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6月になって

6月は雨が多い。だが今年の梅雨は真夏かと思わせる暑い日が続くかと思うと,雨の激しい日もあった。

この時期には珍しく台風が日本列島に上陸し襲う。京都は少しコースからはずれて風は強く吹いたが,

大した被害は出ていない。

アジサイの花が綺麗に咲くころで,近くの空き地にもアジサイを,各家庭でも育てておられ,色とりどりの花が見られるようになった。

平穏な毎日だが,社会に目を向けると新聞では景気が上向きに戻りつつあるような記事を見かけるが,周りの環境は厳しい。

フリーターと称する若者が増えて来ている。フリーターと名ずく職業でもあるのかと思っていたのが,アルバイトを定職としている

人達の呼称のようである。定職が持てないということである。昔でいうならば失業者の仲間に分類されるのかもしれない。

会社が常勤の人たちを少なくし,そのような形態の人たちを雇い入れ,コストを下げて,なんとか業績を上げようとしている会社が

増えた来た結果によるものである。

実感としては景気は良くなってはいない。数年前までは多数の国民が中流意識が強かったのが,いまて゜は家計のやり繰りが

大変な家庭が増えてきている。今までのアメリカのような二極化した社会になりつつあるようだ。

小泉首相が改革とやらで進めている社会が少しずつ本当の姿を見せ初めて来た。

首相の「改革だ」の叫びに騙され,その本体を知るようになってから,後悔している人たちが多く出てきている。

依然としてイラクの治安情勢は悪い。占領軍が名前を変え多国籍軍になった。

アメリカのCIAと親しい人がイラク首相に任命された。アラウィ首相である。

6月30日の政権移譲が急遽,イラク治安が急速に悪くなっ来てコッソリとイラクへの政権移譲が行われた。

それでもってイラクの人たちや,世界の人たちを騙すことはできないのではないかと思う。

昔,日本が満州国を支配した時と同じく,あくまでも傀儡政権で本当の実権はアメリカにある。

イラクのアメリカ大使館には空前の大多数のアメリカ大使館員を送り込んでいる。

多国籍軍参加する国は30国余で,世界の大方の国々が参加していない。

国連の決議での参加だと強弁している小泉首相だが,日本国民はどのように判断するか。?

