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8月になって


8月はさすがに暑い日が続いた。ミンミン蝉の鳴声は激しく暑く鳴きつづける。夏の風物詩であり,夏がきたことを改め実感する。

暑いが故に外での運動も少なくなって,つい家の中で過ごす時間が多くなってしまう。

今年は戦後60年目での広島・長崎原爆投下の年でもある。偶然に長崎原爆記念館の巡回展覧会を見る機会があった。

又テレビでも生々しく,原爆投下時の再現ドラマが放送されるのを,これも偶然見たが,悲惨な光景の連続で途中で見るのを止めしまった。

長崎原爆記念館の巡回展覧会の展示品の中にはガラス瓶が飴のようにとろけてしまい,

瓦の表面には水泡状のものができ 着ていたいたボロボロの衣服が展示され,皮膚がズルリとめくれ剥げて垂れている人の姿の写真,

頭の髪の毛が抜けて,丸坊主になっての人たちの姿の写真が展示されていた。

医師達も,患者を前にしてただチンク油を塗る以外になすすべがなく,患者達の死を見る以外に仕方がなかった。

今もその後遺症に悩んでいる人たちがおられ,尚も子孫への影響は現在の医学でもってしても測り知りえない状態である。

原子爆弾は恐ろしい兵器である。60年前に起こったことに対し,今の医学でももってしても全くの無力である。

広島長崎原爆投下は罪のない人々に向けられての投下であった。どうして日本に二発もの原爆が何故に投下されたのだろう。

当時,既に米ソの冷戦が始まり,それにアメリカが勝つためにソ連に対しての布石として原爆投下されたものだとも報道されている。

それにしてもその結果はあまりにも悲惨で無惨,無慈悲なものである。

お盆の頃になると次第に蝉の鳴声も少なくなってくるとともに,お町内での夏祭りが賑やかに始まるようになってきた。

一方総選挙での刺客騒動が一段と賑やかになってきている。,

自民党の小泉首相は郵政民営化法案に対して国民に其の賛否を問うとして選挙熱が次第に過熱してきた。

アメリカでハリケーンがルイジアナ州,ミッシ-ピー州の両州を襲い大変な被害がもたらされている。

ルイジアナ州のニューオーリンズでの被害が一番多く報道されている。

日本の本州全体がすっぽり入る地域が被害に会っているようで,始めてテレビでの放送を見たとき

 これはアフリカの一部ではないかと思う程に黒人が多く,被害もアメリカとは思えぐらいにひどくて無残な状態である。

アメリカでは専門家によって5年前から危険が指摘されているにも拘わらずに

イラクの戦費のため削減され,放置されての結果のようだ。自動車を持たない人たちが避難できずに災難に有っているらしい。


初動救助の遅れも指摘もされている。州兵の半分がイラクに出兵してのことらしい。

ブッシュは一ケ月間の夏休みを繰り上げ援助への指揮をとるらしい。ブッシュに抱かれたペットの犬が飛行機より飛び降りるのが

テレビに映し出されていた。一部のアメリカでは人間が犬より低く扱われているのではないかとも思われる。

完全な排水まで一ヶ月かかるらしい。死亡した人たちが一万人ちかくいるとかだが。

民主と自由のためによってイラクは混乱状態の極みにあり,今もイラクで多くの人たちが死んでいっている。

イラク派兵へ為の資金のために,洪水対策がなされず放置され,アメリカではハリケーンの大被害をきたした。

多勢亡くなって大規模な被災者が出現している。

世界一突出した軍事力を維持するための被害者が今アメリカ国内にいることを世界の人たちが知った。

世界一突出した軍事力は誰のために有り,必要なのか。!!

次から次へと疑問はわいてくる。アメリカでは貧富の格差か非常にあることが判る。

日本もそのアメリカを真似ての今回の総選挙である。日本国民はいかように判断するのか。

結果は驚くような結果で,自民党の大勝利に終わった。

日本人は今までしてきた小泉首相の政治を全て認めたことにもなり,

尚且つさらに自民党と公明党与党で衆議院での三分の二の議席を獲得したので,

自民党単独でも過半数となって,どの法律の可決の可能性が高くなり,与党公明党の支持があれば,

どんな法律も通過可能となった。

参議院が逆転していようとも,与党の衆議院が絶対多数であればすべての法律が通過してしまう。

既に廃案になった数々の法案も再上程されて可決されそうだ。イラクでの自衛隊の一年間の延長が決められ

東京でアルカイダによるテロが仮に起きたとしても文句も言えない。国民がそれを選んだのだから。

全ての国民が小泉首相の手のひらにのったようなものである。

日本国民が賢明な選択したのか,馬鹿な選択したのか,全ては後の祭りである。

自民党小泉独裁政治体制が布かれ,次回の衆議院改選迄の四年間の間,アメリカ同様に,世界でブッシュが何をするのか,?

