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二月になって


二月の初めの頃は寒い日が続いたが,下旬頃になると次第に比較的暖かい日が増してくる。

奈良の二月堂でお水取りの修行僧のおこもりの始まりは,毎年のことだが,

春が近いことを告げる風物詩でもある。

自然は確かな歩みでもって時はすぎていっている。

人間界での出来事は明日何が起きるのかが分からないようなことの方が多い。

冬季オリンピックがイタリアのトリノで開催された。

開会式をテレビで゙見たが,楽しく見つづけた。日本はアイスショーでの金メダルが一つだけで

このようなオリンピックでし烈な戦いを演じてもらっても良いが,武器をもっての戦だけは止めてほしいものである。

イラクでの様相はシーアー派とスンニン派の宗教的対立から,内戦へと発展するような状況を

マスコミで報道されている。

「民主主義とはなんぞや」と根本的に考え直すべき事柄が世界中至るところで起きている。

アメリカによるキューバーのグァンタモ基地での捕虜収容所のこと イラクにおける武装勢力に対するイラク人虐待写真公開

など民主主義先進国であるアメリカの暗黒部分が報道されるにつけ,

如何に強権下であろうとも,平和な暮しをしている人たちに対して何も外から圧力をかけ,

他の国の国民を混乱に陥れてまでして,民主主義とやらを強要することでもないのではないかと考えるのだが。

民主主義はやはり自然に,民衆の間からわきあがってきたものだけが本当の民主主義ではなかろうか。

民主主義を強要する事自体が民主主義に反した行為ではないのかと思う。

民主主義を強要する国こそ,反民主主義国家だと言いたい。

ブッシュの口元からはいつも綺麗な言葉は流れてくるが,やっている本質は力による強制的な圧力だけで

民主主義とはほど遠いことをば世界中いたるところで,自己の利益のためだけにやっているように思える。

小泉首相に率いられた日本国家においてもその例外ではなかろう。

本当のことが言えない,反論もできない,しない所の小泉首相も一面に気の毒だとも思えてくる。

何故日本にアメリカの基地がこれほどに多く,日本の国に必要なのか理解できない。

その負担は日本が背負っている。此れでは日本はアメリカの半植民地国家である。

世界中に至るところにアメリカの基地が同じような形でばらまかれている。

その中でも沖縄では突出して基地が多くある。そのために色んな事件が沖縄で発生している。

アメリカの軍の再編成でもって,沖縄はもとより日本国内でも基地の必要性に関連して論議されだした。

基地の近くの人たちの意思を無視し,日米政府だけの合意でもってことが進められようとしている。

此れこそは民主主義に反したことではなかろうか。岩国基地では反対の人たちが多い。

地元の意見を一番大切にすることが民主主義の初歩である。

住民の意思を無視した行為は民主主義に反している。

政府は納得するように地元に説明するとのようだが

これはアメリカからの押し付けを政府が変わって地元住民に説得しているようにしかみえてこない。

政府が住民の意思を代弁し,アメリカに説得するようつとめるのが筋である。

イラク国民の意思を無視し,米軍はイラクの民主主義のために戦争を行ってきて,

イラク人,米兵にも多くの犠牲者をだしている。

核爆弾の時代 メカニカルな時代に,アナログ的な発想で仮想敵国を想定し軍備拡張する考えが理解できない。

第三次大戦が勃発すれば,地球上には人類が住めない状態になる事ぐらい予想はできるはずだ。

人類が生存でき,勝者が決まってこそ,今までの人類発生から今世紀まで続いて来た「戦争」する意味もある。

人類滅亡すれはなんの意味もない。「戦争」自体は時代遅れの発想である。

今や色んな美名の下,私欲を肥やすために局地的に「戦争」が利用されているだけである。

今,大戦争になれば人類滅亡のの危機まて゜きていることが理解できていないのだろうか。

軍備に費やす費用をば貧困にあえいでいる人たちにまわすならば,軍備の必要性が少なくなりなくなってくるはずだ。

「平和」こそが人間に与えられた叡智である。平和のためにはどんな努力をも惜しむべきでない。

これまで行われてきた平和の為の多くの戦争は,これは本末転倒である。

アメリカはその戦争の罪をば実行してきた。そして今も実行している。

現在アメリカがまず真の平和を求める国に変ることが必要である。

これまで続いてきた覇権国家はスペイン,ポルトカルから次にイギリスへ 

そしてアメリカ・ソ連への時代,そして現在はアメリカ単独の覇権国家でいる。

世界の中の覇権国家はこれで終わりにしたいものだ。

次の時代には,強い力を保持した「国連」ができることである。

全世界の人々がやろうとすればできる話である。まず日本か゛先頭に立って欲しい。

国内では戦後ずーと自民党が圧倒的な力でもって国内政治をリードしてきている。

それが今も続いている。対立野党である民主党が党首が若くて,野党としての機能が全く発揮できていない。

四点セットで自民党を追求すべき所をば「偽造メール事件で」墓穴をほってしまっている。

民主党は第二自民党かと思いたくなるほどに情けない野党になり下がってきた。

永田某をばやめさせ,国会対策委員長を交代させただけはすまない。

先ず党首が辞めるべきである。

こんな党首が首相になれば大変である。国際問題を頻繁に引き起こしどうにもならなくなってしまう。

日本国首相をめざすのではなく,ただ自民党を助ける第二自民党の党首としての存在ならば

大いに結構な事で意義がある。

自民党が危なくなれば,今回のような助け舟をだす。それならば話はよくわかる。

キツネの小泉首相 タヌキの武部幹事長に対して,あまりにも子供すぎる党首である。

「偽造メール事件で」も誰もは当初本当だと感じた。

だれも,まさかそんな事は自民党に絶対にナイとは感じてはいなかったと思っている。

それくらい自民党は長年の「垢」がたまっているように国民側から見られている。

現実に4点セットを始め続々と色んなことが中央地方を問わずに続出している。

司直の手で持って解明するよりも,政権交代でもって大掃除する必要がある。

健全な野党の存在こそが,日本の民主主義発展の為にはひつようなことである。

首相になれないような党首では,即刻日本国民のために,

是非早くそのようなことを無くするようにすることこそが先決問題だ。





 今度は、防衛施設庁の工事を巡る談合が



2月1日の天声人語からの引用

ゼネコン大手が「談合との決別」を申し合わせた。

そんな記事が本紙に載ったのは、昨年の暮れだった。

おや、談合をやめるために談合かと、少々斜めの読み方をした。

 今度は、防衛施設庁の工事を巡る談合が摘発された。

相変わらずの官と業の癒着だ。それにしても、企業のモラルが問われる事件が続く。

耐震偽装、取引偽装、偽装工事、談合。


いずれも利益を追求するあまり、法を踏みはずした疑いがある。

利益は数字で示される。

数字を引き上げるために、不正を働く。

世間には、こんな会社ばかりがあるはずもないが、これだけ重なると気がめいりそうだ。

 こんな時には、数字の争いからは遠い、地に足の着いたものに目を向けたくなる。

例えば……ホウレン草のおひたし。

 食卓の上に小鉢があり、ホウレン草がこんもりと盛りつけてある。

そこに朝の日が差し込んでくる。深緑の葉のへりが白く光る。

紅色の根元も輝いて、のせたカツオ節が身をくねらせる。

小さいながらも躍動感のある一景だ。

 ホウレン草を育てる人が居て、街まで運ぶ人が居る。

カツオを釣る人が居て、ゆでたり乾かしたりする人が居る。

