述懐している。
幼いころから様々な音楽に接していたから、どんな曲でも歌える少しの自信があった。
しかし「ざわわ ざわわ」の奥に広がる深い空間の中で立ち往生して何年も過ぎた。
戦争を知らないのに歌えるはずがない、などと逃げ腰になったりもしたが、気が付くとまた「ざわわ」と歌っていた。
それが、10年ほど前のある時期、歌と自分が引き合うように近づいた。
演奏会で、「ざわわ」を欠かさずリクエストし続けた客席の心も、歌い継ぐ力になったという。
敗色濃厚な45年、沖縄は激しい地上戦の場となった。住民が、集団自決に追い込まれた島もあった。
日本軍の壊滅までの約3カ月間で、日米の死者は計約20万人と推計されている。
うち、一般県民9万4千人が犠牲になったとされる。
寺島さんは、64年に初めて沖縄の戦跡を訪れ「あなたの足元に今も遺骨が埋もれている」と聞く。
その衝撃から「ざわわ」は生まれた。
今日、寺島さんの告別式が営まれる。
3月の26日は、米軍が沖縄の慶良間列島に上陸し、沖縄の地上戦が始まった日にあたる。
沖縄の人たちは本当に気の毒な運命を担わされてしまった。何故にもっと早く軍部は降伏しなかったのかと
悔やまれる。後に続く広島 長崎のの原爆投下のことを考えると余計にその思いが強い。
我々子供も最後まで日本は神州不滅で負けないと信じ込んでいた。
それだけ情報統制が徹底していたのだと思う。
イラクに派兵された自衛隊のニュースは最近は非常に少なくしか報道されなくなってきている。
報道は利敵行為でもいったことになるからなのだろうか。
恐ろしい事である。三人のイラクでの誘拐事件で「無辜の人」「ムコノ人」を誘拐した政治家からの発言で遥か昔子供の頃に
聞いた言葉である
久々に豊漁との便りが届いた。ニシンである。
3月27日の天声人語より
ビルや市場や運河に囲まれた東京の都心部でも、季節の移り変わりを告げる自然の律義さに、
はっとすることがある。
春告鳥(はるつげどり)ともいわれるウグイスが、
東京での初鳴きの平均という3月上旬のその日に鳴いた時もそうだった。
今年はまだ春を聞いていないと思っていると、
北の方から春告魚(はるつげうお)が久々に豊漁との便りが届いた。ニシンである。
昭和30年代以降漁獲が激減し「幻の魚」とさえいわれてきた。
今年は北海道の日本海岸で大漁で、増毛(ましけ)町では昨年の100倍の水揚げがあった。
戦前の漁が多かった頃を、札幌生まれの作家島木健作が「鰊(にしん)漁場」で描いている。
「日が山のかげに沈むと、とおく沖の彼方から夕闇がおし迫って、波のいろがみるみる変ってきた。
(略)海面がそのとき異様なふくらみを見せてもりあがり、もりあがって来たではないか。
――ひたひたひた、と鰊の大群はいま網のうえに乗ってきたのだ」(『北海道文学全集』立風書房)
産卵のため、ニシンが大群で来るのを「群来(くき)る」という。
「ニシンが群来るときは、空はどんよりとして−これをニシン曇りといい−(略)無数のカモメが海上スレスレに乱舞し、
(略)海面は、雄の精液のために、銀白色となります」(『近代庶民生活誌』三一書房)
豊漁が、地元で進められてきた稚魚の放流や、若いニシンの保護などの成果なのか、
今年だけの異変なのかは分からない。
しかし、人が省みて手だてを尽くす時、自然もまた応えようとするのではないかと考えてみたい。
唐太(からふと)の天(あめ)ぞ垂れたり鰊群来(誓子)
68年、原爆被害の全体像を明らかにしようと
「長崎の証言」運動を始めた。
3月28日の天声人語より
長崎に小さな歩みを重ねてきた『へいわ』がある。
被爆体験の語り伝えや原爆展の開催を通じて、
核兵器の悲惨さを訴えてきた長崎平和推進協会の会報である。
83年の設立以来、被爆者の声や取り組みを紹介し、今月100号を超えた。
設立の中心になったのは、74年度朝日賞の受賞者で、医師の秋月辰一郎さん(88)だった。
原水爆禁止運動が分裂し、政党色が強まるなか、小異を残して大同につこうと呼びかけた。
医長を務める病院で被爆。放射線障害に苦しみながら、焼け落ちた病棟で負傷者の手当てに明け暮れた。
戦後、カトリックの洗礼を受けた。
一方で、原爆投下を神の試練と受け止めた「祈りの長崎」の沈黙を静かに批判した。
68年、原爆被害の全体像を明らかにしようと「長崎の証言」運動を始めた。
十分な治療を受けられず死んでいった人たちの怨念(おんねん)に突き動かされたという。
世界では、「自衛」と「報復」のはざまで多くの一般人の血が流れている。
