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随想
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10月になって
十月ともなると涼しくなるとともに,稀には寒い日も有る。本格的な秋を迎えることになった。
野菜売り場の店頭には柿,栗などの秋の味覚の果物とともに,それにマッタケなどが見かける。
食欲の秋 読書の秋でも有る。
日本国内状勢は多数の小泉チルドレン出現のお蔭か,小泉政権の安泰感が漂う。
小泉首相の暴走だけが起こらないことを祈る。これには祈る以外にない。
小泉後の政権の話題もマスコミが大いに賑わすようになってきた。
世の中は,かなり社会全体が右傾化してきているように思える。
これ以上の右傾化だけは是非とも避けたいものである。
其の一つとして憲法改正が次第に大きな話題となってきた。
憲法改正問題については今までのどの政権もターブで誰もが避けてとうしてきていたのが,
変人首相小泉がその突破口を開いてしまった。
後世の史家によってどのように評価されるのかどうか。
自衛隊の位置付けがどのようになるのか,大変気がかりなことが起きつつある。
海外で戦争できる軍隊だけにはなってもらいたくない。
世の中には絶対的な正義というものは有りえない。
正義とは時代とともに変化するものだから,何が正しいかは正確な解答は出てこない。
戦争しないこと,平和を求め,常に平和であることは間違いなく絶対的な善である。
これからも日本の自衛隊は戦わない軍隊であってほしい。
これまでどうりにに,自衛隊は災害とか治安維持などで大いに活躍してほしいものである。
来年始めにイラクからの自衛隊撤退が報道されたが,もっと早くしてもよいのではないのか。
イラクに自衛隊がいる必要性はなにもない。
強いていえばアメリカのブッシュのイラク戦争を助けるためだけにいるだけである。
日本には本来の自発性がj全くなくなってしまった。
だがその自発性に関して,多くの近隣諸国から反対されても,そしてかなりの日本国民からも支持されていないような
首相の「靖国神社参拝」が強行された。
それであっても,衆議院絶対多数なので反対の声は小さいものでしかならない。
如何に国民の衆議院での投票行動が小泉マジックに麻痺され,馬鹿にされ騙されたかがよくわかる。
巷間では「小泉劇場」という。今年の流行語大賞をもらつた。
その授賞式に自民党の武部幹事長が賞をもらいに出席している。
こんなに国民を愚弄した話はない。国民はもっともっと怒るべきである。
このような状態での日本は,国家として極めて不健全な状態である。
お賽銭をポケットから出し,参拝する姿はどう見ても小泉流の一種の小泉ショウーである。
テレビを通じ靖国神社参拝する姿を報道してもらい為にしか思えない。本当の狙いはどこにあるのか。?
参る姿のその魂はうわの空である。
本当に参拝したい気持があるならば,こっそりと誰にも見えない形で参拝できるし,家の中からでも参拝できる筈だ。
参拝される側の魂も,参拝する人の魂も人間の目には見えない。
その心があれば何処からでも参拝していようとも,魂同士相通ずるはずなのだが。
一応「不戦」のために参ったとの首相の言葉をは゛信じたいが。??
後はそれを是非とも,これからの行動・実行で示して欲しいものである。
中国 韓国からも大した反対デモがなくホッとしている。相手の国は歴史の深い大人の国である。
しかしいろんな影響がでてきている。中国,韓国に関しての首脳同士の会見の目途がつかなくなってしまった。
日本人としても恥ずかしい,やっかいな首相を持ったものである。
近隣諸国と仲良くできなくてこれからどうするのだろう。小泉首相は仲良くして行くと言うも,相手のある話である。
小泉後には,是非とも靖国神社参拝するような人は出てほしくない。
国家でもって,全ての第二次大戦で被害を被った国民を祀る国立慰霊施設建設への動きには賛成である。
「不戦」への誓いをば戦争で亡くなった人たち,全ての犠牲者に対しする。
その誓いでもってお参りする気持こそが大切である。
戦前戦中の靖国神社は兵士達が「再び靖国神社で会おう」としての教育・洗脳されてしまって,
国家が戦争遂行を奨励するために作られた機関になりさがったにすき゜ない。
早く本来の靖国神社にもどってほしいものである。
戦争で亡くなった人たち,その遺族達も強くそのように願っているに違いない。
「不戦」ここそが,不幸にも無惨にも死んでいったこの人たちが以後の世代の我々に残してくれた尊い教訓であり大いなる遺産である。
現在「核」が大量にある世界で,本格的な戦争は人類破滅への道であることは誰もが知っており,理解できているはずだ。
小さな禍がおおきな災禍にならないみとを願う。
イスラム圏での出来事,フランス ドイツ などで起きているイスラム系の若者達による連続放火騒動がどのように経過するのか,
小さな過ちだと思っていたことが取り返しの出来ないことにならないことを願いたいものである。
正義の為の戦争を唱え,正義のカタマリのブッシュにはその火種を感ずるとともに,それに追随する小泉首相の姿は
やはり小泉はブッシュのポチ以外にしか見えてこない。
情けない状況が続いている。
日本は独自に世界の中の平和大国を目指してほしいものである。
地球上で初めて,そして唯一原爆投下された日本にはその資格は充分にある筈だ。
絶対に戦争をしない国であり続けてほしい。
平和大国になることに異議を唱えるような日本国民は一人としていないとを信ずる。
世界中には,そんな日本に追随する国が多勢いる筈だ。
絶対に正義を唱えつづけるブッシュの追随者・応援団になってはならない。
平和大国を掲げ,且つそのリーダーを目指し,そのような日本であってほしい。
でも自衛隊員がアメリカにおいて,アメリカ軍の指揮官のもと戦争の訓練を受けている様子をテレビで見る機会があった。
日本の神奈川県に,アメリカ軍の司令部がアメリカから移転しようとしている。
現実は反対の馬鹿げた方向に進みつつある。
今回の京都での日米会談では,ブッシュにすがりつくような小泉首相の姿が報道されていた。
これでは日本のアジアからの孤立がさらに鮮明になってくるのではないのか。
その後の朝鮮でのAPEC(アジア太平洋経済会議)でそれがげんじつとなった。
近隣諸国と仲良くせずして,遠いアメリカと仲良くする姿は異常である。
日米同盟は占領時の遺産である。「安保反対」は当時の日本国民の声だった。
当時の首相だった岸首相が日米同盟を強引に進めた。
これからは日米平和条約こそが米国からの半植民地化から脱却する一番の方法である。
核の傘の下にいるのは,核の雨の下にいるようなものである。
実利的なアメリカが日本を助けはしない。自国の為に利用するだけのことである。
アメリカの基地が何故にこんなに沢山日本に必要なのだろうか。不思議でならない。
不思議に思わないのは,第二次大戦敗戦後の占領統治下のマッカーサー司令官の偉大さを知らない世代が
増えて来た日本では無理な話なのかもしれない。
いつも腹が減っていて
10月1日の天声人語より
今年も食欲の秋が巡って来た。
思えば、今から60年前の終戦前後は、多くの人が食糧難に苦しんでいた。
本紙・声欄に寄せられた投書を編んだ新刊『庶民たちの終戦』にも戦後の様々な出来事とともに、
ひもじかった日々がつづられている。
国民学校の4年だった渡辺マツ代さんは、群馬・高崎から父の出身地の妙義山のふもとへ、祖父や姉妹と疎開していた。
いつも腹が減っていて、沢ガニやカエルが貴重なごちそうだった。
ある夜、隣に寝ていたはずの祖父の姿が見えなくなった。やがて、戸板に乗せられて帰ってくる。
裏山のがけから落ちて死んだらしい。
冷たくなった祖父の右手に親指大の小さなサツマイモが握られていた。
「孫たちに食べさせたいと思ったのでしょうか」
占領軍の残飯捨て場に、鍋を手にした女性たちが群がっていた。
当時17歳だった金武聖子さんは、情けなくて歯ぎしりしたという。
「子供に分け与えていたのだろう。今なら母親の愛と強さなのだと、しみじみ感じることができる」
水澤間津男さんは、家に猫が迷い込んできた時のことを書いている。
飼う余裕はなかったが、よくネズミを捕るので置くことにした。
ある日、猫が牛肉の塊をくわえて来て、どこかに行ってしまう。
肉をどうするか。
結局、一宿一飯の恩義を感じた猫が持ってきたのだからと、家族でありがたく頂戴(ちょうだい)する。
「猫の獲物を『ネコババ』する衣食足らざる時代の、思い出とも言えぬミミッチイ話である」
今この国では、食品のざっと3割弱が、残飯となって捨てられている。
養豚をしていた家が,近所に有って,そこからアメリカ軍のドラム缶に入った残飯の一部をわけてもらい非常にお美味しく食べた記憶がある。
雑炊 黒パン 豆粕ご飯 サツマイモの代用食などを食べていた時代の頃の話である。
残飯の味の油こさが懐かしく,哀れに思い出される。
敗戦後の日本人は悲惨な苦労な生活をば強いられ生き延びてきた。
多くの都市への空襲と広島・長崎で原爆でなにも戦闘していない一般の市民が何十万人ともしれない
数えられない人数の人たちが虐殺されていった。
それが戦争なのです。
