そのことは後に触れるとして、 まず都市環境デザイン会議の全会員におおむね次のようなキーワード募集のお願い文書を送付した。
『「都心居住と環境デザイン」を正面から、 斜めから――、 大所高所から、 あるいはミクロな成果を――自由に語って下さい。唯一の条件は、 都市環境デザインという視点から書いていただきたいということです。
また、 キーワードは3枚のスライドと短いタイトル、 それに説明文により表現し、 提出してください。』
キーワードの募集を始めて以来、 機会をつかまえてメンバーにでき上がり具合をそれとなく確かめてみると、 むつかしいテーマだ、 適当な写真がなくてね、 といった答が多くて、 どうなることかと思ったりしていた。
そういった難しさは、 次のような事情として整理できそうである。
難題のひとつは、 「都心らしい環境デザイン」と「都心居住ということ」の関係性を明確に説明する難しさである。
高密度環境のなかでのみ生まれてくる都心らしい解決策、 しかもなかなかにチャーミングなデザインが示されているとしても、 これと「居住」の間の強い関係性まで話題にしないと、 「都心居住の環境デザイン」のキーワードとしては不十分なのではないか。
高密度環境としての都心ならではの、 きめのこまやかな、 複層的関係がつくり出している、 しかも魅力的な場所は多い。
人びとにそのことを知ってもらえばよいという立場もあるが、 それはやはり都心の環境を説明しているだけ、 といえなくもない。
ふたつめの難題は、 このことと強く関わるものであるが、 3枚のスライドにより説明するということである。
居住につながるさまざまな状況を写真として定着させる作業が必要であるが、 住むという行為や環境の映像化もまた簡単ではない。
だが、 考えてみれば、 居住のための都心環境、 とりわけ環境デザインのあり方は、 これから取り組んでいかなければならない主要課題であり、 それゆえ身の回りに適当な実物がないわけであるから、 この作業が難しいのは当然のことである。
また、 居住という行為は都市を構成するすべての事象に関わる人間的、 かつ総合的な行為であるともいえる。
しかし会員諸兄姉から寄せられた力作に目を通していると、 難題をかるく超えるこれらの「事実」を確認することができたし、 それにもかかわらず実に幅のある視点や提案が集まっており、 これらによって「都心居住の環境デザイン」を十分に説明しうることが確信できた。
時間をかけて都市の細部に立ち入り、 あるいは記憶とスライドのストックをひっくり返して探索していただいたメンバー諸氏の様子が想像される。
ご協力に心より感謝の言葉を申し述べたい。
これによって、 都心空間における多様な人・ものの動き・往来と、 そこでの出会いの多様性を表現しようと考えたわけである。
さて、 85編のキーワードが集まったわけであるが、 その配列にはなんらかの規準・分類方法を定めることが必要であろう。
それぞれに含まれる視点や提案は、 上述のように、 居住行為という総合的枠組みのなかにあり、 分類は簡単ではない。
いくつかの規準で試みに仕分けてみたが、 いずれにしろどの分類のハコに入れるかは迷いを誘い、 また決断を要する作業であった。
結局おちついたところは、 〈住みあう〉〈混じりあう〉、 そして〈連鎖するデザイン〉という大区分(以下では、 part)と、 これにつづくいくつかの小区分(同、 セクション)である。
すなわち、 〈見せあう〉〈知りあう〉〈使いあう〉〈寄りあう〉〈守りあう〉である。
順に説明しよう。
〈見せあう〉 商店街やオフィス街に彫刻作品などをおくアート化について、 小川(買物はギャラリーモールで!)は住み手・利用者とミセのコミュニケーションを活性化する役割を評価し、 長谷川(造形が点在するみち)はそれらの質的向上の必要性、 及びそのために欠かせないのは利用者・居住者などの批評であると述べる。
