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6月になって


比較的に暑い日が続くも,雨の日が多い時期になってきた。

だが曇りがちの日が多く,本格的な雨の日は少ない。テレビでは豪雨に見舞われた地方の報道もあるが,

京都では梅雨らしき感じに乏しい。気候も気まぐれになってきたのか,変な気象が続く。

イラクでの日本の自衛隊が撤退する決定がなされ,その撤収作業にかかっている。

ただ事故なく終わることを祈るも,無事に終了しているようだ。

又航空自衛隊は増員し,バクダットも含んでの危険地域の活動が要請されている。

そして国民の反対が多いアメリカ牛肉の輸入があっさりと決まっている。

小泉首相によるアメリカのブッシュ訪問への手土産になるとの報道である。

国民を犠牲にしてのこのような政治のあり方はいかがなものだろうか。

大統領専用機「フオースワン」に小泉首相は載せてもらい,好きなプレスリーの家を訪問し,ご機嫌な姿の写真報道がなされた。

猿顔のアメリカ大統領の猿回しに,操られたお猿さんのようになって芸をしている小泉首相の姿しか見えてこない。

これまで,忠実にアメリカの大統領の言う事を聞いてきた日本首相として極めて珍しい存在である。

就任当初,米百俵の例をだし,国民に対し痛みに耐え,将来に備えての話が何処かにふつ飛んでしまている。

弱いものにだけに痛みを押しつづけ,さらに尚も国民に痛みをばおしつづようとしている。

この九月には首相をやめてゆこうとしているが,在任中何をしたのだろう。

アメリカ政治を真似し,貧富の格差社会を作っただけの政治に終わったように思える。

変革と称した変化の結果は未知数のものが多すぎる。何もかもを民営化することだけが変革のようであった。

一方民主党の小沢党首が中国の胡錦涛主席と会談し,日本と中国 アメリカの関係は正三角形の関係にあるとの

話には誰もは一応納得する話でもある。

今の日本政府とアメリカとの関係は誰が見ても半植民地関係にあって,

アメリカの下に隷属化しているとしか見えてこない。

基地の移転費用も一兆何拾億円もする費用を突きつけられ,政府間の交渉の末に日米合意にいたったと言われても

国民は誰もは納得しない。

半面に北朝鮮に対しミサイルが撃たれると早速に厳重な抗議を日本政府はしている。

報道によると日本を避け,アメリカに向けてのミサイル発射のようである。

アメリカが北朝鮮に対して経済制裁しているから,それに対してミサイルをうっているようでもある。

それをアメリカの身がわりになって,北朝鮮制裁処置の先頭に立ち,ものいうのも如何なものだろうか。

小泉首相の靖国神社参拝問題でもって東南アジアでの外交は全く日本に欠除してしまっている。

小泉首相のやり方は一番世界中で強いアメリカの言う事だけを聞いていれば,全てそれでうまくゆくとの外交姿勢である。

北朝鮮側からは,ミサイル発射の説明に自国のミサイル訓練の為に勝手に撃ったものに対して,

何故悪いのかと開き直られている。

丁度小泉首相の靖国参拝問題と同じように勝手に参拝していて,心の問題に対し,何故悪いのかという論理と

なんとなく似かよっている気がする。

火が大きく広がることだけは避けたいのは誰の気持も同じことだ。

当然,他国が脅威と感ずるならば,その行為はすぐさま自発的に止めるのが普通である。常識人の考え方である。

簡単に首相た゜けの判断で靖国神社参拝が止められるはずなのだが。

これだけでもっても国民は大変迷惑をしている。

そもそもの原因は日本外交がアメリカ一辺倒から招来している結果によるものとも考えられる。

今の日本政府の態度は,強きに弱く,弱きに強い日本の外交が見てとれる。

世の中の社会現象にもそのようなことが多く見かけられるようだ。本当はその反対がのぞましいのだが。

情けないことだが世の中の現実は,そのような状態にある。

朝鮮民族の方達は日本植民地化が第二次大戦迄続き,その後,戦後の米国とソ連の冷戦下の犠牲になり

朝鮮民族が南北に裂かれた悲劇的な歴史を持った民族であることを日本国民は心の中に自覚すべきである。

その後,他国の干渉により朝鮮戦争が勃発し,益々同一民族である南北朝鮮の対立が厳しくなっていった。

これを日本に置き換えて考えれば,

同一日本の民族である日本が東京を境にして北の関東・東北地方・北海道と,

南の方の中部・関西・九州・四国が激しく対立して憎しみあている日本の姿を想像すればどうであろう。

朝鮮の人達が置かれている悲劇的な立場が想像できるのではないだろうか。

朝鮮戦争では同一民族同志が真剣になり憎しみ合って,戦争で殺しあっている。どうしてだったのだろう。

その間に北朝鮮では,金日成が,戦時中の日本統治下の天皇制を真似し,絶対的権力を駆使し

ニ代に渡って北朝鮮を統治している。今もって独裁政権を維持しつづけている。それに対して国民は反抗できない。

歴史的にみれば朝鮮民族の方達は歴史に翻弄された悲劇的な民族であることを知るべきである。

ある意味で日本の身代わりにもなってもらっている所もあるのではないだろうか。

日本がまず朝鮮民族の方達にます゛暖かい救いの手をさし伸ばすべきである。

制裁に加わるのはアメリカの思うつぼである。

勝手にブッシュがイラクのように北朝鮮を攻撃でもしかければ,スカット ノドンの攻撃は

日本に向けられて,アメリカの身代わりになり撃たれる可能性がでてくる。

テボドン2はアメリカに撃たれてもアメリカ本土にはとどかない。

そんな所に日本が巻き込まれるのはご免である。

こんなことでもって,アメリカから高額な邀撃ミサイル兵器をば沢山に買わされないことを切に切に願う。

既にイラク戦争では日本はアメリカのブッシュの戦いに巻き込まれていった。

正義の戦いの為に,自衛隊が出動している。これは戦後初めての軍隊の海外派兵となる。

イラクは内戦状態でイラク人同士が憎みあって殺しあっている。その種はブッシュによつてまかれたものである。

このまますすめば,いずれ日本全体が,今までのアメリカによる沖縄化が日本全土に及ぶと考える。

小泉首相政権下では自主外交がまるでできていなかった。

小泉首相のプレスリ-踊りの写真がアメリカ全国の各新聞を賑わしたのが,今の日本の情けない状態を如実に示している。

なんとかならないものかと一日本国民として悲しい思いでいる。

アメリカを日本が理想の国として考えている限りにおいて日本の真の独立はありえない。

確かに良い所もあることは認める。

でも日本の良い所を捨ててまでして,真似する事もない筈である。

今世界でのW杯サッカーが毎日のようにテレビ報道されている。日本チームは一度も勝てずに早々に敗退した。

アメリカも同様だ。アメリカはガーナーに負けている。サッカーの世界ではアメリカは世界一ではない。

ガーナチームに負けていくアメリカチームに対しなんとなく親しみを感ずる。

このような世界の中のアメリカに是非なってほしい。

欧米文化が最高のものではない。戦後,戦争に負けてから日本人は自信を喪失してしまった。

プレスリーの歌を聞いているより,邦楽を聞いている方が心が落ち着く気がする。

博物館内の仏像を拝観していると心が落ち着いてくる。

奈良国立博物館よりも京都国立博物館の方が整然として陳列されているように思える。

奈良国立博物館ではボランティアの方が分からない事があれば質問に応じてくださる。

京都国立博物館では貯蔵品のハイビジョンによるテレビが見られる。

京都の博物館は近いから何度も訪れやすい。一長一短がある。

やはり日本人としては日本人の魂は失いたくないものです。

猿真似政治,半植民地化から,是非早く脱却してゆきたいものです。

敗戦後の日本国民の悲願ではないでしょうか。




坂口安吾が「堕落論」を書いていた翌年
若き今村昌平さんは





6月1日の天声人語からの引用


坂口安吾が「堕落論」を発表したのは終戦の翌年だった。

「若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる」。

読んで共感した若き今村昌平さんは、自分も闇市に入り浸って戯曲を書いていた

(自著『映画は狂気の旅である』日本経済新聞社)。

 焼酎やたばこを売ってサヤを稼ぎ、進駐軍のガソリンの横流しを手伝う。

「あらゆる人間が生の欲望をさらけ出し、何にも縛られずに生きている闇市は、

私にとって自由の小天地であった」


