随想 平成10年9月分 10月分 11月分 12月分 平成11年1月分 2月分 3月分 4月分 5月分 6月分 7月分 8月分 9月分 10月分 11月分 12月分 平成12年1月分 2月分 3月分 4月分 5月分 6月分 7月分 8月分 9月分 10月分 11月分 12月分 平成13年1月 分 2月分 3月分 4月分 5月分 6月分 7月分 8月分 9月分10月分11月分 12月分 平成14年1月分 2月分 3月分 4月分 5月分 6月分 7月分 8月分 9月分 10月分 11月分 12月分 平成15年1月分 2月分 3月分 4月分 5月分 6月分 7月分 8月分 9月分 10月分 11月分 12月分 平成16年1月分 2月分 3月分 4月分 5月分 6月分 7月分 8月分 9月分 10月分 11月分 12月分 平成17年1月分 2月分 3月分 4月分 5月分 6月分 7月分 8月分 9月分 10月分 11月分 12月分 平成18年1月分 2月分 3月分 4月分 5月分 6月分 7月分 8月分 9月分 10月分 11月分 12月分 平成19年1月分 12月になって 本格的な冬になって寒い毎日が続く。師走だと思うだけでも気ぜわしく感ずる季節である。 昔,落語の話にでてくる年の歳の最後の月は,年が越せるかどうか,借金取りに追われつづける月でもあったとか。 年齢とともに一年の経つのが早くなってきたという話は,誰からも聞かれる。 本当に年齢とともに一年はアッという間に過ぎ去っていっている。 今年もいろいろとあった。 一番に大きなことは小泉首相に変わって安部内閣に変わったことである。 若い首相だけあって,さらに頼りなさが目につき,そして思わぬことが次から次起き続けている。 格差社会がさらに広がりを見せている。 税金の特別控除が廃止になって家庭の経済はさらに厳しくなる。だが法人税の控除は続けられるようだ。 世界中がアメリカ社会のミニ化した世の中になってきた。 共産政党一党支配でのロシア 中国でさえも格差社会が叫ばれだしてきている。 日本ではお役人の悪いことの露見が,次から次とよくこれだけ続くのかと驚くほど続いて多くでている。 これだけでも国民が怒らないといけない。だが依然として政権が安泰だとすれば余程日本国民は馬鹿なのだろう。 こんなにも頼りない首相をよく持ったものだと嘆きたくなる。 さて阿部さんは北朝鮮問題になってくると生き生きと強行発言を続け, 強硬手段にでている。そのアメリカ追従の政治が光ってくる。 これまでの誰かの首相が発言していた。「アメリカの尖兵になって日本がその防波堤になり戦うのだ」と。 このことだけはご免である。 米朝戦争が勃発すれば日本が前線基地になることをよく知ってから北朝鮮と対応してほしいものです。 イラク情勢はフセイン大統領が判決後4日でもって死刑が執行された。その映像が世界に流れた。 イスラム社会での反米感情が高まり宗派同士の戦いがさらに強くなってきている。 フセイン大統領を担ぎだしてイランと戦わせたのは欧米だといわれている。 その事情が世界に流れると困るので死刑執行が早めたのだとされている。 フセインの出身であるイラクのスンニン派の人たちの間ではより反米感情が高まっているとも報道されている。 第二次大戦後の朝鮮戦争以来アメリカの関与しない戦争はなかった。 その戦争に対し,日本が肩代わりする方向へと変わりつつある日本の情勢に大変危惧される。 又「戦争放棄」と「恒久平和」を願って作られた日本国憲法が改正されようとしている。 その理由として日本が国際社会で一人前になるために,占領国家で作られた日本国憲法をもつことは独立国家としてふさわしくないからと,。 だからといって人殺しに加担する必要性は何もない。 強い軍国国家の国民として,洗脳されてきた一日本人として体験した戦争には何一つ良いことがなかっことを心の芯底から思っている。 世界に燦たる大日本帝国の国民の一員として,いまわしい体験をしてきた。我々世代以上の人達は皆そうであるう。 天皇陛下のため多数の国民が戦争によって戦死・戦災・餓死で死んでいった。 多くの命が何の罪もない人たちが誤った為政者のために死んでいっている。「人の命は地球より重い」の言葉が死語になりつつある。 現在では,その間違いは当時の天皇を利用した為政者達によるものとされているが。 だが今も明治神宮に参拝したり,靖国神社参拝にこだわる人たちは同じ人達とは言えないだろうか。 日本は現在も明らかにアメリカの半植民地国家である。真の独立はなすにいたっていない。 アメリカの胸に抱かれた赤ん坊のようなものだと。 アメリカの都合によって日本国憲法が作られ,再び変わろうとしている。 でもまずアメリカからの真の独立が必要である。 占領下とはいえ「戦争放棄」 「恒久平和」 「自由平等」を謳った現憲法はすばらしい憲法であると日本国民誰もは感じている。 世界遺産に登録しても良い話もでてきている。 あの時代だからこそ作りえた素晴らしい憲法である。 平和が如何に大切だったかということを体験した来たものとして 再び同じ誤った道を進もうとしていることを非常に情けない気持ちで眺めている。 狂った歯車が変な方向に回りだすと誰もはその動き出した歯車に対し歯止めをかけることができなくなってしまう。 第二次大戦でのその尊い経験が,その体験者の減少とともに生かされてこなくなってきている。 このことはとても寂しい残念な気持ちで見ている。 木下順二さんは自作の戯曲「夕鶴」 12月1日の天声人語からの引用 傷ついた鶴だった自分を救ってくれた与ひょうのため、つうは羽根で美しい布を織る。 しかし与ひょうは、悪い男にそそのかされ、布を売って金もうけに走る。 相手を愛そうと布を織ることが、相手を自分から引き離してしまった。 この自作の戯曲「夕鶴」に、ドラマというものの本質が含まれていると、木下順二さんは述べた。 「自分が最も望んでいることをしようとする、その行為そのものが、自分の最も望んでいないものを生み出す」 (『日本語について』労働旬報社)。 「子午線の祀(まつ)り」や「オットーと呼ばれる日本人」で知られる劇作家の木下さんが92歳で亡くなった。 与ひょうのような人間の弱さや業を見据え、深みのある言葉でつづった。 ドラマについては、こんな言葉もある。 「無限の過去から無限の未来へつながっている時間、また無限定にひろがっている空間、それを、限られた上演時間と限られた舞台空間の中に、 いわば引き撓(たわ)めて凝縮的・圧縮的に表現するものである」(『巨匠』福武書店)。 特定の時と場所を超えた人間の普遍的な営みを描こうとしたようにみえる。 そして平和への強い思いは、あの戦争に至った過去を忘れては未来が無いということから来ていたのではないか。 昨日、防衛庁を防衛省に改める法案が衆院を通過した。 「庁」という形は時代に合わないということのようだ。確かに、戦後61年は短い時間ではない。 しかし、悠久の時の流れの中では「一瞬」とも言える。 時空を超えてはばたくような、木下さんの大きな視点を思い起こしたい。 自己犠牲でもつて助けられた鶴が織る布を夫の与ひょうがその布を売りさばく姿を描いているのが「夕鶴」で 何か時代を超えて我々に訴えるものがあるような気がする。 第二次大戦でなくなった人達が鶴で今の我々が夫の与ひょうのような行為をしていないものだろうか。 