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6月になって


今年の6月は雨が少なくて暑い日が続く。いつもの年ならば,梅雨になると,雨が多く比較的涼しい日もあった。だかその雨が少ない。

そのために稲作の植え付けが出来なく困っている地方も出てきているようだ。

依然としてイラクは不安定で,サマワでの自衛隊の自動車車列狙っての時限爆弾がしかけられ自動車の一部ガラスが割れたが,

幸いに自衛隊員への被害は出なかったようだ。本当に幸いなことである。

今年の12月で自衛隊全員撤退予定だが,だだイラクでのイラク人への政権移譲ができそうにもないから,

アメリカから,撤退を遅らして欲しいとの要請があったとの報道があった。

アメリカの言うままに,いつまでアメリカのためにお付き合いだけで自衛隊派遣を続けなければならないのか,

日本は主体性をもって考えるとは政府は言ってはいるが,犠牲者が出ない限り日本の自衛隊サマワ駐留は続きそうである。

治安を担当しているのではないから,何故駐留する必要があるのかと思う。

イラクのサマワの人々にも,次第にその何のために駐留しているのかが,次第に判って来て,益々自衛隊が狙われる可能性が高くなって来ている。

郵政民営化のゴタゴタ劇が続いている。我々になにがなんだか,どのようになるのか,何も判らずに政治が行われている。

身近な声としては「健康保険料が急に値上げされて食べて行けない」との声を聞かれる。当分の我慢辛抱を説いて小泉首相の政治が発足したが、

どうも首相としての先が見えてきた時点において,国民に一挙に税金を値上げ,負担を負わせて逃げの体制に入っているようにしか見えてこない。

よくもいろんな変化をば「改革」「改革」と叫んで色んな所で行ってきたものものか,いまとなると既に行われた改革とやらが不安でならない。

その結果の予測できれば良いが,判らないことが多すぎる。丁度戦時中の政府と同じく,国民に「欲しがりません勝つまでは」を説いた政府と同じだ。

軍事費にどれだけ費やしているのか,アメリカのポチに終始した小泉首相には誰もが飽き飽きしているが。

でも自民党次期総裁候補 安部晋三氏になればもっとひどいことになると考えられる。

対等にアメリカと話し合える人が出てくるまで,日本はアメリカの半植民地国家である。

今や戦後は続き,そして戦時中に再び U-タウンしょうとしている。

アメリカの盾となりアメリカ兵の犠牲を減らすための要員として自衛隊が利用されそうな時代が来そうだ。

今イラクでの戦争 此れはブッシュが始めた戦争で,米軍は貧しいイラクの人たちがイラク軍の軍人として志願し,アメリカ軍と混成部隊を組んで

危険な仕事を負わせるよう仕組んでいるように見えてくる。アメリカの兵隊も,貧しい人たちからの志願する人たちが多く,裕福な家庭の息子たちは

ブッシュのように兵役から逃れ,アメリカの贅沢に酔いしれ遊び,アメリカ文化を享受している。

イラクの人たちはブッシュの戦争のために普通の生活が出来ない人たちが尚も続出している。

世界には貧困のために圧政に苦しんでいる国民は大勢いるが,アメリカのブッシュはそこには見向きもししようとていない。

ミャンマーのスーチンさんは長年に軍に拘束されたままだが,アメリカ政府は知らん顔である。

産油国が故にブッシュにイラクは目をつけられ,イラク国民に争乱と混乱な生活を強いているしか思えない。

それもイラクの民主化とか正義のための美名のもとにである。

国連活動をもっと強化し,世界の軍隊を一つに,巨大なアメリカの軍事力など,すべての世界各国の軍隊が国連の傘下に入り,

弱肉強食の世界から解放する事が真の国連の役割りであると考える。国連本部がニューヨークあるようでは,できることはしれてくる。

各国は自国の治安を保つ軍隊しか持たないようにして,助け合いの世界が国連の元になる時代の来ることを願うものである。

日本で小泉首相によって民営化,民営化が叫ばれているが,なにも民営化がすべて良好な解決方法とは思えない。

終に戦争の民営化,戦争請負会社jまでが出現していることが,その良い証拠である。

戦争がなければその会社がつぶれ,破産するということであろう。

世界に戦争が世界のあちこちに多く起これば起こるほどに商売が繁盛してくると考えれば,ゾーとする話ではないでしょうか。






「伝説の大関」貴ノ花・二子山親方が



6月1日の天声人語より


 半畳とは、元は江戸時代の劇場で見物人が敷く小さな畳やゴザだった。

「半畳を打つ」は、半畳を投げて役者への不満や反感を表すことだ。

 しかし、その時に舞った座布団は不満からではなかった。

「場内のお客さんが、天井が見えないぐらいに座布団を投げあげていた。

多くの貴ノ花ファンにとって待ちに待った優勝だったのだなと思った」。

貴ノ花が初優勝を決めた一戦で、敵役となって敗れた北の湖(日本相撲協会理事長)が回想する。

75年春場所だった。

 この直後に出た『貴ノ花自伝 あたって砕けろ』(講談社)には、こうある。

「物心ついたころから『若乃花の弟』といわれるのがいやでした」。

しかし15歳の春、親方になっていた元横綱若乃花に弟子入りを願い出る。

兄は断ったが母が助け舟を出した。

 兄は厳しく言い渡す。「きょう限りで、お前と兄弟の縁を切る。

あすからは親方と、ただの新弟子でしかない」。

弟はひたむきな精進で一直線に番付を上っていった。

 しかし十両優勝後のある朝、二日酔いで稽古(けいこ)をさぼる。

「『この野郎、いい気になって……』。私は持っていた青竹でメッタ打ちにした。

青竹はバラバラになり、あたりに血が飛び散った」(
『土俵に生きて 若乃花一代』東京新聞出版局)。

 「土俵の鬼」と言われた兄は「栃若」時代を築く。弟は「柏鵬」時代以降、小さな体で真っ向勝負を貫いた。

そして子を「若貴」の両横綱に育てあげた。


戦後の角界に長く大きな貢献をした「伝説の大関」貴ノ花・二子山親方が、惜しくも55歳の若さで逝った。



貴ノ花・二子山親方が、惜しくも55歳の若さで逝ったのは本当に惜しい。あまりにも若すぎる。

運命と言えば仕方ないことだが,子供達の為にも長生きしてあげたかった。

兄弟喧嘩が週刊誌で面白く報道されている。有名人だが仕方ないといえばそれまでだが,

テレビで見る貴ノ花親方は弟子に対して厳しくて,それらしく努力しているのが認められる。

若くとも親方の名がつけばそれなりに立派である。





ウォーターゲート事件報道の情報源だった人物を指す
「ディープスロート」の正体である。



6月2日の天声人語 より


 「その話は墓場まで持ってゆく」。世間では、なかば冗談で言うこともある。

 冗談ではなく、その人物が墓場に行くまでは明かされないはずだった秘密が、突然明かされた。

ニクソン米大統領が辞任に追い込まれたウォーターゲート事件報道の情報源だった人物を指す

「ディープスロート」の正体である。


 事件当時、連邦捜査局(FBI)の副長官を務めていたマーク・フェルト氏、91歳だった。

自宅で手を振る姿は、さすがに老いを感じさせるが、当時は50代後半だった。

 ディープスロートは、ワシントン・ポスト紙のウッドワード、バーンスタイン両記者が事件の報道過程を書いた

『大統領の陰謀』(立風書房)に繰り返し出てくる。

ウッドワード記者と駐車場などで会い、民主党全国委員会本部に侵入して盗聴器を仕掛けようとした事件の裏側を話した。

 時には、大統領の側近たちが卑劣な手段を使って権力にしがみつくあさましさを語った。

ウッドワード記者は「数々の戦闘で戦い疲れた人間の諦(あきら)めを感じた」という。

そして、ディープスロートを「賢者だと思った。冷静で、入手できる最高の真実しか信用しないような人である」と描いた。

 今回は、フェルト氏自身が雑誌でディープスロート本人と名乗ったことで、両記者も「計り知れないほどの支援を受けた」と認めた。

秘匿の約束を守り通した記者があり、記者たちを支え、政府に抗して報道を貫いた新聞社があった。

フェルト氏の33年ぶりの「告白」と笑顔に、メディアのありかたが改めて問われるような思いがした。



情報源は何時までも秘密であるべきである。政治権力によっての圧力で情報源がなくなれば,腐敗政治の安泰が続く。

今何故にを問われるべきである。

ブッシュの政権下の為なのか,情報提供した人が老齢になったためなのか。

真の民主主義が死なないことを願う。






欧州連合(EU)憲法条約についてのオランダの国民投票で