そして日本で小泉首相が何をするか,?全て国民はただただひたすらに神に祈りつつ見守り,

毎日を過ごす以外に仕方ない状態になった。

世界の出来事に対し,全ての事を止める事が出来ない状勢になって来ている。

天災か人災か?のハリケーンでのことで,次第にアメリカ国民からブッシュ支持率が下がってきても,

多分ブッシュは大統領職をばやめはしないであろう。

ブッシュは日本の盟友小泉首相の大勝利でもって,少しは生き延びた気分を味わっているかもしれない。

浅薄な選択でもって,日本を含め世界が嫌な世の中へとドンドンと転がって行くように思えてきて仕方がない。

昔のドイツでのヒットラーも又,民主主義によって大衆によって選挙で選ばれた党首であると

ナチス党の宣伝相ゲッペルスが言っていたとか。

すべて大衆によって選ばれたのだから,すべての結果責任は自分達にはない,お前達,選んだ大衆側に有るとでもいいたいのだろうか。

今回の総選挙結果でもって,我々は一票の重さをばさらに再認識させられる結果になった。





おなじみ小田原評定である。


8月1日の天声人語より


 秀吉の軍勢が小田原城に迫る。

当主の北条氏直は重臣を城に集め、対策を練る。

講和か合戦か、籠城(ろうじょう)か出撃か。

氏直が優柔不断なのだろう、いずれとも結論が出ないまま時が流れる。

3カ月余り攻囲された末、あえなく秀吉軍に屈した。

今から400余年前、夏の盛りのことだ。

 この史話から生まれた言葉が、おなじみ小田原評定である。

城内の軍議のだらだらぶりが江戸期に川柳などで誇張され、一向にまとまらないダメな会議の代名詞となった。

 ダメ会議は決して滅びない。

いまでも書店には、会議の効率化を説く本が山と積まれている。

『すごい会議』『会議革命』『伸びる会社は会議がうまい!』。

逆に『会議はモメたほうがいい』と旧来型の良さを挙げる新刊もあるからややこしい。

 「東京に赴任したら、社内の会議がどれも1時間刻みで設定されていることに驚いた」。

米国の保険大手幹部にそう言われたことがある。

せっかく早めに案件が片づいたのに「あと14分あるのでしばし御懇談を」と司会が促す。

まるで理解できなかったという。

たとえば米社インテルの場合、会議は原則30分刻みで、1時間たつと照明が自動的に消える会議室もある。

 ふり返れば、日本流の会議がもてはやされた時期もあった。

「経営陣と現場の社員が悩みを共有できる会議」と喧伝(けんでん)され、海外から視察が来た。

バブルの時代の話だが、今となっては幻のようだ。


 今日から8月、真夏の会議は手際よく進めたい。

1時間たつと冷房が切れてしまう会議室でもあれば、議事も多少はひきしまるだろうか。




会議はいくら独裁的な長のもとで党議していても何んの意味もない。党議が長かろうとも短くとも中味は空っぽである。

独裁者的な長を生まない事の方が一番先決な問題である。

逆に頼りない長でもいくら議論をしていても何の意味もない。まず長を如何に優れた有能な人にするかが一番肝心なことである。

会議の回数とか内容はその次の話になってくる。





今度は「第10惑星が見つかった」と



8月2日の天声人語より


 プルートー(Pluto)は、ローマ神話の黄泉(よみ)の国の神である。

そんな名前をつけられた星を、日本では冥王星と呼んでいる。

75年前に発見され、太陽系の最も外側を回る第9惑星とされるが、本当に惑星と言えるかどうかで論争があるという。

 星にとってはどちらでもいいことかも知れないが、今度は「第10惑星が見つかった」と、

米航空宇宙局(NASA)のジェット推進研究所が発表した。

第3惑星・地球に居る身からは、この太陽系が何人きょうだいなのか、いささか気になる。

 この星の存在は、2年前に米・パロマー天文台の望遠鏡で確認された。

遠すぎて正体不明だったが、軌道を調べ直して太陽を周回していることがわかった。

 確かに遠い星だ。太陽までの距離が、遠い所では、地球から太陽までの距離の100倍近い。

公転の周期が約560年というから、この星が、今いる位置に前回いたのは、

地球ではあのレオナルド・ダビンチが生まれる少し前ごろになる。

惑星と認めるかどうかは国際天文学連合で決めるそうだ。

 惑星の「惑」は天空で惑うかのように位置を変えるからという説がある。

その惑いの妙が、古来、人を引きつけてきた。

〈金星は下潜(くぐ)りつつ月の上に土星は明し光りつつ入る〉。

1933年に起こった、金星と土星が続けて月の裏側に入る珍しい現象を見て、北原白秋が詠んだ。

〈母と子ら佇(た)ちてながむる西の方(かた)月も二つの星を抱きぬ〉。

 冥王星や「新惑星」の惑いは、肉眼ではとうてい見えないが、静かに宇宙の闇を行く姿への想像を誘う。



太陽系だけで未知のことが沢山ある。もっと外側の宇宙に就いては殆ど判っていない。宇宙は広大で無限である。

人智を遥かに超えた話になってくる。

人間は小さなことでもって,地球上で,全世界の人々が悩み苦しみ争っているのが変に可笑しくなってくる。






日本道路公団が、
公団ぐるみで「官製談合」に
関与していた疑いが




8月3日の天声人語 より

 ふるさとへ、あるいは海へ山へ、多くの人が旅をする季節である。

しかし、車で移動する人たちは、今年は複雑な思いを抱いているのではないか。

日本をつなぐ幹線道路を造ってきた日本道路公団が、

公団ぐるみで「官製談合」に関与していた疑いが濃くなっている。

 もう一つの「談合」も浮上した。公団と国土交通省が、公団民営化推進委員会の懇談会への、

幹部の出席を見送ったという。


「事件が捜査中で委員の質問に答えられない」「談合対策で多忙」などと弁明しているようだが

、両者間に「欠席談合」があった気配が感じられる。

 本来、推進委員会は、道路をめぐる構造的な問題を、広く深く検討する場のはずである。

そこに背を向けるような姿勢をとるのでは、両者に日本の道路の将来を託すことはできない、との思いが強まる。

 公団が約20年前に刊行した『日本道路公団三十年史』に、終戦直後の道路の状況が記されている。

「(昭和)20年度末における我が国の道路総延長は89万9000kmで、

このうち舗装されていたのはわずか1・2%である」。

戦後しばらくは、どろんこの道も多かった。


 昭和21年、民俗学者で歌人の折口信夫が「日本の道路」と題した一文を書いている。

「まつ直な道、うねつた道、つゞらをり、光る道、曇る畷道、さうした道の遠望に、

幾度魂を誘はれたことか」(『折口信夫全集』中央公論社)。

 人に寄り添っていたはずの道が、国や公団、業界のものになってはなるまい。

戦後60年、この国の道を本来の姿につくりかえる時である。




政・官・民の談合こそが真っ先に取り組み,おし進めるべきことであるのに四年の任期期中何も小泉首相は殆どしていない。

政治家同士の談合でもって,今回の衆議院総選挙劇が演じられているようにしか思えてこない。

マスコミにも,もっと慧眼をもってほしいと言いたい。まさかマスコミをも含んでの衆議院総選挙劇だったのだろうか。





飛行機が燃えている。
カナダの空港に着陸した
直後のエールフランス機だという




8月4日の天声人語より


 昨日の朝6時ごろ、出張先の宿で目が覚めた。朝刊を手にテレビをつけると、飛行機が燃えている。

カナダの空港に着陸した直後のエールフランス機だという。垂直尾翼が地面近くから突き出ている。

胴体は壊れたのか、ほとんど見えない。黒煙が上がる。

 大惨事かと思ったが、幸い、そうではなかった。

300余人全員脱出、死者なし、けが人は軽傷、などと続報が流れた。

滑走路からオーバーランし、衝突、炎上で結果がこれなら、よほど幸運が重なったのだろう。

カナダの運輸相は「奇跡としか言いようがない」と述べたという。

 「奇跡」は、なぜ起きたのか。

想像するのは、全員が脱出し終わるか、それに近いころまで炎が広がっていなかったということだ。

 迅速な動きと冷静さが、結果を決める。乗員の的確な指示と乗客の敏速な対応、協力が欠かせない。

詳しいことは不明だが、人の動きと、出火の時期や火勢

、くぼ地に突っ込んだ時の速度などの要因が掛け合わされて「奇跡」がもたらされたような気がした。

 帰京する新幹線で、猛スピードで後ろに飛んでゆく車窓の景色を見つつ思った。

新幹線の速度は、ジャンボ機が滑走路に着陸する時の速度に近い。

もし翼があれば飛びそうな速度で、これだけ大量の輸送を重ねながら、長年事故がない。

これも、一つの「奇跡」とは言えないだろうか。


 安全確保のために昼夜を分かたず励む、数多くの人たちがいる。

天災など、人知を超える事態もいつかは起こり得るが、この「奇跡」は、いつまでも続いてほしいと思った。





人間の一生の寿命が伸びたとしても,たいしたことなくて,しれている。人間,急いで何処へ行くのかと言いたい。

「のんびりの中にも大切さがあるに違いないことに気ずくべきである。