中国に残された子供たちを 「中国残留日本人孤児」と呼ぶ 12月2日の天声人語からの引用 日本の敗戦の混乱の中で、中国に残された子供たちを「中国残留日本人孤児」と呼ぶことが多い。 作家の井出孫六さんは、言葉の厳密さを著しく欠くと書いている。 「自らの意思で『残り留まった』ひとなどいるわけはなく、さまざまな事情で『置き去』られた人びとであった」(『終わりなき旅』岩波書店)。 置き去られた事情は個々に違っても、置き去られた状況は日本の敗戦によるものだった以上、置き去った主体は国家といってよいと続く。 「『残留』ということばからは、主体の姿も消し去られているといえぬだろうか」 その「主体」の責任を厳しく問う判決を、神戸地裁が言い渡した。 孤児の帰国の妨げとなる違法な措置を講じたうえ、帰国後も自立を支援する義務を怠ったとして、国に賠償を命じた。 孤児を日本人と認めず、外国人として扱う方針を貫いたとも指摘した。 「私は、子供を捨てて逃げた日本人のことを、冷酷だとは思いません……捨てなければ、まちがいなく皆、死んでいたでしょう。 捨てたからこそ、子供は生きられたのです」。 孤児を育てた中国の養父母の一人の言葉だ(浅野慎一・〓(にんべんに冬)岩『異国の父母』岩波書店)。 確かに「捨てたからこそ」かも知れない。 しかし、この人のように、国籍を問わず育ててくれた人たちが居たからこそ生きられたのだろう。 「落葉帰根」。 いつかは日本という根に帰りたいとの思いを込めて、孤児たちが口にする言葉だという。 中国で置き去りにされた人たちを、帰り来た木の根元で再び置き去りにしてはなるまい。 年老いた戦災孤児が今も中国に残っている。半世紀も経っても戦争の爪あと,は続いている。 戦争の罪の深さをば知るべきだ。 中国語を教える孔子学院は、 中国政府が国家プロジェクトとして 世界各国で始めた 12月3日の天声人語からの引用 「最初は儒学を教える学校だと誤解されました」。 中国大使館の1等書記官で、「孔子学院」に関する仕事を担当している胡志平さんはそう話す。 孔子学院は、中国政府が国家プロジェクトとして世界各国で始めた、中国語を教える教育機関だ。 日本では昨年、立命館大に初めて設けられた。 桜美林大や北陸大、愛知大、札幌大などが加わり、これまでに計六つの大学にできた。 このほか国公立大を含む10近い大学が、設置を希望しているという。 世界的にも大変なブームで、51の国・地域に120校以上ができている。 日本と中国の大学がそれぞれ一つずつペアを組み、中国側から講師が派遣され、教科書などの教材も提供される仕組みだ。 東京都町田市の「桜美林大学孔子学院」を訪ねると、上海の同済大から派遣されて来た女性講師が中国語の会話を教えていた。 生徒は若い人もいれば、定年退職した中高年もいる。 中国政府は孔子学院を立ち上げる際に、ドイツがドイツ語の普及のためにつくった「ゲーテ・インスティトゥート」を参考にした。 ゲーテのように国を代表する人物はだれか。そう考えて、孔子様を選んだそうだ。 桜美林大にはほかの大学からだけでなく、日本の外務省からも問い合わせがきている。 遅ればせながら、日本政府も同様の計画を考え始めたようだ。 ドイツがゲーテで、中国が孔子なら、日本は紫式部か松尾芭蕉か黒沢明か。 名前はゆっくり考えることにして、日本語と日本文化を知ってもらうための「学院」を、日本政府にもぜひ構想してもらいたい。 中国は12億人もの国民がいる国家である。歴史も古く古代からは文明が開けた地域である。 弘法大師 最澄などの留学生が彼の地で学んで日本文化が発展してきている。 一方近代には西洋文明を中国よりも早く取り入れて,飛躍的に日本は発展した。 でもまだまだである。 だが新しく日本も日本の文化を発信する基地をば創るべきである。 そうした体験を書いた「私とサッカー」が 中学生部門で最優秀賞に選ばれた 12月4日の天声人語からの引用 堂本歩さんは松山市立南中学校の2年生で、サッカー部員だ。 ただ1人の女子選手として、男子部員と一緒にグラウンドを走り回る。 違いがあるとすれば、右足に義足をつけていることだ。 歩さんは、生まれつき足に障害がある。 小学校2年生の時、一つ上の兄が地元のサッカーチームに入っているのを見て、自分もやりたい、と思った。 義足でできるか不安だったが、監督が「大丈夫」と言ってくれた。 とてもうれしかった。 それからずっとサッカーを続けている。 そうした体験を書いた「私とサッカー」が、障害者週間に内閣府が募集した作文の中学生部門で最優秀賞に選ばれた。 6日に東京で表彰式がある。 義足の右足でボールを思い切りけると、衝撃が大きい。 だから、シュートはもっぱら左足だ。 あまり激しく走ると、足が痛むことがある。 それでも、歩さんは「体なんて関係ない、気持ちが一番大切なんだと知って、サッカーを始める前より強くなれました。 障害をもっているからといって、できないことはないのです」とつづっている。 試合では、義足に対し、相手の選手や観客の視線を感じることがある。 だが、次第に物おじしないようになった。 めげそうな時には、「他の人のことは気にせず、堂々としていなさい」という両親や兄の言葉を思い起こす。 作文で「やりたいことは進んで挑戦してみたい」と書いた。 これから何に挑戦しますか。 サッカーの審判の資格を取りたい。 けがの予防や治療のテーピングの方法も学びたい。 そんな元気な答えが返ってきた。 義足をつけたハンディにも負けずに一人前以上活躍している人もいる。努力という根性が人並み以上もちあわせている。 人とはトータルで見るべきものである。 知能が劣っていても感性か人並み以上にある人に出会ったことがある。 「虎屋文庫」は 12月5日の天声人語からの引用 「虎屋文庫」は、ようかんで有名な虎屋がつくったものだ。 文庫と言っても、文庫本が並んでいるわけではなく、9人の研究員が日々、和菓子に関する資料を集めている研究機関だ。 先代の16代店主が73年に創設した。 機関誌『和菓子』を年1回出版している。 ホームページもつくっており、ここに月1回、「歴史上の人物と和菓子」というコラムが掲載されている。 美しい和菓子の写真に添えられた文章は素人にも興味深い。 今月中旬に掲載予定の「小堀遠州と十団子(とおだんご)」で70回目になる。 江戸初期の茶人で造園家だった小堀と、東海道名物の団子のかかわりを書くそうだ。 第1回に登場したのは織田信長だった。 西洋文化に関心が高かった信長は、宣教師から南蛮菓子の金平糖を贈られた。 水戸黄門で知られる徳川光圀は、虎屋に大きなまんじゅう100個を注文した。 注文の記録が社内に残っているという。 回り持ちでコラムを書いている9人の研究員の一人、今村規子さんは明治、大正の文学者を取り上げることが多い。 小説や随筆を読み、和菓子に関するエピソードを拾う。 芥川龍之介は汁粉が好きで、汁粉に関する随筆まで書いた。 夏目漱石と谷崎潤一郎はそれぞれ、ようかんの美しさを高く評価する文章を残している。 変わったところでは森鴎外の饅頭(まんじゅう)茶漬け。 ご飯の上に饅頭を載せ、煎茶(せんちゃ)をかけて食べたという。 虎屋文庫は展覧会を開くこともある。 次回は来年5月、変わった和菓子を展示する「和菓子百珍」を予定している。 饅頭茶漬けも展示されることになっている。 「とらや」は有名で聞いている。だが我が家の一番利用しているのは「総本家駿河屋」でそこでよく買い物はしている。 