駆けっこは明治の昔から運動会の花形 だった
10月2日の天声人語より
宝塚歌劇団の元トップスター大浦みずきさんは運動神経に恵まれ、駆けっこなら小中学校を通じて1位の記憶しかない。
でも不思議なことに、家族はそろって運動音痴だった。
特に父は瞬発の才に乏しく、運動らしい運動をする姿を見たことがない。
この春、79歳で亡くなった詩人の阪田寛夫さんである。
いとこで幼時から親しかった作曲家の大中恩(めぐみ)さん(81)も「彼の運動神経には同情した。
走るのも投げるのも滑るのも苦手でした」と話す。
数々の童謡で知られた阪田さんにこんな詩がある。
「びりのきもちが わかるかな/みんなのせなかや 足のうら/じぶんの鼻が みえだすと/びりのつらさが ビリビリビリ」
(『ばんがれまーち』理論社)。
校庭の隅で、自らの鈍足にため息をついた人には、懐かしくも切ない記憶だろう。
駆けっこは明治の昔から運動会の花形 だった。
競技史に詳しい手島宗太郎さん(71)によると、日本で最初の運動会は明治7年に東京の海軍兵学寮で開かれているが、
英国人教官らが決めた種目の大半は「疾駆」ものである。
明治11年に米国式で始まった札幌農学校の運動会でも、やはり走力を競う「電奔」が多かった。
明治後半に騎馬戦が流行し、大正期には遊戯が広まる。
戦時中には敵機襲来など新競技も生まれた。
時代を映す運動会だが、プログラムから駆けっこが消えたことはない。
この季節、スタートの号砲を聞くと、何歳になっても胸がしめつけられるという人がいる。
最後尾でもがく生徒に、昔のわが身を重ね、ひとりで目頭を熱くしたりする。
運動会では「走り」の競争は花形である。1等にはいつもはならないが,時にはなった,ビリにはならなかった。
代表選手で自分より背の低い友達に抜かされ,抜かした友が観客からさかんに拍手されるのを今でも悔しく思い出す。
「耳マーク」をご覧になったことがあるだろうか。
10月3日の天声人語より
「耳マーク」をご覧になったことがあるだろうか。役場や病院で窓口に掲げているところがある。
「耳の不自由な方は筆談します」というような文言が添えられている。
一方で、耳マークのカードやシールを持ち歩いている人がいる。
そこには「耳が不自由です」と書かれている。
普及活動をしているのは全日本難聴者・中途失聴者団体連合会だ。
耳マーク部長を務める長田由美子さん(61)は「聴覚障害は外見ではわかりにくい。
人生の途中で耳が不自由になった私たちは、普通に話せるので、なおさらです」という。
耳マークを身につけることで、障害を周りの人に知ってもらう。
窓口に置いてもらえば、筆談を頼みやすい。
とはいえ、それほど知られているとはいえない。
「理由の一つは、中途での失聴者や難聴者が自分の障害を隠しがちだからです。私もかつてはそうでした」
長田さんは幼い頃に中耳炎を患い、徐々に聴力が落ちた。
出産後、補聴器をつけた。
聞き取れなくても聞こえるふりをしていた。
転機になったのは8年前、父を亡くした時だ。
葬儀の後、親族の間でどんどん話し合いが進んでいく。
「私はわからない」と声を荒らげてしまった。
その時、ようやく難聴という障害を受け入れることができた。
一口に聴覚障害者といっても障害の状況は同じではない。
手話や筆談など意思疎通の手段も様々だ。足並みは必ずしもそろわない。
それでも、長田さんは外出にはいつも耳マークのバッジをつける。
一人でも多くの人に聴覚障害者の実情を知ってもらいたいからだ。
「耳マーク」がどんなマークかも知らない。
:検索で調べてみた所,下図のような図であるようだ。
「聴覚障害者のシンボルマーク『耳マーク』 このマークは「耳が不自由です」という自己表示が必要ということで考案されたもので、
この矢印には、 聞こえない・聞こえにくい全ての人々にとって聞こえの向上、保障を求めていく積極的な生き方の象徴を意味してあります。」
以上の記事が書かれていた。気ずかなかった。
憶えておこう。知らなかった人達も一緒に。
遺伝子音楽だった。
10月4日の天声人語より
5年前に米国で亡くなった大野乾(すすむ)氏は、天才肌の遺伝学者として知られた。
ノーベル賞級と折り紙のついた研究のかたわら、奇抜な仮説で時に学界を驚かせる。
その一つが19年前に発表した遺伝子音楽だった。
遺伝子こそが美感を左右すると説き、ニジマスやブタ、ニワトリのDNAの配列を音符に置き換えた。
妻の翠(みどり)さん(76)にピアノ演奏を頼み、これはバッハ風だ、いやドビュッシーに近いと分析した。
音楽界では好評だったが、生物学の世界では「非科学的」と異端視された。
ロサンゼルス郊外に住む翠さんのもとに今春、日本から1枚のCDが届いた。
県立広島国泰寺高校の生徒たちが3年がかりで作ったオオサンショウウオの遺伝子音楽だった。
生物班の生徒がDNAを解析し、大野理論に従って五線譜に落とした。ヒトの遺伝子から作った曲もあり、
翠さんは懐かしさにじっと聴き入った。 同じCDを聴いてみた。
サンショウウオの調べはモーツァルト風の軽快さに満ち、伸びやかで明るい。
対照的に、ヒトの遺伝子音楽は重く物悲しく、苦悩の旋律がベートーベンを連想させた。
生物班を指導した広島大の三浦郁夫助教授(46)によると、今回も「科学の領域を外れている」という批判があった。
それでも遺伝子の音を聴く試みに、高校生たちは休日を忘れて取り組んだ。
参加したのは3学年の19人。
この夏、代表2人が訪英し、現地の大学や高校で調べを披露して拍手を浴びた。
解析されたサンショウウオのDNA情報は9月末、国立遺伝学研究所を通じて、世界に公開された。
遺伝子が音符になるとは。ますますに生命の神秘を感ずる。
そのルパンが、今年は生誕100年だ。
10月5日の天声人語より
動物好きが、イヌ派とネコ派に分かれるならば、ミステリー好きは、ホームズ派とルパン派に分かれるかもしれない。
むろん両方が好きな人もいるだろうが、難事件を解決する名探偵と、神出鬼没の怪盗紳士では、好みもずいぶん異なる。
金持ちの財宝は奪うが、人は殺さず、弱い者にやさしいルパンには、圧倒的に女性ファンが多い。
善と悪の両面を持つ影のある人物像も魅力のようだ。
ホームズに比べると、実はルパンの方が登場は20年近く遅い。
作者のルブランは、当時すでに有名だったホームズを自作に登場させて、「遅かりしホームズ」なんて作品を書いたものだから、
ホームズの作者ドイルが、怒りの手紙を寄越したほどだ。
そのルパンが、今年は生誕100年だ。
フランスの映画が封切られたり、新しい翻訳も出たり、にぎやかである。
しかし、日本にこれだけファンが多いのは、なんと言っても、子ども向けにルパンを紹介してきた作家の故南洋一郎さんの役割が、大きい。
彼の筆によるポプラ社のルパン全集で、どれだけ多くの人がルパンの魅力にとりつかれたことか。
58年の初版以来累計880万部に及ぶ。
大人向けの翻訳とはずいぶん違う。わかりにくい筋はそぎ落とし、テンポよく展開する。
南さんが加筆した部分は、若き日の彼自身の見聞に基づいて、西洋の風物をわかりやすく説明しているところだ。
明治以来の西洋文化の摂取の陰には、そのエッセンスを日本人に消化しやすい形で紹介した多くの先達がいた。
南さんのルパンもその偉大な伝統に連なっている。
日本では江戸川乱歩をよく読んだ。それに銭形平次捕り物帳。 勿論ルパン, シャーロックホームズも。
小泉首相は、
強大な宗教権力によって断罪された
ガリレオと自らを重ねるように
10月6日の天声人語より
イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイは、ミケランジェロが死んだ年に生まれ、ニュートンの生まれた年に死んだ。
ルネサンスと近代科学に橋を架けた生涯を象徴する巡り合わせだ。
これは史実だが、ガリレオにまつわる話には史実とは言えないものがある。
「それでも地球は動く」。
地動説を支持したために問われた宗教裁判での言葉というが、これも創作されたものらしい。
小泉首相は、郵政民営化法案が参院で否決されて衆院を解散した日の会見で、この言葉を持ち出した。
強大な宗教権力によって断罪されたガリレオと自らを重ねるようにして訴えた。
日本の政治の最高権力者がガリレオの立場にあるはずもないが、再び法案を審議中の国会で4日、この言葉を巡るやりとりがあった。
「ガリレオはローマ教皇(法王)庁に『意見を変えなさい』と言われた。
首相は圧力を加えて『賛成に回れ』と。ガリレオでなくローマ教皇(庁)だ」。
民主党議員に指摘され、首相は「首相に与えられた権限を最高に活用するのも民主主義」と答えた。
ガリレオの時代は、地球が高速で自転しているのなら、石や動物は飛ばされてしまうはずだとの議論があった。
ガリレオは「愚かにも……たれかが大地は動くと最初にいったときにはじめて動き出し、
それ以前は動いていなかったように考えるのです」と批判した(『天文対話』岩波文庫・青木靖三訳)。
後世の人々は彼の先見に深くうなずき、裁いた側は歴史に裁かれた。
「権限を最高に活用」した首相を歴史はどう判断するだろうか。
小泉首相のマジックショウーは華麗にも成功裏に終わった。
それが国民にとって幸せになったかどうかは別問題である。不幸の始まりの予感がする。