陸と海から来た物の朝日の下の出合いはささやかだが、その後ろには、多くの人の働きが連なっている。

 こうした物たちを扱う世界も、利益や数字と無縁ではない。

しかしそれはそれとして、目の前にある物たちは、地道で真っ当な営みのありかを感じさせる。


利益や数字だけが物を言う世の中はやはり息苦しい。

そう思いながら、日に照らされた緑の一片をつまんだ。




「改革」「改革」と叫びつづけてきた小泉首相の自民党政治下で次から次に不祥事が多発している。

何を改革してきたのかといぶかりたい。

改革しつづけても尚にその奥の闇の中には 政 官 業の癒着による病根がはびこってているのだろうか。

今の日本にとっては政 官の刷新には手っ取り早く政権交代こそが必要である。





マーチン・ルーサー・キング牧師の妻
コレッタ・スコット・キングさんが、78歳で亡くなった。





2月2日の天声人語からの引用



ブッシュ米大統領が、31日の一般教書演説の冒頭に述べた。

「きょうアメリカは、高潔で勇気あふれる大切な女性を失いました。

彼女は、アメリカを建国の理念に立ち返らせてくれました」

 マーチン・ルーサー・キング牧師の妻コレッタ・スコット・キングさんが、78歳で亡くなった。

68年に夫が暗殺された後、遺志を継いで公民権運動を指導した。

 アラバマ州出身で、ボストンで声楽を勉強している時にキング牧師と出会う。

「君のいない人生なんて、まるで冬の暗い寒風に吹きさらされた大気に

輝きと熱気をもたらす春の季節のない一年のようなものだ……」。


こんな手紙をくれた牧師と53年に結婚して、4人の子どもを育てた。

 キング牧師とともに暮らすことは、公民権運動をつぶそうとする暴力に身をさらすことでもあった。

そんな中でも、彼女は気丈だった。

自宅に爆弾が投げつけられた時にも、キング牧師から見て、信じられないほどの落ち着きぶりだったという

(『マーティン・ルーサー・キング自伝』日本基督教団出版局)。

 キング牧師は63年に、有名な演説「私には夢がある」を残した。

いつかアメリカから人種差別がなくなる日をうたいあげる演説から40周年の記念集会で、コレッタさんが述べた。

「そんなに遠くない将来、人々が夫の夢を幻想ではなく、輝かしい現実として見ることを願う」

 イラク戦争の開戦が近づいたころには、戦争を「質の悪い彫刻刀」になぞらえて、平和的な解決を訴えた。

その彫刻刀をブッシュ氏が振り下ろして3年近くになる。






平和的な解決を訴え続けていた人たちの叫びは「力」にはなっていない。

でもアメリカでのブッシュの支持率は下がり続けている。

でもアメリカ人のキリスト教保守層は信仰に近い形でブッシュを支持しつづけているようだ。





節分祭 三日午後三時 豆まき



2月3日の天声人語からの引用


昨日、寺の連なる道を歩いていて、ふと和菓子屋の前に出た。

ガラス戸に「うぐいすもち」と張り紙がある。

先のすぼんだ黄緑色の餅が、棚の中で行儀よく並んでいた。〈鴬餅の持重りする柔かさ  篠原温亭〉。

 店を行きすぎた坂道の脇に立つ掲示板に、今日の知らせが出ている。

「節分祭 三日午後三時 豆まき」。

森鴎外の短編「追儺(ついな)」には、明治期の節分の日が記されている。

料亭の座敷で、約束までの時間をもてあましていると、

突然、赤いちゃんちゃんこを着たおばあさんがひとり、ずんずんと入って来る。

 ちょこんとあいさつして、豆をまき始めた。

「福は内、鬼は外」。女性が数人ばらばらと出てきて、こぼれた豆を拾う。

「お婆さんの態度は極めて活々(いきいき)としてゐて気味が好い」
(『森鴎外 現代小品集』晃洋書房)。

 確かに豆まきは、やや大げさなぐらいに声をあげて、勢いよくまくのがほほえましい

昨今では、近所からうるさがられるかもしれないが、邪気を払う願いに免じて今日だけは許してもらいたい気がする。

 豆をまく時のかけ声は、ところによって変わる。

寺の宝が鬼の面という名古屋市の大須観音では「福は内」だけだ。

東京の稲荷鬼王神社では、神社の名前をおもんぱかって「福は内、鬼は内」、

入谷鬼子母神は「福は内、悪魔外」だそうだ。

 近年は、大がかりな見せ物と化した豆まきの行事もあるようだ。

しかし、それぞれの家や居場所で、それぞれに福と鬼とを思うことが、本来の姿なのだろう。

〈節分の豆少し添へ患者食  石田波郷〉






偶然に伏見稲荷神社へ行った所「豆まき」に出会う。四角形に作られた袋の中に豆が入って

神殿の上から神主や 多数の和服の女性達が豆をまいていた。

参拝者がそれを争そって拾っている。

その群衆に交じり豆袋を拾う。5-6個拾えた。今年は福が舞い込んでくれるのかどうか。

何十年も昔学生の頃,やはり祇園祭りで鉾の上から蒔かれるチマキを拾った記憶がよみがえってくる。

取り合いはしたが楽しい取り合いだった。





やはりロッキード事件になる



2月4日の天声人語からの引用


戦後最大の疑獄事件といえば、やはりロッキード事件になるだろうか。

航空機の売り込みで巨額のわいろが動き、田中角栄元首相の逮捕に至ったこの事件は、

30年前の1976年2月4日にアメリカの議会で発覚した。

 その日は確か、東京本社の社会部で宿直勤務に着いていた。

原稿は最終版ぎりぎりに、ワシントンの記者から外報部へと送られてきた。

「ロッキード社 丸紅・児玉氏へ資金」。記事は26行と短いが、見出しは大きく5段抜きだった。

 政治、経済、社会、外報の各部総掛かりでとりかかる、まれな事件となった。

社会部では一番若手だったので、児玉誉士夫邸の前で人の出入りを取材する「児玉番」の日もあった。

 7月27日の朝、自宅に本社から電話が来た。

「田中逮捕だ。拘置所へ行ってくれ」。すぐタクシーで向かう。

着いた時は、元首相を乗せた車が塀の内側に入った後だった。

車内の元首相を見た本社写真部員からその様子を聞いて、原稿を送った。

 「今太閤」などと言われて、首相にまで上り詰めてから4年後の逮捕だった。

この後も様々な事件を現場で取材したり、周辺で見たりしてきたが、

これほど深刻な権力犯罪には出合っていない。

 戦後の約60年を顧みると、ロッキード事件はその真ん中あたりで起きている。

事件を挟んで前と後が30年ずつある。

「ロ事件後」の30年で日本の腐敗や癒着の構造はどう変わってきたのか。

表向きはともかく、闇の構造そのものが消えたとはとても言えないだろう

ロ事件が繰り返されないという保証はない。




権力者による犯罪は昔から後を絶たない。絶対的な権力者を作らせない事がそれへの予防である。

でも権力者は権力にしがみつきたがる性癖をもっている。身近においてもそれは例外でない。

第一の予防法は権力者を長く権力の座に止めさせない事である。

ロ事件が繰り返されないという保証はない」は自民党政権が続く限り長期の権力者が続く限り起こりえる

ことだろう。解決方法は政権交代と愚かな権力者を絶対作らないようにすることである。

戦争への道へと進み,国全体を破綻に導いて行くことこそは「ロ事件」には比べ物にならない。






日本へ亡命したインドの独立運動家
ラス・ビハリ・ボースは






2月5日の天声人語からの引用


大正初め、日本へ亡命したインドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースは、

東京で食べたカレーの味にひどく落胆した。

「インド貴族が食べるのはこんな味じゃない」と。

 当時一般に食べられていたのは、英国風のカレー粉を使った即席料理だった。

