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11月になって

11月の前半はまだ寒くはないが,次第に寒さが本格的になり紅葉も色ずき秋が終わりに近くなって

冬の前準備の頃でもある。2日にアメリカ大統領選挙があり,ブッシュが再選された。

このような大事件が起きても自然の移り変りにはなんら変化なく毎年のように季節は巡り過ぎ去っていく。

新潟の中越地震による被災者も冬が近ずくに連れ,寒さへの配慮が必要となってくる。

特に新潟は豪雪地帯なので,被災者にとっては大変な冬を迎える事になるだろう。

世間の出来事と関係なく,自然は夏から秋へ,そして冬へとなにもないかのように移り変っていっている。

台風の為に,新潟米”こしひかりを産出している地方では台風 地震のダブルの被害を受け,

実りのない秋を迎える風景をテレビでみると本当に気の毒な事だと思う。

世界の動きは相変わらずのイラクの武装集団の排除の為に,アメリカ軍のファルージャへの攻撃開始が始まり

イラクは戦闘状態となる。
武装集団の中味はテロと思われる人たちは早くに退散し,戦闘で亡くなっているのは一般のイラクの市民と

武装し抵抗していたイラクの人々が殺されている。

攻撃する側にも新生のイラク兵,米兵にも死傷者の被害が報告されている。

アメリカのやることが荒っぽい。平和のうちに解決できないものかと考えるが,ブッシュ大統領のもとのアメリカでは仕方ないことであろう。

戦場化したイラクに自衛隊は続いて派兵されることがきまりそうである。どう見てもイラクの為でなくてブッシュの為の様相が強い。

武装集団に一人の青年が捕獲され 解放に自衛隊撤退の条件を突きつけられたが,小泉首相は即座に,テロに屈しないとの発言をし

青年は殺されていった。もし小泉首相自身の自分の息子ならばあのように即刻テロに屈しないと言い切ることができたかは疑問に思う。

今の時,青年側にも危ないイラクを訪問することは余りにも危険すぎる。危険と言えば自衛隊も同じ事ではないだろうか。

でも駐留地のサマワは安全だと公言し撤退しようとしていない。いつ戦闘地域になるかは分らない。戦闘が始まってからでは遅い,

期限延長せずに撤退すべきである。派兵されている自衛隊員の家族のことを考えればなおさらである。

泣きながらもお国のために尽くした名誉な兵士を再び作ることになるのだろうか。

もし自衛隊に小泉首相自身の息子がサマワの基地にいるなら自衛隊派兵延長がいえるかどうかだ。


明らかに言えることはイラクは今まさに戦場である。

イラク特租法からするならば,撤退しなければならない地帯だがアメリカの手前できそうにもならないのだろう。

アメリカというよりもブッシュのためである。

拡大解釈すればブッシュのため若い尊い命が散ったことになり,散る事にもなる。

どこまで小泉首相はブッシュに付き合うのか,悲しい現実である。再選したブッシュはさらに世界で強硬な政治を押しすすめるだろう。

第二次大戦後の「人の命は地球より重い」の考えが戦時中の「人の命は羽毛より軽い」時代へと変化しつつあるのを感ずる。

今われわれのできることは何があるのだろう。 小泉首相を総理大臣からやめてもらうことである。

そして世界がこぞつてブッシュのアメリカに圧力かける以外にはない。






自衛隊撤退を求めている、
という武装集団の要求を紹介し、
自分の命がかかっていることを言




11月1日の天声人語より


 いかにも弱々しげだった。なぜ危険なイラクにあえて行ったのか、と問いただしたくなるような気持ちにもさせられた。

しかし、ビデオで遠慮がちに語る香田証生さんの言葉に、意外なほど心の奥深くを揺さぶられた。

振動はつづいている。

 自衛隊撤退を求めている、という武装集団の要求を紹介し、自分の命がかかっていることを言う。

「すいませんでした」と謝り、「あと、また日本に戻りたいです」と独り言のようにつぶやいた。

ぼそっとした一言に万感の思いを感じとる。

あのとき、彼は自分が希求していたものに気づいたのではないか。

 59年前、香田さんより一つ若く23歳で戦死した青年がいた。

「戦死やあわれ/兵隊の死ぬるや あわれ/遠い他国で ひょんと死ぬるや」の詩を残した竹内浩三だ。

彼は自分の運命を見通していた。状況はまるで違う。


しかし「ながいきをしたい」と書き始める祈りのような詩は、香田さんのつぶやきと共振する(『戦死やあわれ』岩波現代文庫)。

 香田さんは今年1月、ワーキングホリデービザでニュージーランドへ行った。

突然なのかどうか、関心は中東に向いた。イスラエルにしばらく滞在したあと、ヨルダン経由でイラク入りした。

 明確な目的があっての旅というより、むしろ何か明確なものを探し求めての旅だったのではないか。

たぶん名前のように「生の証(あかし)」を求めての。

そして「日本に戻りたい」とつぶやいたとき、生きつづけること自体の価値を悟ったのではないだろうか。

 その生が無残にも断ち切られた。不条理との思いが募る。






竹内浩三の「ながいきをしたい」と書き始める祈りのような詩と,「すいませんでした」と謝り、

「あと、また日本に戻りたいです」と独り言のようにつぶやいた香田さんの言葉とが時代を超え心を打つ。

為政者の犠牲となり,時代の潮流に流され死んでいった若者達, ,第二次大戦時には

当時の為政者の命により当然のようにして大勢の若者達が無駄な死をしていった。

その兵士達の墓が,どこの墓地にも神道に基ずく頂きが細く高く三角にとんがった沢山な墓碑をみる。

又その墓碑は当時の為政者によって推奨され建てられ誇りとされていたに違いない。だが今は違う。

その反省の痛みが無くなって来たのか,今再び同じ過ちを犯そうと日本はしている。

曽我ひとみさんの夫ジェンキンス軍曹が韓国でベトナムへの派兵を嫌い北朝鮮に脱走.そして拉致された曽我ひとみさんと結婚

曽我さんと一緒に今回来日した。軍隊を離れ30年余の年月が経ても尚アメリカ軍人であり,兵隊であって脱走兵としての罪が科せられた。

過酷な話しである。兵隊の宿命を感ずる。その昔何十年もジャングルに潜んでいた日本人にもいた。

終戦を知らずして,上官の命令に随って一人で戦いつづけていた兵士であった。

老いた兵士が敬礼する姿を見ると,如何に軍隊は過酷で規律が厳しく,その姿は悲しさを通り越し滑稽さえも感ずる。

軍隊とは一歩誤るととんでもない存在であることを知らしてくれた光景でもあつた。






米大統領選は、今日投票日を迎える



11月2日の天声人語より


 つばぜり合いの続く米大統領選は、今日投票日を迎える。

選挙の結果に加えて、その去就が気になるのがパウエル国務長官だ。

軍事力に頼る単独行動主義色の濃いブッシュ政権にあって、時に、穏健さや世界への目配りを体現してきた。

 「あらゆるものが酸素不足であっぷあっぷします」と、彼がブッシュ大統領に言ったのは、02年の夏だった

(『攻撃計画』日本経済新聞社)。

イラク戦争を始めれば、アラブの友好的な政権を揺るがし、石油の供給と価格に大きな影響が出ると指摘したという。

 そして、彼が「割った品物の返品は受け付けない陶器店のルール」とひそかに呼ぶものをイラクに当てはめ、こう述べた。

「大統領はイラク国民二五〇〇万人の主人になるわけです」

「イラク国民の希望、願望、問題をすべて一手に握る。なにもかもが大統領の所有になります」。

つまり、壊したらあなたのものだ、と。


 戦争が無数の壊れた陶器を生むこと、その一つ一つの陶器に命が宿っていることを、

ベトナム戦争従軍で身をもって知ったのかも知れない。

この時「どうすればいい? 他になにができる?」と大統領が言ってから2年余がたつ。

一手に握ったはずの国では殺戮(さつりく)が続いている。

 今回、ブッシュ氏が再選されたとしても、彼は政権を去るのではないかとの観測もなされている。

その政権には、ブレーキが付くのかと心配になる。

 かつて、大統領選への出馬もとりざたされたパウエル氏。

政治の舞台での「マイ・アメリカン・ジャーニー」(自伝名)は、これで終わるのだろうか。




ブッシュが再選されて益々に不安が増幅し,不安は現実のものになりつつある。ブッシュ政権にはさらに

強硬なタカ派の布陣がしかれつつあり穏健派のパウエル氏は政権から去ることになった。

このような現実を見れば,仏独を中心としたヨーロッパの国々に期待する以外ない。アジアでは中国がEU諸国と同調している。

そして日本はというと,小泉首相はブッシュのポチであり,イギリスではブレア首相がプードルになり下がっている。

軍事力はアメリカ一国と戦っても全世界はアメリカに勝てないくらいに軍事力をもっている。

現実にはアメリカ自身 二つの考えに割れている国である。だからこの際是非国際的な圧力で゛もって戦争への道を閉ざす

必要がある。小泉さんはいつまでポチでいたいのか,靖国神社に祀られ大戦で戦って死んでいった人たちの気持に少しでもきずけば

ブッシュのポチでいられるはずでないのだが。





楽天


11月3日の天声人語より


 フランスの画家ニコラ・プッサンが「アルカディアの牧人」に描いている古代ギリシャの地・アルカディアは、

牧歌的な楽園や、理想郷にたとえられた。

日本で言う楽天地もまた、楽しさのあふれる天国のような場所を指している。

 名前からは、そんな連想も浮かぶインターネット事業会社・楽天の、プロ野球への参入が決まった。

選考の公正さについては、十分な説明と検証が要るが、選手会とファンが独善的な球界を動かしたあかしとして、

まずは楽天的に見守ってゆきたい。

 森鴎外は、短編「藤棚」で、楽天観という言葉を使っている。

「無制限の自由で人生の諧調が成り立つと思つてゐる人達は……余り楽天観に過ぎてゐるのではあるまいか」

(『現代日本文学全集』筑摩書房)

