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11月になって



11月ともなると寒い日が多くなる。紅葉の季節なので,紅葉の季節に,一度紅葉で有名な粟生野光明寺に訪れてみたいと思った。

粟生野光明寺は何度も訪れていて思い出の深い寺院であるが,紅葉の時期は今まで避けてきた。

いつもは無料で駐車ができ,拝観できるのが.この時期だけは,駐車料が1000円で..境内に入場するのに500円がいるように変わっていた。

2-3年前から始まったとの事のようである。

いつもは静かな寺院なのに,終に此処も俗化されてきたのか? との気持ちだったが,

多勢の人たちでもって,車を安全に誘導したり,近くに借りられたであろう土地料金代のことを考えるならば仕方ないことだと思われる。

このことがあって,今度は永観堂禅林寺に,前もって電話でもって尋ねてみると,此処もいつもの駐車場は閉鎖されてしまっているとのことだった。,

やはり拝観料が1000円に値上がりしており,特に寺宝展示のために拝観料があがっているとの説明だった。

紅葉のシ−ズンでの京都の寺院拝観は特に大変になってきているのがわかる。

紅葉の季節になると有名な寺院では日本全国から多勢の人達が拝観に見え,寺院側も大変な季節なのであろう。

京都人として,観光のシ−ズンの外れた静かな時期にでも,またお参りにしに行こうと思っている。

次第に寒さが身にこたえる時期になってきた。国内の政治では訳のわからないことが次から次へと起きてきている。

小泉内閣のとき刺客候補として送り込んで,郵政民営化「イエスかノー」で反対していた人たちのうち郵政民営化反対し衆議院に当選した人たちが,

安部首相から「お帰りなさい」と話しかけられるテレビ画面がうつりだされるのを見て,違和感を感じた。

中川幹事長は「弁明書」と「始末書」を書かさせ,反対した議員をば自民党に受け入れるようにしたのだ。

だったらあの郵政民営化の解散総選挙騒動はなんだったのだろうかと,国民は不審に思うと共に,

自民党政府のこのような行動に対し,国民を馬鹿にした話だと,非常に怒りたい気持ちである。

これは来年の参議院選挙対策に備え,多分其の頃になると国民は忘れしまっていて,その怒りは収まっているだろうとの計算がある。

一方無所属議員でいると国家からの政党助成交付金が受け取れないので,議員の損得勘定も絡み,

そのようになったとの新聞報道などで読む。

刺客として操られてきた新人議員たちは怒っている。このことは議員達が権力とお金に弱いことを如実に示している。

これでもって政権交代でもあれば,この自民党にしがみついたような人たちはどうするのかと不思議に思えてならない。

これは丁度蟻が砂糖にむらがるような自然な現象なのか。

地方自治体での談合事件が次から次に明るみになってきた。談合には「天の声」があるらしい。

天の声とは其の自治体の首長である知事であったり市長だったりが関与しているようだ。

一般に言われるのには小泉改革によって族議員の力が弱まってきて,首長への権力が移譲してきたことにともなって起きている現象のようだ。

教育基本法改正法案でのタウンミーティングのやらせがあったり,有識者からの意見聴取では建設的なよい意見もあるのにもかかわらず

儀式化され,全てが無視したまま政府の思い通りにことが運ばれている。

何のための有識者懇談会なのか,,メンバーの人たちも怒りたくなってくるだろうし,現に怒っている人たちも多い,

このようなことが平気でまかり通っている世の中である。

衆議院・参議院の議員の数だけが多いということだけで,法案が国民から支持されている証のように思っている。

全ての法案はなんなく国会を通過していっている。

,与党が絶対的に多ければ何をしていても,全ての法案が成立し進行しているようだ。

だが世論調査で阿部内閣の支持率が一直線の下降が続いている。,そんなことおかまいなしに政治が進行しているようにみえる。

要するに選挙でもってお金を使おうが,談合のような権力を餌にしながら選挙民を買収しようが,

国会の中での議員の人数さえ多ければ国民の意見はどうでもよい民主主義が日本ではまかりとおり,定着している。

アメリカのブッシュは中間選挙で大敗した。

それからはブッシュ自身の口から勇ましい民主主義のためのテロとの戦いなどとはあまり言わなくなってきている。

イラクの中では,可哀想に毎日のように益々多くの自爆テロ 自動車爆弾 民族・宗派派閥同士の対立の激化によって銃撃戦などがおこり

多くの人たちの命が失われていっている。混沌のなかにあってイラクは第二次大戦以上の年月がたってしまった。

イラク戦争がはじまってから4年も経ち,未だになんら先の目途がたっていない。

選挙結果ブッシュ政権は死に体である。上下両院とも民主党が多いから,今までのようになにもかもブッシュのいうとおりにはいかない。

このような所は是非とも日本も学ぶべき所がある。

イラクは無政府状態で内戦とまてもいわれている泥沼状態に落ちっているが,本当に気の毒なのはイラク国民の人達である。

何の罪もない人たちが犠牲になって,毎日のように死んでいっている。

国連がアメリカに存在する限りおいては国連もアメリカの言うがままのように思えてくる。

国連をもっと強化すべきだが,金大中さんのような,平和主義の国連事務総長に韓国出身の次期藩国連事務総長がなってくれればと願うのだが。

世界の平和への志向と安部首相自身の考え方とは相反する所がある,今までの言動からして平和への希望は全く期待できない。

こんな若い未熟な指導者を日本が持っていることは情けないことだ。「美しい国日本」と,ただ一国だけのことを言っている世界の情勢ではない。

これからは世界の恒久平和を求めながら世界と仲良くし,日本の伝統を維持し世界とともに歩んでゆく時代である。

ひたすら北朝鮮拉致の問題が家族の姿と一緒にテレビに映らない日はないくらいだ。

北朝鮮問題は平和条約を結び両国の国交回復すれば自然解決できる問題である。政府のしている制裁処置は間違っている。

苦しんでいる北朝鮮の国民をばさらに苦しめるだけのことになる。

韓国の立場は日本と違いアメリカ一辺倒ではない。なんといっても韓国と北朝鮮とは同一民族なのだ。

韓国には朝鮮の人たちをば何とか救いたい気持ちがひしひしと伝わってくる。

だが阿部首相の態度は北朝鮮問題を複雑化させ,アメリカのブッシュに貢献する政治的道具に使っているようにしか見えてこない。

北朝鮮拉致問題で頭角を現した人だけのことはあるようだ。

拉致された家族の方達の気持ちは痛いほど理解できる。だがそれよりも米朝戦争が発生してミサイルが日本に飛んで来て,

何千人の人たちの死傷者が出ることのほうがもっと悲劇である。

高価なミサイル迎撃機をあわててアメリカから購入している。アメリカ側から言えば大いなる戦果を得たことになる。

なんとか日本にも早く良識ある総理をもちたいものです。

首相の施政方針で経済界への減税と国民への課税強化で,世界経済戦争に勝つため国民は益々疲弊していっている。

国家というものは誰のためにあるのだろうか。?

