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四月になって


春爛漫である。3月下旬には桜が満開との報道が少し遅れて,4月になつてからの時期になってしまった。

毎年のことだが,こんな所にも桜の木があったのかと思う程にいたるところに桜が目につく。

特に鴨川ほとりの道は自動車で走っていると,淡い薄い桃色の桜と,若草色の柳とが妙に上手くバランスよく

配置され本当に京都らしい春を感じさせてくれる。特に京都は春と秋の季節か゛良い。

観光地は花見客で一杯で,有名な観光地には車では近寄れない。

そのような所へ行かなくとも,すぐ近くに咲く桜並木も見事である。

何処へ行ってもいたる所が桜の季節である。

だが一週間もしない間に桜の季節は終わりを告げる。

それでも観光客の波はたえない。

それからしばらくして後になって普段の京都に戻ってきた。

千葉での衆議院補欠選挙が今回民主党党首として小沢一郎氏の初めての選挙となった。

相変わらずに自民党は劇場型選挙でもって勝とうとしている。

小泉チルドレンたちが総動員され,「ジャンケンポン サイトウケン」と国民を馬鹿にしたような選挙戦で見事に敗退している。

国民も何時までもそんなに馬鹿ではない。

しかし「郵政民営化でのイエスかノー」のみで戦って勝った衆議院議員の絶対多数が頼みで,

医療保健改正法案が厚生小委員会で強行採決されてしまった。採決に対して小沢氏は静かに党首討論で苦言を呈している。

これは明らかにいつもの弱者切捨ての法案である。

さらに「共謀罪」法案も自民党案で強行採決しょうと企んだが,

河野衆議院議長の裁定と小泉首相の「鶴の一声」で審議は継続されることになった。

兎に角,衆議院が3分の2自民党議員がいるので,どんな法案でも通過する。

でも国民の意識が自民党から離れだしている証拠として,千葉の衆議院補選での自民党敗退が

それを示している。

どんな重要な法案でも現在,衆議院が絶対多数である間は何でも通過する

それも「郵政民営化イエスかノ-の問題」での解散で獲得した議員の数であって,

他のことでについての国民の審判をあおいだものではない。だがどんな法案でも通せる。

いまさら「そんな事まで自民党に任して権限を与えたのではなかった」といくら国民が叫び騒いでいても,

すべて自民党の思うまま,法律は作られて行く。このことは以前から判っていることである。

過去においても,多くの白紙委任で国民は苦い経験を積んできている。

議員によって法律が否認され,総理が気にいらなければ解散で国民に信をとう事が出きてしまう。

そうでない限りどんな法律も粛々と成立して行く。

権力の恐ろしさ「魔力」をばマザマザに見せつけられた思いがする。

権力を持つ方に国民がなびくのはどの時代であろうとも,どの社会であろうとも言える話である。

日本の古代史を調べていても同じことが起きている

藤原氏は天皇家の強力な権力をば利用するため,娘をば女御や皇后に送り込み外戚としての強みを発揮,

政治の権力の中枢に座りつづけてきて日本の歴史をば動かして来た。

その始まりが不比等の娘が聖武天皇の妃になった光明皇后からである。

不比等の親の代,藤原鎌足の時代にはその娘が天武天皇の夫人になっている。

その後も藤原一族から皇后がつぎつぎに出て,藤原良房の時代に他氏を謀略でもって排斥し,

最終的に良房が始めての太政大臣の地位を得ている。

天皇家と藤原氏でもって,貴族が形成され政治がすすめられて来た。

その過程において有力な氏族がどんどんと追放されていっていってしまっている。

現在の政治体制を見ていても第二次大戦後一貫して自民党が政権の座にある。

その殆どがアメリカの顔色をうかがい,盲従してきた政権のみが長期政権を維持して握っている。

小泉首相もその例外でなく佐藤 吉田に継ぐ第三位の長期政権をうちたてている。

弱者を作り,切り捨て国民に痛みだけを押し付け,なんの成果もあげているとは現在の所思えてこない。

確かに過去に見ないくらいの「変化」だけはもたらした事は事実である。

その変化が良かったかどうかはこれからの推移の判断に待たねばならない。

今までの政治内容は弱者に厳しく,強者に甘い政策であったことは間違いない事実である。

弱者と強者の差が開き大きな社会問題になりつつある。

アメリカの政治形態を真似しての,自由競争と称し政治の仕組みをば強者に都合の良いように変えている。

ホリエモン事件 村上ファンド騒動などの今までにみたことのない多くの現象が起きてきている。

アメリカのブッシュの中東政策が間違っていた事もこれも徐々に判明してきている。

イラクでの武装勢力による攻撃は止むことなく,大勢のイラクの人たちの死者並びに米兵の死者が

毎日のように報道されている。

アフガニスタンではアルカイダが勢力を挽回してきており,イランの大統領はアメリカに対抗し

核を作ろうとしている。平和利用としてはいるが核武装にもなりかねないもののようだ。

なんと言っても本家本元のアメリカ並びにロシア,イギリス,中国などの大国が核兵器を放棄せずに

何処かの国が作ろうとしていても,自身が放棄ない限りにおいて,核の脅威は世界に続くことであろう。

そんな時代になっても,日本がアメリカと一体になって通常戦力での軍事連携しようとする意図が理解できない。

何故これだけ核が世界に充満している時代において,高額な費用を投じ自衛隊をばアメリカ軍と一体化する

必要性があるのか全くに理解できない。その説明は日本もアメリカからも両者からない。

核武装した国との戦争が始まれば地球が滅びる事くらい誰でも,子供でも理解できる。

世界各国が戦費に必要とする軍事費をば貧困にあえいでいる人たちに廻せば

テロも戦争も世界の何処においても,起こらない方向に向くだろうし,少なくとも減る事は確実だ。

戦争で大儲けしようとする人たちこそが,人類にとっての最大のバイキンであると考えられる。

日本で愛国心を育む法律が教育基本法に盛り込もうとしている。それよりも先ず「人の命の尊さ」や

人類愛 人間愛をまず教育基本法に盛り込んで子供たちに教える必要があるのではないだろうか。

95歳になっても,医師として日野原重明先生の子供達に「人の命の尊さ」を教えようとされている姿に敬服する。

人生の大先輩である先生の姿をば少しでも政治家が知って,目を覚まして欲しいものです。

現在,幼い命が何ものかによって,つぎつぎと無惨にも奪われる報道がつづいている。

これは今までの教育の欠陥を知る思いがする。勿論その他現在の政治の影響が一番あることには間違いない。

愛国法は第二次大戦中に幼稚園へ入る頃より小学校時代「愛国行進曲」を唄い憶えた記憶がよみがえる。

修身、軍歌などで当時は徹底的に幼い心に愛国精神をたたき込まれた。

我々の4-5歳下の人たちにとって,「その歌はどんな歌ですか」と聞くような事らしいようだ。

当時は盛んに歌われていた。


「愛国行進曲」

「@見よ東海の空明けて,旭日(きょくじつ)高く輝けば 天地の正気溌剌と 希望は踊る大八州(おおやしま) 