 あまりに楽天観に過ぎていないかと思ったのは、イラクに駐留する自衛隊員の安全にかかわる、小泉首相の発言だ。

「ムサンナ州の知事が来た時も(治安は)安定しているとおっしゃっていました。

サマワは住民も非常に歓迎しているそうですよ。自衛隊の活動を」

 サマワの宿営地に着弾したロケット弾は、鉄のコンテナを貫通した。

荷物の保管用でも、人は出入りするだろうから、被弾の恐れはあったし、これからもある。

香田証生さんの殺害が、自衛隊の駐留とどれほど深くかかわっていたかは、はっきりしない。

しかし砲撃は、自衛隊がそこに居るから起きた。

 今のような危険な状態が、派遣前に想定していた範囲内とは思えないが、どうか。

真っ当な説明と、速やかな対応が、肝要だ。



今のサマワに駐留している自衛隊員の情報は殆ど伝わってこない,分らない。なにをしているのか,どれだけの実績があったのか

詳細なことは殆ど報道されていない。税金を使ってイラクへ自衛隊は派兵されている。

税金を支払っている国民はスポンサーとして知る権利があるが,小泉首相の命令のまま自衛隊派兵の延長を決めようとしている。

閣議で決める前にキチンと今までの実績と費用がどれだけかかったかをスポンサーである国民に示すべきである。

民営化を強調している割に,政権にはその精神がない。

まず会社では,会社の役人にはスポンサーである株主に対し説明責任がある。どのような事業を展開したか費用はどの位かかり

そして業績がどれくらいあって,将来はどうなるのかの説明がまず第一番である。

そのようなことは一切にされていない。当然のことがなされているかどうかを改革するのが,小泉改革であったはずだ。

内閣の透明化,さらにできなければ民営化へ,その構造改革を是非してほしいものである。





ブッシュ政権が続くことには
重苦しさを感じる人が、
世界には多いだろう。



11月4日の天声人語より


 半世紀ほど前の米国で、ある小さな新聞の編集長が一つの実験をしたという。

請願書を持ち、100人以上の市民に署名を頼んだが、応じたのは1人だけだった。

他の人たちは「反政府的すぎる」として署名を拒んだ。

その請願書は、実は米国の独立宣言の有名な文章だったが、市民たちは気づかなかった。

 これは『日本/権力構造の謎』などで知られるカレル・ヴァン・ウォルフレン氏が、

今回の米大統領選の投票を前に出版した本の「アメリカ人の無知がアメリカを崩壊させる」というくだりに出てくる。

本の題は『世界の明日が決する日』(角川書店)で、ブッシュ政権と、その再選への様々な懸念がつづられている。

 「世界の明日」は、決したのだろうか。ブッシュ政権が続くことには重苦しさを感じる人が、世界には多いだろう。

超大国の、聞く耳を持たないかのような振る舞いが改まらないとすれば、先行きへの不安も高まる。

 あの請願書に使われた独立宣言には、こうある。

「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、

造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、

そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる」(『人権宣言集』岩波文庫)。

 この宣言がうたう国民の権利を守るためには、平等な選挙が必要だ。

ニューヨーク・タイムズ紙の事前の世論調査では、アフリカ系米人の8割もが、

票がきちんと集計されないという不信感を抱いていた。


 この大接戦の、投開票の公正さも検証しないと、世界の明日も確定しない。





世界で悪夢のようなことが起きている。世界の世論に反するアメリカ大統領が生まれた。世界はまだまだ

アメリカの影響力が強く,アメリカは抜群の軍事力をもつた超大国である。世界はまともに逆らうことはできない。

国連が無力化している。あれだけアメリカと対等だと強調して誕生した韓国の盧武鉉政権が3000人余の兵士をばアメリカの

言うままイラクに派遣しているのか゛不思議である。

北朝鮮の脅威はよく理解できる。でもこの脅威も作られた脅威ではとかんぐる所もある。

同じ民族同士何故に此れだけ憎しみあい敵対関係になったか。その歴史は日本の植民地によるところが大きい。

大国である隣国中国 ソ連の影響下に有った北朝鮮と,日本 アメリカの影響下の韓国とは

悲しい運命をもつて今も対立しなければならない。

同一民族でありながら憎悪し,にらみ合いしなければならないと考えると本当に悲しい民族である。

日本はアメリカに荷担するだけで朝鮮民族に対して何もできていないし,しようともしていない。

韓流とかで韓国俳優のヨンさんとかがが日本でブームで,我々少年の頃の戦中には欧米系の人たちはあまり見なかったが

朝鮮の人たちは多勢見ることがある。汚い家に住み汚い服装されていたのが朝鮮の方だった。

多分強制的に日本に連れて来られた方か,自分で渡航してこられた方かは判らない。

小学校で朝鮮出身の方が同じクラスにもいた。虐げられた民族の人々でなんとか罪償いに朝鮮の人たちを

一つに仲良く住まいできるようにするのが今の日本の大きな役割である筈なのだが。





「ニッポンの、新しい顔です」


11月5日の天声人語より


 「ニッポンの、新しい顔です」。そう印刷された、新札の発行を告げるポスターを街で目にする。

しかし、その顔はなかなか手元にやってこない。

新札が出てくるという、銀行の両替機の前に少し並んで、対面した。

 5千円札の樋口一葉は、やはり目鼻立ちがくっきりとしているが、これまで見た写真とは、どこか違った印象を受ける。

若いので、しわがないせいか、ややのっぺりとしている。

千円の野口英世は、見覚えのある写真そのもので、物を見据えるような両の目が、押しの強さを思わせる。

 一葉もだが、英世も、お札からは縁遠かった。

「兎(と)に角(かく)医士になり初めは誰しも同し事、金子必要是非なくては如何とも致兼(いたしかね)候間、

此際放蕩なる弟を持つたとあきらめて御恵送……」。

故郷の福島・猪苗代の旧友に十円を無心した手紙である(『野口英世』朝日選書)。

 彼は、坪内逍遥の小説「当世書生気質」を読んで、清作から英世へと改名した。

作中に「野々口精作」という地方出身の医学生が遊蕩(ゆうとう)する場面がある。

かなり広く読まれているので、「精作」のモデルだと誤解されないかと恐れたという。

 やがて英世は渡米し、ロックフェラー医学研究所で力行する。

「英世の半生は……借り倒しのそれであった。

そして最後に、いくら借りても相手が倒れることのないスポンサー、ロックフェラーをついに見つけた」(同選書)