戦争に懲りてしまった日本の過去を忘れ,戦争を知らない世代によって

再び勝つまでは欲しがりませんの時代に変わりつつあるように思えてならない。

平和ほど人類にとって尊いものはない。

戦後ずーと日本国民はそれを維持してきた。このことは世界に大いに誇ってよいことである。,

是非これからの世代にも永遠の真理「戦争放棄」「恒久平和」の思想を受け継いでいってもらいたいものである。

世界の中で日本だけしかが成し遂げることができなかったことが,徐々に崩れ去って行くような気がしてならない。







虫の音は





11月1日の天声人語からの引用



木々が色づき、風が日一日と冷たくなってきた。

晩秋の時の流れは、一年でも特に早いと感じる。

秋の夜長、東京の都心で小さな発見をしたのは、先日のことだった。

 夜道で虫が鳴いていた。

頭上から聞こえてくる。

街路樹を見上げたが姿は見えない。

虫の音は足元からと思っていたが、これは「アオマツムシ」だという。

リーリーという甲高い音色は車の音を押しのけるほど強く、しばし足を止めて聴き入った。

 虫の愛好家にとっては迷惑な虫らしい。

日本鳴く虫保存会」の小野公男会長は、鳴き声鑑賞会で「一種類でも覚えて帰って下さい」と言いづらくなった。

強い音が他の虫の声をかき消すからだ。

明治時代に東京で鳴き声が確認され、中国から輸入された木に付いてきたと伝えられる。

 「相手を知らないと」。

松虫やカンタンを約50年育てる小野さんは、東京都小平市の自宅でアオマツムシも飼育する。

体長2センチほどの緑色で、野鳥からも見えにくそうだ。

飛べるうえ、太い枝や幹に産卵するので街路樹が枝切りされても影響は小さい。

温暖化で、近年は北に勢力を伸ばしている。

 秋の虫が好きだった小泉八雲の言を、妻節子が記している。

「あの小さい虫、よき音して、鳴いてくれました。私なんぼ喜びました。

しかし、だんだん寒くなって来ました。

知っていますか、知っていませんか、すぐに死なねばならぬということを……可哀相な虫」

(『小泉八雲作品集』恒文社)。

 八雲が聞いたのは、古来の松虫だった。

あの都心のアオマツムシの音も、10月末には消えていた






われわれ今の日本人に虫の音を聞いている人たちがどれだけいるだろうか。

喧騒と雑踏の都会にあってはなかなかにそのような気持ちがわいてこない。

昔が懐かしいと同時にそのような虫の音を聞こうとする心が失われていっているのが悲しい。







全国各地の高校で世界史の「必修漏れ」が発覚





11月2日の天声人語からの引用


かたよらず、えこひいきなく平等に扱うこと。

手元の幾つかの辞書で「公平」を引くと、こんな記述が見える。

全国各地の高校で「必修漏れ」が発覚して以来、日本列島は生徒の公平な救済、

あるいは公平な決着を巡って揺れてきた。


 これまで学習指導要領に従って勉強してきた生徒と、そうではなかった必修漏れの生徒をどう扱うかが焦点だ。

ここで不公平感が広がれば、現場はさらに混乱しかねない。

 本来、必修の2単位をとるには50分授業を70回受けなければならないという。

これでもかなりの負担だが、必修漏れがその倍以上の生徒もいるそうだ。

そのすべてを履修させるのは、実際的ではないだろう。

 「生徒に瑕疵(かし)はありません」。

痛ましくも自殺した茨城県の校長先生の「お願い」は、現場を預かる人の思いを痛切に伝えている。

しかし、補習をほとんどしないのでは不公平感が広まるはずだ。

文部科学省には、混乱を速やかに収束させる責務がある。

 公立校での必修漏れが発端だったが、文科省の全国の調査では、私立校の方が履修漏れの率が高かった。

中高一貫校も目立つ私立では独特の教育課程を組む学校がある。

高校3年の分を2年までに終えてしまい、3年は入試対策に絞るところもあるという。

 私学に限らず、学校の独自性は大事だ。

しかし3年の4月にスタート地点に立った時、

一部の生徒たちだけが既に先の方を走っているという構図は真っ当と言えるのだろうか。

必修科目の学習よりも「先んずれば人を制す」を必修化しているような姿は、もの悲しい




なぜに決めたのちに文部科学省は監督していなかったのか。あわてて必須科目だといって慌てて学んでも身につかないだろう。

今年は大目に看過してよかったのではなかったのか。

教育基本法が成立した現在 愛国心 郷土愛を学ぶことが強制されることを非常に恐れる。






漢字の研究を続けた





11月3日の天声人語からの引用


「この絵のような文字で書いてみたい」。

日本語で詩を書くアメリカ人として知られるアーサー・ビナードさんは卒論研究で漢字と出会い、

90年に来日した。

 「田んぼに雨が降ったら雷も落ちる」。

学び始めたころは、こんな一文を頭の中で繰り返し、「雷」という字を覚えたという。

5年前には「中原中也賞」を受賞した。

 漢字と仲良くできたからこそだろうが、雷はまだしも、蕾(つぼみ)や霙(みぞれ)、靄(もや)ともなれば、

日本人でも読み書きがあやしくなりそうだ。

多くの外国人にとっては、複雑な漢字の群れは「迷宮」のように見えるのではないか。

 その迷宮の世界を一生の仕事とし、漢字の研究を続けた白川静さんが、96歳で亡くなった。

「絵のような文字」について述べている。

「漢字自体が、線の芸術として、はじめから完成されておるんです」

 「漢字は人という字をたった二画で描く……もう少し寝かせた姿勢では死んだ人になって、

つっかい棒をつけると久しいという字になる。

これを箱の中に入れると柩(〓(柩のつくりの部分))になる……一点一画で、

世界が変わるぐらいの表現ができるのです」(『回思九十年』平凡社)。

語り口には、漢字への愛着というより愛がこもっている。

 70歳を過ぎてから、「字統」「字訓」「字通」の「字書三部作」を仕上げ、一昨年には文化勲章を受けた。

「国語力の根底は漢字にあり、漢字を復権しなければ、東洋は復権しない」。

そんな信念でつくりあげた三部作だった。

漢字という巨大な迷宮が備え持つ美しさと奥の深さを、いつまでも伝え続けてゆくだろう。






漢字は日本が昔中国から学んだ文字である。その本家の中国では漢字が省略化され漢字の伝統がなくなってきている。

台湾を訪れたときに日本と同じ漢字が残っていることにきずいた。

仏教も釈迦が生まれたインドにはなく,日本を含め他の国でもって成長し維持されてきているのに似ている。






その岬の夕日を待つ間にカフェで書きかけ、
結局出さなかった手紙のことを、高倉健さんが





11月4日の天声人語からの引用


人はなぜか、最果ての地に心引かれる。

たとえば、ユーラシア大陸の西の果てとなるポルトガルのロカ岬。

アジアから延々と続いてきた大地が、そこで大西洋に沈み込む。

「ここに地果て、海始まる」。

そそり立つ絶壁の上に詩碑が立つ。

 その岬の夕日を待つ間にカフェで書きかけ、結局出さなかった手紙のことを、

高倉健さんが自著『あなたに褒められたくて』(集英社)に書いている。

それから何年も後、部屋を片づけていた時に、その手紙が出てくる。

気持ちが一気にロカ岬に連れ戻される。


そして、岬からそう遠くないサンタクルスという漁村にかつて住んだ作家、檀一雄の一句をつぶやく。

〈落日を拾ひに行かむ海の果〉。

 ロカ岬でペンを握りつつ、沈む夕日に向かう男の姿が、鮮やかに、そして切なく目に浮かんでくる。

最果てとの取り合わせが、これほどしっくりとくる役者も少ないだろう。

 「南極物語」や「八甲田山」といった実際の地の果てや秘境の映画だけではない。

「昭和残侠伝」のような任侠(にんきょう)映画も、いわば「いのちの最果て」の物語にみえる。


極限の地や、極限の立場に置かれた人を演じてきた高倉さんが文化功労者に選ばれた。

 以前、こう述べたことがある。

「孤独な作業に命をさらし……揉(も)まれに揉まれ悶(もだ)え苦しんだ者だけが

やさしくてしなやかな心を持つことができる。

僕はそういう人間に感動しますね」(アサヒグラフ)。

 デビューから半世紀になる。

役は様々に変わっても、悩みや苦しみの果てに宿るやさしさを、伝え続けようとしているようだ。






悠遠の時間の中で一刻を過ごしているのが人類を含む全ての生けるものの宿命である。

極限の世界には興味はあるが,其の所に行きたいとは思わない。

極限状態を生きた第二次大戦中に生きなければならなかった人たち 主に兵隊に取られた人たちの境遇を哀れに思う。

其の人たちは自分達が好きで進んで求めて極限状態にいったのではなくて,仕方なくやらされたのである。

それでも当時の時代の雰囲気としては自分から求め行ったような時代であった。

再びそのような強制されない時代がこないことを願う。






「幻の魚」と形容したイトウの、今年生まれた稚魚だ





11月5日の天声人語からの引用


メダカより少し大きめの魚が、水槽の中を群れになって泳ぎ回っている。

作家の開高健さんが「幻の魚」と形容したイトウの、今年生まれた稚魚だ。

北海道の南富良野町で、イトウの養殖施設を見学した。

 成魚では1メートルを超えるものもいる。

日本最大級の淡水魚で、天然には北海道の限られた川にしかいない。

環境省から絶滅危惧(きぐ)種に指定されている。

漢字ではサカナへんに鬼と書く

それもうなずけるほど、重厚な面構えだ。

「個体数は少なく美味で、釣り人の垂涎(すいぜん)の的」。

広辞苑も辞書としては異例のほめようだ。


 81年に町の職員に採用されて以来、養殖を任されている浪坂洋一さん(44)によると、