本場ベンガル育ちのボースには和食にしか見えなかったことだろう。

日印を結ぶ政治工作のかたわら、本式のカレーを広めようと決意する。

 官憲に追われ、かくまわれた先が新宿の洋食店中村屋だった。

店主の娘と恋愛結婚して経営に加わり、「純インドカリー」を売り出す


鶏肉や香辛料を精選し、ご飯とカレーを別盛りで出した。

他店の8倍もの値をつけたが、「恋と革命の味」として評判を呼んだ。

 波乱の生涯をたどった中島岳志さんの『中村屋のボース』(白水社)が、

今年度の大佛次郎論壇賞を受けた。

同時代を生きた独立の志士チャンドラ・ボースとしばしば混同されるが、別人である。

 中村屋のボースの方は、日本を頼ってインド独立を模索した。

最後は、帝国主義日本の手先とみなされて苦悶(くもん)する。

受賞作はその歳月を丹念に描いた伝記だが、

日本のカレー文化をインドの視点から考える上でも興味深い。


 晩年のボースが病床で夢見たものが二つある。

祖国の主権を奪い返すことと、医師に制限されたカレーを存分に食べることだ。

ボースの長女、哲子さん(83)によると、医師が治療をあきらめた後、家族は望み通りカレーを与えた

だが独立の夢はかなわないまま58歳で逝く。

東京を寒波が包んだ1945年1月の夜だった。





インドへの侵攻はインドの独立のために寄与したという面もあるが,日本軍の東南アジアへの侵略であった。

又広島・長崎投下は「戦争早期終結のために必要だった」の説が「人類として原爆投下は誤りだった」の説に

変る日がいつくることだろうか。







駐日大使を長く務めたマイク・マンスフィールドさんは



2月6日の天声人語からの引用


米政界の長老で、駐日大使を長く務めたマイク・マンスフィールドさんは生前、

自ら来客をコーヒーでもてなすことで有名だった。

「コーヒーを一杯いかが」と聞くと、大使室の奥の小さな台所に入り、カップを運んでくる。

 ケネディからフォードまで4代の政権下で、

上院院内総務という米議会のトップポストを史上最長の16年間も務めた。

黒人差別の問題に取り組み、ベトナム介入にも早くから批判的で、「米国の良心」と評された政治家だ。

そんな大物がお茶を入れる姿は、日本人に強い感銘を残した。

 晩年にワシントン市内の事務所で取材したときも、97歳の同氏が、

バランスを失いそうになりながらコーヒーを持ってくるのに恐縮したものだった。


このほど翻訳された伝記『マイク・マンスフィールド』(オーバードーファー著、共同通信社)を読んで、

そのコーヒーの謎が解けた。

 大使に赴任したのは77年。

当時はまだ一般的だった日本女性のお茶くみの慣習への抗議の意味が込められていたという。

お茶くみは、それをさせられる人をおとしめると彼は考えた。

「私がコーヒーを入れることで、彼女たちの立場を楽にしてあげたかった」と著者に語っている。

 下積みの長い前半生が、そんな配慮を生んだのかもしれない。

年齢を偽って14歳で海軍に入った。除隊後は鉱山労働者として働く。

教員のモーリーン夫人の支援で大学に入ったのは28歳の時である。

 ちなみに、あのときとてもおいしく感じた大使の入れたコーヒーは、伝記を読むと、インスタントだったようだ。





自動販売機がこれだけ普及すれば,小さな自販機が会社の応接間 事務所などにそなえつけられるように

なれば好きな飲み物をば誰もが簡単に手にする時代になって来てもよいはずだが。

そうすればお茶くみの慣習も自然にすたれてゆくことだろうし,飲みたくないものも飲む必要もなくなるだろう。






表現の自由とは、長い表現の不自由の時代を経て






2月7日の天声人語からの引用


国王ルイ・フィリップが、巨人のようにどっかりと王座に座っている。

その大きく開かれた口に、下の方から次々に国民の税金が運び込まれてゆく。

王座の周りには、うまい汁を吸おうという議員や高官が群がっている。

 19世紀のパリで活躍した画家オノレ・ドーミエの代表作の一つ「ガルガンチュア」だ。

大食漢になぞらえて政権の腐敗を痛烈に皮肉ったこの風刺画は、

検閲にひっかかったが、ドーミエの名を世に広めた。

 機知に富んだ風刺画は、文字ではなかなか表しにくいことでも、一目で伝える強い力がある。

それだけに影響も大きく、作者の発想や技量、そしてメディアの掲載の判断も問われることがある。

 イスラム教の預言者ムハンマドの風刺漫画が欧州の新聞に掲載されたのをきっかけにして、

イスラム各国で反発が広がった。


最初に漫画を掲載したデンマークなどの大使館が放火され、デモ隊に死傷者が出たとの報もあった。

 掲載された漫画の一枚では、ムハンマドが、導火線に火のついた爆弾型のターバンをかぶっている。

イスラム教の信者が、この「危険人物」扱いに抗議したいのは分かるが、

大使館への放火や、死傷者が出るような騒ぎにまでなったのは残念だ。


 ドーミエは、「ガルガンチュア」の一件で裁判にかけられた。

しかし、その後も風刺画を描き続けて投獄されている。

表現の自由とは、長い表現の不自由の時代を経て、ようやく世界が手にしつつある貴重な権利だ。

それを、どう有効に使うかは、常に難しい課題としてメディアの前に置かれている。





今回の事件をマスコミから見ていてやはり風刺画としてやりすぎのように感ずる。

イスラムの人たちによってキリストが人を大量に殺す場面を描けばキリスト教徒は良い気持しないのと

同じ事である。風刺にも節度があってよい。

「ムハンマド」とは「マホメット」のことを指しているのかどうか。時代と共に人の発音も変るものなのかと

違った所で感心している。宗教戦争にならなければ良いのにとおもう。

仏教徒はその点は寛容に思えるのだが。





閣僚や議員の胸元が光るのが目につく






2月8日の天声人語からの引用


国会の中継を見ていると、時折、閣僚や議員の胸元が光るのが目につく。

この議員バッジには、1890年、明治23年に帝国議会が始まって以来の歴史がある。

 デザインは何度か変わったが、今は金色の菊11弁の金属台をビロードの布が包んでいる。

布の色は衆院が赤紫、参院が濃紺で、いずれも直径は20ミリだ。

以前は参院の方がやや小ぶりだったが、国会開設百年の1990年に同じ大きさになった。

 その議員バッジの廃止を、自民党の太田誠一・党改革実行本部長が言い出した。

特権廃止に向けた意気込みなのか、有権者の受けを狙ったのかは分からない。

「金バッジ」は権威の象徴とも、特権の象徴ともみえる。

そう簡単に手放せるのだろうか。

 「特権年金」という批判を浴びていた国会議員年金の「廃止法」が成立した。

「廃止」というからには、10年間払えば年金がもらえる特別優遇の制度がすぐにでも無くなるのかと思ったが、

そうではなかった。

 経過措置として、在職10年以上の現職や元職は、少し減るものの年金がもらえる。

今後は議員からの納付金が途絶えるので、当分の間は公費の負担分が年に9億円も増える。

 この年金は「国会議員互助年金」と呼ばれてきた。

議員同士の助け合い」を掲げるのなら、これまでも公費の分をできるだけ減らすべきだった。

こうした議員の待遇の基本的なあり方の議論を尽くさずに決着を急いだようだ。


「廃止」が「温存」の偽装とみられるようでは、胸にバッジがあろうとなかろうと、

権威とは認めてもらえなくなるだろう。





議員さんにはだれもがきずく目立つた大きなバッチをつけてもらうようにすればよい。

素材は高価なものを使う必要はない。

国民が何処でも目を光らせ,議員の行動を注視できるようものにすればよい。