第二幕があるのだろうか。
トヨタ自動車が富士重工と業務提携
10月7日の天声人語より
星にちなむ全国アンケートで、好きな天体の第1位に「すばる(プレアデス星団)」が選ばれたことがある。
昔から日本人にはなじみが深く、清少納言も「星は すばる。ひこぼし。ゆふづつ」と「枕草子」でうたっている。
おうし座にあり、六つの星が見えることから六連星(むつらぼし)ともよばれた。
この六つの星をデザインしたマークが「スバル車」をつくる富士重工業の商標だ。
そのスバル車の先行きが気になる動きがあった。
トヨタ自動車が富士重工と業務提携し、
これまでの提携先の米ゼネラル・モーターズ(GM)が持っていた株の一部を買って筆頭株主になる。
国際的な再編を繰り返してきた業界だが、今回は日米関係を映しているような面がある。
業績がめざましいトヨタは、米国での販売価格の値上げを発表している。
トヨタは否定しているが、値上げも今回の動きも 、経営不振に苦しむGMへの支援とみられている。
19世紀に欧州で生まれた自動車は20世紀に米国で巨大な産業となった。
戦後もGMなどのビッグスリーの時代が続いたが、やがて、トヨタなどの日本車が米国の多くの消費者の支持を得るようになった。
その流れは激しく、米国のメーカーは窮地に追い込まれている。
58年に発売された「スバル360」は、丸くて小さい形から「てんとう虫」とも呼ばれた。
富士重工の前身の中島飛行機の技術が凝縮されていた。
小さくともきらりと輝く。そんな願いと誇りとが感じられた。
そのスバルのマークが、今は、国と国のきしみの緩衝材に使われているように見える。
トヨタ自動車の収益力に目を見張るものが有る。トヨタバンクとも言われる無借金の経営が功を奏したと思える。
誰もが考えるが,なかなかできないものである。
派手な商法で破滅していった企業がバルブ崩壊後沢山目にしている。
今では大型店のぶつかり合いに移行して,はどちらかが沈む。
老舗はトヨタ型経営方針で続いている。
伝統と「信用」とは表裏一体の物である。「信用」こそがどの場合でも東西今昔,一番大切なことである。
「文字・活字文化振興法」という法律が成立
10月8日の天声人語より
文字のない世界というものを想像してみる。
書類も本も新聞もない。どこか思い切りの良い、さっぱりとした世界のようでもある。
しかし、できごとや心にあることを、思うようには記せない。
過去と未来が薄れてきて、現在だけが際だちそうだ。
文字の記録もないから、ややこしい約束ごとは難しい。
こんなことを想像したのは、この夏に「文字・活字文化振興法」という法律が成立したからだ。
実際に文字や活字がなくなることはないだろうが、現代人の深刻な文字離れに待ったをかけたいという狙いのようだ。
読書週間の初日の10月27日を「文字・活字文化の日」と定めた。
第1条を読みながら、おやと思った。
「この法律は、文字・活字文化が、人類が長い歴史の中で蓄積してきた知識及び知恵の継承」と始まって、
終わるまでざっと200文字に句点がない。
新聞記事だと約20行分にあたる。
文字文化を大切にする法律なのにと苦笑したが、文字と活字を顧みるという趣旨にはうなずく。
現代の文字にまでつながるかもしれない「中国最古の絵文字」が、多数見つかったという。
1万年以上前のものだといい、内陸部の岩壁に描かれていた。
新華社が配信した岩壁の絵を見ると、角が生えたような動物が脚と尾を伸ばしてつっぱっている。
狩りのさまだろうか。
その姿には、世界各地の洞窟(どうくつ)や岩場に残された絵に通じるものがあるようだ。
絵からは、文字の源流への想像を誘われた。
文字のない時代から、文字に取り囲まれた時代になり、文字の存在を見直す時代にまで来ている。
意思を伝える方法として「絵」「文字」「言葉」などがある。活字離れと言われているが,テレビの発達が格段に情報を
広く伝える手段となって来ている。
パソコンはインターネットを通じ容易に個人の意見 思いをば発表できる方法である。
誰に読んでもらえるかは別にして,とりあえず出版物即ち本に頼よらずして,世界の人たちに自分の考えばを発表出きる時代はありがたい。
時代は進化しつつある。新しい伝達方法をfば利用しないでいるのも,折角の「生」を受けていて,もったいない話である。
話し言葉はテレビのような媒体を使わない限りにおいて,わずかな人たちにしか伝える事はできない。
題は「滅びゆく日本」
10月9日の天声人語より
「チームは売り物じゃない」という横断幕が昨秋、ロンドン市内に掲げられた。
英サッカーの強豪マンチェスター・ユナイテッドのファンたちだ。
強引にチームを買い取ろうとする米実業家グレーザー氏に反発し、本人に似せた人形を焼いた。
グレーザー氏は8歳で家業の時計店を継ぎ、13歳で独立した。
投資事業で成功しアメフット球団を所有する富豪となった。
半年余りでマンチェスター株を70%支配し、買収提案を拒む旧経営陣をねじ伏せた。
グレーザー氏には他国のサッカーも投資先の一つにすぎない。
地元ファンをなだめるようなこともしなかった。
「買収お断り」「魂は買えない」。そんなプラカードが先日、甲子園の客席に揺れた。
阪神電気鉄道株を40%近くまで買い進めた村上世彰(よしあき)氏に向けたファンの抗議である。
村上氏は大阪・道頓堀の近くで育った。
株取引は小4の頃から。「これで小遣いを稼いでみろ」と父親から100万円を渡された。
中学では、四季報や経済紙を愛読した。
東大から通産省に進んだ村上氏が30歳で書いたという小説の草稿を読んでみた。
題は「滅びゆく日本」。
主人公は大阪生まれで、東大在学中から株で財をなす。
内閣官房長官となって女性首相を支え、「生きてる間に日本を動かすでっかいことをやりたい」と語る。
中高の6年間、阪神電車で通学した村上氏は、「球団名、甲子園、縦じまユニホームに愛着を感じる」とファンを自任する。
同時に、球団を投資対象と見ていることも隠さない。
「村上・タイガース戦」から目が離せない。
とんでもない若者が続出してきている。IT時代の寵児か,異端児か未だ判らない。
行動には一定のルールが必要である,其の所がまだまだこれらの若者には未熟なように思えて仕方がない。
ワンマン宰相の異名をとった吉田茂は、
10月10日の天声人語より
ワンマン宰相の異名をとった吉田茂は、人を食ったような逸話をいくつも残している。
若き外交官時代、旧知の寺内正毅(まさたけ)首相に「秘書官になれ」と言われ、
「総理大臣は務まると思いますが、総理大臣秘書官は務まりません」と答えて「出世」を棒に振った。
戦後は、戦犯容疑者に指定されて自殺した近衛文麿(ふみまろ)の家を借りて、来客に「ここに寝ていたら、
近衛が出てくるだろうと思ってね」と平然と語っている。
その破天荒さは時に、したたかな実利主義とも結びついた。
再軍備を迫る米国にしぶとく抵抗した吉田の軽武装経済中心路線が、戦後日本の繁栄の基礎を作ったことは、よく知られている。
「そうした商人的政治観は、必ずしも彼の本質ではなかった」とみるのは、
新しい伝記「吉田茂??尊皇の政治家」(岩波新書)を執筆した原彬久(よしひさ)・東京国際大教授だ。
原さんに よれば、吉田を動かした原動力は、皇室への尊敬が社会秩序の基礎だという信念だった。
少年時代の国粋主義教育に加えて、夫人を通して明治維新の元勲大久保利通(としみち)に連なる系譜は、
彼の尊皇の念を一層強めた。
「占領軍に協力したのも、マッカーサー元帥が日本の統治のために皇室存続を決断したからだ」と原さん。
さらに吉田は、戦争責任から一時は退位すべきか迷っていた昭和天皇を思いとどまらせた。
天皇の権威を守るためだっただろうが、「
天皇が自らの戦争責任を形にできなかった歴史的含蓄は重い」と原さんは言う。
今日まで残る日本の過去の問題を考えると、吉田が落とした影もまた大きかった。
吉田茂は戦後間もなく,長い間日本の首相を努めていた。
国粋主義教育を受けた典型的な世代の人物である。
吉田首相なくして戦後の政治は語れない。「臣 吉田茂」でとおして,皇室への尊敬が社会秩序の基礎だとして
天皇崇拝は強烈であった。それでも誰もが違和感を感じない時代で,
誰もが同じような教育を受けて育った人たちの時代だからである。
戦前は今の北朝鮮の金日成と同じである。
天皇は神の子孫と教えられ,神かがり的な立場に祭り上げられていた。
現在もその残渣はある。誰もが言わない,言えない時代だった。
皇室の皇后陛下美智子さんが失語症になったり,皇太子妃雅子さんがノイローゼで公務につけないような
環境を誰が作っているのだろうか。
皇室の墳墓は全国に膨大にある。
個人の尊厳を犯すべからずで発掘調査はされていない。
古代史研究では古い墳墓・御陵を調べるだけでも長足の進歩がある筈である。
我々庶民は死後五十年以上経れは゛五輪塔の中にまとめて改葬されている。
人間平等である筈が同じようには扱っかわれていない。
これは民主主義に反するのではないのだろうか。
誰が皇室の人たちを病気にする位にまで制限し 圧迫をくわえているのだろうか。
戦前教育を受けた人たちが少なくなった今,国民が皇室のことをば真剣に考えてあげる時代にきている。
人間として特別扱いをする必要はないのではないか。?
