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9月になって


9月になっても今年は残暑厳しく暑い日が続いた。台風も何回も列島を襲ってきている。

アメリカではハり-ケ―ンが猛威を振るっているとの報道にも接して,益々地球の大気汚染による

異常現象は明らかになって来たようにおもえてならない。

早くなんとかしないと,人類にとって自己破滅のようなことになりそうだ。

今年の夏は例年にない猛暑の連続で9月に入りなんとか我慢できる暑さまてになったが,でもまだまだ暑い日が続く。

アメリカでは大統領選挙が本格化してきて共和党ブッシュ大統領と民主党ケリー候補との間の直接対決による,あつい討論が

聞かれるようになってきた。今年ほどにアメリカ大統領選挙が世界中に注目されることは今までになかったのではないか。

世界唯一の軍事超大国の動向は世界各国民に多大な影響を与えている証拠でもある。

身勝手なイラク戦争に踏み切ったブッシュ大統領の罪は極めて重い。ブッシュはいまの様子ではアメリカのために世界の平和の為に

戦争を起こしたとしての理由で逃げようとしている。アメリカの為になることならばアメリカ大統領は世界で何をしても

許されるとなれば,アメリカ以外の国々は非常に困った恐ろしい話ではないか。

これからの世界は一国だけで通用しなくなつてきている。現在世界交流は益々盛んになり,交通手段並びに情報手段などの進歩で

世界全体が非常に狭くなってきている。

そこでアメリカの大統領選挙でアメリカの為だけでもって,こんなにひどい目に会っているイラク国民の立場になれば,

さらには何故に世界中にこんな沢山なアメリカの基地が必要なのだろうか。?

日本ではアメリカが日本を守るため,沖縄を初め日本国中に沢山な基地が何故必要なのかの明快な説明がなされ来ていない。

日本の実態は今もアメリカのマッカーサーによって占領されていた第二次大戦における敗戦時と全く同じである。

こんなに沢山なアメリカ基地が何故に今も日本に必要なのだろうか。

平和憲法を掲げている日本に,米ソ冷戦も終わった今何故必要なのか。北朝鮮の脅威があまりにも強調されすぎている。

欧州諸国とは北朝鮮と友好条約が結ばれているのに,何故身近な韓国 日本などとは友好条約がむすばれられないのか。

アメリカの思惑の影がちらつく。それもアメリカのためにか。

苦しい財政難の中,聖域なき政治構造改革をめざす小泉首相はアメリカ基地縮小に何故努力しようとしないのか。?

アメリカに対して尻尾を振り振りすりよっているポチの小泉首相にそんなことを期待する方が無理な事はよくわかっているが。

基地の為の「思いやり予算」は幾らかかっているのだろう。日本の膨大なアメリカ基地を日本の為になるような,

土地の有効利用をもっと考え進めるべきである。まして狭い日本国土に,わざわざアメリカの基地を持つ必要はないのではないか。

「アメリカのため」に基地が世界中至る所,沢山有る。アメリカの為に,アメリカの為に,全てがアメリカの為に,

ブッシュ大統領が大統領選挙でアメリカの為だけを強調すればすべて明快な説明がつく。

歌の題名ではないが「世界は二人のために」ではなく、「世界はアメリカのために」だけにあるのだろうか。 

共和党ブッシュ側は「アメリカのため」を大統領選挙討論で強調している。

大統領を選ぶ人々はアメリカ国民が相手だから極めてこれは強い説得力がある。大戦時「富国強兵」に日本の軍部が走った。

「日本の為に」「お国のために」が当時強調され戦争が正当化がされていった。それと同じことが今アメリカの大統領選挙で争われている。

イラク戦争も,京都議定書への反対も,司法刑事裁判制度への不参加もアメリカのためだけが強調され,世界の中のアメリカが忘れられている。

アメリカが世界唯一の軍事超大国になったのはその為だけだったのか。!?