時に秘書が議員の代わりを演ずるならば,どんな人か議員同様に世間には名前くらいは

周知徹底させるべきである。




秋篠宮家の紀子さまが、第3子を懐妊


2月9日の天声人語からの引用


薔薇(バラ)ノ木ニ/薔薇ノ花サク。/ナニゴトノ不思議ナケレド。(北原白秋)。子どもが授かる。

何事の不思議なけれど、おめでたいことである。

あるいはまた、子どもが授からない。そういうことも、この世の中にはある。

 秋篠宮家の紀子さまが、第3子を懐妊されたという。

夫婦に子どもが授かる。


何事の不思議はないが、おめでたいことであり、ご夫妻、ご家族にとっても、

関心を寄せている国民にとってもうれしい知らせだ。

 やがて月が満ちて、子どもが誕生する。

おめでたいことである。

男の子が生まれる。

うれしいことである。

どうか、健やかに、のびのびと育ってほしいと願う。

女の子が生まれる。

うれしいことである。

どうか、健やかに、のびのびと育ってほしいと願う。

 新しい命が、世に出てゆく。

親にとっては、うれしくもあり、心が引き締まることでもある。

その子が、世の中のさまざまなことに出会い、人々とも触れあい、喜び、あこがれ、

あるいは悩みながら一刻一刻を積み重ねてゆく。


一から始まる人生を、まだ何も書かれていない真っ白な一枚の紙かと思えば、

その厳粛さには、たじろぐ思いもする。

 皇族は、国内外の多くの目という独特の環境を背負っている。

一般人にはない負担だが、それはある程度はやむを得ない。

やむを得ないことではあるけれども、胎内に宿ったその人や、誕生を心待ちにする両親、家族に対しては、

周りの配慮も要るだろう。

 落ち着いた静かな環境で生まれ、出産する。

授かった命は、そんな穏やかさの中で育まれていいはずだ。



秋篠宮にはなんとなく親しみがある。京都と奈良の間に秋篠寺が有ってそこから命名されたとの事と,

偶然に泉涌寺で夫妻に見かけたからである。でも泉涌寺では突然拝観中止になって何時間も

道が閉鎖され,大勢の宮内省の職員が整列し二列横隊で待っている事にある。

そんなに警備を厳重にされずとも,気楽に一般の人々と交わることができればと思うのだが。

さらには少なくとも平安時代位までの御陵は考古学の為にも調査発掘できるようになればと

いつも願っている。どれだけの新しい発見があることかと思う。

御陵には被葬者が間違った所もあるらしい。江戸時代の文久年代に改修され立派になっているところが多いようだ。

御陵は歴代の天皇皇后ばかりて゜なく皇室関係の人たちの御陵が宮内省管轄になっている。

京都・奈良近辺にはあまりにも多すぎるようだ。なんとかならないものか。

都名所図会を見ていると御陵さんの横で花見しながら酒を交わし踊っている人たちが描かれている。

こんな時代に変えるべきである。







イタリア北部の街トリノに降り立ち、



2月10日の天声人語からの引用


見通しが、あまり良くなさそうな街並みだ。

イタリア北部の街トリノに降り立ち、駅前広場に出た時の印象だ。

冬季五輪に向けた工事が進む駅周辺では、視野をさえぎる囲いがあちこちに巡らされていた。

昨年秋のことである。

 駅前のホテルで荷を解き、街を歩き始めると、最初の印象はすぐに崩れた。

アーケードがまっすぐにのびている。

交差する道も広く、かなり遠くまで見通せる。

五輪向けの一時的な表情とは別に、街の素顔の方は、すっきりとしているようだった。

 中世以降、諸州・諸都市が分立していたこの長靴形の半島に「イタリア王国」ができたのは

日本の幕末にあたる1861年のことだった。

祖国の統一と解放をめざす運動の結果、トリノに最初の首都が置かれた。

今は、フィアットなどの自動車産業や機械工業の中心地となっている。

 北イタリアに生まれたデ・アミーチスは、トリノの小学校を舞台にして「クオレ」を著した。

トリノが長靴の上端近くにあるとするなら、靴先にあたる南のカラブリア地方から転校生がやってくる。

 先生が言う。「カラブリアの子どもがトリノにきても、じぶんの家にいると同じ思いをし、

また、トリノの子どもがカラブリアのレッジョへいっても、うちにいると同じ思いをすることができるために、

わが国は五十年のあいだ戦いました」(前田晁訳・岩波少年文庫)。

 今もなお、この国の北と南はなじんでいないと聞く。

それぞれに、重い歴史を背負っているのだろう。

祖国統一の象徴の地で、10日、20回目の冬季五輪が開幕する。





ヨーロッパ旅行を一度はしてみたいのだが一度もしていない。

志摩のスペイン村と倉敷のチボリ公園のデンマークと長崎のハウステンボスのオランダで

外国の匂いを感じただけである。

一生に一度は行って見たいと考えているが,色んな事情でもって行けない。

お金と時間があれば地中海から南ヨーロッパを廻ってみたいものである。






良寛の書いた「詩書屏風(びょうぶ)」が、
東京・上野で開催中の「書の至宝」展に出品





2月11日の天声人語からの引用


「良寛はしきり(に)欲いのですとても手には入りませんか」。

晩年に良寛への関心を深めた夏目漱石が、1914年、大正3年に知人に送った書簡の一節だ。

 1年余り後に、念願がかなって手に入った時の礼状には、

自分の書が所望ならいくらでも書きましょうとしたためている。

「良寛を得る喜びに比ぶれば悪筆で恥をさらす位はいくらでも辛防可仕(つかまつるべく)候」

(『漱石全集』岩波書店)。

 良寛の書いた「詩書屏風(びょうぶ)」が、東京・上野で開催中の「書の至宝」展に出品されている

(東京国立博物館 19日まで)。

自詠の漢詩を草書で揮毫(きごう)したもので、筆画が極度に省略されていることもあって、

ひとつひとつの文字は読み取りにくい。

しかし、墨で示された筆の通り道と、その周辺の空白との間には、不思議な一体感が生まれている。

屏風全体として、見る側を緩やかに包み込むような大きさがある。

 良寛は、中国や日本の書を手本にしながら、独自の書風を手にした。

「至宝」展は、その手本のひとりとされる「書聖」王羲之(おうぎし)を含め、

古代中国から日本の江戸期までの数々の逸品を中心に展示している。

 うらないを記録した文を牛骨に刻んだ「甲骨文」は、3千年以上前のものだ

文字の祖先のような素朴な線の連なりの前で、漢字がたどってきた長い歴史を思う。

 さまざまな時代を経て日本へも渡り、ひらがなが生まれ、今に至った。

漢字とかなの、ぜいたくな競演の場となった会場を巡り歩く。

「東洋の記憶」とでも名付けたい音楽が、どこからともなく響いてくるかのようだった




字は人なりと言われているが,当然の事である。良寛は好きだ。

でも漱石のように書を手に入れようとは毛頭考えていない。初めから不可能なことが

判っているからである。

京都博物館に行けばいくらでも名品に接する事ができる。常時通っているから京都博物館職員の人と

面識がある。でも相手の職員の方は毎日大勢の人たちと接しているから知られないだろう。

ずーと廻って見るだけで疲れる。それほどに作品が多く陳列されているからである。

重文級はざらである。国宝とか重文は誰がつけるのかいつも不思議に思いながら見ている。

字が読めればさらに楽しいのだが古い字は読めない。読む為の講座もあるらしい。



数や式の持つ美しさである





2月12日の天声人語からの引用


公開中の邦画『博士の愛した数式』と、洋画『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』はどちらも老いた数学者の試練を描く。