多国籍軍に参加すべきでないとしている国民が7-8割に達している。

参議院選挙の結果,民主党が多数の票を伸ばし,当選者をだしており,自民党は議席数を減らしている。

小泉首相は公明党 自民党の与党が多数だから支持されたとしているが,朝日新聞によると衆議院選挙に,参議院の選挙の結果の

票数をばそのまま当てはめると,民主党が大勝したことになるとの報道を読んだ。

だが今回の選挙で,小泉首相は国民に信頼されたとのいつもの詭弁を使わずに,

年金問題 イラク自衛隊派兵には謙虚に反省し,国民の意思を重んじて素直に政治に

国民の意思を反映してほしいものです。



人道復興支援部隊、連合軍、
多国籍軍は、その呼び名だけではなく、
扱う物事も異なるはずだ。



6月1日の天声人語より


 「サマーワ宿営地」。イラク南部に派遣された陸上自衛隊が現地で掲げている看板だ。

あくまで人道復興支援の部隊であり、米英などの連合軍には加わっていないと政府は説明してきた。

 しかし、おかしなことが起きた。

米国防総省が、連合軍の名称を既に「多国籍軍」と改め、連合軍の公式ホームページでは、

日本を含む33カ国をそのまま、多国籍軍の参加国として並べている。


 そもそもイラクへの多国籍軍は、主権移譲の前に国連決議がなされて組織されるのではなかったか。

このままでは、サマワに宿営する部隊は、その一部と見られかねない。

多国籍軍に加わるかどうかは、隊員の安全だけではなく、日本の国のありようにもかかわってくる。

 多国籍軍ができるとすれば、実質的には米軍が主軸になるのだろう。


その軍の最高指揮官は、フセイン元大統領が捕まった時に持っていた短銃を、

ホワイトハウスの来客に見せびらかしているという。

唯一の超大国の大統領という「大看板」を背負った人がこれでは、心もとない。

 日本での、看板に類する文献上の最初の記述は、

8世紀に成立した「養老令(ようろうりょう)」の注釈書「令義解(りょうのぎげ)」に現れるという。

「凡(およ)そ市は肆(いちくら)毎に標(ひょう)を立て行名を題(しる)せ」とある。

店舗(肆)ごとに、しるし(標)を立てて「絹肆(きぬくら)」

「布肆(ぬのくら)」というように扱う物を明示することになっていた(『看板の世界』大巧社)。

 人道復興支援部隊、連合軍、多国籍軍は、その呼び名だけではなく、扱う物事も異なるはずだ。

勝手な看板の書き換えに、引きずられてはたまらない。





先日101歳で亡くなった加瀬俊一さんである


6月2日の天声人語より


 比類のない才能を持った超一級の人物だが、オートバイを東京で乗り回すような奔放さを憂慮――。

元ソ連軍参謀本部員の近著で、リヒャルト・ゾルゲは、そう書かれているという。

 ゾルゲがスパイ容疑で逮捕された41年10月18日に、東条内閣が成立する。

外相に就いた東郷茂徳の秘書官で、日米開戦時に外務省北米担当課長だったのが、

先日101歳で亡くなった加瀬俊一さんである。

第二次大戦前後の激動期、日本と世界とがきしみ合う現場に身を置いた。

 「私は吉田茂と重光葵の二代の駐英大使に寵(ちょう)用された」と記す(『ジャーナリストの20世紀』電通)。


重光の側近として終戦に臨み、ミズーリ号での「降伏文書調印式」に随行した。

初代の国連大使になった翌年の56年、日本加盟が実現する。

「晴れて受諾演説をした重光外相は、私を強く抱擁し『これで思い残すことはないよ。ありがとう』と言った」

 神奈川県大磯町の吉田邸の完工前に招かれて、名前を付けろと言われる。

「ご主人にふさわしい名前でないといけないと思いますから、海千山千楼はどうですか」。

それで決まった(『劇的外交』成甲書房)。

 世間を驚かせ、戸惑わせもした佐藤栄作氏のノーベル平和賞受賞の根回しにも動いた。

「今回の受賞のかげに加瀬君の努力のある事を忘れるわけにはゆかぬ」(『佐藤榮作日記』朝日新聞社)。

戦後、世界が東西に分かれる時代には、西の道を選ぶ日本の目撃者であり、推進者でもあった。

 国連加盟からざっと半世紀。東と西に代わる新しい対立が世界を覆っている。






総務省によると、日本のインターネット利用者は、
03年末で推計7730万人にのぼった。



6月3日の天声人語より


 長崎県佐世保市の小学校での女児死亡事件から受ける衝撃は、

ふたりの年齢の低さや、校舎という現場の異様さにとどまらない。

インターネットが、事件につながる可能性のある「舞台」として浮かんできた。

 11歳の女児は「ホームページに面白くないことを書き込まれたので連れ出した。

殺すつもりだった」と話したという。

これが動機の核心かどうかは、まだ分からないが、

ふたりは、パソコン画面の文字で会話ができる「チャット」で、よく遊んでいたそうだ。

 この新しい電脳上の会話には、面と向かった会話や、声を伴う電話とは異なる働きがあるだろう。

古来、面談や電話では言いにくいことを手紙にする、という方法があった。

思いを、文字という無言のメディア(媒体)に乗せることで、肉声の持つ強さや荒さを和らげる。

相手に届くまでかかる到達時間にも、ことを静める効果があった。

 チャットでの会話は、いわば「即達」する手紙の連続だ。

大胆なことも文字でなら書けるという手紙の特性が、配達の時間が消えることでむき出しになる。

面談や電話以上の強さになるのかも知れない。

 総務省によると、日本のインターネット利用者は、03年末で推計7730万人にのぼった。

人口の約6割にあたる。年代別では6〜12歳が61%、13〜19歳では91%に達した。

 物心ついた時からネットに取り囲まれ、育つ世代が増える。

人間の生身の会話や思いの伝達が滞ることへの対策は肝要だ。

一方で、ネットを使いこなす手だてや、その特性を教え学ぶ場も重みを増すだろう。



 戦前の三菱グループを率いた岩崎小弥太は


6月4日の天声人語より


 戦前の三菱グループを率いた岩崎小弥太は俳句をたしなんだ。こんな句がある。

〈新聞の来ぬがうれしや雪の朝〉。1933年の作という(宮川隆泰『岩崎小彌太』中公新書)。

 前年、犬養毅首相が暗殺された五・一五事件では三菱銀行も襲撃された。

軍部・右翼を中心に財閥への批判が高まっていたころで、毎朝の新聞を見るのも嫌だったのだろう。

雪のため新聞が配達されない朝のほっとした気分を素直に詠んだ。

 昨今、三菱グループの人たちは、新聞を見たくないという点では同じ心境かもしれない。

2日明らかになった三菱自動車の欠陥隠し、リコール逃れは、相次ぐ不祥事の総決算ともいうべき痛撃だった。

 4年前には、ユーザーからの苦情を組織的に隠し、リコール逃れをしていたことが発覚した。

そのときの社長の言葉は、隠蔽(いんぺい)が「習い性になっていた部分がある」だった。

「習い性」を変えるのはいかに難しいことか。

今回、三菱自動車会長は「全部きれいにする」「きれいにするのが最優先だ」と「きれい」を連発した。

自浄と自壊と、紙一重の綱渡りが続く。

 「処事光明」。三菱グループの綱領の一つである。

品のないことや不正を排し、公正な商売をしなさい、という意味が込められているそうだ。

それにしても綱領の「光明」に反する「隠蔽」の連続だった。

 〈愛惜の物皆焼けて月涼し〉。米機の空襲で全焼した自宅前に立った岩崎小弥太の心境だ。45年6月のことである。

三菱自動車も、「愛惜の物」すべてを失ったところから、再出発を図らねばなるまい。





ローマが無防備都市を宣言していた
ことも戦火を逃れた一因だろう。



6月5日の天声人語より


 ローマを占領していたドイツ軍の将軍らはその夜、オペラ見物に出かけた。

幕が下りてから彼らは撤退を始めた。44年6月3日のことである。

オペラ見物は、市民の目をごまかすためだった(C・ヒバート『ローマ』朝日選書)。

 撤退開始の翌日、連合国軍がローマに入った。