6月3日の天声人語より


 加盟する各国が、同じ一人の大統領をもつ。

そんな「欧州大統領」の誕生を盛り込んだ欧州連合(EU)憲法条約についてのオランダの国民投票で、

反対票が約6割に達した。

 フランスでの国民投票に続く「ノーの連鎖」となった。

早足で進んできた欧州統合だが、両国民は、やや手綱を引くようにと意思表示したかに見える。

 衆院憲法調査会の資料で、EU憲法条約を読むと、前文には歴史を顧みる一節があった。

「辛苦の諸経験の後に再び合同した欧州は、最も脆弱(ぜいじゃく)苦難の身にある住民におよぶすべての住民の幸福のため……」。

戦争は、勝っても負けても悲惨な結果をもたらす。

勝者はいない。


手をたずさえて歩むしかない。そんな思いがにじんでいるようだ。

 EUが基礎に置くべきものとしては「人間の尊厳、自由、民主主義、平等、法の支配、

少数者である人々の権利を含む人権の尊重」とある。


こうした基本理念では合意しながらも、それぞれの国民感情や、自国の政治への評価の違いなどが、

国民投票の結果に映っているのではないだろうか。

 25カ国にまで拡大したEUだが、欧州とアジアの境目にあるトルコの加盟を巡って見方が分かれている。

今回の「ノーの連鎖」は、秋から始まる加盟交渉に響くかもしれない。

 ヨーロッパという言葉は、ギリシャ神話のフェニキア王の娘エウロペから来たとの説がある。

エウロペは牛になったゼウスにさらわれる。


歴史的な「平和な統合」を試みる現代のエウロペの方は、足元をよく確かめながら、

行き先を見定めてもらいたい。



フランスに続いて,オランダでも欧州統合に対しての国民投票でノ-が勝った。現政権への不満が原因だったら

大変に残念な事である。欧州が一つになり,アジアが一つになり,そして南北アメリカ,アフリカが一つにまとまり

最終的に一つの世界が出来て,戦争のない世界を夢みたのだが,ヨーロッパで出来ないならば,前途多難である。

でも世界は理想に少しでも近ずいてほしいものである。






生後すぐ産院のミスで自分と入れ替わった相手だ。


6月5日の天声人語より


 「昭和33年4月、東京の都立墨田産院で生まれ、O型かB型の男性はいませんか」。

福岡市に住む47歳の男性が懸命に人捜しをしている。

生後すぐ産院のミスで自分と入れ替わった相手だ。

 両親と弟の4人暮らしだった。8年前、母が入院して初めて血液型が判明した。

B型という。父はO型だから自分がA型なのはおかしい。

「若いときに浮気したのか」。問いつめて母を泣かせた。

 親子で数年間悩んだ末、一緒にDNA鑑定を受けたのは昨春のこと。血のつながりはないと言われた。

男性は産院を運営した都を提訴した。

先日の判決で、東京地裁は取り違えがあったと認めたが、賠償請求は退けた。

 『ねじれた絆(きずな)』(文春文庫)で取り違え児の苦悩を描いた作家、奥野修司さんによると、

同種の事故は昭和30年から50年代に見られたという。

「どこも新生児室が満員で、名札や名入りの産着がよく入れ替わった」。

幼児期に発覚して、ものごころがつく前に親元へ戻されて決着をみた例が多い。

 墨田産院は17年前に閉鎖されている。

閉院時に刊行された『記念誌』には、36年に及ぶ分娩(ぶんべん)記録がある。

当時は毎日3人ほどの出産があったが、原告が生まれた年の4月前後だけなぜか記載がない。

「カルテ紛失のため」という注記があるが、いかにも不自然に見える。

 運命のむごさを思う。入れ替わった相手はだれか。

気づかずに暮らしているのか。実の親は健在か。

敗訴してなお原告は親捜しに必死だが、育ててくれた両親は違う。

「今さら調べ尽くして幸せになれるのか」と消極的だという。



産院で取り替えられて違った両親のもとで育てられ,或る日真実が判った人の気持は複雑であることは理解できる。

産みの親か育ての親か,血液型が判らない時代ならば何事もない話である。

科学が進歩していたための悲劇とも言える。これだけてなく科学が進歩したための悲劇はもっとあるのかもしれない。

科学にも表があれば,必ずにその裏面が在ると言う事かもしれない。






涼しくて、デザインもかわいい、ミュールという突っかけが音源である。


6月6日の天声人語より


 ことしも「カスタネットの季節」がやってきた。カッカッ、カッカッ。

陽気に誘われるように、駅の階段や下りエスカレーターで、よく聞こえてくる。

手のひらでなく、女性たちが足元で鳴らす。そう、あのわざと響かせているような靴音だ。

 涼しくて、デザインもかわいい、ミュールという突っかけが音源である。

歩くたびに、いったん浮いたかかとが、着地する際にヒール部分を地面に打ちつけて鳴る。

歩く姿勢や速さ、体重、ヒールの高さ、細さによって、音は高くも低くもなる。

 いかに履きやすくても、本人もうるさかろう。

あまりに傍若無人ではないのか。こんなオヤジの小言を口にしたら、同僚が教えてくれた。

彼女たちは「カスタネット娘」とか「カンカン女」と呼ばれているのだ、と。

 名前がつくほど広がったからだろう、あの音を防ぐ商品がよく売れている。


かかとの部分に張る両面テープ状の敷物で、足の裏が靴底から離れない。

いわば、カスタネットを閉じておく仕掛けだ。

 2年前から売り出した静岡市のメーカーの場合、27歳の女性社員のアイデアだった。

ミュールでも走りたいと考案したら、防音効果も大きかった。いま特許出願中だ。

今春から別の会社も参入している。靴の騒音は改善されるかもしれない。

 そう思って列車内を見渡すと、大声で話す「ケータイ君」もヘッドホンをつけた「シャカシャカ虫」も減った気がした。

ほっとした気分で降りようとしたら、ドアの前で動かない男性がいた。

まるで「お地蔵さん」だ。静かでも、乗り降りの邪魔だってば。



ミュールという突っかけがあることも知らない。下駄のカランコロンと鳴らして歩いていた昔を思い出す。

普段殆ど下駄履きの人はみない。京都祇園の芸子さんか舞妓さんの世界のことしかおもえてこない。

ミュールがあるとはもっと観察力を研ぎ澄まし見てみよう。






全国各地の道路でみつかった謎の金属片は、


6月7日の天声人語より


 故意に仕掛けられたのか、あるいは事故でできたのか。

全国各地の道路でみつかった謎の金属片は、

ガードレールにぶつかった自動車の車体の一部という見方が強まっているようだ。

 衝突した形跡が無い所とか、金属片がねじこまれたような個所もあるという。

従って故意説も捨てきれないが、もし金属片の多くが事故によるものとなれば、

故意による犯行とはまた別の、深刻な問題が浮上する。

 金属片に気付かずに走り去ることもあるだろう。

ガードレールにぶつかった後、届けを出さなければ「当て逃げ」の疑いが出てくる。

運転者にけがもなく、車の損傷も小さいとなれば、届けを出さない方に流れてしまうのかも知れない。

 刃物のようなものが残っても、それで将来、運転者本人が傷つくことは、まずない。

いつの日か、現場に潜む危険を知らずにさしかかる歩行者などにまでは思いが及ばず、

あるいはそうなっても自分とはかかわりがないなどと、無責任な考えに陥るかも知れない。

 金属片は、全国の万を超える個所でみつかった。長く放置されていたらしく、さびたものもある。

その群れは、「道路は車のもの」といった運転が横行する車社会に突きつけられた刃(やいば)のようにもみえる。

 この国には7千万台を超す車があり、日々走り回っている。道路を造り、管理し、

事故を扱う部門で、路上の刃はどう扱われてきたのか。

放置されてきたのはなぜか。


そして車の業界では、車体の一部が刃になりうることをつかんでいなかったのだろうか。

謎はそちらの方にも向いている。


全国各地の道路でみつかった謎の金属片がテレビ写真で観る限り自動車の破片とは見えてこない。どうもその多さからして

ガードの不良欠陥品ではないかと考えたりする。

余りにも多すぎて今までに誰もがきずいていなかったのが不思議である。

そんなに自動車が衝突しただけでできたとは考えられない。もし意図的ならば犯罪である。

科学的に納得する説明がほしいものである。






単独無寄港世界一周では最高齢という


6月8日の天声人語より


 日本人が初めて世界を一周したのは、江戸後期のことだった。

鎖国の時代で、旅でもなければ貿易でもなかった。