『へいわ』創刊号に、秋月さんはこう寄せていた。「この頃、あらためて人間の多様性ということを考えている。
平和論も画一的なものでなく、いろいろとあっていい。…平和論の多様から本当の強い平和が生まれる」。
憎しみではない。祈りだけでもない。他を思う想像力である。
一発で7万人を殺した原爆を受けてから、ここに至る道のりを思う。
協会はいま、1500人の会員と長崎市が支える。だが秋月さんが語ることはない。
12年前にぜんそくの発作で意識を失った。救護活動を続けた同じ場所で病床にある。
一発の原爆が広島では30万人余,長崎では七万人が亡くなっている。それよりも強力な水素爆弾が発明されているが
何処にもまだ落とされていない。どれだけの人が殺されるか想像がつかない。
そのような核爆弾が冷戦時代に増産され何千発も地球上に存在する。全人類を皆殺ししても
尚あまりがあるくらいに存在する。
小さなイラク戦争でさえをも止める事が出来ない人間にとって使われる可能性は十分にある。
馬鹿な世界の指導者が出ればの話だが。
「開いて閉じている」自動回転ドアは、
確かに便利かもしれない。
3月29日の天声人語より
幼いころの縄跳びを思い出す。回転する縄を目がけて飛び出す間合いが難しい。
最近ふえている大型の自動回転ドアにも、似たような難しさを感じるときがある。
縄跳びのようでもあるし、船に飛び乗るときの感じにも似ている。
「乗る」のに失敗したらどうなるか。
まさか、東京・六本木ヒルズでの児童の事故のように死につながるとは思わなかった。
大型だけに挟まれたときの圧力は想像以上に大きいのだろう。
つくった人や管理する人たちにはわかっていたはずだ。
しかも小さな事故が頻発していたらしい。
なぜ早くちゃんとした対策を講じることができなかったのか。
エントランス・テクノロジーという言葉がある。入り口工学とでもいおうか。
建物にふさわしい入り口をいかにつくるかを考える。
多数の人が出入りする建物では、とりわけ重要なことだろう。
「開いて閉じている」自動回転ドアは、確かに便利かもしれない。
回転しながらいつも人を出入りさせることができる。
しかも建物の気密性は保って、外気の影響を少なくできる。
が、開閉の交代のすきまに死角があった。
砂浜にドアがぽつんと立っている。建物は見あたらずドアだけである。
米国の作家S・キングの小説に、そんな奇妙な光景が出てきたのを思い出す。
別世界に通じるドアだった。内と外とをつなぐと同時に隔てるドアの存在が生々しかった。
亡くなった児童は、楽しい別世界につながる回転ドアだと思って走り寄ったのかもしれない。
生と死とを分けるドアであったとは、夢にも思わなかったろう。
便利さの裏で悲劇が起こったのが今回の回転大型自動ドアである。何故にそんなドアが必要だったのか。
現代の生活する上で便利と裏腹に危険が潜むものが沢山ある。
そんなに便利さを必要としないままの世界の方がずーと住みやすい環境にある。
シンプルな原始的な物の方が良い事が多々ある。便利・実用さを重んずる米国の思想が世界を
制覇した結果のための悲劇である。
3月30日の天声人語より
最近の言葉から。メゾソプラノのアグネス・バルツァさんが故郷ギリシャの民謡を歌った。
「ギリシャは、絶えず侵略を受け、戦場となってきたという歴史を背負っています。
その中から生まれた嘆きや悲しみが、歌の底辺に漂います」
米国暮らし8年の詩人伊藤比呂美さんは「庭に夢中になりはじめたら、
より望郷の念がつのることに気がつきました」。花の英名になじめない。
「『みやこわすれ』や『じんちょうげ』や『こでまり』や『はなずおう』が、色も匂(にお)いも、湿り気をおび、
光の中でも陰を持ってるじゃないかとわたしが感じるのも、その名前のせい、のような気がするのです」
「原始時代、恐竜の時代よりもっと前から、土は神秘的に働き続けて、今も死なないで、全地球の生命を養っているのよ。
……土を掌(てのひら)にすくわせ、小さな子たちと話したい」と作家の石牟礼道子さん。
驚くような速さで、世界が一本になりつつありますなー。
でも、そんな時代になればなるほど、地方色やそれぞれの国が独特の色を出すことが大事なんです。
自分とこの文化で相手を叩(たた)きのめすなんて、生意気なこと言うな。
それを、アメリカによう分かってもらわな困る」と語るのは文化人類学の川喜田二郎さん。
中高生たちが書いた「憲法前文」を、ラップやロックで歌うCDには「だれをまもるの?