かつての天才が作中それぞれに説くのは、数や式の持つ美しさである。

 数学の美や深遠さは、凡才にはやや実感しづらいところがある。

だが、数学五輪に出場するような俊才ならきっと堪能できるのだろう。

何しろこんな難問を解いてしまう若者たちだ。「nを割り切る相異なる素数はちょうど2千個ある。

2のn乗+1はnで割り切れる。この条件を満たす正整数nは存在するか」

 全国13会場できのう、数学五輪の日本代表を選ぶ試験があった。

参加したのは高校生以下の百数十人だが、東欧スロベニアで夏に開かれる五輪に進めるのは各国とも6人まで。

会場にはトリノ五輪にも劣らない緊張感が漂っていた。

 1959年にルーマニアで始まった数学五輪には、既に半世紀近い歴史がある。

90を超す参加国で際立つのは中国の強さだ。

この10年で7度も優勝した。


米国や韓国も強豪だが、日本は最高8位どまりである。

 国ごとの平均的な数学力なら世界屈指の日本が、数学五輪となると上位に届かない。

「日本の学校は英才教育をためらいますから。

飛び抜けた頭脳をさらに伸ばす場がほとんどなかった」。

数学オリンピック財団事務長で元高校教諭の渡辺義正さんは話す。

 本番では同じ問いが各国語に訳して出題される。

発想で解く米国、論理のドイツ、直感のイタリア…。

解き方には国柄がはっきり表れる。

教科書に即したまじめで地道な解法が日本勢の特徴だという。





数学のオリンピックがあるとは知らなかった。数学は得意な方だったが今の仕事では

使う事は少ない。江戸時代絵馬の変わりに算額が絵馬の変わりに数学の問題を神社に奉納している

ことを読んだ事がある。和算とかで日本でも数学は発達していたとか。






トリノ冬季五輪の開会式に登場して歌った



2月14日の天声人語からの引用


70歳になったら、トイレでも歌わないし、シャワーを浴びる時も歌わない??。

テノール歌手パバロッティが、2005年の70歳の誕生日を限りに引退すると述べたと

報じられたのは4年前だった。

その人が、トリノ冬季五輪の開会式に登場して歌った。

 本人のテーマソングともいわれた「誰も寝てはならぬ」で、

イタリアの作曲家プッチーニのオペラの中の曲だ。

テレビで見る限り、「私は勝つ。勝利する」と歌い上げるくだりは、

突き抜けるような驚異的な往年の声の張りを思わせるものがあった。

 今回の登場の経緯は分からないが、パバロッティは北イタリアのモデナの出身だ。

生家は貧しく、12歳の時には伝染病で命を落としかけたこともあったという。

歌手として大成した後も、ふるさとには強い愛着を抱いていた

(M・ルイス『三大テノール』ヤマハミュージックメディア)。

 過去のオリンピックの開会式を顧みると、

84年のロサンゼルス五輪のあたりから大がかりな機械仕掛けのテレビ向けの演出が多くなってきた。

そんな流れの中で、一個の生身の人間の内側から発せられる朗々とした歌声は懐かしく、そして新鮮でもあった。

 「今こそ最悪の時だ。やるべきことはすべてやった……ついに舞台へ出る時が来た。

最後の死の行進が始まる」。パバロッティは、舞台に立つ直前の心境をこう述べている。


 トリノという舞台の上でも、選手たちは極度に緊張したり、それを解きほぐしたりしているのだろう。

それぞれに「最悪の時」と戦いながら、滑り、舞い、競っている。





パバロッティの唄っている姿はテレビを通してみた。凄い声量で貫禄充分であった。

それと真っ白な姿のオノヨーコが平和についてメッセージを読んでいたのを思い出した







「一朶(いちだ)の」とは


2月15日の天声人語からの引用


「一朶(いちだ)の」とは、花のひと枝や雲のひとかたまりを表す時に使われる。

司馬遼太郎さんが、『坂の上の雲』(文芸春秋)のあとがきに書いた。

「のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、

それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」

 政府も軍もまだ小さかった明治期を舞台に、やがて日露戦争を勝利に導く群像に光を当てて描いた。

当時、部分部分の義務と権能をもたされたスタッフは、

のチームを強くするというただ一つの目的に向かって進んだとも司馬さんは述べる。

一朶の雲とは、群像の目標であり、当時の日本が追い求めた国の姿でもあったのだろう。

 日露戦争の後、日本は坂道を転げ落ちるようにして泥沼の戦争にのめり込む。

行き着いたのが太平洋戦争だった。

『坂の上の雲』には、駆け足で近代化を進めた時代を扱いながら、

後の苦い歴史までをも見通す独特の視点が生きている。

 司馬さんが72歳で急逝したのは、96年の2月12日だった。

その時、妻みどりさんが発表したメッセージにこんな一節がある。

「司馬遼太郎はいつもこの国の行く末を案じておりました」

 それから10年後の、この国の姿はどうだろう。

国民の信頼を裏切るような問題の続発は、戦後の日本の60年の軌跡を問い直すようにもみえる。

 焦土から立ち上がり、国際社会に復帰し、経済成長を遂げ、バブルが崩壊して今に至る。



司馬さんの言葉で今も思い出すのは,この天声人語で紹介されていたのか,

「私達今徴兵制度が施行されるようだったら反乱をおこしますよ」である。

今の戦後の人たちにはそんな切迫した気持・気迫があるのかどうか疑問に感ずる。

安部晋三官房長官が首相になれば右傾化がさらに加速されて,徴兵制度も夢でない日が近ずくだろう。

それが一番人気とか世の中どうなっているの,それともマスコミの操作なのか。






反ヒトラーの活動とメンバーの処刑を描いている。


2月16日の天声人語からの引用

真珠湾攻撃から1年余の1943年の2月といえば、日本軍がガダルカナル島から撤退し、

戦局は悪化していた。欧州では、ソ連・スターリングラードでの激戦の末に、ドイツ軍が敗れた。

 映画「白バラの祈り??ゾフィー・ショル、最期の日々」は、

その2月にミュンヘンで実際にあった反ヒトラーの活動とメンバーの処刑を描いている。

ミュンヘン生まれというマルク・ローテムント監督の作品で、05年のベルリン国際映画祭で銀熊賞を受けた。

 「白バラ」は活動グループの名で、主人公のゾフィーはミュンヘン大の女子学生だ。

兄のハンスと、大学でナチス政権の打倒を呼びかけるビラをまいたところを通報され、

ゲシュタポに逮捕される。

 身に迫る恐怖におびえながらも、祈りで自らを勇気づけ、取り調べには毅然(きぜん)として述べる。

「最善のことをしたと信じている」。


逮捕の4日後、1日だけの裁判で死刑判決を受け、即日斬首された。

21歳。「今にあなたがここに立つわ」。

法廷で、被告席から裁判官に投げかけた一言が耳に残った。

 戦後はナチスの側が被告席に立たされ、裁かれた。ローテムント監督が述べている。

「今や、戦争で起こってしまったことに対する罪を問う時代ではありません。

今は、そこから学ぶべき責任を問う時代です」(『論座』3月号)。


 本来は普通の市民だったはずの多くのドイツ人たちが、ファシズムと侵略戦争に加わっていった。

それは、日本の過去にも通じる。

その奔流にあらがい、人間の尊厳に根ざす小さな白い花を掲げた人たちがいた。


この激動の中、いわば視線を中空に漂わせたまま、なりふり構わずに突き進んできたのかも知れない。

今は、足元を見つめ直す






時代は繰り返すで,戦争体験をした人たちがすくなくなってゆくにつれ,勇ましい言葉が喜ばれる時代に

なってきた。「過ちは二度と繰り返しません」と広島の原爆慰霊碑に刻まれているが,

それが次第に忘れ去れようとしている。当時の人たちの切実な叫びであることを我々は理解できる。

多分若い人達には判らないことだろうと思う。

戦争ほど愚かなことはない。

平和である事がいかに尊く感ずるかは人間は体験してみないと理解できないこととなると

これは大変悲しい存在である。





中央省庁から外郭団体の役職員として天下り・
出向している国家公務員は、約2万2千人




2月17日の天声人語からの引用


 2万2千人というのは、どのくらいの人数か。

大相撲の両国国技館なら、満員にして2日分になる。

 中央省庁から外郭団体の役職員として天下り・出向している国家公務員は、約2万2千人だという。

民主党の要請を受けた衆議院の調べで分かった。

これは昨年4月の時点での数字だが、人は順次入れ替わっている。

過去の累積で考えるなら、何十万という数になるのかも知れない。

 4千近い天下り先の団体への補助金の合計額は、5兆円を超えた。

05年分だけでこれだから、十数年続いたとするならば、最近の国の一般会計予算の総額にも相当する。

金は人に付いてくるとばかり、天下りを繰り返しながら、国民の税金を食い続けてきたのか

 天下りには、外郭団体にとどまらず、民間企業にまで行く例が後を絶たない。

「迂回(うかい)」して、天下りを目立たなくするためのようだ。

そして、行き着いた先の民間から献金を受けているのは政界だ。

 「食税」の構造を放置したまま、未来の世代に途方もない大赤字をかぶせかねない事態を招いた政治の責任は重い。

中でも、約半世紀にわたってほぼ政権を握り続けてきた自民党の責任は重大だ。

昔から指摘されてきた弊害を、まともにただそうとしなかった。

 この政官業の癒着の温床を、いつまで温存するのか

国家公務員法が「迂回」する手口を許しているのなら、速やかに法を改めるべきだろう。

無用の税金がどれだけ食われてきたか、それをどう改めてゆくのか。

そこをきちんと国民に説明しない限り、「増税」など口にする道理はない