 1793年、今の宮城県の石巻から米を積んで江戸に向かった千石船・若宮丸は、嵐に遭って北へ流された。

アリューシャン列島に漂着し、後に乗組員はロシアを横断することになる。

そして、ロシアの船に乗せてもらい、大西洋、太平洋を航海、石巻を出てから11年後に長崎にたどり着いた。

最初の乗組員16人のうち、故国の土を踏んだのは4人だけだった。


 漂流に始まる過酷な世界一周から約200年がたつ。

今では、何度か世界一周を繰り返す人も少なくない。飛行機なら数日でも可能になった。

しかし小さなヨットで、しかも独りだけでとなれば、今も大きな危険をはらむ冒険だ。

 単独のうえに無寄港という試みに、ふたりの日本人が相次いで成功した。

ふたりとも、年齢の上では若い方ではない。

6日に帰港した斉藤実さんは71歳で、単独無寄港世界一周では最高齢という。

7日にゴールに入った「太平洋ひとりぼっち」の堀江謙一さんは、66歳になった。

周りの支えがあるとはいえ、ふたりの元気な姿と笑顔は、人間ひとりが備えている力の大きさや勇気、不思議さを思わせる。

 堀江さんは、96年には空き缶を再利用した船体で太平洋を横断した。

その時、「太平洋を渡りたいから渡った34年前と、気持ちは同じです」と述べている。

 人生は、航海になぞらえられる。そのせいか、「渡りたいから渡った」という言葉は、決然として潔く、そしてまぶしい。




何のために単独無寄港世界一周されるのかはわからない。登山家は其処に山があるから上るとかは聞いたことがある。

同じ事で,そこに世界一周できる海があるからの答えが返ってくのるかもしれない。

確かに人生と同じである。




異様な無観客試合を見事に制して、日本代表が帰国した

6月10日の天声人語より


 本名は、アルトゥール・アントゥネス・コインブラという。

そのアルトゥールがアルトゥジーニョになり、アルトゥズィーコが簡略化されてズィーコ(Zico)になった。

後に世界中に知れ渡るこの愛称を付けたのは従姉妹(いとこ)リンダだった(『ジーコ自伝 「神様」と呼ばれて』朝日新聞社)。

 監督・ジーコの声が、タイ・バンコクのスタジアムに響いた。

からっぽの白いスタンドに囲まれた異様な無観客試合を見事に制して、日本代表が帰国した。

 サッカー・ワールドカップ(W杯)出場を決め、ジーコ監督は「日本に恩返ししたいと思っていた。

それが出来て感激でいっぱい」と述べた。一時は、監督の進退を問う声もあがった。

就任から1千余日、力を尽くし、ついに期待された結果を得たという思いが強いのだろう。

 時に、印象的な言葉を残す人だ。

「我々がスポーツをしているのと同じ時間に、人が殺し合い、幼い子どもが命を落としていることを思うと非常にやりきれない」。

一昨年3月、イラク戦争の開戦後に語った。

「私はブラジルという平和な国で育ち、愛の大切さを教えられた。

戦争の当事者たちに、愛と平和についてもう一度考えてもらいたい」


 「自伝」には、こうある。「(私を)どうか過大評価しないでほしい。

私はサッカーが好きで、そのサッカーを続けていくために人より努力と犠牲を惜しまなかっただけなのだから」

 ジーコ流とはそれぞれが「個」を磨き続けることのようだ。

世界からドイツの空の下に集う、磨かれた「個」の競い合いが楽しみだ。




サッカーは盛んである。この10年余で日本でもサッカー熱が盛んになって来た。そのために野球熱が相撲熱が薄らいできている。

ジーコー監督でなく日本の監督に率いられた日本チームはいずれやってくるものと思う。

北朝鮮との試合はテレビで観戦した。力は日本が優っている。倒れた日本選手を足蹴にした北朝鮮選手に対し,これはどうかと感じ,

あくまでスポーツはフェアに戦ってほしいものである。





6月11日を「傘の日」とする日本洋傘振興協議会の広報紙が


6月11日天声人語


 霧雨の中を歩く。傘をさすほどではない。限りなく細かい雨粒が緩やかに吹きつけてくるのが心地よい。

関東や九州北部などが、昨日梅雨入りした。傘の花咲く季節が始まる。

 「愚か者だけが人に貸すというものが三つある。

また、貸したものが返してもらえると思ったら、これほど愚かなことはない。

それは、本、傘、金だ」
。英国のユーモア作家、ダグラス・ジェロルドの言葉という(T・S・クローフォード『アンブレラ』八坂書房)。

 「名前を思い出せないが、どういう物かは言える。他人が持っていく物だ」。

米国の思想家ラルフ・エマソンが「言葉の記憶があやしくなり始めたころ」に言ったという。

被害が度重なったのか。こんなふうに言い換える人がいるかも知れない。

「名前を思い出せないが、それを無くしたくなければ、決して家の外に持ち出してはいけない物だ」

 傘は小さな別世界をつくる。「夜目遠目笠の内」という。傘もまた、その下の淡い影で人をぼんやりと包む。

 絵や文学にも数多く登場してきた。

6月11日を「傘の日」とする日本洋傘振興協議会の広報紙が、荷風の「ぼく東綺譚」を取り上げている。

「わたくしは多年の習慣で、傘を持たずに門を出ることは滅多にない」。

そんな男の傘に、「そこまで入れてってよ」と言いつつ、女が首を突っ込んでくる。梅雨の日の情景だ。

 霧雨は、いつか本降りとなった。街の並木にふりかかる。

柳が一本、ぬれそぼって立っている。柳は春の季語だが、ふと、芭蕉の一句が思い浮かんだ。

傘(からかさ)に押わけみたる柳かな



今年は雨がすくなくて,傘差す機会もないぐらいである。でも6月は雨を連想して傘は必需品である。

貸して返らないものとして本、傘、金は半分確かである。昔に比べ傘差す情緒な風景はすくなくなってきているようだ。

祇園で見る女性の傘さす風景は昔も変らない情緒がある。番傘は少なくなって殆ど祇園以外見ない。






牛海綿状脳症(BSE)の発生で、
米産牛の輸入が止まって1年半になる



6月12日の天声人語より



 精肉店で国産牛の売り場が日に日に狭くなっている。高くて品数も乏しい。代わりに豚肉が領土を広げる。

しゃぶしゃぶでもカレーでも最近は豚肉を使う人が多い。

 牛海綿状脳症(BSE)の発生で、米産牛の輸入が止まって1年半になる。

国産牛の値段は上がり続け、農水省の週ごとの調査で今月初め、最高値になった。


冷蔵ロース100グラムの小売値が全国平均で704円だった。食用牛の歴史に残る高値かもしれない。

 日本の牛肉史をさかのぼれば、白鳳から幕末まで千年を超す空白期がある。

「牛馬犬猿鶏を食うなかれ」。天武天皇が勅命を出して以降、肉食は次第に禁忌とされていく。

 日本を訪れた外国人は、肉のない食事に困り果てた。

鯖田豊之氏の『肉食の思想』(中公新書)によると、

宣教師ザビエルは「日本では家畜を食べないから口腹が満足しない」と嘆いた。

幕末の米総領事ハリスの日記にも、牛肉を食べられない切なさが随所に出てくる。

 肉食の禁制が解かれたのは明治に入ってからだ。

維新政府が盛んに勧めたが、庶民はなかなか踏み切れない。かしわ手を打ち、経文を唱えて牛肉にハシをつけた人々もいた。

牛鍋の流行をへて、牛肉は食文化に地歩を築いていく。

 米国でBSEの疑いのある2頭目の牛が見つかった。

大統領や国務長官が口をそろえて「米産牛はもう安全」などと輸入再開を迫ったはずなのに。

米国の強引さにはへきえきする。


牛丼屋に牛丼がなく牛タン店に牛タンがないのは寂しいが、やはり安全本位で行きたい。

牛の歩みと言われようと。



牛の輸出へのアメリカの執念が凄まじく感ずる。日本の信念を守って欲しい。欧米の食生活で新しい病気が欧米並に増えて来ている。

日本食の良さも考慮して,そんな危ないBSEになるような牛肉をそこまでして食べる必要はない。

適度な優秀な日本食をまじえた食生活が健康に良い事は判ってきている。






教室で炸裂(さくれつ)した爆発物は


6月14日の天声人語より


 街の至る所に、飲み物の自動販売機が立っている。

品物はペットボトル入りが増えたようだが、缶や紙パック入りのほかに、ガラス瓶のものもある。

 山口県の光高校の教室で炸裂(さくれつ)した爆発物は、大人の手のひら大で、清涼飲料のガラス瓶に、

花火の火薬やクギなどを詰めたものだったという。

逮捕された高校3年の男子生徒が、どこで入手したのかは分からないが、身近な品物が使われたようだ。

 爆発物の作り方は、インターネット上のホームページ(HP)や掲示板に相当流布している。

男子生徒も、HPを参考にしながら、市販の花火をほぐして瓶に詰めたことを認めているという。