 英世が研究所の助手になってから100年の今年、次の大統領を選ぶ選挙で、現職がかろうじて逃げ切る。

「アメリカの顔」の方は、変わらなかった。




日本の新札のようにアメリカの顔も変って欲しかった。変らないとすると多大な影響を世界に与えるだろう。

世界が,世界各国自身ががこれからしっかりしなければ世界は滅亡の方向に歩みだすだろう。

ブッシュの自画自賛は全ての国の国民は知ってしまった。これほど世界で信用されていない人物がアメリカをリードし

「正義の戦い」をさらにあちこちで起こすようになれば,人類は破局に向かう。

今一番頼りになるのは仏独中国などである。イラクに派兵していない国々に頼る以外にない。

残念ながら日本はブッシュを支える政権が今担っている。この政権を倒すのもブッシュの世界に対しての影響力を

削ぐ一つの方法かもしれない。世界各国がアメリカの動向を監視しつつ暴走を防ぐ以外に無くなって来た。 





このねじれが、米国のいま、を映してもいる。


11月6日の天声人語より


 かつて米国のことを、こんなふうに揶揄(やゆ)した作家がいる。

「力をもてあまし、止まりがつかず、本能の命じるまま、田舎ものが若盛りのばか騒ぎをしている」

(『バウハウスからマイホームまで』晶文社)。

 ニューヨーク在住の人気作家トム・ウルフ氏である。

投票日直前、彼が英紙にブッシュ支持を公言したことが話題になった。

英紙にいわせれば「記憶にあるかぎり最も保守的で、右翼と金持ちを擁護し、

戦争の泥沼に引き込んだブッシュ政権」なのに、なぜ?である。

 ニューヨークの作家や知識人はたいてい反ブッシュだという思いこみがある。

ウルフ氏は「東海岸の気取った連中に支配されたくない」という人々の怨念(おんねん)がブッシュ陣営を支えてきたと言い、

彼の故郷バージニア州を含む米国南部や中西部の人々に共感を表明した。

 選挙結果を地図で見ると、確かに色分けがはっきりしている。

ケリー支持は東北部と西海岸に偏る。それ以外はブッシュ支持一色だ。

ニューヨークはアメリカではない、という言葉とともに、中西部、南部こそがアメリカの核だという言葉を思い浮かべる。

 地理的な色分けだけではない。あの国の人たちの心理の奥をのぞかされる気もした。

宗教的信条を背景に同性愛や人工中絶を忌避する人々がブッシュ支持の核になった。

「内戦」と表現するコラムもある。

 ブッシュ支持を公言したウルフ氏の新作は大学での性がテーマだ。


保守派には忌避されるだろうという。

彼は「イラク侵略」にも批判的だ。このねじれが、米国のいま、を映してもいる。



宗教的信条を背景に同性愛や人工中絶を忌避する人々がブッシュ支持の核になったであろう事は容易に想像できる。

我々も反対である。素朴なひとたちにとっては,イラクの戦争よりも同性愛や人工中絶の方がより関心が強く

退廃したアメリカを立ち直らせようとして投票したに違いない。余りにも大きな誤りがアメリカで起こった。

イラクへの侵略が同性愛や人工中絶の方がアメリカにとって重要な課題と感じブッシュの再選である。

混迷する大国アメリカの結果が,世界に混迷を与えるブッシュ大統領を生んだことになる。



鴎外から子らへの絵手紙など、
多くの資料がみつかった。


11月7日の天声人語より


 オト、マリ、フリツ、アンヌ、ルイ。

この欧風の名が、森鴎外の家では於菟、茉莉、不律、杏奴、類となって、子どもたちに付けられた。

 「コドモミナニ」。こんなくだりも見える、鴎外から子らへの絵手紙など、多くの資料がみつかった。

次女で随想家の小堀杏奴の遺品だという。

 「父の背中に寄りかかっていると、父の太い首筋に葉巻と雲脂(ふけ)のまじった懐しい匂いがする」。

杏奴は『晩年の父』(岩波文庫)に、思い出を記している。

「父は私を『アンヌ、アンヌ』と呼んだ。

そして愛称の意味もあるのか、アンヌにわざと『コ』を付けて、『アンヌコ、ヌコヌコや』などといってふざけた」

 長女の茉莉は、こう書いた。

「父の愛は私に対しても他のきょうだいに対しても、素晴しく、その表現は完全以上であり、殆ど常識の外れたものであった」


(『父の帽子』講談社文芸文庫)。

鴎外の、どんな場合の顔を思い出しても「不愉快な影がない。

浅ましい人間の心が覗(のぞ)いていた事がない」

 東京都文京区の鴎外の旧居跡は、区立鴎外記念本郷図書館になっている。

「鴎外と漱石−書簡からみた明治の二大文豪の交流」展が開かれている(12月15日まで)。

鴎外の手製といわれる和綴(わと)じ本があった。

雑誌に載った漱石の作品のページを切り取って綴じ、子どもたちに与えたという。

 杏奴の遺品の方には手製の教科書があった。

彼女は、鴎外の手を「大きい、骨ばった」と回想している。

その手でなしたこまやかな「作品」には、父親・林太郎の思いと願いが込められているようだった。


親の大きな愛はいつの時代にもある。鴎外も例外ではなかった。



山からキノコを


11月8日の天声人語より


 「こっそり秘密の物を見付けた心躍りといったが、きのこはなんとなく遥かな気分をもたらすのである」。

山からキノコを採って帰るときのことを、歌人の前登志夫さんがそんなふうに描いている(「月夜茸」)。

 宝物を掘り当てたような高揚である。美味、しかしひとつ間違うと毒におかされる危険もつきまとう。

最も毒が強いキノコの一種ドクツルタケを英語でデストロイング・エンゼルという。

真っ白で典雅ともいえる外見だが、食べるとコレラに似た症状を起こし、死亡率は70%といわれる。

まさに天使の顔をして破滅をもたらす。


 「くせがなく爽(さわ)やかな味である」「香りは少ないが、味には癖がなく口あたりがよい」。

図鑑などに見るスギヒラタケの説明である。

白くて可憐(かれん)にも見えるこのキノコだが、ひょっとして毒キノコに変身したのだろうか。

 腎臓機能に障害のある人が急性脳症で死亡する例が相次いだ。

多くの人がスギヒラタケを食べていた。

東北や北陸地方では、好んでよく食べられるキノコだ。

因果関係があるのかどうか。謎は解明されていない。

 死には至らなくても、この秋も大勢の人が毒キノコで中毒症状を起こした。

ほとんどがツキヨタケによる。暗いところでは青白い光を発するキノコだ。

吐き気、腹痛などで苦しむ例のほか、見るものすべてが青白く見えた、

目の前をホタルが飛び交うように感じた、という体験談もある。

 キノコの正体についてはわからないことが多い。

〈夜を光る月夜茸(つきよだけ)にしきりに逢ひたくてむささびどもは出でてゆくらむ〉斎藤史


キノコにはくれぐれも注意との事だろう。マッタケは殆どが中国産で,日本産は食べる機会が殆どなくなった。




米軍とイラク軍がファルージャに進攻


11月9日の天声人語より


 「軍事力行使は、馬にとまるハエを銃で殺すに等しい」。

イラク暫定政府のヤワル大統領は、こう言って、ファルージャへの大規模な攻撃に反対したという。

アナン国連事務総長は、攻撃の中止を求める書簡を、ブッシュ大統領らに送ったと報じられた。

 昨日、米軍とイラク軍がファルージャに進攻し、総合病院や橋を占拠したという。

この病院は、先月の米軍の空爆などに関して「死傷者の大半は民間人」などと発表してきた。

CNNは、病院占拠は「反米宣伝をやめさせるため」という米軍筋の情報を伝えた。

まず「口」を封じ、それから総攻撃とのもくろみなのか。

 空爆では、500ポンド爆弾が落とされたという。

太平洋戦争で、B29が投下した500ポンド爆弾を連想した。

米国人と日本人との大きな違いの一つは、空襲体験の有無だろう。

 日本の実体験者は減りつつある。しかし、猛烈な爆弾の嵐で命が散らされた場所は、いくらでもある。

目に見える痕跡は無くとも、その時に何が起きたのかを、その場に立って考えることができる。

 米国などは、アナン氏の書簡に対して、内政干渉だと反発したという。

では、米英のイラク侵攻は何だったのか。明らかに、書簡や口頭による干渉ではなかった。

この干渉では、万を超すイラク人の命が失われたと推計されている。多くの、おぞましい虐待もあった。

 ――予定の選挙が近づいてきた。まだ邪魔者たちがいる。

力ずくでなら、つぶせる。だからつぶせ――。

もしも、こんなやり方で突っ走るとするならば、干渉するなと言う方に無理がある。



米軍とイラク軍がファルージャに進攻は大変な被害をイラクの人たちに与えている。傀儡政権のアロウィ首相の要請だと

しても信じる人はまずいないだろう。イラクでブッシュはほしいままにしている。誰がもてもイラクの為にしているとは

思えない。そのブッシュを小泉首相は支持してサマワに自衛隊派兵延長の閣議決定している。

大野防衛長官並びに公明党の幹事長が5時間滞在して安全だと確認したことになっている。

5時間で安全と何故に判断できたか。? むしろ日本国民には危険だから早く引き上げたとしか見えてこない。

サマワの知事とも自衛隊註留地で会見している。何故に知事庁舎まで行かなかったのか。

失礼であると共に自衛隊が占領軍の一部であることを示しているようなものだ

誰の目から見てもアメリカ軍の一翼を担った軍隊である事には違いない。早く撤退しない限りにいずれ攻撃の対象となる。

それは時間の問題である。イラクがベトナムのように泥沼化して武装軍があちこちで抵抗戦争が起きれば

日本としてどうするのだろう。オランダが撤退する3月に撤退するのが常識である。自衛隊の家族の方たちの

心配はどれほどか計る事はできない。イラクは戦場である。痛めつけられたイラクの人たちの憎しみが憎しみを

増幅し武装軍団は益々に増えると思う。






変わらないのが墓石だが、


11月10日の天声人語より


 時に、公園のような広い墓地を通る。

桜の開花、枯れ葉の舞、そして静かな冬枯れと、季節につれて木々の表情は大きく変わる。

変わらないのが墓石だが、中には、崩れたり、欠けたりしている墓もある。

墓場は、忘れられない人と忘れられた人を抱いて、時を重ねている。

 忘れられるどころか、触られたりこすられたりして光を放つ墓が、パリのペールラシェーズ墓地にあるという。

墓の上に仰向けになった端正な青年のブロンズ像がある。

ここ数年、触ると新しい恋が始まるといった「効能」が広まって、顔や足先がこすられている。

 やはり、さすられた足先が光っているのは、ローマ・バチカンにある大聖堂の聖ピエトロ像だ。

人々が繰り返し触ってきた右足の先のところがすり減っていて、聖堂の長い歴史を感じさせる。

 数年前、東京のJR小岩駅にある元横綱栃錦のブロンズ像の手の先が妙に光った写真が載った。

できてから十余年の間に、乗客やファンや酔客にさすられ、握手されて、こすれた。

このようにして形が変わる像は多いのだろう。

祈りや願いが小さな光となって、そこに現れているかのようだ。

 パリに横たわっている青年は、ナポレオン3世の帝政を批判した新聞の記者で、

1870年、3世のいとこに射殺された。

22歳だった。その死の翌年、市民がパリ・コミューンを樹立する。

しかし間もなく、政府軍に追いつめられた。

そして、最後の拠点となったペールラシェーズ墓地の壁の前で次々に銃殺された。

 墓地そのものが、歴史を刻む墓碑になっている。






墓場は亡くなった人を葬る所であると同時に今との接点である可能性もありえる。



1968年、昭和43年は、
大きなできごとが国内外で相次いだ



11月11日の天声人語より


 3億円事件が起きた1968年、昭和43年は、大きなできごとが国内外で相次いだ。

米国ではキング牧師と大統領候補のロバート・ケネディが暗殺され、

ソ連・東欧軍がチェコへ侵入、フランスでは「5月革命」があった。

 泥沼化したベトナム戦争の行方を大きく変えたのが、旧正月(テト)のテト攻勢だった。

北ベトナム軍と解放戦線が一斉蜂起し、サイゴンでは米大使館が一時占拠された。


 「テト攻勢がわれわれの時代で最も大きな出来事の一つであったというのは、

南ベトナムを舞台として起こった事柄によるものではなく、

一万マイル以上も離れたところにいるアメリカ人の心の中に起こったことのためである」。

勝利は間近と信じ込まされていた米市民が衝撃を受けたと、

ワシントン・ポスト紙のオーバードーファー記者は『テト攻勢』(草思社)に書いた。

 解放戦線側が町を占拠し、奪回を狙う米軍との間で約一月にわたる血みどろの市街戦が続いたのが古都フエである。

そのフエを、イラクのファルージャを攻撃する米軍の海兵隊の現地指揮官が持ち出し、兵士を鼓舞した。

「お前たちは歴史をつくる現場にいる……(今回の作戦は)もう一つのフエだ」

 戦争中に反戦歌を作り、ベトナムのボブ・ディランと呼ばれたチン・コン・ソンの詩が『テト攻勢』に載っている。

「老人と弱い者のむくろのかたわらに/若者と幼児のむくろが横たわる/どれが私の妹のむくろなのか?」。

最後に「フエ 1968年」とある。

 2004年のファルージャは、どう記されるのだろうか。


歴史は繰り返される。○○なブッシュには理解できないことだろう。最後の結末まで見る以外に仕方ないことなのだろうか。




中東の不死鳥とも言われた
アラファト氏が逝った


11月12日の天声人語より


 ――何度も死にそうな目に遭っておられますが、間一髪で危険をすり抜ける「秘訣」は何ですか。

問われたアラファト氏は、秘訣などありませんと答えつつ、

「なぜか危険に対する勘がある」とも言い、実例をあげたという。

 「ベイルートでパレスチナとレバノンの指導部の合同会議がありました。

私は会場に入ったとたん、『すぐに出ろ』といいました……五分と経たないうちにイスラエルの戦闘機がこの場所を爆撃していました」

(『パレスチナ五十年の悲願』日本テレビ放送網)

 中東の不死鳥とも言われたアラファト氏が逝った。「睡眠時間3時間」の伝説もあり、

パレスチナの象徴として人々を長く率いたが、ついによみがえらなかった。

 93年、イスラエルとの歴史的な和平協定調印で訪米した。


記者会見で、今後は平和の指導者として軍服から背広に着替えたらどうかと問われ「私はカメレオンではない」と答えた。

その後、和平とはほど遠い道が続いた。

 ――あなたにとって希望とは何ですか? 

彼は「一日として希望を失ったことはありません」と言い、アラビア語の詩を引いた。

私は心を期待で慰める/生きることはいかに困難であろうか/この一縷(いちる)の望みなくして。

 和平協定で、ノーベル平和賞を共に受賞したイスラエルのペレス外相が、後に首相として語るのを聞いた。

「私たちは、和平の実現という湖に漕(こ)ぎ出し、その真ん中まで来て疲れている状態だ。

しかし更に漕ぎ続け、あらゆる犠牲を希望に変えてゆかなければならない」。

一縷の望みを、未来へつなぎたい。



いたる所にアメリカの影を背負った戦士がいる。もしアメリカが中立な態度で臨むならば世界はもっと平和に

なっているだろう。イスラエルとパレスチナ戦争ではアメリカが新しく開発した新しい兵器の実験場として

実戦に兵器が使われている。

イスラエルが攻撃に使い,モルモット代わりにパレスチナの人たちがなっているのだろうか。





人を導く言葉もあれば、
迷わせ、惑わす言葉もある。



11月13日の天声人語より


 「天然ダム」の「天然」には美しく貴重といった意味合いがあって、悲惨な災害現場の表現としてふさわしくない。

そんな意見もあり、新潟県中越地震の被災地の形容としてはひかえたい、と国土交通省が言っている。

 地元の人から見れば、おぞましい光景で、「天然」という言葉がうわついて聞こえるのはもっともだろう。

かわりの「河道閉塞(かどうへいそく)」という言葉にはなじみが薄く、現場をありありと伝えない弱さもある。

被災者たちの思いを尊重しつつ何か適当な言葉はないか、と思案する。

 東京の都立高校では3年後から「奉仕体験活動」が必修科目になる。

「奉仕」は、奉り、仕える。古来、上下関係を前提に主君や師に尽くすことを意味してきた。

美しい言葉と思う人もいるかもしれないが、おしつけがましいと感じる人もいるだろう。


歴史の澱(おり)を感じさせない言葉がないものか。

 米軍再編をめぐり「極東条項」が再浮上してきた。

「極東」の範囲は日米安保条約の根幹にかかわる議論だが、議論とは別に「極東」という言葉に違和感を抱く人もいるだろう。

西洋から眺めた方角でしかないのに、と。歴史のひずみを引きずる言葉だ。

 非戦闘地域の定義について首相が「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域だ」と答え、あとで「良い答弁だった」と自賛した。