おお清朗の朝雲にそびゆる富士の姿こそ 金鴎(きんおう)無欠揺るぎなき わが日本の誇りなれ

A起て一系の大君を 光と永久(とわ)に戴きて 臣民我ら皆共に御稜威(みいつ)にそわん大使命

往(ゆ)け八紘を宇(いえ)となし 四海の人を導きて 正しき平和をうち建てん 理想は花と咲き薫る

Bいま幾たびか我が上に 試練の嵐(あらし)哮(たけ)るとも 断乎と守れその正義 進まん道は一つのみ

ああ悠遠の神代より 轟く歩調受け継ぎて 大行進の行く彼方 皇軍常に栄えあれ


「戦友」

@ここは御国の何百里 はなれて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下

A思えば悲し昨日まで まっさき駆けて突進し 敵をさんざん懲らしたる 勇士はここに眠れるか

Bああ戦いの最中に となりに居(お)ったこの友の にわかにはたと倒れしを われは思わず駆け寄って

C軍律きびしい中なれど これが見捨てて置かりょうか 「しっかりせよ」と抱き越し 仮ほうたいも弾丸のなか

D折からおこる突貫に 友はようよう顔あげて 「お国のためだかまわずに 遅れてくれるな」と目に涙

Eあとに心はのこれども 残しちゃならぬこの身体 「それじゃ行くよ」と別れたが 永の別れとなったのか

F戦いすんで日が暮れて さがしにもどる心では どうぞ生きていてくれよ ものなどいえど願うたに

G空しく冷えて魂は くにへ帰ったポケットに 時計ばかりコチコチと 動いているも情けなや



軍歌は沢山覚えたが戦後全て禁止され歌われなくなった。それが正常な姿である。

再び愛国心をば法律で決め復活されることに大変な危惧を憶える。

愛国の心は郷土を愛するように自然に発生するもので,法律にのっといて強制するものではない。

イラク戦争の始めの頃,アメリカで戦争反対する人たちが「愛国者法」で検挙されてゆく姿をテレビ報道で見た。

又「愛国者法」によってアメリカのテレビでは日本のようには自由な放送がなされていなかったことが後に報じられている。

なにも全て外国の真似をする必要はない,苦い,尊い貴重な経験を生かした日本独自の進む道があって良い筈だ。

全ての国にその姿を示し,世界の範とされる国を目指してほしいところです。



大きな驚きの「!」と大きな疑問「?」




4月1日の天声人語からの引用


作家のビクトル・ユーゴーが、疑問符だけを記した手紙を出版社に送る。

来た返事には、感嘆符が記されていた。

売れ行きを尋ねる「?」に、極めて良好の「!」が届いたという逸話だ。

 符号の順序がこれとは逆になったのが、自民党の旧橋本派の1億円ヤミ献金事件の成り行きだ。

はじめ、巨額献金の発覚という大きな驚きの「!」で始まり、

村岡元官房長官の無罪判決で大きな「?」が残った。


 東京地裁の川口政明裁判長は、判決で幾つもの疑問を示した。

検察側がよりどころにした元会計責任者の証言について、

不自然、不合理、思いこみ、想像で、といった表現が並んだ。

 判決は、元会計責任者がうその可能性のある証言をしたと考えられる理由にも言及した。

橋本元首相に累が及んだり、自民党全体に事件が波及したりするのを阻止するため、と指摘する。

もしこの通りだったとしたら、驚きを通り越した憤りの「!」が幾つあっても足りない。

橋本元首相は、裁判所のこれだけの「?」に何か答えるのか、それとも口をつぐみ続けるのか。

 政界のもう一つの疑問符となっていた偽メール問題で、民主党の執行部が退陣を表明した。

永田寿康議員も辞職する。

自民党のヤミ献金事件ほどの生々しさは感じられないが、やはり、驚きの「!」で始まり「?」が残された。

肝心の、メールを誰が何の目的でつくったのかは不明のままだ。


 今日から新年度が始まる。新しい職場や学校に通う人も多いだろう。

こちらでは、不安の「?」が、早く良好の「!」に変わるようにと願う。






疑問符(?)だらけの世の中であるが素晴らしいことに感動する(!)世の中になってほしい。

政治家の使命はそれだけに尊く責任が非常に重い。

利益分配のマッシンになってほしくない。




異教に厳罰をもって報いるのは近世日本に限らない





4月2日の天声人語からの引用

宣教師ザビエルは今から500年前の春、スペインで生まれた。

困ったことに、日本では教理を広めようにも適切な訳語がない。

神を意味するデウスを当初、あやまって「大日」と言い換えた。

大日如来を信仰する人々から「同門の高僧だ」と大歓迎されたそうだ。

 そんな思い違いも手伝ってか、布教2カ月で500人を入信させている

(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』平凡社)。

だが、もてはやされた時期はごく短かった。

弾圧が始まると、バテレンは追放され、キリシタンは火刑に処された。

 異教に厳罰をもって報いるのは近世日本に限らない。

アフガニスタンでは今、ひとりのキリスト教徒をめぐって緊張が高まっている。


もとはイスラム信者だったが、16年前、難民生活のさなかに改宗し、欧州へ移った。

一時帰国した先月、隠し持っていた聖書を親族に見つけられ、当局に拘束された。

 アフガンの裁判では棄教(ききょう)者は死刑になる可能性がある。


この一件が報じられると、米大統領や豪外相、ローマ法王らが裁判を非難した。

被告は先月末、急きょ釈放されたが、イスラム圏は「キリスト教勢力の横やり」と猛反発している。

 逆にイスラム教へ改宗した場合は、どんな扱いを受けるのか。

アフガン人男性と結婚するため、30代で入信した日本人女性によると、

聖職者から「仏典を捨ててコーランを選んだあなたは著しく徳が高い」と絶賛されたそうだ。

 デンマーク紙のムハンマド風刺漫画に端を発した暴動が、ようやく鎮まったところだ。

流血の連鎖が再発しないよう祈りたい。





世界史上に宗教戦争は頻繁に起きている。一方最近世界の宗教人が「世界の平和」について論議されだして

宗教者たちの往来が世界的に友好的に行われようとしている。

比叡山で世界平和会議が催されているのは最近の話で゙定期的に会合が行われているようだ。

ムハマドの風刺画は相手の気持を踏みにじった行為である。

宗教人の動きとは別に,世界は宗教戦争の様相を呈している部分も認めざるを得ない。






小渕政権は不人気な中で始動した



4月3日の天声人語からの引用


もう、ずいぶん前のことのような気がする。

あの日も4月の第1月曜日で、入社式が多かった。

6年前のきょう、朝刊が「小渕首相が緊急入院」と報じていた。

 冷めたピザ、凡人首相。「あらゆる日本語を駆使してご批判をいただいた」。

本人がこう語るほど、小渕政権は不人気な中で始動した。

それでも自由、公明両党との連立をテコに、

周辺事態法や国旗・国歌法、警察の盗聴を認める通信傍受法といった、

時代を画する法律を成立させていく。

 だが、念願の沖縄サミットを前に倒れた。

いまから振り返れば、あの入院は戦後保守政治の晩鐘ではなかったか。

ゼロが並ぶ2000年に巡り合わせた、ゼロからのリセットボタンにも見える。

それほど、この間に政治の風景は劇的に変わってしまった。

 入院の直後に、自民党幹部の五人組が後継首相に森氏を決めたのは、派閥政治を象徴する密室談合だった。

小泉首相が国民投票のような選ばれ方をして、世論の支持を追い風にしてきた今となっては、戯画である。

五人組も逮捕されたり、離党、引退したりで、3人は党中枢にいない。

 経済政策も様変わりした。

小渕氏は公共事業を増やしつつ、減税もして、「世界の借金王」と名乗った。

そんなバラマキ予算が続くはずもなく、徐々に公共事業は減った。

それと軌を一にして、自民党の集票組織は崩れだす。

 あの入院から数カ月後に『不平等社会日本』がベストセラーになり、格差社会への注目度が増していく。

「ニート」という言葉も、まだ知られていないころだ。

まさに隔世の感がある。



小泉政権の間に劇的に世の中が変化してきた。良いように変化したと後世から言われれば良いのだが。?