大手筋近くにあり,其の斜向かい前が料亭「魚三楼」だがここも古い。そして利用しているところである。 今月8日はジョン・レノンの命日だ。 12月6日の天声人語からの引用 東野圭吾さんの小説『手紙』は映画化にあわせて今年10月、文芸春秋から文庫になった。 帯に「たちまち100万部突破」とある。若い人たちによく売れているようだ。 強盗殺人の罪で刑務所に収監された兄のために、弟が社会からの差別や疎外に苦しむという話だ。 弟がジョン・レノンの「イマジン」を歌おうとする場面で、小説は終わる。 イマジンはいろいろなところで歌われる。 カンボジア内戦を描いた映画「キリング・フィールド」では最後に流れた。 今年のトリノ五輪の開会式にも登場した。 今月8日はレノンの命日だ。 熱狂的ファンを自称する男にニューヨークの自宅アパート前で銃撃され、死亡した事件から26年になる。 6年前、命日にたまたまニューヨークにいあわせたことがあった。 事件現場に行こうとしたら、地下鉄の駅であまりの人の多さに驚いた。 本当のファンに加えて、世界中からの「お上りさん」でごった返している。 日本人も数百人はいるように感じられた。 自宅アパート前のセントラルパークの一角に記念の庭園がつくられ、多くの写真や花束が供えられていた。 小雪が舞い、路面から冷気がはい上がってくる中、黙祷(もくとう)したり、大声で祈ったり、合唱したり、人々の弔意の表現方法は様々だった。 今年も多くの人たちがあの庭園に集まって、故人をしのぶのだろう。 日本でも、さいたま市に「ジョン・レノン・ミュージアム」という施設がある。 00年につくられ、年間4万人が訪れる。 8日は開館時間を午後9時まで延長して、献花を受け付けるという。 ジョン・レノンは我々の勉学途中の時代のことであまり関心が薄かった。でもベトナム戦争反戦家であることは知っていた。 この欄のちょうど裏、 本紙朝刊2面の下に毎月今ごろ、 文芸誌の広告が四つ並ぶ。 右から群像、文学界、新潮、すばるの順 12月7日の天声人語からの引用 この欄のちょうど裏、本紙朝刊2面の下に毎月今ごろ、文芸誌の広告が四つ並ぶ。 今月は新年1月号の広告で、右から群像、文学界、新潮、すばるの順だ。 公平を期すため、一番左の雑誌が、次の月は一番右に回るしきたりになっている。 いわゆる純文学を集めた雑誌が少なくとも四つあり、毎月いくつもの小説を世に出している。 そんな国はほかにもあるのだろうか。 広告を見比べて、今月はどの雑誌を買うか決める人もいるという。 広告を出す側の大川繁樹・文学界編集長は、「広告がゴージャスになるような雑誌をつくるにはどうすればいいかを最初に考えて、 原稿を依頼する作家や企画を決める」と話す。 作家の名前の字の大きさや並び順には神経を使うそうだ。 文壇での格、年齢、主要な文学賞の受賞順、そして何より重要なのは、読者が読みたい作家はだれか。 様々な角度から計算した結果が、この広告だ。 新年号の広告の移り変わりは戦後文学史そのものだ。 50年前の広告には志賀直哉や石川達三、小泉信三といった重鎮が並んでいる。 40年前の群像の新連載は、大江健三郎さんの『万延元年のフットボール』だ。 36年前の新潮の広告には、その12日前に割腹自殺した三島由紀夫の遺稿が、「天人五衰最終回140枚」と大書されている。 随分売れたことだろう。 文芸誌の部数はこれまで長期低落傾向だった。 しかし最近は吉村昭さんの遺作『死顔』のような話題作もあり、約20年なかった増刷をしたという雑誌もある。 世界でもまれな出版文化の今後のいやさかを祈りたい。 文芸誌はあまり読まなかった。月刊雑誌は「文芸春秋」で時々買う程度である。週刊誌は「週間朝日」と最近は「アエラ」もである。 米映画「父親たちの星条旗」が公開中だ 12月8日の天声人語からの引用 「妻へ 縁有つて婚姻(こんいん)してより十有余年、此(こ)の間貧しいながら五人の子宝を得て楽しい団欒(だんらん)であつた」。 敗戦の約半年前の1945年3月に、太平洋の硫黄島で戦死した日本兵の「遺書」の一節だ。 やはりこの島で戦死した別の兵士が、妻あてに書いた。 「悲壮なる決心をするだけに子供こひしさに心の鬼も防ぎ得ず。 未練がましくも幸ひ便りする機会を得て書き連ねる??常日頃 我いとし子を見つめては 心の悪魔払ひ来りし」(『昭和の遺書』角川書店)。 それぞれの思いを抱きつつ倒れた。 日米の激戦地となったこの島を舞台にした米映画「父親たちの星条旗」が公開中だ。 クリント・イーストウッド監督は、島の摺鉢山(すりばちやま)に星条旗が翻る有名な写真にまつわる人と軍、国家の相克を描く。 この写真は国威発揚に使われ、写真に絡む兵士たちは戦時国債の募集に駆り出される。 そして「英雄」に祭り上げられることに違和感を覚えながら、流されてゆく。 刻々と命が失われる戦場での営為は人の心を強くつかむ。 国民は英雄を望み、軍や国家は英雄をつくろうと試み、メディアはあおる。 もみくちゃにされる兵士たちの悲劇が、切々と伝わってくる。 ブレヒトの戯曲に、こんなせりふがあった。 「英雄のいない国は不幸だ!」「違うぞ、英雄を必要とする国が不幸なんだ」(『ガリレイの生涯』岩波文庫・岩淵達治訳)。 戦争は、妻や子や親を思いやる当たり前の青年同士を戦わせ、時には英雄の役回りまで強いる。 65年前のきょう、日本軍の真珠湾攻撃で、太平洋戦争が始まった。 戦争の中での英雄がいる時代は不幸な時代である。国家により作られた英雄は今も生きている。 日本では「楠木神社」「護国神社」「乃木神社」「明治神宮」そして「靖国神社」か。 漱石が没して、きょうで90年になる。 12月9日の天声人語からの引用 夏目漱石が自宅の「漱石山房」で面会するのは、木曜日と決まっていた。 ある木曜の晩、門下の数人が漱石を囲んでいる時、初めての客が来たと手伝いの女性が告げた。 「紹介状がなければ会わない」と漱石が言い、 女性からそれを聞いた客は「田舎から先生にお目に掛かりたくてわざわざ上京したのだから」と粘った。 座が気まずくなって誰も口をきかない。 「紹介状がなければ会わない」。 今度は漱石に怒るように言われ、女性はお辞儀をして去る。 「みんなが黙つてゐる中で、私は漱石先生を憎らしいおやぢだと思つた」と内田百〓(門の中に月)が書いている(『菊の雨』新潮社)。 漱石が没して、きょうで90年になる。 明治改元の前年に生まれた。 日本が欧米と出会い、近代国家へと移り変わる激動の時代を生きた。 漱石山房には、文壇の若い星たちが集まった。 没する年の夏、芥川龍之介と久米正雄に「牛になるように」と書き送っている。 「あせつては不可せん……根気づくでお出でなさい」 死の前月の知人への手紙には、やや驚かされる一節がある。 「変な事をいひますが私は五十になつて始めて道に志ざす事に気のついた愚物です」(『漱石全集』岩波書店)。 昨日、東京・早稲田の漱石山房跡の小公園には、時折冷たい風が吹き渡っていた。 サザンカの白い花びらにサクラの枯れ葉が散りかかる。 由来説明の板には、三四郎、それから、門、明暗などが山房で執筆されたとある。 それらは、偉大な「憎らしいおやぢ」が世界とこすれあって奏でた不朽の交響楽のように思われた。 夏目漱石の小説は今読んでも面白い。人情の機微も変わっていない。 人間である限り人間以上の考えは出てこないということなのか。 