詭弁(きべん)と強弁である。


言葉をもてあそぶ詭弁学派を「魂の糧食」を切り売りしていると批判したソクラテスを引きたくなる。

自賛も彼らの特徴で、その危険さも語った。

 人を導く言葉もあれば、迷わせ、惑わす言葉もある。



言葉は言霊ともいわれ,魂がこもっているものである。小泉首相の話は,いつ聞いてもただの抜け殻で詭弁術でもって話している。

早稲田大学で学んだのだろうか。常に日本人に悲しい現実をみせつけられている。





マチスが没して50年、
ピカソが逝って31年になる。



11月14日の天声人語より


 「絵を見る人には、ある種の逸楽的感動を覚えてほしい。

私の絵は、深い安らぎを与える『肘掛(ひじか)け椅子(いす)』でありたい」。

マチスは、こんな意味のことを言っていたそうだ。東京・上野の国立西洋美術館の「マティス展」(12月12日まで)で、

久しぶりに、この言葉をかみしめた。

 マチスのアトリエがあったパリ・セーヌ川べりのアパートを訪ねたことがある。

窓から川の方を見ると、観光船が行き交い、対岸にはノートルダム寺院が見える。

当時の住人は「最もパリらしい場所です。地下鉄工事がうるさいのが難点だが」と言っていた。

この構図で100年前に描かれた絵が、今回展示されている。

 会場を巡る。大胆で際立った人物像や鮮やかな色づかいに、生の躍動と官能の気配を感じる。

しばらく、肘掛け椅子の逸楽にひたった。

 マチスと共に20世紀美術を代表するピカソの「ピカソ展」も開かれている(東京都現代美術館=江東区 12月12日まで)。

いつもながら、奔放で過激な形と色の祝祭に酔いそうである。

テーマは「躰(からだ)とエロス」で、男女の激しいドラマが迫ってくる。

 洋画家・川島理一郎は戦前、このふたりが互いにどう思っているのかを、別々に聞いた。

「あの人はハイカラで美しい絵を描くなかなか話せる人だよ」とピカソが言い、

「気まぐれで何をしでかすかわからぬ、然しあれは物の判る人だよ」とマチスは言った
(『旅人の眼』龍星閣)。

 マチスが没して50年、ピカソが逝って31年になる。

両巨匠の豊かな果実を、ふたりの間の会話も想像しながら味わった。






ピカソとマチスは前衛絵画の両巨匠である。特にピカソは形でマチスは色が特徴がある。

凡人にはこんな絵がそんなに凄いのかと見ているが,誰もがそういうのだから凄いのだろうと

思っているだけである。最近の前衛絵画は益々理解ができなくなってきている。

うがった観察だが,もし芸術が昔と変らなければ頂点に立つ人はずーと変わりない。

だから色んな描き方を変えることによって頂点になる人物を色いろと後世の人たちが

作っているのではないかと考えるのだが。





その雪の季節が、
新潟県中越地震の
被災地に迫っている。



11月15日の天声人語より


 「雪が来る。もうそこまできている。

あと十日もすれば北海から冬の雲がおし渡ってきて、

この越後(えちご)長岡の野も山も雪でうずめてしまうにちがいない」。

長岡藩を舞台にした小説「峠」は、城下の冬支度の描写から始まる(『司馬遼太郎全集』文芸春秋)。

 その雪の季節が、新潟県中越地震の被災地に迫っている。

復旧の加速を願うが、最大震度7という猛烈な揺れの割には住宅被害が少なかったとの見方があるようだ。

壊れた家々の姿は実に痛ましいが、全半壊した住宅は、これまでの震度6強の直下型地震より少なかった。

 それは豪雪への備えがあったからとの推測がある。

雪の重みに耐えるよう柱を太くしたり、屋根を軽いトタンにしたりした住宅が耐えたのではないかという。

との長い付き合いから生まれた知恵や伝統が、被害を減らしたのだろうか。

 「峠」の主人公は幕末の家老、河井継之助である。戊辰戦争に際し、何とか戦いを避けようと尽力したという。

藩主の嘆願書を携え、官軍軍監と談判したが断られ決裂する。

 その談判が行われた小千谷市の慈眼寺の被害が、地域版に載った。

市指定文化財の「会見之(の)間」は、壁が崩れ落ち床が抜けた。

「『峠』に感銘された方々に、もう一度訪れていただけるように、力を尽くしたい」と副住職は言う。

 地震は、人々の暮らしを大きく揺さぶり、断ち切っただけではなく、

人から人へ伝えられてきた大事な記録や記憶をも揺さぶった。

厳しい季節を目前に、人々の心の支えになるものが断たれず、つながってゆくようにと切に思う。





震災後体育館で避難している人たちがテレビに映し出されていて,次に半月もすると自衛隊員の宿舎用に保存されていた

仮住宅が沢山建てられて,そこに入居される人たちの映像が流される。それも部落ごとに同じように住んでいた人たちが

暮せるようにとの配慮もされている。

日本はありがたい国だとの思いを強くした。





しかし、めぐみさんは帰ってこなかった。


11月16日の天声人語より


 その日、ワールドカップバレーボール大会女子最終日をテレビ観戦した人も多かったのではないか。

日本が韓国に勝って優勝し、やはり日本は強かった、と弾む会話をした家族もいるだろう。

 1977年11月15日のことである。国会では、建設省出先機関の会計検査院への宴会ぜめが追及されていた。

円は1ドル245円の最高値を記録した。好天つづきで野菜が暴落、農家は嘆きの声をあげていた。

音楽ファンには、ベルリンフィルを率いてのカラヤン来日が関心の的だったかもしれない。

街には「津軽海峡・冬景色」が流れていた。

 その日午前8時すぎ、「コートを着ていったら」と声をかけた母の横田早紀江さんに、

少し迷いながらも中学1年のめぐみさんは「もういいわ、今日は……。行ってきまーす」と出ていった。

新潟市の最低気温は7・6度だった。

 いつものような朝だった。なだらかに時は流れ、そのまま忘れ去られてしまうかもしれない一日だった。

しかし、めぐみさんは帰ってこなかった。忘れようにも忘れられない一日になってしまった。

それどころか横田さん一家にとっては、以来、時間が止まった。そんな心境だろう。

 27年後の15日、北朝鮮との実務者協議を終えた日本政府代表団が拉致被害者に関する資料を携えて帰国した。

めぐみさんの遺骨とされるものも含まれる。

間違いであることを念じつつ、それにしても何と酷薄な一日か、との思いが強い。

 拉致以来の凍結した歳月を取り戻すことはできない。

しかしなお取り戻すことのできる人やものは取り戻さねば。




北朝鮮のした拉致とはむごいことをするものだと思う。その被害者になられた方は,その後本人は勿論の事家族の方たちも大変な人生を

おくることになった。ずーとマスコミを賑わしている。最近一段とその報道が大きく取り上げられテレビ新聞などで報道される時間もスペースも

大きくなってきている。これがさらにエスカレートして日本が戦前のような普通の国になり,原爆投下に始まる空襲の生活があたりまえになる

時代になることをさらに恐れる。一瞬のうちに何万人の人たちが亡くなりそして負傷する惨事が再びやってくること。

戦後生まれの人たちにとっては原爆投下に始まる空襲の生活は架空の昔話となり,

現実の拉致被害者のことだけにより大きく関心がゆくことを非常に恐れる。北朝鮮への食糧援助中止 経済交流の凍結すればより

北朝鮮の市民の被害がたかまるだけで,金正日体制がかわりうるとは思えない。体制は続き何の障害もなく暮すと思う。

それより早くに国交を回復して人々の交流が高まり,自然と体制が崩れゆくか,

体制の変るのを見るのがよいのではないかと考える。一番恐れるのはイラクのようにアメリカが強行手段をとり朝鮮が戦場になることだけは

是非とも避けたいものだ。アメリカは特に今のブッシュのアメリカは戦争したくて仕方ない国であることだけ忘れないように。





パウエル氏退場後の
政権にいかに歯止めをかけるか



11月17日の天声人語より


 「来週には危機はありえない。私の予定はもういっぱいだから」。

キッシンジャー元米国務長官の有名な言葉だ。

世界中を駆けめぐり、調停役として奮闘した彼ならではのせりふだろう。

 パウエル米国務長官には、彼ならではというよりは、誰もが思いあたるような「名言」がいろいろある。

たとえば「何事も思っているほどは悪くない。朝になれば状況はよくなっている」

 眠っている間に、いつのまにか状況が好転するということではないだろう。

朝、気分よく目覚めると、少し世界が違って見える。

前夜には困難だと思えたことにも、立ち向かう力がわく。そんな楽観主義の勧めだ。


 キッシンジャー氏にはこんな名言もある。

「伝統的な軍隊は勝たなければ負けである。ゲリラは負けなければ勝ちである」。

国際政治の専門家らしく、冷徹に現代戦を見ている。

パウエル氏の持論は「明快な目的もないのに勇気や命を浪費してはいけない」。

軍人出身らしい歯切れのいい物言いだ。

 残念ながら、ブッシュ政権でのパウエル氏は、キッシンジャー氏のようには縦横の活躍の場を与えられなかったようだ。

彼の国際協調主義は「タカに囲まれたハト」と評価、同情もされたが、

一方で「大統領に忠実な一兵卒」と限界を指摘する声もあった。

 米紙でキッシンジャー氏が2期目のブッシュ政権に、共和党支持者として警告を発していた。

「単独行動主義は自滅をもたらす」と。

あの国に「どうぞ、自滅の道をご勝手に」とはいえない。

パウエル氏退場後の政権にいかに歯止めをかけるか。



国務長官のパウエルさんが政権から去り,アメリカでは穏健派がいなくなったときに世界はどうなるのだろうか。

「正義の為の戦争」が頻発して世界が修羅化する事だけは避けたい。

仏独中国などの世界の国々が国際協調をとっていて,日本だけブッシュの後ろをついていくだけでは情けない。

日本も何とかしなければならない。ブッシュを孤立させる事か,好戦の思いを止めるように仕向けるかの事だが,

小泉首相にはどちらとも有るとは思えない。「正義の為の戦争」とか「世界の安全の為の戦争」などの戦争だけはご免である。





携帯の便利さは、
速さと効率を競う社会での便利さで


11月18日の天声人語より


 路地を歩いていた。先の方の四つ辻に、子犬を連れた男性が立っていた。

こちらから見て右を向き、誰かと話している。相手の姿は角の家に隠れて見えない。

やがて辻に近づき右手を見ると、そこには誰もいなかった。

死角になっていた男性の左の耳もとに携帯電話があった。

 いわば一人一人が電話ボックスを持ち歩くようになって、そうはたっていない。

しかし本紙の世論調査では、20代の3割が「ない生活は考えられない」と答えた。

 「これからも携帯は下手なままでいます」。

明治学院大教授、辻信一さんの意見に、下手な一人として共感を覚えた。

携帯の便利さは、速さと効率を競う社会での便利さで、

半面、人と人が向き合うことで得られる大切な「つながり」が失われていると述べる。


いつでもどこでも、つながりを求めながら、つながりの薄れる時代なのか。

 辻さんは『スロー・イズ・ビューティフル――遅さとしての文化』(平凡社)の後書きに、

長田弘さんの詩「ふろふきの食べかた」を引いていた。

「そうして、深い鍋に放り込む。/底に夢を敷いておいて、/冷たい水をかぶるくらい差して、/弱火でコトコト煮込んでゆく。

/自分の一日をやわらかに/静かに熱く煮込んでゆくんだ」

 有線電話をベルが発明したのは、1876年、明治9年だった。

明治の初期は、電話よりも「伝話」の方がよく使われ、

テレホンは「得利風」とも書かれた(『無線百話』クリエイト・クルーズ)。

 ベルが今よみがえったら、怪しむだろう。

「彼らは透明人間と話しているのか」




携帯電話の普及には目を見張るものがある。便利なことは間違いないが,それによる被害も増えてくる。

犯罪の連携用に使い出されて,色んな役割りを担うことを恐れる。奈良での女子誘拐事件殺人に大きな役割りを

担って犯人逮捕への足かがりになろうともしている。良いようにだけにだけに携帯電話が使われれば本当に世の中

変ると思う。世界が携帯電話で安く簡単に接続できる日を待ちたいものである。





美事なる此議事堂に
ふさはしき議員を得るハ
何時の代ならむ


11月19日の天声人語より


 今の国会議事堂は、二・二六事件の起きた1936年、昭和11年にできた。

国会議員を60年余務め、憲政の神様と呼ばれた尾崎行雄が詠んでいる。

〈美事なる此議事堂にふさはしき議員を得るハ何時の代ならむ〉

 そう書かれた色紙が、国会前にある憲政記念館の「尾崎メモリアルホール」に掲げられている。

国会の組織、運営や憲政の歴史などを展示する記念館の一室だ。

 記念館で民主党が開いた集会に、村岡兼造・元自民党衆院議員が出席し、「ぬれぎぬだ」と述べた。

村岡氏は、日本歯科医師連盟から自民党旧橋本派への1億円献金隠し事件で、

政治資金規正法違反(不記載)の罪で在宅起訴されている。その容疑を全面否定した。

 「身の潔白を証明したい。『政治とカネ』は大事な問題で、解決しないと国民が政治を信用しない」とも述べた。

潔白が証明されたわけではなく謎は深まった。しかし「政治とカネ」のくだりは、その通りだと思う。

派閥の長だった元首相から国民への説明が無いのも変だが、党全体の責任をもつ総裁・首相の沈黙も異様だ。

信用は更に揺らぎかねない。

 自民党の憲法調査会の改憲素案が明らかになったが、中に「政党法の制定」との項がある。

「政党は、議会制民主政治における自らの役割を深く自覚し、その健全な発展に努めなければならない……」。

憲法の作り替えよりも、この自明な責務がなぜ果たせないのかを省みる方が先ではないか。

 尾崎翁が没して50年たった。この時代は、「ふさはしき議員」を得たのだろうか。

はなはだ、心もとない。



議員への道には地盤 看板 カバンが必須だといわれている。どんな立派な人にも地盤 看板 カバンがなければ議員への

道はない。逆にいうならば議員を立派な人達ばかりに議員制度を完全でなくするか,

もつともつと整備する必要がある。そのことはわかっていても

法律を成立させ人たちは当の議員だから悪事は滅びることはない。

議員の悪事をなくすには議員そのものをなくしてしまうことである。そして国政で国民の意見を反映できるシステムを作る事にある。

それはIT(情報技術)の時代が更に進めば可能だと思う。例えばロボットを議事堂に置き座らせ,何かの案件があれば

全国民がセクりティが完全な方法で,各家庭からロボットに各地区ごとの,乃至職業別のロボットへアクセスして投票を指示し

その指示でロボットが行動するようにさせればよいことである。

今の議員は政党や派閥のロボットみたいなものだから,それより正確に国民の意思が伝わた議事が施行されるとおもうのだが。

そうすれば完全に悪事はなくなる。





転がっている石(rolling stone)には
苔が生えない」という英語から来ており、



11月20日の天声人語より


 「転石苔(こけ)を生ぜず」ということわざがある。

「転がっている石(rolling stone)には苔が生えない」という英語から来ており、

二通りの意味を持つようになったと辞典にある。

「転居や転職を重ねていると財産も地位も身につかない」と「常に活動しているものはいつまでも古くならない」


 米国の音楽誌上で「転石」の絡み合いがあった。

「ローリング・ストーン」誌が載せた「史上最も偉大な500曲」で、ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」が1位に、

ローリング・ストーンズの「サティスファクション」が2位になった。

選んだ側の好みも出たのだろうが、60年代を思い起こさせる曲である。

 この「転石」誌の来歴を描く『ローリング・ストーン風雲録』(早川書房)に、

60年代半ば、3曲の最も有名な歌詞が電波に乗って飛び交ったとある。

すべての孤独な人々(All the lonely people)。

どんな気持ちだい?(How does it feel?)