アメリカは自称「民主主義の先進国」である。だが今世界の人々から見れば強くて傲慢なアメリカ大帝国である。

アメリカは本来のアメリカに変るべきである。変って欲しい願いは全世界の緒国民が切に願っている。





 関東大震災はメディアの世界にも衝撃


9月1日の天声人語より


 こんなところで切ったらあかんがな、なに?地震?――そのまま電話は不通になった。

923年9月1日正午ごろ、山本権兵衛内閣の組閣の原稿を東京から電話で受けていた大阪朝日新聞でのことだ。

 通信途絶の中、最初の情報は鉄道関係からだった。

「東海道沼津付近を中心として近来稀有(けう)の強震」があり、特急が立ち往生した、との号外を出したのが午後2時である。

 軍は情報を持っているだろう、と取材したが「連絡がつかんで困っている。朝日さん何か情報はないか」。

夕方、横浜港に停泊中の船からの無電で、大規模地震であることを知った。

さらに詳しい情報を伝えたのは、その船から神奈川県の警察部長が大阪、兵庫県知事と大阪朝日にあてた無電だった。

夜9時すぎである。

 社屋が焼失した東京の記者は惨状を伝えるため次々大阪に向かった。

車で出発した3人は、橋が落ちていた相模川を泳いで渡った。


あとは徒歩である。「君は速く歩きすぎるよ」「弥次喜多じゃあるまいし、急ぐのは当たり前じゃないか」。

空腹と疲れで口論しながらの旅だった。

途中から汽車に乗り、4日朝、大阪朝日に着いた。持参した写真は号外に掲載された。

 関東大震災はメディアの世界にも衝撃を与えた。

情報過疎の中、流言から朝鮮人虐殺事件が起きるなど深刻な課題も突きつけられた。

震災後、ラジオへの関心が高まり、2年後の放送開始につながった。

 信技術が格段に発達した今日、「隔世の感」との思いもするが、

過信こそ最も危険、という教訓を忘れてはならないだろう。



情報過疎時代の頃のことを考えれば現在は世界中のニュースが瞬時に世界中をかけめぐる。

イラク戦争時のアメリカの報道を見ていて不思議に感じたことがあった。日本で報道されていた事が何故かアメリカで報道

されなかった不思議さである。アメリカの「愛国法」とやらが災いし,そして情報操作があったことが今になって

判ってきて,アメリカのメディアが化かされていたことによった。





西欧の文化は、
開国後に書物の波となって渡来



9月2日の天声人語より


 「蒲団(ふとん)」や「田舎教師」で知られる田山花袋は、明治前期の少年のころ、東京・京橋の本屋に奉公に出された。

山のように本を背負って得意先を回る。

「時には必要な書籍の名を書いた紙乃至(ないし)は帳面を持って、通りにある本屋を一軒々々訊(き)いて歩いた」と回顧している

(『東京の三十年』岩波文庫)。

 やがて、本を買い、注文する側となってこう書いた。

「丸善の二階、あの狭い薄暗い二階(略)莞爾(にこにこ)した番頭、埃(ほこり)だらけの棚(略)その二階には、

その時々に欧洲を動かした名高い書籍がやって来て並べて置かれた」

 19世紀の欧州の思潮は、丸善の二階を通して極東の一孤島にも絶えず微(かす)かに波打ちつつあった、とも記す。

思潮に限らず、西欧の文化は、開国後に書物の波となって渡来したと言えるだろう。

 21世紀の今でも、本屋に行くと、いわば時代の波打ち際に立っているかのような思いをすることがある。

平台に様々な本が並んでいる。

中身は千差万別としても、一冊一冊が、今という時代の小さな波の一つ一つに見える。

 取引先からの破産申し立てを受け、今年7月に、東京、神奈川の7店舗全店が閉店に追い込まれた書店

「青山ブックセンター」が、再建へと始動した。

デザイン、写真などの分野での個性的な品ぞろえに愛着を持つ客らが署名運動を起こし、取引先の一つが支援に動いた。

 閉店で空っぽになっていた六本木店の書棚には、昨日、「再開支援フェア」で、一部だけだが本が並んでいた。

この小さな波と波が連なり、大きな渚(なぎさ)となってよみがえるさまを思い描いた。


書物以外に世界の情勢が知ることができなかった頃に比べて テレビとかインターネット勿論新聞・ラジオもある。

書物が売れなくなるのも当然である。



「華氏911」を見た


9月3日の天声人語より


 米大統領選挙での対決は、「ブッシュ、チェイニー(共和党)対ケリー、エドワーズ(民主党)」と正式に決まった。

指名受諾演説を前に、対テロ戦争についてのブッシュ発言の乱れぶりが目についた。

 米テレビに聞かれた時は、対テロ戦に「勝てるとは思わない」と答えた。

ところが翌日の演説はこうなる。「確かなことは、この戦争に勝ちつつあり、勝つだろうということだ」

 重大な、イラクへの先制攻撃の根拠ですらクルクルと変える人である。


つい本音が出て、急ぎ修正したのかも知れない。

「勝利の確証が無いのに、大統領が勝つ勝つと言えば言うほど、彼は投票の日に敗者に近づく」と評した米紙もある。

 いわば「ブッシュ氏主演」で、マイケル・ムーア監督が「他の娯楽映画のように映画館で2時間楽しんでもらいたい」と

語ったとプログラムにある「華氏911」を見た。

戯画化された大統領の姿には、おかしみや頼りなさ、不安を感じた。

しかし、「爆撃で5回葬式を出した」と泣き叫ぶイラクの女性や、

人と街が攻撃される映像の連続は、楽しむどころではない。


 大統領の、映像にはなりにくい部分を描いた『攻撃計画』(日本経済新聞社)の印象的な場面を思い出した。

著者ボブ・ウッドワード氏が「歴史は結果によって評価されます」と言うと、ブッシュ氏は、ほおをゆるめた。

 「歴史か」。

大統領は肩をすくめ、ポケットから両手を出すと、腕をひろげて、遠い先のことだというしぐさをした。

「わかるものか。そのころには、われわれはみんな死んでいるよ」



歴史に頼るようになれば政治家もお終いである。今は評判は悪いが将来きっと歴史が正しい判断してくれると。

どの世界においてもいる悪い指導者の「逃げ」の常套手段である。




ロシア南部の北オセチア共和国での学校占拠事件


9月4日の天声人語より


 裸の子供の姿が画面に映る。その前に、迷彩を施した大きな装甲車がある。

銃を構えた兵士が走る。また子供が逃げて来る。

赤裸の子供と兵器という、限りなく似つかわしくない取り合わせの映像が延々と続いた。

 ロシア南部の北オセチア共和国での学校占拠事件は、昨日大きく動いた。

爆発音や銃声がとどろき、子供たちが巻き込まれた「戦場」の光景に、

ベトナムの戦場で撮られた一枚の写真を思い浮かべた。


 画面の中央付近に、裸の少女がいる。

道路の上でこちらを向き、手を斜め下におろし、泣いている。

周りには少年や少女がいる。向こうに、爆撃による黒煙が上がっている。

裸の少女たちは、戦禍から一歩でも逃れようとしている。

ピュリツァー賞を受けた、ニック・ウット氏によるベトナムの子らの姿だ。

 昨年、精神科医で作家の、なだいなださんが、

ロシアの革命家だったロープシンの著書「蒼ざめた馬」に触れながら書いていた。

「テロリストは、爆弾を投げようとした大公の馬車に、子どもたちが同乗しているのを見て、決行を思いとどまる。

しかし今のテロにも、対テロ戦争にも、そのような人間性はない」


 飛行機で地下鉄で、無差別の爆破テロがロシアで続いた。

その極みのように悲惨な、学校占拠事件の結末だ。

昨日の戦闘の経緯は、よく分からない。しかし、子供を狙うテロの非道は言語道断だ。

 無差別の殺戮(さつりく)は、ロシア以外でも続いている。

子供たちだけは、武器、兵器から引き離す。

そんな最低限の「人間性」を願うことすらできないのだろうか。



世の中弱いものにシワよせがくるのは常に見るところである。テロも強いものから弾圧されての結果であって

なんとか「弱肉強食」の論理をなくす方法として司法制度に頼るしかない。その司法制度も強いものがその気にならなければ

制度は実現しない。

でも米ソ大国のエゴには目に余るものがある。特にソ連のやり方は一連の事件で見ていると荒っぽさが目だって感じる





学校占拠事件で
大勢の子どもたちが犠牲になった。




9月5日の天声人語より


 20世紀の舞踊界に衝撃をもたらし、モダンダンスの祖ともいわれるイサドラ・ダンカンだが、

こんな一文が彼女の言葉として残っている。

「子どもたちが苦しむことを許しているかぎり、この世界に本当の愛は存在しない」

 ロシア南部の北オセチア共和国で起きた学校占拠事件で大勢の子どもたちが犠牲になった。

負傷し、また心に深い傷を負った子どもたちもたくさんいるだろう。

2人の子どもを一度に失ったダンカンの悲嘆ぶりがよみがえる。

 彼女は霊的な直感にしばしば襲われた。1913年1月、ロシアに公演旅行をしたときだった。

そりでホテルに向かう途中、柩(ひつぎ)が2列になって進んでいくのを見た。

「ご覧なさいよ。みんな子供よ、みんな子供が死んだんだわ」。

幻覚だった。その夜、彼女は突然思い立ってショパンの葬送行進曲を伴奏に踊った。

 それから3カ月後、彼女の子ども、まだ10歳にもならない息子と娘は、車もろともパリのセーヌ川に落ち、死んだ。

彼女の人生はそのとき二つに切り裂かれた。自身、生死の境をさまよった。

「真実の悲しみに会うと、われわれは言葉で表わす術を知らないし、かといって動作で表わすことも出来ない」

(『わが生涯』冨山房)