 人間を欲望を通して見つめた映画の題からは、その時々の人と時代がにおい立つ。

果しなき欲望、にっぽん昆虫記、神々の深き欲望、復讐するは我にあり、ええじゃないか、楢山節考、黒い雨。

 欲望は人を狂わせる。

そこを正面から描かずに、人や世の中が描けるのか。

画面の後ろからそんな声が聞こえてくるようだった。

本能にかられた獣のような面と、純粋で神々しい面を併せ持つ人間という生き物への、

そして命への深い思いが感じられた。


 9・11同時多発テロ後に撮った短編では、権力者が呼びかける「聖戦」が、

いかにうさんくさい代物かを訴えようとしたという。

アイデアは井伏鱒二の杜甫の訳詩から得た。

「ドコモカシコモイクサノサカリ……ズヰブン馴染(なじみ)ガウタレタサウナ」

 映画専門学校を設立した今村さんは、後輩へのメッセージで自著を締めくくっている。

「天才は必要ない。常識に縛られるな。

粘っこく人間を追究し、無人の曠野を走る勇気を持て」。

人生の幕は下りても、その言葉や作品は生き続けてゆくだろう。





訴えるものの本質が的を射ていたならば,誰の心の中にすーと入り込むものである。

難しい理屈は必要ではないようだ。





インドネシア・ジャワ島を襲った地震で




6月2日の天声人語からの引用


人々が、がれきを手で取り除いてゆく。

やがて横たわった母親がみつかる。

その母が右腕でつくったすきまの中に、生まれて間もない男の赤ちゃんがいた。

インドネシア・ジャワ島を襲った地震で、母を失いながらも、がれきの下で生きのびた小さな命があった。

 大きな災害のさなかに、母親が自分の体をたてにして子どもを守り、本人は命を失うことが時に起こる。

母の死が子の生を保つという、実に痛切で厳粛な営みには、心が震える思いがする。

 「ジョエルマの奇跡」と伝えられる出来事は、高層ビル火災の中で起きた。

74年2月、ブラジルのサンパウロで25階建ての「ジョエルマビル」が炎上し、多くの人が高層階に取り残された。

 15階から、若い母親が子どもを抱いて飛び降りた。

母親は、地面にたたきつけられて亡くなった。

しかし、胸にしっかりと抱き続けていた1歳半の幼児は、けがひとつなく助かったという。

母親の体がクッションとなった。

 子どもの命を、父親が守った例もある。

大正末期の関東大震災で、東京の当時の下谷区でも家々が倒壊した。

ある父親は、4歳の息子を抱いたままつぶされていた。

父は既にこときれていたが、かばっていた子どもの方は無傷だったという。

 ジャワ島で、がれきの下から生還した時、赤ちゃんには、まだ名前がついていなかった。

祖父は、ジャンクン・プラボワオと名付けた。

古いジャワ語で、ジャンクンは「生きる」、プラボワオは「神から授かった力」の意味だという。


危うく消えかけた命に、再び、生きる力が授けられた。




性懲りもなく災害は続く。自然には人間は克てない。自然と如何に共存して行くかの道を探るべきである。

人類の自然支配は妄想にすぎない。




 05年度の芸術選奨を受賞した
画家・和田義彦氏の作品に盗作の疑い





6月3日の天声人語からの引用


フランスに渡った藤田嗣治が、初めてパリで個展を開いたのは1917年の6月だった。

ある日ピカソがやってきて、3時間以上も絵の前に立っていたという。

 その時のことを、藤田が語っている。

「長い間私の画を熱視してたピカソは決して私の画の材料などと言う枝葉の問題ではなく、

この画が何年の後、何十年の後何う変わって行くか、その先を考えて得るものがあれば頂戴しようと言うやり方で私も驚いた」

(近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』講談社)。

 ピカソは、様々なところで「得るもの」を探していた。

同時代の画家だけではなく、ベラスケスやドラクロワ、マネといった巨匠の絵の構図などを借用した。

しかし、それは一般の「剽窃(ひょうせつ)」とは全くわけが違うと、高階秀爾氏が『ピカソ 剽窃の論理』

(ちくま学芸文庫)に書いている。

「彼の場合は、他人のものを借用してもそれをすっかり自分のものに消化してしまっている」

 05年度の芸術選奨を受賞した画家・和田義彦氏の作品に盗作の疑いがあるとして、文化庁が調べている。

「盗作された」と語るのはイタリアの画家アルベルト・スギ氏で、メディアが流したふたりの絵は確かによく似ている。

 芸術選奨の「贈賞理由」にはこうあった。

「骨太な表現と変化に富む内容は圧巻で……劇的な情景を設定しているが、示唆するものは社会の不条理や人々の不安、

孤独など内面の実存である」。

賞の審査の中身までも問われかねない。

 創造と模倣は、芸術につきまとう問題だが、ことは国境を超えている。




二つの作品を比べてみてそっくりで創作とは誰が見てもそう見えてこない。模倣する人を断つのは大変だが

そのような作品に賞を与えるとは,賞自身の中味,価値が問われる所である。






今春、機関誌「フットボールの科学」を創刊



6月4日の天声人語からの引用

 くくくっと曲がりながら、すっと落ちて、ゴール右上すみに吸い込まれていくサッカーボール。

筑波大の浅井武・助教授は、中村俊輔選手の左足のフリーキックを高速カメラで撮影し、

ボールの速度や回転を調べている。

 腰を大きく使い、足を鋭く振り上げることで、横だけでなく縦の回転をボールに加えていることがわかった。

25メートルのキックは約3メートル右に曲がり、約2メートル落ちた。


秒速約28メートルだった。

 『ベッカムのボールはなぜ曲がるのか?』(技術評論社)の共著書もある浅井さんは、

これらの研究成果に基づき、中村選手と同様のフリーキックを、教え子の大学院生たちに実際に蹴(け)らせようとしている。

回転はかなり近づいてきたが、速度はまだまだだという。

 若い選手を育てているコーチや研究者が集まって3年前に発足した「日本フットボール学会」が

今春、機関誌「フットボールの科学」を創刊した。

キックの際の関節の動かし方、体力をつける練習法、けがへの対処、クラブチームの経営理論など、内容は様々だ。

 日本のサッカー研究は、世界的に見ても十指に入るといわれる。

サッカーの実力よりは少し上のようだ。

英国など欧州各国が進んでいる一方、中南米には研究者はあまりいない。

研究する必要がないほど、上手な選手が自然に発生してくるからだそうだ。

 きょうのマルタとの親善試合が終われば、あとは本番の1次リーグ。

「最も得点に近いのは、やはり中村選手のフリーキック。

わかっていても、ゴールキーパーは止められないはず」。

浅井さんはそう期待する。


科学と実際とはかなりかけ離れている。ゴルフについて言えば理論は理解できても実行する事は

極めて大変なことである



平時なのに、
今ほど小学生の安全が
脅かされた時代はなかった




6月5日の天声人語からの引用



道の行く手で歓声があがる。「がんばれっ」「しっかり」。校庭の方から声援が聞こえる。

昨日、通り掛かった東京都心の小学校で運動会が開かれていた。

 紅白に分かれてのリレーのさなかだった。

追いつき、追い越され、バトンを落とし、拾い、手渡す。

そのひたむきな姿に足を止めた。

子どもたちが競い、あるいは力を合わせて何かをしようとする。

それぞれの力の強さ弱さや演技の巧拙などを超えて、訴えてくるものがある。

 校舎の壁に、飾りつけられた文字板が横に並んでいる。

「栄光をつかめ!夢のゴールへ 紅白ともに」。

紅白に分かれて競いながら、紅白ともにゴールに入る。

大人の世界ではなかなか難しいことだ。

しかし幼いころに、そうして競い合い、ともに力を尽くすのはいい思い出になるだろう。

 前の日曜日に通り掛かった別の小学校の運動会では、6年生が組み体操をしていた。

2段、3段の人のやぐらをつくる。

人に見せるため動きをそろえるというよりは、それぞれのペースで手をつなぎ合い、肩を組む姿が好もしい。

 その小学校は、創立100周年になるという。

明治以来の長い歴史の中で、平時なのに、今ほど小学生の安全が脅かされた時代はなかっただろう。

校庭で子らに声をかけ、あるいは静かに見守る父母や祖父母たちも、

この運動会の平穏が続くように願っていたはずだ。


 秋田県藤里町で殺害された小学1年生は、先月あった運動会の80メートル走で1等賞をとったという。

将来は大工さんになりたい。