激しい戦闘はなく、文化遺産はほぼ無傷で生き延びることができた。

ローマが無防備都市を宣言していたことも戦火を逃れた一因だろう。

ローマ法王も「だれであれローマを攻撃する者は、文明世界全体に対する母親殺しの罪を犯すことになり、

永遠に神の審判を受けるだろう」と警告していた。

 ロッセリーニ監督の名画「無防備都市」(45年)は、ドイツ占領下のローマが舞台だった。

抵抗運動をする市民が無残に殺されていくさまをドキュメンタリー風に生々しく描いた。

都市の傷ではなく、人々の傷の深さを伝え続ける。

 解放60年の4日、ブッシュ米大統領がローマ入りした。かつて米軍を迎えたような歓迎は期待できない。

6割以上の国民がイタリア軍のイラク撤退を求めている。

ローマ法王も、イラク戦争反対をたびたび表明してきた。

 戦後、首相を7度つとめたアンドレオッチ氏はこんな提案までしている。

「午前中は皆がローマ解放への感謝を米国にささげ、午後はイラク戦争反対の抗議行動をしたい人がしたらどうか」

(フィナンシャル・タイムズ紙)。

 ローマからパリ、ノルマンディーへ。

かつて解放者として米軍が迎えられた地を、今イラクで苦戦する米軍の最高指揮官ブッシュ氏が巡る。






国会での伝統芸「牛歩戦術」の復活


6月6日の天声人語より


 太田省吾さんが演出した80年代の一連の演劇を思い浮かべるのは彼に失礼かもしれない。

国会での伝統芸「牛歩戦術」の復活を見て、

驚異的な遅さで俳優が歩く「水の駅」など沈黙劇の情景が浮かんだのだった。

時代を画した演劇と、時代錯誤にも見える牛歩劇との落差を痛感しつつ。

 戦後すぐの46年に「時計と睨(にら)めつこで牛歩、本会議を流す」の記事がある。

牛歩の最初らしい。第1次吉田内閣で、社会党など野党が衆院議長の不信任案を提出した。

数でつぶそうとする与党に野党は牛歩で対抗、深夜0時を越えて流会に持ち込んだ。

 以来、こんな見出しが並ぶ時代が続く。

「社会党また牛歩」「役者もうんざり 牛歩劇」。

牛歩が成功を収めたことはほとんどなく、徒労感とむなしさばかりが残ることが多かった。

 今回、久しぶりの「牛歩劇」再演である。未納騒動で役者が次々交代したのは筋書きにない展開だった。

長い将来の生活にかかわる重要テーマをかかげながら、中身の掘り下げが足りなかった。

強行採決から牛歩戦術へと旧劇風に幕を下ろしてしまったのにもがっかりした。


 太田さんの沈黙劇にはこんな評がある。

「観客の忍耐力に挑戦するかのように極端に遅くし、そのじれったいほどゆるやかな表現のなかから、

日常の眼では見えにくい領域を静かに立ちあがらせた」(扇田昭彦『現代演劇の航海』リブロポート)。

 年金法案をめぐるドタバタ劇から立ち上がってくるものは何か。

真の主役、つまり主権者の私たちが無視された、ということだったとすればむなしい。





聖火リレーがあった。

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6月7日の天声人語より


 梅雨入りした空から、静かに雨が降ってくる。ゆっくり近づいてくる走者の掲げるトーチの先に、炎が輝く。

昨日東京で、夏の五輪では40年ぶりの聖火リレーがあった。

 オリンピック発祥のギリシャ・オリンピアで太陽から採られた火が、銀座や浅草、六本木を行く。

今回初めて、五つの大陸を経て、開催地アテネへと向かう。

トーチは、オリーブの葉を大きくしたような形に作られた。

その先端に宿るのが「古代の火」であり、それが遠い道のりを行くという物語には、人を引きつけるものがある。

 「古代オリンピックでは、聖火リレー(ランパドロミア)は、徒競走部門の一種目として、

しかし多分に宗教的な側面を持ちあわせながら、太古から行われていたとみられている」

(『ギリシアの古代オリンピック』講談社)

 オリンピアよりは、アテナイやスパルタといった地方での競技祭の幕開けに多くみられた。

チームを組み、松明(たいまつ)の火をかざしながら走る。

ゴールは犠牲(いけにえ)を捧(ささ)げる祭壇で、トップの最終走者が自らの松明で点火する栄誉を得た。

 近代五輪の聖火リレーが始まったのは、ヒトラーが国威発揚に利用した、36年のベルリン大会だった。


やはりオリンピアで採火され、バルカン半島の各国を通って運ばれた。

3年後、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まった。

 ナチスの敗北を運命づけた「Dデー」から60周年の日に東京を行く聖火は、お祭り気分に包まれていた。

平和の象徴でもあるオリーブ型のトーチを見ながら、あの大戦と聖火との浅くない間柄を思っていた。






「Dデー」から60年の節目に立ち会い


6月8日の天声人語より


 記念の日に、幾つもの演説がなされた。

「フランスは決して忘れない。

我々の国土を、我々の祖国を、我々の欧州を、ナチスの蛮行のくびきと凶悪な愚行から解放するため

至高の犠牲を払った人たちを」


 仏大統領に米大統領が応える。

「大陸を横断して戦った諸国は、平和の大義の下、信頼しあったパートナーとなる。

我々の偉大な自由連合は強固であり…アメリカは友人のために再びそうする」(AP)

 イラク戦争以来の両国の隔たりが縮んだかに見えた。

「Dデー」から60年の節目に立ち会い、ふたりとも歴史に刻まれるのを意識したのだろうか。

 「おそらく、この日のすべての演説で最も感動的なものは、シュレーダー独首相から、もたらされた」(英紙インディペンデント)。

場所は昼間の国際式典ではなく、ノルマンディーの都市カーンの平和博物館「カーン記念館」だった。

 旧敵国の首相として初めて式典に出席した。

上陸作戦があった44年の生まれで、父はルーマニアで戦死した。

歴史がドイツに科した責任を深刻に受け止めていると述べ、続けた。


「連合国の兵士は…自由のために究極の代償を支払った。

ドイツの兵士たちは欧州を破壊しようという残忍な作戦に送られたため命を落とした。

しかし死の中にあれば、兵士たちは一体であるし、着ていた軍服にとらわれることもない」

 独仏の首脳は、両国の生徒たちや元兵士の前で「熱く抱き合った」(英紙フィナンシャル・タイムズ)。

儀礼の範囲なのか、軍服の別を超えた兵士への思いがあふれたのかと考えた。





日本では130年ぶりとなった
金星の日面通過現象である。



6月9日の天声人語より


 真っ黒な星というものを、初めて見た。背景は白い太陽だ。

日本では130年ぶりとなった金星の日面通過現象である。

 昨日、東京は梅雨空だった。

薄日の差す合間に、本社に隣り合う海上保安庁海洋情報部にお邪魔して、

望遠鏡がとらえる映像を見せてもらった。

 画面の大半が太陽で、輪郭の線から中心へ少し入ったところに、黒い金星があった。

バスケットボールぐらいの直径の白い円盤の前に、黒い小さめの卓球の球が浮かんでいるような感じだ。

二つの星と地球が一直線になっているのを実感した。


 海洋情報部には「金星試験顛末(てんまつ)」という文書がある。

前回の現象は1874年、明治7年だった。

この時を前に、各国の天文学者が観測の準備に入り、基地の一つとして日本が選ばれた。

来日した米、仏、メキシコ隊への対応を記録したのが「顛末」で、

三条実美太政大臣や勝安芳(海舟)海軍卿などの名がしばしば出てくる。

 メキシコ隊の5人は、横浜で観測した。

隊長ディアスは、送別会で聞いて感動したという、日本側のあいさつを記している。

「ヨーロッパ人とちがって、あなた方は武器の大音声をもって我々に接せず、科学の友情をもって接してくれた。

我々互いの国の間にはいつの日にか成就すべき外交関係がまだない。

しかしあなた方の仲介にてわれらの間にはすでに友情の関係が成就したことは確かである」(『金星過日』)


