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随想 

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8月になって

絶え間なくミンミン蝉が鳴く季節で毎日が暑い。ミンミン蝉の鳴く声も聞きなれてしまうと気にならなくなる。

夏本番,本当に暑くてなんとかならないかと思うが,でも時が経たないと暑さは遠のいてくれない。

暑い季節を楽しもう。

レバノン戦争も終結したが,そのために大勢の犠牲者が出,都市の破壊がひどい状態である。

レバノン戦争終結と共にイラクでの情報が入るようになって来た中にイラクのアメリカ軍の報告が気になる。

西部戦線では今のままではアメリカ軍の人数が足りないとの報告である。

そんな状態にも拘わらず,相も変らずブッシュの態度はテロ撲滅と称し戦争継続の意思は変らないようだ。

狂ったような指導者によって尊い命が毎日のように失われて行く。悲しい出来事である。

日本では,その指導者となる自民党総裁選挙が始まっている。

「美しい国日本」を目指しての安部候補が谷垣候補 麻生候補を抜いてかなりのリードをしているとか。

これで本当に美しい日本になれるのかははなはだに疑問を感ずる。

田中角栄が54歳で総理になり,安部晋三候補は現在51歳である。

大変に心もとない話だ

こんな未経験でひ弱ながらも,外見は強い態度を示すような人がどれだけにまともなことができるのかは疑問だ。

そんな人に日本の進路が,全国民の運命が託されようとしている。

自民党総裁選びは失敗に終わるような気がしてならない。

安部晋三候補はアメリカが一番扱いやすいお人形のようなものである。

だれもがそのように思っていても,自己の利益との兼ね合いで,本当の事が言えない時代になりつつある。

自民党政権が戦後ずーと利益分配機能を兼ねた権力を握りつづけて来た結果のたまものである。

厳しい野党との対立が強いられるか,又は政界再編がおこるのか,このままに国民は見過ごすことはないように思うが。

「超タカ派の総理」が出現しそうである。

アジア外交はゼロで,すべてアメリカにおんぶに抱っこの政権が出現しそうである。

自民党総裁選は国民はただ傍観している以外に仕方がない。

来年の参議院選挙がどうなるのか。又統一地方選挙も絡んでくる。

権力を握った政党が強いのは当然の事に違いない。

政党の中味よりも,権力がもつ利益分配機能に対し,大衆は魅せられてしまっているからである。

自分の意見を言いつづけている加藤紘一氏の実家が放火され.何か太平洋戦争前の日本に逆戻りしそうな

時代背景になりつつある。

戦争を知らない世代が増加し,その世代の総理が生まれようとしている。

人間は本当に馬鹿な存在だとつくづく思う。

戦争を体験した世代の一員として「戦争の愚かさ」を訴え続けたい。戦争は悲惨である。

罪なき人々が大勢死んで行くのが戦争である。

食料に貧し,栄養失調になった疎開時代 そして戦後の苦しい時代を思い出す。

そのような時代が再び来ないことを切に願いたい。

ジワリジワリとそのような時代が来る足音を聞くような思いがする。

ブッシュのような狂ったような指導者が出たり そのような指導者に協力する指導者が出ないことを願いたいものです。

例え超タカ派総理が出現しても線香花火のように終わってほしいものである。

今の政治家は苦労しらずのボンボンの集まりのように思えて仕方がない。

政治家には二世三世が多い。

本当に安部氏が世論調査でもって国民的人気が有ると言うのは本当のことなのだろうか。

日本国民が自分達の一度しかない将来・運命をば託する人を選ぶのである。

顔立ちが穏やかで美男子だと言うだけで支持しているのではなかろう。

ずーと観察していると,超タカ派で殆どアメリカの言うまま盲従する人物のように思えてならない。

今までしてきたのは,北朝鮮の拉致問題を担当し今度は総理になりその担当大臣をつくるとか。

これほどに北朝鮮の拉致問題を政治問題化させ,頭角を現して総理になろうとしている。

勿論家族の身になれば「なんとかして欲しい気持は」身内の方達の気持は痛いほどよくわかる。

だがそれで世論を喚起し,日本の進路を狂わすほどの問題なのだろうか,解決方法は色々あるはずだ。

アメリカによって原子爆弾が投下され一瞬のうちに罪ない人々が亡くなった大勢の方達のことはどうだったのだろう。

そのような時代に逆戻りさせようとする気配が静かに進行しようとしている

安部氏を支持する大勢の自民党の方たちが支持する根拠が判らない。

勝ち馬に乗り遅れたくない心理が働いているとか。

安部氏にとって民主党小沢代表は手強い相手になると考えられる。

民主党の小沢代表にとっては安部氏と対立点が鮮明に異なるから,組しやすい相手だと思う。

政治的に幼稚な人対ベテランで組しやすい相手でありそうだ。

自民党の終わりの始まりがやって来そうな気配である。







ナガサキの地にヒロシマが流れてゆく




8月1日の天声人語からの引用


先週末、長崎市に行って、国際平和シンポジウム「核なき明日へ 61年目のナガサキから」を傍聴した。

第1部では、少女時代に長崎で被爆した作家・林京子さんが、

今の長崎の高校生と被爆を伝えることを語り合った。

 林さんは99年、米国が世界初の原爆実験をしたニューメキシコ州を訪ね、爆心地に立った。

「大地の底から、赤い山肌をさらした遠い山脈から、

褐色の荒野から、ひたひたと無音の波が寄せてきて、私は身を縮めた。

どんなにか熱かっただろう??」(『長い時間をかけた人間の経験』講談社文芸文庫)。

 地上初の被爆者は、沈黙を強いられた無防備な「荒野のものたち」だった。

動員されて働いていた長崎の兵器工場で被爆したあの日には流れなかった涙が、あふれてきたという。

 第2部では、この核時代の日本の針路を考えるパネル討論があった。

その密な論議は、3日に掲載予定の紙面でお読みいただくとして、

第3部に登場した秋吉敏子=ルー・タバキンカルテットのジャズ演奏のことを記しておきたい。

 この日のために秋吉さんが作曲した「NAGASAKI」が、優しく、軽快なリズムで奏でられた。

平和を取り戻す喜びと、そのかけがえのなさとをうたっているようだ。


 アンコールは、秋吉さん作の「ヒロシマ」の中の「ホープ」だった。

人類初の被爆地への思いは深く、タバキンさんのサックスは、うなり、吠(ほ)え、泣いた。

ナガサキの地にヒロシマが流れてゆく。

それは、二つの都市が一つになって世界に発する平和への「希望」のように響いた。




日本は広島・長崎の貴重な被爆体験している世界で唯一の国である。

原爆の恐ろしさ 戦争の悲惨さをもっと国を挙げ,世界にメッセ−ジを発する義務 権利をもつた日本の国である。

それが,ただにアメリカに従属し,アメリカと共に世界各地の侵略に荷担しようとする傾向が見て取れる。

国連の中に大きな戦力を提供し日本国籍を離れ平和に貢献する国連警察軍に日本も貢献してよいのではないのか。

国連本部は早くニュヨークを離れるべきである。

まずスイスだが,駄目ならば日本が率先し誘致しても良いのではないのか。

これらは政治のベテランの総理大臣にしかできない。

アメリカによるおんぶでだっこの政治家にはできない話である。





埼玉県ふじみ野市の市営プールで悲惨な事故が起きた






8月2日の天声人語からの引用


昼時、街のそば屋に入った。小さなエプロンをかけたイガグリ頭の小学生が来る。

「ご注文は?」。夏休みで、店の手伝いをしているらしい。

 長かった梅雨が東京でもあけて、いくらか夏らしくなった。

店の手伝いは例外かも知れないが、遊びに旅行にと、子どもたちが夏休みらしいことにいそしむ頃合いだ。

そう思っていたら、埼玉県ふじみ野市の市営プールで悲惨な事故が起きた。

 小学2年生で7歳の戸丸瑛梨香さんが、流水プールの吸水口に吸い込まれて亡くなった。


入り口の直径が60センチの管が奈落になるとは、痛ましいかぎりだ。

事故防止のために取り付けてあった2枚の柵(さく)のうち1枚が外れた。

気づいた子どもが監視員に知らせ、補修しようとしている間に事故が起きたという。

 柵が外れないようにするのが第一で、管理を怠った疑いがある。

そして、柵が外れたと分かった時になぜ、水を吸い込むポンプを止めなかったのだろうか。