 人が、何か「良くないこと」を考えたとする。

次に、可能かどうかや方法を夢想するかもしれない。

しかし、ほとんどの場合は、それまでで終わり、実行は踏みとどまるだろう。

それによって、この世の中は保たれている。

 しかし、中には実行する方へと傾く場合もある。

爆弾のようなものに心ひかれている時に作り方を知れば、まねをすることは十分考えられる。

世界に張り巡らされたインターネットは、人を犯罪に導き、そそのかすような陰湿な面を備えている。

 梶井基次郎の「檸檬(れもん)」には、時限爆弾に見立てた檸檬を、書店の棚の本の上に置いて立ち去る場面があった。

檸檬は、読み手の想像の中で炸裂し、鮮烈な印象を残す。


今回、なぜ炸裂が現実の中で起きてしまったのか。

踏みとどまらせる機会はなかったのだろうか。

社会全体に突きつけられた問題として、丁寧に跡付けてゆきたい。



犯罪も進化し,進歩してきている感じがする。昔では考えられない事が起きるような時代になって来た。

そんなものは空想の世界だけで起きて,自制心のある子供への教育をすすめられる事を願うものである。 





両生類のサンショウウオは夜行性で、
水中にひっそりと暮らしている。




6月15日の天声人語より


 〈泥いろの山椒魚(さんしょううお)は生きんとし見つつしをればしづかなるかも〉。

斎藤茂吉の歌集「赤光」の中の一首である。両生類のサンショウウオは夜行性で、水中にひっそりと暮らしている。

 鳴くこともない静かなサンショウウオが、川の堰(せき)を懸命にはい上がろうとしているという。

兵庫県豊岡市の出石(いずし)川でのことだ。

ある夜は、体長40〜70センチぐらいのオオサンショウウオ10匹ほどが、高さ約1・5メートルの堰のすぐ下に居たという。

 流れに逆らうように短い手足を動かし、時には立ち上がるようにして堰にはりつくが、長くは続かない。


姿形も独特な、国の特別天然記念物の「生きた化石」が、力を尽くして「生きん」としているかのようだ。

 県では200匹以上のオオサンショウウオを確認した。周辺では、改修工事が予定されている。

近く、池や養殖場のようなところに保護するという。

 この両生類最大の生き物を西欧に紹介したのは、シーボルトだった。オランダ商館長が江戸幕府を表敬するのに随行した際、

鈴鹿峠の辺りでオオサンショウウオを手に入れた。

江戸へ行き、長崎へ戻り、海路オランダまで生きたまま運んだという。

合わせて4年以上も飼っていた(小原二郎『大山椒魚』どうぶつ社)。

 「山椒魚は悲しんだ」は、井伏鱒二の「山椒魚」の書き出しだ。

岩屋の出入り口より頭が大きくなって閉じこめられた山椒魚の物語には「ああ寒いほど独りぼっちだ!」の一句もある。

独特のユーモアと哀感のこもる作品だが、出石川の方では、「山椒魚は喜んだ」となってほしい。



山椒魚は昔から日本人に親しみのある動物で,擬人化されることもしばしばである。

天然記念物は充分な保護を政府も忘れずに行って欲しい。






「国会特別手当」


6月16日の天声人語より


 国会の「乱闘手当」が廃止されるという。国会開会中に「勤労の強度が著しい事務」に従事した職員に支給する

「国会特別手当」である。支給が決まったのは、日米安保条約の改定で与野党が激しく対立する60年の6月だった。

 そのころは、改定反対のデモが何度も国会を取り巻いていた。

そして15日の夜、南通用門から構内に入ったデモ隊の中にいた樺美智子さんが、警官隊との衝突の中で死亡した。


東大4年で、22歳だった。

 樺さんの母光子さんは「週刊朝日」に手記「遠く離れてしまった星」を寄せた。

「私はしみじみ、あなたにいったものでした……『学生でありながら、勉強をギセイにするのは、いくらなんだってもったいないじゃないの』

『そうだわ。でも私たち以外のだれもやってくれない以上、仕方ないじゃないの』」

 「朝日ジャーナル」には、警棒で打たれて頭にけがをしたという学生の手記「その夜の記憶」が載った。

「ぼくは受けた傷が一生なおらず、痕跡を残してほしいと願うのです」

 45年後のきのう、国会の周辺を歩いた。

議事堂の前の通りを、修学旅行らしい中学生を乗せたバスが行き交う。

雨にぬれたイチョウが、細長い緑の傘のように連なっている。

西田佐知子が歌い、「60年安保の挽歌(ばんか)」ともいわれた「アカシアの雨がやむとき」が聞こえてきそうだった。

 樺光子編『友へ/樺美智子の手紙』(三一書房)に収められた追悼文の一編に、こんな言葉が引かれている。

「死者はわれわれを戒める」。べルリンの墓地の記念碑に記されているという。


昔の学生達には根性があった。だが,今の若者にはそれがなくなってしまった。流れとして軟弱化されてしまったのか。

現代の時代の流れは軽さが目に付く。

イスラムでの欧米の暴虐さが,テロとして世界に蔓延しそうな気配である。対処療法ではまにあわない。

患部をえぐる根治療法が必要である。言葉だけの正義の戦争を起こしても収まらない事は誰も知っている。

世界はブッシュの横暴をとめることができなくて,テロが世界に拡散してきている。

小泉首相も早く日本国民のことを考えれば,早くポチから脱却しないと日本もテロの標的になるのは時間の問題である。







ひめゆり学徒隊の悲劇は


6月17日の天声人語より


 「荒鷲、沖縄へ反復猛攻??敵飛行場を炎上」。60年前の6月18日の本紙1面の見出しだ。

しかし現地では、日本軍が、いよいよ追いつめられていた。

 18日の夜、本島南部の地下壕(ごう)で看護活動をしていた「ひめゆり学徒隊」の女生徒や教員に、

軍からの「解散命令」が伝えられた。

「私はただただぼうぜんとなってしまいました……敵を目前にして、この壕を出て、いったいどこへ行けというのだ……」

(宮良ルリ『私のひめゆり戦記』ニライ社)。

 翌19日の未明、壕を出る時、日本語で投降の呼びかけが繰り返された。

壕の奥に移った瞬間、米軍のガス弾が襲った。生徒と教員51人のうち、生き残ったのは5人だった。

 ひめゆり学徒隊の悲劇は、十数万もの県民が犠牲になったとされる沖縄戦の象徴となった。

宮良さんたちの壕の前には「ひめゆりの塔」がたてられ、89年には、そばに「ひめゆり平和祈念資料館」が開館した。

 資料館を、今週、東京の青山学院高等部の関係者が謝罪のために訪れた。

2月の入試で、ひめゆり学徒隊の体験を聞いた生徒が「退屈だった」と感じたという趣旨を含む英語の問題を作って出した。

これを知って、資料館の語り部のひとりが述べていた。

「昔は話すのもつらかった体験を、『それでも伝えなければ』と思って語り出した。……衝撃を受けた」


 先日、沖縄タイムスに、「今年が沖縄戦終結から60年と認識している県内の高校生は6割に満たなかった」というアンケートの結果が載った。

日本全体では、どのくらいになるのかと思った




修学旅行に広島 長崎の旅行を慣例化されて,悲惨な体制下のもとで過ごした学徒のいたことを目にし耳にして

沖縄でのアメリカ軍の基地の多さを多感な年齢の時代に実感 学習するようにすすめてもらいたい。

今再び右傾化しつつある時代には是非実行され,命の大切さを学んで来てほしいものである。

戦時中の国民の命は「羽毛より軽し」で,前途ある若者達がそのように教育されて死んでいった。

特攻隊もその一つである。







アンコールワットの巨大な石造りの遺跡を
欧州に紹介したのは



6月18日の天声人語より


 フランスの文化相にもなった作家アンドレ・マルローは、22歳の時に盗掘のかどで有罪判決を受けた。

カンボジアで、アンコールワットの近郊の寺院から女神の像を盗み出そうとした。

わずかに首をかしげてたたずむ、たおやかな像だったという。

 アンコールワットの巨大な石造りの遺跡を欧州に紹介したのは、19世紀の仏の探検家アンリ・ムオだった。

「かくも美しい建築芸術が森の奥深く、しかもこの世の片隅に、人知れず、訪ねるものといっては野獣しかなく、

聞こえるものといっては虎の咆哮か象の嗄れた叫び声、鹿の啼声しかないような辺りに存在しようとは」


(『インドシナ王国遍歴記』中公文庫)。

 「地雷を踏んだらサヨウナラ」の言葉を残した報道写真家・一ノ瀬泰造が、危険を冒してアンコールワットに向かったのは73年だった。

母信子さんが編んだ『もう みんな家に帰ろー!』(窓社)に、遺跡に近いシエムレアプでの「最後の一枚」が載っている。