カシミール地方などの山岳地帯に地震の被害が集中
10月12日の天声人語より
三蔵法師の名で知られる中国唐代の僧・玄奘が、その長大な旅行記『大唐西域記』に記している。
「迦湿弥羅(カシミール)国は周囲七千余里ある。
四方は山を背負っており、その山は極めて険しい」(東洋文庫・水谷真成訳注)。
パキスタンの北部で起きた大地震は、日がたつにつれて犠牲者の数が大きく増えている。
カシミール地方などの山岳地帯に被害が集中しており、ムシャラフ大統領は各国に援助を要請した。
日本の援助隊も活動を始めた。
隣国のアフガニスタンに駐留する米軍が輸送ヘリを派遣し、英、仏、オランダ、トルコからも援助隊が向かったという。
国連の人道問題調整事務所(OCHA)が各国の調整にあたる。
救助に向かう動きは、まずは滑らかなようだ。
しかし険しい山岳地帯ということもあって、がれきの下に人がいるのが分かっていながら救助の手が届かないところがあるという。
救助は時間との勝負だ。
平時から、各国が効率よく手分けして一刻も早く現場で活動が始められるような仕組みと備えが必要なのではないか。
玄奘は「気候は寒さ勁(きび)しく雪多く風は少ない」とも書いた。きびしいのは、間近に迫る寒さだけではない。
カシミールは、パキスタンとインドの領有権争いという厳しい歴史も背負っている。
インド側でも、ジャム・カシミール州を中心に多くの死者と家屋倒壊の被害が出たという。
崩れた建物の壁とたたかう被災者に、国と国との争いという壁まで負わせてはなるまい。
両国政府は、互いの国境と歴史を超え、手を携えて命を救ってほしい。
山岳地帯への食料配給が人が背負って送り届けているテレビ姿をみる。住宅復興はそれ以上に大変かと想像する。
イラクでの自衛隊の人々をこちらへ廻せばと,考えたりする。それこそ人道復興支援である。
初の女性首相が誕生する運びだという。
10月13日の天声人語より
ドイツの「今年の言葉」に「赤・緑」が選ばれたのは98年だった。
9月の総選挙で、社会民主党と90年連合・緑の党との連立政権が生まれた。
両党のシンボルカラーから「ロート・グリュン(赤・緑)」と呼ばれた。
それ以来続いてきた「赤・緑」の連立から「赤・黒」の連立へと、ドイツの政権が移った。
黒は、これまで保守系野党だったキリスト教民主・社会同盟のシンボルカラーだ。
メルケル党首がシュレーダー氏に代わって首相になることで、「赤」と「黒」は合意した。
初の女性首相が誕生する運びだという。
メルケル氏の51年の生が、分断から統一へのドイツの変遷と重なっていることが印象的だ。
冷戦下の54年に旧西独のハンブルクで生まれたが、間もなく旧東独へ移住する。
ライプチヒ大学で物理学を学んだが、89年にベルリンの壁が崩壊したころ、政治家に転身した。
コール前首相に見いだされて閣僚となり、「コールの娘」とやゆされた。
強気の姿勢は、サッチャー英元首相になぞらえて「ドイツ版・鉄の女」とも言われた。
しかし壁の崩壊から16年後、国民は結果としてだが東独育ちの彼女を国を率いる立場へと押し上げた。
03年のドイツの「今年の言葉」は「古い欧州」だった。
ラムズフェルド米国防長官が、イラク戦争に批判的な独仏を非難して使った。
長官にこの言葉をはかせたのが「赤・緑」の連立だった。
「赤・黒」による国のカジ取りが始まるが、両党の「色合い」の違いもあって、不協和音も予想される。
ドイツの新しい航海に注目したい。
時代は変る。メルケル党首がシュレーダー氏に代わって首相になることで、「赤」と「黒」は合意したドイツはどのように変化
するのか見極めたい。長い間の東西冷戦の分裂での,東西ドイツの後遺症の修復がすすむかどうか。
米ソ対立時代の後遺症が此処でもみられる。
勤勉な性格のドイツ人だからきっと成功するとかんがえたい。
それともに,欧米流のプラグマチズム的な風潮の流れは此処にもおしよせているのだろうか。
今年のノーベル経済学賞には
「ゲーム理論の応用」という業績で、
10月14日の天声人語より
今年のノーベル経済学賞には「ゲーム理論の応用」という業績で、二人の学者が選ばれた。
時おり耳にする理論だが、なじみがあるとはいえない。
ゲーム理論の説明には、よく「囚人のジレンマ」が持ち出される。
竹田茂夫著『ゲーム理論を読みとく』(ちくま新書)にはこうある。
警察が、窃盗の共犯と思われる容疑者を二人捕らえた。物証は乏しい。
刑事は、二人を隔離してそれぞれに告げる。
「相棒が黙秘している。もしおまえが自白すれば無罪放免にしてやる。
逆に、おまえが黙秘して相棒が自白すれば、おまえの罪はもっと重くなるぞ」。
「ゲーム理論の普通の説明によれば、囚人はそれぞれ相棒が裏切るのではないかという疑心暗鬼に陥って、
自己防衛のために自白してしまう」と竹田さん。
今回受賞したイスラエル・ヘブライ大のロバート・オーマン教授が記す。
「ゲームの理論とは、利害の一致しない人々の合理的行動に関する理論である。
その適用範囲は、通常の意味でのゲームをはるかに越え、たとえば、経済学、政治学、そして戦争などもそこに含まれる」
(『ゲーム論の基礎』勁草書房)。
もう一人の受賞者、トーマス・シェリング米メリーランド大教授は冷戦中にはゲーム理論を安保・軍拡問題に応用した。
戦略研究の古典だという。
戦略や戦略的思考といった言葉が人をひきつける力をもっているのを、竹田さんも認める。
しかし、そのプラスのイメージだけに目を向けることには批判的だ。
確かに国にも企業にも戦略は必要だが、戦略だらけでも息苦しい。
「相棒が黙秘している。もしおまえが自白すれば無罪放免にしてやる。
逆に、おまえが黙秘して相棒が自白すれば、おまえの罪はもっと重くなるぞ」
として自白を強要するとは賢い理論である。
でも嘘の告白をどうして見分けられるのかどうかが心配だ。それこそ「冤罪」の量産になりかねはしないのかと危惧する。
今年のノーベル文学賞に決まった
英国の劇作家ハロルド・ピンター氏の
代表作の一つ「部屋」
10月15日の天声人語より
大きな家の一室を借りて、初老の夫婦が住んでいる。
妻ローズは部屋が気に入っている。
ある日、貸間を探しにやってきた若いサンズ夫妻が戸口に立つ。
「サンズ氏 地下室の男は一つあいてるって言ったがな。
一部屋だけ。七号室だそうです。 (間) ローズ それはこの部屋です」。
現に自分たちが住んでいる部屋が、なぜ「空き部屋」と伝わるのか??。
今年のノーベル文学賞に決まった英国の劇作家ハロルド・ピンター氏の代表作の一つ「部屋」の一節だ(『ハロルド・ピンター全集』新潮社)。
確かなものだったはずの自分たちの部屋や、かつての記憶が揺らぐようなことが重ねて起こる。
(間)と示される沈黙は、現実を突き崩されてたじろぐ人の象徴とも見える。
ピンター氏は、今回の受賞を感謝し率直に喜んでいるという。
そして記者 たちに語った。
「よほど気をつけていないと、世界はダメになってしまう」「これからも政治的な問題にかかわり続けていきます」
北大西洋条約機構軍が旧ユーゴスラビアを空爆したころに述べている。
「今こそ、政府によって繰り返される(戦争についての)歪曲(わいきょく)、誤った情報の正体が暴露されるべき時だ」。
芸術家は真実を守り、世界の権力が何をしているのかを明らかにすべきだとの姿勢を示した。
「部屋」に限らず、作品には「場所」を巡っての人模様が多い。
「場所」とは、人にとって欠かせないものであり、それは実にもろいものでもある。
戦争にあらがう言葉の向こうに、そんな思いを想像した。
ノーベル賞をとるような人たちの考えは凡人には直ぐに理解し難いところがある