小泉首相は人柄を観察しているとパフォマンスの好きな無責任な軽い変人であった事は間違いなく言えそうだ。



川崎市のマンションの
15階から投げ落とされ、




4月4日の天声人語からの引用

自宅まであと20歩ほどというから、いわば玄関先だ。

学校からそこまで帰ってきたのに「ただいま」と言えなかった。

川崎市のマンションの15階から投げ落とされ、

殺害された小学3年の山川雄樹君と家族の無念さは、計り知れない。


 家の玄関先までが凶行の現場にされるのでは、どうしたら子どもたちの身を守れるのかと暗然とした気になる。

しかし、このマンションの通路のような場所は至るところにあり、住民は日々行き来しなければ暮らせない。

何か手だてはないのだろうか。

 マンションは家の集合体だ。

平地なら、家と家の間には路地がある。

かつて町の路地といえば、ほぼいつもだれかの目があり、声をかけあう姿があった。

それが子どもを見守ることにもなったが、時代とともに、煩わしいこととして避ける習わしができた。

 今では超高層のマンションも珍しくない。

しかし顧みれば、多くの人が高層住宅に住むようになって数十年しかたっていない。

マンションの通路だけでなく、階段やエレベーターも、新しい路地として見直すことはできないだろうか。

 この事件は、高さが「凶器」になりうることも改めて示した。

それを防ぐには、通路や階段に鉄格子でも取り付けるしかない。

実際、東京の高層団地の代表格の高島平では、3階以上の通路の外側に金属のさくを巡らせた棟がある。

 昭和50年代に飛び降りが続いたためで、ヒマワリやチューリップの形にデザインされていた。

そんな鉄の格子だけでなく、住む人たちの目や声という生きた格子にも命を守る力があるはずだ。




高層ビルに立ち寄り遠くから来て投身自殺する人もいるらしい。それが犯罪に使われれば

凶器に変貌する。柵を高くするように行政で法律として決めてもよいのではないのか。






最近は景観を巡る動きが続く




4月5日の天声人語からの引用


はなびらがくねりながらおちてくる。東京で、桜が盛んに散っている。

芝の増上寺にも、花を惜しむ多くの人の姿があった。

そして、寺の大屋根と、後ろにそびえる東京タワーを、桜と人にからめて撮っている。

 江戸時代の徳川家の菩提(ぼだい)寺と、赤と白に塗られた鉄の塔とは不釣り合いのようだが、

むしろ取り合わせの妙を感じ取る人もいるようだ。

しかし、大屋根の後ろに立つのが生活の気配を漂わせる高層住宅なら、カメラを向ける人は減るだろう。

 京都・宇治の平等院の背後には、高層マンションが立ち並ぶ。

ここの鳳凰堂が、10円玉の絵柄になって55年になる。

 「10円玉のデザインも変えたら」。

京都に長く住む米国人で東洋文化研究家のアレックス・カーさんの言だ。

『美しき日本の残像』などを著して、「電線と看板に覆われ、コンクリートで固めた“枯山水”」と評する日本を、

深い愛着をもって批判する。

 手厳しい指摘だが、最近は景観を巡る動きが続く。

東京の国立市の住民が、高層マンションの上層部の撤去を求めた上告審の判決が先週あった。

最高裁は上告は棄却したが「良好な景観の恩恵を受ける利益は法的保護に値する」という初めての判断を示した。

新宿区や札幌市では、建物の高さを一定以上は認めない「絶対高さ制限」が始まった。

 絶え間なく桜の散るさまを凝視していると、時が逆戻りして、いにしえの町並みや人の姿が現れてくるような気がする。

過去の幻に一時ひたりながら、未来に伝える景観を思い描く。

それも、花散る季節の味わいの一つだ。



古都の景観は壊さないようにするのが行政の大きな仕事である。古い立派な建造物もビルの谷間ではだいなしである。

宇治の鳳凰堂は近くの名所であるが高層ビルの見えるのは目障りである。なんとかならなかったのか。




イタリアの古都フィレンツェで



4月6日の天声人語からの引用


歴史ある町で古い橋を渡る時、これまでに行き交った人々の足音を聞くような思いがする。

イタリアの古都フィレンツェで、「古い」橋を意味するベッキオ橋に立ち、

ざっと500年前のルネサンス期を代表する3人の姿を想像したことがあった。

 「一五〇四年秋、二一歳のラファエッロが青雲の志を抱いてフィレンツェを訪れたとき、

五二歳のレオナルドは『モナ・リザ』に霊筆をふるい、

三〇歳になんなんとするミケランジェロは巨像『ダヴィデ』を仕上げたところであった」

(佐々木英也監修『NHKフィレンツェ・ルネサンス』)。

ラファエロは2人の巨匠の作品に学び、優美で流麗な独自の作風をつくり上げてゆく。

 ラファエロは1483年の今日4月6日、中部イタリアのウルビーノに画家の子として生まれた。

今、町には「ラファエロの生家」という建物がある。

部屋が連なっていて日本なら邸宅の部類だ。

絵の具を調合したという石の台や古びた井戸もあり、幼いころの画家に思いをはせることができる。

 フィレンツェで開花したラファエロは法王庁に認められ、バチカンの壁画も描いた。

「アテネの学堂」という絵では、ギリシャの哲学者らの群像の中にレオナルドとミケランジェロの肖像を描き入れた。


 彼自身は隅の方につつましげに顔をのぞかせている。

「先輩」の技を学び、あるいは盗んで大成したことを感謝しているかのようだ。

新年度が始まった日本でも、そんな幸せな出会いが多くあるといい。

1520年の誕生日にあたる4月6日、37歳で他界した。


天才は早逝するというが,ラファエロの37歳の死はあまりにも早すぎる。でも残した作品は他の真似が出来ないものである。

ヨーロッパの風景を見ていると昔と殆ど変らないように見える。変えないように努力しているものと考える

都会が何処の都市も同じでは艶けしである。


横田めぐみさんが北朝鮮に
拉致される約半年前の77年4月



4月7日の天声人語からの引用

満開の桜の下に、少女がひとり立っている。

横田めぐみさんが北朝鮮に拉致される約半年前の77年4月、新潟市の中学校に入学したころの写真だ。

横浜市の高島屋横浜店で開かれている「めぐみちゃんと家族のメッセージ 

横田滋写真展」の入り口に置かれている(11日まで)。

 父・滋さんが、めぐみさんの拉致までの13年間に撮った写真などが展示されている。

初節句のひな祭りで、父にほおずりされためぐみさん。

母・早紀江さんに抱かれた双子の弟にキスするめぐみさん。

入園、運動会、家族旅行……。

 どの家にも残されているような、誕生に始まる成長の記録だ。

仲の良い、明るい家庭の様子がほほえましい


その幸せが、中学1年の11月の拉致で突然断たれる。

それ以後、家族の集合写真は一枚もないという。

会場を巡ると、もう一度みんなで写真を撮りたいという家族の思いがひしひしと伝わってくる。

 めぐみさんの事件の翌年に拉致された田口八重子さんの長男が原作者という漫画の連載が

「漫画アクション」で始まった。

題は「母が拉致された時 僕はまだ1歳だった」。

長男・飯塚耕一郎さんは、八重子さんの兄に「次男」として育てられた。

 写真展も漫画の連載も、拉致という国家犯罪の卑劣さと罪深さを改めて訴えている。

捜査の手がなかなか届かなかったが、警視庁は先月、原敕晁(ただあき)さん拉致事件で

大阪市内の関係先を家宅捜索した。 これも発生から四半世紀以上たっている。

しかし、あきらめるわけにはいかない。

手を尽くさなければ、その先の手は見えてこない。




国家犯罪としての拉致は許す事はできない。早く国交回復して平和条約が締結できれば早期に解決出来るはずだ。

拉致事件を大きく報道に使い,他の重要な事柄から国民の目を奪って利用している

政治家集団がいることも忘れないでおこう。





民主党自身がよほど変わらなければなるまい





4月8日の天声人語からの引用


握手、また握手、もうひとつ握手。

民主党の代表選は、小沢一郎氏が菅直人氏を引き離して勝利した。

開票の直後のテレビ中継を見ていて、このふたりや前原・前代表が何度も握手を繰り返すさまが印象的だった。

 「意外に聞えるかも知れないが、握手は相互の不信から生まれた習慣である」という説がある。

「昔の人びとは、見知らぬ人間に接するとき、いつでも戦えるように油断なく身構えて相手のまわりを回り、

