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5月になって



皐月晴れの日が多く,過ごし易い毎日が続く。月の後半に少し暑い日も有ったが,全体的に

過ごし易い日が多かった。暖房も冷房も入れずに過ごせる月でもある。

ツツジの花もあちこちで見かけるも,次に同じ所にゆくともう見ない。元気がもらえる月である。

残念なことにゴルフコンぺの日が午前ジャジャ降りでキャンセルする。

ゴルフは雨でも実行されるのが普通で,傘を差してでもやっている光景をもみかげるが,

自分の信念として,健康のためにやらないことに決めている。

そんなゴルファ-だから,スコアは一向に上達を見ない。

楽しんでやっているのだから,其れで良しと自分で言い聞かせている。

元は健康の為の運動として,始めたのものだから,寒い時期 暑い時期 雨の日は休む事に決めている。

5月からはゴルフの季節である。

練習にはよく出かける。不況なので練習場も普通の日は少なくて,特別サービスの値段のやすい日には訪れる人が多い。

実感として景気はまだまだ良くなっているとは思えない。

国会では官房長官の福田さんの年金未納問題がわかり,早々に自分から辞められた。

閣僚達にも 又総理に年金未納が発覚しても,そのままに職を続けている。

次に民主党の管党首の未納が判明してマスコミの追求がきわめて厳しく,終に辞任に追いやられている。

一方,追求したマスコミの方にも未納問題が発覚し,自分自身がテレビに出演するのを自粛する人も出てきている。

公明党は党首はじめ党員にも未納者が出ていると党として発表しているが.