芸術家は真実を守り、世界の権力が何をしているのかを明らかにすべきだとの姿勢を示した。
「よほど気をつけていないと、世界はダメになってしまう」「これからも政治的な問題にかかわり続けていきます」
この箇所はよく理解出きた。
新聞に対する検閲
10月16日の天声人語より
第二次大戦後の占領期に実施された検閲には不可解な例がいくつもあった。
「東北で疫病の恐れ」といった記事が削られる。
馬追い祭りの写真も掲載できない。
武者姿が復古的と見なされたようだが、恣意(しい)的である。
新聞人は敗戦の悲哀をかみしめた。
新聞の事前検閲が本格化したのは60年前の10月だった。
各紙が連合国軍総司令部(GHQ)に日々大量の原稿を持参し、掲載可か否か保留か判定を待った。
新聞統制に腕をふるったのは元記者でGHQ情報課長のドン・ブラウン氏である。
検閲行政を進めたほか、印刷用紙の割り当ても差配した。
ブラウン氏の足跡を紹介する企画展が30日まで横浜開港資料館で開かれている。
彼が戦時中に手がけた対日宣伝ビラは巧妙だ。
すし盛りのカラー写真や天皇の詠歌を載せ、日本兵を投降に誘う。
占領終結後も日本にとどまり、80年に病没した。
ブラウン氏が米国で生まれた1905年、日本は対露戦争のさなかで軍部が検閲に力を入れていた。
元TBS記者竹山恭二氏の『報道電報検閲秘史』(朝日選書)を読むと、
特報の数々が軍や警察でなく、地方の郵便局で気まぐれに没とされ、削られていたことがわかる。
当時の報道合戦は電報頼みだった。「○○少佐昨夜旅順ヘ出発ス」。
陸軍の拠点だった香川・丸亀の郵便局から記者たちが本社へ送った大量の電報の行方を竹山氏は克明に調べた。
歴史に埋もれた電報検閲に光をあて、今年の日本エッセイスト・クラブ賞に輝いた。
新聞に対する検閲は、明治の初めから占領期まで約80年間続いた。
新聞の検閲は当時の政権の都合のわるいことをカットするだけでもって,政権の延命策としていた。
逆に意図的に政権側のことだけを華麗に多く報道するようにしむけるのはなんというのだろう。
これが今の小泉首相の手法である。ナチスドイツのゲッペルスの宣伝相を思い浮かべる。
マニュアルの話題,万能時代らしい。
10月17日の天声人語より
企業恐喝事件を起こした大阪市の政治団体の事務所から、電話のかけ方のマニュアルが押収された。
右翼活動に見せかけて金を脅し取るためのテクニックの一端も示されていた。
どんな世界にも手引書があるものだと思いつつ、先ごろ手にした一枚の紙を読み直してみた。
「背筋を伸ばし、アゴを引いて、まっすぐに相手の眼を見る」「常に笑顔で、丁寧な言葉遣いで
、かつ『低姿勢』で」「語尾をのばしたり、あいまいに発音しない」「絶対にむきにならず、不機嫌な表情は見せない」
アルバイト店員用みたいだが違う。
これが自民党が総選挙で初当選した83人の新人衆院議員に配った「マスコミ取材への心構えについて」だ。
「オフレコはありえない(口から出た言葉はすべてニュースになる)」とも書いてある。
新聞記事にされた途端に発言を撤回した先輩よりも、「記憶にない」を多用するベテランを見習えと読めなくもない。
マニュアルの話題なら、外務省にもある。
新党大地代表で衆院議員に返り咲いた鈴木宗男氏のためだけに用意された。
過去の「不適切な関係」に気を使って内々に作った。
会食は当面は辞退する。
説明要求には応じるが、強い意見表明があった場合は、官房総務課に相談するなどとある。
いかにもマニュアル万能時代らしい。
このぶんだと「小泉学校」の新人議員用には「料亭の流儀」から始まり、
いずれは「大臣になるためのマニュアル」も作られるのだろうか。
でも、彼らがいま最も読みたいのは「次の選挙を生き残るためのマニュアル」だったりして。
政治家のマニュアルは恥ずかしい。国民を愚弄している
小泉首相が秋の例大祭の靖国神社に参拝への
司法の違憲の判断をも軽くみているような姿に
10月18日の天声人語より
昨日、「小泉首相が秋の例大祭の靖国神社に参拝する」という速報を聞いた時、以前のような紋付きはかま姿の首相を想像した。
実際には背広姿だった。一瞬肩すかしをされたような気がした。
「内閣総理大臣 小泉純一郎」といった記帳はせず、本殿に上がることもなく、ポケットからさい銭を出し、礼をした。
過去のような参拝は「公務」とした違憲判決を意識したのかも知れないが、すぐに疑問がわいた。
装いは軽くても、現役の首相の参拝には違いない。
水に隠れるのを水遁(すいとん)の術、火を使って姿を隠すのを火遁の術などというが、昨日のやり方は、
いでたち、装いに隠れる「装遁の術」のようだった。
作家の安岡章太郎さんの通っていた中学は、九段の靖国神社のとなりにあった。
春と秋の神社の祭りでは、境内に大小様々の天幕が並び、サーカス団もやってきた。
テントのかげに、肋骨(ろっこつ)がすけて見えるほどの老馬がつながれていた。
いたいたしく見えた馬だが、いったん舞台に出ると見違えるようにいきいきとして、
長年鍛え抜かれた巧みな曲芸を見せた(「サアカスの馬」『安岡章太郎集』岩波書店)。
ひきくらべるわけではないが、昨日の首相に、制御のきかない暴走を連想してしまった。
これまで「小泉劇場」の「小泉マジック」は、多くの人を引きつけてきた。
それはそれで、首相独特の手法なのかもしれない。
しかし、司法の違憲の判断をも軽くみているような姿に、「小泉サーカス」の危うさが際だって見える。
かたくなな「信念」の行きつく先が心配だ。
首相のかたくなな「信念」の行きつく先が心配なのは,国民全員が感じている。あまりにも猶予がない。
懐のおおきさを感じない。真剣に話を聞いていると腹がたってくる。
まやかしと驚かせ人を引き付けるテクニックに長けている事は認める。
変な方向へ日本の運命をみちびかないだけを願う。
日本の各地で、意外な動物が町の中や
10月19日の天声人語より
小さなブタにひもをつけて散歩をさせている女性を何度か見たのは、3カ月ほど前だった。
高速道路の下を車が激しく行き交う東京都心の交差点を、ピンク色のブタがちょこちょこ行く。
先月は、同じ東京の中野区で、逃げ回る3匹の子ブタが捕まった。
ペットとして飼われていたガレージのフェンスのすき間から逃げ出したという。
日本の各地で、意外な動物が町の中や他人の家で見つかる騒ぎが目につく。
記事の見出しを拾ってみる。
「押し入れにニシキヘビ」「イグアナが日光浴?」「庭に毒サソリ」「路上にオオサンショウウオ」「凶暴なり カミツキガメ」
なかなかの迫力だが、動物たちにしてみれば、人間の勝手で連れてこられた場所で、何とか生きようとしているだけだ。
気味が悪いとか、凶暴などと言われるのは心外だろう。
3匹の子ブタを捕まえた警察署では、住民から様々な「ペット逃走」の通報があるため、巡回のパトカーに捕虫網を常備しているという。
署の幹部が語る。
「警察には困りごと処理のコンビニのような機能もあるので、通報があれば捕まえにゆく。
でも捜査や事故処理などの本来の職務に支障が出ないか心配になる」
動物は、閉じこめられるのがいやだろうし、常に閉じこめておくことも難しい。
オリやかごから出ただけで周りが驚き、恐れるような動物たちにも、それぞれ命がある。
もともと身近ではなかったその命が、見知らぬ人間社会の中に置かれている。
そういえば、あの交差点のブタをしばらく見ない。元気にしているだろうか。
外来の動物が外国から愛玩用として買われ日本に持ち込まれてきたのが,アチコチでほかされて,気味の悪いことが
起きている。動物の日本での国際化に貢献しているのだろうか。?