 隊が撮った、金星が黒い碁石のように写った写真を見ながら、

日本自身が「大音声」をもって外に接してゆく道のりを思った。




「人生いろいろ」である



6月10日の天声人語より


 不思議な効果を備えた語句というものがある。例えば「根岸の里のわび住まい」。

この上に季語を乗せれば、たちどころに俳句風の五七五ができる。

「あじさいや」でも「夏座敷」でも「木下闇」でもいい。

句の締まり具合に難点はあるものの、形にはなる。

 その言葉を最後に付けると話が終わってしまうのが「人生いろいろ」である。

近頃、首相が用いたようだが、そのすさまじい威力を、以前、夕刊の連載「青空の方法」で、

劇作家の宮沢章夫さんがこんな風に書いていた。

 経済記事に付ける。

「二十二日の東京株式市場は、円高に対する警戒感と米国市場での大幅な株安から、全面安の展開となった。

人生いろいろである」。

有名な文学作品も終わってしまう。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

人生いろいろである」

 近年多用されている決め言葉が「危うい」と「危うさ」だ。

本紙で使われた頻度を、最近の10年と、その前の10年とで比べると、「危うい」は約3倍、「危うさ」は約5倍に増えた

簡明な「危ない」や「危なさ」では表しにくいような広がりを感じさせるし、露骨さを薄める効用もある。

時代の気分を表しているのかも知れない。

 「危うさ」を感じさせるようなことが続いている。

「いろいろ」で終わらせようとする首相のもとで「いろいろ」な閣僚が暴言を続けた。

自衛隊への指揮権がどうなるのか、論議も説明も無いままに多国籍軍に連なろうという動きも見える。

 ここは、あえて簡明な方を使ってみよう。このままでは「危ない」。






小泉首相がブッシュ大統領のすぐ後ろで
記念写真に納まっていた。




6月11日の天声人語より


 小泉首相がブッシュ大統領のすぐ後ろで記念写真に納まっていた。

75年にフランスのランブイエで開かれて以来、サミットは30回目になる。

米主催での会議は5度目だが、中央に立つ米大統領にこれほど接近した首相は中曽根さんぐらいだろう。

 83年のウィリアムズバーグで、中曽根さんはレーガンさんの真横に写っている。

記事の見出しには「“ヤス”大張り切り/“ロン”と並び中央で」とある。

カメラの放列の中からは、意外なほどの接近ぶりに「オヤ」という声も出たという。

小泉さんは、それ以来の親密さを見せたことになるのかも知れない。

 シーアイランドのサミットで、首脳たちがくつろいだ雰囲気で話し合う様子がテレビで流れている。

それはそれでいいのだが、イラクでは戦闘が続いている。画面を見ながら、近刊の本の一節を思い浮かべた。

 「大量破壊兵器が存在するとの断定的な主張をしたこと、そしてその主張に対する疑問を退けたことは明らかに誤りだった」

(『イラク 大量破壊兵器査察の真実』DHC)。

著者は、元スウェーデン外相で、

国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)の長としてイラクでの査察を率いたハンス・ブリクス氏だ。

 米英の両首脳を批判し、本人や顧問たちには批判的な思考力が欠けていたと指摘する。

レーガンさんの「強い米国」への志向を経て、「唯一最強の米国」が実現した時、独断への傾きもまた生まれたのだろうか。

 サミットは「頂上」だが、頂上の一角だけが勝手に高くならないような、厳しいやりとりが必要だ。






人名用漢字が大幅に増える



6月12日の天声人語より


 斎藤宗吉(そうきち)というと少々重々しい。作家北杜夫(もりお)さんの本名である。

偉大な歌人である父茂吉は、息子宗吉に医者になってほしかった。

日頃「文学なんか絶対にやらせん!」と言っていたそうだ。

 父や世間の目をごまかすために学生時代、筆名で詩や小説を発表した。

トーマス・マンに耽溺(たんでき)していた宗吉さんは、マンの小説「トニオ・クレーゲル」から「杜二夫(とにお)」としてみた。

変だから、と二を外して杜夫にした。姓は北国にいたから。

 実名の平岡公威(きみたけ)でなく、三島由紀夫という筆名にしたのも両親への配慮だった。

デビューが旧制中学時代で恩師らの判断だった。

編集会議をしたのが三島駅辺だったから姓を「三島」に、近くに見える富士山から「ゆき」を発想したという。

 親がつけた平凡な名前に文句を言いながらも評論家の小林秀雄は実名で通した。

「親父は私の名前をつける時、他人と間違えられないために、という名前をつける根本条件を失念していた」。

単に面倒くさかったのだろう、と(佐川章『作家のペンネーム辞典』創拓社)。

 小林の父と違って意欲的で凝り性の親も少なくない。

それに応えようと人名用漢字が大幅に増える。

法制審議会の案には、「呪」「淫」「屍」など、つけられた子どもの方が迷惑しそうな漢字もある。

意欲もほどほどに、か。

 隻眼、片腕の剣客、丹下左膳(さぜん)の「膳」もつかえるようになりそうだ。

昭和初期、このヒーローを創造した作家の筆名が林不忘(ふぼう)だった。

皮肉な運命をお見通しだったかどうか。作家名に比べ、左膳はいまなお「不忘」だろう。





レーガン元米大統領の娘パティ・デイビスさんが


6月13日の天声人語より


 「よく私が父の部屋に入っていくと、父は読んでいたメモから目を上げて、

いったいこの子は誰なのだろうという顔をしたものだ」。

レーガン元米大統領の娘パティ・デイビスさんが幼いころの思い出を『わが娘を愛せなかった大統領へ』

(KKベストセラーズ)でつづっている。

 母のナンシー夫人は薬物依存で、娘を「虐待」していた。

父は「虐待」などあるはずがないと言いはり、子どもたちには無関心だった。

娘時代のパティさんが見たレーガン家の風景は暗かった。

 とはいえ、俳優・政治家の家庭である。

客が来ると「突然わが家は幸せな家庭に早変わりし、来客は観客となってそのショーを見物するのだ」。

パティさんは両親に反抗を続けた。

大統領になったレーガン氏がソ連を非難し、軍備増強を唱えるのに反発、反核運動をした。

麻薬にもおぼれた。

 90年代、レーガン氏のアルツハイマーが進行するとともに、パティさんは両親との「和解」を進めた。

11日夕、カリフォルニア州に戻った父の棺(ひつぎ)を前に、パティさんは心優しい別れの言葉を述べた。

自分が飼っていた金魚が死んで埋葬するとき、父が小枝で十字架をつくってくれた思い出を語りながら。

 ナンシー夫人が「永遠の楽観主義者」(タイム誌)だったと語るレーガン氏には、

パティさんとは違う家族像が映っていたのだろう。

家族で撮った昔の写真を見て「崩壊家庭ではなかった。皆愛し合っている」というのが口癖だった。

 一見どこにでもありそうな、しかし、特別な運命を背負わされた一家の別れの儀式だった。





プロ野球はこれからどうなるか


6月15日の天声人語より


 「毎春、梅の花が咲きだすと、『昇る朝日の国』は、野球相手に、恒例の全国的な恋愛事件を開始する」。

「プロ野球にみるニッポンスタイル」を副題にしたロバート・ホワイティングさんの『菊とバット』

(サイマル出版会)の一節だ。

 プロ野球を通じて日米文化比較に踏み込んだこの本が出たのは、77年だった。

「日本は、ほとんど一夜のうちに、目のキラキラ光るピッチャーやホームランバッターたちの国に、

ベースボール狂たちの国に、変貌する」


 こんな熱狂の時代に輝いていたチームの一つ、近鉄バファローズが合併するという。

名将・西本幸雄監督に率いられ、79、80年と連続してリーグ優勝しながら、

日本一への壁を越えられなかったことを思い出す。

 熱狂の時代は、その後長くは続かなかった。「なるようになれ、って心境ですね」。

プロ野球はこれからどうなるかと問われた随筆家江國滋さんが答えたのは80年代半ばだった。

「狭い日本に果たして二リーグ制が必要なんでしょうかね。

ちょっと古いかもしれませんが、一リーグ八チームの頃のことが懐かしいですね」(『プロ野球よ!』冬樹社)