 あの日、子どもたちを外出させなければよかった、とダンカンは悔やみ続けた。

北オセチアの遺族も「自分に何かできたのではないか」と悔やみ続けるだろう。

悲しみが解けることはあるまい。

 「子どもたちが苦しむこと」を、あのように許してしまった世界の理不尽さに、しばし立ちすくむ。


本当になんとかならないものかと嘆きたい。せっかくの人生を短くして終わるなんて。

日本でもその昔戦争でもってあったことである。人間は何度も何度も同じことを世界中で繰り返している。

愚の塊である。犬畜生よりも劣っている動物である。本当になんとかならないものか。




台風と同じように、今年はハリケーンの発生


9月6日の天声人語より


 東京は、ものごとを大げさに言うところだと思った。ちょっと強い風が吹くとすぐ暴風だと言って騒ぐ。

かつて随筆でそう書いたのは、沖縄出身の詩人山之口貘(ばく)だ。

 沖縄では台風が来れば風速50メートルは当たり前で、しかも3日も4日も家に閉じこめられる。

そう書きながら彼は、棒と麻縄で雨戸を補強する父の手伝いをした思い出を記した(「暴風への郷愁」)。

慣れているとはいえ、今年のようにたびたび襲われるとさすがに大変だろう。

 米国でいえば、毎年のようにハリケーンの標的になってきたフロリダ州にあたる。

台風と同じように、今年はハリケーンの発生が例年よりかなり多いらしい。

「フロリダにとって不運な年」といわれている。

 最近では、史上最大の被害をもたらした92年の「アンドルー」が記憶に新しい。

多くの人が家を失い、廃虚同然になった町もあった。被害総額は250億ドルとされる。

大統領選挙の年で、今の大統領の父、ブッシュ氏の対応が遅れ、再選失敗にも影響を与えたという説も出たほどだ。

 週末から影響が出ている「フランシス」も強いハリケーンだ。「アンドルーの悪夢」を思い出している人も多いだろう。

避難命令が出ているなか、シャンパンを抜いて「ハリケーンパーティー」を開く人たちを地元紙が紹介していた。

恐怖を和らげるためだという。

 大型で非常に強い台風18号も猛威をふるい始めた。

台風に襲われるというより、頑丈につくられた沖縄の家が「暴風雨に挑みかかるのだ」と山之口は表現した。

その強さで嵐を切り抜けてほしい。



人間は自然に勝てないものなのだろうか。台風とかハリケーンを海上へ,人間に被害をもたらす事のないような科学の

進歩がないものか。台風を飛行機で誘導するとか,台風が発生すれば大きくなる前に人工的に消滅させるとか。

人間の住んでいる所に高気圧を発生させ防波堤にしてこないようにするとか,何か方法がある筈だ。

人間同士の戦争の為の新兵器開発に情熱を注ぐより自然への猛威の戦いへ関心が向いて,

そちらの研究がもっと進めばよいのにと考える。





浅間の噴火では、


9月7日の天声人語より


 9合目までは車で行ける。そこから先は歩いて登る。15分ほどでベズビオ山の頂に着いた

元の山頂は噴火で吹き飛んでいるので、巨大なすり鉢のふちが頂上だ。

火口の方から白い煙が静かに立ちのぼる。

 これは20年近く前の記憶だが、その約200年前にゲーテが来た時は、火山活動が活発だった。

旺盛な探究心からか、イタリアのナポリ近くのこの山に3度登った。

 「われわれは円錐形の火口の下方から噴き出している物凄い噴煙めがけて、

元気よく進んで行った(略)地面はますます熱くなってきた。

堪えがたいような濃い烟が渦を巻いているので、太陽も暗くなり、息も詰まりそうである」(『イタリア紀行』岩波文庫)。

相当な冒険だ。さすがに案内人が引き留める。「そこでわれわれは地獄の釜から逃れた」

 ベズビオは、ゲーテが来る150年ほど前には、犠牲者が数千とも1万人以上ともされる噴火をした。

最も有名なのはポンペイが埋まる79年の噴火だ。


「博物誌」を著した大プリニウスは、ベズビオに近づこうとして窒息死した。

「きのこ雲」のような噴煙が見え、人は落下物を防ぐため頭に枕を縛り付けたと、

おいの小プリニウスは記す(『素顔のローマ人』河出書房新社)。

 浅間の噴火では、きのこ雲は見えなかったようだが、灰は100キロ以上運ばれた。

沈静化を願うが、いつぶり返すかと不安も残る。

紀伊半島沖では、気象庁が「前例がない」とする連続地震が起きた。

 それぞれの地の底が刻んでいる太古からの固有の時。

今もって、測るに手強(てごわ)い相手である。





自然災害に台風のほかに火山の噴火,地震がある。原理がわかれば解消方法もみつかるはずだが。

此れだけ科学が進歩しても解決を見ない。核爆発の巨大なエネルギーをなんとか平和利用できないものだろうか。





日本球界初のストライキ


9月8日の天声人語より


 日本シリーズに名場面は数多いが、多くの人の記憶に今も鮮やかなのは、

79年の近鉄対広島の最終戦での「江夏の21球」だろう。

9回裏、1死満塁。1点リードする広島の江夏が、石渡への2球目の投球モーションに入った。

 「石渡を見たとき、バットがスッと動いた。来た! そういう感じ。

時間にすれば百分の一秒のことかもしれん」
(『山際淳司スポーツ・ノンフィクション傑作集成』文芸春秋)。

ぎりぎりの一瞬でスクイズを外した球は、曲がるように落ち、バットをすり抜けた。

 プロ野球ファンでなくとも心躍る場面だ。

もし、日本球界初のストライキが決行されて長引けば、日本シリーズにも影響が出る可能性があるという。

選手会は、自らにも跳ね返りかねない苦しい選択をした。

 選手がいなければ野球は成り立たない。

ファンと共に、野球の根幹である選手を「たかが」と言うのは「たかが野球」と言うに等しい。

ストという瀬戸際にまで来た経緯には、経営者側のかたくなな姿勢が目立った。

 早稲田大学教授で、初代野球部長だった安部磯雄は「野球は智仁勇(ちじんゆう)の三徳を教ゆるもの」とした。

体だけでなく心も敏捷(びんしょう)なら良い判断ができる。

野球は「協同遊戯」だから「苟(いやし)くも他人と協同せんとする者は各幾分か自己の意志を曲げるといふことがなくてはならぬ」。

「(死球の恐怖と闘う)バツテングに成功すると否とは全く勇気の有ると否とに依りて定まる
」(『安部磯雄』論創社)

 1世紀を経ても味がある。選手だけではなく、経営の側の人にも玩味してもらいたい。




懐かしい「スト」ができるなんて,野球界は一般社会から比べ恵まれている。不況で苦しんでいる労働者のファンが

己のストできない気持のストレスをそこえの支持で鬱憤をはらしているような所もある。

せめてストができる世の中にして下さいよ 小泉さん。





終戦の日、あの放送を、
水上さんが聞くことはなかった。




9月9日の天声人語より


 「終戦の日のことを書くのに、私の『リヤカーをひいて』からの文章を活用してくださり、光栄でございました――」。

昨日85歳で亡くなった水上勉さんから、思いがけない手紙を受け取ったのは、3年前だった。

 「昭和20年8月15日」のことを書いたコラムに、水上さんの、この日の回想文の一節を引用した。

簡単な礼状と、掲載した新聞を送った何日かあとに、手紙が届いた。

 水上さんから直接取材したことはないが、かなり以前に、何かの集まりであいさつするのを見た。

作品やテレビを通して思い描いていた通りの印象を受けた。


たたずまいの端正さや静かさと、その奥底にうずくまっている熱情のようなものを感じた覚えがある。

 『昭和文学全集』(小学館)の解説に、小松伸六さんが書いていた。

「私は以前水上文学を、『生活する歌ごころ』と書いたことがある。

それは在所の悲しい子守唄であり、放浪生活歌である。

また人生遍路の諷詠であり、失われた日本へのエレジーでもある」。

簡素で、しかも空疎ではなく深い内実のある、地べたからの発言だという。

 終戦の日、あの放送を、水上さんが聞くことはなかった。

そのころ、炎天下、リヤカーに病人を乗せて、郷里・若狭の坂道に居た。

「人は『歴史的な日』などを生きるものではない。


人は、いつも怨憎(おんぞう)愛楽の人事の日々の、具体を生きる」(『八月十五日と私』角川文庫)

 地をはうように生きる人々の、息づかいや胸の内奥にまで、

するどくも優しいまなざしを向けながら、日々の具体を描き通した。



庶民の苦しみを味わい僧への修行で昇華された作品を残した作者か。





「地球外の文明からのメッセージかもしれない」


9月10日の天声人語より


 「地球外の文明からのメッセージかもしれない」。

今月初めに流れたロイター電である。千光年ほどの宇宙のかなたから未知の電波が届いたという。

科学雑誌の記事をもとにした報道だっただけに関係者を興奮させた。

 プエルトリコにある世界最大級の電波望遠鏡がとらえた電波で、うお座とおひつじ座の間あたりから発せられた。

謎の電波はSHGb02+14aと命名された。


異星人からの信号かもしれないし、知られていなかった自然現象かもしれない、と報じられた。

 広い宇宙には地球以外にも文明を発達させた生命がいるはずだ。

彼らが発した電波をつかまえよう、とカリフォルニア大バークリー校につくられたのがSETI(地球外知性探査)という組織だ。

今回の謎の電波も、SETIが分析していた。

 折しも米航空宇宙局(NASA)が、太陽系外にガス状でない地球のような惑星が見つかったと発表、

地球外生命への期待が高まっていた。

しかし謎の電波のニュースが世界中に流れたあと、SETIはあわてて「誇張された記事だ」と打ち消した。

注目すべき信号のリストには入っていたが、異文明からの信号の可能性はほとんどない、と。

 仮に地球外の文明からの通信だったらどうするか。

国際天文学連合などは「国際会議で合意ができるまで返事はしない」と申し合わせている。

SETIは情報をおさえつつ、ひそかに国際会議の準備をしているのではないか、と想像をふくらますのも、

また楽しい。

 ただし向こうに返事が届くのが千年後、気の長いやりとりになる。




広大な夢のような話で,且つ人間の如何にちっぽけな存在であるかが良く判る宇宙の話である。




ドイツの哲学者カントの没後200年


9月11日の天声人語より


 今年は、ドイツの哲学者カントの没後200年にあたる。

「カントの法と道徳、平和に対する考えは、イラク戦争が起きた現在でも光を失うことはない」。

命日に墓に献花したドイツ外相が述べた。

 カントは「永遠の平和のために」で、常備軍の廃止を提唱した。

その常備軍を憲法で禁じた「非武装中立」のコスタリカの最高裁が、イラク戦争に絡んで政府に厳しい判決を下した。

米国の先制攻撃を政府が支持したのは、憲法や国際法などの精神に反し違憲とした。


米国の「有志連合」のリストからの削除を米側に求めよとも命じた。

 9・11の同時多発テロから3年がたつ。

世界中が総立ちになるほどの衝撃の後、二つの戦争を重ねてきた。

有志、非有志での亀裂も生じた。

戦争の大義は崩れ続けたが、戦闘はやまず、民間人の殺傷も続く。

 カントの国は、20世紀には、強大な常備軍で周囲を侵略した。

ナチスに追われて自殺したユダヤ系ドイツ人作家ベンヤミンが、先人の言葉を書き留めている。

「人間の感情のもっとも注目すべき特質のひとつは、個々人としては多くの我欲があるにもかかわらず、

人間全体としては現在が未来に羨望をおぼえないことだ」
(『ヴァルター・ベンヤミン著作集』晶文社)