「生体認証システム」の現状は 12月10日の天声人語からの引用 「手のひら」が先行したが、「指」が追いつき、現在勢力は均衡中。 今後は指がやや有利か。 銀行の現金自動出入機(ATM)に普及し始めた「生体認証システム」の現状は、こんな感じだ。 キャッシュカードのICチップに、手のひらや指先の静脈の形状を登録しておく。 現金を引き出す際、その情報を使って本人確認をするシステムだ。 ATMに手のひらをかざす方式と、指を載せる方式がある。 数年前からATMにカメラを仕掛けて暗証番号を盗撮したり、カードの磁気情報を盗んで偽造カードをつくったりする事件が相次いだ。 対策の決め手といわれたのが生体認証だった。 先行したのは現在の三菱東京UFJで、04年10月に実用化した。 個人の識別には静脈以外にも、指紋や目の虹彩(こうさい)の形などいくつかの方法がある。 約千人の客にアンケートをしたところ、手のひらを推す声が多かったという。 しかしその後、他の大手銀行が相次いで指方式を選び、郵政公社も続いた。 中小の銀行では手のひらを選ぶところもあり、銀行数ではほぼ互角だ。 今のところ両方式の互換性はない。 当初ベータとVHSに分かれたビデオレコーダーでは、結局ベータが消えた。 統一規格を目指す動きはあるが、生体認証もどちらかが消えていくのか。 両陣営ともこれまでは間違えて違う人に支払ってしまったことはないという。 犯罪対策に万全はない。犯罪者の側も工夫を重ねるからだ。 生体認証は世界的にも日本が進んでいる分野だといわれる。 利用客の安心のため、より優れた方法を追求してほしい 生体認証方式も今では優れて犯罪防止に役立つが,何時かはそれが破られる時代が来ると思う。 便利さの中には必ずその落とし穴が存在するはずだ。 3メガバンクの一つの三菱東京UFJ銀行が、 9年ぶりに献金を再開する方向 12月12日の天声人語からの引用 鉄鋼、電力に銀行を加えて政治献金の「御三家」と呼ぶ時代があった。 戦後、この3業界が献金の柱だったころだ。 近年、銀行業界は転変を重ねてきた。 今ある銀行が昔の何銀行なのかを即答出来ない人も多いだろう。しかしどの大手銀行も、 90年代末の金融危機での税金注入を機に献金を自粛してきた。 3メガバンクの一つの三菱東京UFJ銀行が、9年ぶりに献金を再開する方向だという。 みずほフィナンシャルグループと三井住友銀行も検討中と伝えられたが、これは腑(ふ)に落ちない。 先日、銀行業界が過去最高益をあげたと報じられた。 一方、預金者にはスズメの涙よりもわずかな利息を強いている。 そして、大手行はいずれも法人税を納めていない。 税務上の欠損金を抱えているから免除される仕組みだが、すんなりうなずける話ではない。 再開されれば、自民党を中心に献金されるという。 再開を急ぐように見えるのは、のどから手を出している相手がいるからなのか。 「あはれ、此国の/怖るべく且つ醜き/議会の心理を知らずして、/衆議院の建物を見上ぐる勿(なか)れ。 /禍(わざはひ)なるかな、/此処に入る者は悉(ことごと)く変性す」。 与謝野晶子が国会を厳しく詠んだのは、大正時代の初めごろだった。 「一たび此門を跨(また)げば/良心と、徳と、/理性との平衡を失はずして/人は此処に在り難し」と続く(『舞ごろも』天弦堂書房)。 90年たったが、劇的に変わったとも思えない。 ひたすら国会の方に顔を向け続けるのか、あるいは国民・利用者の方を向くのかが、各銀行に問われている。 銀行は税務上の欠損金を抱えているから免除される仕組みで法人税は支払われない。その銀行が自民党に献金しようとしている。 だが阿部首相は断った。当然のことである。当然のことが起きるように仕組まれた国民に見せるための劇かと疑いたくなる。 イラクという結び目を剣で切れば、 ブッシュ政権は混沌(カオス)の支配者になるだけだろう 12月13日の天声人語からの引用 アレキサンダー大王にまつわる伝説の一つに「ゴルディオスの結び目」の物語がある。 紀元前、小アジアの古代国家の王ゴルディオスが、誰にも解けないという結び目をつくった。 「この結び目を解く者こそアジアの来るべき支配者になる」との神託を受けたアレキサンダーは、剣で結び目を断ち切った。 この結び目は、英語では複雑な問題という意味がある。 「イラクという結び目を剣で切れば、ブッシュ政権は混沌(カオス)の支配者になるだけだろう」。 イラクで、大量破壊兵器の査察に携わった元国連査察官スコット・リッター氏が著書でこう述べたのは、イラク開戦の前だった (『イラク戦争??ブッシュ政権が隠したい事実』星川淳訳・合同出版)。 当時リッター氏が主張していたように大量破壊兵器はみつからず、米政権はカオスの中にある。 アナン国連事務総長は、イラクを内戦状態と断じて述べた。 「一般国民が、残忍な独裁者がいても、今よりもましだったと考えるのは理解できる」 米政権はカオスからの「出口」を求めているようだ。 しかし、取り返しのつかないあれだけの殺戮(さつりく)を顧みれば「出口」は簡単には語れないだろう。 攻め込んだ側は、そこから出ればひとまず終わりかも知れない。 だが、イラク国民にとっては更なる苦難への入り口でもある。 世界唯一の超大国にとって、イラクという結び目は、そう難しく見えなかったのではないか。 しかし、米国が断ち切れたと思った後に、本当のゴルディオスの結び目は現れた。 それを解く手だての持ち合わせは、無いままだ。 イラクはフセイン大統領が死刑執行されても,混沌の中にさらにある。これではブッシュの責任は非常に重い。 イラクの政権をまともな政権だと思う人は誰も世界中にはいない。 アメリカの傀儡政権である。 イラク戦争がテロとの戦いがイラク国民の自由民主化に代わり次にはイラクの秩序を回復するための戦いになるのでは。 だったら始めから戦争を始めなかったらよかったことになる。 戦争で儲けるのは死の商人で武器産業だ。石油産業と武器産業のための戦いなら,誰もがすっき理解できるのではないでしょうか。 「新型爆弾投下」の報を受けて 12月14日の天声人語からの引用 長崎市で被爆した翌日、救護所で生後4カ月の次男に乳を含ませていた若い母親が、声をかけられた。 「写真を撮らせてください」。 「新型爆弾投下」の報を受けて福岡から駆けつけた陸軍報道部員、山端庸介さんだった。 「優しか声の男の人でした。 あん時は、乳ば出しよったですが、恥ずかしいとか考える余裕もなくて、『はい』と答えたように思います」。 ほおに傷を負った母親が胸をはだけ、やはり顔にケガをした幼子が乳房に吸いつく写真はこうして撮られた (加世田智秋編著『語り継ぐあの八月を』北水)。 被爆の数日後に亡くなった長男に続いて次男も死亡する。 当時30歳だった母親、田中キヲさんが、91歳で亡くなった。 元気だったころに取材した加世田さんに、毎年の原爆の慰霊祭には、失った子どもたちのためひたすら「ゆっくりと眠りなさい」と祈ると述べた。 そして、こう続けたという。 「でも、何で半世紀過ぎても戦争がなくならんとですかな……本当に人間はしょうのない生き物だと思いますよ」 山端さんは、後に原爆撮影のメモを書き残す。 人間の記憶は、年々環境の変化や生活の変化で批判が甘くなったり、誤ったりする。 しかし、「キャメラが把握した当時の冷厳なる事実は、少しも粉飾されず……冷静にそのまま皆様方の前に報告しております」 (『ヒロシマナガサキ原爆写真・絵画集成』日本図書センター)。 