大人なら吸い込む力に逆らえるかも知れないが、小さくて力も弱い子どもには難しいだろう。

 ある遊園地で以前、こんな事故があった。

3歳の男の子がひとりで回転馬車に乗っていた。

そのうちに顔がひきつって座席から立ち上がり、近くのベンチに居た母親の方に身を乗り出した。

そして転落し、機械に挟まれて大けがをした。

 時速5キロで動く馬車は、大人にとっては歩くようなものだった。

しかし、幼児には恐怖だったのだろうと、当時の捜査員が言っていた。

小さい子の立場や視線も含めてものを考えないと、思わぬ危険が子どもを襲う。




経費節減 効率化の犠牲の結果であることは明らかである。責任は誰に有るのだろう。

当の本人は俺は知らないと言うだけの事だろう。効率化が徹底された結果である。







79歳で亡くなった、吉村昭さんの小説の一節だ





8月3日の天声人語からの引用


宿の料理人が、水槽から鯛(たい)を取り出して生け作りにする。

ほぼ骨と頭だけになった鯛を水槽に戻すと、また泳ぎ始める??。

グラフ雑誌に載ったその写真を見て、

「白身の肉に透けた魚骨と、自分の体から切りはなされた肋骨(ろっこつ)の記憶とが重なり合った」

 79歳で亡くなった、吉村昭さんの小説の一節だ(「背中の鉄道」『自選作品集』新潮社)。

吉村さんは、若い頃に肺結核を患い、終戦直後には肋骨を5本取る大手術を受けた。

この作品では、命あるものの切なさ、美しさや、存在の残酷さが冷徹な筆致で描かれていた。

 「戦艦武蔵」「関東大震災」「ふぉん・しいほるとの娘」「天狗(てんぐ)争乱」。

綿密なことで知られたその取材ぶりも、人間と歴史への情熱と謙虚さに裏打ちされていた。

 「刑務所通い」という一文がある。

文芸雑誌の編集をしていた学生時代、刑務所で印刷すると世間よりかなり割安だと知って、依頼するようになる。

2年近く、ゲラの校正に通ううちに、

「私たちと、鉄格子の中にいる見えざる印刷部の囚人との間には奇妙な親密感めいたものが生まれてきていた」

 ある日、ゲラの最後に、書いた覚えのない一節を見た。

「そこには、『雨、雨に濡れて歩きたい』という活字が、ひっそりと並んでいた」。

あきらかに付け加えられたものだった。

その活字を消すことは苦痛だったが「私は、複雑な気分で、赤い線を一本遠慮しながら引いた」

(『誤植読本』東京書籍)。

 現実は、時に小説以上に詩的なものを放つことがある。

それをつかむ目が、さえていた。






囚人の気持が痛く理解できる。書かれたものはその人の命の結晶である。全生命が宿っているものである。






イスラエル軍がレバノンへの空爆を再開
イスラム教シーア派の武装組織ヒズボラは、
ロケット弾多数をイスラエル側に






8月4日の天声人語からの引用


イスラエル軍がレバノンへの空爆を再開した。

そして、またしても子どもを含む多くの市民が殺されたと伝えられる。

一方、イスラム教シーア派の武装組織ヒズボラは、ロケット弾多数をイスラエル側に撃ち込み、

こちらでも死者が出たという。

 イスラエルは、先月にはレバノン南部のカナを爆撃し、子どもや市民多数が犠牲になった。

国連の安全保障理事会は「強い遺憾の意」を示す議長声明を採択し、

レバノン側は「イスラエルは虐殺行為を犯している」と非難した。

 イスラエル政府は、カナがヒズボラのロケット弾発射拠点だと主張し、

「発射基地の隣の建物を誤爆した」と説明したという。

爆撃がもたらした地上の地獄絵を思えば、「誤爆」は空虚な言い訳のように聞こえる。

 もし、爆撃目標の隣に爆撃してはならない建物があると知っていたのなら、攻撃するかどうか迷うはずだ。

知らずに、やみくもに爆撃したのなら、それはもはや誤爆とは言えないだろう。

 安保理の議長声明に、イスラエル非難の言葉を入れることに最後まで抵抗したのは、米国だった。

この国はイラク戦争で誤爆を繰り返したが、これ以上イスラエルが誤爆をしないように、

真相を調べ、停戦を主導してはどうか。

 オランダの人文主義者・エラスムスが述べた。

「およそいかなる平和も、たとえそれがどんなに正しくないものであろうと、

最も正しいとされる戦争よりは良いものなのです」
(『平和の訴え』岩波文庫・箕輪三郎訳)。

およそいかなる停戦も、正しいとされる攻撃より悪くないはずだ




イスラエルとアメリカは表裏一体である。イスラエルは既に核を持っているらしい。

それなのにイラク イランに対し核保有の警戒感か極めて高い。

全ての世界の核保有国は平等に国連に核を預けるか,廃棄すべきて゛ある。

そのようなことが出来ないならば,核を持つ集団だけが強行姿勢をとることになる。

紛争が嵩じ核戦争に至りいずれ地球は滅びてしまうことになるだろう。








焼かれたという岐阜の裏金は、
どんなあやしい燃え方をしたのだろう。






8月5日の天声人語からの引用

 時には、うなったり、それにものを言わせたりする。

消えるのも早いが、ためたり、ふやしたりもできる。

しかし焼く、捨てるはまずないと思っていたが、それをやっていたという。

 岐阜県のほぼ全組織が、不正経理で4億6千余万円もの裏金をつくった。

そのうち約500万円が焼かれたり、ごみに混ぜて捨てられたりしていたという


証拠隠滅のため、あるいは税金は他人の金と考えたのかも知れないが、

紙幣を焼き、ごみに混ぜる姿は不気味でおぞましい。

 「十三枚の緑色の紙切れをつかみ出し、赤黒い焔の中に投げ込んだ」。

堀田善衛の芥川賞受賞作「広場の孤独」には、主人公が計1300ドルの紙幣を燃やす場面がある。

「焔は新しい対象をえて、それが可燃かどうか調べるように一時焔を収めたが、

見る見る青緑の火が長方形の紙幣のはしはしを嘗(な)めはじめた」

 舞台は戦後間もない東京で、金はそれまでの暮らしを捨てて新しい人生に飛び立つ資金になりうるものだった。

焼いてその道を閉ざす。

切迫した心理を描く手だてとして、あやしく燃える紙幣が効果的に使われていた。

 焼かれたという岐阜の裏金は、どんなあやしい燃え方をしたのだろう。

諭吉が、あるいは漱石が焼かれてゆく様は、正視できない気がする。

 紙幣にも、寿命がある。

日本銀行に戻った紙幣は、汚れや破損で選別され、不適当なものは裁断されるという。

平均寿命は1万円札で3〜4年程度、よく走り回って傷みやすい千円と5千円札は1〜2年ぐらいだ。


焼き、捨てるのは、その命を奪うことでもある。





本当に焼いたとは思えない。公表できないところに使われたと考えるのが正常である。

税金の裏金作りは怒っても怒り足りない。厳罰に処すべきことである。







広島市の平和記念資料館





8月6日の天声人語からの引用


広島市の平和記念資料館の前に立つ。

開館は1955年で、今年、国の重要文化財に指定された。

故丹下健三さん設計の格子状の外観が印象的だ。

そこから原爆ドームを望むと、間に鞍(くら)のような原爆慰霊碑が見える。

この碑も丹下さんの設計だが、曲折があった。

 丹下さんは、親しかった日系米国人の彫刻家イサム・ノグチに設計を頼んだ。

できた模型を前に感嘆する。

「おおらかな気宇に溢れているものであった。

古代の玉のようなおおらかさをもっていた」(ドウス昌代『イサム・ノグチ』講談社)。

 しかし市側から不採用の通知が届く。

ノグチは知人に書き送る。

「丹下さんがぼくに言ったのは、アメリカ人であるからかも、という言葉だけでした……

心をえぐられるほどに深く傷つきました」

 広島市は、この碑の5分の1の模型作品を購入した。

高さ約90センチの黒い玄武岩製のアーチだ。

半円形の古墳のようなどっしりとした姿は、確かに人をおおらかな思いへと誘う。

 ノグチは言った。「私は世界は一つであると考えている。

有史前の芸術はどこのものでも似かよっている」。

「幻の慰霊碑」からは、国籍や民族を問わない、似かよった原初の時への希求が感じられた。

 昨日、広島市で「ピースキッズ・ワールドサッカー・フェスティバル」が開かれていた。

イスラエルやパレスチナ、米、中、韓、日などの子供、10チームが参加した。

言葉が違い、国の歴史も様々な少年たちが、ヒロシマで同じ一つのボールを追う。

その姿は、国の壁に挑み続けたノグチとも重なって見えた。