中村(歩道の坪庭)は、 自宅前の清掃や植木鉢の設置など、 近隣相互のしつらえの呼応が居心地を高めている様子、 また久(がんばる緑化)は、 ほんのわずかなすき間に手づくりの緑化を競う都心居住者の創意に拍手を送っている。
佐々木(都市の縁側)は、 河川背面を放置することなく、 水面を眺める縁側空間としてデザインしようと呼びかける。
これらは、 都心における高密度環境のなかでの生活・居住を通して、 そのデザインや身の回りのしつらえ方・整え方をお互いに〈見せあう〉関係が生まれ、 批評や創意が繰り返されることによって、 それらが洗練されていく可能性について述べている。
〈見せあう〉ことによって住み手や当事者の創意が連鎖的に広がるというデザイン的環境が都心居住により開けるということであろうか。
〈知りあう〉 材野(横丁に息づくお店達)によれば、 都心居住の楽しみは魅力的な店がちりばめられている横丁にふらりと立寄り、 自然に馴染みの店ができることであり、 鳴海(たくさんの身近で馴染みの店を)は、 定住環境に関する調査結果から、 都心居住者は徒歩圏内に3店ほどの馴染みのミセをもっており、 ひとは都市というジャングルのなかの活動拠点のようなものを求めているのだ、 という。
また江川(まちなかのリビングルーム―BAR―)は、 徒歩圏内にみつけたバーは、 異なる生き方の人々に出会い、 仕事を離れた交流を誘い、 心のゆとりを生むアジールになる、 と述べる。
いっぽう井口(人が好きでなきゃ都心には住めない)は、 人間の営みを好意的に受け止める人しか都心には住めないのでないか、 と反語的な表現でその魅力に近づく。
都心は、 ごく自然に人に知り合える構造・しくみを備えており、 見知らぬひとと出会い〈知りあう〉可能性を用意できるが、 そういった構造が積極的な意味をもつには、 このような都心住人としての楽しみをアピールする作業―このフォーラムもそうだが―を広く展開することも必要である。
こういった都市生活のクオリティに関する議論の繰り返しが都心居住を拡張する大きな役割をになうであろう。
〈使いあう〉 亀谷(計画者は都心に住むべし)は、 都心全体をわが「家」として暮らしてみよう、 そうするとさらに良いところが見えてくると述べ、 長谷川(街角の広場)は、 各所に噴水・彫刻・水・石などからなるオアシス空間のような広場があり、 憩い・安らぎを得ることのできる恵まれた環境が都心であるという。
森川(空間を柔軟に使いこなす)は、 都心ではひとつの場所が遊び場、 祭り・イベント、 屋台の広場など、 多目的に利用しうる条件があるが、 これを生かすデザイン的工夫が足りないと指摘している。
菅(路上生活のすすめ)は、 パブリックな空間にもっとプライベートな性格を与えてやり、 街全体をわが家のように使うことによって快適性が増すと論じている。
大矢(川が流れるまちなか)は、 都市河川について、 緑・空間・水面・ボート漕ぎその他人の心をなごませる多面的な可能性をもっており、 これらを生かした都心居住の楽しみへと想像をふくらませる。
都市のあちこちの場所やそのエレメントなどを、 まわりに生活し居住する大量かつさまざまの属性をもつ人びとが利用し〈使いあう〉のが都心であるということは、 そのことによって環境デザインのレベルがますます磨かれ、 洗練される可能性があるということである。
そんな事情がキーワードからよみとれる。
〈寄りあう〉 横山(人恋しくて)は、 人の気配が嬉しいという経験、 そんな気持ちの集まりが都市であり、 だから賑わいのある場所のデザインを大事にしたいと述べ、 林(ルーフテラスと花水木)は、 都心なら、 仲間がすぐに集まり、 近くのミセで品物を揃えれば、 たちまちパーティー会場ができると、 集まりやすさを特筆する。