 人間にとって「現在」の重みは計り知れない。しかし最近はこんな問いも浮かぶ。

相次ぐ戦争やテロなどの悲惨な現在の累積が、未来への羨望(せんぼう)を呼び起こすことはないのだろうか、と。

 憎悪と暴力の連鎖は、人間全体の感情のありようまで大きく揺さぶっているように見える。



カントは「永遠の平和のために」で、常備軍の廃止を提唱したが,現実はアメリカを先頭に新しいハイテクを使った

兵器開発に身をけずっているのが愚かな人間の姿である。




黄色にまつわる多様な世界を描いていた


9月12日の天声人語より


 先日、横浜港に近い通りの歩道に、黄色い銀杏(ぎんなん)が幾つも転がっているのを見た。

昨日通り掛かった東京都心の公園にも、銀杏が落ちていた。

見上げると、枝葉の間に黄色い粒々がびっしりと付いている。

隣り合う桜の木の根もとには、薄く黄色に染まった葉が数枚、散り敷いていた。


 多くの木々が色づくのは先のことだが、いわば走りの黄色を見て、

目黒区美術館で先日まで開かれていた「色の博物誌」展を思い返した。

「黄−地の力&空(くう)の光」と題し、黄色にまつわる多様な世界を描いていた。

 一抱えもありそうな硫黄の塊や、中国で皇帝を表す色とされる黄色の衣装、

沖縄の紅型(びんがた)、黄色を生みだす数々の顔料などが並ぶ。


長く見入ったのは、日本各地の黄土千種類を並べたという作品だ。

 各地の土を詰めた試験管のようなガラス管が千本並ぶ。

東京の隣に北海道の土があり、福井、島根、山梨……。

黄色だけでなく、黒や赤に近い土も隣り合い、日本の大地を織りあげた巻物のようだった。

 「黄色は光に最も近い色彩だ」とゲーテの「色彩論」にあるそうだ。黄色が光れば金色になる。

両者の光学的な特性はあまり変わらないともいうが、現世での扱いは相当違う。

 黄色は工事現場や駅、サッカー場などで注意、警告を発する。

金色は金貨や金塊のように財貨の象徴として奥深い所に居る。


容易に姿を現さないが、はからずも表に出てしまうこともある。

最近では、政権党の大派閥への1億円だ。

渡った時の姿は小切手という紙切れだが、その中身は、あやしい山吹色の光を放っている。




黄色で直ぐに思い出すのは黄色い旗を門に立て戦争で出征した兵士が無事帰還を祈るアメリカでの家族の

姿がテレビで見た。そして日本でも映画で「黄色い旗」の映画が上映され観て感動を覚えた記憶がある。






952年にノーベル平和賞を受賞したシュバイツァー



9月14日の天声人語より


 1952年にノーベル平和賞を受賞したシュバイツァーは6年後、オスロ放送局から核兵器放棄を訴えるラジオ放送をした。

東西冷戦のさなかで、米ソ核戦争への不安が広がっていた。

訴えには時代を超える洞察もちりばめられている。


 当時の核保有国、米英ソに放棄を呼びかけるだけでなく、核兵器が身勝手な厄介者の手に渡る恐れについてもふれた。

「いったんダムに亀裂が生じれば、そのダムの崩壊は必至です」(『核の傘に覆われた世界』平凡社)