全然満足できないよ!(I can’t get no〈satisfaction〉!)

 最初がビートルズの「エリナ・リグビー」、次はディランの「ライク・ア……」、最後が「サティスファクション」の一節だ。

 大戦終結からざっと20年、戦後育ちが巨大なかたまりになって大人になりつつあった。

成秩序への反抗と受容が問われた時代を、彼らは心の奥に響く言葉と旋律で歌った。

 それは、今もなお、どこかで転がり続ける石のようで、古びることがない。






転石苔を生ぜずの反対に君が代の歌が連想される。これは「苔の生すまでよ」で苔の生えることを尊んでいる。

どちらがよいとも言えない所である。古びたものを尊ぶ場合もあるが,古くなる事が良くない事もある。

一苔がはえないように努力するのが一般的である。

でもよいものはいつまでも残したい気持がある。





築かれて千数百年、
古墳は何百万もの旅人を
見送ってきたのだろう



11月21日の天声人語より


 ふたりの男性に求愛された美しい女性が、心を決めかねて死を選ぶ――。

南北朝時代の観阿弥作とされる謡曲「求塚(もとめづか)」の主題だ。

 文化審議会が史跡への指定を答申した中に

「求塚」の元になった悲話が伝わる神戸市の西求女塚(にしもとめづか)古墳が含まれていた。

男性ふたりも女性の後を追ったため、女性の墓を中にして三つの墓が築かれたとの伝説がある。

 この古墳の一帯も阪神大震災に襲われた。

西宮の大学への通勤の足を奪われた大森亮尚さんは、長い距離を歩いた。

歩行が難渋した折、古墳の前に佇(たたず)んでしばし憩うと、不思議と足に力が湧(わ)いたという。

築かれて千数百年、古墳は何百万もの旅人を見送ってきたのだろう。

「私も……歴史の中を歩み続けてきた旅人の一人に過ぎない。が、その一瞬、そのひとりひとりの積み重ねが、

古墳の『生』の歴史の証となってきたのだ」(『阪神間の文学』和泉書院)