帝国ホテルの総料理長として活躍し、
84歳で亡くなった村上信夫さんは



8月5日の天声人語 より


 暑い時分には、塩味はやや濃いめで、酸味も強めが望ましい。

これは勝手な好みでしかないが、料理に味の加減はつきものだ。

足す引くだけではなく、割ったり掛けたりもする四則演算の舞台である。

 料理をすると「脳」が鍛えられる、という記事が本紙に載っていた。

料理を習慣づけると、前頭部の血流が良くなり、判断したり計画を立てたりする脳の機能が上向くそうだ。

材料を、加減乗除で思い通りの姿と味に仕上げる。難しい課題に挑むことに通じる気はする。

 帝国ホテルの総料理長として活躍し、84歳で亡くなった村上信夫さんは「料理は腕で作るのではなく、

頭で作るもの」と書いている(『村上信夫のフランス料理』中央公論社)。

波乱に富んだ人生を思えば、「頭で」の意味合いは、そう単純ではなさそうだ。

 東京・神田の大衆西洋料理屋に生まれたが、両親を早くに亡くした。

小学校に通えたのは6年生の2学期までで、3学期からは洋食屋で働き、仕事の合間に登校した。

はしたが出席日数が足りず、ひとりだけ卒業証書をもらえなかった。

 67歳の時、NHKの番組で、母校の小学校の子供たちにカレーづくりのコツを教えた。

お礼にと校長先生がくれた卒業証書に、「昭和九年三月二十四日」と書き込んだ。


「卒業証書をもらえない卒業式の日付を私は半世紀あまりも忘れたことがなかった」(『週刊朝日』)。

 フライパンのような丸顔と笑顔が魅力的だった。

その風貌(ふうぼう)のようにふくよかな味の世界には、ちょっとしょっぱい人生の味加減が利いていたようだ



一筋の道に到達した人の話もすがすがしい。塩分は薄めが健康に良い事がわかってきている。

京料理の薄味に日本人は慣れるのが一番だ。味に身体はついてゆくものである。

薄味に慣れれば濃いくちの食物は不味くて食べられない。

味は相対的なもので健康には薄味が一番だ。





きょう、広島市の平和記念公園では、
被爆から60年の平和記念式が開かれる。



8月6日の天声人語 より


 きょう、広島市の平和記念公園では、被爆から60年の平和記念式が開かれる。

式場に近い図書館の庭に、英国の詩人、エドマンド・ブランデンの詩碑がある。

 「かの永劫の夜をしのぎ はやもいきづく まちびとの……とはに亡びし もののあと たちまち動く 力あり」。

戦前、東大で英文学を教えたこともある親日家のブランデンは、被爆から3年後の広島を訪れ、

焦土から立ちあがろうと力を尽くす人々の姿にうたれた。

 「ヒロシマ よりも 誇らしき 名をもつまちは 世にあらず」。末尾には「友・寿岳文章 訳」とある。

 この60年、「ヒロシマ」と「ナガサキ」は、反核兵器のメッセージを世界に発信し続けてきた。

原爆の惨禍を展示した平和記念資料館に置かれている「対話ノート」にも、外国人の書き込みが目立つ。

ノートは900冊を超え、約90万人のメッセージから326人分を収めた『ヒロシマから問う』が出版された。


 原爆を投下した米国人に、二通りの感想が見える。

「このミュージアムは私の国の間違った行為について私にはっきりと教えてくれました」。

「このミュージアムは、世界平和のための希求よりも、

日本人に対する哀れみのための希求をより印象づけようとしているようだ」

 感想はどうあれ、広島、長崎に来れば、核兵器を使うことの実相の一端に触れることができる。

いつの日か、米国の大統領が広島、長崎を訪れ、その実相と向き合う時は来るだろうか。

せみ時雨に包まれたブランデンの碑の前で、その日が遠くないことを願った。



原爆の惨禍を展示した平和記念資料館に対して

「このミュージアムは、世界平和のための希求よりも、

日本人に対する哀れみのための希求をより印象づけようとしているようだ」と考える人達がいるならば

其の人の心の中になんとか原爆投下の罪悪感から逃れたいための良心の呵責からの発想だと考えたい。

広島・長崎での原爆投下は誰が考えても,なんとしても誰もが微塵も正当化することは出来ない。

「戦争を早く終わらせる為」の考えは戦勝国が後からつけた言い訳にすぎない。

アメリカは果てしなく今も戦争という罪悪をば性懲りすることなく世界のアチコチで続けつづけている。

半部のアメリカ人には正当に澄んだ目で見ることのできる人たちがいる。

日本も次第にアメリカのお手伝いをして戦争に荷担する国になりつつある。




今年も全国で大小700もの
花火大会が開かれている



8月7日の天声人語より


 作家の堀辰雄が4歳か5歳で見た花火の群衆の記憶を「幼年時代」に書いている。

ものごころつく前だったのに、花火見物の人波に押されて母の背で泣きじゃくったことは鮮明に覚えていると。

年譜によれば明治40年ごろ、東京・隅田川の花火を見たようだ。

 隅田川の花火は徳川吉宗の時代にさかのぼる。

江戸庶民に人気のあまり雑踏事故が何度か起きた。

明治の半ばにも橋の欄干が崩れて数十人が転落死した(小勝郷右『花火−火の芸術』岩波新書)。

 今年も全国で大小700もの花火大会が開かれている。

どこも資金不足に雑踏対策が重なって、かなりの難事業になりつつある。

たとえば千葉県の印旛沼花火大会の場合、毎年30万人を集める行事だったが、今夏は中止された。

4年前に兵庫県明石市で起きた事故の教訓で警備費が膨らみ、一方で協賛金が集まらない。

 主催の佐倉市観光協会の斉藤啓光さんは「明石の事故は各地の花火を変えた。

どこも警備費を増やし、観客の誘導が綿密になった」と話す。

以前なら50人で足りた警備員を昨年は299人雇った。

 花火での雑踏事故は海外にもある。

英国では18世紀、王族の結婚を祝う花火で群衆千人がテムズ川に転げ落ちた。

カンボジアでは約10年前、国王誕生日の花火に市民が殺到して死者が出ている。

 「地獄絵図さながらの群集雪崩」。明石の惨劇を、神戸地裁の判決はそう表現した。

善意の群衆がたちまち他人を押しつぶす暴力装置に変わる。


あの怖さを胸に刻みつつ、この夏もどこかで、夜空を彩る一瞬の美を楽しみたいと思う。



昨年,近くの宇治の花火大会に参加し見に行った。

京阪宇治駅が終点で,そこに電車から次ぎつぎと大勢の見物人が吐き出されて駅周辺は身動きできないような大勢の人たちになる。

普通には歩くことが出来ない。花火を見るために地面に陣取った人たちの隙間にやっとすわるが,

暑さと人々のムンムンとする騒動で見る気分もしてこない。こうなると一種の「行」でもある。

一瞬花火が上がりみとれることもあるが,人の群れでむし暑い。

花火を見るということは大変な事であり,さらに帰りの電車には人々が殺到し長い行列ができる。

長い行列でやっとのことで電車に乗れたが,取りあえずに,タクシーが走っている駅までのって.そこからタクシーで帰宅する。

花見見物とはそんな優雅なものではないことを実感した。「地獄絵図さながらの群集雪崩」はよく理解できた。

花見見物は若い頃はこのようなこともなかった。若さも関係しているのかもしれない。それとも嫌な事は忘れているのかもしれない。

でもこの人人の波は何処なら集まってきたのか不思議なくらいである。




昨日の参院での郵政法案否決の場面は、
本社の長崎総局のテレビで見た


8月9日の天声人語より


 被爆60年の取材のため、長崎に来ている。

昨日の参院での郵政法案否決の場面は、本社の長崎総局のテレビで見た。

 「江戸の敵を長崎で討つ」という言葉が思い浮かんだ。

意外な所で、あるいは筋違いのことで昔の恨みをはらすという成句だ。

この解散には、「参院の敵を衆院で討つ」感じがつきまとう。


名付ければ「江戸の敵解散」か。

衆院から見れば、通り過ぎていったはずなのに戻ってきた「ブーメラン解散」でもある。

 これを「筋違い解散」と呼ぶ向きもあるだろうが、世間一般の受け止め方はどうだろう。

昨今の八方ふさがりのような気分を転換して、

見通しの良い世の中に向かうきっかけになるのなら解散もいいという機運もあるようだ。


 前回の03年の解散は、かなり前から解散説が流れていたので衝撃は小さかった。

予告された「透け透け解散」とか、解散の大義が見えにくい「大義なき解散」などと、

本欄で呼んだ覚えがある。

 今回は、決着の間際まで小泉首相の一言が注目された。

「殺されてもいい。おれは総理大臣だ」。

首相にとっては、「いのちがけ解散」ということか。


「かむんだけど、硬くてかめないんだよ」。

首相との最後の談判の後、森・前首相は、つまみに出されたというチーズのかけらを手に「変人以上だ」と評した。

「超変人解散」とでも言いたいところか。

首相は「おれの信念だ」とも述べたという。

強い「信念」を持っているのは確かのようだが、問題はその中身ではないか。

「おれの信念解散」に続く総選挙では、その中身を改めて吟味したい。




命を張っての小泉首相は立派である。だが結果責任は誰が取るのか。?