一方の自民党だけが個人の問題として,党としての発表はいまだにない。

年金法案は衆議院を通過して参議院に送られた。民主党の賛同が理解できない。

民主党党首としての後任に小沢氏が最有力者として,岡田幹事長からの党首への要請が有ったが,

小沢氏も又年金未納問題が有り党首になるのを辞退する。

結局,岡田氏が民主党党首となり,旧自由党の幹事長の藤井氏が民主党幹事長になるに至った。

政界では議員の年金未納問題が嵐のように吹きま荒れて,肝心の年金制度自身には深い議論・討論が行われずに

衆議院を通過してしまった。

年金問題は国民の誰もが重大な関心のあることなので,この際与党 野党がそれぞれ年金法案を作りそれに対して

国民が審判してからでも遅くはないことだった。充分に審議してからでも遅くない。

年金を討議している小委員会では小泉首相に対して野党からの質問攻めで,小泉首相の厚生年金を受け取った時期に

勤務実態がないにもかかわらずに給料が支払いされていたことが明るみになり,その答弁が小泉首相らしい

いい加減な答弁でもって,はぐらかし正当化している。

そこのところを6月14日の「アエラ」から引用すると、ハイライトは,一時間にわたる質疑が終局にさしかかろうとしてたとき。

首相が議員になる前,勤務実態がないのに支援者の会社の社員として厚生年金に加入していた問題が議論になった。

岡田氏「ちゃんと謝ったほうがいい。言い訳ははみぐるしいですよ」

首相「人生いろいろ,会社もいろいろ、社員もいろいろだ。なんで謝らなきゃならないのか」

島倉千代子のヒット曲まで持ち出して混ぜっ返し,興奮気味に開き直る----。「小泉劇場」おなじみのだしものである。

これに,岡田氏は直球を投げ込んだ。

「この方が日本国総理大臣なのか・・・・・・・非常に寂しい気持で聞いておりました。そう開き直るなら,自営業の人が

籍だけ会社に置いて(国民年金より)有利な厚生年金に入ろうとするのに「ノ-」といえるんですか。それが総理の言うことですか!」

大きな拍手がわき,質疑終了。岡田氏らしい討論場面であった。

人生いろいろ,会社もいろいろ、社員もいろいろ,それに加えて首相もいろいろである。小泉首相の本質・性格がよくわかる。

国民はひたすらに我慢を強いられて,8ケ国のサミットでブッシュに自衛隊の多国籍軍参加を
引き受けて来ている。

イラクへの自衛隊派兵の時もそうであった。自衛隊は小泉首相の私兵ではない。

勝手に自分の思いだけで回答すべき性質のものではない。小泉首相はあまりにも軽すぎる。

こんな軽い人に日本の政治をまかしてよいものなのか。改革とやらに対して国民に痛みに耐え苦しんでいるのにだ。

自衛隊派兵はタダではできない。今のイラク情勢を見るならば誰もが慎重になるのが普通である。

又6−7割の国民が年金法案に対し反対している。民主主義のイロハをばイラクに民主主義をといっているブッシュから

まず手ほどきしてもらっては如何だろう。余りにもブッシュベツタりしすぎている。

テレビを見ていて変だと感じ,大多数の国民もそう感じたのではないかと思う。

管民主党党首の年金法案は国会をとうさなければ何時までたっても,百年経っても政権がとれないとの説明をばしている。

そんな党首が続くならば百年経っても政権は取れそうもない。
政府案反対の姿勢が正しかったと思う。

岡田氏が党首になってからは政府の年金法案に対して絶対反対,徹底抗戦したが,

時は既に遅く,参議院を与党多数で通過してしまう。

委員会での社民 共産 無所属の議員の質問を打ち切って,与党単独で採決してしまつたのはどう見ても許せないし,

民主主義・議会民主主議からして,あってはならないことである。

これでは議員が何のためにいるのか判らない。国会がなんのためにあるのかも判らない。

与党が多数であればなんでも,どんな法案をも通過させることが可能である。

その後は参議院本会議では問責決議案が次ぎ次ぎにだされ,時間稼ぎの弁論 牛歩戦術などといろんな手段をこうじたが,

絶対多数の与党を前にしては所詮勝てない。

どちらにしても年金法案は欠陥だらけである。6−7割の国民が法案に対して反対しているから

性根を入れなおし,再び論戦しなおし国民の納得する法案にしてほしいものである。




無数のPACE(平和)


5月1日の天声人語より


 PACE(パーチェ) PACE PACE……。「平和」という言葉を連ねた横断幕が、テレビ画面いっぱいに広がる。

 イラクのイタリア人人質の解放を求めて、家族や市民数千人がバチカンのサンピエトロ広場でデモをした。

しかし、軍の撤退を求めるシュプレヒコールなどは無く、PACEの文字が、

人々の内の切ない思いを無言で語っているようだった。

 ブッシュ米大統領が、大規模な戦闘の終結を宣言してから、1日で1年になる。しかし、戦闘は、まだ激しく続いている。

特にファルージャでの、住民を巻き込んだ大規模な米軍の攻撃は、終結宣言のむなしさを改めて印象付けた。

 「テレビでモスク攻撃の様が見えるではないか」。

イラクでの暫定政府樹立の仲介という重い役目を担う国連事務総長特別顧問のブラヒミ氏は、

ファルージャ攻撃について、語気を強めた。

「米国は右手と左手でまったく異なる動きをしている」という国連幹部もいる。

一方の手で国連に仲介を求めながら、利き腕では相手をたたく。

アナン事務総長も、米国に自制を求めた。

 国連の2代目の事務総長だったハマーショルドは、日記にこう書いている。

「暴力行為。規模の大小にかかわらず、それは苦がにがしいパラドックスである。

死は意味深く――しかも殺戮は無意味なのであるから」(『道しるべ』みすず書房)。

61年、動乱調停でコンゴへ行く途中、搭乗機が墜落、死後ノーベル平和賞を受けた。

 ローマから届く無数のPACEに、自分の思いを重ねた人は、世界各地に居たはずだ。




平和と民主主義をイラクに普及,徹底するために戦争をしているのがブッシュが指導しているアメリカのやり方である。

ブッシュのやり方はアメリカ人の少数の意見であることがアメリカの最近の世論調査でも判ってきている。

平和の為の戦い 民主主義を強制するための戦い。その美名のもとにイラク占領し 植民地化 そしてアメリカの石油確保の

下心が見えてくる。元気な若者である兵士達が突然に多数死んでいっている。そしてイラクは混乱の極みにある。

その混乱にイラクの一般市民が巻き添えになり死んで行く人たちが大勢いて,実数は確かめられない。

アメリカのテレビではイラクで亡くなった兵士たちの名前と写真が一人一人呼ばれテレビに流されたの報道があるが,

イラクの人たちはひっそりとその何十倍の人たちが死んでいっている。

それもブッシュが唱えるイラクの平和と民主主義のためにだ。!