山端さんとキヲさんとの出会いは、いわば一瞬のことだった。 その一瞬をとらえた一枚は、あの惨禍を永遠に語り続けてゆくだろう。 原爆被災は悲惨で゛ある。その唯一の被爆国日本は今までに何をしていたのだろう。 落とされた国のいうことだけにただ今も追従し終始しているのは情けない話である。 もつと核の恐ろしさを世界に発信し続けるべきである。 師走・極月も半ばまで 12月15日の天声人語からの引用 街角に救世軍の社会鍋が立ち、人は時に立ち止まり、また立ち止まらずに行き交う。 師走・極月も半ばまで来た。 この一年を、住友生命が募集した「創作四字熟語」を見ながら顧みる。 耐震偽装での証人喚問という重苦しい「住人怒色(じゅうにんどいろ)」で年があけたが、 2月にはトリノ五輪で「銀盤反舞(ぎんばんそるまい)」が見られた。 3月には、王ジャパンがWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で世界一に輝く「結果王来(けっかおうらい)」があり、 夏の高校野球では「投姿端麗(とうしたんれい)」ありと、スポーツ界では明るい話題が幾つか続いた。 秋には政権が交代し、「美治麗国(びじれいこく)」をうたう「晋総開店(しんそうかいてん)」があった。 全国の高校に「逸修科目(いっしゅうかもく)」が広まっていたことが判明し、 今は「いざなぎ」を超えるというが実感の伴わない「感無景気(かんむけいき)」の中にある。 これらの作品に誘われて、最近の問題について、もどきを考えてみた。 やらせのタウンミーティングは、いわば政府による「自作偽演(じさくぎえん)」だ。 これでは、ものごとが「官求事態(かんきゅうじたい)」や「官求自在(かんきゅうじざい)」にされかねない。 「岸回生風(きしかいせいふう)」の気配も漂う安倍首相は、官房長官時代の責任をとって報酬の一部を返納するという。 しかし、小泉政権が掲げた直接対話について世論誘導の疑いが指摘されたことは深刻だ。 前首相は、教育改革などで改めて本当の対話を試みてはどうか。 列島の北から南まで、知事の逮捕が相次いだ。 誰にでも、「慢心創痍(まんしんそうい)」や「思考錯誤(しこうさくご)」に陥りかねない時はあるとしても、これでは「地方自沈(ちほうじちん)」だ。 残る半月に、心が浮き立つようなことが一つでも多くあるようにと念じたい。 批判するのは,よりよい世の中になって欲しいからである。 政府に賛辞だけを送る国には是非なってもらいたくない。 教育基本法の改正を巡る国会の動きを見ていると 12月16日の天声人語からの引用 フランスの作家で啓蒙(けいもう)思想家のルソーは、著書『エミール』で理想的な教育のあり方を熱っぽく語った。 自然を偉大な教師とし、子どもの本性を尊重することを説く。 そして最もよく教育された者とは、人生のよいこと悪いことに最もよく耐えられる者だと述べる。 「だからほんとうの教育とは、教訓をあたえることではなく、訓練させることにある」(岩波文庫・今野一雄訳)。 従って、教える側に対しては厳しい。 「一人の人間をつくることをあえてくわだてるには、その人自身が人間として完成していなければならない」という。 これでは、資格のある人はまず居ないのではないかと考えてしまう。 しかし、教育の根本を、それほどまでに厳粛なものととらえていた姿勢は、胸を打つ。 教育基本法の改正を巡る国会の動きを見ていると、残念ながら、教育の根本を扱っているのだという厳粛さが伝わってこない。 審議の質は、これまでにかけた時間だけでは測れないはずだ。 ましてや、この改正と密接に関係する政府主催の教育改革のタウンミーティングには 「世論誘導」が指摘され、そのあきれた実態が明らかになったばかりだ。 首相や文部科学相が報酬を返納し、文科省の幹部職員ら多数が処分されたことを軽く見過ぎてはいないか。 処分が出たからといって、あの「世論誘導」の集まりそのものが消滅したわけでもない。 教育の現場や子どもたちに、国会の動きはどう映っただろうか。 子どもたちや、そのまた子どもたちの未来にかかわる法案にふさわしくない、性急な採決だった。 教育の基本の法律制定がこんな状態では泣く。戦前の愛国心に凝り固まった世の中へ一歩ふみだしたのか。 大阪市立科学館が購入した アルゼンチン製の「モバイル・プラネタリウム」だ 12月17日の天声人語からの引用 トランク二つとずだ袋一つを手押し車に載せて現れた学芸員が、15分かけて組み立てたのは、プラネタリウムだった。 扇風機で空気をドームに送り込んで膨らませ、中に投影機をセットする。 直径7メートル、高さ4・5メートルのドームに入ると、大阪の星空が広がっていた。 大阪市立科学館が購入したアルゼンチン製の「モバイル・プラネタリウム」だ。 米国製や日本製と違って機能は少ないが、軽くて持ち運びが便利、操作も簡単で、何より安いという。売れている米国製のほぼ半値の220万円だった。 タンゴやサッカーの国といったイメージだが、意外なものをつくっている。 一度に50人が入ることができる。 あすから市役所の玄関ホールにお目見えする予定だ。 今後は科学館に来られない子どもたちのために、病院や学校に「出前」をすることにしている。 科学館には、ドームの直径26・5メートルの常設のプラネタリウムがある。 日本では5番目の大きさで、世界でも5位だ。 世界のベスト5は日本が独占しているそうだ。 とはいっても大きさの話で、数では圧倒的に米国が多い。 大阪はもともとプラネタリウムとかかわりのある街だ。 科学館の前身にあたる電気科学館で37年(昭和12年)、東洋圏で初めてドイツ製のプラネタリウムが公開された。 物珍しさに東京からも客が訪れたそうだ。 プラネタリウムでは、最近もっと小さい家庭用も人気を呼んでいる。 2万円前後で、4畳半の部屋でも天井に「満天の星空」を映し出す。 癒やし効果なのか、昨年の発売以来15万台を売り上げているという。 子供の頃に見たプラネタリウムが簡単に見ることができるようになってきた。 戦前の頃に比べ多くのプラネタリュムが沢山に出てきている。 築地市場の正門に、気になる掲示板がある。 日々、落とし物や忘れものが書き出されている 12月18日の天声人語からの引用 地下鉄を降りると、魚のにおいがする。 都営大江戸線の築地市場駅。 朝日新聞の最寄り駅なので、毎朝のように鼻をくんくんさせている。 年の瀬を迎えて、市場かいわいは、おせち料理の材料を買い求める人々でごった返し始めた。 市場の正門に、気になる掲示板がある。 日々、落とし物や忘れものが書き出されている。 「ふぐ1尾、はも1尾、ひらめ2尾」「数の子」「かんぱち、あいなめ」「かわはぎ」などなど。 おいしそうな品物がいつも並ぶ。 生ものが多いので、ついつい心配してしまう。 腐る前に持ち主が現れればいいけれど、来ないときはどうするのだろう。 出入りの業者が引き取って、さばくのか。 そう思って、市場のベテラン職員に問い合わせたら、「去年まではそうでした」という答えが返ってきた。 規則に沿って、業者が買い取る。 その売上金を警察に届け出る。 半年たって、だれも名乗りでなかったら、その代金を届け主にきちんと渡す。 いまどき、ほっとするような制度があった。 それが昨夏から、「安全と安心を優先させる」という理由で、日を置かずに廃棄処分にするようになった。 