当初は失敗の連続だった。

獰猛(どうもう)で、警戒心が強い。

エサを食べなかったり、病気にかかったりして、全滅したこともあった。

 8年ほど前からようやく軌道に乗ってきたが、今でも出荷できるのは、年に100匹から200匹ぐらいだ。

そのため、町民しか購入できないことになっている。

 1匹約4千円だが、採算は合わない。

成魚になるまで7年以上かかり、経費がかさむからだ。

東京や札幌に出荷できるほどの生産量は今後も難しいという。

生きたままでの出荷はしない。

河川に放流されれば、生態系を崩しかねないためだ。

 開高さんは根釧原野で2匹を釣り上げた。

刺し身について、こう書いている。

「肉は淡紅色で、美しく、とろりとした舌ざわりである」
(『私の釣魚大全』文芸春秋)。

町のレストランで刺し身数切れを食べてみたが、大家の筆に付け加えることはなかった。




魚偏に鬼と書く珍しい魚のいることを知った。パソコンでイトウを漢字変換しても出てこない。手書きで書いても

出てこない。インタ-ネットで検索してみると以下のような項目が出てきた。

「・・・・・それほどに珍しい魚なのだろうか。国際自然保護連合(IUCN)は2006年版レッドリストにイトウを初めて掲載しました。

ランクは「絶滅の危険が極めて高い」(CR)です」





いまやあたり前の参政権を、
女性は60年前にやっと手にした






11月6日の天声人語からの引用

 古びた選挙ポスターが、女性に投票を呼びかけている。

「皆さんは男性よりもずっと鋭い直感力と云(い)ふか一種のカンを持って居られます。

人物の真偽をそのカンで嗅(か)ぎ分け、必ず真(ほん)ものに投票せられるでせう」

 国会議事堂近くの憲政記念館で開かれている「女性参政60年特別展」(17日まで)で見かけた。

戦後まもなく文部省が作った。

いまやあたり前の参政権を、女性は60年前にやっと手にした。

その事実に改めて驚かされる。

 長い苦難の道があった。

大正時代のビラは「与えよ一票婦人にも」と訴えた。

昭和の初めには、与謝野晶子が「婦選の歌」に「男子に偏る国の政治 久しき不正を洗ひ去らん……」と書いていた。

 そんな中、明治初期の文書が目を引く


約130年前のものだ。

浜松県(現静岡県)では16歳以上の戸主に、宮城県の長町村(ながまちむら)(現仙台市)では20歳以上に、

男女の別なく選挙権を与えたと書いてある。

一部の地域ながら、女性に参政権があった。

 まだ中央政府の統制が緩く、多様な自治がある分権社会だった。

それが集権化につれて、女性は政治から締め出された。

時代が巡り、分権改革が論じられるいま、参考になる歴史の一断面だろう。

 約80人いる現職の女性国会議員の一言集も並んでいる。

46歳の衆院議員は、こう問いかけている。

「私が生まれる少し前まで女性に参政権がなかったなんて信じられません。

でもせっかく手にした参政権を行使しないでいるなんてもっと信じられません」。

衆参両院も地方選も、女性より投票率が低い傾向にある男性も耳が痛い。





国民の投票権は非常に尊い。それが義理・人情やそしてお金とか利益誘導でもって買われてしまうのが悲しい。

頑固な地盤とかはそのようなものであることが多い。

真剣に政治のことを考え一票を投じる時代が来て欲しいものである。

アイドル的な人物が多くの票を集める現象はきわめて不健康な現象である。






イラクの法廷で死刑を言い渡された
フセイン元大統領の映像は





11月7日の天声人語からの引用


口をかっと開き、人さし指を突き立てて叫ぶ。

ゴマ塩ひげの口元に締まりはないものの、眉根を寄せた両の目は鋭く光る。

イラクの法廷で死刑を言い渡されたフセイン元大統領の映像は、とらわれ、

裁かれる元独裁者の姿を伝えていた。


 「裏切り者に死を」「帝国主義の侵略者に死を!」と叫び、

裁判長を「おまえは占領者の召使だ」とののしった。

左手にはイスラム教の聖典コーランを持っていた。

 約20年間、フセイン大統領の主治医を務めたというアラ・バシール氏の『裸の独裁者 サダム』

(日本放送出版協会)に、

大統領の執務室に掲げられていたコーランの一節が出てくる。

それはガラスつきの額縁に入れられていた。

 「我らが真理を掴(つか)んで虚偽にはっしと投げつければ、向うはたちまち頭を割られて……気が抜けてしまうぞ」

(井筒俊彦訳・岩波文庫)。

この警句的なメッセージは「大統領に面談した者の何人かに向けられたものだろう」と、バシール氏は書いている。

 自らだけが「真理」であり、周りはみな「虚偽」であるかのようにして支配する独裁者が、

圧政の罪を問われることはありうる。

元大統領にも、その責任があるだろう。


しかしこの裁判には、独特の据わりの悪さがある。

 形の上ではイラク人による裁きだが、イラクに攻め入り占領した米国の影がつきまとう

ブッシュ・共和党政権の苦戦が伝えられる中間選挙が間近に迫った。

イラク国内向けの「独裁者への復讐(ふくしゅう)」と、米国への「イラク戦争の成果」のアピールとが入り交じり、

濁りを生んでいる。







「勝てば官軍」であってはならない。このなんとなく使っている言葉の中にも深い意味がありそうだ。

天皇絶対思想が含まれているのか。フセイン統治下は 今の北朝鮮の政治状態と似ていた。

政権下の絶対者には服従を強いられるものである。時代が変われば善悪も変わるようなことがあってはは困りものである。

今の世界はアメリカの統治下にあるともいえる。

絶対公平な国連機構の強大化を求める。フセイン大統領もそこで裁判を受けさすべきである。







 ヒポクラテスの「医師の心得」にこんな一節が





11月8日の天声人語からの引用


古代ギリシャの医師ヒポクラテスが述べたという。

「人生は短く、術のみちは長い」。

術は、医術を含む学術、技術を指す。

「機会は逸し易く、試みは失敗すること多く、判断は難しい」と続く(大槻真一郎編『ヒポクラテス全集』)。

 医学の祖とされる人物でも、というべきか、だからこそというべきか、

人間の健康・生命とじかに向き合う医の道の深さ、難しさへの謙虚な述懐と戒めが感じられる。

患者から医師への信頼が深まるのは、こうした態度が確認できた時だろう。

 愛媛県宇和島市の宇和島徳洲会病院の臓器移植を巡る問題では、移植手術への疑念が広がる一方だ。

執刀医の説明が覆されたことも一因だ。

先月「これまでの移植は親族間だった」と述べていた。

しかし、今月この病院が発表した、病気で摘出した腎臓移植のすべてが非親族間だった。

 この執刀医は、親族以外での生体移植に厳しい条件を課す日本移植学会を脱退している。

移植では患者の同意を得てきたといい、症例が集まる5年ほど後に雑誌などで発表する予定だったと述べた。

 これには専門家から批判が出ている。

「言葉を換えれば人体実験であり、それを行うには厳密な臨床研究遂行のための手続きが決められている。

それなしに進める判断は、通常の理解を超えている」


 ヒポクラテスの「医師の心得」にこんな一節がある。

「研究用にしてやろうという欲求などはもってのほかである」(『古い医術について』岩波文庫・小川政恭訳)。

ヒポクラテスが、時を超えて、現代の医の心得を問いかけている。





医師の立場としてヒポクラテスの言葉は時代を超えての至言である。目の前にいる患者を救いたいのはどの医師も同じである。

しかしそこには医師としてのルールがある。今回移植によって助かった人たちは良いが,移植に使われた腎臓は不透明である。

そこで被害をこうむった人がいるならばやはり大いなる問題が残る。




ブッシュ氏への風当たりと不人気は
かなりのものかと思っていたら






11月9日の天声人語からの引用

 あのアメリカの大統領が応援演説に駆けつけたのに、当の候補が居ない。

米・中間選挙の最終盤に、フロリダ州で大統領がすっぽかされたという。

ブッシュ氏への風当たりと不人気はかなりのものかと思っていたら、選挙結果もそうだった。

 民主党が躍進したというよりは、ブッシュ共和党政権に対して国民がついにブレーキをかけたようにみえる。

9・11同時多発テロ以来二つの戦争に踏み切り、イラクでは今なお出口が見えない。

このいらだちやあせりが票を動かしたのだろう。

 選挙の結果は政権には大きな痛手だが、米国全体や世界にとってはどうか。

国際社会からの疑問を振り払うような単独行動主義にブレーキがかかるとすれば、歓迎する国は少なくないだろう。

唯一の超大国として独走することに疲弊感を抱いたり、ここで一時立ち止まることを望んだりした米国民もいるはずだ。

 230年前に独立した時、アメリカは北米大陸の中の、新しい一つの国でしかなかった。

初代大統領となったワシントンは、3期目には立候補しないことを表明した後、議会で決別の演説をした。

 「ある特定の国々に対して永続的で根深い反感をもったり、

他の特定の国々に対して深い愛着をもったりせず、かわりに、

すべての国に対して正当で友好的な感情を育むことが何よりも重要である
」(井上一馬・編著『後世に伝える言葉』小学館)。

 生まれたての国の未来を案ずる切実な思いが伝わってくる。

超大国としてではなく、世界の中の一つの国として、建国の父の精神を思い起こす好機だ。





通常兵器での超大国であったとしても,広島核爆弾より何倍も強力な水爆があれば,

核爆弾が10発もあれば,地球上には人類が住めなくなることを肝に銘ずるべきである。

国連の強化が急務である。



米・中間選挙での敗北を認めた
ブッシュ大統領が用意していたのは