小浦(子供たちを育む集住のかたち)は、 かつて都心では近所の人の目の届く地域社会があり、 彼らに守られて子供が育ったが、 これからの都心居住には別の新しい育児法、 そして寄り合いのしくみが必要であると述べる。
吉田(みどり・子ども・まつり)もまた、 子育ての環境の重要性を述べるが、 とくにコミュニティがこれを支える役割をもつという。
清水(瓦屋根の作り出す風景)は、 瓦屋根の町並みの美しさを強調し、 〈寄りあう〉ことがつくる都市美を示し、 また江川(利用する都心居住の形態)は、 都心住宅は多様な世帯の集まりであり、 都心環境はみんなの財産である、 そのような階層ミックスの受け皿として最もふさわしいのは賃貸住宅であると提案する。
以上のように、 都心の住み手・世帯構成は多様であり、 かれらが〈寄りあう〉環境もこれにふさわしい固有の形態を志向するわけであるが、 都市機能配置や家族社会の変動などがそのありように制限的な力を加えるという流れもつよい。
しかし、 〈寄りあう〉ことが生み出す環境美や住むことの心地よさは他に代え難い魅力であり、 これに向かう作業によって新しい現実をつくり上げたいと考える。
〈守りあう〉 久(育み共に生長する緑)は、 量的確保が困難な高密度環境のなかの緑について、 だからこそ人々は愛着を込めて、 皆で小さな緑を守り育て、 それが場所への愛着を育てると述べる。小川(ダンボールハウスのある公園)は、 ダンボールハウスのならぶ解放的な利用でも、 フェンス囲いの管理型でもない、 地域の住まい手が管理するような公園利用法を説く。
西(都心居住と深夜営業の店が安全の決め手)は、 ニューヨークでも例外的に安全な場所として、 24時間の深夜営業と都心居住が混在しているグリニッジヴィレッジを上げる。
どうじに西(そうは言っても、 親子では住みにくい)は、 ニューヨークの子供達には監視員つきの柵囲いの遊び場しかなく、 子供連れにはまだまだ安心して住める環境ではないと注釈をつける。
丸茂(巣作りのできる都心環境)は、 子育てには安心できる安定した環境が必要で、 都心の喧騒から「守られた公共空間」をもつ街区型集合住宅を提唱している。
確かに、 人の集まり・人の住まいが、 〈守りあう〉環境、 安全・安心の環境をつくり愛着を育て、 そういったなかで子供を育てられればこれにこしたことはない。
しかし、 榊原(闘う都心居住)のいうように、 さまざまの機能や障害物が眼の前に現われときには、 闘わねばならない。
そうしないと、 住みあい、 守り合った環境は壊れて行く。
最終的には、 〈守りあう〉ためには闘わねばならないこともある。
すなわち、 〈人が混じりあう〉〈仕事が混じりあう〉〈空間が混じりあう〉〈動きが混じりあう〉〈時が混じりあう〉〈怪しさが混じりあう〉である。
順に説明しよう。
〈人が混じりあう〉 井口(貧乏人と大金持の都心居住)は、 貧乏人から大金持までが都心に居住し、 かつ大店のご隠居は町外れにお屋敷を構えたりしたのは近世。時代はかわって、 今は大半が郊外という町外れに住みたがる。
考えてみれば傲慢なことだと歴史を振り返る。
そうは一概にいえないと、 中村(オムニバスな視点)は、 働く人と住む人が交錯する小さなビルの「混住型集まりの楽しさ」が生き生きとした様子を示し、 また千葉(混住による生活都心のデザイン)は、 オフィスビルの管理人のみが住む都心像を改め、 中層高密建物主体の混住都心を提案する。
中層高密の住宅は階層ミックスを支えやすいのである。
大阪の都心に生まれ育った有光(都心が私のふるさと)は、 手近に必要な施設が揃っており、 多くの友人も住み続けている都心こそ「住むのに最高の場所」と結論する。