原爆の碑を誰が作ったではなくて,如何に世界の人々に訴える事ができるかである。

アメリカ国籍を持つ人よりも日本人が作る方が当然の話である。

イサム野口の作品を見る機会あった。パターン化している。

戦後の当時,日本の人々は当然アメリカ人としてイサム野口を見ていた。

当時のアメリカは極めて偉大で日本人にはそれに対して文句をつけることの出来ない状態で,

今もそれが続いているような気がする。

和解は弱者の方から申し入れてもとりあってもらえないものだ。







大きな爆弾を抱えた戦闘機で





8月7日の天声人語からの引用


21歳の松浦喜一少尉は、大きな爆弾を抱えた戦闘機で、鹿児島から沖縄をめざしていた。

アメリカの艦船に体当たりするためだ。

1945年6月19日のことだった。

 アメリカのレーダーを避けるため、豪雨の中を海面すれすれに飛んだ。

何も考えていなかった。

大和魂や忠君愛国という言葉は存在しなかった。

身内の愛する人々のことは少し考えの中に現れた。


突然、「春の小川」の歌が口をついて出てきた。

 そうした体験を今年、「戦争と死??生き残った特攻隊員、八十二歳の遺書」という小冊子にまとめた。

3機のうち、沖縄の目前で1機が墜落する。

隊長は機首を転じ、引き返す。

これでは任務を果たせないと判断したのだろう。

松浦さんは隊長に従った。

 死に向かって飛び続けていたのに、何も考えなかったのはなぜか。

松浦さんは「怒りをもって帝国軍人であることを拒否したのではないか。

そこには、もはや愛する人々を守ることができないかもしれない絶望感」と書いた。

 戦後、松浦さんは東京に戻り、麻布十番で家業のカステラ店を継いだ。

特攻隊は志願したのですか。

「学生出身で未熟な飛行機乗りとしては、もうこの戦法しか残っていないと思った。


しかし、数多くの若者が志願したことと、軍上層部が特攻作戦を採用したことは全く別の話です。

戦争を始めるべきではなかったし、絶対に特攻作戦などを計画してはいけなかった」

 特攻で亡くなった人たちを神格化する風潮がある。

その危うさを語り続けることが生き残った者の務めだ、と松浦さんは考えている。




特攻は今流行りの自爆テロと同じではなかったのか。洗脳され強制的に死を賭し相手への攻撃である。

特攻が美化され靖国神社に祭られ神となるの話は小泉さんどまりでよいのではないのか。

勇ましい話ではない。時代の狂気に犠牲となった人々の話である。

再び靖国神社が利用されない時代を願うだけである。






阪神大震災の犠牲者を
追悼するためにつくられたガス灯だ





8月8日の天声人語からの引用


神戸市中央区の公園にある「1・17希望の灯(あか)り」は、

阪神大震災の犠牲者を追悼するためにつくられたガス灯だ。

白木利周(としひろ)さん(64)は、灯りの管理をするNPO法人の理事を務めている。

 いろいろな行事の際に、火を分けてほしいと言ってくる人がいる。

先月3日の夕方、須磨海岸の水の安全を祈願するため、婦人会の人たちが火を採りに来た。

近くに自家用車をとめて分灯に立ち会った白木さんが30分後、車に戻ったところ、

助手席の窓ガラスが割られ、置いてあったリュックサックがなくなっていた。

長男の健介さんが使っていたものだ。

 「明日、6時に起こして」。

それが最後の言葉になった。

プレハブの自室がブロック塀に押しつぶされ、下敷きになった。

21歳だった。

 妻は泣き続け、自分も長いトンネルの中にいるようだった。


立ち直りの兆しが見えたのは4年後。

各地につくられた慰霊碑を回る活動に、夫婦で参加するようになった。

 以来形見のリュックを背負う白木さんの姿が国内外の被災地で見られるようになった。

ボランティア活動をしたり、義援金を届けたり。

妻は再び体調を崩し、01年に亡くなったが、白木さんの活動はやむことなく続いた。

 「息子と一緒にいる安心感があった」という、黒い古ぼけたリュックには、金目のものは入っていなかった。

テニスが好きだった健介さんが自分で買った。

「WIMBLEDON(ウィンブルドン)」のロゴが入っている。

「どこかに捨てられているのでしょう。


何としてでも見つけ出したい」

白木さんはそう話した。




難解な文章で理解が困難。それとも書き方が悪いのか。白木利周(としひろ)さん(64)さんが阪神大震災で亡くなった

息子のリュックを背負って犠牲者の追悼していてそのリュックが盗まれ無くしたお話か。





1945年8月9日 長崎午前11時2分、
原爆が炸裂(さくれつ)する






8月9日の天声人語からの引用


「1945年8月8日 長崎」。

今年の春に急逝した黒木和雄監督の「TOMORROW 明日」(88年)の冒頭近くに、この字幕が現れる。

9日という「明日」に起きることを知るべくもない市井の人たちの営みが描かれてゆく。

 夜が明けて、新しい命が生まれる。

朝顔が開き、鳥がさえずる。

出かける夫があり、笑顔で見送る妻がある。

運転手は電車を動かし、主婦は洗濯物を青空に架ける。

坂道で遊ぶお下げ髪の子たちの影が、くっきりと黒い。

 そして、午前11時2分、原爆が炸裂(さくれつ)する。

残酷きわまりない「明日」までの時を、切々と描いた秀作だ。


 この映画の狙いは、長崎の惨禍を伝えるだけではないだろう。

原爆に限らず、戦争に絡んだ世界のさまざまな場所に、

予想もしない残酷な「明日」はあったし、これからもないとは限らない。

だからこそ、それを繰り返してはならないという強い思いが伝わってくる。

 「明日」が、人々の営みと命を絶つということでは、激しい地上戦があった沖縄や、米軍の空襲を受けた街や人、

さらには、日本に侵略された国の人々の「明日」をも連想させる。


ヒロシマとナガサキは、どちらも、人類が人類に与えた惨禍を長く記憶するために欠かせない存在だ。

 今日、長崎は61回目の原爆の日を迎える。

爆心地に、浦上天主堂に、あの日のような「明日」が二度と来ないようにと祈る多くの人々の姿があるだろう。

その祈りが、広島の祈りと大きく一つに結ばれ、日本の各地へ、世界へと広がってゆく。

そう念じながら、手を合わせたい。




広島長崎の原爆投下は人類の最たる蛮行である。その原爆 さらに進歩した水爆がある。

ブッシュは手頃に使えるような小さな原爆の開発を考えているらしい。

人間の愚かさを伝えるにはよいお話である





チンギス・ハンがモンゴル帝国を創設して
今年で800年になる。






8月10日の天声人語からの引用


「夏のあらゆる星座が、われわれにいどみかかるようにして出ている」。

司馬遼太郎さんはモンゴルで、満天の星に押しひしがれるような体験をした。

「うかつに物を言えば星にとどいて声が星からはね返ってきそうなほどに天が近かった」

(街道をゆく・モンゴル紀行)。

 大草原を渡る風、空に浮かぶ雲、果てしない大地。詩人ナツァクドルジがうたう。

「広く大いなる荒野原/南のかたをさき守る砂丘の海原/これぞわが生れしふるさと/モンゴルの美しきくに」

(田中克彦『草原と革命』晶文社)。

 チンギス・ハンがモンゴル帝国を創設して今年で800年になる。

帝国はアジアから欧州にまで版図を広げた。


そのころ西に遠征したと思われる兵士が、白樺(しらかば)の樹皮に書き残した望郷の詩がある。

「今やときぞ、我とびたたん/我は呼びかく/我が母に、何にもましていとしき母に……今こそ我、故郷に帰らん」

 同じ13世紀、チンギス・ハンの孫フビライは鎌倉時代の日本に遠征軍を送る。

文永・弘安の役で、いずれも失敗した。


望郷の念を抱きつつ倒れた兵士もあっただろう。

 この元寇の後、北条時宗は鎌倉に円覚寺を開創した。

蒙古襲来による死者を、敵味方の区別なく弔うことが建立の一因だという。

 今日、小泉首相がモンゴルに飛び立つ。

星空の下で、元寇の時代にも思いをはせてもらいたい。

自、他国を問わない弔い方は、現代の追悼のあり方にも示唆を与える。

誰であれ、いやしくも一国を代表する人物なら、他国の戦没者の思いにも目を向けるべきだろう。





栄枯盛衰は世の常で,モンゴルが世界制覇していた時代があった。その当時はアメリカ大陸は世界に知られておらず,

今やそこにその後住みついた人々により世界制覇されている。





名字の研究に取り組んだ