 名勝への指定が答申された方には「イーハトーブの風景地」がある。

宮沢賢治の作品の源泉をなす岩手県の6カ所の自然景観という。

賢治が「イーハトヴ童話」として出版した『注文の多い料理店』の広告用チラシがある。

「イーハトヴは一つの地名である……そこでは、あらゆる事が可能である……

罪や、かなしみでさへそこでは聖くきれいにかゞやいてゐる」

 「名勝」という扱いには、賢治も苦笑するかも知れない。

しかし、自然や風景を大事に扱うのは「イーハトヴ」の思いにもかなうことだろう。

 悠久の歴史や自然と静かに対話のできる場は、はるかな未来への贈り物でもある。


昔の日本人は真に純粋であった。それに比べて第二次大戦後の日本は解放されたのかどうか分らぬが

アメリカ文化の悪い所だけが蔓延して,性道徳もなにかもなくなってきてしまっている。

同じ人間の営みである。本能のままに生きるのがよいのかどうか判断は個人によるが今の風潮はどうかと

首を傾げたい気持である。





古代エジプトの王ツタンカーメンの
ミイラが「精密検査」



11月22日の天声人語より


 約3300年前の謎がいよいよ明らかになるかもしれない。

黄金のマスクで知られる古代エジプトの王ツタンカーメンのミイラが「精密検査」を受けることになった。

 彼をめぐる謎と偶然に満ちた物語にひかれる人は多い。

王であったのに彼の名は、なぜか様々な公式記録から削除されている。

そのおかげもあって、1922年の「発見」まで墓は盗掘をまぬがれ、驚くべき副葬品の数々が温存された。

 彼の治世は、世界史的な「事件」が起きたころだった。


先王アケナテンが太陽神を唯一の神とする宗教改革を断行した直後である。

最古の一神教の成立ともいわれる。その息子とされるツタンカーメンは、18歳前後で亡くなった。

 「長年私の頭の中では、ツタンカーメンは財宝と同義になっていたため、彼の魅力に気づかなかった。

ところが今回調査を進めるうちに、いつしか私はこの若者に強い親しみを感じるようになっていた」。

米国のエジプト学者ボブ・ブライアー氏は述べる(『誰がツタンカーメンを殺したか』原書房)。

悲劇的な一生を推測と想像も交えながら追っている。

 アケナテンの死後、宗教改革への強力な揺り戻しがあり、一神教は一代で終わった。

その混乱と権力闘争のさなかにツタンカーメンは生きた。

若き王の死は権力闘争に巻き込まれた末の暗殺だった、とブライアー氏はみている。


 今度のミイラ精査では、エジプトと米国の研究チームが合同でエックス線やDNA検査で解明を進めるそうだ。

黄金のマスクの裏に隠された物語や史実がどこまで明かされるか




3300年前に死んだツタンカーメンの黄金のマスクは写真などでよくみかける。立派なものである。大変な技術力がなければ

作れない。日本では縄文時代以前の頃になるのか。大変な昔に現在と同じような謀略があつたとは人間のさがの深さを感ずる。

現代の技術でもつてのミイラの謎の解明に興味はわく。





そんなとき「けなげに咲いている
小さないのちを見てはっとする。



11月23日の天声人語より


 被災地へのお見舞いとしては異色かもしれない。

新潟県出身の作家新井満さんが地震に襲われた故郷の人たちに、

義援金とは別にカーネーション千本を贈った。

 阪神大震災のときの見聞から思いついた。

知人が、買えるだけのペットボトルの水とともにチューリップを携えて現地入りした。

水を受け取る被災者はどちらかといえば無表情だった。チューリップを見ると表情が変わった。

ほほえむ人、涙を流す人、いろいろだったという。


 「いのち、ということだと思うのです」と新井さんは言う。

犠牲になった人々のことや生き延びた自分のことを皆考えている。

落ち込んでいる人もいるだろう。そんなとき「けなげに咲いている小さないのちを見てはっとする。

生きる希望が新たにわいてくるかもしれない。そうしたきっかけになってくれれば嬉(うれ)しい」


 新井さんは高校3年のとき新潟地震を経験した。

教室では赤白のチョークが宙を飛び、無数のガラス片が降り注ぎ、校舎は壊れた。

信濃川にかかる近くの昭和大橋も崩落した。

自宅も全壊だった。「いまも思い出したくない」経験だ。

 大学に入ってすぐ、大病を患い生死の境をさまよった。

「遅れてやってきた地震の後遺症だと思う」。

被災者としての経験から、こんどの地震についても「これからが大変だと思う。

緊張が緩み、世の中の関心も薄れていくこれからです」

 贈ったカーネーションは北海道の七飯(ななえ)町で栽培された。

栽培農家は台風18号で被害を受け、ようやく立ち直ったところだ。

二つの被災地を結ぶ思いも込められる。





善意が震災で弱った気持の人たちに生きる勇気を与えてくれたのがチューリップでありカーネンショんである。

生きた花が安らぎを与えてくれた。




ソ連の独裁者スターリンの一面だが、
同じ独裁者でもヒトラーとの違いは多々ある。


11月24日の天声人語より


 人を信用する。その男にとってありえないことだった。

自分の考えを敵だけでなく、味方にも悟られない能力に長(た)けていた。

まわりの人は不安にふるえながら彼に従い、何かへまをすると、

あるいはへまをしたとみなされると、「排除」された。

 かつてのソ連の独裁者スターリンの一面だが、同じ独裁者でもヒトラーとの違いは多々ある。

たとえば、自分に忠誠を尽くす側近には信を置いていたヒトラーに対し、

スターリンは側近に最も疑いを抱いた。

 ヒトラーは大衆に直接訴える演説で権力を固めたが、スターリンはその才能も必要もなかった。

閉じられた党の集会で演説するか、限られた幹部を操縦することで事足りた。

むしろ人々とじかに接触することを避けた。

ただ自分がレーニンの正統の継承者であることを国民に実感させる必要はあった。


 1933年ころからメダルが鋳造され、肖像画が制作され「ほどなく、ソ連のすべての学校、役所、工場、鉱山、

そして集団農場の壁にスターリンの肖像画が掲げられ、

重要な記念日ともなればかならず『われらが最愛の指導者』に向けて大仰な敬意」が捧(ささ)げられた

(A・ブロック『ヒトラーとスターリン』草思社)。

 引きこもり型の独裁者にとっても肖像画は必要だった。

そして歴史が教えるのは、「指導者の顔」がいたるところにあふれる国に暮らす人々は、

苦難の道を歩んでいることが多い、ということだ。

 北朝鮮で「指導者の顔」が一部撤去されたという報があった。

はたして世界史の教訓をくみとったうえの動きなのかどうか。





独裁者は自分が独裁者で人々に嫌われていたと感じていたのだろうか。

それはないと思う。少年の頃ヒットラーの自伝を読んでヒットラーのように立派な人間になろうと

感じた事があった。だから多分独裁者は孤独でないのかもしれない。

丁度今のブッシュのように情報が伝わらずに自分の身内で固めて聞きたくないことは情報をシャツとしているのかも

知れない。北朝鮮の金日正の方には独裁者のイメージがつたわっているのかも知れない。





人間を追いつめ、
命をもてあそぶかのように
戦場の惨事が続いている。



11月25日の天声人語より


 米兵から治療を受けたイラク人を、翌日は別の米兵が射殺する。

「こいつ、死んだふりをしている」と叫び、イラク人を撃つ場面が撮影されたという。

 「体に爆弾を巻き付けたゲリラが、死んだふりをして兵士をおびき寄せ攻撃することがある」。

このファルージャでの事件を捜査する米海兵隊側はこう述べた。

想像できないようなことも戦場では起きるだろう。

しかし撮影したフリーランスの記者は「イラク人は呼吸以外、どんな動きもしていなかった」と記している。

 太平洋戦争中のフィリピン・ミンドロ島で、米兵を発見しながら撃たなかったことを、大岡昇平は「俘虜記」に書いた。

「人類愛から射たなかつたことを私は信じない。

しかし私がこの若い兵士を見て、私の個人的理由によつて彼を愛着したために、

射ちたくないと感じたことはこれを信じる」


 「俘虜記」の表題には歎異抄の「わがこゝろのよくてころさぬにはあらず」という一節が添えられている。

宗教思想史の笠原芳光さんは、殺さなかったのは、良心からではないと言いたかったのだろうと論じている。

「この小説はむしろ良心や人類愛というものが戦場では無力なものであるということを知らせてくれたことに意味を持っている」

(『兵役拒否』青弓社)