田端(小規模ミセ群の都市美)は、 都心居住を支える小さなミセや店主の役割に触れ、 賑わいと活力を象徴する混住都市の美学を述べる。
小浦(まちなかで物思い)は、 雑然・多様な活動・機能と共存しなければならない都心の学校では、 勉強以外に社会や文化とのゆたかな出会いがあることを思い起こせば、 閉鎖されたまちなかの学校を再開する意味はきわめて大きいと呼びかける。
都心はまさに多様な仕事・経験・趣味を携えた人びとの混在する場であり、 そのように〈人が混じりあう〉なかで、 思いがけないつき合いが始まり、 都市の活力が生まれ、 特有の文化環境が育つのである。
それが、 とりわけ、 将来の都市を支えることになる子供に計り知れない知恵を授けることに思いをいたしたい。
〈仕事が混じりあう〉 吉野(職住一体が都市居住の原点)は、 職住一体の店舗併用住宅街区はアジア・欧米でも都市を構成する基本単位であり、 衰退傾向の路面型商店街の再生を訴える。山本(働きながら住み続ける街)は、 働きながら住み続ける人の多い街に感じる独特のいきいき感に注目し、 そこに普通のサラリーマンが住んでも楽しい筈であると、 新しい住み方としての都心居住を提案する。
田端(ネオン街と大学町)は、 都市産業を育てるための小さな仕事場や大学などの研究機関のためには24時間型の環境―居住機能とセットになった―を確保する必要があるという。
山崎(生活職人の町づくり)は、 職人の町にも空洞化が押し寄せるなかで、 都心部に低層の生活職人街区をつくる意味を述べるとともに、 空間イメージを提案している。
われわれは、 職住混在型のマチの伝統を無視して、 ニュータウンをつくり、 オフィス街づくりを進めてきたのだが、 働く人の姿が見えるいきいき感や新しい24時間都市のイメージを膨らませるなかで、 都市というもののあり方を根本的に見直すべき時が来ているという予感を抱く。
そして、 〈仕事が混じりあう〉環境づくりのなかに都市の未来を切り開く可能性をみることができるように思うのだが、 どうだろう。
〈空間が混じりあう〉 上野(快楽的都心居住)は、 都心の魅力は多用途と雑居的生活スタイルであり、 これをそのまま体現する「デパート屋上の居住」や「ビル屋上に畑」など、 なんでもありの「快楽」が期待できるのが都心居住であると述べる。小浦(まちはダイニング・キッチン)は、 早朝から深夜まで多くのミセが開いているイタリア都市や香港のような都市生活、 つまりミセと時間の選択性を保証するには、 ミセと住居が混じり合う都心構造が必要と説く。
千葉(複合による生活都心のデザイン)は、 ちょっと着替えて家を出ると、 そこは何でもありの世界というローマに古代の都市型住宅インスラを重ね、 スクラップアンドビルドの日本都市に住宅を含む機能複合化策の導入を提案する。
南條(サナアの都心居住に学ぶ)は、 イエメンの首都サナアにみる、 個性的な窓・路地や小広場・畑などの都市空間デザインに、 歴史と人がつくったデザイン秩序を実感したと述べる。
また、 横山(規模の異なるものの共存)は、 都心居住の魅力の基盤である、 規模の異なるもの、 生成の過程がことなるものや隣接するものを共存させていく工夫とデザインの必要を述べる。
田端(道草を誘うマチ・遊歩都市)は、 スタイル・業種などの異なる建物や突然のイベント、 路地など、 多様なモノが溢れ、 歩いて楽しい都心を遊歩都市として位置づける。
長谷川(石畳と階段の小径)は硬く、 無機質で、 乾いた都市の表情を和らげるような素材・デザインを広めていくことが、 都心居住をすすめるためには必要であるという。
宮沢(表と裏、 対の空間による街の魅力)は、 都市の顔となる大通り、 アーケードの商店街、 色とりどりの看板があふれる裏通りなど、 多様な空間の組み合わせに都市魅力の存在をみる。