 風に揺らぐ木々の彼方(かなた)に遺跡の塔の先が見える。

「望遠レンズで眺めては“俺の血”が騒ぎます」。知人に書き送って間もなく行方不明となった。

 シエムレアプの国際学校が、銃を持った男たちに一時占拠された。

日本人の園児らは無事だったが、いたましいことに、カナダ人の幼児が殺された。

警察は、金目当ての犯行とみているようだ。「観光バブル」で潤う層と貧困層との差が広がっているという。

 遺跡は、時を超えて人を引きつけてきた。

「訪ねるもの」が膨らんで、人心の方が荒(すさ)んでしまったのだろうか。



アンコールワットは仏教徒にとっては聖地ともいわれ,仏教経典にでてくる祇園精舎と間違い江戸時代に訪れた日本の

若者の落書きがあるそうだ。世界遺産である。アフガンの石仏はテロ組織アルカイダにょつて破壊された。

悲しい出来事である。







「私はホタルと心中する」と妻帯もしなかった


6月19日の天声人語より


 ホタル研究家の間で、聖典と呼ばれる本がある。

昭和10年刊の『ホタル』という学術書だ。

ページを開くと、ホタルに寄せる偏執的な愛情に圧倒される。

 著者の神田左京は、相当な奇人だった。

昆虫研究家の小西正泰さんによると、とにかく偏屈で人と交わることができない。

定職定収のないまま、学界の大御所の論文でも誤りと見れば徹底攻撃した。

「私はホタルと心中する」と妻帯もしなかった。

 たえず不遇を嘆きはしたが、業績は海外までとどろいた。

英国の学界から「ぜひ会員に」と誘われ、日本の皇室からは進講を頼まれたが、「権威は嫌い」と応じない。

昭和14年、65歳で没した。


 功績の一つは、西日本と東日本でゲンジボタルの発光間隔が倍ほど違うと発見したことだ。

西では2秒ごとに光るのに、東では4秒おきなのはなぜか。

戦後の研究家は、彼が残した難題に取り組んだ。

東西の遺伝子の違いと見る説が支配的だが、東京都板橋区職員の阿部宣男さんはこれに新説で挑む。

「西でも東でもホタルは同じ。温度が上がれば明滅が早くなる」と。


 高校時代は暴走族に入り、大学は中退した。

就職した区役所でたまたまホタルの飼育をあてがわれ、のめり込む。

16年間の成果を「人の感性とホタルの光」という論文にまとめ、茨城大で今春、博士号を受けた。

「僕も研究者としては異色だけど、左京の反骨ぶりにはしびれます」と笑う。

 はるか昔からホタルは人々を魅了してきた。

先人が恋や魂を連想したように、神秘の光は美しく妖(あや)しい。

時には人の生き方すら変えてしまう。



蛍が見られなくなり,寂しい限りである。よく田圃の上で飛び交うホタルガ見かけたが見られなくなって来ている。

今ではよほどの山奥の特殊な場所に行かないと見られない。今年のように雨の少なければ余計に見られない。






AEDをご存じですか。自動体外式除細動器といっても、


6月20日の天声人語より


 AEDをご存じですか。自動体外式除細動器といっても、ますますわかりにくいかもしれない。

乱暴にいえば、心臓が突然止まった時に、電気ショックを与えて、心臓の動きを元に戻すものだ。

1年前、医師や救急救命士に限らず、だれでも使えるようになった。空港やホテルなどに置かれつつある。

 銭湯にもあると聞いて、東京・市谷の大星湯を訪ねた。

「AED」のステッカーがはられ、現物はフロント横の棚にちょこんと載っていた。

経営者の前田哲也さん(37)は「地域の人たちにお役に立てればと思って」という。

 大星湯は7年前から人工呼吸や心臓マッサージの講習をしている。

この町のために何かやれないか。若い経営者たちで話し合った時に、救命講習を受けたことのある前田さんが手を挙げた。

受講生は銭湯のお客さんたちだ。

年に数回、脱衣場が講習の場に変わる。AEDを置くのは自然な流れなのだ。

 自宅や路上で心停止をきたす人は年2、3万人といわれる。先月末と今月初めには、愛知万博の会場で、AEDが役に立ち、

男性2人が命をとりとめた。


 東京都済生会中央病院副院長で、心臓病を専門にする三田村秀雄さんは「救急車が来る前に使うのがAEDです。

将来は消火器のように一家に1台ほしい。

行政が交番や消防団員宅に置き、普及を図るべきです。そうすれば値段も下がる」という。

 買えば数十万円。レンタルしている大星湯は月約7千円の持ち出しだ。

それでも前田さんは「銭湯は深夜まで開いています。

救急の地域の拠点になりたい」と話している。



特殊な病気で,特殊な器械なので普及には時間はかかるだろう。専門の医師でないとなかなかに診断は困難で

誤って他の病気に使われることへの不安はある。安静が必要な病気に使われはしないかと思ったりする。







戦後60年になっても追悼の幅はなかなか広がらない


6月21日の天声人語より


 両の手のひらを合わせる。拝む、祈る、誓う、感謝する。

この古来のしぐさには、さまざまな意味が込められている。

 小泉首相が、硫黄島で戦没者の碑に手を合わせた。

追悼式は、2万8千人にのぼる日米両軍の戦死者の霊を慰めるものだった。

敵味方を超えた慰霊だが、現職首相の硫黄島訪問は戦後初めてだった。

首相は、23日には、沖縄戦の終結60年を迎える沖縄での追悼式に出席する。

摩文仁の丘の「平和の礎(いしじ)」には、国籍や軍民を問わずに犠牲者の名が刻まれている。

 戦後、日本での戦没者の追悼は、自国の軍人や市民に向いた。

未曽有の戦禍への追悼が、まず身内へ向かうのは致し方のないことだったかも知れない。

しかし戦後60年になっても追悼の幅はなかなか広がらない。

日本が侵略し惨害を与えた人たち全体に対しても手を合わせることが大切だ。

 〈切実な願いが吾れに一つあり争いのなき国と国なれ〉。

小泉首相は、ソウルでの首脳会談後の会見で、韓国の女性歌人・孫戸妍(ソンホヨン)さんの一首を引いた。

 孫さんは戦前に東京で生まれ、戦後再び来日して和歌を学んだ。

戦後の最初の歌集の名は韓国の国花の「無窮花」だった。

巻頭近くに「悲願」と題した歌がある。

〈東亜細亜の涯(きはみ)の国に生ひたちし吾ひたすらに平和を祈る〉。

 孫さんの歌を引いたということは「切実な一つの願い」の実現に力を尽くすということなのだろう。

ぜひそうあってほしい。そのためには、日本によって被害を受けた側の声に耳を澄ますことだ。

そして、互いに手をたずさえて歩んでいきたい。



自虐的になる必要もないが,日本も無実の大勢の人々が日本国土空襲で亡くなっている。

一発の原爆で何十万人の人たちが死んだことも決して忘れてはならない。

戦争とは惨いものであることを何時の時代へも伝えてゆかなければならない。

戦後日本は「不戦・非戦」を誓い世界でこの60年間何処の国の人たちを殺していない。

極めて稀れな事である。このことを世界に普遍化させる義務 責任を負っているのが日本ではないだろうか。






不正アクセスによる
カード情報の大規模な流出が
アメリカで起きた


6月22日の天声人語より


 郵送されてきた利用明細書に「100万リラ」とあった。

前の月に、ローマのホテルで1泊した分として印字されている。

通貨がユーロになるかなり前で、リラは円の1割弱だったが、それでも8〜9万円にはなる。

そんなホテルには泊まっていないから、すぐおかしいと分かった。

 クレジットカードの会社に連絡した。

間もなく「間違いでした」という電話があり、当然ながら銀行口座からの引き落としはなかった。

カードのデータ処理の「誤り」なのか、ホテルかどこかの「過ち」なのかは分からなかった。

 カードは便利だが、誰かがなりすまして使うこともできる。

対面しないインターネット上の売買は、カードそのものではなく、会員番号や有効期限のやりとりでも成りたつ。

 不正アクセスによるカード情報の大規模な流出がアメリカで起きた。

ネット社会のもろさを象徴するようなできごとで、被害は国境を超えて日本にも及んでいる。

米の情報処理会社が、社内に蓄積すべきでなかったカード情報を「調査目的」で記録に残したという。

不正アクセスは、昨年だったとの報もある。

流出から発覚するまでが、なんともまだるっこしい。

 芥川龍之介が「河童」に書いている。

「最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑(けいべつ)しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである」