「テロ対策」のひとつだという。 保管中に爆発でもしたら困ると考えてのことだ。 かつては、冷凍マグロが一匹ごろんと落ちていたり、逃げ出したスッポンが歩いていたりした。 テロの影などなかった時代のこぼれ話だ。 で、スッポンはどうなったのか。 さぞ高値がついたろうと思いきや違った。 雑食なので、逃走中にゴミも食べたかもしれないと敬遠され、売れなかったらしい。 鮮魚の落し物では困りものである。換金してから落とし主に返すのは良い考えだ。 北朝鮮の核問題を巡る6者協議が 約1年ぶりに北京で始まった 12月19日の天声人語からの引用 6人が、手を差し伸べてつなぎあう。表情は硬い。 その思いはさまざまに、北朝鮮の核問題を巡る6者協議が約1年ぶりに北京で始まった。 南北朝鮮と日米中ロの6者が並んだ写真から、ここにもう1本、「アジア」という手が差し伸べられるさまを想像した。 冷戦時代の緊張が残る朝鮮周辺の極東地域は、その動向がアジア全体の安全を大きく左右する可能性を常にはらんでいる。 6者協議が、それを意識して進められるとしても、「アジア全体」という視点が加わることは無益ではないだろう。 今回の6者協議が実のあるものになることを願いながら、その場に「アジア」というひと色が足りないような気がした。 谷川雁に、「大地の商人」という詩集がある。「 おれは大地の商人になろう/きのこを売ろう あくまでにがい茶を/色のひとつ足らぬ虹を」 七色にひとつ足りない虹は、本来の虹ではない。 しかし色がひとつ足りないことが、何かを強く希求し続けるような不思議なエネルギーや力を感じさせる。 日本が加盟して昨日でちょうど50年になった国連も、色のひとつ足りない虹かも知れない。 世界の平和を維持し、生み出すことを期待されながら、現実には大国の思惑によって動きが左右されることも多かった。 しかし国際社会に、虹になりうる仕組みは他に見あたらない。 今の国連に楽観も悲観もせず、いつかはもう一つの色が出るように磨いてゆく。 6者協議も国連による世界平和の実現も、気の遠くなるような道程が必要かもしれないが、掲げる旗は高い方がいい。 六者協議は結局に誰もが予想したとおりに終わっている。何か前進があるのかどうかは判らない。 こうした実体験や鮮烈な記憶の伝達が確実に続けば 12月20日の天声人語からの引用 夜中に突然暴れ出す父親を持った幼なじみから、加藤紘一衆院議員が聞いたという。 うなされたように叫び、家の物を手当たり次第に壊す。 戦争体験のあるその父親は我に返ると言った。 「憲兵としてやらざるを得ずにやったことだけど、一日に三人を殺すのは、それはもう大変なことなんだ」。 加藤氏は新刊の『テロルの真犯人』(講談社)で「殺した人間もまた、そのことによって苦しみつづける」と書いた。 直接には戦場を体験しなくとも、こうした実体験や鮮烈な記憶の伝達が確実に続けば、戦争の実相を次の世代に伝えられる。 しかし加藤氏は懸念する。「戦争の記憶がほぼ完全に失われようとしているいま、 フィクションがリアルにとってかわりつつあるように感じる」 安倍晋三氏は、戦後生まれで初めての首相となった。 前首相の小泉氏も戦場の体験は無い。 政治のリーダーも国民も戦争を知らない世代で占められてゆく。 そんな時代には、実体験よりもフィクション化された戦争の方が現実味を帯びて受け入れられかねない。 加藤氏は「時代の空気」が靖国参拝を是とした首相を選び、 メディアを通じて首相の参拝に反対した加藤氏の実家への放火テロを招いたとも述べている。 時代や体制を問わず、言論が暴力で封じられた時には、権力によって惨禍がもたらされる。 その権力の動向を見つめ、暴走をとどめるために力を尽くすのが、言論活動に携わる者の大きな務めのひとつだ。 あの加藤氏へのテロは、メディアへのテロでもあり、人間の尊厳に対するテロだった。 テロが一部の軍人によって天皇陛下の為になされた昭和の始め頃が思い出される。 明治維新の頃もそうであつた。 最近の言葉から 12月21日の天声人語からの引用 最近の言葉から。 ドーハでのアジア大会開会式で、20年ぶりにイラク国旗が翻った。 クウェート侵攻での資格停止が解けた。 「国民の心になじんだこの国旗の下で戦えることを、誇りに思う」と選手。 太平洋戦争の開戦から65年。 京都市の陶芸家小川文齋さんは特攻隊で戦死した兄を思い、トンボを描いた作品を作ってきた。 詩もある。 「子供の頃の思い出は/とんぼとりに魚つり……落ちた兄貴よ海中の/花となるより願わくば/とんぼとなりて大空を飛べ」 開戦前夜、ナチスの青少年組織ヒトラー・ユーゲントが来日し、熱狂的な歓迎を受けた。 伊勢神宮の近くで見た高橋三男さんが語る。 「戦争なんて誰も内心は喜んでいなかった。 しかし、気がつけば、それが言えない世の中になっていた」 貧しい人向けの無担保融資でノーベル平和賞を受けたバングラデシュのグラミン銀行のユヌス総裁が述べた。 「テロに軍事的に対処しては、うまく行きません。 当面の問題は消えても、不公正の意識は残るからです」 徳島県の大田正・前知事は、故郷の山で「きこり」として働く。 最近の自治体の問題について。 「特定の人のためにでなく、すべての県民のためにお金を預かっていると肝に銘じれば、官製談合などできないはずなのに」 青色発光ダイオードを開発した中村修二さんが語る。 「まだだれも行ったことがない場所を、飛行船にのって探検している気がした」。 徳島大で学生結婚し地元に残った。 「一番大きかったのは、私が日本の主流からはずれていたことかもしれない」 岸田今日子さんが、76歳で亡くなった。 12月22日の天声人語からの引用 幼い頃から、とにかくよく眠る人だったようだ。 「学校の授業も、半分以上眠っていただろう」。 長じて俳句を詠むときには、俳号を「眠女(みんじょ)」にした(岸田今日子『あの季(とき)この季(とき)』知恵の森文庫)。 岸田さんが、76歳で亡くなった。 睡眠過多症の他に高所恐怖症、方向音痴などを自認していた。 ぼんやりとたたずめば、そのとらえどころのないようなところに確かな存在感が宿るという不思議な俳優だった。 長い眠りからさめた大きな目には独特の輝きがあり、まなざしは人を現実から別世界へと誘うかのようだった。 映画の「砂の女」や「秋刀魚(さんま)の味」、アニメのムーミン、そして童話の朗読。 妖艶(ようえん)さや霊妙さに穏やかさと純真さを備えた独特の声を、ゆったりと転がすようにして演じ分けた。 手元に1枚の手書きの資料がある。かつての本紙連載「新人国記」の取材班に岸田さんが寄せた。 生年月日欄の生年が空白で、脇にこうある。「もう書かないことにしました」 名前の欄は当然ながら「岸田今日子」だが、ひときわ大きく書かれた「今」の字に妙な味わいがある。 「ラ」のような部分が、あのふっくらとした唇を大きく開いて笑っているように見えてくる。 父は劇作家の岸田国士で、中学2年の時に岸田家で開かれた家族ら4人の句会が初めての句会だったという。 〈黒猫の影は動かず紅葉散る〉はその時の一句で、大人びた感性がうかがえる。 後年にはこんな句を詠む。 〈春雨を髪に含みて人と逢う〉。 少女と女とが早くから、そしていつまでも同居していたのかも知れない。 映画「砂の女」を戦後に学校の運動場で上映されたのが大変記憶に残っている。 男と女の置かれた状態が抽象的に表現された映画だったように記憶している。 