 近鉄とオリックスの合併で、1リーグ制になるという観測があるようだ。

スター選手の脱日本や、人々のサッカーへの傾きを見れば時代の流れのようにも思われる。

しかし「1チーム減即1リーグ減」では短絡的過ぎないか。

 戦いのさなかに、合併を宣告される身もつらいだろう。

これまでに果たせなかった日本一の夢を成就する機会が、今年で最後になるとしたら。







アイルランドの作家ジェイムズ・ジョイスの小説
「ユリシーズ」は、



6月16日の天声人語より


 アイルランドのダブリンの市街から10キロほど南東へ、電車で行く。

小さな駅から海岸沿いに数分歩くと、丈の低い円筒形の塔が見えてくる。

ナポレオンの侵攻に備えてイギリス軍が設けた砲塔の跡だ。

 アイルランドの作家ジェイムズ・ジョイスの小説「ユリシーズ」は、

1904年6月16日、このマーテロ塔に住む青年たちの朝の会話で始まる。

この日は、後に妻となるノラとジョイスが初めてデートした日だという。

ダブリンを背景に、中年の新聞広告勧誘員ブルームと妻モリー、文学青年スティーブンらの

織りなす1日の物語がつづられる。

 ユリシーズはギリシャの叙事詩「オデュッセイア」の主人公オデュッセウスの英語名だ。

小説は叙事詩の構成を下敷きにしているが大冒険や漂泊は無い。

しかし「意識の流れ」の手法で描いた文学の極みの一つとして世界の読者や研究者を引きつけてきた。

 「『ユリシーズ』は、彼が見、聞き、小耳に挟んだことのすべての精髄であり、

聖化であり、冒涜であり、大真面目であると同時に喜劇的で(略)小波が寄せて来て韻律を刻み、

馬が駆け牡牛がのそのそと歩く」
(『ジェイムズ・ジョイス』ペンギン評伝双書)