 イラクへの従軍を拒否してカナダへ逃れた米兵の記事が載った。

3年前に志願したが、訓練で「殺せ!」とたたき込まれ、違和感を覚える。

「相手を人間だと思う限り、殺せない」

 人間を追いつめ、命をもてあそぶかのように戦場の惨事が続いている




戦争は狂気を生み出す。多勢を殺せば英雄である。英雄になるように教育されるのが兵士である。

平時に一人の人を殺せば殺人犯である。数人の人を殺せば殺人鬼でひどく恐れられ獣のように感ずる。

戦争での殺人は反って賛美され英雄視され伝わる。ただ人を殺すという行為がこのように違ってくるのが

戦争である。戦争は非人間的行為を強制するものである。殺す相手も全く見ず知らずの因果の関係を持たず

敵味方で憎しみ合う場所を提供する所の争いである。

絶対に人間にとって好ましい戦争なんか絶対にありえないものである。





今日が三の酉である


11月26日の天声人語より


 〈二の酉やいよいよ枯るる雑司ケ谷 石田波郷〉。

先日の二の酉(とり)の頃、東京では木枯らし1号が吹いた。

樹木の多い雑司ケ谷に限らず、街中で、さかんに枯れ葉が舞う。

 日比谷公園の「郷土の森」にも、ケヤキやイチョウが散り敷いている。

全国の都道府県や指定市から寄贈された木を植えた一角だ。

沖縄のリュウキュウマツから北海道のエゾマツまで、1本ずつ立っている。

 官庁街の幹線道路の近くで、排出ガスをかぶる。

郷里の清浄な空気や気候とは随分違う環境の中で生きるのは、なかなか骨だろう。

去年は青森のヒバが枯れたという。

 地震のことを思いながら新潟の木を探すと、高さ2メートルほどのユキツバキだった。

葉は緑が濃く、つややかで元気そうだ。葉の間に、小指の先ほどのつぼみが見える。

百個以上はありそうだ。雪国に春を告げるというツバキに、隣の福島のケヤキが、そっと散りかかっていた。

 〈世の中も淋しくなりぬ三の酉 子規〉。

三の酉まである年は火事が多いなどともいうが、今日が三の酉である。

枯れ葉の街に、熊手が行き交うことだろう。

これからは気温が下がり、冬の気配が感じられるようになるはずだが、

夏の力が異様に強かったのが気がかりだ。


 ――来年は、一つ、一しょに行こうか。――どこへ? ――酉のまちへさ……。

軽妙な会話に乗せて男女の機微を描いた久保田万太郎の短編「三の酉」(講談社文芸文庫)の一節である。

しかし、女は翌年の酉の市が来るのを待たずに他界する。

末尾に、一句が置かれている。

たかだかとあはれは三の酉の月。





暦で二の酉とか三の酉があるのを知らなかった。昔の智慧か三の酉の年は火事が多いらしい。

なんとなく聞いたことがあったが,このように正面から相対した事はない。

何故有るのだろうかと疑問が湧く。

昔の人たちは風流である。情緒があつた。欧米文化に汚染されていない時代のころの日本の話しである。






寛容、そして平和を説き続けた
エラスムスはオランダの人だ。


11月27日の天声人語より


 宗教戦争だけは避けなければならない。

欧州の多くの人々は血塗られた歴史から、痛切に感じているはずだ。

宗教戦争の時代の16世紀、かの地は憎悪と報復とが渦巻き、国土は荒れはてた。

 「キリストの何よりも忌み嫌われた戦争が、

ほかならないキリスト教徒の間でとびきり華々しく繰り拡げられているのを目撃している限り、

彼らトルコ人がキリスト教を信じないのは当然の話です」。

異教徒もあきれる、とエラスムスは、キリスト者の立場から和平を説き続けた(『平和の訴え』岩波文庫)。

 彼は従来の教会を批判したが、新教徒とも袂(たもと)を分かち、

双方から裏切り者とみなされる場所に自分を置いた。

両者に反省を求める人間が必要だ、と考えた。

「嘲罵のなかで、忍苦してその哀れな立場を守り続けるのです」とは渡辺一夫の言である

(「エラスムスに関する架空書簡」)。

 寛容、そして平和を説き続けたエラスムスはオランダの人だ。

現代オランダも寛容の国とも開かれた国ともいわれてきた。

しかし最近、極めて不穏な空気が流れている。

 画家ゴッホの遠縁にあたる映画監督テオ・バン・ゴッホさんが今月初めアムステルダムで暗殺された。

彼のイスラム原理主義批判に反発したイスラム過激派の犯行とみられ、モロッコ系移民の青年らが逮捕された。

その後モスクやキリスト教会への放火が続く。


 欧州に広がる移民排斥の動きがイスラム排除と重なり、過激派のテロを誘発する。

そんな悪循環が懸念される。


「寛容の国」が他国の手本になるような対応を見せてくれないものか。



テロ 過激派 武装集団 キリスト原理主義 アラブ原理主義など嫌な記事を目にしない日はない。

それぞれ行動する人たちにとって理由は有るのだろう。

でも仏教思想では敵を怨むことをいさめている教えが多い。戦いで無常を感じ出家した武士もいる。

第二次大戦中 戦死が美化され戦争で死を恐れない人間を作るための教育が行われていた。

いちぶには「修身」という科目が小学生に課せられたのが戦後なくなり,道徳を教える機会がなくなつた。

だから道徳は家庭の役割となり道徳を教わらない子供たちや 教わらずに大きくなった大人による犯罪が

増えている。よい意味の「修身」の教育の復活があってもよいと考える。




島田さんは、その後も
一人芝居を続けてきたが、
ついに98歳で逝った。



11月28日の天声人語より


 若き日の緒形拳が絶叫した。

「もう我慢ができない、下男をしにきたのではないのだ、役者になりたいのだ」。

押しかけて新国劇に入ったが、芝居より、罵倒(ばとう)されたり殴られたりの日々に耐えかね、総会で叫んだ。

この時はクビを覚悟した緒形さんを抜擢(ばってき)してくれたのは、島田正吾さんだったという(『新国劇七十年栄光の記録』)。

 大正時代に沢田正二郎が始めた新国劇が70年の幕を閉じて解散したのは、昭和という時代が終わる少し前だった。

島田さんは、その後も一人芝居を続けてきたが、ついに98歳で逝った。

 95年、岐阜県美濃加茂市の坪内逍遥大賞を受けて述べた。

「新国劇の紋所は、落ちても落ちても柳に飛びつくカエルでございます。

不撓(ふとう)不屈の沢田精神でございます」。


カエルは、沢田の語録の「右に芸術、左に大衆、かざすマークは柳に蛙」に由来する。

 96年の一人芝居では、「99歳の一人芝居」を演じたいとあいさつした。

演目は決めてあるが「その芝居が何であるかは、今は白状いたしません」。

重厚であり、観客を人情の根本へといざなう芸風でありつつ、どこかに、いたずらっぽさと熱い心を宿す青年の面影があった。

 「いつもげんきな いうこちやん よくたべよくねて よくあそぶ」。

秋山ちえ子さんが島田さんから聞き書きをした時、

長女林右子(ゆうこ)さんが見せた島田さん手書きのカルタの1枚である(『芝居ひとすじ』岩波書店)。

「くらいみそらの ながれぼし いうこのすきな ほしのうた」

 大きくて明るい星が、長い尾を引きながら、旅立っていった。





96歳まで生きること自体が天才である。そして99歳でも一人芝居したいという意欲に感激する。

80歳半ばをすぎてくると人は意欲が落ちるひとが多い中で大変な人物である。

見習いたいものだ。





一人ひとりに名前があり、
死の重みがあることを想像してほしい


11月29日の天声人語より


 最近の言葉から。新潟県中越地震は、伝統の麻織物「小千谷縮(おぢやちぢみ)」の産地も直撃した。

「これをやっている時はいい糸をつくろうと思うだけ。

他のことを考えることもないし、気持ちが平らになる」。


縮のもとになる糸作りの第一人者、片岡ハナさん(89)。

身を寄せた娘夫婦の家でも、糸を紡ぎ続けた。

 「ファイト! 小千谷!」の焼き印を押して、名物のたい焼きが復活した。

「真っ暗だった心に一筋の光が差したようでした。

みんなが落ち込んでいる時こそ先頭に立たなくては。やってみようか、と」。


星野洋子さんが、被災した友人や従業員、家族に励まされ思い立った。

 「めぐみちゃん、こんなところにいたの」。

横田早紀江さんは、北朝鮮から政府代表団が持ち帰った写真に話しかけた。

「こんなところ」がどこなのかすらも不明のままだ。

 ジェンキンスさんが釈放された。軍法会議での曽我ひとみさんの証言。

「家族の小さな幸せをもっと大きな幸せに出来るよう、今、私はそれだけを願っております」

 イラクのファルージャでは「総攻撃」が行われた。「私たちは死の数にマヒしている。

一人ひとりに名前があり、死の重みがあることを想像してほしい」。


イラクを取材するフリージャーナリスト、土井敏邦さんが大阪市内の集会で。