腰をおろして話し合いに入る前に、相手の手をつかんで武器を持っていないことを確かめたものである」

(W・ソーレル『人間の手の物語』筑摩書房)。

 それほど古い時代のふたりではないが、もともと「水と油」にもたとえられてきた。

これから果たして、一致してことに当たってゆけるのだろうか。

 小沢氏は投票の前の演説で、これまでも好んで引用してきた言葉を使った。

「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない」。

ルキノ・ビスコンティが監督した映画「山猫」の中に出てくるという。

 この映画は、19世紀のイタリア統一の英雄だったガリバルディの率いる義勇軍が、

シチリアに攻め入った時代を描いている。

小沢氏が引いたのは、バート・ランカスターの扮するシチリアの貴族のせりふだ。

 かつて『日本改造計画』を著している小沢氏には、日本を変えたいという強い思いがあるようだ。

しかしその前に、ここで民主党が生き残るためには、民主党自身がよほど変わらなければなるまい。

がけっぷちで交わされた握手の行方を見守りたい。





現在の民主党には小沢一郎しか支える人がいないように見える。色んな異なった主義主張の寄せ集め政党に

みえてくるが,まだ利益・権益保持が第一とする自民党よりもまだましかと思えて見える。

悪い政治をすれば直ぐに変える,さらには政党同士が競い合いに,より良い政治が行われるような時代になってほしい。





ボンで一番の名物はグミキャンデー




4月9日の天声人語からの引用


サッカーW杯ドイツ大会の開幕まで、ちょうど2カ月。

日本代表チームは来月下旬には、合宿地のボンに入る予定だ。

ボンは90年のドイツ統一まで、西ドイツの首都だった。

合宿地に選んだ理由としてジーコ監督は、「街が落ち着いている」ことを挙げていた。

 ボン在住の日本人に聞くと、ボンで一番の名物はグミキャンデーだそうだ。

日本でも十数年前から、女子中高生や子どもたちを中心に人気のあるゼラチン状の菓子で、

ぐにゅぐにゅした歯ごたえが特徴だ。

欧州6カ国で工場を展開する世界一のグミメーカー「ハリボー」の本社がこの街にある。

 1920年にハンス・リーゲルという人がボンでつくったから、あたまの文字をとって、ハリボーとなった。

日本に輸入されたものでも1袋200円ほど。

ネーミングからいっても値段からいっても、駄菓子といっては失礼だが、親しみやすい菓子だ。

 日本の販売代理店「リョーカジャパン」ではいま、貨物船にグミを満載して運んできている最中だという。

各地のデパートやスーパーでW杯に向けて、ドイツフェアが予定されているからだ。

 同社国際事業部長の中洲康博さんは出張で、何度もボンを訪れている。

日本チームが宿泊する予定のホテルが定宿だ。

「ライン川のほとりで、川以外は何もない。

静かなホテルだから、選手には最適だと思います」。

日本チームの活躍がグミの売れ行きに波及することを期待する。

 代表候補の中には、小さい子どものいる選手も少なくない。

ボンのお土産が、本場のグミと好成績になればいいのだが。





ドイツの首都はベルリンである。第二次大戦敗戦前まで同じベルリンである。東西ドイツに分離して西ドイツの首都が

ボンであった。サッカーが行われるが予定である。サッカーは最近日本でも野球と人気を分けるくらいに盛んだ。

応援しよう。当然日本のチームである。法律を作らなくとも愛国心・郷土愛は自然あるものだ。

法律を作ってとの考えの人たちには一つの方向に昔のように,現在の北朝鮮のような国にしようとしているのでは

ないかと疑いたい。南北朝鮮も同じ民族がいがみ合っているのは日本人としても見ていて悲しい。

た゜が日本の在日朝鮮のの人たちは韓国 北朝鮮の人たちが和解して一つになろうとのトップ会談で行われた。

同じように韓国 北朝鮮も同一民族である早くドイツのように一つになって欲しい。

植民地支配していた日本にも責任があるはずだ。アメリカの尻尾で有るばかりが日本の能ではない。






 一日一日の仕事の積み重ねが大記録を生み




4月11日の天声人語からの引用


ここ20年ばかり、病気で仕事を休んだという記憶がない。

それが、今年1月に崩れた。

せきが止まらず、熱は39度近くある。

インフルエンザの検査をした医師が言った。

「A型です。仕事は無理でしょう」

 たまたまその日は、前夜からこの欄のテーマと素材には見当がついていたので同僚に代わってもらい、

ファクスで原稿を点検した。

もし無理を押して執筆していたら、倒れていたかも知れない。

 阪神の金本知憲選手なら、そんな状態でも仕事を続けただろう。

左手首に死球を受け、後に骨折と分かる傷を負っても出場し、右腕一本で2安打したこともある。

危機的な場面を鍛え抜いた体と気迫で乗り越え、

見事に904試合連続フルイニング出場という大きな記録をつくった。

 大リーグで、ルー・ゲーリッグの2130という連続試合出場記録を超えた日に、

カル・リプケン選手は述べたという。

「私は、精神的にも肉体的にも、皆さんがおっしゃるような鉄人やスーパーマンではありません。

私の野球人生が、たまたまこうなるよう、物事がうまく噛(か)み合った結果です」


(『カル・リプケン物語』ベースボール・マガジン社)。

 リプケン氏は「立派に野球に取り組んだ結果です。

大いに誇りにしてください」と、金本選手をたたえた。

「全身全霊をかけ、骨身を削って、チームのため、ファンのために頑張ることを誓います」と金本選手は述べた。

 一日一日の仕事の積み重ねが大記録を生み、見る者をも励ます。

日米の鉄人の控えめな言葉が、記録の重さを一層際だたせている。




誰にも天職がある。誠心誠意尽くすのが本分である。でも病には勝てない。養生する時には養生するのが

大記録への最短距離と心得るべきだと考える。





 鹿児島県の沖合で、
高速船が何かにぶつかり
100人以上がけがを





4月12日の天声人語からの引用


 鹿児島県の沖合で、高速船が何かにぶつかり100人以上がけがをした。

乗客は座席から放り出され、船の天井がはがれ落ちたというから、衝撃の大きさがうかがえる。

 ぶつかったのは、クジラだった可能性が大きいそうだ。

高速船は、高速道路の車並みの時速80キロぐらいで航行するという。

衝突防止には、双眼鏡による見張りの徹底などが挙げられているが、

完全に避けきるのは難しいのだろう。

 クジラとの衝突だとしたら、クジラの方も無事では済まなかったのではないか。

高速船の水中翼は、クジラや魚にとっては突進する巨大な刃物のようなものだ。

 「くじら法会(ほうえ)は春のくれ、/海にとびうおとれるころ」。

『金子みすゞ豆文庫』(JULA出版局)の「くじら法会」の出だしだ。

みすゞが生まれ育った山口県長門市では昔、クジラ漁が盛んだった。

江戸時代に漁師たちが建てたという鯨墓があり、法要が営まれてきた。

 詩は「はまのお寺で鳴るかねが、/ゆれて水面(みのも)をわたるとき、/

村のりょうしがはおり着て、/はまのお寺へいそぐとき」と続く。

そして、まなざしは海の方へと向かう。

「おきでくじらの子がひとり、/その鳴るかねをききながら、/死んだとうさま、かあさまを、/

こいし、こいしとないてます」


 便利さを追求してきた現代だが、この事故は速度と安全との兼ね合いを問いかけているようにみえる。

クジラを、船の障害物とみるだけでいいのか。

みすゞの、あらゆるものを慈しむ気持ちが、ひいては人の安全を保つ手だてにつながるのかもしれない。



高速船の海での衝突事故のあったことを思い出す。衝突相手がわからない。鯨か。まさか某国の原子力潜水艦では

ないだろう。よく広い海で衝突する事が事態が不思議に思えてくる。




北朝鮮に拉致され



4月13日の天声人語からの引用


「革命事業のためなら何をやってもいい。拉致を悪いとは思っていないんです」。

11日にソウルで死去した韓国の映画監督・申相玉(シンサンオク)さんは、かつて、

北朝鮮の金正日(キムジョンイル)書記(現・総書記)をこう評していた。

 78年に、女優の妻と相次いで北朝鮮に拉致され、金書記のもとで映画を制作した。

しかし、後に米国に亡命し、韓国に帰国する。

 ふたりが拉致されたのと同じ年に、韓国西部の島で16歳の少年が消息を絶った。