11月10日の天声人語からの引用


古代の中国に馬謖(ばしょく)という武将が居た。

軍師の諸葛孔明に重用されたが、ある戦いで命令に背き大敗する。

孔明は泣いて馬謖を斬首にしたというのが「泣いて馬謖を斬(き)る」の故事だ。

 「共和党を代表する者として大きな責任がある」。

こう言って米・中間選挙での敗北を認めたブッシュ大統領が用意していたのは、

ラムズフェルド国防長官の更迭だった。

こちらは、規律を保つというより自らの責任をあいまいにする首切りにみえる。

 多くの人命と国の命運がかかる戦争は、政策を超えた歴史にかかわる選択だ。

その選択に対して国民が投げかけた大きなノーの行き先が、イラク戦争の担当閣僚にとどまるはずはない。

戦死した米兵や各国の兵だけではなく、おびただしいイラク人の犠牲とどう向き合うかが大統領には問われている。

 イソップに「戦争と傲慢(ごうまん)」という話がある。

神々が結婚式を挙げ、各々(おのおの)伴侶が決まった時、戦争(ポレモス)は皆に遅れて到着した。

そして、一人しか残っていなかった傲慢(ヒュブリス)をめとる。

 戦争が傲慢を恋い慕うこと一通りではなく、この女神の行く所どこへでもついていった。

「されば、傲慢が民衆に笑みを振りまきながら、諸国民諸都市を訪れることのないように。

その後から、たちまち戦争がやって来るのだから」(『イソップ寓話集』岩波文庫・中務哲郎訳)。

 ラムズフェルド氏については、以前から、おごりともとれる姿勢が指摘されていた。

大統領は、その「傲慢」を常にそばに置き、称賛してきた。

どこか、ポレモスと重なってみえる。




ラムズフェルド氏の更迭だけでなくブッシュの脳みそも交換しないと世界に平和はもたらせない。






教育改革タウンミーティングで
「やらせ質問」があった問題







11月11日の天声人語からの引用

 段取り、根回し、すり合わせ、落とし所に駆け引きも。

会議や集会を滑らかに進める名目で、古来世間で用いられてきた「手口」の数々だ。

裏に回っての下準備には暗さがつきまとうが、やり方次第で会議の運びが変わることはある。

 政府が主催する教育改革タウンミーティングで「やらせ質問」があった問題で、

文部科学省が質問案づくりに積極的にかかわっていたことが分かった。


教育基本法を所管する文科省が、その改正などについて自らの意向に沿う内容の発言が

会場から出るように仕組んでいたという。

 これは古来の「手口」から大きく外れている。

やらせによる発言が開催地での意見や質問とされたのでは、「世論の偽造」と言われかねまい

会議の運びや省益にとらわれることなく、慎重にことを運ぶべきだった。

タウンミーティングを始めたのは小泉前首相で、安倍首相は官房長官としてその責任者だったことがある。

 もう一つ、政府として慎重に運ぶべきだったと思われるのが、

総務相によるNHKの短波ラジオ国際放送への放送命令だ。

放送法で、命令を出す権限は認められている。

重点的に扱うよう命じた「北朝鮮による日本人拉致」は、確かに重要な問題だ。

しかし、将来どんな名目が出てくるかは分からない。


 何より、メディアに対し、政府が命令して放送をやらせるという構図が前時代的だ。

戦後も60年以上たったが、この国の言論の自由の危うい一面を考えさせられる。

 やらせにせよ、やらせるにせよ、権力が世論やメディアを操っていいはずがない。


やらせは世論操作の前兆ではないか。言論界の人たちもそのことにきずいてはおられないのだろうか。

時代の流れが変わりつつあることが問題なのである。

小さな流れが濁流にい変われば誰もはそれを止めることはできないだろう。





チンパンジーやオランウータン、ゴリラ、ボノボ

計16匹が描いた26枚の絵の展覧会が







11月12日の天声人語からの引用

チンパンジーやオランウータン、ゴリラ、ボノボ。

計16匹が描いた26枚の絵の展覧会が、名古屋市の東山動物園できょうまで開かれている。

 子どものいたずら描きのようなものもあれば、巨匠の抽象画のように見えないこともない作品もある。

油絵や水彩、クレヨンなど、手法は様々だ。

色も自分で選ぶ。

大胆な線を得意とする者がいる一方、点描に執着する者もいる。

担当者は「それぞれ個性があり、作風がある」と話す。

 特にうまいのは、京大霊長類研究所のチンパンジー、アイ(メス30歳)だ。

数や文字を覚え、天才として知られるアイには芸術の才もあるようだ。

迷いのない筆づかいで、配色にセンスが感じられる。

 研究所の所長で、育ての親の松沢哲郎さんによると、大型の類人猿はだれでも絵を描くことができるという。

「ヒトと同じで、好きか好きでないか、うまいかへたかはありますが、みんな自分で創造的に取り組んでいます」。

研究所のホームページでも、作品や制作風景を見ることができる。

 オランウータンでは、多摩動物公園のモリー(メス、推定54歳)は、個展を開いたこともあるベテランだ。

淡い色づかいで、東京・銀座の画廊に置いても不思議ではない、と言えば言い過ぎか。

 東山動物園から唯一出品しているのが、オランウータンのアキ(メス22歳)だ。

昨年初めて授かった子どもが10日余りで死んでしまった。

落ち込んでいたアキを励ますため、飼育係が画用紙とクレヨンを渡したところ、絵を描き始めた。

ヒト同様、絵には癒やし効果があるようだ。







絵画とかは其の見る人によって大いに評価は変わるものである。数学の正解は一つだが,絵画は時代とともに,そして見る人の心によって変わってくる。

なぜこんな絵が良いのかわからないと思うことが多々ある。自分の頭が劣っているから理解できないのだと諦めることが多い。

だがそのわからないと思う心が全くの正解なのかもしれないなのが芸術の世界とおもうのだが。







やはり弱い者に対する攻撃が、
いじめの中心にあることがうかがえる







11月14日の天声人語からの引用


「力が弱い・無抵抗だから」「いい子ぶる・なまいきだから」「よくうそをつく」「動作が鈍い」??。

いじめによる事件で昨年検挙・補導された児童・生徒326人について警察庁が動機を調べると、

こうした答えが目立ったという。

やはり弱い者に対する攻撃が、いじめの中心にあることがうかがえる。

 いじめられている子どもの声に耳を澄ますことが肝要だが、

被害者203人について調べると、誰にも相談しなかったのが35%あった。

01年の7%から急増している。

 被害者が孤立する傾向がみえるが、一昨日埼玉県で、

「同級生から金銭を要求された」と学校に相談していた中学3年生が自殺した。

大阪府では、学校側が中学1年生に対する別の生徒からの嫌がらせをつかんでいたのに自殺に至る事件があった。

 深刻さを増すいじめだが、絶つ手だては無いのだろうか。

弁護士で、江戸川乱歩賞を受けた作家でもある中嶋博行さんが新著『君を守りたい』(朝日新聞社)に、

茨城県の筑西市立下館中の「君を守り隊」の活動を紹介している。

 10年前に教師が呼びかけ、生徒が自主運営する「守り隊」ができた。

生徒一人ひとりが隊員となり、いじめの情報収集やパトロールを始めた。

やがていじめは見られなくなり、4年前にパトロールをやめても変わりはないという。

 「いじめをしない、させない、許さない、そして君を守りたい」。

この発足時のスローガンから隊の名がついた。

どの学校でも可能とは言えないが、いじめの深い闇を照らす一条の光になり得ると思いたい






いじめる側は「集団」である。一方いじめられる方は「一人」である。この法則は大体変わりはない。

昔の軍隊では上官「一人」によって「多数」の部下がいじめられたことがあった。

上官には後ろに大いなる権力が輝きましていた時だからできたことである。

今の子供のいじめ問題は集団対一人の構図が多い。防ぎようは昔の構図に戻すかどうかであるが。

教育勅語 軍陣訓のような思想を教え込むことになるのか。

いじめをしない させない 許さないそして君を守りたいの考えが普通で,この教育をば徹底させるべきである。







最近の言葉から。




11月15日の天声人語からの引用


「君には絶対にこの手紙を読んでほしくない。

だって、読むということは、ぼくが死んだということなのだから」。

戦場へ行く前、死後に開封する約束の手紙を婚約者に託した英国軍兵士リー・ソーントンさんが、

イラクで銃弾に倒れた。

 「ずっと前から、そして今も、人々は政治家のために殺されている」。

太平洋戦争の硫黄島での攻防を描いた映画「父親たちの星条旗」の監督、

クリント・イーストウッドさんが仏紙に述べた。

 歌人で歌会始の選者も務める岡野弘彦さんの15年ぶりの歌集の題は「バグダッド燃ゆ」。

〈砂あらし 地(つち)を削りてすさぶ野に 爆死せし子を抱きて立つ母〉。


「若者に死を強いる戦争は、人類の自殺ですよ」

 高知競馬のハルウララの引退が決まった。負けても負けても、走り続けた。

「高知競馬がこれまで存続できたのはハルウララブームのおかげといえる。

今は、ご苦労さまと言ってあげたい」と県競馬組合管理者の井上健一さん。

 「観音様のご褒美かな」と、文化勲章を受章した瀬戸内寂聴さん。

「生きるとは愛すること。世の中をよくするとか戦争をしないとか、その根底には愛がある。

それを書くのが小説」

 フランツ・カフカ賞を受けた村上春樹さんが、チェコのプラハで会見した。

カフカは「もっとも好きな作家のひとり」。

「ノーベル賞候補」に絡めた質問には、やれやれといった感じで答えたという。