芽生え始めたそんな夢をも、凶行は奪い去った。



昔は学校は地域に解放され自由に出入りができて地域の社交場でもあった。つい最近まで安全な所であった。

それが急に凶悪犯罪が発生するようになってから,周囲が厳重に戸締りされ自由に出入り出来なくなった。

何が原因しているかの追求なくして,対症療法的なことだけではいけないと思う。

教育の貧困,それに映画等を通じ欧米文化の流入が大きな原因となってきているように考える。

そのことにきずきそこにメスを入れない限り,暗い学校生活しかないのではないだろうか。





昨日の、村上ファンドの
村上世彰代表の場合は違っていた




6月6日の天声人語からの引用


捜査機関への出頭を覚悟した人の姿を、何度か見たことがある。

口達者な人も、逮捕される時が近づくとだまりがちになった。

昨日の、村上ファンドの村上世彰代表の場合は違っていた。

 とうとうと謝罪した、とでも言えばいいのだろうか。

東京地検に逮捕される前の記者会見の映像では、弁舌の巧みさは以前とあまり違わなかった。

 ニッポン放送株の売買を巡るライブドアとのやりとりにインサイダー取引があったという容疑を認めたが、

「もうけようと思ったのではない」と述べた。

残念ながら、にわかには信じがたい。

自らを「証券取引市場のプロ中のプロ」と呼びながら、

インサイダー情報は取りに行ったのではなく「聞いちゃった」と、素人であるかのように語る。


罪の意識をどこまで持っているのだろう。

 会見でやや気になったのは、これまで関連した企業の名を語る時の口ぶりだ。

常に金を運用する対象と見ているせいか、株券という紙に印された社名を記号のように口にする印象を受けた。

企業を形作る生身の人々やその家族への思いが株券より薄いように見受けられたが、思い過ごしだろうか。

 「西国立志編」として明治初期に翻訳され、青年たちを鼓舞激励した英国の著述家スマイルズの『セルフヘルプ』に、

こんな一節がある。「諸悪の根源は金それ自体にあるのではなく、金を『偏愛』することにある」

(下谷和幸訳・野間教育研究所)。

 村上ファンドもライブドアも東京の六本木ヒルズに陣取っていた。

丘にそびえる「立志伝の塔」にまた一つ暗雲がかかった。




村上ファンドもライブドアも時代のアダ花である。あまりにも日本人の考え方とそぐわない事が英雄視されて

誉め称えた。政治の貧困の結果である。テレビでもって首相を始め多くの人が能力がある人が伸びると容認していた

それは法律の網を潜り抜けてのことであった。法律の不備を突いて儲けに走っている。

二人には罪悪感は感じ取れない。それも大きな問題である。日本銀行総裁が儲けのために預かっている位だ

から仕方のないことなのだろうか。





幼い娘を亡くして間もない母親が、
近所の家の男児を遺棄した疑いで
秋田県警に逮捕





6月7日の天声人語からの引用


この時季に、しきりに思い浮かぶ中村草田男の一句がある。〈万緑の中や吾子の歯生え初むる〉。

木々の緑と、幼子の白い小さな歯との取り合わせが鮮やかだ。

そして、人であれ、木々であれ、命を次の世代に引き継いでゆくことの貴さや、

生命への深い畏(おそ)れが感じられる。

 草田男は、人間探求派と称された。

この句は、父であるか母であるか、あるいはまた親であるか否かをも超えた、人間の絶唱のようだ。

 12人の子を産んだ歌人・与謝野晶子は、こう詠んだ。

「いとしき、いとしき我が子らよ、世に生れしは幸ひか、誰れか是れを『否』と云はん」

「人の身にして己が児を/愛することは、天地(あめつち)の/成しのままなる心なり」(『与謝野晶子全集』文泉堂書店)。

 幼い娘を亡くして間もない母親が、近所の家の男児を遺棄した疑いで秋田県警に逮捕された。

その疑いが事実であるとするならば、これまで聞いたことのないような陰惨な事件だ。

 県警は、藤里町に住むこの母親の娘について、近くの川で水死したと認定した。

母親は、近所に手作りのビラをはっていた。

娘の写真の上に「知りませんか?」と書かれたビラからは、子を失った悲しみや必死な思いが読み取れる。


その母親が逮捕されるとは異様だが、男児の殺害については、捜査は途上のようだ。

 原生林の広がる白神山地を望み、清流の流れる現地でも、日に日に緑が濃くなっているのだろう。

北国に遅い春が来て、やがて万緑に染まってゆく。

芽生えた命が日に日に大きく育ってゆく季節なのに、現実はあまりにも残酷だ。



この母親が娘をも殺している。一方では警察に川で足をすべらし水死したとの認定に苦情を寄せている。

どんな精神状態なのか想像を絶する。





「シンドラーエレベータ」社の対応が不可解だ



6月8日の天声人語からの引用


扉が開く。足を踏み入れる。もし、そこに床がなかったとしたら??。

エレベーターに乗る時にふと浮かぶ、現実には起こりえないはずの妄想だ。

 扉が開く。中から外へ出ようとする。

出終わらないうちに床が上がる。

こんなありえそうもないことが現実に起きた。

東京都港区のマンションの12階で、エレベーターから出ようとした高校生が、

内部の床と12階の天井に挟まれて亡くなった。

16歳の若さで命を絶たれた市川大輔さんと家族の無念さは、察するにあまりある。

 エレベーターは、扉が閉まりきらないと動かない仕組みにするよう法令で定められている。

あってはならないはずのことが起きた原因を早く突き止めなければ、安心して利用できない。

 それなのに、このエレベーターを製造し、

昨春まで保守を担当していた「シンドラーエレベータ」社の対応が不可解だ。

マンションの住民に説明しようとしない。

「現在進んでいる捜査に支障をきたす理由がある」と拒んだという。

 自社のホームページには、こんなくだりがある。

「この事故がエレベーターの設計や設備によるものではない事を確信している」。

そうなら、確信する根拠を示すべきではないか。


昨日、警視庁が強制捜査に乗り出した。

 ある地下鉄の駅の長いエスカレーターで、この会社の名を見かけた。

どの社のものであれ、下っている時に突然止まれば、多くの人がのめって惨事になりかねない。

駅やマンションに限らず、昇降機は現代社会に欠かせない。

それが凶器になるようでは
、暮らしは足元から崩れてしまう。



エレベーターの扉が開いて入ろうとすればそこにエレべーターがない。エレへーターが止り出ようとすると

そこは出口でなく空間だと想像するだけでもゾーとする話である。

機械化社会はこのような危険性をもはらんでいる。万全をきしてほしいものです。




小学生の姉と弟が家出で
メトロポリタン美術館に逃げ込んでいた





6月9日の天声人語からの引用


米東部コネティカット州のある町で、小学生の姉と弟が、学校に向かう途中で姿を消す。

足取りは、なかなかつかめない??。

米児童文学の名作『クローディアの秘密』(E・L・カニグズバーグ、岩波少年文庫)は、その2人の物語だ。

 姉のクローディアは11歳、弟のジェイミーは9歳で、誘拐ではなく、家出だった。

葉を隠すには森が一番といわれるように、ニューヨーク市で多くの人が集まるメトロポリタン美術館に逃げ込んでいた。


 開館と閉館の時間帯は、トイレに身を隠して守衛を出し抜き、

夜は、展示品の16世紀のベッドにもぐりこむ。スリルに満ちた生活を送っていた2人は、

美術館が新たに入手した天使の像に興味を持ち、それがミケランジェロの真作であることを突き止める。


 久しぶりに読み返したが、2人の謎解きを助ける富豪の美術収集家ら登場人物に、

彼らの成長を見つめる温かさを強く感じた。

子供を狙う事件が続く世情がそう思わせるのだろうか。

主人公たちは、1週間の家出の間に成長して帰宅するのだが、

現実の世界では、家出を冒険として受け止めることはもはや難しいだろう。

 メトロポリタン美術館を訪れる子供たちの質問が、この本にあまりにも集中するので、

美術館は、数年前に子供向けのパンフレットを出した。

「ここではもちろん宿泊はできませんよ。

でも、訪れるたびに冒険が待っています」

 時を経ても、優れた美術館が夢と冒険心をかき立てることに変わりはない。

せめて、子供たちのそういう心が失われないことを願いたい。




美術館だけでなく博物館にもロマンがある。現在の人間には作れないような美術工芸品にでくわす。





4年に一度のサッカーの祭典ワールドカップが開幕??