日本政府によるDNA鑑定で、横田めぐみさんの娘、キム・ヘギョンさんの父である可能性が大きいとされた

拉致被害者・金英南(キムヨンナム)さんだ。

 いがぐり頭の「父」や、13歳で拉致された「母」、そして年格好は両親と同じような「娘」の写真が紙面に載った。

それぞれの人の歩みを突然断ち切ったり、つなげたりした拉致という国家犯罪の卑劣さを訴えかけてくるようだ。

 めぐみさんが新潟市の自宅の近くで拉致されて、今年の11月で29年になる。

拉致されてから25年になる日、中学校からの帰り道をたどった。

それまでにも新潟には何度か出張で来ていたが、めぐみさんや他の拉致事件の取材ではなかった。

初めて現場を肌で知り、中学校から日本海へと続く一本道を胸に刻んだ。

 海岸の近くで、めぐみさんの足取りはいったん消えた。

その後、ヘギョンさんの存在が分かり、更にその父が浮上した。

しかし、それぞれの北朝鮮での消息は、まだ隠されたままだ。

この3人を含めて、すべての被害者の軌跡をきちんと示すよう、
日韓両国と国際社会は手を携えて迫ってほしい。




同一民族である北朝鮮と韓国との和解がまずに一番だ。まさか和解にアメリカの許可が必要だとは思えないのだが。

日本も傍観者ではいられない筈である。



『愛国心』という言葉




4月14日の天声人語からの引用


「愛」という字の中には、「心」が入っている。字の成りたちを、当たってみた。

「後ろを顧みて立つ人の形に心を加え、後顧の意を示す」(字通)。

「心がせつなく詰まって、足もそぞろに進まないさま」(学研新漢和大字典)。

 この「愛」に「国」や「心」がつくと議論が起こる。

戦前の「忠君愛国」を連想する人もいる。

ふるさとの自然を懐かしむような当たり前の気持ちだという論もあるだろう。

 かつて三島由紀夫氏は本紙への寄稿の中で、「愛国心」という言葉には「官製のにおいがする」と述べた。

「実は私は『愛国心』という言葉があまり好きではない。


何となく、『愛妻家』という言葉に似た、背中のゾッとするような感じをおぼえる……『大和魂』で十分ではないか」

 自民、公明両党の教育基本法改正に関する検討会が、「愛国心」の表現で合意した。

「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、

他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」とされた。

 他国」も尊重し、世界平和に寄与するという後段は分かりやすい。

愛する対象としての「我が国」は、解釈が分かれそうだ。

領土と山河と国民との集合体を指す一方で、統治の仕組みともとれるからだ

 肝心なのは、「我が国」や「郷土」がどうあったらいいのかを、それぞれが考える力を養うことだろう。

教師が、子どもたちに愛国心を測る物差しを当てて点数を付けるのでは息苦しい。

「愛」の字の、いつくしむという意味を忘れないようにしたい。




「愛国心」を法律でしばるのはいかがなものか。「国歌」 「国旗」への敬意 それに「愛国心」が揃えば三点セットで

まさしく軍国日本への逆戻りへのひた走り時代を思い出される。

何んのために子供達にそんなことを政府が強要してどのようにするのか,非常に不可解である。

むしろこれからの時代は「人の命の尊さ」「人間愛」「人類愛」,さらには生きとし生けるものをいとおしむ心を

育てる教育が必要である。

「国歌」「国旗」も
国民のためにあるものだが,「国歌」「国旗」のために人権を阻害するようなことがあっては

ならないように思う。この三点セットは自主的に自然にわいてくるものである。

そのために,多くの若い命が散っていったのがあの第二次大戦であったことを忘れてしまわれたのかどうか。

今度始まるであろう第三次大戦は核戦争であり,それは人類滅亡の戦争であることくらいは気ずいてほしい。






今で言えば「多重債務者」





4月15日の天声人語からの引用


石川啄木の「悲しき玩具」に、こんな歌がある。

何故(なぜ)かうかとなさけなくなり、/弱い心を何度も叱(しか)り、/金かりに行く。。

 啄木の友で義弟でもあった宮崎郁雨が、この一首を掲げながら、

啄木が書き留めていたという「借金メモ」について一文を書いている。

メモでは相手の姓のみを記したものが多いが、

郁雨は土井晩翠、金田一京助、北原白秋、小山内薫、吉井勇などの名を読みとっている。

相手方は数十もあり「よくぞこれ程多勢の対手から借金したものだと、

唯々驚歎するのである」
(『石川啄木全集』筑摩書房)。

 今で言えば「多重債務者」だろうが、啄木は金田一らの厚い友情と犠牲があって、

詩歌の道を歩むことができた。


しかし普通は、債務者には取り立てが待っている。

 金融庁は、消費者金融の大手「アイフル」が複数の店で強引な取り立てをしていたとして、

全店での業務の停止命令を出した。

高い業績をあげる一方で、強引な取り立てへの苦情が急増していた。

 近年、この業界で客獲得の武器になっているのが、自動契約機だという。

「むじんくん」「お自動さん」「いらっしゃいまし〜ん」「¥enむすび」。

人と顔を合わせずに、気楽に借りられますよ、と誘う。

しかし、どんどん貸してどんどんもうけようという狙いも見え隠れする。

 安易な借金は、慎まなければならない。


一方で、こんなあおり方を続けていていいのだろうかとも思う。

借金が膨れあがって、人生を大きく狂わせてしまう人は少なくない。

業界も、行政も、考え直す時ではないか。





戦後に輸入されてきたのがクレジット社会である。

昔はお金がなくなれば質草をもって質屋からお金を借りていた。

互いに仲間が集まっての「購」があった。お金を借りたいときは積んだお金を購より落として使う。

昔の制度の方が健全でお金がなければ我慢して使わない。

それが本当の庶民の姿である。

これだけ発達した物質文明の中で我慢しようとするのか゛無理のようだが,

やはり借金は返せないならば慎む自制心が必要である。

安易なクレジット社会も文明の弊害の一つとも考えられる。






「メルヘン建築」の公共施設




4月16日の天声人語からの引用


雪はすでに消えた。

桜はそろそろ見頃を迎える。

富山県小矢部(おやべ)市は、砺波(となみ)平野に広がる静かで穏やかな街だ。

田や畑にまじって、家屋がぽつりぽつり。

その中で異様さが際だつのが、市内に35棟ある「メルヘン建築」の公共施設だ。

 中学校の一つは、東大・安田講堂とオックスフォード大の学生寮を合体した形だという。

ある公民館は、バッキンガム宮殿とノートルダム寺院を組み合わせている。

ベルサイユ宮殿やニコライ堂、ハーバード大を取り入れた施設もある。


 1級建築士だった前市長が昭和50年代、「古今東西いいとこ取り」と言って、自ら設計した。

観光バスのガイドが「メルヘン建築」と紹介したこともあって、関西などから観光客もやって来た。

 しかし30年近くたち、老朽化が目立つようになった。

現市長によると、普通の建物に比べ、特に雨漏りがひどいという。

「維持や管理にカネがかかるが、どんどん建て直すわけにもいかない。

あるものは大事に使っていくしかない」

 公民館の一つは、東京・日比谷の市政会館に似ていたが、湿気がひどく、約4年前に建て替えられ、

どこにでもある公民館に変わった。

「普通の方が居心地はずっといいです」と担当者は話す。

 昨年亡くなった丹下健三さんが設計した東京都庁は、わずか15年で傷みが目立っているという。

完成当初は奇抜なデザインで「バブルの塔」とも呼ばれたが、職員がバケツとビニールシートを使って、

雨漏りを防いでいるのが現状だ。

「見栄え」と使い勝手の両立は、どこでもなかなか難しいようだ。




見栄えと使い勝手は両立しない事はよくあることだ。やはり質実剛健で生活したいものだ。





沖合で操業中に
漁網の巻き取り機に
巻き込まれて亡くなった。



4月17日の天声人語からの引用

島尾優(まさる)さんは徳島県阿南市の漁師だった。

とてもやさしい人で、漁から疲れて帰っても2人の子とよく遊んだ。

5年前の春、沖合で操業中に漁網の巻き取り機に巻き込まれて亡くなった。

45歳だった。

 そうした父の思い出を書いた長女で高校2年の喜美子さんの手記が「メール 空まで届いてほしい??