 冷戦後、「ダムの崩壊」が急速に進んでいるようだ。

核兵器関連の機器や情報を闇で売りさばく市場が根を張っていることが明らかになってきた。

パキスタン核開発の父といわれるカーン博士が今年、その一端を告白した。


 彼の闇市場には20カ国以上の企業がかかわっていたといわれる。最終的な買い手は国家である。

北朝鮮、イランなどの名前があがった。テロ組織に渡るのではないかと危惧(きぐ)する声もある。

「究極の兵器」が闇から闇へ流れる不気味さは底知れない。

 「私たちの生きている時代は、人々の善意というものが、いまだかつてないほど疑われています。

互いの信頼を傷つけるようなものの言い方が、みさかいもなく投げつけられています」。

シュバイツァーは放送でそう嘆きもした。


核兵器に群がる人々の相互不信が世界を不安に陥れ、核兵器への依存をいっそう強める。

現代もまたそうだ。

 韓国で核関連の実験が行われていた。北朝鮮では大規模爆発が起きたらしい。

核実験ではないにしても不信の深まりを懸念する。



シュバイツァーは医師として尊敬する一人である。一人一人の健康 生命に対する医師の仕事は勿論必要だが

健康な人を大量に殺し傷つける戦争に対しての防止に努めるのも医師の一つの仕事だと感じている。

大勢の医師が真剣になって一人の病人をなんとか救おうとしているのに,何故どうして健康な生活している人たちを一瞬にそして一度に

大量な死人や病人を生み出す戦争を放置しておくことがどうして許せるのか。

戦争には正義の戦争も平和ための戦争もない。このことを人間全体の常識になれば戦争を企む人たち,

武器で儲ける人たち(死の商人)は病原菌同様に人類の敵であることを広く世間に広める事も医師の仕事であると考える。




ポプラ並木


9月15日の天声人語より


 モネはポプラ並木をたびたび描いた。よく知られるのが1891年制作の「4本のポプラ」だろう。

伐採される予定だったのをお金を出して延期してもらい、描き続けたといわれる。

 水辺に立つポプラのほっそりとした幹だけが描かれている。

水面に映る幹とつながって画面を区切り、一見幾何学的な構図だ。

しかし、木と水の微妙な揺らぎが伝わってくる、モネらしい繊細さをたたえている。

4本のポプラの最後の姿であり、遺影ともいえるだろう。

 台風18号の強風で、北海道大学のポプラ並木が半分近く倒れた。

写真で見ると、たくさんの木が無残な姿で横たわっている。

モネのように最期を見届ける人もなく、突然なぎ倒されたのだろう。

多くの人に親しまれてきた並木であり、大学では「再生」を試みるそうだ。

 ポプラの語源はラテン語のポプルス(人民、人々)だという。

古代ローマの人々はその木陰でよく集会を開いた、と伝えられる。

だからというわけではないだろうが、ポプラはしばしば人の姿に擬せられる。

寿命も60〜70年といわれ、人間に近い。〈夏ぞゆく、わが窓のべのポプラアのおとろうる枝姉のごとしも〉(岡井隆)。

 非人間的な場所でポプラ並木にめぐりあったこともある。ポーランドのアウシュビッツ強制収容所跡だ。

青空に伸びるポプラが穏やかさを醸しだしているだけに、暗い室内に陳列された遺品の数々が地獄絵として強く印象づけられた。

収容された人たちが植えたともいわれる。

 様々な思いが刻み込まれ、人々の記憶を揺さぶる樹木である。



ポプラの木の思い出として小学校の時業していた窓から見えた大きなポプラの木を思い出す。

風に大きくゆれたポプラの木 泰然とまっすぐにた立ちつくしていた たくましいポプラの姿が今も思いだされる。



ブッシュ大統領の掲げた先制攻撃の根拠が崩れた



9月16日の天声人語より


 やはり、なのか、ついになのか、その両方とも言うべきか。

イラクの大量破壊兵器についての、パウエル米国務長官の証言である。

「いかなる備蓄も発見されておらず、我々が発見することはないだろう」。

ブッシュ大統領の掲げた先制攻撃の根拠が崩れたことを、政権の中枢が認めた。


 この根拠が崩れていることは、半ば公然ではあった。

米国民の関心も、次の大統領選の方に向いているかもしれない。

しかし、先制攻撃に始まる惨害の大きさを、ここで改めて思わないわけにはいかない。

万を超えるイラク人が死んだとの推定がある。傷ついた人たちの数は計り知れない。

攻め込んだ側の死者も増え続け、米国だけで千人以上になった。


 「戦争は霧の中の存在だ」。

今年、アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞を受けた「フォッグ・オブ・ウォー」で、

ベトナム戦争当時の国防長官だったマクナマラ氏が証言していた。

「我々の目は曇りがちだ。半面しか見えなくなる」

「私は自分の成したことに誇りを持っているが、犯した過ちを悔いている」


 そして英国の詩人T・S・エリオットを引用する。

「人は探究をやめない そして探究の果てに元の場所に戻り、初めてその地を理解する」。

ある意味で今の自分がそうだ、と。

 この証言の価値は大いに認めたい。

しかし、戦争によって、探究することも、元の場所に戻ることも永遠に奪われてしまった幾多の人々については、

どう考えているのだろうか。


 ブッシュ大統領や、その先制攻撃を支持し続ける小泉首相にも向けたい問いである。





戦争も政治の延長だとする馬鹿げた話を聞く。戦争と政治は異質なものである。

政治はあくまでも辛抱強く平和的に外交努力で解決するもので,戦争はそれとは正反対の悪で,人類の敵と称しても良い行為である。

戦争を始める人は悪魔である。。戦争を始めたり支持するなんてよほどの間抜けでそんな人に良い政治ができるはずがない。

即刻に政治家を辞めて欲しい。政治に携わる資格がない。




人は、それぞれの心の居場所を探している


9月17日の天声人語より


 今も君のいない寂しさがスクラムを組んでやってきます。

長崎県佐世保市の小学校の事件で娘の怜美(さとみ)さんを奪われた御手洗(みたらい)恭二さんの思いが、

独特な表現を通して伝わってくる。その思いの底には、言葉にはならない深い悲しみがあるのだろう。

 事件から百余日、家裁は、同級生の女児を自立支援施設へ送るという保護処分を決めた。

その決定要旨の「居場所」という文字が目についた。

 会話でのコミュニケーションが不器用な女児にとって、交換ノートやインターネットが唯一安心して自己を表現し、

存在感を確認できる「居場所」になっていた、とある。


ホームページに書かれたことなどを「居場所」への侵入ととらえ、その怒りが事件につながったとする。

しかし、その文章などは、他人に殺意を抱かせるようなものでは決してなかったという。

 栃木県小山市で起きた幼児誘拐事件では、3歳の弟に続いて、4歳の兄が遺体でみつかった。

思川(おもいがわ)という切ない名をもつ流れが、まれにみる残忍な事件の現場となってしまった。

凶行は、憎んでも憎みきれないが、幼いふたりが、どこかで安心できる「居場所」を得られなかったものかと悔やまれる。

 「居場所というのは、大人にとっても、子どもにとっても同じ意味を持つ……

自分の家には居場所がないと感じている親がいるとしたら、間違いなくその子どもも自分の家に居場所はないと感じているものだ」

(『現代のエスプリ別冊』・岩月謙司)

 人は、それぞれの心の居場所を探している。しかし、それを見つけるのは容易ではない。



子どもの頃子ども達が草や板で小さな小屋を作って遊んだ記憶がある。そのところは居心地が良かったが

よく大人たちからは叱られたものである。居場所は何処にでも作れると思うが。





「新聞紙」の社会的性質や文化的使命を論じ、
片方は「シンブンガミ」として原料、製法を記していた。




9月18日の天声人語より


 電柱に、見慣れない黄色い紙がはってある。先の電柱にも、そのまた先にも黄色い紙が目立つ。

資源ごみは区が回収するので持ち去ってはならない、とある。

新聞や雑誌の回収日に、先回りして横取りする者がいるのかと思いながら通りすぎたのは三月ほど前だった。

 横取りは相当広く行われているようだ。

東京の古紙問屋団体が試算すると、関東1都6県だけで、昨年度の被害額は最大で約20億円になった。

中国などへの輸出増で値上がりしているらしい。


 古くから再生利用されてきた新聞紙は、今ではシンブンシと読むのが一般的だが、昔は少し違っていた。

作家の石川淳が大正末に教師をしていた高等学校の入試でのことだ。採点する作文の題が「新聞紙」だった。

 読んでいて、中身がくっきりと二つに分かれているのに気づく。

一つは「新聞紙」の社会的性質や文化的使命を論じ、片方は「シンブンガミ」として原料、製法を記していた。

 さらに分かったことは、前者は例外なく文科志望、後者は理科で、シンブンガミの方に、石川は「文学を感じた」


(『文学大概』小学館)。

長じて著名な評論家となる文科の受験生が、後にこの文を読んで「ギョッとした」と記している(『花田清輝全集』講談社)。

 紙が貴重だった江戸期の『紙漉重宝(かみすきてうほう)記(き)』に、こんな一節がある。

「おろそかに紙つかふべからす……ほしたる紙壱枚 風にて谷へふきちりしを とりに行にも一時斗(ばか)りかゝる。

竹をわり、ちりたる紙をはさみ持ちかへる」。


回収も、横取り対策もまた、おろそかにはできない。



新聞は記事を読むまでは新聞だが読み終わればただの紙でいろんな利用法がある。




パラリンピック・アテネ大会が開幕した


9月19日の天声人語より


 グラウンドに出現した巨大な木の周りに人々が集い、舞う。車いすの人や、視力障害などの人たちが入り交じって行進する。

戦場で傷を負ったという人たちも行く。

 パラリンピック・アテネ大会が開幕した。

「己に勝つことは、すべての勝利の中で最初の、そして最高のものだ」。

国際パラリンピック委員会の会長は、開会式のあいさつで、ギリシャの哲人デモクリトスの言葉を引いた。

様々な障害を克服して、この地に集った人たちへの歓迎と励ましなのだろう。

 デモクリトスは、有名な原子論だけではなく、ず抜けた博識で知られていた。

彼にはかなわないと思ったプラトンが、集められる限りの彼の本を焼き捨てようとしたが、

既に広く世に流布しているのだから焼いても効果がないと

止められたという逸話もある(『プラトン以前の哲学者たち』岩波書店)