税金の取り方を議論する政府税制調査会の、 就任したばかりの会長が辞任に 12月23日の天声人語からの引用 永井荷風の日記「断腸亭日乗」には、税金に関する記述が繰り返し出てくる。 税務署の指摘の細かさや厳しさについても記す。 「楊枝の先にて重箱のすみをほじくるとは実にかくの如きことを謂ふなり」(『荷風全集』岩波書店)。 昭和6年の日付だから70年以上も前だが、この感想には、そう古びた感じがしない。 納税は憲法で定められた国民の義務だが、いつの世にも税の悩みは尽きないのだろう。 古代の世界では、税の徴収は厳しく行われたという。 エジプトにサッカラという都市があり、紀元前2300年ごろの浮き彫りに徴税の仕方が記されている。 3人の租税義務者が王の税務書記の前にひざまずき、もう1人の義務者が監視人に肩をつかまれ、むち打たれてひざまずかされている。 違反者が柱に縛られ、むち打たれている場面もある(シュメルダース『租税の一般理論』中央大学出版部・中村英雄訳)。 こんな体罰こそないが、むち打たれる思いで税金を納めている人も少なくないだろう。 その税金の取り方を議論する政府税制調査会の、就任したばかりの会長が辞任に追い込まれた。 「一身上の都合」が辞任の理由だという。 東京都心の格安の官舎に妻以外の女性と暮らしていたとすれば、納税する側は釈然としない。 『国富論』で知られるアダム・スミスは、租税の原則のひとつに「公平」を挙げた。 税の基本を議論し取りまとめる立場の人に、不公平感を招く優遇はそぐわない。 安倍首相が事情を知っていたかどうかは分からないが、任命責任は決して軽くない。 税は憲法で定められた国民の義務だが,税金の取り方を論議する最高責任者が不正していることがわかれば 税金も納めたくなくなるのも当然である。 太宰が書いた短編小説「メリイクリスマス」 2月24日の天声人語からの引用 歳末の混雑の中、高速道路の車が、歩くようにゆっくりと動くのが見える。 街角には無数の豆電球が瞬き、どこからともなくクリスマスの歌が流れてくる。 いつもながらの季節の光景だ。 終戦の翌年というから今から60年前に、作家の太宰治からクリスマスプレゼントをもらった母と娘がいた。 それは、ふたりをモデルにして太宰が書いた短編小説「メリイクリスマス」の載った雑誌「中央公論」だった。 小説は、主人公の笠井が東京郊外の本屋で久しぶりに娘と出会うところで始まる。 娘の母親は笠井にとって「思ひ出のひと」のひとりで、成長した娘の姿はまぶしく映った。 娘は、はじめは母は健在だと言うが、笠井を案内して家の前まで来た時に突然泣き出し、空襲で亡くなったと告げる。 ふたりは、母をしのんでしばらく店で飲む。 居合わせた酔客が、通りを行く米兵に向かって出し抜けに叫ぶ場面で小説は終わる。 「ハロー、メリイ、クリスマアス」。 後味に敗戦の苦さも感じられる。 小説で娘の「シヅエ子ちゃん」として出てくるのが、当時18歳だった林聖子さんだ。 実際には、母の富子さんは終戦から3年後に亡くなった。 やがて、聖子さんは新宿に酒場「風紋」を開く。 今月、45周年を迎えた。 風に吹かれて姿を変えてゆく風紋のように、時代は移り変わった。 「あっという間でしたね」と聖子さん。 60年前、太宰は着物の懐から雑誌を取り出して言った。 「これは、ぼくのクリスマスプレゼント」。 その時の、ひどくまじめな顔は、今も鮮やかに胸に残っているという。 クリスマスもいつの間にか過ぎたようなクリスマスだった。 有馬記念でのディープインパクトの勝ち方は 2月25日の天声人語からの引用 今年最後の大レースを、このレースが最後となる馬が制した。 昨日の有馬記念でのディープインパクトの勝ち方は、胸のすくものだった。 後方からぐんぐん抜いていって、大きく引き離す。 これは、いつも通りの勝利の形だという。 しかし、激しく地をけって抜け出してゆく時の躍動感あふれる姿には、 最後のレースにふさわしい輝きがあり、馬名のように大きくて深い衝撃があった。 10月にパリで凱旋門賞に挑んだが3着で、欧州で禁止されている薬物が検出されて失格とされた。 この暗い影を完全に吹き飛ばすような雪辱のレースにもなった。 結局、国内で敗れたのは、昨年の有馬記念だけだった。 歴戦でのディープインパクトの勝利の陰には、敗れ去った馬たちがあり、賭けに敗れたファンたちも居た。 競馬を愛した寺山修司は「賭博には、人生では決して味わえぬ敗北の味がある」と述べている(『両手いっぱいの言葉』新潮文庫)。 馬の勝ち負けと賭けの勝ち負けは別ものだが、勝利と勝者は限られ、敗北と敗者が限りなく多いところは通じている。 そのことが、競馬が人を引きつける魅力の一つなのかも知れない。 ディープインパクトとは逆に、敗れ続けることで全国にその名が知れ渡ったのは、高知競馬のハルウララだった。 勝たないことで人気が出る馬があり、勝ち続けて名を残す馬がある。 ほかの多くの馬の歩みは、この2頭が描いてきた極端な軌跡の幅の内側にある。 今年限りで引退の2頭に、人生の幅というものを重ねて見てきた人も少なくはないだろう。 競馬には興味がない。ディープインパクトは一番でハルウララは常にびりで名を馳せている。 その中間の馬たちはどうだったのだろうか。 「感どうする経済館」は 2月26日の天声人語からの引用 壁に、赤い数字がずらりと並んでいる。 773兆5630億とあって、それ以下の万単位の数は見ている間にどんどん増えてゆく。 内閣府が東京都内に昨年開設した「感どうする経済館」に表示されている「日本の借金」のすさまじい増え方だ。 計算すると、1分間に1千万円近くが増えているという。 20分で増える約2億円分の1万円札に見立てた紙を詰めたリュックサックが床に置いてあり、背負ってみることができる。 約20キロあるという。 両手でも、そう軽々とは持ち上がらない。 係の人に手を添えてもらって背負うと、後ろに引っ張られる感じがする。 もちろん歩けるが、これを背負って遠くまで行くのは容易ではない。 政府が07年度の予算案を閣議決定した。 一般会計の総額は約82兆9千億円で、借金にあたる国債の新規の発行額は少し減るものの残高は膨らむ。 所得税の負担増がある一方で、企業の方には減税が用意された。 企業に比べて家計への恩恵は乏しいようだ。 首相は「財政健全化の意思を内外に示すメッセージ性の強い予算編成になった」と述べた。 しかし税収の伸びに恵まれた面があり、借金頼りの財政難は続く。 「感どうする経済館」は昨日、家族連れなどでにぎわっていた。 「子どもが驚き 大人がうなる 日本経済のミュージアム」がうたい文句だという。 途方もない借金に子どもたちが驚くことは確かだが、大人はうなっていればいいというものではない。 国会や官庁の面々もリュックの重みを体験し、荷を少しでも軽くするすべを真剣に探ってほしい。 経済のことは良くわからないが,借金をしようとすると担保と保証人が普通必要である。 国が簡単に借金できるのはどうしてなのだろうか。? 東京都のど真ん中に宮城と明治神宮の膨大な土地がある。そして至る所全国にある御陵これも膨大な土地で, そんな土地を全て売り払えば借金返済できて,さらに余りがあるのではなかろうか。 せめて平安時代までの御陵の考古学的な調査ができるようにすべきである。 我々の庶民の墓は50年経つと土に返り五輪塔の中に先祖が全員が一緒に埋葬されることになっている。 