漁船海難遺児と母の文集」に収められた。

事故のとき、喜美子さんは小学5年だった。

「とても悲しかった」とつづり、「母はショックのあまり、食べ物がのどを通らないほどだった」と書いた。

 どうやって立ち直ったのですか。

母親の抄子(しょうこ)さんに尋ねた。

寝込んでいた抄子さんのそばで、喜美子さんが「試練はな、乗り越えてこそ完璧(かんぺき)やろ」と言ったそうだ。

そんな難しい言葉をどこで覚えたのか。

きっと夫が言わせているのだと思った。


 文集には、一つ違いの弟の敏之君が風景などを描いた絵も載っている。

敏之君は自閉症だ。

支えてくれた人たちへの感謝の思いを込めて、これまで作品展を2回開いた。

 文集をまとめた漁船海難遺児育英会は1970年に発足した。

月に1万1千〜5万円の奨学金を幼児から大学生までの約400人に出している。

漁船の事故は後を絶たず、毎年200人を超える漁師が海で命を落とす。

喜美子さん姉弟も奨学生だ。

 島尾さん宅は目の前が船着き場だ。

優さんが乗っていた漁船も見える。

喜美子さんは「お父さんがいないからこそ、がんばって、夢を一つ一つ実現させていきたい。

それが私たちを支えてくれた人への恩返しだと思います」と語る。




船の事故は後を絶たず、毎年200人を超える漁師が海で命を落とすとは大変な仕事である。

事故はどこにでもある。奨学資金にはお世話になった。お金の返却も全部母がしてくれていた。


映画監督・黒木和雄さんは
「あの時代」を庶民の目線で




4月18日の天声人語からの引用

 「私にとって『紙屋悦子の青春』は、あの時代を生きた若者たちに捧(ささ)げるレクイエムでもあります??」。

映画監督・黒木和雄さんは、最新作のパンフレットに、そう書いた。

 8月の公開に向けて、試写会やパンフの印刷が進んでいた。

そのさなかに脳こうそくで倒れ、75歳で急逝した。

少年時代の空襲体験に基づく「美しい夏キリシマ」や、

原爆投下後の広島を舞台にした井上ひさしさんの戯曲による「父と暮せば」などを監督、

「あの時代」を庶民の目線で描き続けた。

 松田正隆さんの戯曲を映画化した「紙屋悦子の青春」は、昭和20年の鹿児島を舞台に、

特攻で出撃する青年と、その友や知人の娘との交流を描く。

タイトルを掲げる冒頭と最後を除いて、音楽が入っていない。

 現実の世界では、映画のように演出として音楽が流れることはあまりない。

音楽を入れないことで、感傷に流れるのを押しとどめようとしたのではないか。

映画では、その人々の日常が「時代」によってつくられ、また壊されてゆくさまが淡々とつづられる。

 やがて友と娘は結ばれ、共に老いたある日、夕闇の迫る中でこんな会話をする。

「今日の続きのあるとですか」と妻が言う。「うん……ずっと続くったい。いつまででん」。

今日の続きが「ある」と言えなかった人たちへの鎮魂のように聞こえる。

 黒木さんには一度お会いしたが、静かなたたずまいの中に、生と死の深い淵(ふち)からもの見るような面ざしがあった。

作品は、「あの時代」を二度と繰り返さないようにという願いであり、伝言なのだろう。





映画は好きで良く見たものである。黒木和雄監督の名の映画は見たことがない。時代がずれている。

よく見たのは我々の時代は黒澤明・木下恵介監督などが代表される時代であった。






昔、速記者をしていたことがある




4月19日の天声人語からの引用


作家の宮部みゆきさんは昔、速記者をしていたことがある。

いわば自分を消すこの仕事を、ある対談で「忍びの世界」になぞらえていた。

「歴史の影に生きるわれら、みたいな(笑)」(『知的〈手仕事〉の達人たち』大日本印刷)。

 宮部さんの短編「ドルシネアにようこそ」は、速記者を目指す青年が主人公だった。

座談会や講演会のテープ起こしのアルバイトをしながら、速記の試験で一級に挑む。

試験の直前になると、何を見ても、頭の中で速記文字になおしてしまう。

「息抜きにビールを飲んでも、ラベルの文字を見ると、ぱっと速記文字が浮かんでしまう」

 議会や裁判所などで広く使われてきた速記だが、

コンピューターによる音声自動認識などにとって代わられようとしている。


国会では、1890年の第1回帝国議会以来、100年以上速記が続いてきたが、

05年度には速記者の新規養成をやめた

 世界の速記の歴史は古く、古代ローマの速記奴隷・アステリスをたたえる墓石には、こう記されている。

「君はすばやく蝋(ろう)板を取り出し、見よ!、言い終わらない間に、

いな考えていることすらもすでに書きとめている」(兼子次生『速記と情報社会』中公新書)。

 巻末には、間違えやすい言葉どうしの例が載っている。

「預かって・扱って」「指名される・示される」「一日に千人・一日二千人」「いいことない・いうことない」

 瞬時に聞き分けて瞬時に記すためには、それこそ忍びのような鍛錬が要るのだろう。


そんな技能が消えゆくのは、ややさびしい気もする。




速記者も消える時代になったのかと感慨深い。パソコンで音声認識で入力しても誤字が多い。

スキャンでは大体認識してくれる。でも誤字はある。



犯罪の実行を話し合っただけで
罪となる「共謀罪」






4月20日の天声人語からの引用


ある時、ネズミたちが集まって、猫の攻撃から身を守る手だてを相談する。

このイソップの物語では、猫に鈴を付ける案に「誰が付けに行くのか」という厳しい現実が立ちはだかる。

 相談だけで物語は終わり、ネズミたちの暮らしも、おそらくは元に戻った。

しかし、もし今日本の国会に出ている「共謀罪」があの世界にあったならどうか。

ネズミたちは、猫への「営業妨害」の共謀で摘発されたかも知れない。

 犯罪の実行を話し合っただけで罪となる「共謀罪」の新設を盛り込んだ組織的犯罪処罰法などの改正案の審議が、

衆院でまた始まる運びだという。


改正の本来の目的は、国際的なテロ組織やマフィアによる犯罪の未然の防止だ。

 国連での条約採択を機に、批准に向けて国内法を整備しようと、政府は03年に改正案を国会に出した。

しかし市民団体などが、一般の人や団体にまで適用されかねないと強く反発した。

2度廃案になり、今度が3度目だ。

 「『冗談のつもりだった』は通じない」。

そんな題の冊子を京都弁護士会が作った。

共謀罪が適用される恐れのある例を、漫画で示している。税理士事務所で、会社の社長が言う。

「先生、法人税なんとかならんかな。

経費の水増しとか」「まあまあ社長、私の方で出来ること考えますよ。ハハハ」。

こんな談笑でも罪に問われる可能性があると指摘する。

 国会での審議は具体的に、そして慎重にすべきだろう。

社会の安全の確保が大事なことは、言うまでもない。

しかし、人々の冗談や相談が摘発されかねない世の中では困る。




とんでもない法律が目白押しにある。「共謀罪」は使い方によっては昔の悪名高い「治安維持法」のようにも

使われるとか。法律制定には余程に慎重に充分に論議してからにしてほしい。

自民党はなんでも通過するだけの衆議院議員を擁している。だからなおさらである。





日韓両国が領有権を主張する竹島
(韓国名・独島)周辺での海洋調査






4月21日の天声人語からの引用


春雨が大地にしみ渡って様々な穀物を潤す。

昨日は、そんなやわらかな季節感を呼び起こす「穀雨」だったが、全国的に風が吹き荒れた。

 島根県地方でも台風並みの風が吹き、海はしけた。

日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)周辺での海洋調査に向かう予定だった

海上保安庁の測量船は、鳥取沖で長く待機した。


 韓国が調査に強く抗議し、日本でも、他国に言われてやめるわけにはいかないなどという反発が起きていた。

実際に現場で衝突するようなことにでもなれば、最悪だ。

 昨日の韓国のメディアの論調は熱いものが目立った。

「今日、独島近海で衝突可能性」(東亜日報)、「日本、一線を越えるか」(朝鮮日報)などと大きく報じた。

韓国日報は「日本は無理な調査を放棄しなければならないが、私たちも冷静に対応する必要がある」と述べた。

 メディアの報じ方には、国民の思いが投影される。

韓国で、竹島問題に屈辱的な植民地時代を重ねる感情が根強いことは、日本側もわきまえる必要がある。