 「5種競技の選手」「万能選手」といった愛称もあったらしい。死の少し前に盲目になった哲人が述べたという。

「肉眼で見るものよりも心の眼で見ることのできるものの方がはるかに真であり美である」

 華やかで、笑顔の輝く五輪スタジアムと対照的なのが日本のプロ野球のスタジアムだ。

空っぽの球場は寒々しいが、「たかが」や「一億総懴悔(ざんげ)」などが行き交う状態から抜け出すためには、やむを得ない面もある。

 今日は、日本の草創期の野球界で活躍した正岡子規の命日に当たる。

〈今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな〉。

胸うちさわぐスタジアムの復活へ向けて、速やかに対話の再開を。



オリンピックには皆熱中するがパラオリンピックはひそやかに思える。それでよいのではないのか。




人生の残り時間が少なくなってきた



9月20日の天声人語より


 人生の残り時間が少なくなってきた。そう思い始めたとき、人はどうするか。

できるだけ豊かに多彩に生きようとするのか。

あるいは余計なものを削りつつ、簡素な生き方を志すのか。

 「テレビは見ない、電話は嫌い、冠婚葬祭、夜のパーティーはすべて欠席、ワープロ、インターネットとは無縁」。

今夏亡くなった作家の中野孝次さんは、余計なものを排除しながら晩年を送った。

しかし、容易に捨て去れないものもあった。数々の書物である。

 あるとき、愛蔵してきた本を手放す苦渋の決断をした。

「別れるべき書物(文学者)の名を一つずつ書いていった」。

たとえばドイツ文学者の全集は身内同然で「別れるのは文字通り身を切られるような辛さ」だった(『老いのこみち』文芸春秋)。

 捨て去れないものもあった。酒の楽しみである。午後は間食せず、水分も控える。

「そうやって体調の下拵えをしながら、日が暮れたときのことを思って、心をおどらせている」。

そして「犬たちを傍らにはべらせての独り酒」に至福の時間を過ごした。

 残りの時間には、日本、中国や古代ローマの古典の世界に沈潜した。

簡素でぜいたくな余生である。そんな生活の中から、いやおうなく見えてきたものがあった。


現代社会のゆがみである。「老いの繰り言」とはいわせない数々の警告を残し、彼は逝った。

 つい先日亡くなった歌人島田修二さんにこんな作品がある。〈

余計者になりてしまひし老人の目の鋭さをわがものにせん〉。

老いた目の鋭さにも敬意を表すべき敬老の日だ。



若い頃の身体と年齢を重ねた時の経験と心をば持ち合わせたいのだが,神はそのような事を許してはくれない。




あの国の「草の根民主主義」についても
考えさせられることが多い


9月21日の天声人語より


 アメリカという国では、誰でもが大統領になることができる。

開かれた国アメリカについてよくいわれるせりふだが、元米国連大使A・スチブンソンはこう付け加えた。

その危険が誰にもつきまとう、と

 スチブンソンが民主党から大統領候補に推された1956年、クリントン前大統領の家にテレビがやってきた。

劇映画やヤンキースの試合以上に10歳のクリントン少年を夢中にさせたのは共和党と民主党の党大会だった。

立候補を要請されたスチブンソンが気乗り薄だったのを見て、なぜ大統領になりたがらないのか、少年には不可解だった。

 父を早くに亡くし、アルコール依存と家庭内暴力の義父に悩まされて育った少年が、いかに最高権力者に上りつめたか。

クリントン氏の自伝『マイライフ』(朝日新聞社)に、克明に描かれる。

あの国の「草の根民主主義」についても考えさせられることが多い。

 学校では政治への関心を育てる授業や課外活動がたくさんある。

生徒は政策をつくり、演説をし、選挙運動をする。模擬政治を何度も経験する。

そこで親しくなった友人たちが後に実際の政治活動の仲間になる。


 見事な政治家養成の仕組みとはいえ、気がかりなところもある。

クリントン氏は大学の後期で「初めてカントやキルケゴール、ヘーゲル、ニーチェを読んだ」という。

実学優先の教育と志向が徹底している。内面を支えるのは、哲学ではなく宗教だと割り切っているのか。

 佳境に入った米大統領選だが、アメリカ政治の底力と危うさとをともに見ていかねばなるまい。



アメリカ大統領選挙が世界中が注目している。ただの一国の為政者を決めるだけの事だが

余りにも世界が狭くなり大国アメリカの影響を受けない国はなくなって来た。

世界の目がアメリカ一極に注がれている。それに価するような大統領をアメリカ国民が選んで欲しいものである






コペルニクスが地動説を
唱えて覆すまで、千数百年かかった。




9月22日の天声人語より


 「地球のまわりに見える事柄は……地球を天空の中央に仮定することによつてのみ起り得る」。

2世紀に、天動説を体系づけたプトレマイオスの『アルマゲスト』(恒星社厚生閣)の一節だ。

コペルニクスが地動説を唱えて覆すまで、千数百年かかった。

 「プトレマイオスが復権か」と思わせるような調査結果が載っていた。

太陽と地球についての問いで、公立小の4〜6年生348人のうち42%が「太陽は地球の周りを回っている」と答えた。

 なるほど、見た目にはそうだ。しかし、地球は一つの惑星で、太陽も、あまたある恒星の一つだ。

そう知るだけでも、限りなく大きいと思われる地球の小ささ、かけがえのなさを考えるきっかけになるのではないか。

見た目の不確かさも学ぶことになる。


 太陽の沈む方位についても、西は73%で、東が15%、南が2%あった。

都市部ほど、正答率が下がる傾向が見られたという。

地平線も水平線も無い都会では、太陽がビルの陰に隠れるのは見えても、沈むという決定的瞬間に立ち会うのはまれだ。

その時間に、窓の無い屋内に居ることも多い。

 日本の最西端にある与那国島の、西の岬を西崎(いりざき)という。

島の東の岬は東崎(あがりざき)である。

これは、東西が極端に分かりやすい例だが、西も東も分からなくなるような場所が増えているのかと気になる。

 コペルニクスは、地動説の書『天体の回転について』で、「美しいものをすべて確実に包んでいるところの天」と記している(岩波文庫)。

幼い心に天を宿らせる。育まれるものもまた限りなくあるだろう。



どう見ても空を眺めていると雲が流れ 太陽が東から昇り 西に沈んで行き,それと共に夜になると月が出て星が空を巡っている。

月では兎が餅つきをしているとか,かぐや姫が月に帰ってゆく幼い頃聞いた話には夢があった。

そのようにしか思つていなかつたし,正直にみるとそのようにしか見えない。

小学生の答えは正しい。しかし学校で習って初めてコペルニクスが地動説iによる地球が太陽の周りを

廻っていることを学ぶ。科学は人間の夢を壊して行くところもあるのではないか。

情操の乏しいメカニックな人間でいるより豊かな夢を持って過ごす一時期もあって良いと考えるが。





世界にとって、日米が
不気味な複合体にならないか




9月23日の天声人語より


 幾つか、大きなものごとが続いて起きているように見える。

像は、くっきりとは結ばないが、互いに関係が深そうで気に掛かる。

 イラク戦争は違法だと、アナン国連事務総長が英メディアに語った。

総会の演説では「違法」は「法の支配の危機」に変わっていたが、

危機をもたらした国の一つを米と名指ししたようなものだ。


 米大統領は「撤退せず勝利あるのみだ」と演説した。

その大統領に、小泉首相は「米国が国際協調を維持しつつイラク再建に

強い決意で取り組んでいることに敬意を表する」と述べた。

総会では安保理の常任理事国入りを訴えた。


 「不安定の弧」という言葉がある。

朝鮮半島からアフリカに至る広大な地域を指す。

テロや紛争の多発地帯で米軍を十全に展開させるため、

米本土の一部の軍司令部を日本に移す構想を、米国が日本側に示しているという。

安保条約の枠を大きくはみ出す構想だ。

 「60年安保」当時の大統領だったアイゼンハワーが退任演説で述べた。

「われわれは、軍・産業複合体が(略)不当な影響力を手に入れることがないよう厳戒しなければならない。

権力があやまった場所に置かれ、恐るべき形で高まってゆく潜在的な危険性は現にあるし、

今後とも根強く存在し続けることであろう
」(『回顧録』みすず書房)

 小泉首相の私的諮問機関が、米との軍事共同研究に絡んで「武器輸出3原則」の緩和を求める方針という

世界にとって、日米が不気味な複合体にならないか。

幾つもの激変が兆しているのに、相変わらず、首相から満足な説明はない。



確かに現在の日本の政権担当者は国民と隔離した考えでことを進めようとしている。

日米同盟だけで進むのは「危ない」と指摘する声もかき消され戦前の世の中になってきそうである。

当時子どもまでか「あんぽはんたい」と叫んで遊んでいた。人の命は地球より重いとして

歴代の首相は人の命を大切に扱い全てそれにもとずき政治を行い非常に慎重だった。

だが今の小泉首相は「人生いろいろ 会社もいろいろ・・・・・・・・・・」と政治家の二代目で

如何に親の恩恵でお金が会社から出されていたかにきずいていない。

今で言うならば賄賂(ワイロ)をもらっていたことになる。そんな特殊な太っ腹の社長なんて常識で考えれば

どこにもいないことぐらい誰でもきずくはずだ。

ブラジルへ外遊して従兄弟の話を聞いたのかどうかわからないが,ブラジルで苦労した人たちがいたとして

泣き顔を見せている。以前言った「人生いろいろ」の言葉に魂がこもっていないことがこれでよくわかる。

イラクへの自衛隊派遣が如何に重大事で,真に大変な事かも判らずして,イラク派遣を決定している証拠である。

詭弁と策弁と能弁とで名前は忘れたがなんとかいう首相秘書官などの操り人形なのが小泉首相か。








畳敷きがあった頃の懐かしい感じがよみがえった。


9月24日の天声人語より


 新そば打ち始めました――。まだ昼までは少しあったが、張り紙につられて、のれんをくぐった。

すいていた小上がりに座る。

 北海道産の粉で打ったという。

どこか青畳のかぐわしさにも通じるような、かすかな香りを味わう。

香りだけではなく、そばは、畳との相性がいい。ソファに身を沈めていては、たぐりにくい。

小上がりの畳は、そう新しくはなかった。


しかし、手のひらで軽く押すと、どこにでも畳敷きがあった頃の懐かしい感じがよみがえった。

 50年前、日本の建築を視察したドイツ出身の建築家グロピウスが、感想を残している。

「タタミというものが尺度になって人体的な関係を保ちながらよく調和したものを生み出している……

日本人はタタミの上に座ることからイスも、ベッドも必要ではなく」と、畳の生活の簡素な美しさをたたえた。

 グロピウスは、芸術と技術の統合を目指した造形学校バウハウスの初代校長を務めた。

日本では多くの人から「タタミ廃止論」を聞いたという。

「私は伝統とのつながりを忘れて、いきなり新しいものに飛び付いてゆくことは危険だと思う」と述べている。

 鉄筋の団地という新しいものに出会った日本人の悲喜劇を描いた古い映画で、

確か加東大介だったと思うが、やけぎみに言うシーンがあった。

「大体、家庭ってのは、家に庭と書くんだ」。

家庭から庭が失われてゆくにつれ、多くの家から畳も消えていった。

 ワラやイグサで出来た畳は、いわば小さな自然でもあった。

それは、家庭の中の、もう一つの庭だったのかもしれない。




日本の古くからの伝統は残して行きたい。便利な西洋式生活様式も有るがそれはそれとして取り入れ

よき伝統は残したいものである。犯罪が多くなってきたのも,古きよき伝統 習慣が薄れてきた事にも

一因があるのではないかと考える。




ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、
1850年に、この島で生まれた。




9月25日の天声人語より


 パラリンピックが開かれているアテネから西の方に約400キロ、レフカダはイオニア海に浮かぶ小さな島である。

「怪談」や「知られぬ日本の面影」を著したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、1850年に、この島で生まれた。