丹羽基二さんが86歳で亡くなった






8月11日の天声人語からの引用


街角で、店の夏休みを告げる張り紙を見かけた。

地下鉄がすいている。

旅に出る人がふくらむ時季になった。

電車や車で旅をすると、意外なほど多くの川を渡ることに気づく。

川の名は地名ともつながっている。

旅するとは地名と出会うことでもある。

 全国の地名や、それと縁の深い名字の研究に取り組んだ丹羽基二さんが86歳で亡くなった。

子供のころから名字に関心があり、国学院大では民俗学者の柳田国男に学んだ。

「苗字(みょうじ)を課題にしたい」と告げると、柳田は「憐(あわ)れむように見つめ」、

「それでは食えないぞ」と言ったと丹羽さんは書いている(『日本人の苗字』光文社)。

 名字の研究は、すぐに暮らしに役立つわけではないから、公的な後ろ盾は期待できない。

丹羽さんは高校教師をしながら研究を続け、約29万件の名字を約半世紀かけて集めた

「日本苗字大辞典」などを編んだ。

 81年、東京の植物学の研究者が、私費を投じて10年がかりで地名12万余を集めて分類し

「日本地名索引」を刊行した。

副産物もあり、例えば地名に使われている漢字は、山が一番多くて1万を超え、

次は田で約9千、以下、川、大、野の順と分かった。

 当時、丹羽さんは発刊をこう評価した。

「小字(こあざ)まで入れると日本の地名は推定1千万にもなる……

しかし実際にこのような裏づけのあるデータが得られたのは、初めてのこと。

貴重な仕事です」。


市井の人の努力への共感もあったのだろう。

 人生の旅で出会った地名を愛着をもって記し、それが、時の流れでいたずらに消されてゆくのを惜しんだ。




苗字研究は面白い。丹羽さんは職業として苗字研究されている。大田亮の苗字大辞典には色いろとお世話になった。

よく調べてあると感心する。その人の苗字をみればその人の先祖の由来がわかるものである。

市町村の合併とともに由緒ある地名が段々に無くなりなりつつあるのが又残念である





英国で摘発された航空機への爆破テロ未遂事件





8月12日の天声人語からの引用


「この事件には、前例がある」。

英国で摘発された航空機への爆破テロ未遂事件について、

米国土安全保障省の長官が述べたという。

 95年にフィリピンで発覚した「前例」では、爆発性のある液体を複数の米旅客機内に持ち込み、

仕掛ける計画だったとされる。


今回の未遂事件でも、液状の爆発物を使って何機もの爆破を狙ったと報じられた。

同じような残虐な作戦が生き続けていた。

実行まで数日だったともいうが実相はまだ分からない。

ともあれ、9・11を思わせる卑劣なテロが防がれてよかった。

 「たいへん残念なお知らせですが、ご主人の乗っておられた九十三便がペンシルベニアに墜落しました」。

ユナイテッド航空から電話が来たのは、あの9月11日の昼過ぎだったと、

乗客のひとりだったトッド・ビーマーさんの妻リサさんが『レッツロール!』(フォレストブックス)に書いている。

 レッツロール(さあ、いくぞ)。

これは、93便の乗客たちが犯人に立ち向かう時にトッドさんが発した言葉だという。

子供たちを促す時に、トッドさんがよく使っていた。

 乗客の勇気をたたえ、英雄視する言葉になったが、リサさんには戸惑いもあった。

「この言葉が私たちの手を離れて、広く宣伝され、まるで魔法の言葉のように扱われ、

政治に利用され、必要以上に賛美されてきたからです」


 なくてはならないのは「国の英雄」ではなく、ひとりの夫であり、父親なのだろう。

こんな形で人を英雄にするような場面をなくす義務は、米国だけではなく、各国の政府も負っている。





テロは続く。テロを未然に防げて幸いであった。これらはあくまでも対症療法で根本治療が放置されたままである。

テロの原因の解明がなされておらず,テロが悪い悪いだけでは収まらない。






東海道新幹線の車内販売のアルバイトを始めたのは






8月13日の天声人語からの引用


 徳渕真利子さんが、東海道新幹線の車内販売のアルバイトを始めたのは、昨年1月だった。

制服姿の写真を求人雑誌で見て、やってみたいと思った。

父親の転勤で引っ越しが多く、何度も乗った新幹線が好きだった。

 12月には正社員に登用された。平均の3倍近い売り上げを記録したからだ。

昨年度の売り上げは、社員とバイトを含め約400人いる東京オフィスで1位だった。

ルーキーでMVPといっても過言ではなかろう。

経験10年の指導係も驚く活躍だった。

 まだ22歳。童顔で、10代といっても不思議ではない。

なぜ、そんなに売れるのか。

いろいろ聞いてみると、努力と笑顔らしい。

 通常の勤務は、1日に東京・新大阪間を1往復か1往復半。

のぞみの場合、5人で16両を分担する。

天候や時間帯など様々な条件で売れ筋が異なる。

コーヒーか、弁当か、ビールか。

一度回った時点で売れそうなものを見極め、ワゴンの目立つ所に置く。

1人ずつ客の目を見ながら、ゆっくり歩くのがポイントだ。


ほほ笑みを欠かさず、丹念に何度も回る。

 お盆休みは家族連れで混雑する時期だ。

10人以上通路に立っていると、ワゴン販売は中止し、トレーに商品を載せて回る。

昨年の経験では、圧倒的に売れたのはアイスクリーム。


子どもにもお年寄りにも売れるという。

ビールはお父さんが家族にとめられて、あまり売れない。

帰省先へのみやげを用意していない人も意外に多く、車内でよく売れるそうだ。

 「お客様のじゃまにならないよう、役に立てれば」。

頭の中は仕事のことばかりだという。




新幹線に乗るとしばらくすると販売乗務員がこられる。大部分が若い女性で圧倒的に美人が多い。

人によって売上量が違うとは知らなかった。客の需要の関係と考えていた。確かに買いたいと思っている時に

向こうの方にさっさっと行かれてしまうと買うチャンスを失い。諦める。





人間をのみ込む時代の奔流と
個人の責任を、改めて考えさせられる







8月15日の天声人語からの引用


ドイツのノーベル賞作家、ギュンター・グラス氏が

第二次世界大戦中にナチスの武装親衛隊に所属していたと報じられた。

「ブリキの太鼓」で知られ、「ドイツ人の罪」を問い続けてきた作家は、親衛隊への所属は自発的なものではなく、

召喚だったと述べたという。


 グラス氏と同じく1927年生まれのドイツ人で、昨年ローマ法王に選ばれたベネディクト16世は、

ナチスの青少年組織ヒトラー・ユーゲントに入っていた。

法王に決まる前、「入りたくなかったが、当時は仕方がなかった」と述べたという。

人間をのみ込む時代の奔流と個人の責任を、改めて考えさせられる。

 10年前の8月15日に他界した政治思想史学者、丸山真男氏が「戦争責任論の盲点」で述べた。

「問題は……それぞれの階層、集団、職業およびその中での個々人が、

一九三一年から四五年に至る日本の道程の進行をどのような作為もしくは不作為によって助けたかという観点から

各人の誤謬(ごびゅう)・過失・錯誤の性質と程度をえり分けて行くことにある」(『丸山真男集』岩波書店)。

 そのえり分けの作業は、日本が他国にしたことを正面から見ることと切り離せない。

日本が何をしているかを知り、それを導いた人たちの責任は、格別に重い。

 同時に、戦争への奔流を加速したメディアも大きな責めを負っている。

そして国民の多くにも責任はある。

 大戦の傷は、戦後61年たっても、国の内外から消えない

将来、「あの当時は……」という釈明を繰り返さないようにする責任は、今を生きる個々人が負っている。




時代の流れが人間の運命を変えてしまう。兵隊になりたくなくとも強制的に兵隊として徴兵されたのが

明治維新後から第二次大戦終戦までであった。

世論はメディアによって操作され,世論調査と称して世論を導いている所が大きい。

メディアとしてインターネットもあるがまだまだである。

やはりテレビ・新聞・雑誌・ラジオなどが主流である。

時代の流れが一つの流れに進み始め奔流となり激流になれば止らない。

それは破滅でもってやっと止るものである。それが西暦1945年で昭和20年のことであった。

それから半世紀で,再び同じような流れを感ずる時代に変りつつある。






1945年の、第二次大戦の終結に至る道のり