鹿児島県の知覧町は60年前の太平洋戦争中
特攻隊の基地が置かれていた。
10月20日の天声人語より
鹿児島県の知覧町は、「薩摩の小京都」とも呼ばれる落ち着いた町である。
古い屋敷や茶畑の広がる静かなたたずまいと裏腹に、60年前の太平洋戦争中は特攻隊の基地が置かれていた。
多くの青年兵士が日々飛び立ってゆき戻らなかった。
当時、軍指定の「富屋食堂」を営んでいた鳥浜トメさんは兵士らの世話を親身になって続けていた。
明日のない青年たちから、母のように慕われた。
その次女で当時女学生だった赤羽礼子さんが16日、75歳で亡くなった。
礼子さんは、92年に没した母や自分と兵士たちとの親交を描いた共著『ホタル帰る』(草思社)を01年に出した。
本の題は、出撃前日の宮川三郎軍曹との約束にちなんでいる。
その夜、トメさん親子と兵士たちが食堂の横を流れる小川の上を見ると、ホタルが明滅していた。
宮川軍曹が言う。「死んだらまた小母(おば)ちゃんのところへ帰ってきたい」「おれ、このホタルになって帰ってくるよ」。
店に入れるように表戸を少し開けておくと約束する。
軍曹が飛び立った日の夜、わずかに開けていた戸のすき間から一匹の大きなホタルが入ってきた。
気づいた娘たちが叫ぶ。「お母さーん、宮川さんよ」
青年たちの生が次々に絶たれる。予告され覚悟する兵士たちと見送る人たち。
その悲痛な姿は、爆弾を抱えて体当たりせよという命令によってもたらされた。
そしてその異常な命令は、あの戦争を始めたあげくになされた。
礼子さんやトメさんと兵士とのきずなは胸をうつ。
その伝言は、死を強いる戦争の醜さを伝え続けてゆくだろう。
国家権力で国民が翻弄され,従順でないと「非国民」とされていた時代の話である。
これは過去のことだとしてすます話ではない。今将来に起きるて゜あろう話でもある。
今年の国勢調査は
10月21日の天声人語より
調査票が燃やされたり、調査員が多数辞退したりと、今年の国勢調査は騒ぎが相次いだ。
多くの人がプライバシーに敏感になる中、これまでのような調査の仕方や調査内容では立ちゆかないかもしれない。
「国勢調査」は英語のcensus(センサス)を訳したものだという。
語源は古代ローマの時代にさかのぼり、センソールという職名をもった市民登録や税金などを担当する
役人が行った人口調査を意味している(「国勢調査のはなし」80年に国が発行)。
1920年、大正9年の10月に実施された最初の国勢調査ではこんなポスターが作られた。
「国勢調査は社会(よのなか)の実況(ありさま)を知る為に行ふので課税(ぜいきん)の為でも犯罪(ざいにん)を捜す為でもありません」
それから80年たった前回00年の調査の後、総務省が1万余世帯を対象に調べたところ、
「答えたくない質問事項」は「勤め先の名称・事業の種類」が一番多く3割強あった。
以下、最終学歴などを尋ねた「教育」、「家計の収入の種類」と続く。
調査票を前にして、戸惑う様が浮かぶ。
総務省は「勤務先の名称」は正確な産業分類をするために必要と説明する。
しかし、その結果が具体的にどう行政に利用されているかについては「把握していない」
1回目の調査では「宣伝歌謡集」もできた。
「調査する日の近づかば成たけ旅行(たび)をせぬものぞ/火の元用心第一に伝染病にも気をつけよ/
是等の禍起りなば調査の妨げ如何(いか)計り」。
国家の一大行事だった時代は、すでに遠い。
あり方を広く見直し、新しい時代に合った調査にしてゆきたい。
国政調査は何のためにあるのか。個人情報を犯す可能性もありえる。
質問はもっと吟味して調査すべきである。
フランスの海軍軍人で、
明治期に日本を訪れた
ピエール・ロチの『秋の日本』
10月22日の天声人語より
「十月の明るいある朝、はれやかな朝日を浴びて、わたしはヨコハマを出発する」。
フランスの海軍軍人で、明治期に日本を訪れたピエール・ロチの『秋の日本』(角川文庫)の一節だ。
この見聞録には、彼の小さな発見が詰まっている。
にぎやかな東海道から田園に入り、小さな女の子たちが幼いきょうだいを背負っているのを見る。
背中にひもでぴったりと結び付けている様に、ロチの従卒が言う。「頭の二つある子供たち」
ある家の前でロチは突然「大きな憤懣(ふんまん)を覚える」。
「ぢいさんとばあさんが、てっきり食べるためだろう小さな二人の女の子を煮ているのだ!」。
すぐ入浴と分かったが、桶(おけ)の下には火がかっかと燃えていたと記す。
ロチは「お菊さん」でも知られる。
大正の終わり近く、その死を聞いた芥川龍之介は追悼しつつ書いた。
「ロティは偉い作家ではない。
同時代の作家と比べたところが、余り背の高い方ではなささうである」(『玄鶴山房・河童』新潮文庫)。
芥川は、土砂降りの往来に似た人生をたどる人にとって、まず必要なのは雨をしのぐ合羽(かっぱ)だという。
「新しい人生の見方」のような合羽を与えるのが「偉い芸術家」だが、
ロチは「新しい感覚描写や抒情(じょじょう)詩」といった往来の「提灯(ちょうちん)」を与えた、と。
ロチは、あの「ぢいさんばあさんの奇怪な料理」の家を去りながら記した。
「この小さな一軒家、この料理、わたしたちが今後二度とお目にかかることのないこの正直な人人のにこにこ顔……」。
ロチの小さな提灯が、時の肖像を未来に伝え続けている。
百年まえのことがあやふやになってきている。当時日本人の目でみいて普通のことが外人の目でみると奇怪にうつる
ことが記録されている事はありがたい。
そして千年前のこと千五百年前の日本のことを知るのは容易なことではない。
一番の考古学の発展のためには古い陵墓の発掘調査ができることである。
世界的に見ても宮内庁の対応は特異である。
100年先まで永らえる車名があるのか。
10月23日の天声人語より
100年前、オーストリアに車道楽の富豪がいた。
「愛される車には女性の名がふさわしい」という信念の持ち主で、まとめて36台注文する見返りに、
今後すべての車に愛娘(まなむすめ)の名をつけるよう製造元に迫った。
メルセデスという11歳の少女である。そのまま商標登録された。
日本の先駆者は車名に頓着しなかった。
国産ガソリン車の第1号は明治末、東京の自転車商吉田真太郎氏が作った。
車名は特につけなかったが、ガタクリ、ガタクリ騒音を立てて走ることから「タクリー」と呼ばれた。
戦前の自動車界に詳しい佐々木烈氏(76)は「タクリーというあだ名には当時の国産車へのさげすみが感じられる」と話す。
舶来信仰の時代でフォードなど輸入車に太刀打ちできない。
10台ほど製造されただけで、タクリーは自動車史から消えた。
戦後、大衆車の時代が到来すると、メーカーは車名を競い始める。
当初、トヨタではカローラ(花冠)など冠にちなむ名が多かった。
ホンダ車では音楽に由来する名が特徴で、日産は小説「小公子」の主人公セドリックなど名作路線を歩む。
最近の車名選びはかなりの難事だ。語感がよく、商標登録されておらず、輸出先の国々の言語でも不快感を与えない。
すべての条件を満たす言葉を探して、何カ月も費やす。
東京モーターショーの会場を歩いた。
エッセ、ピボなど耳新しい名もあれば、1世紀前と同じ少女メルセデスの名もある。
この中に100年先まで永らえる車名があるのか。
きらびやかな会場の隅で、車社会の先行きに思いをめぐらせた。
メルせですベンツの名前が少女の名前からきているとは知らない人がおおいのではないのか。
現在では日本の自動車の名前を全部知っている人は少ないに違いない。
あまりにも多くて消えて行く名前の車も多くある。
ニューヨーク株式市場で株が
大暴落したのは、
1929年10月24日、
10月24日の天声人語より
ヘビー級の世界王者に挑戦するジム・ブラドックは、戦う目的を記者団に問われ、「ミルク」と答えた。
実在のボクサーを描いた米国映画「シンデレラマン」の印象的な場面である。
彼には妻と3人の幼い子がいる。
妻はミルクを水で薄めて増やした。
ブラドックは「夢でステーキを食べた」と言って、自分の食べものを子どもに与えた。
大恐慌とそれに続く長い不況の時代の物語である。
ニューヨーク株式市場で株が大暴落したのは、1929年10月24日、76年前のきょうのことだ。
それをきっかけに大恐慌が始まった。
企業や銀行が倒産し、失業者が街にあふれた。
多くの農民が土地を手放した。大恐慌は欧州や日本にも及んだ。
ブラドックも、リングで稼いだ財産を失った。
そのうえ、手を骨折し、試合に勝てない。
港の荷役の仕事にもあぶれる。
光熱費を払えなくなり、妻は3人の子を親類に預けた。
子どもを手放すのは、人生をあきらめてしまうことだ。
ブラドックはボクシング界の幹部らに頭を下げ、光熱費を恵んでもらう。
「食べるのに必死の時代だったから、家族や地域で結束した面がある」と語るのは、
アメリカ経済史専攻の秋元英一・千葉大教授だ。
秋元教授は「1930年代の米国は意外に活気のある時代だった。
どん底に追い込まれたので、社会主義を主張しようとも、実験的なことに挑もうとも許された」と言う。
ブラドックは勝ち目の乏しい試合に挑んだ。
奇跡的に復活して勝ち進み、ついに頂点に迫る??。
株の大暴落から6年、米国の苦闘はなおも続いていた。
株の売買をゲーム感覚でお金を儲ける人たちがふえてきた。
IT 社会が株売買に拍車をかけている。
昔のような株暴落はないとしても,お金を持つ人は益々お金が増えてくる社会に 成長 してきた。?