 出生地はリュカディアと呼ばれていた。それは「放浪」を意味すると言われている(『小泉八雲事典』恒文社)。

母の国ギリシャから、父の出身地アイルランド、

さらに英、米、仏領西インド諸島などを経て、1890年には日本へ


ハーンの人生の旅も長かった。

 松江、熊本で教えた後に東大の英文学の講師となる。

「小泉先生は英文学の泰斗でもあり、また文豪として世界に響いたえらい方であるのに、

自分のやうな駆け出しの書生上りのものが、その後釜に据わつたところで、

到底立派な講義ができるわけのものでもない」。

ハーンの後任の講師となった夏目漱石が、妻にもらしたという


 ハーンは100年前の9月26日、狭心症で他界した。

新宿区立大久保小学校の前に「終焉(しゅうえん)の地」の碑がある。

昨日、その筋向かいの八雲記念公園へ行ってみた。

 新宿区とレフカダは友好都市になっており、ギリシャ政府から贈られたハーンの胸像がある。

像は西の方を向いていた。

妻節子が「思ひ出の記」であげていた、ハーンの好きだった物を思い浮かべた。

夕焼け、夏、海、遊泳、淋しい墓地などの最初に「西」とあった。


 像の近くに茂るオリーブの葉先にシジミチョウが舞っている。

セミやアリやチョウもまた「パパの一番のお友達」だったという。




案外に日本の伝統の良さをよく知っているのは外国の人たちかもしれない。




世界最大の両生類とされるオオサンショウウオの魅力


9月26日の天声人語より


 醜い第一印象でそう言ってしまうと失礼かもしれない。

大きな口に点のような目、それにもっさりした風体は、よく見るとおかしみと親しみを感じさせるし、

ときには威厳さえ漂わせる。世界最大の両生類とされるオオサンショウウオの魅力である。

 日本原産で特別天然記念物にも指定されているが、彼らには謎が多い。

そもそもこの日本に何匹ほどいるのかわからない。


長寿らしいが、寿命60年とも100年ともいわれる。生態についてもわからないことが多い。

 500匹近くのオオサンショウウオを飼育し、繁殖にも成功した広島市の安佐動物公園で24日、

「オオサンショウウオの会」の設立総会が開かれた。

情報交換や保護活動を進める。

会議では、白菜を丸ごと食べた例が報告された。

魚や小動物を常食するとされるが、餌一つとっても未知の点が少なくない。

 安佐動物公園では、今月中旬に産卵が終わったばかりだ。

オスが引きこもる巣穴に複数のメスがやってきて卵を産んでいくそうだ。

10月中旬に孵化(ふか)するが、その後もオスは穴にこもって子どもたちを守り続け、冬を越す。

 「山椒魚(さんしょううお)には、もちろん精神はない。

その点、人間に似ている」とは、皮肉屋の作家G・B・ショーの言葉だ。

といっても、K・チャペックの小説『山椒魚戦争』(岩波文庫)に挿入された架空の新聞記事中での話だが。

一方、井伏鱒二は「山椒魚」で精神をもっているがゆえの悲劇を描いた。

こちらは、思索的でありつつ、人間の愚かさも体現する。

 つい人間と重ね合わせたくなる生き物である。


人間に似たところがオオサンショウウオの魅力かもしれない。




フランソワーズ・サガンの『悲しみよ 
こんにちは』は54年にフランスで出版



9月27日の天声人語より


 フランスからいろいろ新しいものが流れ出てくる時代があった。

文学、美術、思想から映画、ファッションまで。1950年代がそんな時代だった。

50年代半ば、18歳の女子学生が書いた小説があれほど熱狂的に迎えられたのも、

一つには強烈なフランスの香りに魅せられたからかもしれない。

 フランソワーズ・サガンの『悲しみよ こんにちは』は54年にフランスで出版され、

翌年には英訳、邦訳などが出て世界的ベストセラーになった。


17歳の女の子が主人公で、青春の輝き、倦怠(けんたい)、残酷さなど揺れ動く心理が覚めた文体で描かれる。

 題名はP・エリュアールの詩からだ。冒頭にその詩を掲げる。

悲しみよ さようなら/悲しみよ こんにちは……」。この題名が生涯彼女につきまとった。

先週の彼女の死に際しても、フランスをはじめ世界中の新聞の見出しに「こんにちは」と「悲しみ」があふれた。

 たくさんの小説や戯曲を書いたが、

酒、麻薬、賭博、交通事故、結婚と離婚の繰り返しなど生涯は奔放といえば奔放、破滅的だった。

仏紙は「彼女は人生を疾走した」「彼女はサガン以上の存在だった。作家、女、時代そのもの」と悼んだ。

 詩人の大岡信さんが紹介するエリュアールの詩の一節を思い浮かべる。

「年をとる それはおのれの青春を 歳月の中で組織することだ」。

サガンはエリュアールの言葉に青春を託しながら「歳月の中で組織する」ことをついにしなかったのではないか。

 多くの人にとって、時代の鏡像、青春の鏡像として生き続けるのだろう。



フランソワ―ス゛・サガンの「悲しみよこんにちわ」は若い頃知った有名な小説だった。

フランソワ―ス゛・サガン自身そんなにも奔放な生活をしていたとは知らなかった。

一種の天才であり奇人だったのかもしれない。そしてフランスに弱い日本人の心を魅了した作家でもある。





小泉政権三段跳びで



9月28日の天声人語より


 三段跳びのことを昔はホ・ス・ジャンプといっていたそうだ。ホップ・ステップ・ジャンプの略である。

いまの名前に変えたのは、アムステルダム五輪の金メダリスト織田幹雄だといわれる。

 三段跳びで重要なのは最初のホップである。高く跳びすぎないことだ。

高く跳べば跳ぶほど前へ進む力が減じ、失速してしまうからだ。

小泉政権を振り返って、この三段跳びの鉄則を思う。

発足時のホップが舞い上がりすぎではなかったか。


 自民党という重力から少しでも離れようとした跳躍意欲は理解できる。

しかし、去年の内閣改造、第2次小泉政権発足をステップとすれば、「改革」の減速は否めない。

重力に引き戻されたのか、跳びも小さくなった。

今度の内閣改造は、着地につながるジャンプといえるだろう。

 〈秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる〉。

風にはっとさせられ、秋の到来を知る。季節の変わり目の感覚だ。


人事の変わり目に新風を呼び込んで驚かせるのは小泉首相の手法だった。

しかし秋雨のさなかの改造に、驚きは小さかった。

1億円献金問題で自民党最大派閥があえいでいるときである。

変化を実感させる人事には格好の舞台だったが。

 郵政民営化へ向けての布陣といわれる。

首相の宿願とはいえ、民営化は多くの政策目標の一つでしかないだろう。

課題は山積している。最後のジャンプに向けて力強い蹴(け)りが求められるときだ。

 空模様と同じで、からりとした気分にさせてはくれない政界模様である。

〈秋の雨ものうき顔にかかるなり〉(暁台)