「ノーベル賞については誰からも何も言われてないし実際、何の賞にも興味ないんです。

僕の読者が、僕の賞です」







戦争では多くの命が一度に失われてしまう。一方病院では多くの医療者によって一つの命を救うため日夜努力されている。

この矛盾に早くきずいてほしいものである。「平和」の大切さがわかるはずだ。






商売では、客のふりをして
他の客を買う気にさせる役を言う








11月16日の天声人語からの引用


「サクラ」と言えば、聞こえはそう悪くないが、要するに「回し者」だ。

商売では、客のふりをして他の客を買う気にさせる役を言う。

官製のサクラが、列島のあちこちで咲いていたことが分かった。

 政府主催の教育改革に関するタウンミーティングの「やらせ」に端を発した問題が広がっている。

内閣府が事前に発言を依頼していたサクラの質問者には、謝礼が支払われていたという。

 このサクラの問題や、全国各地の高校で発覚した必修科目の履修漏れで、

教育基本法の改正を審議するはずの衆院の特別委員会は揺れた。

採決を巡る綱引きが続いていたが、与党は昨夕、野党が欠席したまま可決した。

 サクラへの謝礼について、政府は「議論の口火を切ってもらう役割を担ってもらった謝礼」「

全く問題視していない」という。

しかし、あたかも自然な発言のように装ったという問題は残るのではないか。

サクラよりも悪質なやらせが、教育基本法の改正という国の未来にかかわる重要なテーマを論ずる場で

繰り返されていたことも深刻だ。


 履修漏れにしても、なぜ起きたのか、これからどうして防いでゆくのかについて、国会では深い論議が見られない。

この原因は、個々の校長の間違いなどといった段階の問題ではない。

全国の教育の現場に「組織的な狡(ずる)」を誘いかけるような仕組みが問われている。

 今の教育の根本を見つめ、より公正な姿や仕組みを求めて審議を尽くすのが、本来の国会の役目ではないか。

採決は、やらせやサクラのない会議を開き直してからでも遅くない





何か今の世相・政治の流れは日本が戦争ができる国,普通の国になる道を歩んでいるように思えてならない。






知事選で支援を受けた企業を、
受注先の共同企業体に参入させた疑い







11月17日の天声人語からの引用


和歌山市生まれの作家・有吉佐和子が、40年前に本紙の「舞台再訪」に、こう書いている。

「記憶に残っている最初の紀ノ川は、私が八歳のとき見たものである」。

生後、父親の勤務地・インドネシアに渡って、帰国した後のことだった。

 「その青く静かでゆうゆうたる流れは鮮烈な印象であった」。

後年、この川を舞台にして小説「紀ノ川」を書く。

「作品のモチーフになったのが、このときの感激であったのはいうまでもない」

 紀の川は、和歌山県の北部を東西に貫いて流れている。

その流域での県の下水道工事を巡る談合事件で、木村良樹知事が大阪地検に逮捕された。

04年の入札の際、この年の知事選で支援を受けた企業を、受注先の共同企業体に参入させた疑いがあるという。

 先月、福島県の前知事が汚職で逮捕されたばかりだ。

県政のトップが相次いで逮捕されるとは、この国の地方自治体のありようが懸念される。

福島の知事は5期目で、多選の弊害が指摘されたが、和歌山の方は2期目だった。

 木村容疑者は、知事としてこう述べたことがある。

無駄を排除した形の公共事業を行っていく必要があります……例えば、釘1本が本当は10円なのに、

それを15円で買って工事をしてもみんなが潤う。

だから、まあいいじゃないか、ということでいろいろな公共事業が行われてきた」


(『地方が変わる、日本を変える』ぎょうせい)。

 言ったこととは裏腹に、税金を食いつぶす談合に自ら手を染めていたのだろうか

悠久の紀の川の流れを汚すような、深刻な事態だ。






税金はお役人のために支払つているのではない。住民みなの生活向上に支払っているのである。

お役人が自己に厳しくありすぎても,ありすぎることはない。







営利企業に「天下りポスト」を要求することや、
出身省庁への「口利き」には刑事罰を科すそうだ。





11月18日の天声人語からの引用


世の中には、物は言いよう、ということがある。

「改定します」が値上げだったり、「しつけ」が虐待、「工夫」は、やらせで、「相談」が談合だったりする。

 政府が、今の天下りの規制を改定する目的として持ち出しているという「交流」も、油断がならない。

官と民の人材交流を進めるために、国家公務員の営利企業への天下りを原則2年禁じた規制を撤廃する方針だという。

代わりに、営利企業に「天下りポスト」を要求することや、出身省庁への「口利き」には刑事罰を科すそうだ。

 「ポストの要求」や「口利き」を、どうやって証拠づけるのだろうか。

表に出ないように隠れてやっていることだ。


それを引きずり出してきて罰するには、かなりの要員や手間が要るはずだ。

 それよりも、「要求」や「口利き」ができないように、天下りを原則として禁止し、

規制の対象を営利企業だけではなく、公益法人などへ広げる方が先ではないか。

そもそも、官、業の癒着の中核に居る政府に、きちんとした規制ができているのだろうか。

すべての天下りを把握し、追跡して情報を時々刻々公開するような仕組みが必要だ。

 天下りそのものは、民間企業にもある。

大きな組織には、つきものともいえる。

しかし、長年「公」の仕事をしてきた人が、その経歴や地位を使って企業など「私」の利益を図ることが

「公」のためになるとは到底思えない。


 この因習を絶つ方向をめざして、歩を進める時だ。

官と民の「交流」は必要だが、間違えば、それは時代への「逆流」になりかねない。





お役人には己に厳しくあつてもありすぎることはない。自分でできできなければ法律を作り厳しく監視することになる。

悲しいかなその法律を作るのにもお役人が関係しているのが今の政治の世界である。

立法 行政 司法の三権分立は小学校 中学校 高等学校の時に習ってはいるが,現実は一つのようにしか見えてこない。







京浜急行の京急蒲田駅1番線ホームは、
非常に特殊なホームだ。





11月19日の天声人語からの引用


東京の品川方面から来た電車も、反対側の横浜方面から来た電車も、同じ1番線ホームを使って羽田空港に向かう。

羽田からの電車も、1番線ホームに停車した後、品川に向かったり、横浜に向かったりする。

 京浜急行の京急蒲田駅1番線ホームは、非常に特殊なホームだ。

右からも左からも電車が入ってくる。

慣れない人はびっくりするだろう。

ホームの至る所に、「行き先を確認してご乗車ください」という表示がある。

 山岳鉄道にはあるが、都市部では珍しい「スイッチバック」方式を採用している。

横浜方面と羽田を乗り換えなしで結ぶための工夫だそうだ。

素人には複雑に見えるが、京急によると、これまで特に事故はないというから、日本的な技術の粋なのだろう。

 とはいえ現状は、線路などの用地の関係で無理を強いられているため、改良工事が進められている。

工事がすめば、羽田との直通電車をかなり増やすことができるという。

 羽田空港では3年後を目標に、4本目の滑走路が計画中だ。

完成すれば、国際線の定期便も就航する予定だ。

今のところ羽田を利用するのは、国際線の中でも近距離の便になる見通しだそうだ。

成田空港より都心に近いため、羽田発着の便に乗りたいという利用客は多いだろう。

 空港と浜松町を結ぶ「東京モノレール」は、五輪に合わせて64年に開業した。

京急が羽田に乗り入れたのは98年だ。

モノレール側も途中の駅に待避線をつくって、快速を増発する予定だ。

両社とも安全を大前提とした上で、利用しやすい交通機関を追求してほしい。





東京は肥大化しすぎてはいないだろうか。此のあたりから考えないと交通の複雑さはいつまでたっても解消されないだろう。





深谷市は、ずっと前に映画館が消えていた





11月20日の天声人語からの引用


埼玉県深谷市に住む竹石研二さんが「映画館をつくろう」と考えたのは、8年前、50歳の時だ。

これから本当にやりたいことは何か。

思い浮かんだのが映画だった。

若いころに映画専門学校で学び、児童映画の企画や上映に携わったことがある。

 ネギや花の生産で知られる深谷市は、ずっと前に映画館が消えていた。

竹石さんは生協を辞め、NPO法人をつくった。

狙いは商店街の空き店舗だ。

市が再開発のため買い取った銀行の建物を貸してくれた。

02年7月、深谷シネマが生まれ、中国映画「山の郵便配達」を上映した。

 「銀行は天井が高く、スクリーンを置くのにちょうどよかった。

映写室は金庫室の壁をくりぬいてつくったのです」と竹石さんは語る。

だが、観客はなかなか増えなかった。

約50席あるのに無人の時もあった。

それでも観客に見たい映画をアンケートし、それをもとに映画を選ぶことを続けた。

 「半落ち」や「たそがれ清兵衛」の話題作から米国、アジアの映画と作品は幅広い。

吉永小百合さんの特集も組んだ。


客は1日に100人を超えるようになり、この秋、計10万人になった。

 竹石さんは深谷シネマに先立って、苦い教訓がある。

近くの店舗を借りて仮設の映画館をつくった。

パイプいすに、冷暖房もない。

しだいに客足が遠のいた。

今度は、ゆったりとした席に、ひざ掛け、座布団、スリッパ、足置き台までそろえた。

 今週は「往年の名女優特集」だ。

高峰秀子さんの「稲妻」や司葉子さんの「紀ノ川」。

こんな映画館が自分の街にもあったらいいな、と思う。