貧富の差の激しい二極化の世界が益々進んできている。アメリカ的な資本主義が世界を制覇している。
社会主義 共産主義の社会も資本主義顔負けの金持ち層が増えて来ている。
その歴史と伝統のあるアメリカは強い。
言う事を聞かない国が有れば民主主義国家,自由主義国家ではないとして
世界一強力な武力をつらつかせるからたまらない。
正当な民主主義,自由主義国家としての世界のリーダーであってほしい。
ニューヨークの国連本部の総会議場に行ったのは
10月25日の天声人語より
ニューヨークの国連本部の総会議場に行ったのは3年余り前のことだ。
9・11の同時多発テロから半年後のニューヨークを取材に行き、テロで崩された巨塔の跡を見た後だった。
総会は開かれていなかったが、がらんとした議場の隅にしばらくたたずんだ。
この空間は、いわば米国の中にあって米国ではない。
各国が座を占める「もう一つの世界」が、息を潜めて波乱に身構えているようだった。
その後のイラク戦争で、国連は大きな試練を受けた。
国連の創設を主導したのは、ルーズベルト大統領の率いる米国だった。
その国が、大量破壊兵器の脅威を掲げて単独行動主義に走り、国連と世界を引きずり回した。
最上敏樹・国際基督教大教授は、近著『国連とアメリカ』(岩波新書)で「しっぽが犬を振り回す」状態と述べた。
最上さんは、第2代事務総長ダグ・ハマーショルドの言葉を引く。「
私たちの仕事が平和のための戦いであるなどと言うのは大げさすぎます。
しかしこの仕事は、分裂と暴力の洪水をくい止めるためのダムを建設する仕事ではあります」
国連の事務職員に向けたこのスピーチの直後、ハマーショルドは紛争地に向かう途上で殉職した。
最上さんは「いわば国連は、人類がその喪失の淵で踏みとどまるために作られたのだと思う」と記す。
国連は24日に創設60周年を迎えた。
本部ビルは老朽化が進み、先日は天井の雨漏りで総会議場が使えなくなった。
建物もさることながら、喪失の淵で踏みとどまるための仕組みも「築60年」を機にしっかり点検しておきたい。
今の国連はだらしがない。たてまえが先行して実行力がない。
アメリカが主導してアメリカに本部があるから仕方ないのかも知れない。
もっと言うならば例えば,日本が非戦平和国家を唱え日本に国連を持ってくれば立派な国連ができると思うのだが。
歴代の首相にそのような気持の人はいない。
アメリカのご機嫌伺いして,アメリカに尻尾振り振りして擦り寄るポチのような首相が出るのが関の山である。
なんとかならないものかと夢を見る。
平和大国としてのこれからの日本の使命であってほしい。
ハンセン病の療養所が造られ
,東京地裁の二つの法廷は昨日、
まったく逆の結論を出した
10月26日の天声人語より
戦前、日本が植民地支配していた時代に、韓国南端の島・小鹿島(ソロクト)と台湾にハンセン病の療養所が造られた。
この二つの施設に収容されていた人たちが、国の補償を求めてそれぞれ起こした裁判で、
東京地裁の二つの法廷は昨日、まったく逆の結論を出した。
台湾の入所者の訴えを認めたが、韓国の人たちの訴えは認めなかった。
判決は、同じ103号法廷で、午前10時と10時半から言い渡された。
一人一人が受けた差別と苦しみは同じものだったはずだが、一方は敗れて涙を浮かべ、一方は勝って泣いたという。
裁判官は独立しているのだから、同じような訴訟でも判断が異なることは常にある。
それはそうなのだが、同じ体験を強いられた人たちに続けて示された判決の落差の大きさには、やりきれない思いがする。
原告の平均年齢は82歳になるという。
二つの判決はともに、国が補償する対象が、法律や国会の審議ではっきりとしていなかったことについて触れていた。
そこから導く結論が分かれたが、救済へ向けて、国会と行政の速やかな動きを、ともに促しているかのようにも見える。
元ハンセン病患者の詩人・塔和子さんに「いのち」という詩がある。
「……笑い泣き/しなやかに飛びはね/すいっと立ち/どんな精巧な細工師の手になるものより/
美しい/いのち/この微妙に美しくもろいもの/私も他者も/この神秘な/命の圏内にあり/
そこからはみ出ると/忽ち/物体」(『塔和子全詩集』編集工房ノア)。
美しく、そしてもろい、ひとつひとつの命に、違いは無い。
台湾と韓国で判決が分かれるのは誰もが何故と聞きたい。
台湾 韓国とも日本の植民地であった。医学が発達していない時代の犠牲者でもある。
終戦後60年,後わずかな人生しかない人たちの面倒はやはり日本として責任をとるべきではないか。
バスには白人専用の席があった
10月27日の天声人語より
妻のコレッタが叫んだ。「マーティン、マーティン、早く来て!」。
うれしそうに、バスを指さす。「あなた、空(から)よ!」。
米アラバマ州モントゴメリーで、市バスに対するボイコット運動が始まった日の朝だった
(『マーティン・ルーサー・キング自伝』日本基督教団出版局)。
その4日前の1955年12月1日、バスに乗っていたひとりの黒人女性が逮捕された。
バスには白人専用の席があった。
女性は、もちろん専用席ではなく、その後ろの席に座っていた。
白人たちが乗り込んでくると運転手が席を譲るように告げた。
それは当時の差別的な習わしだった。
女性は「動くまい」と心を決めて座り続けた。運転手が警察を呼んだ。
キング牧師たちは、抗議のためのボイコットを黒人仲間に提起する。
日ごろバスが頼りの仲間がどれだけ同調するか心配だったが、バスは皆空っぽの状態で走り、キング牧師を勇気づけた。
連邦最高裁は翌年、この差別に違憲判決を出した。
「公民権運動の母」と呼ばれたローザ・パークスさんが92歳で亡くなった。
バスの席から動こうとしなかった時の思いをこう記す。
「私は白人のいいなりになることに疲れていたのです」(『黒人の誇り・人間の誇り』サイマル出版会)。
キング牧師は、パークスさんに贈った自著「自由への大いなる歩み」の扉に書いた。
「あなたが独創的に証言してくれたこと、それが今日の自由への大いなる歩みの偉大なる原動力になったのです」
ふたりの出会いから半世紀たつ。
「いいなりにならない」勇気は今もなお新しい。
いいなりにならない勇気は本当に尊い。「長いものには巻かれろ」は大人の賢い,そしてずるい処世術である。
力のある人たちの意見が広く世間にまかりとおっている中で「いいなりにならない」ことは大変な勇気と困難が伴うことである。
言うは安くて実行は困難である。
小泉首相はアメリカに対して肝に銘じて欲しい。
そして自分自身にて当てはまることである。
米軍の普天間飛行場の移転先
10月28日の天声人語より
目の前に、さえぎるものは何もない。どこまでも太平洋が広がる。
あの水平線の手前に巨大な滑走路ができるとしたら、この青い海は壊れてしまうだろう。
沖縄県名護市の浜に立ち、「海上ヘリポート」の建設が想定されていた海域を見たのは、5年前だった。
米軍の普天間飛行場の移転先の候補という海原の、きらめきと穏やかさが胸に残った。
当時の海上案から変わり、浜と海とにまたがる「沿岸案」で、日米の政府が合意した。
まるまる海に造る当初案と比べれば、壊される海域は小さいようだが、集落には近くなる。
何より、あれだけ基地がひしめいている沖縄に大きな施設を新しく造ることに、
時代を逆行するような違和感がある。
「おねすとじょんだの/みさいるだのが/そこに寄って/宙に口を向けているのだ/
極東に不安のつづいている限りを/そうしているのだ/とその飼い主は云うのだが」。
沖縄出身の詩人・山之口貘が、米国の施政権下にあったころの沖縄をうたった「島」の一節だ。
「島はそれでどこもかしこも/金網の塀で区切られているのだ」と続く。
「人は鼻づらを金網にこすり(略)金網に沿うて行っては/金網に沿って帰るのだ」(『山之口貘全集』思潮社)。
戦後60年になっても、島の金網は延々と続いている。
名護の浜では、建設に反対する人たちが座り込みを続けてきた。
93歳になるおばあさんが言ったという。
「基地の建設が始まったら、海に座るさー」。
米政府とは合意したが、日本の政府は、肝心の住民や自治体とは合意できるのだろうか。
今の政府本当に情けない政府である。そのような政府に驚くような国民の支持?があって今回の衆議院選挙で大勝した。
義理人情ムードお金でしか票が集まっていないのではないかと思う。
今の日本の現状はアメリカのポチ以外に何もない。
虎の威を借りた猫である。本来仲良くすべき所と仲違いして遠くの虎の威を借りている。
戦後ずーと同じ状態だ。
小泉後自民党で安部官房長官が首相に仮になればそれが加速されて,
アメリカの尖兵に自衛隊が使われるとしか思えないタカ派である。
北朝鮮の拉致問題が大いに右傾化に利用されているように見えてきて仕方がない。
一番早い解決方法は,早期に北朝鮮と日本が平和条約を結んで北朝鮮人と日本人の民間人が交流が盛んになれば
自然消息がわかり帰還可能性が大となる。
北風よりも太陽の方が相手の心を解く最善の道である。
村が一丸となって来られたのは、
3世代がふれあう運動会があってこそ
10月29日の天声人語より
最近の言葉から。人口217人と、離島を除いて日本一人口が少ない愛知県富山村で、最後の「村民運動会」があった。
「村が一丸となって来られたのは、3世代がふれあう運動会があってこそ」と川上幸男村長。来月、隣村に編入される。
運動会を復活させる会社もある。「昔に比べ横のつながりが弱い時代。昔の良い点は今の職場にも採り入れたい」と、