都心とは、 まさに諸物が渾然一体となって、 〈空間が混じりあう〉ところであり、 なんでもありの雑居性、 多種用途・大中小のスケールの混在、 さらに多様な歴史的状況などが蓄積されている環境である。
そこに生活する人びとにとって直面せざるを得ない緊張感と秩序感やゆたかな生活感などに、 多くの会員が独特の魅力を見い出していることがわかる。
〈動きが混じりあう〉 清水(路地網は都心の公園)は、 車の入れない、 静かで安全な路地に都心居住の魅力と可能性を見るとともに、 在来の道路網に路地網を重ねた多重ネットワークを提示する。
前田(通う道を楽しく)は、 都心に住んで無駄な通勤時間を省こう、 自転車・徒歩通勤のための「裏道のネットワーク」づくりによる町の再生をはかろう、 と訴える。
小川(道の真ん中を歩く)は、 まちの賑わいは、 人を脇に追いやる車中心の道路でなく、 道の真ん中を歩く人主体の道から生まれること、 安田(買い物空間の魅力をさぐる)は、 万国旗・商品のはみ出しなど、 過剰と無秩序の交錯するような下町の商店街に混沌の楽しさを見い出し、 計画者なしの空間の魅力について述べる。
山本(市場の愉しみ)は、 はやっている市場の活力、 祭りのような賑わいは、 デパートや専門店にはない「裏の魅力」であり、 そんな楽しみを毎日味わえる都心居住を推奨する。
佐々木(選択できる道)は、 通勤の道、 買物の道、 帰宅の道など、 歩く気分によって選択できる道づくりと、 これを支える光りの加減や足裏の感触、 ディテールの積み重ねなど、 存在感のあるデザインの必要性を提唱する。
現在の車優先型交通体系のうえに通勤・通学路としての歩行者系交通網、 路地・裏道ネットワークを重ねてみたり、 商店街ルートを盛り込んでみると、 都市市街地が異なる見え方で現れてくることがわかる。
このような〈動きが混じりあう〉都心地域への変化を促すなかで、 賑わい、 雑多な動きの重なり・交錯が醸し出され、 人びとを居住へと誘うことになるのではないか。
〈時が混じりあう〉 中村(ポケットパークとしての神社)は、 町なかの神社は出入り自由・大きな緑・井戸・祭りなどがつくるポケットパークであり、 まちの歴史空間は、 新しい住み手がまちに馴染んでいくシカケにもなると述べる。材野(寺院・神社も道空間)は、 都心に残る歴史的空間の多くが、 通り抜けできる開放性や道との一体性を具えており、 都心居住を魅力化する空間として活用できると指摘する。
佐々木(都心の庵)は、 喧騒の都心の中に一人になれる空間・庵があるとよい、 それは高層ビルの谷間などの街の裂け目、 ふだん見えないものが見え、 ひとときの他界感が得られる場所だという。
小浦(都市の季節をつくる)は、 西欧都市の季節はバケーション、 クリスマス、 コンサートで知り、 京都の夏は鴨川の床にみるなど、 生活のリズムの中に都市の季節がある、 と指摘する。
森重(通学路はまちの博物館)は、 朝早くから仕事にせいを出すオミセの様子を通学途中の子供たちが目で確かめ、 匂いを感じる、 そんな通学路のあるマチの魅力を謳いあげる。
土橋(多様かつ重厚なインフラと建築のストック)は、 都心には歴史を刻んだ橋・道路・公園・建造物などのインフラ的施設が集積し、 味わい深い環境をつくっているが、 これを日常的に楽しめる都心居住の贅沢さを強調すべきであると指摘する。
西(近代都市の風景は現代都市より魅力的?)は、 ニューヨークのよさは近代の建物・構造物のシルエットやディテールやその陰影感などにあり、 それは住むに足る安堵感につながると述べ、 現代建築のスケールとプロポーションはこれと合わないと嘆く。
田端(景観変化抑制型デザイン)は、 高齢者には身のまわりの景観は変わり過ぎない方が望ましい。