衆議院予算委員会で一番話題になったのは「贋メール」による追及である。

それがガサネタであることが判明してからは,民主党の存在 追及の矛先が鈍り

自民党にごめんなさいと謝るシーンだけがクローズアップされて追及損ねである。

馬鹿が偽メールをつかまされてそれを信じての永田某の罪は重く,それに乗っていた前原党首の

責任は極めて重い。四十歳台の党首では若すぎる。

二票で負けた管氏ではこんな事は起きなかったと考える。

もう一度政界再編成があっても良い。全て小沢氏の思う壺にのせられているのかどうか。







滋賀県の長浜市で、
ふたりの幼稚園児が
刺殺されるという事件






2月18日の天声人語からの引用


琵琶湖のほとりに広がる滋賀県の長浜市で、ふたりの幼稚園児が刺殺されるという事件が起きた。

容疑者として逮捕されたのは、近所に住む別の園児の母親だった。

 いっとき耳を疑った。

これまで、部外者が学校に侵入して多くの子どもを殺傷したり、

学習塾で講師が児童を殺害したりといった凶悪な事件はあったが、

今度のような事件までは想像できなかった。

 事実関係は、まだ詳しくは分からない。

しかし事件は、幼稚園への子どもたちの送迎という、いわば日常の繰り返しの中で起きた。

同じようにして送迎している人たちの間では、不安が広がりかねない。

 子どもを狙った事件の続発に対し、日本の各地では、悩みながらもさまざまな試みが行われてきた。

親たちが手分けして送り迎えするのは最も安全と思われる方法で、いわば切り札だった。

昨日は、それが崩れてゆく思いをした人も少なくなかっただろう。

これと同様の事件が続くとは考えにくい。

しかし、親とその周りにいる人々は、何とか防ぐ手だてはないものかと思案せざるを得ない。

 自分の子は自分で守る。

まずは、この原則に返るしかないのか。

実際には、十分に手が回らないこともある。

送り迎えを複数でするのは有効だが、どの地域でも可能とはいえない。

衝撃的なこの事件でたじろぐことなく、地域に芽生えつつある新しい「安全の目」を、

さらに強く育てていく必要があるだろう。


 若奈ちゃん、そして迅(じん)ちゃん。

家族の愛情と願いとが込められたその名前を見ていると胸が詰まる。

ふたりとも五つだった。




送り迎えしている保護者から殺されるとなるとどうしょうもならない。

幼稚園から高校まで学校は一般には閉鎖され公開されていない。

昔は放課後でも学校で遊んでいたものである。

一般の人たちが休みにも出入り自由にできていたところが,安全でなくなってきている。

世の中が世知辛くなってきたことによるものなのか,教育の不徹底か,

一番いえることは欧米の文化の流入によることが一番だ。

特に一番の影響が強いアメリカ文化で今までの日本の良さが駆遂されてしまった結果である。

実利・効率を求め,本能のままに生きる事が良いとの考え教えが支配的になって来ている。

アメリカ文化は現在の日本にとっては亡国思想である。

アメリカ流追随の小泉首相の貧富の拡大政策がそれに拍車をかけている。

アメリカ人は昔からそのように教わり社会体制もそのように出来あがっているから比較的混乱が少ない。

だが日本では日本の儒教的精神で育まれ社会並びに社会体制にあった所へ

思想だけ流入したからとんでもない現象が起きているのが「今」という時代である。

すーと草食思想て゛いた所へ,肉食思想が流入したからの結果である。

社会全体の安全対策に何が必要であるかを考えてもらいたい。為政者の猛反省を希望する。








軍事をつかさどる役所には、
兵部省の名をあてている




2月19日の天声人語からの引用


奈良時代、朝廷には中央官庁が八つあった。

中務(なかつかさ)省、治部(じぶ)省などは役所名から職務を言い当てるのもむずかしいが、

兵部(ひょうぶ)省なら簡単だろう。

軍政一切を取りしきった。

 明治の初め、新政府は司法省、工部省など官庁名をいくつも考案した。

それでも軍事をつかさどる役所には、兵部省の名をあてている。数年で陸軍省と海軍省とに分かれたが、

「省」の格は敗戦まで揺るがなかった。


 いまの防衛庁の前身は、朝鮮戦争を機に設けられた保安庁だ。

省でなく庁にとどめたのは、軍部の暴走を反省した戦後の知恵だった

だが防衛庁内では、省への格上げこそ悲願とされてきた。

「庁のままでは予算を取るにも法令を作るにも不自由だ」「国防担当の役所が省でないのは日本くらい」。

国会でもたびたび審議され、防衛省のほか国防省とする案も出た。

 とうとう実現するかに見えた「省」構想が、また頓挫しかかっている。

8年前の背任事件の記憶も消えないうちに、防衛施設庁幹部らによる談合容疑が発覚した。


昇格どころではないだろう。

 林野庁や金融庁など「庁」にもいろいろあるが、たどった道はそれぞれだ。

環境庁は5年前、省の仲間入りを果たした。対照的なのは社会保険庁だ。

数々の不始末が露見し、「ねんきん事業機構」へと組織が縮小されることになった。

降格である。

 奈良の都にさかのぼる官界のしにせでも、背任の体質や談合の悪習を改善しない限り、

「省」格上げに世論の支持は得られまい。

今のままではむしろ「ぼうえい事業機構」と改名されても不思議はない。





自衛隊の前身は警察予備隊である。治安を維持するのが本分とするならば的確な名称である。

外国までノコノコ出て行く必要性は全くない。

アメリカでは戦争を代理する株式会社までできているようだ。勿論兵器産業も盛んである。

だったら商売による利益を考えれば「戦争」がなければ,その産業は衰退する。

だから彼らにとっては平和は敵である。戦争こそ望ましい社会状態である。

その考えである社会機構をそっくり真似しようとするのが小泉首相の構造改革なのか。

そんなことはないとの小泉首相の返事が聞こえそうだが,

実際はそのような社会に移行しつつあるようだ。





この季節、多くの受験生が吉報を待っている。



2月20日の天声人語からの引用


ぜひ、なんとか、できれば、どうにかして、まぐれでもいいから、ああ合格したい。

この季節、多くの受験生が吉報を待っている。

 先週、取材で訪ねた早稲田大学でも入学試験をしていた。

大隈講堂の前に「父母休憩所」の立て看板があった。どんな空間なのか。

のぞいてみると、100人近くが微妙な間隔をあけて、黙って座っている。

8割は母親だろうか。

 聞けば、娘さんをひとりで東京にやるのが心配で、同行した人が多い。

三重県からの母親は「けさも2人で必死に満員電車から降りました」。

別の父親が、ぼそっと言った。「僕のころは休憩所なんてなかった。

合格電報屋はいっぱいいたけれど」。そういえば、合否を電報で伝えるアルバイトを見かけない。

 大学によって電文に特徴があって面白かった。

合格は「オチャカオル」(お茶の水女子大)や「オバコワラウ」(秋田大)、「クジラガツレタ」(高知大)。

不合格なら「ダイブツノメニナミダ」(奈良教育大)や「サクラジマバクハツセズ」(鹿児島大)などが知られていた。

 「アスワヤマニハナガサク」。こんな福井大の電報が「明日は」だから今回は不合格なのか、

「花が咲く」から合格なのかで混乱したなんて笑い話もある。

正解は足羽山(あすわやま)という地元の有名な山で、合格の意味だ。

 最近の合否判定はホームページに載せるほか、電話で受験番号を入力しても確認できる。

いまや吉報は待つより、みずから受け取りにいくものらしい。じれったいような、怖いような。

発表までの、あのせつない気分は変わらないけれど。





試験シーズンでもある。韓国では試験戦争はもっと激しいようだ。出身大学で将来が決まるらしい。

昔は貧乏人は国公立大学,そして金持ちは私立が相場だったが,

現在は金持ちで塾に通い,みっちり勉強したものだけが国公立大学に行けるとか。









トリノの冬季五輪は





2月21日の天声人語からの引用


絵の下方に、輪回しをする少女がシルエットのように描かれている。

その先は広場らしく、誰かの像の影が伸びている。回廊のある街並みが夕日に輝く??。

以前、イタリアのトリノの回廊を歩いていて、このデ・キリコの代表作「街角の神秘と憂愁」の場面と、

実際の光景が重なるような思いをしたことがある。

 回廊は、トリノの街に幾つものアーチをつくりだした。

その繰り返しが、重厚な石造りの街に軽快なリズムをもたらす。

そして、初めて見る光景なのに、昔どこかで見たことがあるような懐かしさを覚えた。

トリノの街には、異国にいることを一瞬忘れさせる不思議な詩情があった。

 トリノの冬季五輪は、開幕から11日が過ぎた。

これまでのところ、日本選手の活躍は、残念ながらあまり伝えられてこない。

 テレビの前では期待はずれの声もあがっているのだろう。

一方で、国内での施設整備や選手への支援強化を訴える声もあるようだ。

 しかし、今はまだ、繰り広げられる競技そのものに目をこらしたい。

滑り降りるというより滑り落ちるような滑降をはじめ、地球の重力を利用したり、

それに逆らったりしながら限界に挑む選手たちの姿は、

国籍を問わず感動的だ。黒人で初めての個人での金メダルに輝いたデービス選手の疾走に、

その人生の軌跡を重ねてみることもできる。

 日本選手への期待が膨らむのはやむを得ない。

しかし、その成果をメダルだけで数えるのはさびしい気もする。

異国を一瞬忘れさせる回廊の街の五輪を、国籍を一瞬忘れながら楽しみたい。




取材とかで気楽に外国へ行ける人たちが羨ましくなるが,

遊びとは違うのだからそれだけのストレスもあると考える。トリノ トリノで二月が過ぎたように思える。