 
死者たちは何を語りかけるのか



5月2日の天声人語より


 死者たちは何を語りかけるのか。

米国では、増え続けるイラク戦争の戦死者の扱いをめぐり、論議が起きている。

 30日夜、米ABCテレビのニュースショー「ナイトライン」は、

イラク戦争で死亡した700人を超える米兵の名前を延々と読み上げた。

画面には彼らの写真が次々と流れ、終了までに40分を費やした。

 戦死者を政治的に利用し、反戦意識をあおっているとの批判が出た。

読み上げたキャスターは「番組のねらいは、戦争反対でも戦争支持でもない」と反論、

制作者は「数字として計算される戦死者から、顔も名前もある一人の人間に戻ってもらう儀式だ」と語る。

 少し前には、イラクで死んだ米兵の遺体を納めた棺(ひつぎ)の本国帰還を撮影した写真がインターネットで流れ、

新聞やテレビが紹介した。

情報公開法に基づいて入手された写真だった。国防総省やホワイトハウスは不快感を表明し、公開の制限を指示した。

星条旗にくるまれた棺は、米国民の感情を深く揺さぶる。その感情が「反戦」に揺れることを政府は恐れるのだろう。

 第二次大戦後まもなく、日本の詩人はこんな詩を書いた。

「わたしの屍体を地に寝かすな/おまえたちの死は/地に休むことができない/

わたしの屍体は/立棺のなかにおさめて/直立させよ」(田村隆一「立棺」)。

戦争による膨大な死者たちの無念の思いがにじみ出る。

 生き延びた者たちが、死者の思いをくみとらざるをえない。

米国の人々も、いま真摯(しんし)に死者と向き合おうとしているのだろう。

そのとき、死者たちは何を語りかけてくるのか。




戦場と化したイラクの人達の死はどうなっているのだろう。テレビの画面で見る家族の泣き叫ぶ姿

墓碑も立てられないボール紙の印。戦いで死んだ人は名前があるが,その戦いに巻き込まれる庶民が

数え切れないほどに多く,そっと死んで行くなんの罪のない人たちがである。

それが戦争の実態である。昔から一度として正義の戦いは無かった事は歴史をふりかえりみれば判る。




自衛隊にいたことがある



5月3日の天声人語より


 「俺はきょう、虫の居所が悪かった」。それだけで配属されたばかりの自衛隊員を次々殴り倒す。

トイレ掃除にぞうきんも使わせず、素手でさせる。さらには便器をなめさせる。

陰湿ないじめを受けた後輩がついに先輩に殺意を抱く。


 自衛隊にいたことがある作家浅田次郎さんの短編集『歩兵の本領』(講談社文庫)には、

1970年ころのそんな話が出てくる。まだ旧軍出身者がかなりいた時代で、理不尽な制裁の伝統も残っていた。

 旧軍の日常を描いた古典ともいえる野間宏の小説『真空地帯』(52年)を思い浮かべる。

そこに描かれる光景は、そのまま浅田さんの小説につながる。

野間の表現では「人間ハコノナカニアッテ人間ノ要素ヲ取リ去ラレテ兵隊ニナル」「兵営には空気がないのだ」

 自衛隊は旧軍から「脱皮」して様変わりを重ねてきたようだ。

最近では、安定した公務員、あるいは災害救助や国際貢献で注目を浴びる職場として志願者が多いそうだ。

世間の見る目も変わり、もはや「真空地帯」とはいえないのかもしれない。

 浅田さんは「ろくでなしの荒くれ者が多かった」ころの自衛隊に愛着を感じている。

その愛着をひきずったまま、説形式でイラク派遣の自衛隊に「撃たれても撃ち返すな」と呼びかけた

(日本ペンクラブ編『それでも私は戦争に反対します。』平凡社)