リストラで自殺してしまった人たちの責任は,そしてこれから起きるかもしれない事に対し

申し訳無いとして首吊り自殺でもするおつものなのでしょうか。





長崎市の「原子爆弾落下中心地」の碑の下から空を


8月10日の天声人語より


 9日午前11時2分、長崎市の「原子爆弾落下中心地」の碑の下から空を見上げた。

太陽が目を射る。60年前のその時、地上約500メートルの所で原爆が炸裂(さくれつ)した。

 太陽が落ちてきたようなありさまを想像する。

直後の映像や被爆した人たちの証言、原爆の資料館の展示などを念頭において周囲に目をこらし、

また瞑目(めいもく)して考える。

来るたびにそうするが、実際に何がどうなったのかを想像できたというところには、とうてい至らない。

やはり、人間の想像をはるかに超えるおぞましい行為が人間によってなされた現場というしかないのか。

 8日、爆心地から1キロ余りの所にある長崎大学の構内の慰霊碑の前で、花に水をやる女性がいた。

今年で70歳という女性は、小学校5年の時に被爆した。爆心からやや離れた自宅に居たため生き延びたが、

当時この地にあった兵器工場で働いていた父親を失った。

「遺体も見つかりませんでした」。60年間、父は行方不明のままだ。


 9日、爆心地近くの丘に立つ浦上天主堂で「被爆マリア像」が公開された。

もとは大聖堂の祭壇に飾られていたが、あの日、わずかな側壁を残して建物が吹き飛んだ。

後日、木の像の胸から上だけがみつかった。

 間近に見ると、ほおや髪が焦げている。

眼球が抜け落ちた両の目は、黒くうつろで、底知れない二つの闇のようだ。

 いたましい姿だが、不思議な生命力を感じさせる。

像の失われた部分は、長崎であり、広島ではないか。

マリア像はその存在の証しであり、その記憶を未来に伝えようとしているように思われた。



原爆投下は人類への敵対行為である。今も地球上にその高性能の核爆弾が数え知れないくらいある。簡単に作れるらしい。

ブッシュは戦争に利用できることが可能な小型核爆弾の開発をこころみているらしい。

地球上の全ての核爆弾は国連が管理すること。各国が対立して戦争になるような事例が起きれば国際司法裁判所で解決できる

世界になるように願いたいものである。

戦争は原始的な行為である。古代から現在にいたるまで人類は戦争を厭くことなく続けている。





ハードルが立ち並んだ障害競走のコースには、


8月11日の天声人語より


 平らな地面に、わざわざ高い枠を置く。ひとつだけではなく、その先にもそのまた先にも置いておく。

ハードルが立ち並んだ障害競走のコースには、人間がスポーツのルール作りで見せるユーモラスな一面が映っている。

 英国に源流があるという。

牧羊業などで土地の「囲い込み」が起きた後、できた垣根を使った馬による競走の時代があった。

現在のような競走の元は、19世紀半ばのオックスフォード対ケンブリッジの大学対抗戦のレースだった。

羊の囲いが使われた(宮下憲『ハードル』ベースボール・マガジン社)。

 昨日の未明、寝苦しさで起きてテレビをつけると、陸上の世界選手権を中継していた。

為末大選手が出る400メートル障害の決勝が始まるところだった。

ヘルシンキはどしゃぶりだ。これも一つの障害かと思った時、号砲が響いた。

 選手がハードルを越える瞬 間の形が美しい。足を思い切り伸ばし、一方の足を素早く持ちあげる。

前傾した上体と道筋を読む目が、獲物を追うしなやかな動物のようだ。

 最終コーナーを回る頃、為末選手の口がかすかに開き、ほほえんだように見えた。

最後はもつれたが倒れ込んで銅メダルを手にした。

不振、不運、父の死を経て「勝利」をつかんだ。雨と汗と涙の入り交じるゴールインだった。


 宇宙からは、野口聡一さんたちのスペースシャトルが、無事ホームインした。

難しい任務をしっかり果たしたという満足の笑みもいい。


天と地と、ふたりの道は違っても、ハードルを乗り越えた姿には、周りをも力づける輝きが宿っている。




スポーツへの精進 宇宙へのチャレンジと人類は素晴らしい才能を持っている。こちらの才能をばもっと伸ばしたい。






520人が死亡した日航ジャンボ機の墜落事故から、

8月12日の天声人語より


 あれから二〇年、本当に、いろいろなことがありました。

520人が死亡した日航ジャンボ機の墜落事故から、今日で20年になる。

それを機に出版された遺族の文集『茜雲(あかねぐも) 総集編』(本の泉社)で、

美谷島邦子さんは、9歳だった息子の健君に語りかけるように文をつづっている。

 「今も、君のノートや鉛筆がここにあります。夏休みのヘチマの観察日記は、

『八月一一日つるがのび、小さいつぼみがみえた』という事故の前日に書いた文字で終わっています。

お父さんは、この文字をいまだに見たがりません」

 弟夫婦とめいを亡くした池田富士子さんは、文に短歌を添えた。

〈あまりにも 早きに逝きし弟の 歳をおりてはまた胸あつくす〉。

弟夫婦の遺児ふたりは大勢の人に支えられて成長し、今は結婚してそれぞれ幸せに暮らしていますとあり、

末尾には生存者のひとり川上慶子さんの伯母と記されている。


 事故の翌日、生存者発見の報が本社に届いた時のことは、今もなお記憶に新しい。

あわただしく夕刊の記事を書いていた記者たちの間にも、言葉にならない感動が走った。

 絶望的な色合いの濃かった紙面を取り換える。

直後に社会部から原稿を受け取った入力担当部員も、涙をこらえながらキーボードを打ったという。

 二度と繰り返してはならない巨大事故だった。

遺族の会「8・12連絡会」の事務局長を務めてきた美谷島さんは、文をこうしめくくっている。

「二九年間、健ありがとう。……これからも君と一緒に空の安全の鐘を鳴らし続けていきたいと願っています」




過去は過去として葬りさることなく,再び同じ過ちを繰り返さない事が亡くなった人たちへの祈りでもある。




「八月十三日……日本はまだ決断しない」。
45年8月、ドイツの作家トーマス・マンが、
米カリフォルニアで記した



8月13日の天声人語 より


 「八月十三日……日本はまだ決断しない」。

45年8月、ドイツの作家トーマス・マンが、米カリフォルニアで記した。

ナチスに抗して亡命しており、大戦の決着をそこで見つめていた。

 8月の日記には「原子爆弾による広島市の不気味な破壊」「長崎市に投下。

天に向かって巨大なきのこ雲」などとある。

「十四日 日本の無条件降伏、すなわち第二次世界大戦終結のニュースがあらしのように伝わる……

日本軍は完全にその狭い島へ追い返される」(『トーマス・マン 日記』紀伊国屋書店)。

 マンは「魔の山」や「ブッデンブローク家の人々」などで知られる。

29年にはノーベル文学賞を受けたが、ナチスによる焚書(ふんしょ)に遭い、終戦後もなかなか帰国しなかった。

 48年の元日、本紙に「日本に贈る言葉」を寄稿した。

「日本の古く高貴なる文化」への好意を語り、敗戦に触れる。

「日本が無謀な支配層のために冒険に突入すること、その結果が必ずよくはないだろうことを私は前から信じていた」。


しかし敗北にも「利点」はあり、勝者は自分たちのものは最良という結論に陥りやすいと述べる。

 さらに「『平和』こそ人間生活の至上の概念かつ要請」であり

「その厳粛さの前に立てば如何なる国民的英雄も精神も時代遅れな茶番でしかない」という。

そして「人類の召使として生きる時その国民の上に光栄は輝くであろう」と結んだ。

世界大戦を繰り返した故国への苦い思いと、新生・日本への期待が込められている。

 やがてマンはスイスに移住し、50年前の8月12日に80歳で他界した。



偉大な人たちの言葉を国民は忘れない事よりまず知ることが第一である。

そうすれば誤った判断はしないはずであり,出来ないはずである。





「コスタリカ」は日本独自の選挙用語で

8月14日の天声人語より


 中米コスタリカ出身の女性マリセル・フタバさん(50)は東京在住23年、日本語の新聞も大意ならわかる。

「コスタリカ消滅」「コスタリカ崩壊」。

先週そんな記事が目に飛びこんできた。母国で何か大変なことが起きたらしい。


 料理店を営む夫の二葉新一さん(58)に尋ねた。

「コスタリカ」は日本独自の選挙用語で、同じ党で地盤も重なる候補者が共倒れを防ぐため、

小選挙区と比例区に交代で立つことを指す。言われていっそう混乱した。

私の国にそんな制度はない。

 コスタリカ国会は一院制で57議席すべてが比例式で決まる。

中南米の政治に詳しい富山大の竹村卓教授によると、腐敗を避けるため議員の連続当選が禁止され、