 角を曲がるとまた角で、曲がっても曲がっても行き着かない迷路の感じもある。

人々の営みが複雑に交錯する都市そのものが迷路であり、

人と人との関係も、人間を形作る器官もまた迷路と言えなくもない。

 ダブリンでは先日、100年前のあの日のブルームの朝食にちなむ無料朝食会が開かれ、

大勢でにぎわったと、英紙にあった。





奇術師自身恥ずかしくて
認めたくない」ようなトリック


6月17日の天声人語より


 奇術師の苦悩というのがあるそうだ。観客をあっといわせる素晴らしい奇術をしてみせる。

しかし裏にあるのは、往々にして「あまりにばからしくて、

奇術師自身恥ずかしくて認めたくない」ようなトリックだという(C・プリースト『奇術師』早川書房)。

その落差におののく。

 イラクでの多国籍軍への自衛隊「参加」について政府が「基本的考え方」を示した。

憲法の枠をいかにすり抜けるか。

「奇弁」をもってのつじつま合わせに、下手な奇術を見せられているような気分に襲われた。

 まず「参加」という言葉の伸縮に着目した。狭義の「参加」だと憲法に抵触する。

意味をあいまいに広げてすり抜けようとした。

それにも無理があるのだろう、「考え方」からは「参加」という言葉が消された。

 「指揮権」も障害だ。多国籍軍の指揮下に入ると、憲法が禁じる武力行使を命ぜられる恐れがある。

ここは伝統芸の「自在訳」で切り抜ける。


国連安保理決議の指揮権のくだりを翻訳で薄め、独自解釈を可能にした。

陳腐な仕掛けで彩られたこの「憲法すり抜け術」に、とても拍手を送る気にはなれない。

 先の小説『奇術師』に登場する中国人は、虚空から金魚鉢を出現させる華麗な技で有名だった。

仕掛けは簡単で、中国服の下、ひざに金魚鉢をはさんで運んでいた。舞台では足を引きずりながら歩かざるをえない。

秘密がばれないように、彼は舞台を離れても足をひきずって歩いた。生涯続けた。

 無理な仕掛けやつじつま合わせはその場だけではすまない。将来に禍根を残す。





大統領選を前に異例だが、
選挙の後では間に合わない
という思いが感じられる。



6月18日の天声人語より


 「9・11同時多発テロ」が、日本でも起きていたとしたら。

そんな恐ろしい想像に駆りたてるのが、米議会独立調査委員会の報告書である。

 首謀者は、米本土だけでなく、東南アジアから太平洋を飛ぶ米航空機を同時にハイジャックし、

爆破や日本などへの攻撃に使うことを検討していた。

米在住のジャーナリスト、青木冨貴子さんの『FBIはなぜテロリストに敗北したのか』(新潮社)で読んだ「ボジンカ」計画が、

すぐに思い浮かんだ。

 93年、世界貿易センタービルの爆破事件が起きた。

95年に逮捕された主犯格のラムジ・ユセフ受刑者は、太平洋上で12機の米旅客機を同時爆破する計画を立てていた。

4千人の死を見込み、成田発の6機が含まれていたとある。


 ユセフ逮捕で「ボジンカ」計画は消えたはずなのに、なぜ息を吹き返したのか。

委員会の報告に、こうあった。9・11首謀者のハリド・シェイク・モハメド容疑者のおいがユセフ受刑者で、

ふたりはフィリピンで合流して「ボジンカ」計画を練った。

 これで、復活した訳は分かったが、ますます訳が分からなくなったのが、ブッシュ大統領の「イラク戦争の大義」だ

大量破壊兵器と同様、アルカイダとフセイン政権の協力関係を示す証拠も見つからなかった。

 ブッシュ政権による戦争の誤った正当化や軍事力への過信を批判して、

米国の元外交官や退役将校らが政策転換を求める声明を出した。


大統領選を前に異例だが、選挙の後では間に合わないという思いが感じられる。

日本でも、政権を問う節目が近づいてきた。




酒との深いつき合いといえば、この人


6月19日の天声人語より


 多いようであり、少ないようでもある。

全国推計で82万人になるというアルコール依存症の人の数だ。

 福井県や徳島県、東京の世田谷区、大阪・堺市の人口に匹敵すると聞けば、大変な数だと思う。

しかし、成人男性の約2%、50人に1人と聞くと、控えめの感じがしないでもない。

 「一杯目の微醺が二杯目、三杯目と僅かに重なっていると思うまもなく、あなやもあらせじ、

羽化登仙(略)忽ち、爛酔、泥酔の域に達してしまうのは、日本的酔っぱらいの特質らしい」。

酒酔いのアンソロジー『酔っぱらい読本』(講談社)に収録された埴谷雄高の「酒と戦後派」の一節だ。

 「百薬の長」「憂いの玉箒(たまばはき)」と、類のない効用を備えてはいるものの、

「酒が酒を飲む」「酒に呑(の)まれる」と、程良いつき合い方が難しい。


厚生労働省の研究班がよりどころにした世界保健機関の診断ガイドラインにも「飲酒の開始、終了、

あるいは量に関して行動を統制することが困難」との一項があった。

 酒との深いつき合いといえば、この人である。

〈かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ〉牧水。

俳句ならば、この人がいる。〈ほろほろ酔うて木の葉ふる〉山頭火。『酔っぱらい読本』には、やはり、あの人も入っている。

 「私は、弱い男であるから、酒も呑まずに、まじめに対談していると、三十分くらいで、

もう、へとへとになって、卑屈に、おどおどして来て、やりきれない思いをするのである」(太宰治「酒ぎらい」)。

入水から56年。今日が桜桃忌で、誕生日でもある。






琵琶湖という湖が実に多様な顔を持ち


6月20日の天声人語より


 「飲食物に勇気のあるほうではない」という作家の司馬遼太郎が案内人に勧められ

琵琶湖の水を茶碗(ちゃわん)にくんでおそるおそる飲んだ。

ヨシが群生しているあたりの水だった。「じつにうまかった」と記した(『街道をゆく24』朝日新聞社)