24年ぶりに去年再開したホンダ鈴鹿製作所(三重県)の担当者。
首都圏の高校生や大学生が、会話やメールで各地の方言を使っている。
「どこ行くべ?」「どこでもよかと?」は東京・渋谷駅前の女子高校生。「
『それ、違うよ』とは言いにくいけど、『違うべ』なら冗談ぽい」
「初めは怖かったけど、今はがばい(すごく)楽しい」と佐賀県の小学2年生、光富佑都君。
東与賀町の干潟よか公園にある「フリーフォール型滑り台」で、約3メートルの高さをほぼ垂直に滑り降りた。
安全に配慮しつつ、スリルのある遊具を採り入れる遊び場が出来ている。
解散前の国会で郵政民営化法案に反対した参院自民党の造反組が、こぞって白旗をあげた。
「国民のための法案になっていない」などと言っていた中曽根弘文元文相だが、
賛成投票後には「自民党の中にいてやらなければならない大事な仕事がたくさんある」
「万年Bクラス」といわれたプロ野球のロッテが、31年ぶりに日本一に輝いた。
「最後の夢が実現した。
17年間のプロ生活の集大成です……悔いなくバットをおける」と、初芝清選手、38歳。
今季限りで引退する。
プロ棋士とコンピューターの実戦が原則禁止
10月30日の天声人語より
81歳の祝いを半寿と呼ぶ。半の字を分解すると八十一になるからだ。
将棋界では、将棋盤のマス目の数にちなんで盤寿と呼ぶ。
日本将棋連盟は来月、発足81年の節目を大阪市で祝う。
棋界秋一番の話題は、プロ棋士とコンピューターの実戦が原則禁止とされたことだろう。
公開の場で許可なく将棋ソフトと対局しないよう連盟が今月、所属の男女全棋士に通知した。
違反すれば除名だという。
将棋ソフトには30余年の歴史がある。
早大生らが74年に開発した第1号はまったくの初心者級で、一手ごとに30分も長考した。
年々改良され、今ではアマ六段相当の腕を持つ。
おととし静岡県であった将棋祭りでは、ソフトが団体戦を制し、主催者を驚かせた。
最近では北朝鮮や英国で作られたソフトが日本製に迫りつつある。
コンピューター将棋に詳しい早大教授の滝沢武信さんは「詰めの局面ではもう人知を超えた。
高段の数千人しか太刀打ちできないだろう」と話す。
羽生善治四冠でさえ、対局後の詰みの確認にはソフトを使う。
ただ弱点もはっきりしている。
中盤で攻め急がず、わざと定跡を外して指し続けると、ソフトが焦り出す。
切り合いなら強いのに、じらされると弱い。
武蔵に敗れた小次郎タイプか。
チェスも将棋も源流は、同じ古代インドの駒遊びと言われる。
数千年かけて人類が磨いた技を、チェスではわずか50年でIBM製の人工知能が破ってしまった。
将棋でも20年以内に名人が負けるという予測がある。
囲碁やポーカーではなお人間が優位と聞くと、少しほっとする。
確かに将棋のソフトは強い。勝てない。なんとうりもある筋をば繰り返し速算して打ってくるので負ける。
囲碁より将棋の方が盤面が小さいのでコンピュターは速算するのが容易のようだ。
囲碁は遠い所に打つと判らずに変な手を打ってくる。
勝つ率がまだある。接近戦では強い。詰め碁は強いと思う。
コンピュター相手の将棋は勝てないので面白くない。
人との対戦がやはり一番面白い。パソコンを媒介にして,遠くの知らない人と対戦している。
同じような棋力の人と打つのが一番面白い。
戦争の結果次第で歴史は書き換えられるのだと
10月31日の天声人語より
60年前、都内に住む国民学校5年生が日記にこう書いた。
「本日は連合軍進駐の日とて、米機すこぶる低空にていういうと飛び行く。
くやしいが如何(いかん)とも出来ぬ。ただ勉強するのみ」
やがて占領軍の命令で、教科書の軍国主義的な個所を墨で塗らされ、
絶対と信じていた天皇中心の日本史が否定された。
少年は思い知らされた、戦争の結果次第で歴史は書き換えられるのだと。
後にアメリカ歴史学会の会長を日本人として初めて務めた入江昭ハーバード大教授(71)である。
このほど出した回想録『歴史を学ぶということ』(講談社現代新書)で、
教科書の墨塗りが自分の歴史家としての出発点だったとふりかえっている。
それは、歴史は勝者が書くのだという単純な論ではない。
「国家権力や政治的思惑によって歴史が書き換えられうるからこそ、
歴史家はあくまでも自由な意思と努力で史実を追求しなければならない」という決意だ。
入江さんの仕事の特色は、一国だけの狭い視点ではなく、
国家を超える経済や文化の動きを視野に入れて、国際社会の全体像を描き出すことだ。
「学問はナショナリズムから自由にならねばならない」という思いに支えられている。
「歴史とは現在と過去との対話だ」(英国の史家E・H・カー)と言われるが、
現在の問題意識で歴史はいかようにでも解釈できるということでは困る。
教科書に墨を塗っても、歴史は塗りつぶせない。
肝要なのは、塗りつぶした過去との冷静な対話ではないか。
軍国少年から出発した入江さんの歩みがそれを示している。
歴史は面白い。自分で新しく歴史の真実にせまるのも尚楽しい。
素人が趣味で調べる事だからその程度はしれている。
でも簡単な誤りのことが真実として流布されていることに出くわす。
今調べているのは行基が建てた「法禅院」→「法禅寺」→「檜尾寺」のことである。
そこに東寺長者弘法大師の二代目長者実恵が居住していた。
その場所は密教大事典はいうまでもなく全ての辞書での伝記では河内の観心寺になっている。
確かに現在そこに実恵のお墓は有るが,後世の後村上天皇の時代に作られたものと思う。
実恵は京都伏見の「檜尾寺」に住んでいた。それが縁で真言宗の歴史に興味をもっていろいろ調べている。
随心院の開祖「仁海」も檜尾寺に関係していたとの記事を見つける。
同じ頃「檜尾寺」の近くにあった深草寺のことが広隆寺の末寺帳に載っていて,広隆寺の末寺の深長寺即ち深草寺に
それには丈六の弥勒菩薩があつたと記されている。
実恵の弟子である恵運が建てた平安時代の安祥寺の本堂にある半丈六の十一面観音菩薩が
建立年代がさかのぼり奈良時代後期のものと最近いわれだしているので,
ひょつとすると奈良時代後期に建った「檜尾寺」の観音菩薩ではなかったのかと夢を膨らませている。
同じく行基が「檜尾寺」の三年後に建てた吉田院の半丈六の千手観音菩薩が金戒光明寺に移された吉備観音
と同様の運命をたどったのではないかと考える。
寺院を訪れて
大きな寺院を訪れ参拝する機会が多くなった。いままで何回も訪れている所でも新しい発見がある。
以前に比べて全体的に寺院も整備され美しくなり,色んな企画が試みられている。花が多く植えられたり,新しい堂が建設されたりしている。
お寺のボランティアの解説員も普通にみられるようになってきた。
観光客を集めるためのものかどうか。でも中に熱心に仏像に手を合わせて何か唱えている人たちも見かける。
佛も沢山な種類があって,全て理解するのは困難である。
大寺院には真言系 そして続いて天台系にみかける。弘法大師を祀る寺が多い。
逆にそのようなお寺を参拝しているのかもしれない。
真言宗の「血脈類集」を読むと現在までどれだけの人たちが脈々と法灯を灯しつづけているかが理解できる。
東寺長者だけでもどれだけの多数の人たちがいたか。
醍醐寺 随心院 智積院 観修寺 仁和寺 泉涌寺 石山寺 平等院 海仙住寺 法金剛院などを訪れている。
全て自宅から近いところぱ゛かりである。京都はその点については恵まれている。
まだまだ廻るところか゛多くある。
如来,観音菩薩 明王 仁王など大勢の佛さんを知るだけでも大変である。曼荼羅は判ったようで半分も理解できていない。
でも徐々に理解できてくるのも楽しみの一つである。
今紅葉が何処とも美しく咲き乱れている。山の上にある寺院は寒く感ずる位の季節になって来た。
健康を願いながら訪れている。寺院の中に書かれている言葉にハッと気ずかされる事がある。
そして又若いお坊さんからの説明言葉に感動することもある。
鳥インフルエンザ
インフルエンザの季節なってきた。インフルエンザワクチンを受ける人たちが次第に増えて来ている。
従来のインフルエンザには今のワクチンは効くが,新しく蔓延を予想されている鳥インフルエンザには効果がない。
唯一インフルエンザに効くとされている「タミフル」という坑ウイルス剤が有効とされている。
各国か国家的な規模で備蓄するような報道がされている。鳥同士感染しているインフルエンザウイルスが突然変異して人間に感染
しだすとのことである。そういえば中国でSARSウイルス騒動があった。そのまえに日本でもO157騒動が思い出される。
不思議と東南アジアが中心になって起きてきている。
第二次大戦時中に石井部隊という防疫部隊が中国で細菌でもって,ペスト 腸チフス 発疹チフスなどの細菌をばら撒いていた事が
戦後明るみになった。その資料を米国に提出することによって戦争犯罪から免れている。
現在遺伝子操作で新しい病原性ウイルスをつくることは可能になってきている。あれやこれや想像すると定期的に発生する
ウィルス感染症の発生はそんな延長線上にあるのではないかと思えるくらいに,次から次へと新しいウィルス感染症の脅威を
人類はうけるようになってきている。医学の戦いは終わりはなさそうである。
タバコは是非発売中止するぐらいの処置が必要だ。ブータンは既に始めているらしい。
日本も率先してタバコの発売禁止すべきである。
致命的な成人病の元凶であることはかなり以前から判っているのにどうしてふみきらないのか。
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