映画館は町の中心街から減っていっている。近くに5-6館が一箇所にあり好きな映画が見られるところがあるる

そこは買い物もできて自動車の駐車場がある。

それに映画のDVDも安価になってきて寝ながら映画を見ることもできる。それも何度も繰り返し見られる。

又衛星放送テレビで毎日映画が何本も放送されている






沖縄県知事選で




11月21日の天声人語からの引用


沖縄が日本の他の地域と最も異なるのは、米軍基地という「外国」を飛び抜けて多く抱えていることだ。

その「外国」を通じて、世界の戦場とつながっている。

独特の緊迫感が、沖縄にはある。

 沖縄県知事選で、自民と公明が擁立した仲井真弘多氏が、民主や共産、社民などが推した糸数慶子氏を破った。

「経済の活性化」を優先して投票した人が、「米軍基地問題」を優先した人を大きく上回り、

仲井真氏への追い風になったようだ。

 焦点の米軍普天間飛行場の移転問題で、仲井真氏は、

名護市にV字形滑走路を造る政府案に「現行のままでは賛成できない」としつつ、

県内移設は容認する構えを示した。

この「賛成できない」というところに、経済面だけでなく、基地問題にも取り組む姿勢を感じ取ったり、

そう期待したりした人もいたのだろう。

 糸数氏は「若い人に、基地の訴えが届きにくくなったのは事実」と述べた。

基地問題をどう訴えるかを巡って、陣営内で論争が起きたという。

世界の戦場とつながっているという緊迫感にも変化が生じているのだろうか。

 大田昌秀・前知事が1972年の本土復帰の数年前、雑誌「世界」に書いた。

「海岸線一帯に累積している無数の死骸(しがい)を前にしてわたしが考えたことは、

この惨状を正当化しうる名分は、何にもありえない、ありえようはずがないということであった」。


45年、学業半ばで沖縄戦に動員された。

 実体験の戦場の記憶は薄れようもないが、若い層への継承はどうなのか。

戦後61年の時の流れをも考えさせる結果となった。






沖縄に一度旅行したことがあった。海はすごく蒼くきれいで日本本土ではみられないだろう。

そして人情こまやか食事も悪くなく言うことがなかったが,観光地めぐりが沖縄戦での旧防空壕とかで,

日本の土地なのに何故に一等地をアメリカ軍に提供しないといけないかの疑問だった。いたるところにアメリカ軍の基地があった。






慶応義塾大が、共立薬科大と合併するという。






11月22日の天声人語からの引用

 「今ここに会社を立てて義塾を創(はじ)め、同志諸子、相ともに講究切磋(せっさ)し、もって洋学に従事するや……」。

『福沢諭吉教育論集』(岩波文庫)の「慶応義塾の記」の一節だ。

当時の年号を塾名に取り入れたとある。

諭吉が、義塾の元の蘭学塾を江戸に開いてから、2008年で150年になる。

 記念の年を前に改革を模索してきた慶応義塾大が、共立薬科大と合併するという。

日本の私立大の草分けの一つと、昭和の初めに創立され、薬学分野で伝統のある私学との統合だ。

より総合大学化することで、双方の学生が学びやすくなるのなら歓迎だ。

 大学を受験する年齢の人口が減ってきて、間もなく「大学全入」の時代になるという。

数字の上ではそうだが、受験生が一部の大学に集中することも考えられる。

生き残りをかけた合併や学内の改編は、繰り返されてゆくだろう。

 大学の草創期には一文字が多く、二文字になり、四文字やカナ交じりになったのが学部の名称だ。

法、理、医から経営、家政や国際が現れ、知的財産、危機管理、国際文化、マンガ、キャリアデザインも登場した。

世の中の多様化を映しているのだろうが、扱う分野がすぐには分かりにくいものもある。

 「慶応義塾の記」は、こう続く。

「士民(しみん)を問わずいやしくも志あるものをして来学せしめんを欲するなり」。

塾の精神を広く知らせるため印刷、配布された。

 時は移り、各大学が「志あるものを来学せしめんと」知恵を絞る時代になった。

せいいっぱい広げた大学の翼をしっかり見比べる力を、高校では養いたい。



慶応大学に薬学部ができればさらに医学の発展に貢献されることだろう。






東京の「台東区立一葉記念館」が
今月、新装なって開館した。







11月23日の天声人語からの引用


ほのかに、新しい木の香が漂う。

外が見通せる明るい階段の先に、二十と四年で世を去った明治の人の世界があった。

 作家・樋口一葉にちなむ資料を所蔵する東京の「台東区立一葉記念館」が今月、新装なって開館した。

木の香りは懐かしさを誘うが、打ち立てのコンクリートの壁からは資料を劣化させかねないガスが出るという。

紙の資料は複製が展示されている。

 館内を巡って、短く、しかし強く生きた一葉の生涯をたどると、改めてその際立った心意気が思い出された。

22歳の年の日記にこう記した。

「人情かみの如くうすく……世はいかさまにならんとすらん……わがこゝろざしは国家の大本にあり」

 一方に、あの「たけくらべ」の哀切な世界がある。

「廻れば大門(おおもん)の見返り柳いと長けれど、

お歯(は)ぐろ溝(どぶ)に燈火(ともしび)うつる三階(がい)の騒ぎも手に取る如く……」(岩波文庫)。

吉原の遊郭という独特な場所の周辺に生きる人々の思いを、見事に描き出した。

 森鴎外主宰の雑誌「めさまし草」の合評欄に「たけくらべ」に関する一節がある。

「此人の筆の下には、灰を撒きて花を開かする手段あるを知り得たり……

此人にまことの詩人といふ称をおくることを惜しまざるなり」

 館を巡り終えて、まことの詩人の肖像が印刷された札を、

1枚取り出してみた。

他の札と違って、5千円は札束にはなじまないようだ。

使われる時も1枚だけのことが多い。

一葉は、札になっても一葉か。

それが、やや切なくもあり、あの心意気の高さにはふさわしいようでもあった。

今日が、命日にあたる。




美人薄命で才能をもっと生かし続けられなかったのかと残念である。






「いざなぎ景気」を超す最長の景気だと






11月24日の天声人語からの引用


「いざなぎ景気」を超す最長の景気だと、政府は言う。

しかし多くの国民にとっては、実感がないというのが実感ではないか。

この景気を何と呼べばよいのだろうか。

 戦後の景気の名前の多くは神話に由来している。

終戦の約10年後からの「神武景気」は、「神武天皇以来の景気」の意味だった。

 次の「岩戸景気」は、神武よりさかのぼる「天の岩戸」以来の景気、だった。

「いざなぎ景気」は前の二つよりも長いので、日本の国をつくった神と伝承される

「伊弉諾(いざなぎの)尊(みこと)」から付けられたという。

 80年代後半に始まった今で言う「バブル景気」の頃、本紙ウイークエンド経済編集部が景気の名前を募集した。

一番多かったのは、やはり「バブル(泡)景気」で、

好景気で浮かれている一握りの人以外には「吹けば飛ぶような」恩恵しかなかったという意見が多かった。

「まぼろし」「ペーパー」「からくり」なども寄せられ、編集部の案は「アワおどり景気」だった。

 「岩戸」や「いざなぎ」の頃は、年平均の経済成長率が10%以上あった。

焦土から立ち上がり、国際社会に復帰し、大量消費社会に突き進んでいった。

がむしゃらな時代の息づかいが、「日本始まって以来」の思いと共に、景気に付けた神話の冠ににじんでいる。

 今回の成長率は2・4%だという。

数字には仕掛けもやらせも無いはずだが、「サクラ景気」が思い浮かぶのはあのタウンミーティングのせいか。

数字の上だけの「見せか景気」、あるいは、好況と言われても晴れない「もやもや景気」なのかも知れない。







今の世の中景気がよいと思っている人は誰なんでしょうか。少なくとも国民が等しく中流意識を持てていた時代が懐かしい。

競争競争で世の中ギスギスしたのはどこの誰なのでしょうか。






少女の朝の数十分の生活を知ったとき、わたしは衝撃を






11月25日の天声人語からの引用


筋肉のマヒのため、自宅からスクールバスに乗るまでの200メートルを歩くのに数十分かかる少女がいた。

日々大きな苦痛を背負っているとみえた少女には、しかし、朝の楽しみがあったという。

 まず喫茶店の前で、店員の女性とあいさつを交わす。

言語障害もあるので、周りには「うーうー」としか聞こえないが、女性には「おはよう」と聞こえている。


仕出屋の前で最初の休みをとり、猫のクロにもあいさつする。

 続いて、まばらに木の生えた所で休み、おしまいの休みは草花の植えてある家の前でとる。

マツバボタンにそっと触れて、朝のあいさつは終わる。

「少女の朝の数十分の生活を知ったとき、わたしは衝撃を受けました……

この少女によって、『子どもが見える』ということの意味を教えられました」。

灰谷健次郎さんが「希望への橋??わたしの子ども原論」に書いている(『子どもが生きる』所収・世界思想社)。

 小説「兎の眼」や「太陽の子」で知られる灰谷さんが、72歳で亡くなった。

神戸で小学校の教師を務めた経験に立ち、学校や大人の社会への厳しい論評を続けた。

 「子どもの発する声から人間所在の危機を推察することは十分可能なのに、

そうしようとしない教師は自らの人間性を見出せないままでいる、という悲劇まで加わる」(『学校のゆくえ』岩波書店)。

 子どもたちを見るだけではなく、見つめなければ「子どもが見える」ことにはならない。

現代の家庭や教育の現場を照らす手がかりを、あの少女や命あるものたちとの触れ合いで得たのだろう。







障害者には手厚い保護があってもよい。競争社会では弱者はどんどんと落ちこぼれになってゆく。