 浄水能力だけでなく、ヨシ原には魚が産卵し、育つゆりかごの役目もある

水鳥の生息地でもあり、湖岸の浸食を防ぎもする。「里山の写真家」今森光彦さんが、

琵琶湖をテーマに2冊の写真集『湖辺(みずべ)』『藍(あお)い宇宙』(いずれも世界文化社)を出したきっかけも、

老漁師そしてヨシ原との出会いだった。

 琵琶湖で漁をする80歳の漁師に連れられて行ったヨシ原で今森さんは感じた。

「包容されているような心地よさ」があり、「疲れた体の中に精気が甦(よみがえ)ってくる」独特の宇宙だ、と。

長く撮り続けてきた里山にいるのと同じような安らぎだった。

 写真集を見ていると、琵琶湖という湖が実に多様な顔を持ち、複雑な表情を見せることがわかる。

美しい風景だけでなく、湖辺に暮らす人々の息づかいが伝わってくるのが、今森さんらしい。

 戦後激減を続けた琵琶湖のヨシ原をめぐっては、政府の都市再生本部が昨年、再生に向けてプロジェクトを進めることにした。

民間団体もいろいろな試みをしている。

今森さんは、老漁師のように湖辺で暮らし、湖に頼って生活の糧を得ている人々の「共生の知恵」を大事にしたい、と語る。

 〈近江の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのに古(いにしへ)思ほゆ〉(柿本人麻呂)。

古来、さまざまな感慨を与えてきた湖だった。






72年3月、奈良県明日香村の高松塚古墳での壁画発見


6月21日の天声人語より


 最初は「青いカビのようなものか」と思ったという。

しかし、よく見ると何か木の根のようなものもあり、紐(ひも)のようにも見える。

 目が慣れてきた時、日差しが少し強まり明るくなった。

凝視する。茶色に近い色の緒を結び、青い服を着た人の姿が、かすかに見えた。

「人物だ! 壁画だ!」

 72年3月、奈良県明日香村の高松塚古墳での壁画発見の瞬間を、

網干善教・関西大名誉教授が記している(『飛鳥高松塚古墳』学生社)。

それから30年たって撮影され、今月刊行された『国宝 高松塚古墳壁画』(中央公論美術出版)の写真で、

西壁の白虎の部分が劣化していることがわかったという。

 映画『フェリーニのローマ』のシーンを連想した。

カメラは地下鉄の工事現場に入ってゆく。掘削機が壁に穴を開ける。

突然、その先に古代の壁が現れる。

描かれた人物像が鮮やかだ。

新発見と思う間もなく、色が急速に薄れ、像は消えてゆく。

現代の空気の作用を極端に表すかのような印象的な場面だった。

 本の写真を見ると、確かに、白虎の像の輪郭は薄れているようだ。

たけだけしい表情もぼやけて、虎というより猫の気配も漂う。

退色が進まないことを願うが、姿形がしっかり保たれている絵もあるようだ。

特に「飛鳥美人」たちの口元の赤は鮮やかだ。


 高松塚古墳の隣接地に、「壁画館」がある。

掲げられた絵は模写だが、それでも、胸に迫ってくるものがある。

それは、はるかな古代の絵が、すぐ隣り合った闇の中で、

今も確かに息づいているとの思いから来るようだった。





丸まったミミズを、アリたちが
真上に引き上げようとしているところだった



6月22日の天声人語より


 通りかかった小学校の脇の路地で立ち止まった。

路地よりも身の丈ほど高い校庭から垂直に下りたコンクリートの白い壁に、

茶色い輪ゴムのようなものと、黒い点々がうごめいている。

 それは、丸まったミミズを、アリたちが真上に引き上げようとしているところだった。

路面から50センチほど上で、校庭の高さまでは1メートル近くある。

 3匹が上から引っ張り、下から2匹が押し上げる。

時に別のアリが手を貸したり荷物に乗ったりして、休み休み、数ミリずつ持ち上げてゆく。

風で荷が揺らいだが作業は続いた。

 難所が待ちかまえていた。

壁の最上部が路地の方に7、8センチ張り出している。

このひさしのような障害を知っての上で、ここまで運んできたのか。

作業もこれまでか、と思った瞬間、その輪が壁から離れて中ぶらりんのようになった。

ひさしに仰向けに張り付いた2匹が、輪をぶら下げながら進み、ついに、ひさしのへりまで運びきった。

重力を消し去るような離れ業に見とれたが、風が強ければ、荷は元の路面に落ちていただろう。

 「青い鳥」で知られるメーテルリンクには、アリや蜜蜂などの社会的昆虫についての著作がある。

「アリがこの地球上でもっとも高貴で慈悲深い、寛容で献身的かつ愛他的な存在である」(『蟻の生活』工作舎)。

同時に、「あらゆる昆虫の中で、アリだけが軍隊を組織し、攻撃的戦争をくわだてる種族」とも記した。

 小さなアリたちが備えている大きな幅は、人類の方の幅と重なりあうように思われる。

一団は、校庭のツタの茂みに消えて行った。





沖縄戦の組織的な戦闘が終結した日



6月23日の天声人語より


 台風が去った昨日、東京は梅雨明けのような青空と真夏を思わせる暑さに見舞われた。

接近する台風の多さといい、この暑さといい、少々異常ではないか。

 気象庁はこう説明する。台風はふつう、太平洋高気圧の西の縁に沿って北上する。

いまの季節だと中国大陸の方へ向かうことが多い。

今年は高気圧が例年より北東にずれていて、台風を日本列島に向かわせている。

真夏のような暑さは、6月下旬には珍しいことではない、とも。

 沖縄はそろそろ梅雨明けだ。

「六月は雨期のおわる頃」と始まる牧港(まきみなと)篤三さんの詩「島を雨が蔽(おお)うた」は

「その六月に 島全体を 戦争が 蔽うた」と続く(『沖縄の悲哭』集英社)。

住民を巻き込んでの地上戦を強いられた1945年の沖縄戦の描写だ。

 「雨と泥と飢えとにさいなまれ」逃げまどった人々が米軍の砲弾に倒れていった。

従軍記者だった牧港さんは戦後、戦場の悲惨さを語りつづけた。


「軍隊は決して国民を守らない」「戦争というものは、人間が人間でなくなるんですよ」。

そう主張してきた牧港さんは今春、91歳で亡くなった。

 きょう23日は、沖縄戦の組織的な戦闘が終結した日とされる。

「慰霊の日」として、20万人以上といわれる犠牲者を追悼する。

イラクでの多国籍軍参加を決めたばかりの小泉首相も参列する。

地元の高校生は「戦争をしないと決めたこの国で」と題した詩を朗読する。

 「慰霊の日」は、梅雨明けと重なることが多い。

昨日の強い日差しにかつて参列した追悼式の日の、抜けるような青空と太陽とを思い出した。





韓国・北朝鮮の同調の積み重ねに期待したい



6月26日の天声人語より


 1950年6月25日の夕方、早稲田大学1年の野坂昭如さんは、

東京の銀座の辺りで、朝鮮戦争勃発(ぼっぱつ)を知った。

 「いよいよ来た――アメリカは原爆を使うだろう、されば、ソ連も用いる、

向うからして、敵の後方基地といえば日本の、九州板付、佐世保――そして東京周辺には、

厚木、座間、横田、横須賀がある、都民の大半は死ぬ」


 すぐに地下鉄で上野駅へ行き、列車に飛び乗って東京を離れた(『20世紀精神史』毎日新聞社)。

この開戦の直後、外務省内の研究会で、ある専門家は、第三次世界大戦が起こる確率は80%もあると予想していた。

 10年ほど前に報じられた「スターリン秘密資料」にも、次の大戦を想定したかのような記録がある。

北朝鮮側にとって戦況が悪化した50年秋、スターリンは「戦争が避け得ないなら、日本軍国主義が再建される数年後ではなく、

今にしよう」と中国の毛沢東に呼びかけていた。

それから半世紀余、世界大戦こそ無かったが、戦争は世界の各地で起こり、半島の分断は続いている。

 「本放送は北の放送とともに幕を下ろします。

(北朝鮮の)人民軍の皆さんありがとう。末永い幸運を祈ります」。

南側の最終放送に、北側のスピーカーは「統一のその日に会いましょう」と応じた。


軍事境界線一帯で互いの体制批判を続けてきた宣伝放送が、先週終わった。

 アテネ五輪では、両国選手団はシドニーと同様、同時入場する。

その時流れるのは、古歌「アリラン」。峠の道は、なおも険しいが、小さな「同調」の積み重ねに、望みをかけたい。





あの「モナリザ」である。


6月27日の天声人語より


 500歳のおばあさんの、健康診断が始まるらしい。

もちろん生身の人間ではなく、16世紀初頭にダビンチが描いた、あの「モナリザ」である。

 ルーブル美術館が、保存状態に「いくらか心配な点」を認めた。

絵が描かれている板の反る度合いが一様でなくなってきたらしい。

この先、永遠の微笑がゆがんでいくようなら大事(おおごと)だ。

しかし「過小評価も誇張も慎むべき程度の深刻さ」というから、慌てて悲観するほどではないのだろう。

 彼女の推定年齢が480歳だったころに、ルーブルのモナリザ担当の女性の職員から取材したことがある。

休館日の昼間で、いつもは人があふれている部屋に、ふたりだけだった。

防弾ガラスのケースに納められた絵の前に長いすを動かして、座りながら話を聞いた。

 「カンバスではなくて、ポプラの木の上に直接描いてあるんです。だから環境の変化に極端に弱いの」。

絵の掛かった壁の裏に点検用の小部屋があり、毎年春にモナリザを下ろして科学研究室の職員らが周りを囲む。

木のゆがみや絵のひび割れなどを細かく調べる。

点検を本格的に始めた61年からその時まで、変化は見られないとのことだった。

 ダビンチの「絵画論」には、こうある。

「君の描く人物を、その各が心の裡にどのやうな目的を抱いてゐるかといふことを表現するのに適当な動作に表現せねばならない。

さもなければ君の芸術は賞讃に値しないであらう」(アトリヱ社)