8月16日の天声人語からの引用

1945年の、第二次大戦の終結に至る道のりをたどる。

1月・米軍がフィリピンのルソン島に上陸、2月・連合軍が独の古都ドレスデンを空襲、3月・東京大空襲。

4月・米軍が沖縄本島へ上陸、ムソリーニが殺されヒトラーが自殺する。

 5月・ドイツが無条件降伏、6月・天皇臨席の最高戦争指導会議で本土決戦の方針採択。

7月・ポツダム宣言発表、鈴木貫太郎首相が宣言の「黙殺」を表明。

8月・広島、長崎に原爆投下、ポツダム宣言受諾を決定。

15日に天皇の「玉音放送」があり大戦が終わった。

 ここに記したのは、大戦の後期の動きの、ほんの一部だけだ。

他にも日本では多くの人々が空襲で命を奪われた。

そしてアジアや世界には、終結に至るまでに犠牲になったおびただしい人たちがいた。

 日本の近隣国には、日本の侵略で町や村を戦場にされ、肉親を殺され、家を焼かれた人たちが今も暮らしている。

時がたって心がしずまったとしても、忘れることはできないだろう。

まして加害国の側が忘れたかのように振る舞うのは許せないはずだ。

立場を逆にして考えてみれば分かることだ。

 小泉首相が終戦の日に靖国神社を参拝した。

相変わらず「心の問題」を持ち出した。

自分の心は大事にしても、自国が被害を及ぼした国の人の心には思いが及ばないらしい。

日本国民を代表する立場にあるはずなのに、狭量さが目につく。

 この世には、100年たっても忘れられないことがある??。

そのくらいの度量でことにあたるのを望むのは、無いものねだりなのだろうか。





安部氏は度量がさらに極めて狭い。北朝鮮拉致担当大臣を作るぐらいならば

もう少し広げ第二次大戦後処理アジア担当大臣をつくりアジアの人々と仲良くしながら

平和的包括的に北朝鮮拉致問題も解決されれば如何だろう。








画期的な新製品といわれたナイロン製ザイルを使いながら






8月17日の天声人語からの引用

 ふたりの男が岩壁をよじ登っていた。「事件はこの時起ったのだ」。

井上靖の小説「氷壁」で、ザイルが切れてしまう場面だ。

「魚津は、突然小坂の体が急にずるずると岩の斜面を下降するのを見た。

次の瞬間、魚津の耳は、小坂の口から出た短い烈しい叫び声を聞いた……小坂は落ちたのだ」

 この「氷壁」の題材になったのが、1956年に朝日新聞に小説の連載が始まる前年の正月に前穂高岳で起きた

「ナイロンザイル事件」だった。

画期的な新製品といわれたナイロン製ザイルを使いながら、それが切れ、大学生が転落死した。

 この学生の兄で、ナイロンザイルの欠陥を粘り強く追及した石岡繁雄さんが、88歳で亡くなった。

ザイルの安全性を強調するメーカーや専門家の大学教授に対して、独自の強度実験などを重ねて、

ナイロンザイルが岩角では切れやすいことを証明した。

それがきっかけになって、事故から約20年後に、ようやく登山用ザイルを規制する国の安全基準が定められた。

 石岡さんは昨年、自身の半生記『ザイルに導かれて』を出版した。

弟の遭難を伝える当時の新聞記事や、新聞への寄稿、電気工学を学んで鈴鹿高専の教授を務めた

石岡さんの論文などが収められている。

 とかく大勢につきがちな人間の弱さに触れた一文がある。

「人間社会は人間一人一人が、その弱さを断ち切り、良心に従って、勇気をもって発言しない限り、決して良くはならない」

 氷壁での無念の死を胸に、自らの手で企業や権威という「壁」を乗り越えた人の深い感慨なのだろう。





ナイロンも一時代の流行で現在では何処にナイロンが使われているかは判らない。






惑星の仲間入りをする可能性がでてきた





8月18日の天声人語からの引用


次にあげる人物や地名などを見て、何を思い浮かべるだろうか。

二つか三つ目で正解が出れば、はるか遠い世界に通じた人といえるかも知れない。

 義経、四国、弥生、竜馬、網走、飛鳥、漱石、鹿児島、万次郎……。

いずれも、宇宙に浮かぶ小惑星に付けられた名前だ。

国立天文台によると、他に、たこやき、しじみ、きぼう、などもある。

 小惑星は、太陽の周りを回っている小天体で、多くは火星と木星の軌道間にある。

その小惑星の中で一番大きなセレス(ケレス)が、惑星の仲間入りをする可能性がでてきた。


国際天文学連合(IAU)の総会で、惑星の新しい定義が提案されたからだ。

 提案が通れば、セレスの他にふたつの星が加わる可能性がある。

これまで、水、金、地、火、木、土、天、海、冥と呼び習わしてきた太陽系の9人きょうだいが、一気に12人に増える

3人とも、肉眼では見えないが、古来なじんできた惑星も少し違って見えてくるかもしれない。

 「夕星(ゆうずつ)は、/かがやく朝が(八方に)散らしたものを/みな(もとへ)連れかへす。

/羊をかへし、/山羊をかへし、/幼(おさ)な子をまた 母の手に/連れかへす」

(サッポオ『ギリシア・ローマ抒情詩選』呉茂一訳)。

 この夕星・金星に限らず、悠久の時を生きてきた星には、見る者を太古の時代に連れ返すような力がある。

一方、地球上の転変は激しく、国や民族などによる争いや混乱も絶えない。

しかし人はみな、この惑星に一時宿り、やがては去ってゆく。

同じ「地球人」として、心がつながればいいのだが。



惑星は水、金、地、火、木、土、天、海、冥で憶えていたのが三個増えて,国際天文学連合(IAU)の総会では冥王星が

惑星から外される事に決着した。今回の騒動で惑星の大きさに非常な大きさの違いがあるのも知った。





急激に水かさが増すさまが生々しく伝わってくる。






8月19日の天声人語からの引用


ひざ下だった水位が数十秒でひざ上まで上がった。

腰のあたりだった水位が数分で胸元を過ぎ、首近くまで上がってきた??。

あゆ釣りでにぎわう神奈川県の酒匂(さかわ)川で、釣り人らが濁流にのまれ、犠牲者がでた

この痛ましい事故に居合わせた人たちの証言からは、急激に水かさが増すさまが生々しく伝わってくる。

 事故は幾つかの要因が重なって起きた。

中には、事故を繰り返さないための戒めになりそうなものがある。

 目に見えない、県境という壁があった

雨は、隣接する静岡県側でも強く降った。

その大量の雨水が酒匂川に流れ込んだ。

川の上流にあるダムの管理事務所では、静岡側の大雨を把握せず、ダムからの放水量を増やしていたという。

隣同士の連絡は密にとり、境界を設けるのは、地図だけにしたい。

 ダムからの放水量は、一時は毎秒23・5トンに達したという。

県が、注意喚起のサイレンを鳴らす目安は25トンだった。

目安に従うのはやむを得なかったかも知れないが、どこかに、流域全体を総合的に見る目が欲しかった。

 富士山麓(さんろく)と丹沢山地に発し、小田原市で相模湾にそそぐ酒匂川は、古来、よく洪水をもたらした。

江戸後期に今の小田原市に生まれた二宮尊徳も、幼いころ洪水で家の田を失ったという。

はんらんする川は、小さな胸に自然の恐ろしさと厳しさを刻み込んだことだろう。

 近年は治水が進んだが、自然の力そのものが弱まったわけではない。

近代的な装置や仕組みも、かみ合わなければ働かない。

川と向き合うような時には、そのことも心しておきたい。




河の管理が此れだけIT技術が進んだ時代にも立ち遅れている。災害が起きて初めていつも騒いでいる。





携帯電話やノートパソコンに欠かせない
リチウムイオン電池は、
91年にソニーが世界で初めて実用化







8月20日の天声人語からの引用



今年春、たまたま会った中国人のビジネスマンが、リチウムイオン電池の話をしていた。

中国製を欧州に売り込むため、ドイツに販売会社をつくったが、

品質面などで日本製の壁が厚く、苦戦しているとぼやいていた。

 携帯電話やノートパソコンに欠かせないリチウムイオン電池は、91年にソニーが世界で初めて実用化したものだ。

中国や韓国製の追い上げを受けているが、今でも日本製が世界のシェアの7割を占めている。


 その日本製への信頼を大きく損ねかねない事態が起きている。

ノートパソコン内のソニー製の電池がまれに過熱・発火する恐れがあるとして、

約410万個の電池をリコール(回収・無料交換)すると、米国のパソコンメーカーが発表した。

ソニーによると、製造過程で微小な金属片が混入したことが原因のようだ。

 91年の実用化にあたって、開発者は思いつく限りの安全テストを繰り返したという。