6月10日の天声人語からの引用


光源氏が言う。「乱りがはしき事の、さすがに目さめてかどかどしきぞかし」。

鞠(まり)を蹴(け)り上げて遊ぶ、蹴鞠のことだ。

「無作法な遊戯だが、でもぱつとして気がきいてゐるよ」と述べている(『源氏物語』日本古典全書)。

 「遊びわざは 小弓。碁。さまあしけれど、鞠もをかし」。

かっこうの悪いものだが、蹴鞠もおもしろいと書いたのは清少納言だ(『新版 枕草子』角川文庫)。

時に不作法があり、パッとして面白いところは現代のサッカーに通じている。

 4年に一度のサッカーの祭典ワールドカップが開幕??。

一つの球に突進しゴールをめざす。

手を使わないという制約が多彩な体の動きやさばきを生み、やがてボールがネットをゆらす。

胸のすくプレーから、新しい伝説が生まれることだろう。

 試合そのものの他にも、ドイツ大会の楽しみはある。

12の開催都市の幾つかが、日本にもなじみのある文学や歴史の舞台になっているからだ。

 例えば開幕試合の舞台を、トーマス・マンはこう記した。

「ミュンヘンは輝いていた……そのひろやかな、明るい、緑で囲まれた、

よく整った遠景は、美しい六月はじめのひるもやの中に横たわってゐる」

(『改訳 トオマス・マン短篇集』岩波文庫)。

 ゲーテを生んだフランクフルト、戦犯裁判の舞台ニュルンベルク、そしてベルリン。

20世紀に2度までも世界大戦を戦い、分断され、ようやく統一された国の地名には、独特の重みがある。


時には、それぞれの都市の肖像を思い描きながら、「美しい六月」からの祭典を楽しみたい。




サッカーにはあまり馴染みがなかったが,最近に日本中にサッカー熱が急に上昇してきた。

良い事である。愛国心をもって大いに日本チームを応援しょう。






日本人として初めてワールドカップ(W杯)の審判に



6月11日の天声人語からの引用

 ポーランド対エクアドルの試合を、丸山義行さん(74)はきのう東京都内の自宅でテレビ観戦した。

「問題ない。よくやっていた」。両チームの選手のことではない。

主審と副審を務めた、日本人の後輩2人についての感想だ。

審判は落ち着いているように見えることが一番重要なのだそうだ。

 中央大サッカー部の監督を長く務めた丸山さんが、日本人として初めてワールドカップ(W杯)の審判に選ばれたのは、

70年のメキシコ大会。


「W杯なんてだれも知らない時代でした。

選手の圧倒的なスピードにびっくりしました」と振り返る。

 今回のドイツ大会には、日本から2人の審判が選ばれた。

国際サッカー連盟の厳しい審査に合格するのは、並大抵のことではない。

走力などの体力テストに加え、心理テストや英語の筆記試験などいくつもの関門がある。

 サッカーの母国イングランドで19世紀に制定された最初のルールには、審判の項目はなかったという。

フェアプレーが当然とされたからだ。

しかし勝負へのこだわりから反則が増え、中立的な審判の必要性が高まり、現在のような形になっていったそうだ。

 「正しい判定をして当たり前なのが、審判の世界なのである。

だから、試合後に話題になるほうがおかしいといえる」(『ジャッジをくだす瞬間』講談社)。

98年フランス大会の審判だった岡田正義さんは、こう書いている。

 審判も1次リーグでの実績をもとに、決勝トーナメントの場に立つことができるか決まる。

日本の2人の審判も話題にならずに、次の舞台に進んでほしい。




反則が常時あるようなゲームで,後のテレビの再放送みるとこれはおかしいと思うことが再々ある。

いっそうのこと相撲のように判断はビデオをスローモーションで廻し判定することの方がより正確である。

一瞬のプレーを見逃す可能性は人間にはありえる。モニター室からの判定があってもよいのではなかろうか。



「事故の歴史展示館」だ



6月12日の天声人語からの引用


事故の記憶を後世に伝える試みが始まっている。

日本航空が羽田空港近くに今年4月つくった「安全啓発センター」には、

85年に墜落したジャンボ機の圧力隔壁が置かれている。

 全日空は、71年の雫石事故の展示室をつくる準備を進めている。

鉄道ではJR西日本が、107人の死者を出した宝塚線の事故車両を保存し、

今後の社員教育などに役立てる意向だ。


 一連の動きのきっかけとなったのは、JR東日本が02年に

福島県白河市の研修センター内につくった「事故の歴史展示館」だ。

戦後の鉄道事故25件について、なぜ起きたのか、その後どういう対策が取られたのか、

一目でわかる形で展示されている。

 死者160人の大惨事となった62年の三河島事故の検証は、コンピューター・グラフィックスと模型を使い、

時間の経過を正確にたどっている。


運転士や車掌、信号係がその時点でどう行動すれば、事故を防げたのかを模索することができる。

 対策を練っても、思わぬ死角が残り、次の事故の萌芽(ほうが)となる。

人間の愚かさと努力、そして不完全さ。

それらが連綿と続くさまを描く貴重な場だ。

 希望者の見学も可能だが、現在は主に新入社員研修や運転士の訓練に利用されている。

遺族の感情があるうえ、「負の歴史」でもあり、同社は慎重な姿勢を崩さないが、

一般に広く公開することも考えてもらえればと思う。

たとえば、来年さいたま市につくられる予定の「鉄道博物館」の一角に、こういう展示を置くことも、

安全への取り組みを伝える点で意味のあることではないだろうか




事故は繰り返される可能性は充分にありえる。貴重な資料は残し展示しておくべきである。

事故の残骸は貴重な資料である。安全には安全をきす過ぎることはない。

二重にも三重にもさらに絶対に事故が起きないようなシステムにすべきである。






76年の歴史をもつサッカーのワールドカップは





6月13日の天声人語からの引用


76年の歴史をもつサッカーのワールドカップは、多くの「伝説」や「奇跡」に彩られている。

今回の開催国ドイツが成し遂げたのが「ベルンの奇跡」だ。

54年のスイス大会で、西ドイツは優勝候補だったハンガリーを破って初優勝し、世界を驚かせた。

 その時の代表メンバーのうち5人までが、

昨日、日本とオーストラリアの両チームが戦った町カイザースラウテルンのチームの選手たちだったという。

舞台となったスタジアムにも、当時の主将だったフリッツ・ワルターの名を冠している。

人口は約10万人で、歴史は古い。

12世紀には、神聖ローマ帝国の皇帝(カイザー)のフリードリヒ1世が宮殿を建立し、地名の由来にもなった。

 日本ではなじみの薄い地名だが、

姉妹都市の縁を結んでいる東京の文京区では「カイザースラウテルン市長杯」少年サッカー大会を開いている。

区は今月、現地に選抜チームを派遣した。

 その少年たちも、どこかで試合を見ている頃かと想像しながら、昨夜はテレビで観戦した。

初戦は極めて大事だ。先にも強敵が控えている。

そのせいか、昼には、町の食堂の食券売り場でカツ丼に目が吸い寄せられた。

 そして試合開始。前半に、やや幸運ともみえる1点を先取した。

しかしオーストラリアも日本ゴールに迫る。


キーパー・川口は見事に守っていたが、終了間際に追いつかれ、ついにリードを許した。

 敗れはしたが、ボールとゴールを目指す、精神の限りないダイビングの魅力はやはり大きい。

そこを源泉にした新しい伝説の誕生に期待を繋(つな)ぎたい。





勝てない日本のチームの監督が変った。中田英俊もサッカーを止めた。ジ-コ監督からオシム監督に交代している。

これからの日本チームがどのようになるのか不明である。未知数の楽しみもあることなのだろうか。






村上世彰・前代表は
99年M&A(企業の合併・買収)会社を
起こすと述べている






6月14日の天声人語からの引用



「最後になりますが、私自身、7月で通産省をやめ会社を起こすこととしています。

M&A(企業の合併・買収)会社です」。

東京地検にインサイダー取引の疑いで逮捕された村上ファンドの村上世彰・前代表は99年、

講師として招かれた信州大学の講義でこう述べている(『21世紀を創造する生活文化産業』)。

 この年の秋に、日本銀行の福井俊彦総裁が村上ファンドに1千万円を投資していたことが、

民主党の国会質問で分かった。


福井総裁は、98年に日銀の不祥事で副総裁を辞任し、当時は民間シンクタンクの富士通総研の理事長を務めていた。

 民間人が、正規の手続きで投資をするのなら問題はない。

しかし、03年に日銀に戻って総裁に就任した後も拠出し続け、利益を得ていたことは不可解だ。

 「世間から些(いささ)かなりとも疑念を抱かれることが予想される場合には……

個人的利殖行為は慎まなければならない」。

これは日銀自身が定めた「日本銀行員の心得」の一節だ。


 日銀は明治15年、1882年に設立された。

翌年の開業式で、松方正義・大蔵卿が述べたという。

「日本銀行なる者は一人一個の私利を謀るものに非ず、

公利公益を主眼とし、徒(いたずら)に商業社会の狂涛に揺がされず……」(『日本銀行百年史』)。