障害を持たなくともそのような社会にしてしまっている。

日本か一生懸命真似しているアメリカの合理主義から言うならば弱者は切り捨てにならないだろうか。






財政が破綻(はたん)した
北海道の夕張市を8年ぶりに訪ねた







11月26日の天声人語からの引用


トイレの入り口に板が打ち付けられている。

夕張駅は無人駅で、待合所のトイレは市が管理してきた。

今後は、数時間おきにやってくる車両の中のトイレを使うように、という掲示がある。

待合所の外は白い雪の夜だ。

 財政が破綻(はたん)した北海道の夕張市を8年ぶりに訪ねた。

前回は、明治時代に夕張炭鉱で組合をつくった人物の史料を探すために、石炭博物館と市立図書館に行った。

再訪した博物館は休館に追い込まれていた。

「再開はなかなか難しい」という。

図書館は閉館が決まり、書籍の整理が続けられていた。

 再建計画では市内のほとんどの施設が廃止される。

小学校も中学校も一つずつにするそうだ。

街は川沿いに30キロ近く広がっている。

枝分かれした谷に住む世帯もある。

子どもたちはどうやって学校に通うのだろうか。

現実的な計画とは思えない。


 市役所による住民説明会が今月18日から、連日開かれていた。

「おばんでございます」。

市長のあいさつに会場の反応は冷ややかだ。

「全国最低の行政サービス」「全国最高の負担」「去るも地獄、残るも地獄」。

当初は極端な言葉が飛び交ったが、しだいに今後どうすればいいか、住民から建設的な意見が相次いだ。

 もっと早くこういう会合を開いて、市が置かれている状況をきちんと説明していれば、

今のような悲惨なことにはならずにすんだのでは、とも思う。

 夕張ほどではなくとも、多くの自治体が借金にあえいでいる。

手遅れになる前に、日本中の街で住民と役所が正しいデータをもとに話し合うことが必要だと感じた。




市町村が破綻して消滅に瀕する社会はどう考えても健全ではない。政府は何のためにあるのだろう。

内閣は何をしていたのか。末端だけ見るのではなく大本は政治が間違っていることにきずくべきである。

町が消えたではすむ問題ではない。広島原子爆弾投下後の広島はなかった。じゆうたん爆撃を受けた都市もみなそうだった。

戦争による被害,そして国の施政方針の失敗による被害も同列である。






「ハッブル宇宙望遠鏡」






11月27日の天声人語からの引用


宇宙は膨張している。

この大発見をした米国の天文学者エドウィン・ハッブルの名を冠した「ハッブル宇宙望遠鏡」の命が救われる。

米航空宇宙局が08年、スペースシャトルを派遣して修理することを決めたからだ。

 打ち上げから16年、傷みが目立ち、このままでは遠からず落ちる。

コロンビアの事故後、修理飛行は中止され、科学者たちが延命を訴えていた。

うまくいけば13年まで働ける。

 その威力は「ハッブルの遺産」のホームページを開けばよくわかる。

目の覚めるような色と形、まさに宇宙の宝石箱だ。

一般にも楽しんでほしいと、美しさで選ばれた画像が毎月1点ずつ発表されている。

 宇宙空間で大気に邪魔されず、遠くの暗い天体もくっきりと見えるのが強みだ。

初めてブラックホールの確証をつかみ、はるかな銀河で惑星の存在も探り当てた。

ガリレオの望遠鏡、ハッブル博士が宇宙の膨張を見つけた米ウィルソン山の望遠鏡と並び、

宇宙観に革命をもたらした3大望遠鏡とされる。


 最近の観測では、宇宙の膨張は加速している。

正体不明の「暗黒エネルギー」の仕業らしい。

宇宙は膨張しないとする理論の中でアインシュタイン博士が予測したものの、宇宙膨張の発見を知り、

「我が生涯最大の過ち」と撤回した。


ハッブル望遠鏡による復活に、不思議な巡り合わせを感じずにはいられない。

 最先端の科学を1世紀近く前に予言したともいえるアインシュタイン博士の構想力にも改めて舌を巻く。

ガリレオ以来400年、望遠鏡の歴史から、そんな人間の想像力の歴史が見える。




宇宙は膨張しているといわれても理解ができない。無限の宇宙がさらに膨れることとは考えられないのだが。

昔の人たちの方が自然と接している時間が多いように思う。頭が大きくなりすぎた人間が現代人だ。




思いがけない所でポロニウムが注目されている。





11月28日の天声人語からの引用


夫婦で研究を進めるうちに、放射性の新しい元素の発見を公表できるまでにこぎ着けた。

夫のピエールが言う。

「きみが名前をつけてやりなさい」。

祖国のポーランドに思いを致した妻・マリーが遠慮がちに答えた。

「〈ポロニウム〉というのはどうかしら?」(エーヴ・キュリー『キュリー夫人伝』河野万里子訳・白水社)。

 発見から約1世紀を経て、思いがけない所でポロニウムが注目されている。

亡命先のロンドンで変死したロシアの反プーチン派の元情報将校の体から「ポロニウム210」が検出された。

 ロシアの情報機関の関与がとりざたされる一方で、

大統領への打撃を狙った反プーチン派によるたくらみではないかとの主張もあるという。


いずれにせよ、何者かが口封じに出た疑いは濃い。

 口封じの疑いが濃厚な事件がもう一つ、先月モスクワで起きた。

射殺された女性記者は、チェチェン共和国の警察部隊などによる人権侵害を厳しく追及していた。

 以前、その著書に書いている。「二〇〇二年が終わりつつある……私は生きていたい……

私たちは二〇〇三年を生き抜けるのだろうか?……私には肯定的な答えはない」

(『チェチェンやめられない戦争』三浦みどり訳・日本放送出版協会)。

 英紙によれば、ポロニウムに倒れた元情報将校は、亡くなる2日前に、こんな言葉を残している。

「ひとりの人間を沈黙させることには成功するかも知れないが、

世界中からの抗議のうなりが、生涯あなたの耳に響き続けるだろう」。


暗殺の深い闇に、光をどう当てるかが問われている。





ポロニウムという原爆が殺傷につかわれている。こんな物質が世の中に存在すること自体が不気味である。

サリンもそうであった。われわれの知らないような危険物質が沢山あるようだ。

知らぬが仏で人が信じられなくなればお終いである。






踏み絵は






11月29日の天声人語からの引用


スウィフトの「ガリバー旅行記」には、ガリバーが江戸で「踏み絵」をさせられそうになる場面がある。

「皇帝」はガリバーがクリスチャンではないかと疑うが、結局は踏み絵を免除してやる。

 踏み絵の登場する小説「沈黙」を著した遠藤周作さんにとっては、

長崎で偶然に見た一枚の踏み絵が執筆への衝動となった。

踏み絵は、十字架からおろされたキリストを抱きかかえるようにした聖母の像だった。

木枠に、多くの人々に踏まれてついた黒い足指の痕(あと)らしいものがあった。

 その踏み絵の周りで起きたことを考えるうちに、こんな心境に至る。

「それは強者と弱者、??つまりいかなる拷問や死の恐怖をもはねかえして踏絵を決して踏まなかった強い人と、

肉体の弱さに負けてそれを踏んでしまった弱虫とを対比することだった」(『遠藤周作文学全集』新潮社)。

 命がけの、ぎりぎりの選択を迫られた踏み絵の時代は遠く去ったが、

国会の周りでは、一枚の「誓約書」を巡る「踏み絵騒動」があるという。


昨年の衆院選で郵政民営化法案に反対して当選した12人が、自民党に復党する条件として提出を求められた。

 この12人に投票した人の多くは、当時の自民党や民営化法案に批判的だったのではないか。

首相が、これこそが争点だと言った問題で自民党に反対した有権者の思いを、当時と今の党総裁はどう考えているのか。

 「選挙で勝つためなら、何をやってもいい」。

次の参院選をねらった、そんな党利党略、私利私欲の世界に持ち出されて、「踏み絵」も悲しんでいるだろう。



踏み絵は今の世の中にも使われている。昔の話ではない。踏み絵を踏まない硬骨漢も出てきている。

理由はともあれ本筋を通すのが人間らしさか。





晩秋という季節のしずかな美しさはかくべつだ



11月30日の天声人語からの引用


 大人でも三抱えはありそうなイチョウの巨木の真下に立つ。

頭上に覆いかぶさる枝の葉は、まだ青々としている。黒々とした地面には、赤や黄に色づいたケヤキの葉がびっしりと散り敷いている。

 この東京都心の公園では、去年はケヤキの葉が枝先で茶色に縮んでしまった。

それが、以前のように一枚一枚が形を十分に保って、いわばのびのびと横たわっている姿に、ほっとする。

 大イチョウの下を抜け、やや離れて全体を眺める。

木の上の方は、ところどころ色づき始めている。

淡い黄色の帯が、幾筋も垂れ下がっているかのようだ。全身に金のうろこをまとって燃え立つ日も、遠くない。

 今年の晩秋も去りつつある。

初冬との境目には独特の憂愁が漂う。

実りの秋は、木々の枝をたわわにし、稲の穂を満たして、こうべを深く垂れさせた。

そのずっしりとした豊かな情景の後に用意された季節だからこそのわびしさがある。

 山本周五郎の時代小説「晩秋」には、かつては藩の主柱とされたやりての人物が、晩年に不遇になる姿が描かれていた。

葉を落とした庭の櫟(くぬぎ)を眺めつつ述懐する。

「花を咲かせた草も、実を結んだ樹々も枯れて、一年の営みを終えた幹や枝は裸になり、ひっそりとながい冬の眠りにはいろうとしている、

自然の移り変りのなかでも、晩秋という季節のしずかな美しさはかくべつだな
」(『町奉行日記』新潮文庫)。

 一年の営みを終える木々の姿には、見る側に、この一年を顧みるようにと誘うような風情がある。

多くのカレンダーも、今日一日で、あと一枚になる。