電池を高熱のてんぷら油に放り込んだり、コンクリートの塊を上から落としたりした。

電子レンジにも入れてみた。

様々なテストを乗り越え、安全を確認した上で、携帯電話への内蔵を決めた。

 今回の異物混入は、品質管理上ゆゆしい問題だと指摘する専門家もいる。

当初の慎重な企業の取り組みが歳月を経て、ゆるんだきらいはなかったのか。

 機内での発火を恐れる米国の航空当局は、ノートパソコンをどうすべきかなどの検討を始めている。

日本の航空会社は現段階では特に何も考えていないというが、これだけ身近な製品なのだから、

安全確認は徹底してほしい。





ノートパソコンにはソニー製の電池がまれに過熱・発火する恐れがあるとのことであるが,

今のところ使っていたノートパソコンて゜は見ない。

ソニーはアフターが十分する会社とのイメージが有りソニーの家電製品を愛用している。






全国高校野球選手権大会の決勝戦




8月21日の天声人語からの引用


 あと一つアウトを取れば、この日、早稲田実が負けることはなくなる。

それと同時に、駒大苫小牧の勝ちはなくなる。

全国高校野球選手権大会の決勝戦は、延長の最終回となる15回表2死の場面で、

こんな切ない瞬間を生んだ。

 早稲田実のエース斎藤は、その一つをしっかりと取り、駒大苫小牧は「勝ちがない」という窮地に立った。

しかし、こちらのエース田中もまた見事な踏ん張りを見せ、最後の攻撃を退けた。


 8回表に本塁打で1点を先取された早稲田実は、すぐ、その裏に追いつく。

以後、双方とも追加点を許さない。

がっぷりと組み合った攻防は、決勝戦にふさわしい緊迫感と躍動感にあふれるものになった。

 長田弘さんは「夏の物語??野球」という詩の中で、「動詞だ、/野球は。

/すべて/動詞で書く/物語だ」と書いている(『長田弘詩集』ハルキ文庫)。

滑る、飛ぶ、走る、殺す、追いこむ、といった数十の動詞を詩にちりばめながら、野球に特有の躍動感をうたう。

 「ギュッとくちびるを噛(か)む」「どこまでもくいさがる」といった表現もある。

そして、詩はこう結ばれる。

「あらゆる動詞が息づいてくる。/一コの白いボールを追って/誰もが一人の少年になる/夏。」

 引き分け再試合と決まった時、この日の両チームには当てはまらなかった動詞が二つあると思った。

「乱れる」と「譲る」だ。ヒットを許し、点は与えても、ほとんど乱れなかった。

そして、互いに一歩も譲らなかった。

きょう再び、甲子園で動詞が熱く飛び交い、最後の「夏の物語」がつづられる





今年の甲子園の熱闘が終わった。優勝が早稲田実業で始めてのことらしい。斎藤某がマスコミにはやされて

ハンカチ王子とか言われている。その話題も鎮まりつつある。





夏の大会への出場27回目にして手にした優勝の喜び





8月22日の天声人語からの引用


 「結局一対三プラスアルハーにて秋田勢の功名を為すに至れり」。

1915年、大正4年の8月、初めて開かれた「全国中等学校野球大会」の準決勝で、

早稲田実が秋田中に敗れたことを伝える東京朝日新聞の記事だ。

それから回を重ねて88回、ついに夏の大会での優勝をなしとげた。

 4連投となったエースの斎藤君は、昨日の再試合でもほとんど乱れなかった。

本塁打2本を浴びたが、踏みとどまった。

小憎らしいほどの落ち着きぶりだったが、優勝を決めた後には目をしばたたいた。

 栄冠涙あり。

この言葉そのままの姿だった。

試合後には、王貞治氏ら歴代の先輩ができなかったことを成し遂げた喜びを口にしつつ、

試合に出られなかった部員や支えてくれた多くの人々への感謝を述べた。

 「都のいぬゐ早稲田なる 常磐の森のけだかさを わが品性の姿とし……」。

相馬御風作詞の校歌が流れる。夏の大会への出場27回目にして手にした優勝の喜びはどれほどか。

あきらめずに力を尽くして、念願の座に到達した。

 準優勝となった駒大苫小牧チームも、ほぼ互角に戦った。

打者に立ちはだかるエースの田中君を中心に、高校野球の頂点を早稲田実と二度までも競い合い、

多くの人の胸を熱くしたことを誇りにしてほしい。

 「晴れたり この空 この我が駒澤 漲(みなぎ)る緑は光と渦巻く……」。

テレビでは、北原白秋作詞の校歌は流れなかった。

しかし、昨日の甲子園に敗者は居なかったという思いから、一節を掲げた。

斎藤・牛若丸と田中・仁王。

そんな伝説を残して甲子園の夏は終わった





甲子園の夏は何時見ていても清々しい思い出だけを残してくれる。





湾岸危機で従軍したイラクの少年兵の意識が、
弟に乗り移った






8月23日の天声人語からの引用


子どもの視点から戦争を描き続けた英国の児童文学者ロバート・ウェストールに、

「弟の戦争」(徳間書店)という作品がある。

主人公は15歳の少年トム。

両親と三つ年下の弟アンディと暮らしていた。

 1990年夏、そのアンディが突然、とりつかれたように意味不明の言語をしゃべり始めた。

アラビア語だった。湾岸危機で従軍したイラクの少年兵の意識が、弟に乗り移ったのである。

 弟は、ひとの苦しみに極めて敏感な性格だった。

それまでも、写真で見た飢餓に苦しむエチオピアの子どもに、とりつかれるように感情を移入したことがあった。

トムはアンディを助けようとするが、弟の意識はイラクの少年兵との間を行ったり来たりする。

 やがて米軍の猛攻が始まり、少年兵の目を通して戦場のむごさが伝えられる。

それは、弟の体が目に見えない力ではねとばされるまで続いた。

そのとき少年兵は死に、弟は意識を取り戻した。

 戦争を見る目は、どうしても一方に偏りがちだ。

地上の戦死者の姿が見えない映像では、本当の戦場は分からない。

物語は、超人的な共感能力というフィクションを使って戦争を反対側からも描き、みごとである。

 ウェストールは、執筆後間もない93年に死去した。

その後起こったイラク戦争では、子どもを含む民間人多数が巻き添えになった。

イスラエルとレバノン過激派との紛争でも、同じ悲劇が繰り返されている。

日本の私たちは、戦争の実相をどれだけ知っているだろうか。


他者への共感能力の大切さを訴えた作品の重さを、改めて思った。




多分現在生きている日本人で戦争体験のある人々は少なくなりさらに次第に減少しつつある。

それとともに右傾化がさらに強まって行く。

超タカ派の総理が出現して如何様になっていくのか極めて心配である。





ロシアのグレゴリー・ペレルマン氏が、
数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞を辞退した。





8月23日の天声人語からの引用


何が問題なのかが分かれば、考えようもある。

しかし問題が何かが分からなければ、考えようもないだろう。

 数学の「ポアンカレ予想」は100年来の難問と言われた。

多次元の空間を分類するある条件を示したものというが、素人には何が問題かすら難しい。

その難問の解決への道を示したロシアのグレゴリー・ペレルマン氏が、

数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞を辞退した。


 これまでも、昇進を辞退したり、欧州の若手数学者に与えられる賞を拒否したりしてきたという。

米誌の取材には、「有名になると何も言えなくなってしまう」と答えた。

その業績を理解するのは難しいが、氏の性分の方は、いくらか理解できる気もする。

 「世紀の難問」を残したフランスの数学者ポアンカレには、「数学上の発見」という一文がある。

天啓のように発見が起きた瞬間を、自らの体験で記す。

それは、乗合馬車の踏み段に足を触れた時であり、散歩中の断崖(だんがい)の上であり、大通りを横切っている時だった。

 そして、天啓に先立つ「無意識的活動」について述べる。

例えば「或る難問を研究するとき……何等効果が上がらないことが縷々(るる)ある」。

そこでしばらく休息をして、新たに机に向かう。

「最初の半時間は何ものも得られないが、やがて突然決定的な考えが心にうかんで来る」。

休息の間も、絶えず無意識的活動が行われていた(『科学と方法』岩波文庫・吉田洋一訳)。

 ペレルマン氏の場合はどうだったのか。

その震えるような瞬間についての話なら、何とか理解できるかも知れない。