任期を終えたら4年待たないと再挑戦できない。


日本のコスタリカ方式の実情を現地で説明すると、だれもが「誤解だ」「印象が悪い」と困った顔を見せる。

 日本で中選挙区が廃止された90年代、候補者の一本化が各地でもつれた。

編み出されたのがコスタリカ方式だ。

日本コスタリカ友好議員連盟の重鎮、森喜朗前首相が提案したと当時の記事にある。

連続当選禁止が念頭にあったようだが、いかにも強引なこじつけである。

 共存共栄のコスタリカの誓いがこの夏、相次いで破られつつある。

郵政法案に反対した前議員が公認を得られず、小選挙区で同じ自民党の賛成派候補に正面からぶつかる。


 刺客、弾圧、大獄、国替えなど乱世を思わせる言葉が飛び交う。

おりしも今月半ば、コスタリカから来日するパチェコ大統領の目に、日本の選挙はどう映るのだろう。


コスタリカ方式は日本で勝手につけた名前であり選挙に使われるとかはおかしい話でありコスタリカにも失礼である。





終戦の翌々年の生まれなので


8月15日の天声人語より


 終戦の翌々年の生まれなので、その日のことは直接には知らない。

しかし昭和20年、1945年の8月15日は、頭のどこかに住みついているような気がする。

この日を、あるいはこの日に至る日々を伝えるものに接する度に、その意味を考えさせられてきた。

 さまざまな人の日記に、その日の思いが記されている。

それぞれにひかれるものはあるが、「戦後還暦」の年に改めてかみしめたいのは作家・大佛次郎の『敗戦日記』(草思社)の一節だ。

 「自分に与えられし任務のみに目がくらみいるように指導せられ来たりしことにて……」。

軍人たちが敗戦という屈辱に耐えうるかどうかを思い惑って眠れないというくだりだが、ことは軍人に限らない。

 「与えられた任務のみに目がくらんだ」のは、国民のほとんどだった。

戦争が始まり、ことここに至っては軍人は軍人の、政治家は政治家の、あるいは親は親の、

子は子のあるべきだとされる姿に向かって突き進んでしまった。


国そのものの向きがどうなっているのかという肝心なことは見ず、それぞれに与えられたと思う狭い世界に閉じこもった。

 国民の、ある種のひたむきさには胸がつまる思いもするが、歯止めの無い奔流は、

自国民だけではなく周辺国などを含むおびただしい人の命を奪い去った。


メディアもまた、本来の任務を踏み外していたと自戒する。

 今日は追悼というだけではなく、与えられた任務のみに目がくらんでいないかどうか、それぞれの場で問い返したい。

この今を「戦前」などと呼ぶ日の来ることがないように。




目先のことだけに眩んで,大局を見失うことがあってはならない。




日中韓3国が、それぞれの事情を抱えて迎えた8・15だったが


8月17日の天声人語より


 日本の植民統治からの解放を韓国が祝う光復節の演説で、盧武鉉(ノムヒョン)大統領は対日関係には言及しなかった。

中国では反日活動が中止された。小泉首相は靖国参拝を見送り、アジア諸国への「痛切な反省とおわび」を談話で表明した。

 日中韓3国が、それぞれの事情を抱えて迎えた8・15だったが、ともかくも冷静さが見られた。

問題は、首相や閣僚が談話の趣旨を体現できるかどうかだ。

首脳や閣僚は互いに行き来して、対話を重ねてほしい

 日韓のふたりの詩人が、対談や書簡で対話を4年続け、それが『「アジア」の渚で』(藤原書店)としてまとめられた。

高銀(コウン)さんは、韓国の代表的詩人で、投獄・拷問を受けながら民主化運動に力を尽くした。

00年の南北会談では金大中(キムデジュン)大統領に同行した。

対する吉増剛造さんは、言葉へのいとおしさのこもる表現で、豊かな生命力を宿す詩を紡いできた。

 高さんは、東北アジアの公海上に浮かぶ船で、東北アジアの詩人たちが一緒に詩を詠む日のことを語る。

「われらは自分たちだけのものである陸地ではなく、みんなのものである海の大きな魂を謳歌(おうか)するはずです」

 吉増さんは「海を掬(すく)い尽せ」という印象的な一句を発する。

掬い尽くせるはずのない海の、はかりしれない大きさへの畏(おそ)れが感じられ、高さんの句と響き合う。

 小泉談話は、日本と中韓両国とを「一衣帯水の間」と述べた。

一筋の帯のように狭い海や海峡を間にして近接した間柄、というのだが、最近は隔たる一方だった。


海を、国と国、人と人とをつなぐ渚(なぎさ)として見直してみたい。



対話の前には互いの信頼がなければ空疎である。まず信頼をかち得ることである。

まず靖国神社公式参拝といった簡単な行為から改めるべきである。





宮城県沖の地震で
犠牲者が出なかったことは
不幸中の幸いだった。

8月18日の天声人語より


 新幹線の混乱が長引いたのは残念だが、宮城県沖の地震で犠牲者が出なかったことは不幸中の幸いだった。

大きな地震に繰り返し襲われてきた地域の人たちの、日ごろの備えや、とっさの踏ん張りが利いたようにも思われる。

 それとは対照的に踏ん張りが利かなかったのが、台市内のスポーツ施設「スポパーク松森」の天井である。

大きな揺れと同時に、割れた天井のパネル板がバラバラと落ちてきた。


とっさに娘を抱きかかえてプールに飛び込んだ人の場合、頭と肩にパネルが当たったという。

 人々が服を脱ぎ、気持ちの上でも無防備になっているところに容赦なく降り注いだパネルは、凶器そのものだっただろう。

新しく開いたばかりの施設で、なぜこんなことが起きたのか。

巨大な天井を設ける際の安全基準や設計、施工、検査について、十分検証してもらいたい。

 柱はほとんどないのに、天井が大きく広がっている施設は珍しくはない。

しかし、天井の裏側で何かとしっかりつながっているかどうかが気になることはある。

 建物の棟上げなどで、工事の由緒や建築者、工匠などを記して天井裏の棟木に打ち付ける札を棟札という。

古い時代の棟札にはこんな願いが書かれている。

「天下和順」「日月清明」「地下安穏」「息災延命」「家族安寧」。歌を記した棟札もある。

〈鶴亀は かぎりありけり いつまでも つきぬは 山と水と流れ〉(佐藤正彦『天井裏の文化史』講談社)。

 暗くて見えにくい天井裏のようなところにこそ、安全を担う人たちは目を光らせてほしい。



まずは土建業者の良し悪しは見えないところへのきずかいである。

判明かすればそのような土建業者と事例を公式な機関で作る事である。業者を選ぶ判断材料になる。




刺客とは


8月19日の天声人語より


 争いごとでは、数が勝ち負けを左右する。

しかし、やみくもに数を取りにかけずり回る姿には、うらさびしいものがつきまとう。

 有権者の前で繰り広げられている公示前の争いは、多彩な活劇とも、いつにも増してぎらつく政界流の芝居とも見える。

池波正太郎さんには申し訳ないが、作品のタイトルを連想した。

 番犬の平九郎、首、錯乱、あばれ狼、かたきうち、間諜、舞台うらの男、鬼坊主の女……。

短編「刺客」は、信州、松代藩のあくどい家老の手先になってしまった男・児玉虎之助の物語である。

まっとうな藩政への改革をめざしている別の家老職の屋敷から江戸へ向かった密使の殺害を命じられる。

 刺客とは、表だって胸の張れる存在ではない。「虎之助は苦笑した。

淋(さび)しく哀(かな)しい苦笑である」(『完本池波正太郎大成』講談社)。

刺客」のほかに「くノ一」や 「印籠(いんろう)」が飛び交う永田町かいわいは、

池波さんが描いた人生の悲哀や機微の世界からは、かなり遠い。

 芝居といえば、英誌エコノミストにこんな見方が載っていた。

「歌舞伎はどれも、門外漢からは、同じ筋書きに見える」。

最後は相愛の心中で終わるが小泉歌舞伎の結末は違った、という。

「小泉首相は突然幕を引き、郵政法案に反対する議員らと相憎んでの相互自殺に至った」。

日本の政界では珍しいドラマで歓迎すべきだと述べている。

 日本にとって、本当に歓迎すべきことなのかどうか。


それは、「相愛心中」か「相互自殺」かという政治的な芝居の結末ではなく、

有権者の選択という結末で決まる。



国民は一番拙い選択をしたようだが。?




出品されている井真成の墓誌


8月20日の天声人語より


 通りの敷石の上に茶色いセミの羽が1枚落ちている。

その先に、もう1枚。体はどこへ行ったのか。

夏の終わりの始まりを感じさせる光景は、幼かった時へ、懐かしい場所へと人を誘う。

 「八月の石にすがりて/さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。/わが運命(さだめ)を知りしのち、/