 人間の社会の方では、カードの利用という一時代の習慣を、軽蔑しきるのも、抜け出すのも難しい。

明細書を点検したり、不用なカードを減らしたりするのが、そこそこに賢い生活のようだ。


便利なカード社会での矛盾 マイナス面が一挙に噴出した感がある。便利な高利のカードローンの家庭の崩壊が

指摘されてきていた。やはり便利さには必ず裏がある。

全てがよいことではない。昔の対面での質屋がよいが素晴らしい金融システムである事がわかる。

I T(情報技術)駆使には落とし穴がいくつもあるので,余ほど慎重で在るべきである。






6月23日は、
沖縄戦で失われた二十数万の人々を
慰霊する日



6月23日の天声人語より


 60年前の6月23日は、沖縄戦で日本軍の組織的な戦闘が終わった日とされる。

その15年後の同じ日には、新しい日米安保条約が発効した。


6月23日は、沖縄戦で失われた二十数万の人々を慰霊する日だが、

安保の名の下で、沖縄に多くの米軍基地を置き続けることが事実上決められた日でもある。

 戦後、日本が独立したのは、51年のサンフランシスコ講和条約の調印によってだった。

沖縄はこの条約に基づいて米国の施政下に置かれた。旧安保条約の調印もなされた。

 それから半世紀以上が過ぎた。冷戦が終わってからも久しいのに、沖縄の米軍基地は、

いまだに圧倒的な規模で存在している。


昨年、米軍のヘリコプターが大学に墜落したが、日本の警察は現場検証が何日もできなかった。

これでは、日本は果たして本当に独立しているのかという思いすら浮かぶ。

 沖縄に行けば、海外の戦場と直結していることを実感する。

ベトナム戦争のころは、飛び立った爆撃機がベトナムの人々を襲った。

 北ベトナムへの空爆が始まったのは65年だった。

翌年来日した哲学者ジャン・ポール・サルトルが講演会で述べた。

「知識人は、この戦争は、世界一豊かな国であるアメリカが、貧しい国に対して行っている侵略なのだということを、

暴露して行かなくてはならない」


 戦後の実存主義の代表格で、ノーベル文学賞を拒絶した。

9・11からイラク戦争に至った世界を見たなら、「嘔吐」「壁」「出口なし」の作家は、どう語ることだろうか。

80年に没したが、今月が生誕から100年にあたる。


サイパン島陥落して後の日本には勝つめどなく終戦への工作がはじまったらしい。

如何に国体護持にあるかが問題で敗戦は必至での沖縄戦はなんとも気の毒を通り越している。

今もそれがつづいているのだから本当に気の毒な話である。







酒気を帯びて議場並びに委員会に
入ることを厳禁すべし



6月24日の天声人語より


 衆議院には、「議場内粛正に関する決議」というものがある。

「議場の神聖を守るは国民の信託を受けたるわれらの最大の義務なりと信ず。

よって今後議員は酒気を帯びて議場並びに委員会に入ることを厳禁すべし」

 日付は、戦後間もない昭和23年の暮れである。

決議の少し前、国会内の食堂で、泥酔した蔵相が女性議員に抱きつき、蔵相と議員を辞職している。

昔は「良識の府」などと呼ばれていたからかどうかは分からないが、参議院の方には、同じような決議は無いという。

 半世紀以上を経て、粛正決議が突然注目されている。

先日の衆院本会議に飲酒をして出席していたとして、与野党双方の議員計18人の懲罰動議が出された。

 民主党から「飲んでいた」と名指しされた小泉首相は「一滴も飲んでいない」と、委員会で岡田代表に強く反発した。

難問が山積している この国会で、飲酒を巡る「党首討論」が盛り上がって目立つのは、いささか珍妙で、

わびしい感じもする。

 国会の「本場」といえばイギリスであり、イギリスといえばパブである。

英国議会の近くにも伝統のパブがある。

議会の空き時間には、議員たちがアルコールを楽しむという。

本会議や採決の時間が近づくと、その日程に合わせて店のベルが鳴る。

議員たちはぞろぞろと店を出て議場に向かう。

 国会に限らず、判断に悪影響が出るような酒は控えるのが、たしなみというものだろう。

しかし反論も聞こえてくる。「飲んだ方がいい判断ができる」。

人をそんな気にさせてしまうのも、酒のこわいところである。




酒気帯び国会論戦とは情けないことば議論されている。「英国議会の近くにも伝統のパブがある。議会の空き時間には、

議員たちがアルコールを楽しむという。」これは又どうしたことなのだろう。

酒気を帯びてもよいのかどうか,法律をもっと厳格にして,もし違反者らしき国会議員をみつければ飲酒運転で使われている

風船検査で厳格にチェックすれば如何だろう。そして議員停止位の処置を取るべきである。

飲酒運転の厳罰で,効をそうしている事は周知の事実である。







5歳の中学3年生が、自宅マンションの部屋で、
17歳の兄を包丁で刺し殺した容疑で逮捕された。


6月25日の天声人語より


 東京・板橋の自宅で両親を殺したあと、15歳の少年は池袋に出た。

映画館に入り「バットマン ビギンズ」を見る。

そして新幹線に乗って、長野県の軽井沢へと向かった。

 社員寮の管理人の父と母を刺すなどして殺害した疑いで逮捕された高校1年の長男の供述という。

映画は、主人公の幼い時に、両親が殺害される設定だ。少年は、どんな面持ちで映画館にいたのだろうか。

 福岡市では、15歳の中学3年生が、自宅マンションの部屋で、17歳の兄を包丁で刺し殺した容疑で逮捕された。

「兄に夜中に起こされて肩をもまされるなど、こきつかわれている」と、友人に不満をもらしていた。

 板橋の少年の方は、「父に馬鹿にされた」と供述しているという。


まだ詳しい動機は分からないが、少年による二つの事件の底には、肉親に対する日頃からの「憎しみ」があるようにみえる。

 日本の殺人事件の検挙人数は、戦後の混乱期や経済成長期を経て減少し、2000年代は1300〜1400人台となっている。

うち少年は、60年代までは300〜400人台が多かったが、70年代初めに100人台となり、2000年代は100人前後の年が多い。

 この大きな流れを見る限りでは、少年による殺人事件は、増える傾向にあるとはいえないようだ。

しかし自宅を犯行現場とし、肉親を殺害する「家庭内殺人」は、世の中に独特の衝撃を与えている。

戦後の60年で都市化が進み、都会の多くの家庭から庭が失われた。

土の庭はあってもなくても、小さな「こころの庭」があれば、と思う。



青少年の凶暴な犯罪の増加は戦後欧米文化が雪崩れのごとくに選択なくして流入してきた結果である。

効率ばかり優先しての情操教育の欠如によるものではなかろうか。







秘密結社の
クー・クラックス・クラン(KKK)の
仕業だった。



6月26日の天声人語より


 シャーロック・ホームズと言えば、難事件を解決する名探偵だ。

しかし、時には失敗もあった。犯人に出し抜かれて、助けを求めに来た依頼人が殺されてしまう。

南北戦争後の米南部を背景にした短編「オレンジの種五つ」である。

 オレンジの種の入った封筒を送りつけられた人物が、次々と謎の死を遂げる。