天才は奇人であることが多いのだろうか。





戦後の日本に広まった消費者金融






8月25日の天声人語からの引用


森鴎外の小説「雁」は、親の借金のために囲われ者になった女・お玉の物語だ。

大学生への思慕と、かなえられない夢を描いている。

お玉を囲う男は高利貸で、いわば、お玉のかなしさの引き立て役であり、憎まれ役でもあった。

 「憎んで最も当然なのは高利貸である」。

2千年以上前にこう述べたのは、ギリシャのアリストテレスだ。

「それは彼の財が貨幣そのものから得られるのであって、

貨幣がそのことのために作られた当のもの(交換の過程)から得られるものではないということによる……

これは取財術のうちで実は最も自然に反したものである」(『政治学』岩波文庫・山本光雄訳)。

 古来、厳しい視線にさらされてきた貸金業だが、戦後の日本に広まった消費者金融も、多くの問題を指摘されてきた。

このところ、金融庁による検査や処分が続いた。

 大手のアコムに対して、貸金業規制法に違反した疑いがあるとして立ち入り検査した。

今年1月に続く異例の再検査だ。

 また金融庁は、消費者金融が借り手に生命保険をかけ、死亡した場合の「担保」にしている問題で、生保各社に、

借り手が同意して生保に加入したかどうかの確認を徹底するよう指導した。


「命が担保」と言わんばかりの強引な取り立ては文字通り命にかかわりかねない。

 高い金利の引き下げも課題の一つだ。

金融庁は少額・短期の融資について、現行の出資法の上限金利を軸に特例金利を認める考えだという。

その軸となる年利は29・2%だ。

「自然に反する」かどうか、あの哲人に聞いてみたい気がする。




昔は金貸しは質屋を利用する事が多かった。質の担保さえ取られれば何も禍を残さない。

昔の日本のよき伝統であった。それが消費者金融 が輸入され悪しき弊害をもたらしている。

高利がはばかり多重債務者が増えつづけている。大手銀行もそのような金融機関と連携するようになった。

弱いものいじめが加速化されている。






冥王星が惑星の仲間から外されることが、
国際天文学連合の総会で決まった






8月26日の天声人語からの引用

 「降格」「格下げ」、そして「除外」。

一般的には芳しいことには使われない見出しが、昨日の新聞各紙に並んだ。

冥王星が惑星の仲間から外されることが、国際天文学連合の総会で決まった。

 これは、果たして「降格」なのだろうか。

1930年に発見されたが、近年、天体観測は著しく進んだ。

そして、冥王星は他の8惑星とは別にした方が分かりやすいという新しい定義が採択された。

今後は「矮(わい)惑星」の部類に入る。

観測が行き届いて、よりふさわしい区分けになったと考えれば、むしろ芳しいことだ。

 英語名のプルートは、ローマ神話の冥界の王にちなんでいる。

星の文学者として知られた野尻抱影の著書『星座神話』に、こんな一節がある。

「因(ちな)みに『冥王星』の訳名は……神話に基づき、著者が提案したもので……」。

この訳名は、中国でも使われているという。


 今回の新定義で、冥王星を惑星としてきた世界中の教科書が書き換えられることになった。

しかし、冥王星という長年なじんできた名前自体が消えてしまうわけもない。

 抱影はこうも記している。

「海王星外の新遊星に、海王の兄弟である冥王プルートーの名が付けられたことは適切であり、

太陽の光の有るか無きかの境に在る遊星の感じとしても動かぬ名です」

 惑星や遊星と呼ばれようが、矮惑星と呼ばれようが、星そのものに変わりはない。

人間界の分類をよそに、太古の時からの固有の軌道を行く。

はるかな闇のかなたから、そのかすかなつぶやきが聞こえるようだ。

「それでも、私は回り続けている」



妥当な結末で惑星の数が決まった。水 金 地 火 木 土 天 海で終るのは少し寂しい気がするが

進歩しつつ科学で惑星が増えつづけるのも困りものである。






下館さんは、東北を中心に活動する
アマチュア劇団「シェイクスピア・カンパニー」の主宰者で、
脚本と演出を






8月27日の天声人語からの引用


「すっか、すねがだ、なじょすっぺ」。

シェークスピアの「ハムレット」で最も有名なせりふを東北学院大教授の下館和巳さん(50)は、こう訳した。

 手元の岩波文庫では、「生きるか、死ぬか、それが問題だ」(野島秀勝訳)とある。

坪内逍遥訳を始め、50種類はあるといわれる日本語訳に、新たに仙台弁が加わることになった。

 下館さんは、東北を中心に活動するアマチュア劇団「シェイクスピア・カンパニー」の主宰者で、脚本と演出を手がけている。

95年の「ロミオとジュリエット」以来、今回が7作目になる。

来月の東京公演に向けて、追い込みに入ったけいこを見せてもらった。

 仙台弁を使うだけでなく、設定をデンマークから戊辰戦争下の仙台藩に変えている。

東京のことばに慣れた者にとっては、なかなか聞き取りが難しいが、音楽のように耳に快いせりふだ。

 宮城県塩釜市で生まれ、仙台、そして東京の学校に進んだ。

何度もことばの壁に直面し、子どものころのことばを使わなくなっていったという。

劇団をつくるにあたって、まず地元のことばを使うことにした。

「西洋の古典劇は、東京で、共通語を使ってやるのが常識でした。

でも仙台でやるからには、自分たちのことばでやりたかった」

 今年春の仙台公演の後、東京公演のために脚本を手直しして、共通語を2割ほど微妙に交ぜ合わせたそうだ。

来年には関西や九州での公演も計画中だ。

「関西弁や九州弁、いろんなことばのシェークスピアがあっていいじゃないですか」。

下館さんは笑顔で、そう話した。




関西弁でいうならば「生きはるか 死なはるか そんなんのがもんだいどす」とでもいうのか。

現在住まいしている京都の言葉であるかはわからない。

自分では標準語で書いているつもりの文章も京都なまりがあるのかもしれない。






駅構内や車内での暴力事件が増えつつある






8月28日の天声人語からの引用

 まぶしかった夏休みも過ぎ、けだるい日常が戻ってきた。

そんな朝に、ささくれだった光景に出くわした。

 通勤電車の中で、40歳過ぎの女性が目の前に座る女子高生を怒鳴りつけていた。

女生徒がカバンを脇に置いているので座れない、と注意したようだ。

でも、女生徒は携帯電話でメールを打つばかり。

相手の指摘を無視して、だんまりを続ける。

2人の顔がみるみる赤くなる。

一触即発である。

 駅構内や車内での暴力事件が増えつつある。

日本民営鉄道協会によると、大手私鉄16社で昨年起きた駅員への暴力行為は約140件にのぼる。

統計があるこの6年間で最も多かった。

ことしはさらに上回るペースだ。

客同士のいさかいが刃傷ざたにつながった事例も多い。

 どうやら、乗客のイライラした視線が絡み合うのは、暑さのせいだけではなさそうだ。

京王電鉄(本社・東京)ではマナーの向上を呼びかける川柳を、年に5回ほど公募している。

最優秀作を漫画家のやくみつる氏がポスターに描き、車内やホームに張り出している。

 応募作には「乗車口どうしてここに仁王様」「ヘッドホン耳を隠して音隠さず」「うるさいよあなたの自慢の着信音」

「カラコロと空き缶車内を一人旅」などがある。

マナー川柳はJR北海道でも募集した。

確かに、車内放送より、にっこりできるポスターの方が和める。

 周囲をハラハラさせた女性と女生徒は結局、別々の駅で下を向いて降りた。

あの2人にはこんな作品がぴったりくる。

「人が立ち荷物が座るやるせなさ」「その荷物彼氏のつもりで膝(ひざ)枕」





電車の中で携帯電話を見ない風景は無い。もくもくとひとりゲームをしている。最近気になるのは

電車のサービスか一人座りの電車を見かける。座る事にありつけた人は幸いだが,立つ者としては

少しつめて席を作ってと言い難い。全体への客へのサービス向上か否かは判らない。






学校でのいじめを苦に自殺した中学1年の男子生徒が、
両親に「遺言書」を残して






8月29日の天声人語からの引用


宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」には、主人公のジョバンニ少年が級友ザネリたちにからかわれる場面が繰り返し出てくる。