安心して住める状況をつくるためにも、 景観変化を抑える環境デザイン手法の開発が必要であると論じる。
しばしば、 都心では歴史的環境や古くからの町並みが環境形成の大きな割合を占め、 場所の落ち着きや快適性を生み出し、 また伝統行事などが季節をつくる役割を果たす。
歴史・時間など〈時が混じりあう〉環境は人をまちに馴染ませ、 住むことの安心感・安堵感を醸成するなど、 都心居住の拡充にはウエイトの高い要件である。
そんな贅沢さをもっと宣伝すべきであるという指摘はまさにその通りであろう。
〈怪しさが混じりあう〉 土橋(用途の純化は都心の魅力を減らす)は、 住む人のいないビジネスセンターは美しく清潔だがもの寂しさが漂う。
反対に、 下町や用途混在のまちは小綺麗とはいえないが好奇心を刺激する町である、 という。
千葉(生活都心をデザインするすき間)は、 高密度市街地には、 光・風・緑が心地よい広場状の大きなすき間、 路地・小水路・ポルティコなど小さくて妖しいすき間などが混じり合い、 ふれ合いとドラマを生み出すという。
山本(“露店”的商店街の魅力)は、 だらしなく並べられたモノの美しさ、 混ざる贋物、 口上など、 あやしさを生むほどの活気がアジア的市街地の魅力であり、 買物を楽しむ心とルーズさをむやみに制限しない度量をもちたいと述壊する。
西(ナイトライフの魅力)は、 ミュージカル、 ジャズライブや演劇、 夜のレストランなどのナイトライフの充実が都心の魅力であり、 そこには雑居性の魅力とあやしさが共存している。
こんな夜を楽しむには都心居住しかないと力説する。
土橋(都心の魅力は賑わい)は、 混じり合いの都心環境のなかにも道頓堀のネオン、 アメリカ村の若者、 ターミナルの家族やサラリーマンなどのように、 あるいは猥雑、 清潔、 少しおすまし顔のように、 いくつかの賑わいの型があることを指摘している。
西(溜り場で楽しむ)は、 都心を楽しむためには根拠地(溜り場)をもつ必要があり、 そこで仕事とは別の好奇心をそそる話題、 別の人生を垣間みる怪しい集まりに触れるのだ、 という。
高密度の居住と異なる用途の共存などの積み重ね・歴史は、 想像を超えるほどに込み入った迷路的空間を生み出し、 時に妖しげな雰囲気につながるすき間的空間を生み出す。
そこにまた人が誘われて新しい人間ドラマに遭遇し、 別の人生を見たりする。
〈怪しさが混じりあう〉これらの状況のなかに、 われわれは、 〈混じり合い〉の環境がもつ人世の豊かさを演出する力をみることができる。
part 1〜2にも提言・提案的内容のキーワードはあったが、 より総合的な幅広い視点をもつものをここに含めるようにしている。
これを〈ストラクチャー・デザイン〉〈エンバイロメント・デザイン〉〈ハウジング・デザイン〉に区分した。
順に説明する。
〈ストラクチュア〉 井口(分かっちゃいるけど田舎に住みたい)は、 都心居住の魅力や合理性はわかるけれど、 一国一城の主となる庭付き一戸建てをあきらめ切れない、 そのマイホームの集まる郊外が薄汚い環境であっても日本人の見てみぬふりの特技が生きる。「都心居住よりは個人の平和」というわけである。
そういう見方にうち克つ議論として、 まず都心の美しさに関するキーワードで対抗しようというわけで、 西(仰角と俯角の眺望を活かす)は、 川越しに仰ぎ見るシルエットや夜景、 大きな緑地を足下に捉える爽快さなど、 都心ならではの眺望資源を生かした都心居住地整備を薦め、 交通環境の視点から土橋(車に頼らず生活できるまち)は、 多様な施設が近接する都心では、 路面電車と徒歩や自転車で車で動き回る以上に効率よく用が足せるし、 それは環境にやさしいライフスタイル、 エコロジカルの時代にふさわしい、 と述べる。