何処へ着地するのか.後はしらないといって去り。何も責任をば取らない人物のように思えて仕方ない。

選挙時のポスター「国を想い・・・・・・・・」とは全くかけ離れた人で魔術師のように見える。軽い人。




マリナーズのイチローがヒットを打ち、最多安打記録


9月29日の天声人語より


 忘れられた名選手が次々とよみがえっている。

マリナーズのイチローがヒットを打ち、最多安打記録に近づくたびに、

ほこりをかぶっていた大リーグ史のページが読み返されている。

 920年に257本の史上最多安打を記録したジョージ・シスラーを

「伝説なき伝説のプレーヤー」と米メディアは称する。特筆すべき逸話が残っていない。

同時代に球聖といわれるタイ・カッブや本塁打王のベーブ・ルースがいたからかもしれない。

当時、記録が80年以上も破られない、とはとても考えられなかったこともあろう。

 「父は謙虚な人だった。それにしてもあの記録は長く置き去りにされすぎた。

いまようやく注目を浴びてうれしい」と子どもの一人が米紙に語っている。


「父が生きていたら、イチローを応援しただろう」とも。

 最多安打の歴代10位までの選手はほとんど野球の殿堂入りをしているが、

2位のレフティ・オドゥールは例外だ。

彼は大リーグ時代の31年に選抜選手として来日、以来たびたび日本を訪れた。

学生野球の指導をし、日本のプロ野球創設にも協力した。

その貢献によって、日本の野球殿堂入りを果たした。

 史上最強の右打者といわれるのがロジャーズ・ホーンスビーだ。

首位打者を7度、打率4割を3度記録し、三冠王も2度獲得した。

歴代5位だった22年の彼の記録250安打を、先日イチローは抜いた。

 過去の大打者たちに並び、そして超えていく。

芸術的ともいえるイチローのバッティングが、歴史を塗り替えていくのを目の当たりにする楽しさは格別だ。






史上最多安打記録162本イチローはよくやったと想う。

でも1920年に257本の史上最多安打記録したジョ-ジ・スラーに比較して内容分析では

少し劣っているようにも感ずる。

でもたいしたものである。どんな球でも上手にヒットしているように見える。

凄い選手だ。

ゴタゴタ続きの日本の野球界の活性のために日本でもプレイしてほしいものである。






アテネでのパラリンピックの閉会式


9月30日の天声人語より


 昨日の未明、アテネでのパラリンピックの閉会式を伝えるテレビから、どこか聞き覚えのあるメロディーが流れた。

低く、地をはうような旋律が、繰り返されながら高まってゆく。

 米国のサミュエル・バーバー作曲の「弦楽のためのアダージョ」かと思われた。

それは、ベトナム戦争を描いたオリバー・ストーンの映画「プラトーン」にも使われた、哀切きわまりない曲である。

 閉会式の内容は、パラリンピックの観戦に行く途中に交通事故で死亡した7人の高校生を悼み、大幅に変更された。

曲には、哀悼の思いに寄り添うような響きがあった。

 式は、選手入場から役員あいさつ、次の開催地・北京の紹介へと淡々と進み、聖火が消えるまで約1時間で終わった。

大がかりな機械仕掛けの出し物は無かった。

演出を期待する選手や観客もいただろう。

しかし、この簡素な運びには、すがすがしさや、古(いにしえ)の息吹が感じられた。

 8月13日に始まったアテネでの二つの大きな競技会が終わった。

大会の肥大や薬物による問題が指摘された。

しかし、障害のあるなしにかかわらず、持てる力を尽くそうとする選手たちや大会を支える多くのボランティアの姿は、

見る者にも勇気を与えた。


アクロポリスの丘に設けられたエレベーターは、車いすの人々に新しい視座をもたらした。

 来年2月、知的発達障害者のスポーツの祭典・スペシャルオリンピックス冬季世界大会が長野で開かれる。

オリーブの枝の下、アテネの夏で見てきた様々な可能性の追求というバトンを、日本でも引き継いでゆきたい。


あまりもパラリンピック以外に障害者の競技する機会をみるのは少ない。どうしてなのだろうか。




選挙


現在アメリカで大統領選挙が争われている。共和党のブッシュ大統領と民主党のケリー候補のあいだで激戦が繰り広げられている

どちらか優勢か判断できない位に混沌としている。混沌と言えばイラクは武装勢力により米軍とか米軍に協力する人たち機関などが

攻撃の対象となってきた。今の所日本の自衛隊に被害はでていない。でもいつ何時襲われるかの危険性は秘めている。

日本人の大半がイラク派兵に反対だが,小泉首相はその反対を押し切ってブッシュのいうままに自衛隊を派遣してしまった。

今回イラク戦争の大義が失われたことが明るみになる。その大義を今ブッシュも小泉首相も国民にどのように説明するのか。

イラク戦争開始が一番アメリカ大統領選挙で問われる所である。

副大統領同士の討論では共和党チェイニ―副大統領が以前に関与していた

ハ゛ーリントン石油会社が儲けるためにイラク戦争に踏み切ったと民主党のエドワード候補が指摘している。

チェイニ―副大統領はネオコンの大物である。ブッシュが再選されれば又世界に何が起きるかと心配,

さらに物騒な世の中になるのかと恐れる。

是非ケリー候補が大統領になることを願う。それとともに自衛隊もすみやかにイラクから撤退すべきである。

選挙で当選してしまえば次の選挙までの4年間の白紙委任状をもらったものと考え,

好き勝手なことをされては国民としてたまったもので許すことはできない。でも現実にすき放題のことをされている。

少なくとも公約に掲げたことだけと考え行動してもらい,戦争を始めるとか,自衛隊を海外に派遣するような場合解散して改めて

国民に信を問うてほしいものである。それをしないならば,少なくとも世論調査に随って行動してもらいたいものだ。

是非勝手な行動だけは止めてください。小泉首相もブッシュ大統領もそのことをよくわきまえてほしいところです。




インタ-ネット


インタ―ネットを通じていろんな恩恵を受けている。何か判らない事で知りたいことがあればインタ−ネットの検索で

大体のことがでてくる。

その中でさらに分らない事があればもう一度検索すれば新しい情報がえられる。

辞書のサイトもあるのでそこを上手に使えば新しい知識が得られる。

面白いゲームのサイトもあって,そこで全く知らない方と対戦できる。囲碁がすきだからよく使う。

今日は勝ったとか負けたとかで人生に彩りと楽しみを与えてくれる。

有り難いインターネットだか゛ホームページをもっていると思わぬことに出くわすこともある。

良い事も悪いことも半々である。でも日頃考えたり思ったりすることは簡単には発表できないものだが

インターネットだったら簡単にできる。使いようによれば大変便利なものだ。

だが一歩誤ると大変なことになるので余ほど注意しないといけないと常に心がけている。

全世界の人々だれもが見ようとすればみられる情報発信基地である。

逆に誰にも見てもらえない可能性もある。でも個人が手軽に情報発信したり情報集収できるのがインターネットである。



子どもの頃のお盆の思い出



年齢をとるにつれ,子どもの頃の思い出として夏のお盆の頃のことが楽しく思い出されるようになってきた。

一年で一番楽しい時期はお盆の頃である。長い夏休みで,勉強せずにのびのびと十分に遊べたからである。

夏休みの宿題があったと思うがあまり勉強した記憶がない。

今の子どもたちを見ると塾通いに大変で,可哀想にも思うが,われわれの時代はそのようなことはなかった。

特にお盆の頃は行事が沢山あって,なぜか僕の誕生日に当たる8月6日,後日広島に原爆が投下された日でもあるが

,この日に毎年親戚の人たちが集まりお墓参りをされていたのが恒例行事であった。

ご先祖さんの誰かの命日にあたるようで,この日に親戚の人たちが多勢集まって

一緒にお墓参りをし,その後,ご馳走が出されていたので,

僕の誕生日のために皆に祝ってもらっているようなものでもあった。

同じ年頃の親戚の子どもたちと久しぶりに会い遊んだ楽しい一日でもある。

夏になるとスイカが一度に沢山買われていた。そのスイカは何個も部屋の片隅にゴロゴロころがっていた。

食べるときにはスイカを冷やすため井戸につるされ,十分冷えたころに食べた。

夏の暑い頃の冷えたスイカの味はかくべつおいしく感じたものである。

当時は戦時中でもあり,夏休みになると町内にあった常安寺の和尚さん,

われわれは親しみをもって「おっさん」とよんでいたが,

そのおっさんが町内の子どもたちを集め,朝早く起きて毎日欠かさず「ラジオ体操」をしていた。

ラジオ体操の後,子どもたち全員が隊列を組んで「おきょう,おきょう」と叫びながら町内中を走り廻っていた。

「おきょう」とは眠りから覚め,起きようとの意味である。

常安寺のおっさんは子どものためにはよく尽くして下さったが,一方怖い「おっさん」でもあった。

お寺の境内で遊んでいると大きい声で叱られたものである。

又「地蔵盆」は格別で,子どもたちにとっては一年中で一番楽しくて待ちどうしい行事でもある。

町内の真ん中に当たる常安寺の観音堂の前の格子がはずされ,20畳か,30畳くらいの場所に床をしつらえ,

そこにテントを張って子どもたちが遊べる場所を作ってもらった。

周囲には地蔵盆の提灯がずらりと,ぶらさげられてあった。

このときだけ町内中の子どもたち全員がそこに一同集まって,トランプやゲームなどいろんな遊びをした。

いつも観音堂前の脇の小さな祠におさまっていたお地蔵さんが観音堂内の真ん中に祀られ沢山なお供え物がしてあった。

地蔵盆の時には町内の各家庭の門にそれぞれの家の子どもたちが画いた絵の行燈が掲げられ,

あたかも町内会の子どもたちの絵の展覧会のようである。

時間になるとおっさんの紙芝居があり,夜には学校で映画があったりもした。

それにおやつは一日何回ももらえうれしかった。

一日中,昼夜の食事の時以外は子どもたち皆が集まりよく遊んだものである。

長い夏休みもアッという間に過ぎ去り,秋の新学期が始まるようになってから慌てて夏休みの宿題をまとめてしたが,

夏休みの日記の宿題で,天候だけが書けなく困った思いをした。

常安寺の「おっさん」で一番の記憶にあるのは,我が家の菩提寺で,いつも月参りしてもらっていた。

おっさんが不治の病になられた時のこと,50メートルもないだろう所の我が家とお寺の間タクシーを使い,ひょろひょろとした足取りで

自宅に見え,立派に法事のお勤めをされ帰られたことが印象に残っている。

又二人の立派な息子さんがおられるにもかかわらず,自分の住職としての跡を継がせず,それぞれ好きな道を進ませられた。

常安寺の住職は新しい方がなられた。

町内に常安寺は今はなく,東の方の丘陵地域に移転されていった。

(伏見医報に掲載)



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