北方の漁に出かけて留守の父親がジョバンニに約束していった土産のことで、はやされる。

「おとうさんから、ラッコの上着が来るよ」「ジョバンニ、ラッコの上着が来るよ」

 しつこい嫌がらせにジョバンニは傷つく。

「ぼくはどこへもあそびに行くとこがない。

ぼくはみんなから、まるで狐(きつね)のように見えるんだ」(岩波文庫)。

 ジョバンニの母は病に伏せっている。

学校帰りには、活版所で活字を拾うアルバイトをして家計を助けている。

そんなジョバンニの孤立感が、読み返すたびに胸に迫ってくる。

そして、ザネリたちの「いじめ」が決定的な悲劇を招くまでには至らないところに救いを覚える。

 愛媛県今治市で、学校でのいじめを苦に自殺した中学1年の男子生徒が、両親に「遺言書」を残していたという。

クラスでは『貧乏』や『泥棒』と言う声がたえず響いていて、

その時は悲しい気持ちになります」「机にある小判は私だと思って持っていて下さい」

「いつも空から家族を見守っています さようなら いままで育ててくれてありがとう」

 過去に、いじめに絡む自殺で報じられた幾つかの「遺言」を思い起こす。

「『チビ、デブ、短足』とからだの欠陥をいわれる。

『気持ちわりい』といわれる」「みんなに悪口を言われ嫌われている」

 間もなく新学期という学校も多いだろう。

言葉が、取り返しのつかない悲劇を招かないよう、心したい。






若者がいとも簡単に自殺する風潮がある。昔もいじめがはあったが自殺にいたるような話は聞かなかった。

戦後いじめも欧米風の合理化精神の普及するにつれ残虐化陰湿化して来て若い人たちを死に追いやっている。

漫画やテレビなどが影響されていると考えられる





最近の言葉から





8月30日の天声人語からの引用


最近の言葉から。父は米国人、母は日本人。

二つの国籍を持つ広島市の小学6年生スミス・アンジェリアさんが、こども代表の一人として「原爆の日」に誓った。

「私たちヒロシマのこどもは世界中の国々や人々との間の架け橋となり、

『平和』の扉を開くために一歩一歩、歩み続けていくことを誓います」

 終戦の日の全国戦没者追悼式に、過去最高齢の参列者で101歳になる田端よしゑさんが居た。

長男を亡くす。

「みんなが仲良く健康な時代になった。ありがたいこと」

 参列者の最年少は広島県の中学2年、高田康平君。

祖父の傍らで、戦死した曽祖父を思う。

「家族と別れ、死んでいった人たちはどんなにつらかっただろうと思った」

 甲子園の開幕前日、審判で大阪府寝屋川市職員の三宅章介さんは、元審判の父をがんで亡くした。

幼いころ骨の病気を患った時、移植のために腰の骨を提供してくれた。

「おやじは30年以上審判してきたから、この骨は50年近く審判してきた。


おやじが死んでも、ずっと一緒です」

 イタリアで、ジーノ・ジロロモーニさんがエジプト起源の「古代小麦」を栽培して約30年になる。

通常の小麦より収量が少ない。

「採算がとれない」と周囲は言うが、「効率ばかりを重んじてきた現代農業へのアンチテーゼになる」。

パスタにすれば「紀元前3千年の味がする」

 48歳で過労死した夫への会社からの賠償金を元に、中島晴香さんが「過労死基金」を設立する。

「夫が命を削り、のこしたお金。

つらい思いをしている人たちを励ましたい」







五輪の日本の候補地は、東京と決まった。





8月31日の天声人語からの引用

 2016年の8月12日、2度目の東京オリンピックの幕が開いた??。

となるかどうかは、まだまったく分からない。

開催都市が最終的に決まるのは09年だ。

しかし日本の候補地は、東京と決まった。

 1964年の五輪から42年、人の半生にもあたる時が流れた。

それでも、沸き返るような熱気と感動的な場面の数々は今も鮮やかによみがえってくる。

五輪の開催そのものが、敗戦から再生して世界の舞台に復帰する証しのようだった。

 あの時、東京は激変した。

道路が町を削り、道の上に道が造られ、川は埋め立てられて道になった。

その変容を悲しむ視線もいくらかはあったが、戦後を克服する五輪という旗印を掲げた大波にのまれた。

しかし今、当時のような多くの国民を束ねる強い旗印があるとは思えない。

 都は「アジアで初めてとなる2回目の五輪」を掲げるが、どれほどの意味があるのか。

もし五輪を新しい改造のきっかけにするのなら、前の五輪の功罪を見つめることが肝要だ。

 あの大改造の中で、日本橋は高速道路にふたをされてしまった。

その日本橋の空を取り戻そうという動きがある。


大金をかけてふたをし、今度は膨大な資金を使ってふたを外すという。

高速道が覆っているのは、果たして橋だけだろうか。

人間も、ではないか。

あの時代の「改造パニック」そのものを省みる必要がある。

 福岡が東京に敗れたとは思わない。

この国の多くの市がミニ東京化する中、この街は独自の魅力的な「都市の肖像」を備えている。

それを磨くのに、必ずしも五輪は要らない。





東京が1964年オリンピックを開催した時は日本の復興がかなり進んできており,東京もその時に同時に近代化も進んだ。

高速道路が出来たのもこのときである。その時,高速道路が上を走りフタした日本橋を再びその高速道路を除こうとしている。

膨大な費用がつぎ込まれることとなる。

総理が決められる事のようで小泉首相はそのことに積極的である。

日本橋は今もある。

その上を高速道路が現実に走っているならば,それはそのままにして乱開発の後世への警告として記念碑として

とっておくべきである。

無駄なお金を費やして今になって何故日本橋なのか。

市町村合併によって日本中理由のわからない市 町が出来ている。

日本橋は今も昔とおりにある。地方の由緒ある町の名前は消え去っていった。

そんなことをしている小泉氏に日本橋に太陽をと言う資格があるのだろうか。







善峰寺




偶然のことからである。ゴルフをしている時,たまたま或る先生から聞いた話に「西山の善峰寺に雲がかかると雨に

なる」とのことであったが,確かにしばらくしてくるとひどい雨になってきた。

ゴルフは雨が降っていても雷が鳴らない限り続行する定りになっている。

雨足は益々にはげしくなるが,笠をさしながらプレ-をしていた。

散々なスコアで終ったが,大体に自分の信念として?は雨になればゴルフは中止にすることにしていた。

だがコンペでは途中だからそういうわけにはいかない。

笠の柄をば,頬と肩に挟みなからパットは雨にかからないようにして続けた。

だがアイアン,ウッドを使う時はそういうわけにいかず仕方なく,笠を置いてのプレ-となる。

話は善峰寺のことである。子供のころ大人達から聞いたかすかな記憶がよみがえる。

子供の頃に遠足で行ってるかもしれないが「よしみねさん」は心に何処かに記憶があった。

京都に居ながらにして善峰寺を知らないではいけないと思い立ち,早速に自動車で行くことにした。

ナビゲーションで場所を見ると,戦時中疎開していて,何回か訪れている粟生野光明寺からやや北側の山の中腹にあった。

時間は自宅からは35分位である。案外に近い場所にある。

横大路から乙訓へさらには細い竹薮をすすむとうねうねとした坂になっていて善峰寺に着く。

今までにかなりの数の寺院を拝観している中でも大きく敷地の広い寺院のようだ。

天台宗で平安時代末の長元七年(1034年)に開基は源算上人である。

あまり聞いた事の少ない方である。

この方は恵心僧都源信に師事し,その源信は良源(元三大師)に師事している。

境内は広く一回くらい訪れては道案内が判らない。景観だけは確かに抜群である。

北から南まで東山三十六峰か一望のもと見渡せる。

五代将軍綱吉の母である桂昌院が色々な建物を寄進し桂昌院に因んだ展望台「けいしょうどう」は特に見晴らしが良い。

見晴らしの良さでは今まで訪れた寺院ては一番優れている。

西国二十番札所善峰寺一名松の寺ともいわれ長く地面に這った松の枝の松が見られる。

本尊は十一面観音菩薩で秘仏で第二日曜日が開帳されるとか。



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