だれからまもるの? ……みんなでおどしあっててもたのしくないでしょ」 放浪の旅を続ける写真家藤原新也さん。
「人の一生は巡礼。ところで今、君はどこに行こうとしてるんだ」
3月31日の天声人語より
米国のボルティモアにあるエドガー・アラン・ポーの墓を訪れたことがある。
ポーの肖像を浮き彫りした白い墓は、町はずれの小さな教会の裏にあった。
推理・探偵小説の父といわれる彼のこと、墓にもミステリーがつきまとっている。
毎年1月の誕生日には、決まって墓前に3本の赤いバラとコニャックが供えられる。
当日未明、黒衣の男が置いていくそうだ。
半世紀以上続いているが、いまもって男が誰かはわからない。
ポーの死も謎に包まれている。
1849年秋、ボルティモアの溝に泥まみれで倒れているのを発見された。
病院に運ばれたが、数日後に死んだ。
泥酔説をはじめ殺害説まで様々あるが、真相はわからない。
妙なのは、発見されたとき、他人の衣服を着ていたことだった。
ポーを敬愛したフランスの詩人ボードレールに「謎の男」を描いた詩がある。
家族もなく、祖国がどこかも知らない男が「何を愛するのか?」と聞かれて答える。
「雲だ。ほら、あそこを行く――」。破滅的ともいえる一生を送ったポーを彷彿(ほうふつ)とさせる詩だ。
ポー自身、「ひとりで」という詩で「悪霊のような雲」への愛着を語っている。
孤独で恵まれない生涯だったが、後継者には事欠かない。フランスの詩人から日本の江戸川乱歩まで、すそ野は広い。
彼の名前を冠したエドガー賞(アメリカ探偵作家クラブ主催)の最優秀長編賞候補に、桐野夏生さんの『OUT』が選ばれた。
日本人では初めてのことだ。
「悪」を冷ややかな情熱を込めて描く彼女の作品もポーの世界につながっている。
推理小説も時代と共にかわってきているように思う。刺激がより強くなり無機質的になり情緒が少なくなってきているようだ。
驚く程に残虐になつてきている。
「天声人語」の筆者交代
明日から本紙のコラム「天声人語」の責任筆者が代わります。
01年4月から担当してきた小池民男論説委員から高橋郁男論説委員への交代です。
高橋記者は東京本社社会部長を務めるなど社会部での取材経験が長く、
00年夏から02年末までは夕刊のコラム「素粒子」を担当しました。56歳。
1904(明治37)年、「天声人語」が大阪発行の本紙に登場してからこの1月でちょうど100年。
全国の紙面に載るようになったのは戦後間もない45年9月です。
未知なるもの
個人によって未知なることは異なる。経験の浅い子供にとっては大人の世界の出来事は未知なるものかもしれない。
ある専門の職業についている人は他の専門のことは未知である。人それぞれにより未知なることは異なってくる。
専門馬鹿といわれるのはこのことを指して言っているのかもしれない。
学ばないとわかってこない。さらに寒い地区例えば北海道に住まなければ本当に冬の北海道の寒さは理解できない。
熱帯に住まなければ熱帯地方の暑さは本当に理解する事ができない。
過酷な環境に置かれている人達の身にならないとその人の苦しみは理解できない。
イラクの情報もテレビ 新聞 雑誌などで知るだけで,それがどんなにか大変な事かは真に理解できない。
想像はそれぞれできるか゛本当はその人の立場にならないと真の理解はありえない。
このように考えてくるとなんでも知っているように思っているが,本当の事は何もわかっていないのかもしれない。
ただ想像して判っているような気持になっているだけで,本当は自分が経験したほんの僅かのことだけしか理解できていない。
未知なるものに囲まれながら未知なる世界から未知なる世界へと歩んでいるのが人生なのかもしれない。