月日は人との思いとは関係なく去ってゆく。そして晩秋の風情も毎年変わりなく正確に時は過ぎてゆく。






伏見稲荷大社と藤森神社との関係






伏見稲荷が伏見稲荷大社と称されるようになったのは戦後の昭和21年からである。

それまでは伏見稲荷は「稲荷宮」「稲荷本宮」「総本宮」などと称されていた。

「正一位稲荷大明神」という書物(岩田書院発行 著者 榎本直樹)を図書館で見つけ知った。

その中に面白いことに,江戸時代までは伏見稲荷を「藤森稲荷」とか「藤森の稲荷」とかいう名で呼ばれていたということが書かれていた。

伏見稲荷神社も藤森神社も子供の頃からは親しく何度もお参りしていた親しみのある神社である。

著者の榎本氏の説明では伏見稲荷神社が藤森という土地に有ったが故に

そのように呼ばれていたのではないかと書かれているようだが,

稲荷と藤森とでは子供の頃住んでいた家からすると丁度北と南の正反対側の土地の名称である。

同じ筋違橋通りに有って二社とも通りの東側にあり,伏見稲荷神社は西向き,藤森神社は南向きにI鎮座されている。

パソコン上で二社の距離を測定してみると,藤森・稲荷間は約1800メートルであった。

自宅からは藤森神社まで約800メートル、稲荷神社まで約1000メートルの位置にある。

伏見深草という大きな範囲内では両者とも一緒に入るが,場所としての稲荷と藤森とを同一視することはできない。

伏見稲荷神社の歴史と藤森神社の歴史を調べてみると,そのように称されるに至った意味が判るような気がしてくる。

今も伏見稲荷大社の境内に丁度稲荷神社の参道を入って行くと左側に藤尾社という末社が祭られている。

小さな祠ではあるが昔藤森神社が祭られてていたためにある由緒ある社だ。

藤森神社の祭日には,今も藤森神社の神輿がその社の前で稲荷神社の神主さんから祝詞をあげられ応待されているようである。

昔は氏子の神輿の担ぎ手達が稲荷神社に向かって「藤森の土地かえせ」と叫ばれていたとことが書かれている。

稲荷神社周辺の人たちもほとんどが藤森神社の氏子の人たちである。

伏見稲荷は稲荷神社の総本社として有名だが,藤森神社は世間に一般にあまり知られていない。

五月五日の菖蒲の節句の始まりは藤森神社が発祥だといわれている。

藤森神社の境内は稲荷神社に比べると遥かに狭いが,一般の神社並みの広さで,古い森に囲まれ京都教育大に接し住宅街の中にあってかなり広い。

京都市の資料関係の書物を見てみると創建由緒は不詳となって本宮と別宮があると書かれている。

一方伏見稲荷大社は稲荷山全体が神奈備山(神霊の篭るところ)として山への信仰があって

奈良時代の初め和銅四年(711)二月の初午の日に,この山に稲荷の神々が降臨されたという。

稲荷山には秦氏の古墳があって一の峰(上の塚) 二の峰(中の塚) 三の峰(下の塚)の古墳のあった場所が上社 中社 下社と称されている。

伏見稲荷大社は稲荷山全体が稲荷神社の境内地で,今もって広くてその境界が判らない。今後も知ることはできないであろう。

藤森神社社伝では神功皇后が朝鮮半島出兵から帰国して後に旗と武器をおさめたことによて始まるとされて,

境内にはその由緒を伝えた旗塚が今もある。

その昔,日本書記では皇極二年(643)に蘇我入鹿によって聖徳太子の子山背大兄王子が攻められたときに三輪文屋君が

「深草屯倉に移向きて,ここより馬に乗りて,・・・・・・」と書かれている。山背大兄王子は結局自殺して蘇我入鹿により殺されているようなものである。

この皇極二年(643)以前から深草には屯倉かあったことが言われている。その深草屯倉が藤森神社の地であったのではないかとの記事を多く見る。

山背大兄皇子の母は秦氏の出で,そのために王子には山背の名がつけられており,秦河勝は聖徳太子の私兵とも言われていて,

聖徳太子と秦氏との関係が深いことは,太秦の広隆寺建立からしても広く明らかなことである。

聖徳太子ほどに一般に広く知られている人物は歴史上少ない。反対にその息子である山背大兄皇子まではあまり知っている人は稀である。

蘇我氏は藤原氏などによって殺害されている。それによって藤原氏の天下がその後ずーと続いてゆく。

藤森社の社伝の神功皇后の話はこれは西暦200年代のことで卑弥呼の時代の話であって歴史学的には納得がゆかないことである。

納得ゆかない話になるかもしれないが,可能性として考えられるのは欽明天皇の時代(六世紀中頃)に秦大津父が深草里で見出され大蔵官僚に抜擢され

大蔵臣として昇進した話での秦大津父が住んでいた場所が藤森神社の地であった可能性は考えられるのではないのか。

その屋敷跡地が後に天皇家の深草屯倉になっていつたとも考えられるのだが。

近くの深草谷口町に明治維新まで桓武天皇陵と言われていた

六世紀後半に作られたといわれている谷口円形古墳が存在する。さらには近くに山伏塚古墳もある。

その100-200メートル東に白鳳時代・.奈良時代から法禅院(後の檜尾寺)が平安中期まで存在していた。

行基が建てた寺院である。又二代目の東寺の長者になった実恵(檜尾僧都)が住居していた寺院で

弘法大師から此の寺で灌頂を弘仁元年に受けている。

弘法大師が中国から帰朝してからの最初の灌頂になる。実恵は弘法大師の一番弟子で弘法大師が有名になっていく基礎を築かれた。

古い神社は藤森神社,稲荷神社などあるが,深草の土地には奈良時代からあることが判った寺として深草寺と法禅院(後の檜尾寺)だけである。

現在伏見稲荷の境内の藤尾神社には舎人親王がお祀りしてある。

舎人親王は天武天皇4年1月5日(676年1月28日)から天平7年11月5日(735年12月6日)の人で,日本書記を編纂し養老4年(720)5月に奏上している。

藤森神社の縁起を表らわした藤森神社縁起には奈良時代の神護景雲中(767-70)に三所天王が紀伊郡藤尾の地に垂迹したのが当社のはじまりとなっている。

藤尾山の麓でもある現在の稲荷の地に舎人親王を祀ったたのが藤森神社の始まりだとされている。

江戸時代まで「藤森稲荷」と称され続けてていた由縁は此の為だと考えられる。「藤森稲荷」で検索すると多くの神社が見つかる。

稲荷神社は日本中で一万以上もあり,神社としては八幡神社 菅原天神とともに多い社になっている。

平安時代には稲荷神社詣には稲荷坂即ち新熊(いまくま)より稲荷三ツ峰へ詣ずるみちあり,今車坂という。

是いにしえの順路なり。稲荷行幸の車此道を経るとぞ。田中社もいにしえ此の道にあり・・・・・拾遺都名所図会より

今の稲荷本殿のある辺りに藤森神社があって,上中下社が祀られ本殿に下山遷化したのは足利義教時代の永享10年(1438)のことである。

同じ頃同時に稲荷の地にあった藤森神社も現在の藤森神社の場所に同じく永享10年(1438)に合祀されていったと考える。

また藤森神社は本宮と新宮(別宮)とに分かれており,本宮は「二座(天武・舎人か)神号不詳」,新宮は祟道天皇(早良親王)・井上内親王(光仁妃)

他戸親王(早良親王の弟)の他の十三神である。,本宮とは稲荷の地に有った藤森神社をば指しているのかもしれない。

深草稲荷保勝会が発行している「深草 稲荷」には稲荷神社を中心に地域の神社仏閣が詳細な歴史が記されている。

この本の始めが「伏見稲荷大社」で,最後にあるのが「藤森神社」が書かれてある。

稲荷の神官には秦氏と荷田氏があり,荷田氏には前荷田氏と後荷田氏があつた。後荷田氏は羽倉氏でそこから東丸が出ている。

稲荷の境内にある東丸神社は学問の神として勉学向上・入学祈願の札や千羽鶴が東丸神社境内につるされてある。

だが稲荷神社と東丸神社とは別格の神社になっているようだ。

「荷田氏が藤森社と関係が深い例として荷田延行が藤森社の木彫り狛犬を修理している。このような荷田氏は鎌倉末期から,元弘,建武の

動乱期に姿を消した。これは前の荷田氏の時代である」と「深草 稲荷」に記されている。

このことはその時代には稲荷の地に藤森神社のあった頃ことで,当然ありうる話である。

もしかすると荷田氏が稲荷の藤森神社の神官であった可能性も考えられる。

稲荷山から下山遷宮の時期については,後二つがあり東寺側からの伝承の「諸神記」所載の「藤森社の縁起}には

平安初期,の弘仁七年(816)に空海が山麓の藤森社の旧知に山上から遷宮したとし,

「稲荷大明神縁起」(室町時代)のなかで大僧正長巌の時五社そろって山上より山麓に遷したという伝承がある。

もう一つは山下での古い鎮座が主張され,下社は創建以来で同じ現在の本殿の位置は変かわらないという説もある。

三通りの説があることになる。藤森神社との関係からすると稲荷地区の氏子が藤森神社である事実から考え

足利義教の時に幕府の命令によって遷宮があったと考えるのが妥当のように思われる。

藤森神社 稲荷神社ともに応仁の乱で本殿などは焼かれ,稲荷神社本殿は明応元年(1492)に再建されている。

九条家に所属していた大工棟梁の東九条の木村源田太が建築主任であつたことが明らかになっている。

又藤森神社の八幡宮並びに大将軍社が明応三年(1494)に建築されている。

藤森神社の本殿は正徳二年(1712)中御門天皇下賜の宮中内待所(賢所)の建物が移譲されている。

本殿・東殿・西殿にわかれそれぞれ祭祀しているが,藤森での「深草祭」は稲荷から遷宮以前からあったように思われる。

・・・・・・稲荷保勝会発行の「深草 稲荷」からの引用。 

また古代氏族の紀氏との関係については出雲路敬和著 「京都古社寺詳説」 有峰書店発行に「稲荷・真幡寸・藤森社」で詳しく書かれているが

煩雑になるので「稲荷大社と藤森神社の関係」だけにしぼって,後は省略して書いている。


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