 「世界一ぶざまで滑稽な軍隊」だが、誇りがある。

「それは、五十何年間も戦をせず、一人の戦死者も出さず、ひとつの戦果さえ挙げなかったという、

輝かしい不戦の軍隊の誇りだ」と。





自衛隊は海外に派兵すべきでない。日本を守るために専守すべきである。

今でも遅くはない直ぐにでもイラクから撤退すべきだ。

第二次大戦の教訓が時の経過と共に風化してきている。無意味である。

高い税金を費やして何故に派兵するのか。日本国民をも危険にさらす行為である。




ブラハでは若きアインシュタインも
出入りしていた



5月4日の天声人語より


 晩年のアインシュタインに寄り添ってきた「最後の恋人」といわれる女性の日記が米国で見つかった。

女性は、81年に80歳で亡くなったチェコ出身のジョアンナ・ファトバさんである。

 ナチスから逃れて亡命したアインシュタインの米国での落ち着き先がプリンストン高等研究所だった。

ファトバさんはプリンストン大学の図書館員だった。ただし二人のつながりはそれだけではない。

 「アインシュタインはプリンストンでは決して安らぎを得なかったと思う。

彼は戦前のヨーロッパを懐かしがっていた。

ファトバさんは、彼をひきつける旧世界に属していた」という友人の見方をニューヨーク・タイムズが紹介していた。

二人が初めて会ったのは戦前のベルリンだったが、それ以前の縁もあった。

 ファトバさんの夫の母ベルタ・ファンタ夫人は、

此処でもって誰かに侵入され,HTML言語を変えられて一瞬のうちに以下の文章を

喪失されてしまう。



伏見医報に載せたものだけ原稿として有り掲載する。


粟生野光明寺

粟生野光明寺は京都の西山に在る名刹である。何時行っても静かな所で何回も訪れている。

京都の中心部に近い大寺院に比較して決して見劣りすることはない。

広い表参道をゆっくり登っていくと御影堂の正面にいたる。

四季通じてこんもりした木々の緑に囲まれ,ゆるやかな石畳の坂道をのぼってゆく。

御影堂内部に入る所で最近になってから拝観料をとられるようになった。

数年前までは無料である。

これくらいの大寺院になると,大体に駐車場を降りて山門から入るところで拝観料を取られるのが普通である。

それらの中でも,またまだ拝観料も安く参観し.お参りすることができる寺院の一つである。

粟生野光明寺について,この原稿を書くため,インターネットで検索したところ自分が書いた「めかたホームページ」が初めに見つかった。

詳しい由緒などはそこに書いてあるので省きます。

現在の正確な名称は西山浄土宗総本山光明寺と呼ばれおり,

そのホームページにもリンクしていますから,詳しく知りたい方はそこを読んでいただくこととする。

以前は京都東山にある黒谷の光明寺に対して粟生野光明寺と称されていた。

寺院のある場所の名前をとりそのように呼ばれていたようだ。

大体の境内の様子は御影堂正面から少し右手奥まった所に阿弥陀堂がある。

御影堂と阿弥陀堂は回廊でもむすばれている。

その阿弥陀堂の阿弥陀さんの額に火箸で焼かれた傷がる。

その傷のいわれについて子供のころに聞いたが,

誰かの身代わりになって阿弥陀さんに傷がついた話のように記憶している。

御影堂から急な石段を降りてゆくと釈迦堂にいたる。

もう一つの方法として釈迦堂へ本堂から回廊を通り,階段を降りてゆく方法もある。

その階段も急な階段なので,その降りるのに現在,はエスカレーターになっていた。

参拝者の便宜も考えてあるが,もっと他の理由として

管主さんが常時住まいされておられる所から本堂へお勤めをするために,

急な階段を昇り降りするのが大変だからと考える。

大体,管主になるような方の年齢は80歳から90歳位の高齢の方が多いためである。

釈迦堂にはお釈迦さんがまつられている。

張り子の御影は法然上人の母からの手紙を張り作った法然の像であるとの由緒を聞いたことがある。

釈迦堂の丁度前は山水の庭になっていて,じっと座って庭を眺めていると心が休まる。

いつまで見ていても厭きはこない。

そこから奥には一般参観者は立ち入り禁止となっている。

だが内部もよく知っている。僧侶たちが食事を作る厨房があり,側には大きな食事場になっている。

その奥に風呂場があり食事場から延びたところに,何室かの部屋と管主さんが住む部屋などがあった。

さらに奥まったところが貴賓室として書院が有り,そしてその横は小さな内庭である。

下からの出入り口の玄関は社務所となっている。

お寺へ来る信者さんたちとか,外来の人たちの受付場所だ。

その光明寺に小学生時代,約半年の短い期間,集団疎開していたのでよく知っている。

毎日一椀一菜の食事をし,風呂に入り,尼さんから頭を剃ってもらい坊主頭にしてもらった思い出の場所である。

建物の様子は今も当時とはほとんど変わっていないようだ。

強烈な半年間の少年時代の思い出である。

次代を背負う少年少女を都会の空襲から逃れ生き延び,将来の日本を背負うように,

当時の政府の方針によって集団疎開が始まった。

政府の方針のもと「自己責任」でもって食べるものもなく疎開先で栄養失調になった。

日本国民が内地の空襲と,外地では戦争で当時の人々が何十万,何百万人と

「自己責任」で死んでいったのが第二次大戦であった。

当時は日本では第二次大戦を大東亜戦争と呼び,東南アジア共栄圏を築き,

欧米諸国の植民地支配から東南アジアを解放するための戦争で,日本にとっては米英に対しての聖戦であった。

今回のイラクで起きた三人誘拐事件で,最初家族からの自衛隊イラクからの撤退を訴えていたのが,

政府・マスコミの世論形成によって作られた「自己責任」論が出てからは,次第に政府とか,

世間にご迷惑かけたと平謝りの姿勢に変わっていくのを見て怒りを感じた。

解放までに使われた代金まで支払うべきとの話まで出ている。

自衛隊派兵により東京で,もしテロでも起き死傷者が出た場合,

その人たちは「自己責任」だけで死んだことになるのか,

その人がそこに居合わせたのが不運だったと言うだけですまされてしまうのだろうか。

イラクの自衛隊員には死んだ場合,政府から一人約一億円支払うことになっているが

,テロによって死んだ場合にはどうなるのだろう。

そして首相が首相を辞め,全てそれで責任をとったとしても,どうしても

それたけでは納得がゆかない気持ちがつきまとってくる。

社務所から裏参道いたる道は秋の紅葉の美しさで大変有名で,

薬師門の辺りの森閑とした雰囲気は都会の雑踏に慣れた我々にとって安らぎを与えてくれる。

丁度境内から出た左手に「いっぷく亭」があり,湯豆腐料理が一応有名である。

(伏見医報に掲載)


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