田端(『もてなし』都市)は、 次世代の都市課題としての観光をとり上げ、 文化施設や現代建築などの名所づくりと、 都心居住施策による住み手が観光客をもてなす都市構造づくりを提案する。
小浦(水空間のネットワーク)は、 都心のオープンスペースとしては最大限貴重な水辺空間を生かす上で、 水辺をまちに開放する都市デザインを積み重ね、 ネットワーク化することを提案している。
千葉(連鎖による生活都心のデザイン)は、 個々にでき上がっていく建物デザインが連鎖しながら美しい町並みをつくり上げる可能性を、 共通要素としてのファサード・屋根・建物高さやオープンスペース、 樹木・歴史遺産などを連鎖要素として位置づける作業のなかに見ている。
田端(大通りとまち通り)は、 都心市街地を大通り街区とまち通り街区に区分し、 前者には大型の商業業務建物を集約し、 多様な用途・中小建物の混在する後者(マチナカ)を都心居住の受け皿とする、 市街地構造誘導イメージを提案する。
鳴海(アーバン・ヴィレッジの必要性)は、 市街地内の旧村、 学生街、 グリニッジビレッジ、 アメリカ村などは、 都心のなかでも雰囲気の違った村。
一風変わった連中が集まり、 ベンチャービジネスなどの生まれる場所であるが、 これらは地区的固有性を尊重する整備システムのさきがけ的な役目を果たしそうである、 という。
ここに示したいくつかの提案的キーワードは、 全体としてのまとまりを意図してはいないが、 都市環境デザイン会議のメンバーらしい、 具体的な環境像や生活像をべースにしたものであることから、 寄せ集めればただちに目に見えるかたちでの都市像・都市イメージに結実するようにも思われる。
そいう意味で、 個別に都市像を内包しているとキーワードといえるのではないか。
〈ストラクチュア〉としてとりまとめた所以である。
〈エンバイロメント〉 田端(文化小都心開発)は、 公演のはねた後はみんな急ぎ足で帰宅する都心のホールについて、 まわりに人が住み、 ミセがあればゆったりした都市の夜が楽しめる。文化施設のまわりで住宅整備をおこない「文化小都心」をつくるよう提案する。
横山(安全と安心・居心地のよさ)は、 過度集積と複雑化のなかで、 便利なものの危険さや息苦しさを覚えることがあるが、 都心居住の居心地を高める上で人の心への響き方を考えたディテールのデザインが必要であると訴える。
屋代(アフォーダンスのデザイン)は、 人はなにかを見ると同時に状況を判断しつつ次の行動を用意する、 というアフォーダンスの理論を都市環境デザインに応用することにより、 居心地のよい環境をつくるよう呼びかける。
上野(都心的桃源郷)は、 緑に覆われた都心づくりを提案するとともに、 このなかでより多様な雑居形態が生み出され、 快楽とともに住まう「緑ゆたかなアジア的都心」が現れると説く。
長谷川(水と遊ぶまち)は、 一時期、 川が埋め立てられ、 緑や生き物が消えていったが、 近年、 水を使った広場・公園や子供たちが遊べる水辺がつくられ、 うるおいと憩いが蘇りつつあるという。
佐々木(森の中の公共施設)は、 シビックセンターが森のなかにあるなど、 人々の記憶に残るような公共施設デザインを施すことにより、 場所への愛着感を育て、 コミュニケーションを促し、 ふるさととしての都市のシンボルをつくることを提案する。
浅野(都市の中にユニバーサルデザイン空間を)は、 高齢者が使いやすいポケットパークや車椅子から楽しめるバラ園、 弱視者に配慮した色彩デザインなど、 誰もが使いよい都市へ向かうユニバーサル空間のデザインを提案する。
ここに示したキーワードは、 地区レベルや公的施設などの都市環境デザイン、 つまり〈エンバイロメント〉のデザインに関わる提案のいくつかである。