たれかよくこの烈しき/夏の陽光のなかに生きむ」。

「日本浪曼派」同人だった伊東静雄の詩集「夏花」の一節だ。

 故郷は長崎県の諫早だった。

詩集「わがひとに与ふる哀歌」の「有明海の思ひ出」で、うたう。

「夢みつつ誘(いざな)はれつつ/如何(いか)にしばしば少年等は/各自の小さい滑板(すべりいた)にのり/

彼(か)の島を目指して滑り行つただらう/あゝ わが祖父の物語!」

 多くの人が故郷へ行き、故郷を思い、あるいは自分にはあるのか、などと思い巡らす時期である。

この人の場合はどうなのかと、東京・上野の東京 国立博物館で展示中の石の前で考えた。

 「遣唐使と唐の美術」展(9月11日まで)に出品されている井真成の墓誌で、中国の古都・西安で昨年発見された。

縦横約40センチ、厚さ約10センチの黒っぽい石板に伝記が刻まれている。

 「公は姓は井(せい)、通称は真成(しんせい)。国は日本といい、才は生まれながらに優れていた。

それで命を受けて遠国へ派遣され……よく勉学し、まだそれを成し遂げないのに、思いもかけず突然に死ぬと
は」

(東野治之・奈良大教授訳)。

36歳だったという。「身体はもう異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを願っている」。

その魂は千年以上の流離を経て里帰りを果たし、安らいでいるかのようだった。



井真成の名前が現在によみがえり,多分後代にも伝わると考える。

どんな意味があるのか。当時の先進国中国で真摯に学んだ一人の学徒がいたことである。

その中国と仲悪い行動をしている首相を持ちつづけなければならない。





氏名不詳者の氏名をどう書くか。


8月21日の天声人語より



 名古屋地裁で今月初め、公判に出廷した男性が裁判官にこう名乗った。

「こじきの仏(ほとけ)です。仏の国から来ました」。

公園に置いた野宿ベッドの撤去をめぐって市職員にけがをさせたとして訴追された。

不当な逮捕と訴えて決して身元を明かさない。

 本名を隠したり記憶を喪失したりした被告でも、起訴された当人であると確認できれば公判は進められる。

起訴状には「自称○○こと氏名不詳」などと記載され、照合用に写真が添えられる。

 氏名不詳者の氏名をどう書くか。

米国ではジョン・ドウがよく使われる。女性ならジェーン・ドウだ。

身元がわからない被告や遺体を指す。標準的で善良な市民という含意もある。

米国で以前、街頭取材の相手に名前を尋ねたが、「ジョン・ドウでいい」と譲らない。

本名を隠すにも便利な名だと思い知らされた。


 公的な申請書では氏名の記入見本にジョン・Q・パブリックの名がよく登場する。

日本でいえば山田太郎だろう。韓国では洪吉童(ホンギルトン)が多い。

17世紀ごろ書かれた大衆小説の主人公で、義賊として腐敗官僚をこらしめる。

童話や映画、教科書にも登場し老若男女に愛された。

 今年、名前の扱い方が右へ左へ揺れている。

個人情報保護法の影響で、春先はとにかく名を秘す方向に揺れた。

学級名簿は作られず、病院は患者を名でなく番号で呼んだ。

国家試験合格者の発表も減った。

今は一転、衆院選で、意外な人物の名が日替わりで出てくる。

 行きすぎた匿名社会は息苦しいが、名前に頼るばかりの擁立騒ぎも、見ていてかなり暑苦しい。




小泉劇場といわれた演出が成功したが,あまりにも本人も想定外の結果で,国民への負担はドッシリと重すぎる。

「想定」という言葉を常に繰り返していた人は想定どおり議員になれなかった。だが無所属で自民党応援の結果は想定外であった。


「郵政民営化は、おれの信念だ。
殺されてもいい」



8月22日の天声人語より


 「郵政民営化は、おれの信念だ。

殺されてもいい」「民営化に反対することは、手足を縛って泳げというようなものだ」。

今回の衆院解散劇で、小泉首相の言葉は、たんかを切るようだ。

 それが人の心を高ぶらせるのか、世論の支持率が上がっている。


「生死を問わずつかまえろ」「やつらをいぶり出せ」。

ブッシュ米大統領も西部劇を思わせるような表現で、同時多発テロ直後の米国人の心をつかんだ。


 昨今の政治では、説得の論法よりも、感情に訴える短い言葉が人を動かす。

「かつて、政治家の演説は、わざわざ演説会場まで聞きに行くものだった。

政治家は論理とレトリックに工夫を凝らした」。

故ケネディ大統領のスピーチライターだったソレンセン元補佐官に、そんな話を聞いたことがある。

 テレビ時代の政治家は、視聴者がチャンネルを切り替える前に、刺激的 な言葉を投げつけねばならない。

首相の解散会見の視聴率は時を追うに従ってうなぎ登りだった。

 名演説というと、「人民の人民による人民のための政治」というリンカーン大統領のゲティズバーグ演説を思い出す。

あれは国有墓地の奉献式で追加的に行われたあいさつだった。

メーンの演説は、雄弁で名高いハーバード大元総長が2時間も行った。

リンカーンはわずか3分間で、写真班がレンズの焦点を合わせているうちに終わった。

 それでもリンカーンの言葉が残ったのは、その崇高な理念にもよるが、

何よりも彼が米国の分裂を防ぎ、奴隷を解放したからだろう。

小泉首相の言葉を、歴史はどう記憶するだろうか。





「人民の人民による人民のための政治」を小泉首相は実行してくれるであろう。

人民は全て自分に四年間付託してくれ,そして今まで行ってきた政治をも容認してくれたとして。






「俳句甲子園」、全国高校俳句選手権大会


8月23日の天声人語より


 阪神甲子園球場で続いた戦いが終わった日、四国の松山では、もうひとつの「甲子園大会」が始まっていた。

「俳句甲子園」、全国高校俳句選手権大会である。

 正岡子規や高浜虚子を輩出した松山市で、松山青年会議所が主催して開かれてきた。

8回目の今年は、全国20都道府県から36チーム約200人が出場した。

決勝戦では、「本」という題で、東京の開成と茨城の下館第一が対決した。

 「寒月や標本の鮫(さめ)牙を剥(む)く」(開成)。「遠雷や絵本に溶ける夢を見た」(下館第一)。

5句ずつ詠んで審査員が判定を下し、開成が一昨年に続く2度目の優勝を果たした。


今回提出された1260句の中の最優秀句は「土星より薄(すすき)に届く着信音」。

京都・紫野高3年、堀部葵さんの作である。


 個々人の表白である俳句と、チームを組んで勝ち負けを競い合うこととは、直接には重ならない。

しかし、一句一句が五・七・五という極めて限られた言葉・文字への限りないダイビングだと考えれば、

団体戦にも新しい妙味が宿る。

 たったひとつの白球への限りないダイビング、とも言える野球に通じるところがある。

青春の一時期に、友と手をたずさえて見知らぬ相手と触れ合い、磨き合うのもいいことだろう。

 これまでの大会での秀句から。

「かなかなや平安京が足の下」「小鳥来る三億年の地層かな」「夕立の一粒源氏物語」

「裁判所金魚一匹しかをらず」「のどぼとけ蛇のごとくに水を飲む」「長き夜十七歳を脚色す」。

若い感性が周りや自分と出会って生まれた、一瞬の詩(うた)である。




俳句甲子園があるとは知らなかった。新聞記事に載っていても小さい扱いだろう。知らなかった。

だから天声人語の読みつがれる理由の一つがあろう。






八月二十日、灯火管制解除



8月24日の天声人語より



 前日まで窓という窓に垂らしていた暗幕を、母親がとりはずした。

「涼しい風がはいってきて、私は生まれてはじめての解放感を味わった」。

作家の常盤新平さんが、60年前の終戦時を回想している(『文芸春秋』増刊号「昭和と私」)。

 空襲に備えて家々の光を外にもらさないようにする灯火管制から、その日解放された。中学2年生だった。

 〈涼しき灯(ひ)すゞしけれども哀(かな)しき灯〉。

久保田万太郎の句には「八月二十日、灯火管制解除」と前書きがある。

「終戦」という前書きでは、こう詠んでいた。〈何もかもあつけらかんと西日中〉

 焼け跡の街で「戦後」が始まろうとしていた。

その始まりの合図のように灯(とも)されたのが、管制を解かれた無数の明かりだった。

久々に街に放たれた光は、解放感を呼び起こしつつ、長かった戦争の惨禍や人間の哀しさを思わせたのだろう。

 戦時中に民俗学者の柳田国男が著した「火の昔」に、灯火管制に触れたくだりがある。

「近頃では灯火管制をしなければならぬ程、灯火(ともしび)は明るくなつてゐますけれども……」。

昔は、闇を明るくするために皆が大変な苦労をしたと述べる。

「世の中が明るくなるといふことは、灯火から始つたといつてもいゝのであります」(『柳田国男全集』筑摩書房)。

 あの夏に戻ってきた灯火は、絶えることなく、より強く明るく、街を家を照らし続けてきた。

災害時は別として、常にあって当たり前の存在となった。

60年後の一夜、光が閉ざされたり、焼け跡を照らし出したりした日々があったことを思い起こしたい。



灯火管制は若い人達は理解できていないかもしれない。

電燈の笠の下の電球の明かりが外に漏れないように,すっぽりと黒い布で電燈を覆い隠して真下だけ明るくする状態である。

ガラス戸には全て紙が張られており,警戒警報のサイレンが鳴れば,家の全て外部との遮断する戸窓などには黒い幕が引かれて

外部に光が漏れないようにする。その時に隣組の役員の人達が各戸から光が漏れているかどうか点検に廻る。漏れていれば注意を促す。

そういった状態で暗い夜と,空襲の恐れにおびえながら過ごしたものである。

広島原爆は偵察機が去ってから,警戒警報が解除され,皆がやれやれと思って普通の生活に戻った時に一機の敵機が襲来して

原爆が落とされ被害が甚大になったとされている。一発の原爆で広島の街全体が全くの焼け野原になった。

其処に住んでいる人たちの被害は想像に難くない。





今なら政権公約か。


天8月25日の声人語8月25日より



 日本で最初の総選挙は、明治23年、1890年に行われた。

当選した中江兆民に「平民の目さまし??一名国会の心得」という一文がある。

 政党とは「政事向に就て了簡の同じ人物が若干人相合して一の党を為し他の党と張り合ふことなり」と記す

(『明治文学全集』筑摩書房)。

了簡(りょうけん)とは、考えや所存などを指す。

今なら政権公約か。それを一言に凝縮したような総選挙用のキャッチフレーズが出そろった。

 自民党の「改革を止めるな。」

党というより党首の了簡のようにも見える。

ポスターは小泉首相の4年前の写真を再利用した。

人は時とともに姿形を変えてゆく。

その変容は止められないが、ポスターの時間は4年前で止められた。


 民主党は「日本を、あきらめない。」。

「政権を、あきらめない」とも聞こえるが、政権を狙うにしては言葉に勢いを欠く印象だ。

日本を前へ。改革を前へ。」と与党の公明党。

日本をというよりも、小泉首相を前へ押し出しているさまを連想させる。

 共産党は「たしかな野党が必要です」。確かにそんな党は必要だが、この国をどうするのかも気に掛かる。

「国民を見ずして、改革なし。」は社民党。姿勢は見えるが、「改革」という「小泉語」に引きずられてはいないだろうか。

「権力の暴走を止めろ!!」と国民新党。「権力」を、ある人名に言い換えると、思いがにじむ。

新党日本は「信じられる日本へ。」。「信じられる党」には、なれるだろうか。

 標語のような一言だけで「了簡」を見極めるのは難しいが、その構えはうかがえる。



改革をおしすすめてきた小泉首相の政治で益々に日本の国の借金が増して,倹約はさらに強いられてきている。

何処にお金が流れていっているのだろう。?