秘密結社のクー・クラックス・クラン(KKK)の仕業だった。

ホームズの話は物語だが、KKKは、奴隷解放に反発して白人至上主義を唱えた実在の右翼団体で、

今も小規模ながら存在する。

 この組織の名を、久しぶりに聞いた。

41年前、米ミシシッピ州で、黒人の地位向上に取り組む活動家3人が殺された。

白人の組織的犯行だったが、南部の人種差別の壁に阻まれて真相解明が進まなかった。


裁判がようやく動き出し、主犯格のKKK元幹部が有罪判決を受けたのだ。

 KKKで連想するのは、白い山型ずきんとガウン、燃えさかる十字架だが、被告席に現れたのは、

酸素吸入のチューブをはめた80歳の車いすの老人だった。

 地元では「時代は変わった。古傷にさわるな」という声も強い。

検察官は「あまりにも長い間、我々は重荷を背負ってきた」と町の汚名返上を説いた。

殺人1件につき禁固20年、合計60年の判決が出た。

被告は上訴したが、有罪が確定しても、刑期を務める時間はどれほど残されているのか。

 ちなみに物語の方は、ホームズが周到に復讐(ふくしゅう)の網を張ったが、

脱出する犯人を乗せた船は、嵐で大西洋の藻くずと消えた。

裁きは人間を超えた所から来たのである。



人間が罰しなくとも,人間を超えた所から来るというものの此れだけ長生きしての後ならば罪に対する償いに釈然としない

ところがある。kkkが今もアメリカで暗躍しているようならば,そちらの方に捜査の手を向けてほしい。

この間のアメリカ大統領の選挙をみている,とKKKより罪のある人たちが南部の白人中でいそうな感じである。

そのような人たちによりブッシュが推され当選した。なんとなく不気味である。ネオコンも同じような大犯罪集団に思えてくる。






ソウルで仕事を済ませ、夜には東京へ戻る


6月27日の天声人語より


 日韓の首都を結ぶシャトル便が8月から毎日8便に増える。

先日の日韓首脳会談で決まった。いよいよソウルが東京からの日帰り出張圏に入る。

 朝、羽田をたち、昼前に金浦空港に着く。

ソウルで仕事を済ませ、夜には東京へ戻る。その便利さは歓迎したい。


だが「せめて1泊くらいは」と願うのも人情だろう。せっかくの出張なのだから。

 昔の人も出張には息抜きを期待した。

堅物で知られた幕末の勘定奉行、川路聖謨(としあきら)の近江出張に随行した武士たちは、

川路の厳命に悲鳴を上げた。

朝寝するな、進物は返せ、酒食の接待は断れ。それほどお堅い奉行でもやはり人の子である。

帰路は一行で遠回りして、伊勢参りなど満喫している。


 帰りの遠回りくらいならよいが、仕事を放り出して遊んだとなれば話は別だろう。

東京都環境局のベテラン職員はおととしの冬、出張先の長崎市で海釣りに興じた。

三井物産が開発した排ガス浄化装置の性能を試験するはずだったのに、

誘われると足は試験場に向かわず、沖でさおを振った。

 三井側はこっそり試験結果を改ざんし、性能の劣る装置が都営バスやトラックに取り付けられた。

関与した社員ら3人は今月、詐欺の疑いで逮捕されている。

都職員は停職3カ月の処分を受け、今月末まで謹慎中という。

 今や主な都市なら日本中どこでも日帰りできる時代である。その分、泊まりがけ出張の妙味は減った。

米国で開発中の最速機なら、将来は東京と米東部が1時間で結ばれるそうだ。

ニューヨークですら日帰りかと思うと、出張する気もなえてしまう。



交通手段の発達と共に地球は益々に狭くなってくる。関西-東京間 そしてソウル 北京と日帰りできる範囲が

ドンドンに増加してくる。古代の遣唐使が死を半分覚悟しての長旅が嘘のように思えてくる。





米紙に「島のジャンヌ・ダルク」と
報じられた日本人女性がいた。



6月28日の天声人語より


 1944年、昭和19年の7月、激戦のサイパン島で日本軍が壊滅した直後、

米紙に「島のジャンヌ・ダルク」と報じられた日本人女性がいた。

鶴見俊輔さんが『昭和戦争文学全集/海ゆかば』(集英社)の解説に記している。

 「日本軍最後の玉砕地点で発見したのは、意外にも、手榴弾(しゅりゅうだん)で自決をはかり

下腹部に重傷を負っていたワック(女兵士)だった……この勇敢な“女戦士”のヤマト・ダマシイに強く心をうたれた」。


ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンは、そう書いたという。

 この時に18歳だった菅野静子さんは、山形県で生まれて間もなく、一家でサイパンに近いテニアン島に移住した。

44年6月、米軍がサイパンに上陸した時、陸軍野戦病院の看護婦を志願した。

 追いつめられ、やがて自決してゆく兵士たちを看護した。

いよいよ米軍が迫った時、野戦病院を出て生き残るようにと言われたがとどまった。

自決しようとし、意識不明の状態で発見される。

 トラックで収容所へ運ばれる途中、断崖(だんがい)の近くを通った。

そこから身を投げた多くの女性の死体が、眼下の波打ちぎわに浮かんでいた。

背中と胸に、子どもをひとりずつ縛りつけた人もいる。

「日本の人は、なぜ、こんなに死ぬのでしょうね」。


ひとりの将校が、泣いていた(菅野さんの手記「サイパン島の最期」から)。

 天皇ご夫妻がサイパンを訪問中だ。

今日は、61年前に多くの女性が飛び降りた「バンザイ・クリフ」での慰霊も予定されている。

あの戦争の時代は遠くなっても、遠のくことのない記憶がある。



ジャンダルクでもない,戦争に翻弄され犠牲になった少女である。当然に戦時中だとありえることだと思う。

だれもがそのように教育されて過ごしていた。

戦争とは一番に人間の理性を麻痺させ狂わせる極限状況に置かれる。そのすべて今のブッシュ 小泉のような指導者を持つことによって

生じる現象である。昔話ではない。これからもいくらでも起こりえる話である。







2007年問題は「2007年から問題」である



6月29日の天声人語より



 第二次世界大戦後の平和がもたらしたものの一つは、団塊の世代だった。

1947年から数年間に生まれた世代は、生年別人口のグラフに常に大きな出っ張りを形作ってきた。

 戦後60年たって「2007年問題」がとりざたされている。

団塊の世代の定年退職が集中し始める07年以降、企業内の技術の継承が難しくなるといった懸念だ。

団塊の世代を51年生まれぐらいまでとみれば、2007年問題は「2007年から問題」である。

 団塊の世代の大きさが絡む、もう一つの「2007年から問題」がある。

07年には、大学の志願者と入学者がほぼ同数となり、全体としては「大学全入」になるという。

 団塊の世代の子どもが大学に入っていたころ約200万人だった18歳人口が、この10年で約150万人に減った。

団塊ジュニアの厚みを当て込んでいた大学も多かったが、受験生の確保に悩むところが増えている。

 受験生減で経営が行き詰まる「大学倒産」の時代の到来を告げるかのように、

山口県の萩国際大学が民事再生法の適用を申請した。