 日銀総裁には、国の経済の未来を左右するほどの力と責任が、国民から託されている。

いわばインサイダー(内部にいる人)の横綱のような立場にある。

その強大な力を備えた人が私的な関係で動きかねないなどと見られては、国民からの信託も崩れてしまうだろう。





こんなに話題になる日銀総裁の福井氏がやめないのはどうしてなのだろう。こんなに疑惑が多く出れば

当然に辞めるべきである。それほどにインサイダ-取引は犯罪として小さなできごとなのだろうか。

一方では大きく儲け,庶民は税金と年金では泣かされている。






指揮者の岩城宏之さんが





6月15日の天声人語からの引用


テーブルにコップを置く。ビールをつぐ。

その時、泡が多少勢いをもってあがるくらいにする。

泡が落ち着いたら、今度は静かにつぎ足してコップを満たす。

かなり前、指揮者の岩城宏之さんが、おいしいビールのつぎ方をテレビで実演していた。

試してみると、いつもより細やかな泡に包まれたビールは、味わいがぐんと増していた。

 現代音楽を積極的に初演するといった本業の他に、軽妙な随筆でも知られた岩城さんが、惜しくも73歳で亡くなった。

柔和な風貌(ふうぼう)が魅力的だったが、音楽への傾倒はすさまじく、

一昨年からは、大みそかにベートーベンの九つの交響曲すべてをひとりで指揮する

「フル(振る)マラソン」コンサートを開いていた。


 05年度の朝日賞を受け、今年1月の贈呈式で述べた。

「ベートーベンの音楽も当時は過激でした……あと10年間ぐらい続けますけども、

これもベートーベンの前衛精神に挑戦するつもりです」。

ここ15年ほど、がんとの付き合いが続いていた。

 中学1年の時に終戦を体験した。空襲で東京の町を逃げ回り、焼け出される。

鬼畜」と呼んでいた米英を、戦後一転して民主主義の鑑(かがみ)ともちあげる教師を見て、

大人たちへの強い反発を抱いた。


「いまだに大人になることを拒否し続けているんです」(『男が語る 人生これから』)。

 「自分ではいまでも大きくなったら何になろうかって思っているようなところがある」。

いつまでも少年の心を持ち続けた、偉大な指揮者だった。

 昨夜は、その死を悼みながら、岩城さん流についだビールで献杯した。






ベートーベンのレコードを聞いたのは疎開先の光明寺というお寺であった。お腹が空いた中で,

蓄音機を保護者が持ってきて学童達に聞かせてもらった。

でもその時の印象の記憶はあるが,レコードの内容に感動も驚きもできなかった。

戦後食べるのに精一杯の時代で,文化的なものを買う余裕のなかった時代の話しである。

学生の頃レコードの値段が約4000円位していたように記憶している。そのような時代がずーと続く。

変りに映画はよく観た。毎日曜日ごとに映画を見に行く。それが一般家庭の唯一の娯楽であった。

テレビがまだ普及していない時代の話である。





48年6月13日太宰治は、
近所を流れる玉川上水に女性と入水






6月16日の天声人語からの引用


その日、東京で水泳の世界新記録が生まれた。

敗戦からまだ3年の48年6月13日、「フジヤマのトビウオ」の伝説で知られる古橋広之進の快挙だった。

 その夜、三鷹に住んでいた太宰治は、近所を流れる玉川上水に女性と入水する。

15日、朝日新聞に「太宰治氏家出か」という小さな記事が載り、やがて自殺と報じられた。

 「太宰の生きているうちに、太宰がぎょっとするような評論を書いて彼に読ませたい」。

太宰に強くひかれ、その日を待ち望んでいた21歳の青年・奥野健男がノートに記した。

「今日の打撃は 余りに大きい。太宰治の死 私は完全に賭に敗北したのだ」

 このノートのパネルを含む多彩な資料が、東京・渋谷の「文芸評論家 奥野健男の仕事」展で展示されている

(渋谷区郷土博物館・文学館で、7月30日まで)。

東京工大で化学を学び、研究者として働くかたわら、多くの明晰(めいせき)な評論を発表し、97年に没した。

 自らの文学にとって、坂口安吾は父であり、太宰治は母だったと述べている。

「太宰治は好きにしろ嫌いにしろ、肯定するにせよ、否定するにせよ、これから後もながく読む者の魂に、

不思議な魔力をもってなまなましくのっぴきならず迫ってくる」(新潮文庫『走れメロス』の解説)。

 太宰らふたりが見つかったのは、6月19日だった。

その日を、晩年の作「桜桃」にちなんで「桜桃忌」と呼んでいる。

今年も、太宰が埋葬されている三鷹市の禅林寺などで、生涯をしのぶ催しが開かれる。

この日は誕生日でもあり、3年後には生誕100年を迎える。



太宰治の死亡記事が載った新聞の記事の記憶はある。そんなに大きな紙面でなく三面記事扱いのようだった。

遠い昔の記憶だから間違っているかもしれない。太宰治てどんな人かと思うような知識しかもっていない時の話である。

あまり好きな作家には入らない。武者小路実篤にひかれ長い行列して本人の講演会を聞きにいった記憶がある。

よぼよぼしたお年寄りが椅子に座っての話で感動は少なかった。もう一人の若手作家の話も有ったが,その名前は思い出せない。




奈良県明日香村の高松塚古墳だ





6月17日の天声人語からの引用


 「聞くたびに、ため息が出る」。

危機感の欠如とも受け取れる文化庁職員らの証言に、古墳の調査委員会の委員長が漏らしたという。

 舞台は、奈良県明日香村の高松塚古墳だ。

国宝の壁画の劣化原因は、これまでは地球温暖化などとされてきた。

しかし、文化庁の無責任体制や担当課の連携不足といった体質による「人災」の面が強まっている。

 黒カビにまとわりつかれた「飛鳥美人」の姿は、想像すらも遠慮したい。

やはり悠久の時の中で静かに過ごしていたかったと、発見されたことを恨んでいるのではないか。

 これとは対照的に、古代ローマの色鮮やかな壁画が会場を飾っているのが、

東京・渋谷で開催中の「ポンペイの輝き」展だ(Bunkamura ザ・ミュージアムで25日まで。

以後仙台、福岡、大阪を巡回)。

西暦79年のヴェスヴィオ山の大噴火で埋もれたポンペイと、その周辺の町で発掘された品々が展示されている。

 逃げまどう人たちが身につけていた金銀、宝石の輝きもさることながら、巨大壁画「竪琴弾きのアポロ」が目を引く。

いにしえの屋敷を飾っていたのだろう。

正面にアポロが竪琴を弾く姿が描かれ、芸術などをつかさどるムーサが並ぶ。

 アポロは、鮮やかな赤を背景にして、中空に浮かんでいる。

時空を超えて、永遠に浮遊し続けるかのようだ。

周辺部は、ところどころ退色しているが、この壁画では、

それも古代をしのばせる一つの景色として妙味がある。

ため息は、文化庁にあきれた時にではなく、こんな輝きを前にしてこそ、つきたいものだ。




明日香村の高松塚古墳の文化庁のミスは後悔することはできない。過ぎ去ったものを後に戻す事が出来ないのが

歴史である。ポンペイの遺跡まではゆかないものの日本にもっと多くの遺産が日の目を見ずひっそりと眠っていると考える。

歴代の天皇の御陵と称されている古墳が手ずかすにある。応神天皇時代までの御陵は古事記 日本書紀にもとずいての

神話の世界で適当に御陵が該当されているというのが考古学の世界の常識らしい。

そういった御陵及び大王といわれた豪族の古墳は積極的に発掘公開してもらいたいものである。

人類の財産である。個人に帰すべきでないと思うのだが。






スポーツ施設について命名権




6月18日の天声人語からの引用


久しぶりに行った東京都心の映画館の名前が、「サロンパス ルーブル丸の内」に変わっていた。

美術館にペタッと湿布が張られている光景が頭に浮かび、妙な気分だった。

 サロンパスを製造・販売している久光製薬によると、

映画館側から「命名権」を売りたいという話があり、昨年末に今の名称にした。

契約金額は社外秘だそうだ。

「話題になって、元はとれそうです。お客さまもだんだん慣れてきたようです」

 たしかに慣れはある。

4年前、東京都が東京スタジアムを味の素スタジアムに変えた時は、サッカーファンの間にも異論があった。

しかし、今では「味(あじ)スタ」は定着しつつある。

 ワールドカップ02年大会で決勝戦が行われた横浜国際総合競技場はその後、日産スタジアムに変わった。

試合を大型画面で生中継する「パブリックビューイング」は今回、ここでは開催されない。

国際サッカー連盟が、公式スポンサー以外の企業名が使われる催しを禁じており、

昔の名前に戻さなければ開催できないからだ。

 スタジアムを管理する横浜市の関係者は、「市民のためには開きたかったが、

契約料をいただいている日産の立場を考え、あきらめた」と話す。

ドイツのスタジアムでも大会期間中は、通常使っている企業名をはずし、地名のみにしているところが少なくない。

 政府はいま、財政難を理由に国立競技場や秩父宮ラグビー場などのスポーツ施設について命名権の売却を検討中だ。

命名権には様々な意見があるだろうが、これには多くの人が強い違和感を感じるのではないか。