その中から、 都心環境デザインの判断基準として「居心地のよさ」「快楽」「愛着感」「使いよさ」などを抜き出すことができることも示唆的である。
〈ハウジング〉 西(生活感のある店や市場が魅力)は、 ニューヨークでは比較的新しい20〜30階建ての住宅でも足下にはたくさんの店舗が立地し、 生活感を形成しているものが多いといい、 沿道性のある都市建築の必要性とデザイン的多様性を述べる。三浦(立体路地による下町再編)は、 「ふれあいと不干渉」を両立させることにより住み手を繋ぎとめる下町環境の現代版、 立体路地型の下町計画を立案した。
また、 江川(立体下町型再開発)は、 気持ちよく住むことのできる建物・まちのスケールとマスボリュームがあることをボストン・コモンを引用しながら述べ、 分棟・分節・ヒューマンスケール・柔らかいファサードを特色とする、 新しい下町型開発手法を紹介する。
江川(町屋型積層集住のスケール)のもうひとつの提案は、 小間口でも気持ちの良いスケールの町並みができ上がっているアムステルダムのように、 用途・規模などの適度な混在により構成する、 町屋規模の集合住宅と戸建住宅を混ぜ合わせた地区デザインである。
難波(木造賃貸住宅地区の再生)は、 一時期大量に供給された木造賃貸住宅地区が、 安くて・便利で・住みやすいという特質と固有の地区個性をもっており、 このような構造を残しながら再整備する方法の必要性を述べている。
それは、 非標準型の道路・オープンスペースの評価視点を確立する作業でもある。
水野(町家に住み続ける)は、 残念ながら伝統的町家を超える都心居住のシステムがないという状況判断のなかで、 物理的耐用年限にきている町家を改装などでだましだまし住み続ける方法がいまの最適解であるという。
維持管理しつつ住み続けるというこの考え方は意外に新しい都心居住の提案かも知れない。
都心居住の環境デザインを考える作業のなかで、 これこそ正解という都心居住のための容器、 都心型住宅はこれというスタンダードを未だに持っていないという事実が最も厳しい問題である。
現今のマンションが答でないことはみんなが知っている。
ひとつ前の時代に流布した伝統的町家がひとつの範であるし、 ニューヨーク、 ボストン、 アムステルダムなどの西欧都市にもまだまだ知恵を頼ってよいのではないか。
もう少しの頑張りで日本のまちの都心居住にふさわしい〈ハウジング〉を誕生させることができる。
これらを読み解きながらそんな気分にさせられていったことをさいごに記しておきたい。
ここでは、 その紹介の役目にたずさわったという立場からの短い感想を述べる。
すべてのキーワードが都心に居住することについて賛意を示しているわけではない。
望ましいことだがそうはならないのではないか、 と留保したものを含め、 都心居住が現在の都市施策の大勢でないことを暗に表現しているものも少なからず認められた。
正直のところ、 その通りといわねばならない。
だが、 理想の住まいはと聞かれて、 郊外住宅としか応えられない状況は貧しいのではないか。
都市が雑多な思いを抱える多様な人びとの住まいであるためには、 望ましい住まいの場所をもっと多様に思い付ける―そのひとつに都心居住が数えられる−都市がより優れた都市である。
全体を通してそんな主張や現状に対するいらだちが立ち込めているように、 わたしには思われた。
それゆえに、 都心に蓄えられている環境ストックの豊かさは十分に描写されている。
同時に、 それらが魅力あるモノとして存在するだけでなく、 住み手や利用者の生活感・共生感を高め、 美意識の醸成に関わり、 また心のゆとりや深い物思いにまでつながる状況が語られていた。
大いに印象的なポイントである。
都心という場所における〈環境デザインと人との関係性〉は、 想像以上に大きく強いことをあらためて知らされた気がする。