小泉首相が賛美していたホリエモンとかにだろうか。それともその庇護者の外資にだろうか。



内調査による保険金の不払いが



8月26日の天声人語より


 それを「商品です」と言われても、しっくりこない。

現物を見たり手にとったりできないし、金を払ってすぐに届くわけでもない。

保険とは独特な「商品」だ。

 説明を受け、事故や災害に遭うことを想像しながら契約を結ぶ。

そして、できればその日が来ないようにと願う。

地上から絶えることのない膨大な不安の上に成り立った安心の仕組みの一つである。

 大手の損害保険各社の社内調査による保険金の不払いが、

1社あたり数万件、数億円程度にのぼる見通しとなった。


大半は自動車保険で、事故の相手を見舞う時の花代や事故車の代車費用といった、

基本契約に上乗せした「特約」の部分で多いという。


 近年、業界では競争が加速し、各社がさまざまな特約を開発して売り込んできた。

契約内容の確認もれなどが不払いの原因で、わざと支払わなかったのではないとの釈明も業界にあるようだ。

しかし、いざ助けが必要となった時に約束が果たせないのでは、何のための保険なのか。

 事故に直面した時、人は、まず平静ではいられない。


細かい特約など、思い起こせる人は多くはないはずだ。

そんな時だからこそ、損保会社は契約をきちんと履行し、支援すべきだろう。

 金融庁は先月、損保や生保による不当な不払いなどの事例集を、初めて発表した。

今年の2月には、明治安田生命が業務停止を命じられている。

保険業界は、安心の仕組みを売り続けてきた。

しかし、その業界の内側に、消費者が安心できるだけの仕組みがあるのだろうか。

疑問を抱かせることが続いている。



今までの体験から色んな保険はお守りのように感じていたが,其のカラクリが判ってきたように思う、




60年前の8月28日、
連合軍の先遣隊が
神奈川県の厚木飛行場に到着した。



8月27日の天声人語より


 40年も前の夏のことである。太宰治の作を次々に読んで、その世界にひたりかけていた。

しかしある日、地方での疎開生活から終戦後の東京に戻った「私」が、

「何の事も無い相変らずの『東京生活』」と述べるくだりでつまずいた。

 おびただしい人が死に、家を失った戦禍の街の営みを「何の事も無い相変らずの」とする語り口に違和感を覚えた。


若い時分の勝手な読み方ではあったが、太宰への旅は、この「メリイ-クリスマス」の冒頭で、いったんは途切れた。

 この短編は、占領下の昭和22年、1947年の「中央公論」1月号に掲載された。

昨日、図書館で手に取ってみた。

茶色に色変わりし、古い本に特有のひなたくさい香りをまとっている。

太宰が生きていた時に印刷された一冊かと思うと、

「相変らず」のくだりも、その先の「この都会」を「馬鹿は死ななきや、なほらない」と語る段も、

実際には聞いたことのない肉声を聞く思いがした。

 同じ昭和22年1月の「群像」に、太宰は「トカトントン」を発表している。

兵舎の前で敗戦の玉音放送を聞き、「死のう」と思った男が、背後から聞こえてくる音に気付く。

金づちでクギを打つトカトントンという音が、それまでの悲壮も厳粛も一瞬のうちに消し去った。

 確かに敗戦で日本は変わった。

しかし、人間たちでつながっているこの世の営みは「相変らず」でもある。

いつの頃からか、そう読むようになった。


 60年前の8月28日、連合軍の先遣隊が神奈川県の厚木飛行場に到着した。

焦土の日本での占領の時代が始まった。



当時は占領軍とは言っていなかったが,実際は進駐軍である。統治は日本政府がしていて「鶴の一声」でマッカーサー司令官の命令で

全てのことが運んでいった。今もそれが続いており,政権交代時のアメリカ詣では欠かされていない。

日本は今もそんな状態が続いている。





天気予報


8月28日の天声人語より


 夏の台風は時に迷走する。

先日の11、12号のように二つが接近すると、

とりわけ複雑な動きを見せて予報官を泣かせる。

双子がにらみ合って大回転することもあり、これは「藤原効果」と特別な名で呼ばれる。

いち早く研究した気象学者の藤原咲平(さくへい)氏にちなんだ。

 藤原氏は大正の末からラジオで気象解説を担当した。

昭和16年、1941年に中央気象台長に任命されたが、4カ月後には天気予報が禁じられる。

真珠湾攻撃の日を期して気象情報は機密とされた。

台風の進路はおろか地震の被害や翌日の暑さ寒さも公表できなくなった。

 予報が再開されたのは、敗戦直後の8月下旬だった。

ラジオが「今日は天気が変わりやすく、午後から夜にかけて時々雨が降る見込み」と放送した。

ほぼ4年ぶりの予報だったが結果は外れた。

 気象庁刊行の『気象百年史』によれば、その夜のうちに豆台風が上陸し、東京を暴風雨が襲った。

手痛い黒星に藤原氏は頭を抱えた。

今なら非難の猛風を浴びたはずだが、当時の人々は違った。

空模様の予報を聴くだけで、戦火が去った実感に浸ることができたのだろう。

 戦時中の翼賛的な言動が問題とされて、藤原氏は昭和22年春、公職から追放された。

長女の霜田かな子さん(79)によると、そのすぐ後に体調を崩し、昭和25年の秋に永眠した。

「気象学者としては無念な晩年でしたが、気象台の皆様は最期までご親切でした」と言う。

 郷里の信州諏訪には、後輩たちが建てた記念碑がある。

没後半世紀が過ぎたこの夏も、気象台職員ら60人が集い、花を手向けた。



時代の嵐は気象台員にも訪れ予想もしない運命に遭わされている。時代の嵐は誰をも巻き込み吹き飛ばしてしまう。

そのような時代が訪れないように祈るだけではゆくまい。

戦時体験が次第に霞んで来そうな時代になってきている。

嵐が吹けば抵抗できない。ただ只管にその通り過ぎるのを待つ以外にない。

それは自然現象と似ている。



総選挙は本番を迎える


8月29日の天声人語より


 あすの公示から、総選挙は本番を迎える。

残暑が続くなか、あの騒々しい候補者名の連呼が始まる。

そう思うだけで汗がにじむ。

 ところが今夜、ピタリと止まる政治の動きがある。

正確に言えば、30日午前0時をもって、公職選挙法によって「動かすな」と言われる。

インターネットでの運動だ。候補者のホームページは更新が禁じられる。


活動報告のメールマガジンも配信できない。投票依頼の電話がかけ放題なのとは対照的だ。

金権選挙を防ぐための法律が、膨大な情報を速く安く伝える手段を封じている。

 米国ではネット選挙が当たり前だ

昨年の大統領選では「ブロガー」が注目された。

ネット上に個人的な書き込み「ウェブログ(weblog)」を載せる人たちで、共和、民主両党の大会にも招かれた。

討論会でブッシュ大統領の背中が膨らんでいた「無線機疑惑」も、彼らが情報源だった。

 韓国の盧武鉉大統領は、ネット上のファンを現実に組織化して勝った。

選挙当日には投票率の経過発表ごとに「いま○○パーセント。


君は行ったか?」というメールが飛び交った。

 日本でも3年前、総務省の選挙研究会がネットの一部解禁を促した。

なのに国会は法改正をしない。

「お年寄りの支持者が多い党に不利」「中傷に悪用されないか」。

こんな慎重論が自民党などに多いからだ。

 公約の解説や候補者の選挙中の本音がネットで読めれば面白い。

有権者が探して見に行くので受け身でない選挙体験にもなろう。


「あと一歩、最後のお願いです」なんて絶叫もメールならうるさくない。



余りにも大事な選挙にしては期間が短い。今回の選挙で選挙違反者が余りにもすくないようだ。

取り締まる側が大勝したからとかんぐりたくなる。いつもは買収とかで摘発される報道は殆ど落選した人たちであった。

今回は当選した人たちに多くいるので,?報道はされずにすんだのだろうか。

それとも自民党の派閥が解消され殆ど一本化されたためにだろうか。?