命名権という権利を私的な会社に売ることにより利益を売る制度は外国からの直輸入の制度に思える。

そこまで日本の文化を欧米化する必要もないのでは。そのうち市町村の名前が企業に売られる時代が

くるのではないかと考える。現に愛知県豊田市があるが売ったものではない。

どんな政府が出現するかにより世の中コロリと変わることを

国民は総理大臣の権限の強大さを知ったのが小泉改革であった。






医師と障害者という二つの人生





6月19日の天声人語からの引用


佐藤正純さんは北海道のスキー場で、スノーボードで転倒し、頭を強く打った。

1カ月後に意識が戻り始めたが、人の顔もぼんやりし、まるで影絵の中にいるようだった。

1年が365日であることも忘れていた。10年前、37歳の時だ。

 佐藤さんは横浜の病院の脳神経外科医だった。

視力と記憶の障害は脳が傷ついたせいだ、とすぐにわかった。

傷ついた部分の治癒は望めない。脳の残った機能を高めるしかなかった。

 しかし、退院して訪ねたリハビリ医は「これ以上、何をお望みですか」と言った。

障害が深刻なことを率直に言ってくれた、と後に感謝するのだが、その時は、やれるものなら自分でやってみろ、

と挑戦状を突きつけられた気になった。

 点字図書館からテープ図書を借りた。妻や子どもと積極的に話した。

記憶力が少しずつ戻ってきた。

次は視力に頼らず読み書きをすることだ。パソコンの文字を読み上げるソフトの使い方を学んだ。

もう一つは歩く訓練だ。山手線に1人で乗れた時には、感激のあまり涙が出た。


事故から5年余りがたっていた。

 不思議なことに、幼いころから親しんできたピアノは、事故の後も自然に指が動いた。

佐藤さんは「障害を負っても、自分の人生がそこで途切れたとは思わなかった。

過去の人生に現在を重ね着し、その人生が広がる。そう考えてきました」と語る。

 いま医療の専門学校で医学の基礎などを教えている。医師と障害者という二つの人生。

その経験を生かして、医療や福祉の世界でもっと役に立ちたい。それが次の夢である。



体験した人ほどの力は知識で会得するより強力である。「病は善智識なり」といわれている。

戦争についても同じことが言える。戦争体験の無い人よりもある人の説得力は強い。

だがその戦争体験した人たちが少なくなって来ている。

それと同時に勇ましい若い人達の声が大きくなってきている。

話とか映像だけでは生の体験は理解できない。

でも戦争を起こし体験して懲りて止めるよりよいのではないかと考える。

それほど人間は馬鹿だと思いたくない。




仮にブラジルに勝ったとしても、
決勝トーナメントに出るには難しい条件がつく






6月20日の天声人語からの引用



実に厳しいことになった。サッカーのワールドカップで、日本はクロアチアに善戦したが、勝てなかった。

仮にブラジルに勝ったとしても、決勝トーナメントに出るには難しい条件がつく。

 ブラジルは、第1回大会からすべての大会に出場している唯一の国だ。

優勝5回は最多で、最近の3大会は、いずれも決勝に進出した。

 リオデジャネイロのマラカナン競技場は、世界最大級のスタジアムだ。

1950年に行われたブラジル大会当時は、20万人を収容したといわれる。

試合のない日もスタジアム見物に来る、世界中からの観光客を相手にした私設ガイドがいた。

スタジアムの建設工事に雇われ、そのままスタジアムにいついてしまったという。

 50年大会で、このスタジアムで、いかにブラジルがウルグアイに敗れたかという大番狂わせを、

実況中継風にとうとうと語る。

ブラジルにとって勝利はニュースではなく、敗北は何十年も語り継がれるニュースだからだそうだ。

 このサッカー王国は、日本とは地球の反対側同士だが、ブラジル移民には100年近い歴史がある。

作家・石川達三は、自ら移民船でブラジルに渡った体験をもとに小説「蒼氓(そうぼう)」を著し、第1回の芥川賞を受けた。

 石川が渡航した30年に隣国ウルグアイで開かれたのが、ブラジルも出場したワールドカップの第1回大会だった。

歴史的にも、日本とは異なる大きな蓄積がある。

しかしブラジル人もまた、同じ人間には違いない。

「望みなきに非(あら)ず」

石川のこんな小説の題を思い起こしつつ、いい試合をと念じた。





既に今これを書いている時には日本は勝てずにジーコ監督が辞めオシム監督に代わっている。

ブラジルも早く敗退してフランスとイタリアが決勝戦でイタリアが優勝した。

フランスのジダン選手が怒りイタリアの選手に一瞬に頭突きで倒している。

大いなる違反だが,かなりのことをイタリアの選手がフランスのジダン選手に言っているらしい。

スポーツもここまで来ると内戦に近いような雰囲気であるが,スポ―ツで各国が争そって欲しい。





英語では「discipline」で、
規律、鍛錬、しつけ、懲罰などの意味がある







6月21日の天声人語からの引用


一般にはなじみが薄いが、たまに目にする言葉に「ディシプリン」がある。

英語では「discipline」で、規律、鍛錬、しつけ、懲罰などの意味がある。

サッカーでは、チーム全体の「共通理解」や「約束事」といった戦術面での徹底を指す

意味で使われることが多いという。

 経済の世界では、こんなふうに使われていた。

「新しい自由な社会においては、みんながある道徳律というか、ディシプリンを持つようにならないといけないと思うんです」。

10年前、当時副総裁だった福井俊彦日銀総裁が述べた(岡本行夫対談集『ニッポン再生最前線』)。

 福井氏は「今の日本人は規制に慣れすぎて自らのディシプリンを持っているのか」とも述べた。

規制緩和が進んだ21世紀の社会を展望し、それぞれが己を律するものをきちんと持つべきだという趣旨にはうなずける。

しかし、それを徹底するのは容易ではないようだ。

 福井氏が、99年に村上ファンドに投資した1千万円は、昨年末には2倍以上に膨らんでいたという。

福井氏は、利殖のためではなく、村上世彰・前代表を「激励する意味」で出資したと述べたが、

総裁に就任した後も拠出し続けた。

 日本では、預金金利が極めて低い状態が長く続いている。

立ち止まって凍結したような預金残高にため息をついている側からみれば、

「倍増」などは特別な世界の出来事のようだ。

 福井氏は、この国の金利を左右する重い立場にあったし、今もある。

自らに課したディシプリンに照らしながら、今後の処し方を考えるべきだろう。




福井俊彦日銀総裁はいまだに辞めていない。国民が忘れるのをまっているのか。





ロスタイムに入った観もある小泉首相で、
長めの一句






6月22日の天声人語からの引用

同じ職場の人が転勤や定年で去る時、我流の折り句を献呈することがある。

例えば五七五の上に、その人の名を一字ずつ置いてゆく。

こちらは転勤でも定年でもないが、最後の国会を終えてロスタイムに入った観もある小泉首相で、

長めの一句を試みた。

 【こ】この5年「改革」掲げ突き進む。

選挙の小泉劇場では大いに観客をわかせたが、先夜、好みのオペラ鑑賞に出かけた劇場では、

大きなブーイングを浴びたという。


 【い】イラクへとしゃにむに向けた自衛隊。攻撃は受けたが、目下幸いなことに犠牲なし。

だが、ブッシュ政権が先制攻撃の理由に掲げた大量破壊兵器はみつからず、「イラク戦の大義」は地に落ちた。

多くの隊員を危険にさらし続けた最高指揮官・首相の判断力とは。

 【ず】ずるいことと、賢いことの区別がはっきりしない時代になった。

この数年、あいまいさが増した気がする。

株を買い占め、情報を流し、流させる。

法の網をかわせば賢いと言われ、かかればずるいとなる
。金への異様な傾倒という根は同じ。

 【み】耳貸さず信念ひとつ懐に。ご本人は、人の言うことはよく聞いてきたと言うのだろう。

しかし、そのかたくなさを誰かがこう形容していた。

「確固たる信念を持っているが、それが何なのかは分かりにくい」。

海の向こうの、やはりかたくなな傾向のある人の元へ近く飛び立つ。

 【じゅん】純粋なのか、冷酷なのか、【いち】一概には言えない不思議な政権の後には難問が山積みだ。

次の首相は大変だが、まさか続投は無いだ【ろう】ね。





小泉首相ほどに今までの首相のなかで変った人もいない。変人首相の呼称はぴったりである。






歌が織りなす「戦後史」を目指した




6月23日の天声人語からの引用

 道ばたに、一鉢のあじさいが置かれている。

どんよりとした空の下、控えめに、ほの青くたたずんでいる。

ぬれているようないないようなぼんやりとしたところも、この季節によく似合う。

 〈ともしびの下あじさいの花は散り木の間の闇に靄(もや)はひろがる〉。

21日に93歳で亡くなった近藤芳美さんが、50年前に詠んだ。

 その前年に朝日歌壇の選者となり、ほぼ半世紀にわたって務めた。

74年に出版した『無名者の歌』(新塔社)は、朝日歌壇の歌から抜粋して編んだ。

「無数の作品にうたいこめられているうつうつとした声と思いとを全身に聞きながらこの作業をつづけていった」。