そのうえで、ねばり強く外交交渉を重ねるほかはない。

 日本海とその周りを、海底の様子まで含めて描いた図面を見る。

海の上に出た陸地だけを見ると、竹島は日本列島と朝鮮半島の間にぽつんと浮かんでいる。

絶海の孤島だ。

しかし海底の方をたどってみれば、孤島も列島も半島も「地続き」と分かる。


過去の歴史は歴史として、一続きの国同士という思いを共有できないものか。

春の嵐がもたらした若干の時を生かし、互いに深呼吸して、ことにあたってほしい。



他国との領土問題ほどやっかいなものはない。国際司法裁判所で裁判で争い途中互いの国が判決出る前に

充分話し合い和解の方法もある筈なのだが。

世界連邦制度で世界が一つになれば問題は半分に解決される。





樺太に出征して63年ぶりに
故国の土を踏んだ元日本兵、






4月22日の天声人語からの引用


「運命」。この一言に大きな重みがあった。

今はサハリンと呼ばれる樺太に出征して63年ぶりに故国の土を踏んだ元日本兵、

上野(うわの)石之助さんの言葉だ。

 記者会見で、これまで帰国しなかった理由を問われ、ロシア語で述べた。

「答えたくない。ただ運命だった」。

戦後の生活については「どんな状況になっても生き抜いていく。それしかなかった」。

テレビ画面での、言葉を絞り出すような姿は、たどってきた人生の厳しさをうかがわせる。

一方で、83歳で見せる軽やかな身のこなしや時折の笑顔に、今の暮らしは静穏なのだろうと想像した。

 1945年の8月に日本が戦争に敗れた後も、樺太ではソ連軍との交戦がしばらく続いた。

生きて敵の手に落ちるまいと、多くの人たちが自決している。


 上野さんは戦後もサハリンに滞在していたが、58年から消息不明となり、2000年に戦時死亡宣告を受けた。

最近になって、妻の故郷のウクライナに居ると分かった。

 ウクライナといえば、映画「戦艦ポチョムキン」の舞台となったオデッサを連想する。

オデッサは、古代ギリシャの叙事詩にも出てくる英雄オデュッセウスにちなむという説がある。

 オデュッセウスはトロイでの戦争を10年戦い、帰国するまで更に10年を費やした。

その20年という不在の3倍もの間、上野さんは異郷で過ごした。

この長い不在と帰還は、戦争で帰れなかった多くの人々の「運命」をも思い起こさせる。

今はふるさと岩手の山河に包まれて、家族と時を共にする喜びに、ゆったりとひたっていただきたい。




樺太に在留していた日本兵がいた。樺太は戦後までは日本の国土だった。日露戦争で勝って

ロシアから分割して日本の領土になった所である。83歳で63年ぶりに帰ってきている。

妻子供は樺太に居る。

戦争がもたらした数奇の運命である。

戦争で亡くなった人たちが何百人のいる中で運の強かった人とも言える。

これこそ国家が犯した大きな犯罪の犠牲者の一人である。

戦争は負ければ犯罪で勝てば当たり前といったものでもあるまい。

どちらにしても北朝鮮の拉致そして戦時中強制的に日本に連れてこられた朝鮮の人々も

日本国の犯罪のもとに連れてこられたことになる。

戦争とは戦争そのものが犯罪ではないのか。真犯人は何処にいるのだろう。






専門は災害情報学だった



4月23日の天声人語からの引用


北海道の有珠山(うすざん)、長崎の雲仙普賢岳、三宅島・雄山。

最近30年間に周辺住民に大きな被害をもたらした火山だ。

この間(かん)の地震では、何と言っても阪神大震災がある。

 15日に59歳で亡くなった東大大学院教授の広井脩さんの葬儀には、

これらの被災地の関係者からたくさんの花がささげられた。

祭壇は、広井さんが30年余り歩いてきた道を指し示していた。

 専門は災害情報学だった。

災害時に被災者は、どんな情報を必要としているのか。

メディアは何を、どう伝えるべきか。

体育館に避難したお年寄りのかたわらに座って話を聞く姿が、様々な被災地で見られた。

夜は民宿に泊まり、若い院生たちと酒をくみかわしながら議論していた。

 普賢岳の火砕流の際に島原市長を務めていた鐘ケ江管一さんは「直接の被害にあった人たちだけでなく、

警戒区域内の自宅に帰れない人たちの不安をどう取り除くべきかなど、細やかな助言をいただいた」と振り返る。

 阪神大震災の当日、たまたまいた大阪から、数時間後に現地に入った。その後の調査は十数回に及んだ。

兵庫県知事だった貝原俊民さんは「話をじかに聞いているだけあって、

住宅や生活をどう支援していくのか、被災者の視点に立った実践的な提案をすることのできる人だった」と話す。

 「住民に情報を迅速に提供し避難行動を促進すれば、(略)少なくとも人的被害は減少することが可能である」

(『災害情報と社会心理』北樹出版)。

災害時の情報の重要さという、今では常識ともいえることに、初めて全力で取り組んだ人だった。




災害は忘れた頃に来る。災害情報学という学問があったことを始めて知る。災害時は皆がパニック状態に

陥っていることは間違いない。情報に飢えているはずだ。適確な情報さえ伝われば不安の半分は解消されるのでは

ないかと想像する。手段は現在はテレビ。携帯にてテレビが見ることが出きる時代である。

そんなに混乱は起きないと想像する。




イラク戦争の立案者である
ラムズフェルド米国防長官を名指しして、
批判を




4月24日の天声人語からの引用

軍人の政治介入を戒める米国では異例のことだろう。

今月になって、退役して間もない将軍数人が、

イラク戦争の立案者であるラムズフェルド米国防長官を名指しして、批判を強めている。

 「現場の反論を封じ込めた結果、間違った戦争計画が実行された」。


軍中枢で戦争を支えてきた面々だ。

不十分な人員と準備の下にイラクに派遣されたとして、かねて不満がたまっていたのだ。

 軍のOBがこれほど公然と長官辞任を要求するのは、米国が敗退したベトナム戦争中でもなかったという。

だが、当のラムズフェルド氏は、「異論があるのは、悪いことではない」と、どこ吹く風だ。

 ベトナム戦争を率いたのはマクナマラ国防長官だ。

米国のエリートを結集したといわれるケネディ大統領に請われて就任。

続くジョンソン政権で戦争が泥沼化する中、職を辞した。

 5年前に取材する機会があった。

米外交に関するインタビューだったが、話が暗殺に倒れたケネディに及ぶと、

「生きていたら、その後の歴史は変わったろう」ともらした。

「ベトナム戦争も含めてですか」と問うと、表情を曇らせ、「きょうはありがとう」と話を打ち切った。

時を経ても、その話には触れたくないようだった。

 だが、ベトナム戦争が誤りであったと認めるドキュメンタリー映画「フォッグ・オブ・ウォー」に出演したのは、

それからまもなくのことである。

苦しみながらも自らの過去の誤りと向き合う道を選んだ。

イラク戦争を正当化し続けるラムズフェルド長官が、良心の呵責(かしゃく)に悩む日が来るのだろうか




どうしてもアメリカのブッシュが任命したラムズフェルド国防長官の言動には信頼がおけない。

ブッシュはラムズフェルド氏を信頼しているから国防長官に任命しているのだろう。

タカ派のネオコンのイメージがついてまわる。

誰もがネオコンであることを知っているはずだ。

従軍した軍の将校が批判するくらいだから余程にとんでもないことをしているに違いない。

イラク戦争開戦時のブッシュへの支持率は80%で今やそれが30%台である。その差の激しさに驚く。

イラクは第二のベトナムとも言われているが,ベトナム戦争時には自衛隊はベトナムに派遣されていなかった。

今回は違う。イラクには自衛隊が派遣されている。そして航空自衛隊も輸送を手伝っている。

そしてさらにアメリカにある司令部が日本に設置されて,その指揮下のもとで共に行動を起こす事態にきている。

「郵政民営化イエスかノー」かよりももっと重大な事が小泉首相の下で決定されてしまっている。

国民不在の政治が粛々と進められている。

これで本当に日本の将来は大丈夫かと大変気がかりだ。

日本のアメリカへの植民地化は本格的になってきている。

第二次大戦でのインドでのインド人の国民軍とこれでは同じだ。違うのは当時インドにはイギリスからの独立の悲願があった。

でも今何のためにアメリカ軍と自衛隊が行動をともにするのかが皆目に判らない。

ラムズフェルド国防長官の無理な力により負けての行動なのだろうか。?