吾輩(わがはい)は「刺客」である。


8月30日の天声人語より


 吾輩(わがはい)は「刺客」である。

名前は言えない。

人前で言えるような仕事でもない。

吾輩に仕事が来た流血の時代はとうに過ぎたはずなのに、現代の日本で「刺客」が飛び交っていると聞いて驚いた。

 民主主義社会について、哲学者カール・ポパー氏も言っていたというではないか。

流血を見ることなく、政権を交代させる可能性のある体制だと。


今の日本はどうなったのかと思って来てみたら、実際には刃傷ざたはないというので、ひとまずほっとした。

 先日、政権党が、候補を「刺客」と呼ばないでほしいと報道機関に申し入れたという。

吾輩とは逆に、表舞台に立つ人たちだが、元気で楽しそうに殴り込んでいる面々も居るようだ。

 党首の小泉氏は「別に『刺客』とか言うつもりはない」と言っていたが、この人の言辞は、相変わらず独特だ。

郵政法案が参議院で否決されて解 散した日には、あのガリレオを引き合いに出した。

「地動説で有罪判決を受けたとき、『それでも地球は動く』と(ガリレオは)言った」

 法案の正当さを地動説にたとえて強調したかったのだろうが、

中世の闇の中の宗教裁判に重ねるのは、闇をかいくぐって生きてきたような吾輩からみれば、やや無理がある。

参院でだめなら即総選挙という手を使ったとも聞いたが、現代日本の首相の権力も、なかなか絶大なものだ。

 今日は、その総選挙の公示日らしい。


そういえばポパー氏は、流血なしに政権交代を可能にする手だての一つとして選挙をあげていた。

来たついでに、吾輩も結末を見守ることにしよう。




郵政法案賛成候補への郵政法案の解説が行われている報道に接して違和感を感ずる。

郵政法案を知らずしてどうして賛成者になれるのだろうかと。

有名美人を集めての小泉劇場の興行大成功だった気もしない。

「時」は一回きりで,やりなおしが出来ないから,本当の成功不成功は永遠に不明である。




焼けこげたズボンに手を合わせ眠る。
広島市で被爆して亡くなった夫がはいていた。



8月31日の天声人語より


 最近の言葉から。戦後60年の8月がゆく。

広島県海田町の黒瀬フサコさんは毎晩、焼けこげたズボンに手を合わせ眠る。

広島市で被爆して亡くなった夫、原八朔(やいち)さんがはいていた。

「母の後は私がズボンを守り続けます」と娘の村上隆子さん。


 韓国には、被爆しながら被爆者援護法の対象外にされたままの高齢者が400人以上いる。

鄭外先(チョンウェソン)さんは申請に必要な証人が見つからない。

「手帳をとるのは、天の星をつかむようなものです」

 「今度こそ双方が対立に終止符を打ってほしいというのが、痛めつけられた住民の切なる願いだ」。

津波で住民の8割以上が死亡したインドネシアの村の村長が政府と独立派ゲリラの和平調印で述べた。

 少年院や刑務所の篤志面接委員らの手記集が出版された。

DJの西任白鵠(にしとあきこ)さんは、撮る角度で様々に写るカメラを例えに、少年たちに語りかけたという。

「人はみな物の見方も違えば、考えも違う。君たちもそのままでいい」 。

 後味の悪さが残る甲子園大会だが、長崎県立の清峰が、さわやかな風となった。

初出場で優勝候補を次々破り、ベスト16に。

甲子園が「普通の高校生でも練習すれば行ける場所と分かった」とエースの古川秀一君。

 骨肉腫のため昨秋13歳で亡くなった福岡県大牟田市の猿渡瞳さんの作文「命を見つめて」が教科書に採用される。

「戦争や、平気で人の命を奪う事件、いじめを苦にした自殺など、悲しいニュースを見るたびに怒りの気持ちでいっぱいになります……

本当の幸せって、いま、生きているということなんです」





奈良時代から平安時代へ


今京都に住んでいるが,奈良へ行っての感じたことは奈良は緑が多く,至るところに樹々が,それも大木があるにきずく。

普通の家の庭にその家に比べても何倍もする大樹がと立っていることがある。

屋根を突き抜けた大樹も見る。いたるところ古い大木が多い。古い都だけのことで有って当然である。

それから沢山な鹿が人となんのみさかいもなく馴れ馴れしく近寄ってくることである。始めは不思議な気がしたが直ぐに当然な気分になる。

奈良時代といっても都がアチコチに奈良県内の中で変っている。

それから滋賀の大津へと移り再び奈良に戻って,聖武天皇が山城(京都の奈良に近いところ)に都を定め,桓武天皇の時代には長岡京に

都を移し,間もなくしてから京都を平安京と定めた。その後ずーと明治時代に東京に移るまで京都が都として機能していたが

政治の中心は鎌倉であったり江戸になったりはしている。

奈良市内には奈良公園を中心として大体のところは巡る事ができる。東大寺 興福寺 春日大社 新薬師寺などがある。

正倉院 若草山も歩いて行ける場所にある。こじんまりした街である。

一方京都は平安神宮を中心に 御所を中心に 清水寺を中心にとそれぞれの地域へは歩いては行けない。

京都市内は伏見を入れると大変広い範囲となる。伏見は特別で昔は独立した伏見市だったが昭和に入り京都に合併されている。

今も伏見の人間は三条・四条の中心街に行くときには「京都に行く」と言った言葉で表現している。

京都にいながら神社仏閣は多く,今もって全ては廻りきってはいない。何時でも行けるとの気持も幾分働いていると思う。

京都はそれだけでも千年の都の意味はあると考える。

昔の話として祖父が京都にいれば何処へも行く必要がないとの話しをば逸話として親などから聞いている。

なるほとに「小京都」という都市が日本にいたるところ多くある。殆どが京都を模して街がつくられたようだ。

お祭りも京都の祇園祭りのような山車(だし)がでるところが多い。

考えてると奈良には有名な祭りはない。

仏教も奈良時代に中国,朝鮮を通して入ってきて,奈良で興り,京都で完成したとも言える。

行基は奈良時代の後期の人で,近くの寺を廻ると行基作の仏像を拝観することがある。

それに平安前期に活躍した弘法大師作の仏像をもよく見ることも多い。

それら二人に加え聖徳太子をいれると大体のお寺にはその人たちにまつわる逸話が多く存在し残ってる。

多分作られた話だけではないように考えたい。行基にしろ空海にしろ,その弟子達が多くいて,日本のアチコチに伝道してのことだと思う。

法然・親鸞・道元・日蓮も,伝教大師の比叡山で修行し京都で開宗している。殆どの宗教の本山は奈良 京都に集まっている。

宗派も弘法大師の真言宗一つとっみても,それぞれ沢山な宗派に分かれ存在している。東寺派 醍醐派 安祥寺派 日野派などなどで

密教を理解するのは大変で,困難である。大日如来を主として沢山な佛達がおられる。 法具も色いろである。

浄土系は判りやすく阿弥陀如来だけが主佛である。奈良時代から平安時代の境目に位置した行基と法然は約25年を隔て活躍した

日本歴史上の中でも傑出した二大宗教人であった。

その特徴はそれまで天皇・貴族のみの仏教を庶民のレベルまでに広めて深く活躍した先達である。

その後は法然・親鸞・道元・日蓮も,伝教大師の比叡山で修行し開宗して一般の人たちに佛教を布教されるようになって

日本人の精神の支柱となって,今も我々の心の支えとなって生きずいている。



日進月歩

全てが日進月歩である。医学でのことも毎日が新しい診断治療法か゛開発されている。

我々のところでのできることはしれているが,

如何に患者さんに新しい医学の恩恵が受けられるようにするか.情報を入手するのも仕事である。

情報手段が発達しパソコンを使い患者さん達も安易に情報は手に入れる事ができるようになった。

ネットではまだまだ研究段階のことも発表されている事もあり,説明が大変である。

専門が違えばなおさらの事である。

一番手近な喫煙を止めさせることにもてこずる。

タバコを長年吸っている人に禁煙を説いても中々に素直に受け止めてもらえない。

一番良い方法は政府がタバコ発売を禁止することである。

タバコが世の中からなくなれば吸うことができなくなり健康に良い世の中になることが判っていても実施されようとしない。

タバコがこの世からなくなれ成人病で苦しむ人が少なくなる事は明白で,誰もがそのように考えている。

ブータンではタバコが法律で禁止されを施行されているとかである。これこそが人間として立派な一番の先進国といわれている。

世界を見渡すと大国と称し威張った国々は核を保有しているか,色いろな兵器を沢山保有している国々である。

戦争は兵器があるから起こうる話で,この兵器がこの世からなくなれば戦争は起こりえない。

沢山な兵器を保有していることをば自慢している国がある。一方ではその国内では貧困でくるしんでいる人たちもいる。

兵器がなくとも人間は生きられる。全ての国々が兵器を廃棄することである。

一番簡単な世界平和への近道だ。

世界の誰もが平和を願っている。

この世に平和を願わない人は誰一人としていないと思う。


その解決方法はこの世から全ての兵器を捨て去る事である。必ず平和な世界がくることは間違いない。

先進国と言われている国々ほど沢山な兵器を生産し,保有している。その費用を貧しい人たちに与えれば平和な世界に

変るのは明白である。強い国ほど,威張る国ほど兵器生産に熱心である。

これこそ人間として一番文明から遠くて,野蛮な国である。何故にこんな簡単なことが今の世界では出きないのか。

タバコがなくなれば成人病が減る。兵器がなくなれば世界は平和になる。簡単なことである。

どうして戦争放棄した日本が率先し唱えないのか。

兵器がなく,兵器を持った国が世界中からなくなれば自衛隊も必要でなくなる。

同じ事が世界の全ての国々でいえることである。争いがあれば国際司法裁判所で争うようにすればよい。

人間から争いを止めることはできない。このことは不可能なことである。

その争いごとは裁判で決着つけることである。

それが,今の世界では色いろと平和のためとか自由のためとか民主のためとかの理由をつけて戦争にもっていっているのが現状である。

平和な世界は兵器を地球上からの一掃することにある。

人間は始めは石器時代の棍棒から,今では核兵器にいたるまて争う手段もが日進月歩に進歩して来ている。

でも人間そのものは昔も今も何一つ変ってはいない。



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