生き残りのための厳しいせめぎ合いが始まっている。

1000年近い歴史をもつ欧州の大学を見習って始まった日本の大学だが、蓄積も施設も膨大なものになった。

それを二つの「2007年から問題」に生かせないだろうか。

 例えば、会社などを続々卒業する人たちを大学の「新入生」として受け入れる。

あるいは、大学を技術の継承の場として提供する。

この「還暦大学」に、月に何回か通う。


そんな、ゆったりとした生き方を夢想した。



大学志願者が減って全ての人たちが入学で゛きる時代もありがたいが,少子化高齢者時代は真剣に取り組むべき

政治課題でもある。生まれる前の人が現代の生活状態を見て,生まれて来たくない人々が増えたとも考えられる。

自然にまかすべきである。余りにも人工化 科学が進み世の中が変になってきた結果かもしれない。





このローン地獄は改めなければならない。
しかしその手だてを増税だけに求めるのはおかしい。



6月30日の天声人語より



 とある路地をのぞいてみて、小体な家が十数軒並んでいたとする。

この十数軒が抱えているローン残高を合わせると、ざっと10億円にもなる……。

 以前本紙に載った、国の予算を平均的収入のサラリーマンの家計に置き換えた記事からの連想だ。

月収約52万円のこの「小泉家」では、郷里への仕送り(地方交付税など)や浪費がかさんで家計は大赤字だ。

毎月多額の借金をしているが、気付いたらローン残高は約7千万円に膨らんでいた。


 こんな家はなかなか立ちゆかないだろうから、「小泉家」が並ぶ「借金計10億円の路地」は仮想の世界の話だ。

では国ならば立ちゆくのかといえば、そうではあるまい。

未来という「永遠の担保」をどう考えるかの問題だ。

それをあてにして国債というローンを際限なく繰り返してきた結果が、日本をこんな空恐ろしい姿に変えてしまった。

 このローン地獄は改めなければならない。しかしその手だてを増税だけに求めるのはおかしい。

政府税調が、サラリーマン所得の控除の整理・縮小を打ち出したが、取りやすいところを狙ったようにも見える。


一方、無駄遣いや不当な支出の方での改善はほとんどない。

 鋼鉄製橋梁(きょうりょう)工事を巡る談合事件の捜査が日本道路公団に及んだ。

公団の年間発注額は約1千億円にのぼる。


談合を長年繰り返してきたとすれば、割高になった支払いに回された国民の税金は大変な額になるだろう。

談合の裏に天下りや政治介入の構造はなかったのか。

 健全な未来像が描けるかどうかの瀬戸際に、この国はさしかかっているようだ。




目先の見えてきた小泉首相は増税を連発してきている。辛抱我慢を説き,「米百表」の例えまで説いてきた人が

騙しきれずして色んな「改革」「改革」と称して訳のわからない事をアチコチで行い辞めてゆこうとしている。

第二次大戦中のようにバラ色の希望を持たせて辛抱我慢を強いた手法と全く同じである。

今では多くの自殺者を生じさせ,貧富の層の拡大 当然に国が受け持つところを民営化による活性として弱者にしわ寄せさせて,辞めてゆく。

終始,オーム真理教の「ああいえばこういう」の上佑氏のように詭弁ではぐらかしての任期であった。

こんな変人首相に頼る以外に日本には人材がいないのだろうか。情けない話である。



「整列, 右ならえ右」

子供の頃,特に戦時中のことだったが,クラスの代表による号令に随い一斉にクラス全体がその代表の言うとうりに行動していたのが

思い出される。

戦後も体育の時間に,二列横隊を組む事があった。先生の号令のもと「整列,右ならえ右」と言われ,右を向いて

隣の人との間を等間隔に取るため右腰に手を当て間隔をとった。

そして後列は両腕を前に伸ばし,前列との間をとりきれいに横ニ列に並んだものであった。

それは整然としていた。

だがホームルームの時になると皆がそれぞれ意見を出し合い,クラス全体の意見をまとめるのが大変で,

意見は分かれ,色んな意見が出てきて司会者がそれぞれの意見がどのようにまとめてゆくかに大変苦労していたのが普通で

ご苦労さんといいたいくらいであった。

戦時中は「上意下達」で,お上の言う事は逆らえない。それに対し国民は従順に随い,自分の意見も言えず,

仕方なく非国民にならないように,唯,只命令に随って国家の為に命を捧げ死んでいった人たちが大勢いた。

今も戦中の後遺症に苦しんでいる人たちもいる。

戦後の民主主義の世の中になって,「下意上達」の時代に変ったが,選挙の当選後は恰もブッシュ, 小泉首相を代表する

権力を握った人たちは自分に全て,なにもかも,何をしてもよいような権限を与えられたが如くに錯覚を起こしている。

自分が言った事が国民全体が素直に聞きいれて,浸透してゆくものだとの横柄な態度でいる。

身近な官僚達にもその態度は往々にしてみかける。指導者になることに対し,大変に熱心で執念をもやし,

全て自分に随わせようと思っている指導者が世の中沢山いる。

本来は指導者になることは大変な仕事である。如何に皆の意見をまとめ,そして皆が如何に納得するか,そして良い仕事,

方向に向けるかに腐心し,常に心が休まらない大変で大事な仕事・役割りを担うことになるなのである。

でもチャランポランを身上とし,全て丸投げの小泉首相のように総理大臣の地位を得たことが楽しくて仕方ないようだ。

国民の支持率が如何に下がって来ようとも「右向け右」の号令をかければ,国民を何時までも思うままに随わせようとしているようだ。

同じようにブッシュは世界を。そして・・・・・・。




ロンドンでのテロ


スペインに次いでロンドンで大規模なテロが起きた。そして次はイタリアと予告しているようだ。

アメリカに随う国々はテロの対象となるのか。ロンドンで亡くなった人たちは普通の人たちである。テロは卑劣な行為だ。

だが犠牲者の中にテロの心情に共感していた人もいたかもしれない。

テロは卑劣な行為だから,テロ撲滅のためにイラク戦争を起こしたというブッシュの考え方もある。

だがテロは普通戦争では勝目がなくて,自分達のいうことを少しでも聞いてもらおうとしての行為だと思う。

厳戒態勢にも限度があるのではないか。真剣にテロの原因は何んだったかの分析する必要があるのではないだろうか。

世界が平和主義に徹する事である。「目には目」では恨みはどこまでもとどまらない。

国連を中心として,世界が一つになり行動することである。「地球の痛み 我が痛み」であると,世界の人たちが認識し,浸透したときに

初めて世界の平和がやってくるものだと考える。

アメリカ追従外交を続けていれば日本もいずれテロの対象にになるのではないかと心配である。

弱いものも強いものも対等で話し合える場が是非必要である。意見が対立した場合国際司法裁判所の判断に必ずに随うことである。

強いものが弱いものを力で押さえつけようとする態度で臨むならば何時までもテロは止まないのではないか。

世界の人々が平和に暮せる世界になることを切に願うものである。



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