 北大教授の山口二郎さんが述べる。

『国策は人命よりも優先する』という考えにこの国の権力者が転向するとき、

我々はどのような生き方をさせられるのだろうか。

国策に逆らった者の生命は救わなくても当然だという国にしてはならない」





言葉には命があり生きているというのは真実である。言葉により勇気が湧き逆に萎縮したりして

人々の行動に反映してゆくものだ。





先生が針を下ろしたベートーベンの
「運命」に圧倒された。




11月30日の天声人語より


 めったにはないが、鳥肌が立つことはある。

記憶に残るもので古いのは、約40年前の中学校の音楽室での体験だ。

先生が針を下ろしたベートーベンの「運命」に圧倒された。

誰の演奏かも知らなかったが、新しい世界を垣間見るようで、ぞくぞくとした。

第1楽章だけで、休み時間となった。 「第4楽章まであって、素晴らしいの」。

先生の言葉が胸に残った。後日手にしたカール・ベーム指揮の「運命」を繰り返し聴いた。

しかし、大人の年に近づくにつれて、間遠になった。

 先日、久々に聴いてみた。ベームのレコードは、もう手元にはなく、フルトベングラー指揮のCDである。

今年は、この20世紀を代表する指揮者の没後50年で、今日が命日にあたる。

 録音されたのは、ドイツの敗戦から2年後の1947年5月だ。

連合国側から彼にかけられていた「ナチへの協力の疑惑」が解けて初めてベルリン・フィルを指揮した。

「演奏が終わったとき、喝采(かっさい)は何時はてようともしなかった。

もう聴衆はこのホールから出て行かないのか、と思われるほどの場面が長く続いた」(『フルトヴェングラー 音楽と政治』みすず書房)

 拍手や歓呼はCDには入っていないが、敗戦の悲惨のなかにある市民の熱狂ぶりは十分に想像できた。

苦難の中で生きることに力を添えるような演奏にも打たれた。

巨匠自身の解放の時だったのかも知れない。

「さあ前へ、前へ進め」と聞こえるベートーベンの旋律は、昔日の感動を思い起こさせた。

 鳥肌こそ立たなかったが、これからも時に聴こうと思った。




この文章を読み医学者で解剖学者 京大総長だった平沢興さんを思い出した。

先生は非常にベートベンを好んで本に書かれていた。ベートベンの声が時に聞こえてきて

勇気が湧いてきたとの内容のように記憶している。ベートベンは色んな人に色んな形で

感動を与えてくれた天才だったと思う。



宗教


世界の宗教は世界三大宗教でキリスト教 イスラム教 仏教がありその他にユダヤ教 バラモン教 ヒンドゥ-教がある。

世界宗教に対して各国に民族宗教がありユダヤ教 バラモン教 ヒンドゥ-教がそれに当たり,日本の神道もそれにあたる。

イラク戦争で特に宗教が注目されるようになった。又アメリカ大統領選挙でもキリスト原理主義者でそしてブッシュが熱心な

キリスト教信者でますますに注目されるにいたり,イラク戦争後のイラクの争乱は

イスラム原理主義者とキリスト原理主義者との争いまでにいわれるようになって来た。

宗教ほど一つ間違えると恐ろしいものはない。イラク パレスチナで自爆テロが頻発し聖戦(ジハード)と

叫ばれジハードすることにより天国にゆかれるとかで死を恐れずに自殺行為でもつて爆弾を抱え目的人物や建物めがけ

爆発させ死んでゆく若者達が多い。

第二次大戦中戦争の最終局面になってから,日本でも爆弾を抱えた特攻機で特攻隊員として相手の艦船に体当たり攻撃をし

桜のようにいさぎよく散り靖国神社で再び会おうと若者達が死んでいった。

お国の為に天皇のために多くの青年がなんの疑いももたずに死んでゆき,そして靖国の神として祭られている。

この間のアメリカ大統領選挙で牧師が説教でブッシュ支持を示唆し,多くの信者に投票を呼びかけ,それに随っての投票でもって

ブッシュが大統領になれたとも言われている。

宗教は常に一歩誤るととんでもないことを起こす可能性を秘めている。

日本でのオーム真理教の事件はその典型的な出来事である。今もその裁判が続いてる。

それでもいまだにオーム真理教をアーレフと名称を変えながらも若者達を集め麻原彰光を教祖としてあがめながら存続しているようだ。







パソコンのことなど

ハソコンを使いだしてからどのくらい経つのだろうか。

最近一日一回はパソコンの前に座る習慣がついている。

この原稿もパソコンの文章作成ソフトの「ワード」を使って書いている。

原稿用紙で書く必要があるならば大変に面倒なことになりそうだ。

医療事務で使うレセコンもパソコンで,今となるとレセプトを手書きするとなると大変なことで

不可能に近い状態ではなかろうか。

それほどパソコンは生活全般に密着して来ている。

もしパソコンがなくなると,どんなにか不自由な生活が強いられそうである。

以前情報の入手方法としてパソコン通信があって,一つのプロバイダーと契約し,

そこに接続,いろんな話題のフォーラムに入って情報を得ていた。

一極集中型の情報のやり取りで,そこに登録している人たちの間でしか情報交換はできなかった。

だが現在はインターネットが急速に発達・普及してきている。

情報も日本国中はもちろんのこと世界中の情報が瞬時に得られるようになり,世界中で情報が飛び交っている。

そして自分でホームページを作製して容易に情報を発信することもできるようになった。

インターネット上でのメールのやり取りができるようになってから,以前のように手紙を書く機会もすくなくなってきている。

だが相手の方から手紙をもらった場合はやはり手紙でもって返事を書いている。

その時もパソコンを使用するが,ただ書く手紙とは違い写真とか図など

簡単に貼り付けられるから内容が多彩で楽しいものに仕上げることができる。

しかし肉筆で書かれた手紙の方が親しみとか暖かみは感じられる。

「日本最初のホームページ」を紹介しているホームページがあり,以下はそこから引用した。

日本最初のホームページは、

1992年9月30日に茨城県つくば市にある文部省高エネルギー加速器研究機構 計算科学センターの

森田洋平博士によって発信されました。

当時の森田博士の手帳から確認させていただきました。

また、上記のサーバー世界地図は、

1992年に書かれたティム博士の論文(CERN92-07 21Dcember1992)からのもので当時世界にあった

サーバーの位置が記されております。

日本の部分には、KEKと記されているのが確認されます。

次ぎに「めかたホームページ」の中で紹介している宇治の風景の一つで以前撮影したところの宇治川の風景です。

これらはコピー・貼り付けでもつて容易に書くことができ,図とか写真を簡単に付け加えることができます。

「日本最初のホームページ」によると本格的にインターネットができ利用されてから,まだ12年位の歳月しか経っていない。

でも今では沢山のホームページが世界中で氾濫している。

当然の事だが日本を含めて世界中の人々が善意の人達ばかりだけではないことをついつい忘れがちになってしまっている。

インターネットに接続した初めの頃,一度ひどい目に会った事がある。

アメリカのサイトで面白そうな記事がありダウンロードし開けた途端に,ガシヤンといった大きな音がし,

パソコンが壊れたのではないかと思う程に,何もかもが吹っ飛んだ感じで,システムが壊れてしまった。

それを復旧するのに何日もかかった覚えがある。

これは自衛隊のイラク派遣命令のように誰かに言われてのことでなく,ただ自分が好んでやったことなので,

全ては自己責任であり諦める以外に仕方ない。

以前「インターネット」という題名のアメリカ映画をDVDで見た。

インターネットが犯罪に利用されているスリラー映画のように記憶している。

その中でパソコンが一挙に壊れるシーンがあり,それと全く同じようなことが起ってしまっている。

インターネットはくれぐれも用心して取り扱わないと,とんでもない被害を被る可能性がある。

充分用心しているつもりだが,パソコンでは何か訳の判らないことが頻繁に発生してくる。

何時か,何かが起きるのではないかと思い,インターネットによる事故への不安はいつも常につきまとい用心深くなっている。

一方楽しみもいろいろある。

そのなかでの一つは,初期のころはネットサーフィンで最近は下手の横好き囲碁が好きなので時々知らない人たちとの

囲碁の対戦をインターネット上で楽しんでいます。

蛇足になりますがそろそろ伏見医報での写真のカラー化を検討していただくとありがたいです。

(図と写真は省略 伏見医報に掲載)


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