歌が織りなす「戦後史」を目指した。

 太平洋戦争の開戦のころ、一病兵として大陸前線から生還した体験を持つ近藤さんは、

歴史と人間を見つめ続けた。〈寂しき日本よと思うことあれど息づく如く平和なる今日〉。

新春の新聞の「新年詠」には「必ず『平和』への思いを歌うことを心に決めていた」(『歌い来しかた』岩波新書)。

 イラク戦争を憂慮しつつ述べた。

「わたしたちにとって戦争が何かという問いは、人間にとり戦争とは何かという問いになり

その問いを逃れてわたしたちの生きる世界はないのであろう」(『短歌と人生 語録』砂子屋書房)。

 こうした時代への直視の底に、豊かな叙情性が流れていた。

〈たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき〉。

言葉から香気がたちのぼり、音が響き始める。

その若き日の調べは、人生の最終楽章でも鳴り響いていただろう。




朝日歌壇の選者が93歳で亡くなった。近藤芳美さんである。93歳まで生きるとは大変な事である。

生きられた事実だけでも才に恵まれた人か,努力された人であることが想像できる。




チームを預かってきた監督の責任も重いはずだが





6月24日の天声人語からの引用


「けふは、二中と試合をした。僕は前半に二点、後半に一点をいれた」。

太宰治が、知人の日記をもとにして書いた小説「正義と微笑」の一節だ。

 時にはハットトリックを決めるこの少年が、チームワークを乱す元凶とにらんだキャプテンを一発殴る一幕もある。

「チイムを統率するには、凄いキツクよりも、人格の力が必要なのだ」

 少年チームを統率するのも一苦労だろうが、ひとりひとりが高いプライドを持った大人のプロチームを

率いる難しさは、想像を絶する。

サッカーのワールドカップでブラジルに敗れ、1次リーグで散った日本チームについて、

ジーコ監督は、プロ意識が足りないと評した。

 チームを預かってきた監督の責任も重いはずだが、世界の最高レベルと戦うには、まだ力不足なのだろう。

「監督として続けていきたい。ヨーロッパにいくかもしれない」。

早くも未来の方を向いている監督と、試合後のピッチに仰向けに寝転んで動かない中田英の姿が対照的だった。

 選手それぞれに、疲弊や感傷はあったはずだ。

完敗ともいえるが、玉田の左足から飛び出したシュートは胸のすくものだった。

川口の両の手は、矢のようなブラジルのシュートを幾度も封じた。

人々がこのチームに託した夢は、すべて裏切られたわけではない。

反省を抱きながらも、胸を張って帰国してほしい。

 日本のワールドカップは終わったが、大会は、いよいよ佳境に入る。

勝手に、違う国籍の気分を味わったり、国籍を忘れたりして観戦するのも一興ではないか。

お楽しみは、これからだ。





スポーツの国際試合ほど愛国心を発揮する時はない。愛国法を作り愛国心を植え付けるというのは

政治家のよからぬ下心が見えてくる。我々の子供のときは愛国心を徹底的に教育され

戦争に利用されていった。特攻隊の人たちも千人針を縫うた婦人達も愛国心に駆り立てての行動である。

当時の為政者の心を知るにつけ,天皇を大いに利用し国民を一つの方向に導こうとしていった。

世界で天皇制を布いている国は何国有るのだろう。戦争に天皇を利用されなくするためにも天皇制をなくするのも

一つの方法である。卑弥呼の乱世の時代から,次第に巨大な権力者が日本を統一するようになった。

古代には天皇は巨大な力をもっていた。時代が移るに連れ豪族と結び天皇は力を発揮する。豪族も物部 蘇我 大伴などの

豪族がいたが淘汰されて,その中で中臣氏(藤原氏)が一番となり,平安時代までは藤原氏が天下を取る。

そして武士が台頭すると共に平氏・源氏・北条氏の天下で,南北朝時代に一時,建武新政で天皇の政治を行われる。

それから足利時代になり足利氏が勢力を伸ばし応仁の乱を経て次第に戦国時代に移る。

当時は全くに天皇は力を持たず,御陵も荒れ放題になっていた。

そして織田氏 豊臣氏が乱世を統一して,徳川時代となる。幕末頃に勤皇思想が盛り上がり文久時代に

御陵が整備されるも,御陵特定にかなりが間違いも起きている。そして明治維新となり次第に現人神となって

敗戦と同時に人間天皇となって今に続いている。





アナウンサーの金子勝彦さん(71)が
東京12チャンネル(現テレビ東京)で、





6月25日の天声人語からの引用


アナウンサーの金子勝彦さん(71)が東京12チャンネル(現テレビ東京)で、

「三菱ダイヤモンドサッカー」の実況担当を始めたのは68年のことだった。


週1回、世界のサッカーを紹介する番組は約20年続いた。

中高年のサッカーファンは声を聞いただけで、金子さんとわかるのではないだろうか。

 番組にとって最初のワールドカップ(W杯)となったのは、70年のメキシコ大会だ。

現地からの録画映像に東京で音声を入れ、毎週毎週1年間にわたって放送した。

全試合を生中継する現代から見れば、隔世の感がある。

 初めての生中継となった74年西ドイツ大会の決勝戦は、参院選の投開票日と重なった。

他局が開票速報を流す中、地元西ドイツがオランダを破って優勝を決めた光景を、金子さんだけが日本に伝えた。

視聴率は3・7%だった。

 以来フリーに転じてからもW杯にかかわってきたが、01年に肺がんの手術を受けてからは、

4年ごとに開かれるW杯が自分にとっての一里塚のように思えてきたという。

 手術当時は声がきちんと出るか不安で、今回のドイツ大会などはとうてい無理だと思っていた。

しかし、次のW杯まではがんばりたいという気持ちのせいか、しだいに健康も回復し、

今回の決勝戦はCS放送で実況を担当することが決まった。

32年前の思い出が残るドイツの地に来月初め、再び向かう。

 「W杯がどんなに楽しいものかを、扇情的なことばを使うのではなく、淡々と伝えたい」。

4年後の南アフリカ大会については、決勝戦が終わってから考えることにしている。






W杯と時代を過ごしていたアナウサ―もいた。W杯の面白さを知ったのは今回が大方の人たちは初めてで

なかっただろうか。でも面白さをそれ以前から知っていたアナウサ―もいたということである。





2カ国語を滑らかに話す
バイリンガルに会ったのは



6月26日の天声人語からの引用

30年以上前のことだが、通っていた中学校に米国から日本人の女生徒が転校してきた。

英語はもちろん完璧(かんぺき)で、2カ国語を滑らかに話すバイリンガルに会ったのは、初めてだった。

 「これが本場の英語か」と驚いた。

ところが、休み時間になると、その子が1人の同級生に「○○ちゃん、久しぶりね」と話しかけている。

2人は数年前、米東部の日本語補習校で同窓だったという。


 だが、もう1人の子は米国帰りの経験はおくびにも出さず、英語の時間にはわざとカタカナ発音で読んでいた。

同質性を重んじる日本社会では目立ってはいけないという処世術だったのかもしれない。

 帰国子女が増えた今は、どうだろう。

バイリンガルは、英語と日本語を自由に行き来できると思われがちだ。

幼児英語ブームや、小学校から英語を教えるのも、バイリンガルへのあこがれが背景にあるからではないか。

だが、そんな単純な話ではないようだ。

 英語学習者向けの週刊紙「朝日ウイークリー」(6月25日号)が彼らのホンネを座談会で特集している。

自分がどちらの国の人間なのかアイデンティティーに迷う。

英語では明るくオープンなのに、日本語では別人格になる。

帰国子女は日本の会社では使えない、という先入観にも直面する。

悩みは尽きない。

 しかし、複数の言語と文化に触れた経験から、

「たぶんどの国に行っても、その国を理解しようという許容範囲が広いと思う」(英字紙記者)という面もある。

外国語の能力よりも、そうした心の柔軟さこそ、彼らから学ぶべき点かもしれない。





バイリンガルを話せる人がうらやましい。外国にすまない限りその国の言葉は本格的に学びえない。

でもこれだけ容易に外国語のDVDが手にはいるようになり インターネットで外国語にせっするようになれば

外国に行かなくともバイリンガルを習得する人たちが増えてくると考える。





 母の手が離れた??。




6月27日の天声人語からの引用

「その時、父が私の手を離したのです」「父親なら離すまい……それはコマロフスキーだ」。

ロシア革命を挟む激動期を舞台にしたデビッド・リーン監督の映画「ドクトル・ジバゴ」の印象的な一場面だ。

 子供の頃、混乱の中で手を離して迷子にさせたのは実の父ではないはずだと、

主人公ジバゴの兄が、ジバゴの子と思われる若い娘に語る。

我が身に危険が迫った時に手を離して逃げるか、離さないか

そこに一本の線が引かれていた。

 母の手が離れた??。

昭和20年5月、米軍の東京空襲の猛火の中で、青年は手をつないで逃げていた母を見失う。

生と死が分かれた。

その責めを負い続けて長編詩「炎える母」を著した詩人・宗左近さんが、87歳で亡くなった。

 「いない/母がいない/走っている走っていた走っている/母がいない」。