こんなに冬季オリンピックが注目されたのも珍しい。

日本は殺風景な鉄筋コンクリートの建物が多いが

ヨーロッパは昔からの同じような低層の建物しかみられない。

日本は伝統に無関心な国民なのかどうか。神社仏閣でもコンクリート作りの建物が増えて来ている。

寺院での学校同様にセキュリティが厳しくされている様子がうかがえる。

日本はどぅなってきているのと叫びたい。







人は裸足で生まれ、裸足で死んでゆく




2月22日の天声人語からの引用

「人は裸足で生まれ、裸足で死んでゆく。その間の生を、靴は共にする」。

先週、64歳で亡くなった靴デザイナー高田喜佐さんの『素足が好き』の一節だ。

 靴にデザインの概念を持ち込んだはしりで、ブランド「キサ」を設立した。

「私の作った靴が、私から離れ歩いてゆく……さまざまな人と出会い、旅をする。

涙を流し、笑い、沈黙し、愛を語り、地球の上で、その人と大地をしっかり結んでいる」。


思いが詩的にほとばしるのは、母が「おかあさん詩人」の高田敏子さんだったからか。

 敏子さんは戦後、普段の暮らしの中の出来事をやさしくつづりつつ人生のきらめきをうたった。

「男は毎朝/カミソリでひげをそる/そのとき女は/包丁で野菜を刻んでいる/

お互いに刃物を使いながら/刃物を感じないでいる/幸福な朝!」(『砂漠のロバ』)。

詩誌「野火」を主宰し、89年に74歳で逝った。

 やはり戦後の詩に独自の世界を築いた茨木のり子さんが、79歳で亡くなった。

背筋がすっと伸びた潔い言葉の数々は、いつまでも生き続けるに違いない。

 茨木さんからはがきを頂いたことがある。

終戦直後に流行した「リンゴの唄」の並木路子さんが01年に死去した時、

茨木さんの「わたしが一番きれいだったとき/街々はがらがら崩れていって」という一節を記事に引用した。

「あのメロディを聞く度に、戦後の混乱のさまざまがよぎってゆくのを覚えます」

 茨木さんは、ようやく訪れた青春の中で聞いたのだろう。

そのころ敏子さんは子育てに励み、その懐の内に喜佐さんが居た。

一人での考えることは範囲は限られている。どうしても他の人が書いたものを引用している事が多い。

職業となって毎日かくとなると大変な苦労である。湧き出る泉は一つで,いろんな事は中々に出てこないと

想像する。所詮人間は裸で生まれて裸で死んで行くのが全ての人たちの運命である。



再逮捕されたライブドアの堀江貴文・前社長は



2月23日の天声人語からの引用


 「??一度きりの人生で、挑戦しない手はない」。

きのう東京地検に再逮捕されたライブドアの堀江貴文・前社長は

『堀江貴文のカンタン!儲かる会社のつくり方』の序章にそう書いていた。

 挑戦という言葉は本の末尾にも登場する。

私は、背負っている約12万人の株主(2004年6月末現在)を幸せにするために、

これからもたくさんのリスクを取って挑戦し続けていく。


そしてこれからも、たくさんのワクワクする体験が待っていると期待している」

 本の出版後も株主の数が増え続けたが、

先日は、株価の急落による株主救済のためとして「ライブドア株主被害弁護団」が結成された。

背負っていたはずの株主から損害賠償を求められることにもなりそうだ。

 「犯罪は、その独特の輝きと独特の忌はしさで、われわれの日常生活を薄氷の上に置く作用を持つてゐる」。

作家・三島由紀夫は独特の犯罪論をこう続けている。

「それは暗黙の約束の破棄であり、その強烈な反社会性によつて、

却つて社会の肖像を明らかに照らし出すのである」(『決定版 三島由紀夫全集』)。

 ライブドアの拡大への「挑戦」が犯罪にまで至っていたかどうか、最終的には裁判所の判断を待つほかはない。

しかし事件はやはり、今の世の中を映しているようだ。

 金銭や財物、あるいは勢力拡大への執着は、人間の歴史と同じくらい古い昔からある。

一方、インターネットの世界は激しく変わり続けている。

この古い欲望が新しい道具立てと交差して結んだ一つの肖像を、事件は照らし出している。







ホリエモンのような形で次から次へとお金が転がりこんでくる仕組みはわからない。

判らないはずだ。刑事が大量の証拠物件を調べていても そして連日の面接自白に頼ってもその実態の

解明にいたっていないからである。

「偽メール事件」で気になるのは,誰との政治家と交流がなかったかどうかである。

お金があれば何でも買えると豪語していた人物だったから,

政界にお金が流出していないとは考えられない。

「週間朝日」に,ある時から武部幹事長の次男が突然一千万円以上もする外車を乗り回している記事が

書かれていたことを記憶しているが,これもガサネタだったのだろうか。

週間朝日が告訴されたとの話を聞かない。

事件発生後の武部幹事長の2-3日置いてからの反論記者会見が気になる。

その内調べている間に本当に自民党にお金が渡っていたらどうするのだろうか。

素人投資家への株暴落による損失補てんはどうするのだろう。

アゲハマンションと同じレベルの話のように思えるのだが。

又国民の税金がここでも使われることになるのかどうか。?






今、この世は「無筆跡の時代」に




2月24日の天声人語からの引用


普段、机上でメモなどを取るのに、3Bの鉛筆を使っている。

柔らかくて滑りがいい。

作家の遠藤周作さんは、純文学は硬いHBで、読者を楽しませるような文章なら3Bでと、

作品によって使う鉛筆を変えたという。

 鉛筆の硬さや筆記用具の種類を問わず、手で書き付けたものには、それぞれの筆跡が残る。

似た文字を書く人が無いわけではないが、親しい間柄なら筆跡を見るだけで大方の見当はつく。

筆跡は文字の形をとった筆者の姿ともいえる。

 今、この世は「無筆跡の時代」に向かっているのかも知れない。

文書はパソコンで、という流れの広がりようは急だった

さらに、手紙の多くがメールという電子文字の通信にとって代わられてから、身の回りの筆跡の減少は加速した

メールが届いても、本当にその人から来ているかどうかは、画面だけでは分からない。

 メール一本が永田町を揺るがすかと注目された「送金メール」問題で、

国会に持ち出した民主党の永田寿康衆院議員が、辞意を口にしたという。

結論は先送りにされたが、ことの経緯はきちんと国民に説明する必要がある。

 民主党幹部らの責任も重い。

ことに前原代表は「(武部氏らへの)資金提供が次男を通じてなされたのではないかという確証を得ている」と、

党首討論で明言した。

 メールには、手書きの文書のような「書き癖」は無い。

真偽を含めて、より慎重に裏付けを取るべきだった。

この国会では、小泉内閣時代に噴出した問題についての鋭い切り込みを期待していたが、これではあまりに情けない。


誰が見ても民主党党首の責任は重い。即刻に辞職すべきである。

自民党が組みやすいから放置しておくとなると国民を愚弄したことである。

100%前原党首での政権奪還はありえない。

早くゴタゴタせずに党首は交代すべきである。



世界からトリノに集った女性たちが、
力を尽くして銀盤に描いた軌跡もまた





2月25日の天声人語からの引用

プッチーニの歌劇「トゥーランドット」の舞台は、昔々の中国の北京だ。

そこの美しい姫の名前がトゥーランドットで、婿選びを巡って筋が展開する。

 姫が出す三つの謎を解かなければ、求婚者は殺される。

ある国の王子がそれに挑む。

「夜ごと生まれ朝には死んでしまうものは?」。

王子は「希望です」と答える。

次は「偉大な行為を思うとき燃え上がり、死を思えば冷めるものは?」。

「血です」。


「あなたを燃やす氷は?」という最後の問いにも「トゥーランドット!」と正答する。

 今度は、王子が「私の名は?」と謎を出した。

「答えられたら姫をあきらめるし、自分の命も捨てよう。

期限は明朝……」(M・ルイス『三大テノール』)。

 王子が自分の勝ちを確信して歌う曲が、

トリノでフィギュアスケートの荒川静香選手が演技に使った「誰も寝てはならぬ」だ。

「立ち去れ、おお、夜よ/急ぎ沈め、星々よ!/星よ沈め! 夜明けに私は勝つ! 私は勝つ!」

 荒川選手は、このメロディーに導かれるようにのびやかに滑り、跳び、そして勝った。

しなやかに反り、あでやかに舞う。

ひたむきで、しかも余裕すら感じさせた見事な金メダルの演技は、多くの人々の心に長く残るだろう。

 しばし余韻にひたりつつ、こんな一節を思い浮かべた。

「トリノは、愛の神が望み得るいっさいの魅力を女たちが持っているイタリアの町である」

(『カザノヴァ回想録』窪田般彌訳)。

世界からトリノに集った女性たちが、力を尽くして銀盤に描いた軌跡もまた、それぞれに美しかった。





荒川選手だけが今回のトリノオリンピックでの唯一のメダル獲得者である。それも金メダルでなんとか

日本の存在が示しえた。史上最多数の参加にしてはメダルの数は少ない。

「オリンピックは勝つよりも参加することに意義がある」





花粉症笑ったあいつも今年から





2月26日の天声人語からの引用

 花粉症用の医薬品を扱う企業数社がいま、くしゃみや鼻水の憂さを晴らす川柳を募集している。

「花粉症笑ったあいつも今年から」。

記録的な飛散量だった昨春、協和発酵(東京)に寄せられた句だ。

前年まで患者をからかっていた知人がふいに仲間入り。

古参患者の視線は冷たい。

 「見てみたいある日とつぜん治る夢」は、米国系の医薬品会社シェリング・プラウ社(大阪)の入賞作の一つ。

全快を夢見る人々の間でこの春一番の話題は「避粉旅行」だという。

花粉の少ない土地へ一時的に逃れる。

 たとえば北海道の上士幌(かみしほろ)町は一昨年から「免疫保養地」を名乗っている。]