衆院千葉7区の補欠選挙の結果は




4月25日の天声人語からの引用

得票の差は、わずかだった。

有権者の約半数は投票しなかったが、民主党が自民党を制した。

衆院千葉7区の補欠選挙の結果は、明日で発足から満5年になる小泉政権にとって、大きな痛手となった。

 同じ日に投開票された山口県岩国市と沖縄県沖縄市の市長選では、

米軍の部隊移転などに反対する候補が共に当選した。

米軍再編についての日米政府の協議に対し、地元住民が反対を突きつけた。

 折しも、米軍の海兵隊の沖縄からグアムへの移転を巡って、日本側が約7千億円を負担することで両国政府が合意した。


これだけの負担を課すことについて、日本政府は、どれほどの説明を国民にしてきたのか。

大きな負担をするという結論が先にあって、それに向けてすりあわせをしていたようにも見える。

 補選の投票前日、自民党の武部幹事長は、選挙区の野田市にある実相寺を訪れた。

終戦時に首相を務めた鈴木貫太郎氏の墓に参った。

当時の鈴木首相の孤独と決断を、小泉首相の立場と重ねていたという。

 鈴木氏は、終戦から3年後に没した。

臨終に際し、「永遠の平和」と2度繰り返したと伝えられる。

二・二六事件で襲撃されて瀕死(ひんし)の重傷を負い

、敗戦という途方もない難局に処した人の言葉だからこその重みがある。

 日本と世界の平和を、どう築いてゆくのか。

小泉首相は、米国との同盟を重視し、強化するという。

しかし、この移転費用の件を見るだけでも、日米は対等の関係なのかという疑問がわく。

5周年は、小泉政権と日本の針路を、
安全保障の面からも問い直す好機だ。


移転費用の負担額からみても日本とアメリカの関係は明らかである。

何故にアメリカ軍に日本の基地にいてもらう必要性があるのか。

そして此れだけの多くの基地が日本に必要なのか判らない。

判らない政治が小泉首相のもとで進められて来た。

日本国民は納得しての自民党の衆議院議員の票を入れたのかどうか。

そんな無駄なお金をばら撒いていて国民に痛みを強いるなんてとんでもない話である。

弱肉強食のアメリカの政治手法がストレートに現在の日本の政治に反映し,禍をもたらしている。

これでは日本国土の沖縄化である。





「天声人語」の前の筆者だった小池民男さん


4月26日の天声人語からの引用

白昼なのに、暗い闇があたりを包み、雷鳴がとどろく。

雨が若葉をたたいてしたたり落ちた。

昨日、東京都心では、一時嵐の様相となった。

この明け方、築地の国立がんセンターで、ひとりの記者が力尽きた。

 身内のことを記すのをお許しいただきたい。

「天声人語」の前の筆者だった小池民男さんである。

昨春からコラム「時の墓碑銘(エピタフ)」を連載し、食道がんで倒れた後も病床で執筆した。

 以前に見舞った時は、ベッドの上にパソコンを置き「来週あたりはサンテグジュペリにしようかと思う」と言った。

「最近は、むしろ前よりいい回もあるようですね」などと軽口をたたくと、言葉をのみこむようにして笑顔を浮かべた。

最後の回となった今月3日の「エリック・ホッファー」まで、筆に乱れは無かった。

 学芸部の記者が長かったが、政治や事件、科学、スポーツなどにも独自のものさしを持っていた。

知識が豊かというだけではなく、気のいいところも持ち味の一つだった。


 寺山修司が好きで、ある年の命日には『われに五月を』の序詞をコラムに引用している。

「きらめく季節に/たれがあの帆を歌ったか/つかのまの僕に/過ぎてゆく時よ」。

その季節を前にして逝った。

享年59歳。つかの間に過ぎた時というほど、短くはない。

仕事場以外では、常に傍らに酒とたばこがあった。

それなりの修羅も、あったことだろう。

 コラムに限らず、新聞記者の仕事の一つは、人と時代の営みから「時の肖像」を描くことだ。

小池さんは、最後まで力を振り絞って、その姿を追い続けた。



タバコもウイスキーのストレートは (仕事場以外では、常に傍らに酒とたばこがあった)食道癌には最悪の敵である。

もう少し長生きして鋭い時評をばもっと書いてもらいたかった。あまりにも若すぎる死であった。





姉歯秀次・元建築士や、



4月27日の天声人語からの引用


和歌に詠みこまれて有名になった諸国の名所や旧跡は、歌枕と呼ばれる。

宮城県の「姉歯の松」もその一つで、小野小町の姉にまつわる伝説もあるという。

「伊勢物語」には「栗原の姉歯の松の人ならば……」とある。

歌枕は、いにしえ人を旅へと誘った。

 残念なことに、そんな興趣とは逆の芳しくない意味が、この歌枕に加わった。

耐震強度の偽装事件で警視庁などが、姉歯秀次・元建築士や、

関係のあった木村建設とイーホームズの社長らを一斉に逮捕した。


 この刑事責任の追及は、偽装そのものとは直接につながらない容疑から入った。

いくつかの容疑が固まって組み合わされていくうちに、ジグソーパズルのように大きな

偽装の構図が浮かんでくるのだろうか。

 事件の背景に見えているのは、まっとうな範囲を踏み外した経済性の追求だ。

鉄筋を減らして工期を縮めるといった経費の削減への傾きが、偽装とどうかかわったのかが焦点の一つだ。

建築確認のありようも含めて、偽装を成りたたせた構造の全容を明らかにしてほしい。

 「姉歯の松」は、芭蕉の「おくのほそ道」にも出てくる。

「平和泉(ひらいづみ)と心ざし、あねはの松……など聞伝(ききつた)へて」。

歌枕の地があると聞き、人通りもまれな道をどこがどことも分からず行くうちに「終(つひ)に道ふみたがへて」と、

芭蕉は記している(『松尾芭蕉集』小学館)。

 元建築士は、どこでどう道を踏み違え、安全という一番大事なものを見失ったのだろう。

そしてこの人は、偽装の全体像の中でも主役だったのか。

いずれもまだ謎に包まれている。





姉歯氏や一連の連中の逮捕は当然である。

さらには民営化して監督を放棄した政府にも責任がある。

官民よりも民民の方が馴れ合いによる不詳事件がが生ずる率が高くなるのは誰でも理解できることだ。

なんでも民営化の第一号かもしれない。なにもかも民営化すればよいものではない。






最近の言葉から。




4月28日の天声人語からの引用

 最近の言葉から。107人の死者を出したJR宝塚線(福知山線)の脱線事故から、25日で1年。

両親を失った小杉謙太郎さんは今春、社会人になった。

自分としてはこれからの新生活が踏ん張りどころだ……事故を自分の人生の足かせにしては、

向こうで二人に顔向けできないと思っている」


 がんを抱えながら全力で駆け抜けたエッセイストの絵門ゆう子さんが、49歳で逝った。

「あとどれくらい生きられるかなんてことばかり考えずに、今生きることに目を向けようよ」

夫の三門(みかど)健一郎さんが遺影に語りかけた。

「短かったけれど、突っ走っていたなあ。こんなに多くの人と花に送られて幸せな人生じゃないか」

 太平洋戦争中、沖縄・石垣で捕虜となった米兵を上官の命令で殺し、

BC級戦犯として死刑執行された元学徒兵の獄中日記を遺族が保管していた。

それを初恋の女性が譲り受けた。執行前日、辞世を詠む。

〈ひとすぢに世界平和を祈りつゝ円寂の地へいましゆくなり〉。

 広島市の平和記念資料館の館長に、57歳で被爆体験のない前田耕一郎さんが就任した。

資料館は「二度とできてはならない施設」と語る。

 「スランプなんてない。スランプとは思わないことです。次は必ずいいことがあると思うことが大切」。

トリノ冬季五輪を最後に引退したスキー・ジャンプの原田雅彦さんが、スランプの脱し方を問われて。

 金沢市に、今年90歳になる「野球小僧」がいる。戦前に甲子園に出場した東正義さん。

名刺の裏にはこうある。?老いの春 我が人生に 野球あり?







癒やし効果には、
森林浴で血圧や脈拍数が下がる


4月29日の天声人語からの引用

午前5時すぎ。

夜は明けたが、まだ日の光が届かない森の木々は、薄い灰色のとばりの中で眠っている。

森閑とした中で、せせらぎの音が時を刻んでいるようにも聞こえる。

 昨日、長野県佐久市の森を歩いた。

市の東部に広がる平尾山の周辺は、

「心身を癒やす効果が科学的に確認できた」と林野庁が今月発表した全国10カ所のひとつだ。

癒やし効果には、森林浴で血圧や脈拍数が下がることなどがあるという。

「みどりの日」を前に、その森の中に身を置いてみようと思った。


 明け方には無彩色だった森の色が変わったのは、山かげから日の光が差し込んだ時だった。

それまでじっと息をひそめていたような木々の若芽が、一斉に輝き始めた。

その無数の緑の粒々は、森の生気を表しているようだった。

 当然ながら坂道が多く、上りが続くと、脈拍はいっときは増えた。

しかし、しばし立ち止まれば、さわやかな風にほっとする。

足元は、落ち葉でふかふかだ。

人とほとんどすれ違わない「異境」を味わう。

 そのうちに、木々や鳥や虫などを育む森という一つの世界を成り立たせているなにものかを

畏(おそ)れる思いがわいてきた。


それが、数字で計れる効果とはまた別の、森の力だろうと思った。

 梅の花が残り、桜がほぼ満開の佐久を昼すぎにたって、東京に戻った。

街路樹の緑は、目覚めの遅い森の木々よりずっと濃くなっている。

葉も、日に日に大きくなる。

ケヤキ、イチョウ、ヤナギ……。ビルと車と人波に囲まれながら、それぞれの命を燃やす。

そんな街の緑の生もまた、切なく貴い。






緑の中での運動は健康に必須である。健康は自然には与えられない。努力が必要だ。

病気の一次予防は毎日の生活習慣の是正 そして二次予防は定期的な検診である。

緑にできるだけせっするようにしよう。



「刑事の語録」という小冊子は
後輩に語り継ごうという狙いだ






4月30日の天声人語からの引用

静岡県警が、「刑事の語録」という小冊子を出版した。

120部刷り、本部刑事部や各警察署に配布した。

来年以降、大量に退職する団塊世代の経験を、後輩に語り継ごうという狙いだ。

 殺人を担当する捜査1課のベテランが語る教訓や、汚職を摘発する捜査2課の刑事の信条が収録されている。

読んでみると、なかなか面白い。

 「危険・きつい・汚いの3K嫌いの刑事になるな」。

凶器を使った事件が発生した際に、無線や電話の番に回りたがる刑事はいらない。

火事や変死と聞けば、いつの間にか姿を消す刑事も必要ない。

パソコンに向かって5時を待つ刑事にはなるな。


つまり現実には、こういう若手が多いということなのかもしれない。

 もちろん伝統的な教えもある。

「目で見て聞いて確認」「現場七分・死体三分、五官の作用を総動員」「すり減った靴の結晶が宝庫」。

取り調べや聞き込みで、いかに相手の気持ちを理解することが重要かが、書きつづられている。

 本物は「捜査のノウハウがいっぱい入っているので公にできない」そうで、残念ながら今回は抜粋版だけが公開された。

一方で同じ警察でも、愛媛県警はノウハウをかなり公開してしまったようだ。

 ファイル交換ソフト「ウィニー」を介して、現役警部が私物のパソコンに入れていた捜査情報が

大量にインターネット上に流出した一件だ。

捜査報告書の改ざんや、ハイテク機器を使っての行き過ぎた捜査。

そうとられかねない手法が次々と明らかになっている。

この手の経験は語り継がず、過去のものにしてもらいたい。


刑事語録を読んでの正義の味方の警察官ばかりだけならば良いのにと願う。



元興寺と法隆寺


寺院拝観は連休を利用し,奈良に足を向けることが出来た。まず元興寺(がんこうじ)に訪れる。

「げんこうじ」とは呼ばない。

蘇我馬子が西暦588年に初めて高市郡の飛鳥の地に寺院が建立された日本最初の飛鳥寺(法興寺)である。

蘇我馬子の娘の婿が後の聖徳太子である。蘇我馬子と聖徳太子でもって排仏派の物部守屋を倒している。

西暦710年に都が奈良に移され,西暦718年飛鳥から平城京へ移って来て飛鳥寺(法興寺)から

元興寺に名前が変っている。

奈良には元興寺は三ケ所有る。初めに訪れた所が五重塔の後でこじんまりしたお寺であった。

小さなお堂が一つがあって塔の跡だという場所に礎石が何個かが放置されていた。拝観料は無料である。

元興寺はなんと小さなお寺だなと思っていたのを訪れた人から他にも元興寺があることを教えてもらった。

近くに極楽坊と称される元興寺が有った。それが元興寺極楽坊である。

其処には元興寺文化財研究所も同居している。

極楽堂(曼荼羅堂)と禅堂があって両者ともに国宝に指定されている。

屋根瓦に飛鳥寺のものも現在一部使われているとの解説を受け赤い瓦がそうであると教えてもらった。

宝物殿内には小五重塔があった。これも国宝にしていされ色んな仏像瓦などが展示されていた。

庭の空き地には沢山な石の仏塔や仏像が整然と並べてあるのが他に見ない。

解説してもらって昔奈良に大きく広い元興寺があって,僧侶をも養成しており,元興寺極楽坊が僧坊の跡地で

その他に金堂の跡地と五重塔の跡の三ケ所に寺院があることを知った。結局金堂の跡地の寺院は行かずに終わった。

五月の連休の日に改めて今度は法隆寺を訪れた。聖徳太子が西暦670年に建てた寺院である。

30年から40年昔に訪れたことがある。その時の印象は田舎の中に大きな寺院がひっそりと有り

訪れる人も稀で,寺院の中もゆっくり拝観できた記憶があった。

南大門前の若草伽藍のあった場所(西暦607年建立とか)も此処だと判るくらいに寂しいところであった。

それから今回行って驚いた。自動車の駐車場が何ヶ所かあり,門前には店が賑やかに建ち並び

門前町を形成しているような盛況である。

昔の記憶が曖昧で法隆寺の建物配置がおぼろげで判らなかったが,今回ははっきりと理解できた。

所謂法隆寺伽藍配置で中門から入り左手に五重塔があり,右手に金堂がある。

ぐるりと回廊を廻って中門の後正面に講堂があった。回廊の幅は約6メートル位でかなり広い。

さすがに法隆寺て゛あって休日でもあり大勢の人たちが五重塔や金堂に長い行列で並び拝観した。

金堂の焼けたとされる壁画の模写が薄ぼんやりと見えたのが印象的であった。

境内全体はかなり広い。

隣には新しい宝物殿があって,宝物殿の中の百済観音が細長くて丈六ほどに高いのが印象に残った。

かなり歩いて夢殿に到達する。その隣が中宮寺である。

やはり奈良の古い寺院で京都の何処にも見ない所の古さ落ち着き整然さを感じた。

宇治の平等院の鳳凰堂のような華やかさは見られない。

滋賀県大津の三井寺や石山寺は境内はかなり広いが伽藍配置は飛び飛びで庭がよく整備されている。

大津の三井寺や石山寺は平安時代の寺院である。

南山城にある寺院は殆どが奈良時代のものである。。平城京の影響を受け平安時代のものはあまり見ることがない。

現在住んでいる伏見になると奈良時代の寺院は少ない。古墳は明らかになってはいないが秦氏のものが多い。

宇治は藤原氏の影響によった廃寺を含め平安時代の寺院が多い。

又藤原氏埋葬の地だけあってその古墳もおびただしくある。




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