 右手を左の手首に重ね、かすかにほほ笑む形で表された人の心の裡(うち)もまた、永遠の謎なのかも知れない。






自分たちが先天的に残虐性を
持っているという考えに恐れを感じる




6月28日の天声人語より


 最近の言葉から。「ごみ捨て場でごみに出会うとき、僕はそこに奇跡を感じます。

誰かに使われてきたモノがあるとき捨てられ、それと僕が偶然の出会いを果たす」。

「ゴンチチ」のチチ松村さんはごみ拾い歴20年以上という。

 「日本には本当の闇はなくなりました。

ニューギニアの奥地なんかに行くと、今もお化けがいそうな雰囲気がありますよ。

真っ暗でまったくの静寂というのは、怖いけれども魅力的です」。

全国一斉消灯の催しを前に漫画家の水木しげるさん。

 「私たちは、自分たちが先天的に残虐性を持っているという考えに恐れを感じる。

……けれども、ほんとうに残虐性を持つことが証明されたら、それをただ否定するだけではなく、

この事実を率直に受け入れて、理性でこの未開な感情をコントロールすることを


考えなければならないのではなかろうか」。生命科学者柳澤桂子さんである。

 作家半藤一利さんは述べる。「後世からみれば、満州事変前後に大きな昭和の転回期があったとわかるが、

時の日本人は大いなる転回期を生きているとわかっていなかった。

同様のことがいまの私たちにもあてはまる」。


 「とにかく生き延びてほしい。亡くなった2人の目の代わりに世界やイラクを見て……」。

橋田信介さんの妻幸子さんが、目の手術後のサレハ君と一緒に記者会見して。

 沖縄戦の追悼式で高校生の金城実倫さんは自作の詩を読んだ。

「私たちは/生きている/私たちは/生きているのだから/

考えることができるのではないか/話合うことができるではないか」






クローン技術を使った絶滅動物の「再生」計画



6月29日の天声人語より


 99年前に絶滅した。正確にいえば、1905年に奈良県東吉野村で捕獲されて以来、人前に姿を見せたことがない。

だが、ニホンオオカミは本当にいなくなったのか。

27日の日本古生物学会で発表された過去最大という頭骨の写真を見ながら、絶滅動物について思いを巡らせる。

 2年前に埼玉県大滝村で催されたフォーラムでは、

目撃談や遠ぼえを聞いたといった体験談が語られた。

この地では、カナダの森林オオカミの遠ぼえのテープを山中に流し、オオカミをおびき寄せようとしたこともある。

 柳田国男の関心事でもあった。昭和初期、私は「絶滅論者」ではない、と書き記している(「狼のゆくへ」)。

生存説にくみするかのようだが、結論はそう明快ではない。

わかっている事実があまりに少なく、「このまゝ永遠に知られずに終りさうな気もする」と予感を書きとめた。

 オーストラリアではいま、クローン技術を使った絶滅動物の「再生」計画が進められている。

68年前に絶滅したとされるタスマニアン・タイガー(和名フクロオオカミ)の保存標本からDNAを抽出、一部の複製にも成功した。

 「再生」は、ニホンオオカミと戦後混乱期を生きる少年少女とを重ね合わせた

津島佑子さんの小説『笑いオオカミ』(新潮社)のテーマでもあった。

オオカミは「いまの日本が失ったものの象徴」であると同時に、現代社会を「再生」させる生命力を示してもいる。

 5年前、奈良県東吉野村に句碑が建てられた。〈絶滅のかの狼(おおかみ)を連れ歩く〉
(三橋敏雄)






主権という重いものが譲り渡される
儀式としては異例ずくめだった



6月30日の天声人語より


 イラクへの主権移譲の式典をいかに催すか。いろいろ作戦が練られたようだ。

安全第一、控えめに、は決まっていた。

花火は打ち上げない、国旗や国歌をめぐる行事もしない、なども。

 「式典はパフォーマンスだ」「テレビで見守る米国民のために誰もが拍手できるわかりやすい中身にしなければならない」。

事前に米紙などにそう語っていたのは、占領当局の儀礼担当者だ。

 30日に催されると思い込んでいた彼には、寝耳に水の挙行だったろう。

青いフォルダーに挟んだ主権移譲文書をブレマー代表がイラク側に手渡す。

この中心行事は、儀礼担当者の予告通りだった。

 イラクのヤワル大統領が「歴史的な日」とたたえる28日の式典は、また「密室での5分間」としても記憶されそうだ。

主権という重いものが譲り渡される儀式としては異例ずくめだった。

はたして占領当局はイラクの主権を正当に預かっていたのだろうか、それを正当に返したのだろうか、と改めて考えさせられる。

 「アラブ世界にはこんな言葉がある。最悪の破局には笑うしかない」。

28日、インターネットで流れた式典への酷評だ。

発信者はヨルダンのラエドさん。

かつて小欄でも取り上げた、バグダッドから日記をネットで発信し続けたサラーム・パックスさんの友人である。

 ラエドさんはイラク戦争での民間人犠牲者の調査をしている。

「テロとの戦争」が何をもたらしたかを問い続ける。

「何千もの死体と憎悪の増幅だけではないか」と。


ラエドさんから明るい便りが発信されることを願う日々が続く。





批判・批評と誹謗・中傷


批判は許されるが誹謗は許すことはできない。だったら何が批判で,何が誹謗か中々に区別が付けにくい所がある。

アメリカ大統領 ブッシュ並びに小泉首相に対してかなり前から批判をば続けている。

ブッシュがもし僕のこの「随想」の記事を読んで,・・・そんなことは滅多にないが,

もしかすると自分が誹謗・中傷されているとして読むかも知れない。

そんな事があるならば,どの新聞・雑誌・テレビなども同じことが言える。

何かの「長」になるような立場の人は批判は仕方ないことで,

批判されたくないような人で「長」になった人は長になる資格がないとも考える。

小泉さんもブッシュも,もし批判に絶えられず苦痛と感ずるようならばサツサッと辞めて欲しいものです。

「長」たる者は権威とか権力がある変わりに,批判に耐えなければならない。批判をもって誹謗・中傷と感ずるならば

その役を早く辞退した方がよい。その人の身体のため,健康のためにも良くないと思いますから。

大切な人生,そんなにも「長」にのみこだわる事もないのではないでしょうか。?

生まれた時も死んでゆくときも誰も皆同じで一人で生まれ一人で死んでゆき無位無官の状態である。




特異な出会い

人生は出会いの連続である。テレビでの出会いもある。北朝鮮の拉致被害者だった 蓮池さん 曽我さん 地村さんの

名前を目にしたり聞いたりする機会が多い。これだけテレビ 新聞 雑誌に載って大方の日本国民が知るようになった。

特異な人生経験されたからこそ,名前がしられるようになったと考える。

普通の人の中ではかなりの日本人がその拉致被害者の人の存在を知っている。

一方我々の大部分の者はせいぜい地球上の1000人位の人たちに知られるのが普通である。

だからこの世に1000人以外の人たちからはこの地球上にいるのかどうかも判らない存在である。

でもあの拉致被害者の人たちは大勢の日本人に名前がしられている。何千万人以上の人たちがこの人達の地球上での存在を

知っていることになる。他の人たちに知られているという意味だけを取って考えるならは幸せな人たちだと思う。

でも本当にそれが幸せなのかどうかはわからない。殆ど誰にも知られずにいるのが本当の幸せなのかもしれない。

蓮池さん 曽我さん 地村さん達を我々はその存在をしっているが,蓮池さん 曽我さん 地村さん達は我々の地球上での存在を

知っている筈がない。

テレビで常に見ていて,会っていないがその有名人にばったり実際に会った時,時々ナニナニさんだと思わず声を出した所.

その有名人の方がこちらを怪訝そうに見られたのが印象に残った出来事があった。


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