「スギが一本もない町で快適な春を」。

町役場が音頭をとり、滞在や移住を呼びかける。

昨春主催した4泊5日のツアーには、10人の定員に276人が応募した。

首都圏からの参加が多かった。

 南の島々にも杉木立は少ない。

石垣島や奄美大島でも、花粉疎開の旅が企画されている。


「到着翌日から鼻が楽になった」「春に外で深呼吸したのは久しぶり」。

昨年の参加者には好評だった。

 環境省は今年、スギやヒノキの花粉飛散量を例年の3〜8割と予報している。

昨春よりしのぎやすそうだが、油断はできない。

去年の大量飛散で、患者予備軍が増えたかもしれない。

自覚のないまま体質が変わっていたら、ある日突然発症する。

 しかも老若を問わない。

「この歳で!?嘆いた祖母は82」とニチバン(東京)の入選作。

晴れた日は外出もままならないが、降れば降ったで忙しい。

「あっ雨だ今だ花見だ買い物だ」



花粉症はその立場にならないと,苦しみは理解できないだろう。

くしゃみ はなみず はなずまり 目がしょぼしょぼ のどのいがいががあるようだ。

良い薬が沢山出回っているので苦しむ必要はない。

薬は抗アレルギー剤といわれて種類は多数ある。

重症には副腎皮質ホルモン剤と抗ヒスタミン剤との合剤が良く効く。



幼い3姉弟の芝居は障害児の会などで人気




2月27日の天声人語からの引用


福岡県に住む田中靖子さん(49)が長女のあやのさんとその弟2人で親子劇団をつくったのは、

8年前のことだ。

小学生だったあやのさんは学習障害と診断され、友達も少なく、さびしそうだった。

かつてアマチュア劇団で舞台に立っていた田中さんは、一緒に劇をすることで元気づけようとした。

 幼い3姉弟の芝居は障害児の会などで人気を呼んだ。

あやのさんはすっかり元気になった。

こんなすてきなことを家族だけで続けるのはもったいない。

そう考えて、2年後、児童劇団につくりかえた。

 その「劇団きらきら」は「障害のある子もない子も一緒に」というのが特色だ。

田中さんは「障害のある長女と障害のない弟たちで始めたので、自然な流れでした」と語る。

 今度の日曜日に福岡県宇美町で公演すると聞いて、けいこを見せてもらった。

出しものは「絵本は友だち」だ。

小学生から高校生までの約40人が元気にせりふを語り、動き回る。

3分の1は何らかの障害があるというが、どの子もひとつに溶け込んでいる。

 劇は楽しいですか。

自閉症で小学6年の須田勇人君は「すばらしい」と答えた。

お母さんによると、せりふを覚えることで自信をつけたという。

障害のある弟と参加している中学2年の坂口剛司君は「みんなで助け合いながらやるのが面白い」

 あやのさんは高等養護学校の2年になった。

卒業すれば児童劇団にいるわけにはいかない。

田中さんは「青年部」をつくった。大人の劇団への準備だ。

いつまでも、みんなで演劇を続けたい。田中さんの夢はふくらむ。





障害をもった人で忘れられない人に,人一倍情緒的に非常に優れていて,歌を唄うと上手な好青年だった。

なんとか治療法がないものかと今の医学で何処かを少し手術して,直らないものかと思ったことがあった。



トリノ冬季五輪の幕が閉じた。




2月28日の天声人語からの引用

 手の指先をすぼめて空に向けたような形の聖火台から、すっと炎が消える。

トリノ冬季五輪の幕が閉じた。

テレビ画面の濃い闇の向こうから、大会の幾つもの場面がよみがえってきた。

 人々はアルプスを背にしたポー川のほとりの街に集い、雪と氷と風の中で競った。

成功と勝利があり、失敗と敗北があった。

歓喜と失意とがあった。


様々な国の旗が翻り、獲得メダルの数が注目された。

しかし国ごとの区別が五輪の眼目とは思えない。

 やはり、記録と自らの限界に挑む選手たちの姿が胸に残る。

それぞれの顔や手や足の動きに輝きが宿っていた。

 その光をかげらせるものもある。

商業主義や見せ物化、薬物汚染の根は深い。

しかし、過去何よりもその輝きを奪ったのは戦争だった。

1940年の「東京五輪」は幻に終わった。

 同じ時代にトリノで、反ファシズム活動を理由に逮捕された詩人チェーザレ・パベーゼが流刑地で書いた。

「今日という日に川から霧が湧いて、美しく/都会へ流れこむ……帰ってくる価値はあるのだ、たとえ変り果てても」。

遠い獄舎でトリノを思っている(河島英昭『叙事詩の精神』岩波書店)。

 そんな歴史もあるこの街で昨秋、ポー川のほとりに立った。

そばには釣り糸をたれる人が居た。

白くにごった水がゆったりと流れてゆく。

ファシズムと戦争がこの地を覆った時代を思いながら、「平和の祭典」を慌ただしく準備する街を歩いた。

大会を無事に終えて聖火が消えたトリノの街に、詩人の夢見た穏やかなたたずまいは、もう戻ってきただろうか。






閉幕式はテレビニュースで見ただけである。やはり日本にとってアイスショ-とトリガ-というゲートボールのような

ボールを投げ氷の上をモップのようなもので床をこすってボールを輪の真中に持って行く競技が印象的だった。





九条通り



今まで家から京都府医師会館へ行くのに,いつも二十四号線(奈良街道)をとおり,途中から151号線(竹田街道)で

大石橋で九条通りの方向に自動車を走らせている。何故に大石橋と言われるのか由来がわからない。

近くの鴨川にかかる橋には東山橋となっている。昔は大石橋といわれていたのか。

それが最近知ったのは平安京の一番南側の端が九条通りであったことである。

九条通りの途中に右手に濠をめぐらした東寺がある。京都では一番高い五重塔が境内南東に目に入る。

新幹線で京都に近ずいたときに一番先に見えてくるのがこの東寺の五重の塔である。

最近久しぶりに東寺の中を拝観した。

九条通りに面して,南側に構えた大きな門が南大門で,境内しばらく歩くと金堂がある。

金堂建物は延暦15年(796年)に創建され,文明18年(1486年)に焼失,豊臣秀頼により再建

桃山時代の代表的建物で国宝に指定されている。東大寺の建物に似ている。

中に薬師如来を真中に日光菩薩 月光菩薩が両側に安置されている。

しばらく歩くと講堂がある。講堂の中には仏像が沢山で憶えるのに大変だ。

東側から入り菩薩群が安置され,真中には如来群がそして西には明王群が安置されている。

真中の如来群だけ覚えている。

それは京都国立博物館にも同じような仏像が展示されており,

これらの仏像は山科の北にある安祥寺にあった仏像群で博物館に寄託されている。

真中には一回り大きな大日如来が鎮座され,左の奥が阿弥陀如来 その前に宝生如来が

右の奥が不空成就如来 前に安閃如来である。これら全部でもって五智如来と言われている。

それに対応して不動明王なと゜の 明王群と反対側に金剛菩薩などの菩薩群がある。。

全てでもって,称して立体曼荼羅を構成している。

曼荼羅は言葉で言い尽くせないことをば曼荼羅で教えている。 

西側の建物群にはあまり覚えていないが,大日堂,毘沙門堂,大師堂は弘法大師が住居されていた場所,

それに灌頂院 八幡宮,八島宮が南西にある。

北側に観智院があり,東寺の子院である。その間には食堂(じきどう),宝物館などがある。

宝物館には見上げるような大きな丈六の不空絹索観音菩薩の立像があったのが印象的であった。

東寺とは離れた東側の街道の中央の辺りに伏見稲荷のお旅所がある。

伏見稲荷の氏子達は東寺の付近で五つの郷からなっているようだ。

本来の伏見稲荷付近にはすべて藤森神社の氏子である。

藤森神社は稲荷郷と深草郷 郷之下の三台の神輿がある。郷之下とは藤森神社より「下」即ち南側の町々を言う。

昔の「都名所図会」を見たりしていると伏見稲荷の神輿が東寺の中で勢ぞろいして

僧侶によって祈祷されている図が描かれている。

弘法大師の伝記を拾い読みしていると,東寺の南大門前に老婆を大師がみかけ後をつけてゆくと

稲荷神社に入り十一面観音菩薩だったとして,大師は稲荷信仰するようになったと書かれている。

東寺の塔の木材は稲荷山から調達されている。稲荷の社務所の人は東寺との関係はないように話されているが,

東寺には八島神宮と八幡神宮が祭られ,伏見稲荷神社にも八島池の近くに八島神宮が存在する。

東寺と稲荷のお旅どころの間には,弘法大師の手によって種智院という始めての私学校が作られている。

それは藤原三守から寄進された土地で,現在の種智院大学として存続し,

今も伏見向島に京都東山七条の方から移転してきて健在である。

日本で一番古い私学校で小さい大学だとされているが

自宅から近くなどで二度ほど訪れているが,かなり大きく文学・仏教・福祉関係の大学である。

種智院大学には真言宗関係のことを調べるため図書館へ訪れ司書のかたより教示されたりもする。

その他図書館は京都総合資料館、京都市立伏見中央図書館、滋賀県立図書館など。それに京都,大津歴史資料館。 

京都,滋賀,宇治,南やましろ,向日町,山崎考古学資料館などなどに訪れ見学し,

研究員の方からも色んなことを教えてもらったりしている。

種智院の土地は弘法大師減後に東寺二代目の長者実恵によって売却され,

大江山に土地を買い東寺の維持費に使われてきた。

九条通りを東寺の西側を行くと羅城門の遺跡碑が小さな公園に建っている。羅城門は黒沢明監督によって「羅生門」の

名前で映画に撮られグランプリン賞を獲得している。主演三船敏郎 京まち子。

映画DVDを買って来て,映画を見直したが古い作品だが新鮮である。

昔見たときに何かわからなかったことも理解できる年になっていて,興味が有った。名作映画は何時も新たな感動を見る。

羅城門は平安京の東の入り口に当たる。平安京内の朱雀大路に通じて羅城門より外は「鳥羽の作り道」で,

桂川と鴨川が合流する地点辺りである「草津」に通じている。

宇治川,下流の淀川から,さらに瀬戸内海などを通して物質,人の交流が平安京と外来との間にあった。

九条通りを羅城門の遺跡から東寺へ行く距離と同じくらいの所に西寺があったが,

今は学校と公園になっているところらしい。

だが九条通りから北の方へ御前通りを走っていると西寺旧跡と書いた石碑が建っている小さな寺院をみかける

そこを訪れて教えていただいた。

その寺は現在「西寺」をば称しておられる。今の公園あたりに有って,昔の西寺の金堂が移転して来たとのことであった。

一冊の小冊子をいただいたものを読むと,本尊阿弥陀如来 開祖藤原守敏僧都像 不動明王 般若善神画像などが

今も伝わっているように書かれている。

九条通りを京都市遺跡地図と比較してみると昔の九条通りとほぼ同じのようだが,羅城門あたりから西大路の間は

昔の九条通りよりも曲がって南側の方に現在の九条通りが作られている事が判る。


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