母や戦死した友を詠んだ詩は、戦火で奪われた幾多の命への鎮魂でもあった。

 宗さんが編んだ詩集に『あなたにあいたくて生まれてきた詩』(新潮文庫)がある。

子供から詩人までが登場するなかに、小学1年生の作もある。

「あさがおさん/おげんきにいますか/はい/いますよ」。

宗さんは記す。「この人間の自然への呼びかけと、この自然の人間への語りかけ、これこそが詩です」

 「あのねママ/ボクどうして生まれてきたのかしってる?/ボクね ママにあいたくて/うまれてきたんだよ」。

3歳の子が話しかけてきた言葉を、母が書きとめたという。

命への切ない思いの底には、地上で焼かれたあの日のことが深く刻まれていたのだろう。







離れ離れの家族は悲惨である。特に戦争とか災害で離れ離れになるのは悲しい事である。

戦争は最後に残る人間にとっての敵である。災害を起こすのは自然だが,戦争を起こすのは人間である

ことが判っていても,止めることが出来ない。どうしてだろう。戦争のない時代は過去になかった。




大人は必ず子どもを経て親になるが




6月28日の天声人語からの引用


半世紀近く前のことである。

学校からの連絡や保護者の短文を載せたガリ版刷りの学年通信が、時折配られた。

ある時、万葉集から山上憶良の歌を引きつつ我が子への愛をつづった、ひとりの母親の随想があった。

 〈銀(しろがね)も金(くがね)も玉もなにせむに優(まさ)れる宝子にしかめやも〉。

母親の率直さに驚きながらも、大きな愛に包まれているだろうこの生徒の家を想像した。

 憶良の歌は、子どものかけがえのなさや、やむにやまれない親心を表している。

そうには違いないが、いにしえの世からこの歌が光り輝き続けていることの裏には、

この宝の、一筋縄ではいかない扱いの難しさがあると思う。

 親は、子のためと思って、時には厳しく子どもに接する。

子どもは、従うか、無視するか、抵抗する。


子が、親の厳しさを自分のためと思うか、親自身のためと思うか。

この辺りが一つの分かれ目だろうが、厳しさの案配は悩ましい。

 「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。

(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)

」(サン=テグジュペリ『星の王子さま』岩波書店・内藤濯訳)。

大人は必ず子どもを経て親になるが、子どもに親の経験はない。

当たり前のことだが、難しさの根本は、こんなところにあるのかも知れない。

 サン=テグジュペリは、こうも述べている。

「子ども時代、だれもがそこから出てきた広大な領域!」(『戦う操縦士』みすず書房・山崎庸一郎訳)。

それぞれがたどってきた広大な領域を思い起こしながら、ゆっくりと、深呼吸でもしてみようか。




大人は子供をえて大人となる。分かりきった事だがつい忘れがちのこともあるのではないか。

自分自身省みて20歳台の気持と同様のきもちでいるが,肉体の変化同様に変っているものと考える。





世界第2位ともいわれる米国の富豪で、
著名な投資家のウォーレン・バフェット氏が、
4兆円余りの資産を寄付する





6月29日の天声人語からの引用


「もし完全になりたいのなら」とイエスが言う。

「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」。

更に弟子たちに述べた。

「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。

重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(聖書・新共同訳)。

 世界第2位ともいわれる米国の富豪で、著名な投資家のウォーレン・バフェット氏が、4兆円余りの資産を寄付するという。

その大半は、マイクロソフトのビル・ゲイツ会長夫妻の財団に贈られる。

「税金を払って財務省に任せるより、夫妻の財団はお金の効用を最大化してくれる」

 これまでも、ブッシュ政権の掲げる遺産税廃止など、相続負担を減らす動きを批判してきた。

経済格差を助長し、資産家の子どもを甘やかすからだという。

 米国での株の暴落による大恐慌のさなかの30年に生まれた。

小さいころから数字に強い興味を示す。

天気のよい日には、家の前を行き交う車のナンバープレートを記録して一日をすごした

(R・ローウェンスタイン『ビジネスは人なり 投資は価値なり』総合法令出版)。

 お金への興味も強かった。

5歳のとき、家の前にガムを売るスタンドを設けて通行人に売った。

9歳のころには、ガソリンスタンドの飲料の販売機にたまるビンのふたを数えて遊びながら、人気の銘柄を調べた。

 先日起訴された村上ファンドの前代表も、9歳で投資を始めたという。

幼い姿には通じ合うところもある。

しかしプロとしての姿勢には、大きな違いが出たようだ。



アメリカ人の寄付行為には驚く所がある。沢山儲けそして亡くなる前に寄付して社会に還元して

あの世に旅立つのか。このようなことは大いに日本人も見習うべきである。



最近の言葉から





6月30日の天声人語からの引用


最近の言葉から。「サッカーはみんなで一汗かくのが何より楽しい……

これからも生涯現役でプレーできたらありがたい」。

甲府市の元教員、丸山芳弘さんは91歳。

サッカー歴77年で、ワールドカップの歴史より1年長い。

今も練習試合に参加する。

 日本代表は1次リーグで消えた。

「自分が知りうるすべてを使ってチームを導いてきたつもりだ。

悔いることも恥じることもない」とジーコ監督。

「一時的に離れるが、日本と別れるわけではない」と言い残して成田を飛び立つ。

 沖縄慰霊の日の追悼式で、高校3年の池彩夏さんが自作の詩を読んだ。

「米軍の戦闘機は/耳をつんざく爆音を落とし/勝手気儘(きまま)に飛びまわっている/いったいぜんたい/

沖縄戦はどこに消えたのか」

 下校途中の娘を殺害された広島市の木下建一さんは、報道機関に談話を出す時、

娘の名を「あいり」とかぎかっこを付けて記してきた。

「あえて強調しました。

娘は『広島の小1女児』ではなく、世界に1人しかいない『木下あいり』なんです」

 「Takashiの影響でドイツ各地に大雨が……」。

昨秋、欧州の気象図に日本人らしき名が現れた。

3万円弱で低気圧の命名権を購入したのは徳島市の気象予報士、橋本隆さん。

「雨の被害がでたらどうしようかとどきどきしてたんですけれど、何事もなくよかった」

 青森県弘前市の東目屋中学校のリンゴ園では、生徒が「自分の木」を決めて育てている。

「リンゴを通して子どもの心が育っていく」と校長。

どちらもが、たわわに実りますように。






明日香資料館を訪れて




一度は飛鳥時代にさかのぼりたいと考えていた。明日香資料館は国立の施設で奈良埋蔵文化財研究所の付属施設の一つで

近鉄橿原神宮前駅から巡廻バスが出ている。

訪れたのが丁度昼時になっていたので資料館前のレストランで昼食を取る。

メニューを見ると「三輪そうめん」と「赤米こはん」をとる。三輪そうめんは有名でこの辺りの名物で毎夏には食べている。

赤米は初めてである。何かの本で読んだ事が有るが,赤米は古代の人たちの主食だとよんだことがある。

店の方に聞いてみたらやはり古代米との名がついているようである。

食べると,始めて知らずに食べれば「赤飯」と間違えるくらいに美味しい。

多分に現代人にも食べやすくしてあるのだと解釈した。古代の食事がこんなに美味しいとは思わない。

資料館は14年前に建てられたというが整然としていて公園のようである。

園内の建物の周りには色んな所より出土した石造物の模造品が展示してある。

亀石とか酒船石 猿石とかなど奇妙な石が置かれてある。

飛鳥時代にもなると何か魔よけ的な南洋の島々に置かれているようなものが日本に持ち込まれたのかと考える。

資料館はそんなに広くはなくて一階と地下になっているようである。

寺院の実物は勿論見ることが出来ないが京都では滅多に見ることがない瓦類などが沢山展示してある。

飛鳥寺 法起寺 川原寺 紀寺 岡寺などなとである。古墳からの出土品も展示してあり

模造品が多く実物はそれぞれの現場にあるらしい。

明日香村は整然とした静かな山村である。

バスの中から風景では所々が竹や林に囲まれた山群が見られてその下に古墳がまだ眠っているのではないかと思われる。

飛鳥時代の次の藤原時代は大和三山(香具山 耳成山 畝傍山)に囲まれた藤原京に移っている。

どうしてこんな所が都になったのか大変不思議に感ずるようなところである。

飛鳥時代の寺院はこの明日香を中心付近だけだが白鳳時代になると全国的に寺院がみられるようになっている。

仏教の普及がそれだけ急速に全国に広がったのが判る。

この時代から仏教が国民の精神的支柱になってきたものと思える。




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