万世一系というものの不確かな時代が沢山ある。でも天皇家ほどに履歴の判った家庭はない。 一般の老舗でも非常に古くとも室町時代からで,それも極めて珍しい。 死刑廃止運動に加わり、 2月27日の天声人語からの引用 刑場まであと少しの所で男が言った。 「すまんけど、目隠しを……」。 「きつかったかい」と尋ねる係官に「いいえ。 一度はずしてください」 。しばり直すわずかの間に天を仰ぎ、つぶやいた。 「……広い空ですね」。 名古屋刑務所の刑務官だった板津秀雄さんの『死刑囚のうた』(素朴社)の一節だ。 その日は今日か明日かとおびえ、あるいは、従容として刑場に向かう。 いくつもの「死刑の現場」に立ち会った人の証言は重い。 後に死刑廃止運動に加わり、98年に亡くなった。 法務省が、4人の死刑囚の刑を執行したと発表した。 1年余ぶりの執行で、一度に4人は97年以来だ。 背景には、死刑確定囚が100人を超えることへの法務省の懸念があるともいうが、ことは数の多少で左右されるものだろうか。 昨日は名古屋高裁で、死刑囚の再審請求についての決定があった。 61年に三重県で起きた「名張毒ブドウ酒事件」で、同じ高裁が昨年認めた再審開始の決定を取り消した。 事件がむごたらしいことや、裁判官によって判断が異なりうることは分かる。 しかし、長い歳月、冤罪を訴えつつ死と隣り合わせになってきた身も思われた。 刑法学界の重鎮の団藤重光さんは、東大教授を経て最高裁判事になった。 実際に死刑事件を扱う立場に立ってから、取り返しのつかない誤判の恐ろしさを心底理解したという。 「いまさらながら事実認定の重さに打ちひしがれる思いでした」(『死刑廃止論』有斐閣)。 09年に裁判員制度が始まれば、誰もがその重さを背負う可能性が出てくる。 素人が裁判に加わるのはアメリカ映画でよくみる。其のまねをして日本でも導入されるようだが,伝統も風習・習慣が違う 日本でうまく行くかどうか。東洋人には東洋的な制度があってよいように感ずるのだが。 耐震強度偽装事件の判決公判で、 2月28日の天声人語からの引用 鉄筋の量を減らした「経済設計のできる有能な建築士」との評価を得るようになり……。 耐震強度偽装事件の判決公判で、東京地裁の川口政明裁判長は、 元1級建築士の姉歯秀次被告が偽装を続けるようになった経緯を、こう述べた。 裁判長は、マンションの購入を「一生に一度の買い物ないし人生で最大の買い物」とした。 その最大の買い物が、命を保障する最低限の水準すら満たさないばかりか、 住むことができないのにローンの支払いを迫られるという被害者のつらい立場にも言及した。 姉歯被告は国会の証人喚問で、木村建設側からの圧力を機に偽装したと述べた。 しかし判決は「市場原理の前に屈した犠牲者のように演じた」と批判した。 国民の注視する国会で、いわばもう一つの偽装をしていたとすれば、罪は重い。 今年も偽装や詐欺といった、だましの絡む事件が目立ったが、今度は閣僚の足元で「偽装」の問題が浮上した。 佐田行革担当相が、実体のない事務所を政治団体の所在地として届けていたと報じられ、辞任に追い込まれた。 この政治団体の政治資金収支報告書によると、90年から00年までに事務所費などの名目で約7800万円が支出されたという。 それが何か別の目的での支出だったのではないかとの疑いもある。 事実なら、報告書を「偽装」したことになる。 安倍内閣が発足して3カ月。 政府税調会長が官舎使用の問題で辞任したばかりだ。 耐震偽装では、建物を支える鉄筋の量が問題になった。 内閣の方は、それを支える屋台骨の質が問われている。 耐震強度偽装事件は何もかも民営化,民営化で引き起こした事件のひとつである。 民営化がなければ起きることのない事件だった。 効率を求めると必ずにこのようなことが出てくる事わかっていなかった。 会社は利益が優先してことが動くものである。 静岡県浜松市のイトーヨーカドー 浜松駅前店にある「子ども図書館 2月29日の天声人語からの引用 目を丸くし、手を握りしめ、主人公と一体化して物語の世界に入り込んでいく。 小さな子に絵本を読み聞かせると、そんな純粋さが伝わってくることがある。 その喜びを、いつまで感じられるのだろうか。 静岡県浜松市のイトーヨーカドー浜松駅前店にある「子ども図書館」の司書たちは、不安になった。 3階のおもちゃ売り場近くの約130平方メートルに、絵本や児童書約1万冊が並ぶ。 19年前にできて、買い物途中の親子らが利用してきた。 しかし、年々郊外店に客を奪われ、この店は年明けに閉店となる。 子どもの目線に合った図書館だ。 絵本は表紙を前向きに棚に置かれ、色や形の違う本がそれぞれ「読んで」と訴えてくるようだ。 棚は高さ120センチ以下で、小さい子も自分で手を伸ばして取っていく。 何世代も繰り返し読まれてきた本が多く、頼めば司書が朗読してくれる。 「子どもの心を育める場を残して」。 この地域の親たちが、今年の夏から秋までに約1万3千人の署名を集めた。 「親子2代で親しんできた」「人見知りだった娘が司書さんとなじみ、少しずつ自立していった」。 そんな思いが積み重なった。 当初は年5万冊を超えた貸し出しが、少子化や活字離れもあって約1万冊に減っている。 ヨーカドーはコスト減か社会貢献かで揺れたが、「署名に後押しされました」。 来年、最寄りの店に移すことが決まり、図書館は生き残った。 「子どもたちを育て、子どもたちに育てられた図書館です」と司書の山本准子さんは話す。 冬休みに入り、いくつもの絵本を読み聞かせている 小さな便利な図書館でもいうものか。でも現在使い捨てのじだいかどうか100円で本がかえるようになってきている。 情報入手の方法がパソコンのインターネット検索からでも情報が手にいれることができる。 これが今後大きな情報獲得手段となるのかどうか。今ではまだまだ図書に頼ることが多い。 アイルランド出身のノーベル賞作家 サミュエル・ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」 2月30日の天声人語からの引用 今年も、明日の大(おお)晦日(みそか)を残すのみとなった。 一年を顧みながら、近づく新しい年の足音に耳を澄ます。 どんな年が来ようとしているのか。 歳末のあわただしさやざわめきの中に居つつ、何かを待つことが身にしみる時節だ。 「田舎道。一本の木。夕暮れ」。 そんな舞台の上で、二人の男が「ゴドー」なる者を待つ。 アイルランド出身のノーベル賞作家サミュエル・ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」の始まりの場面だ。 いつまで待っても、ゴドーは現れない。 そして、二人はこう言い合う。 「じゃあ、行くか?」「ああ、行こう」。 二人は、動かない??幕(安堂信也、高橋康也訳『ベケット戯曲全集』白水社)。 二人は、動かないのではなく、動けないのかも知れない。 それは、閉塞(へいそく)感が濃く漂う時代や、そこで営まれる人々の生や孤独といったものを示すようにも思われる。 パリでの初演から半世紀余りになる。 ひたすら待ち続けるだけという、それまでの作劇法を否定する手法は衝撃的で、「不条理演劇」の代表作として世界で広く演じられてきた。 今年は、ベケットの生誕100年にあたっていた。 ダブリン近郊の生まれだが、彼は、母親の胎内にいたころの、誕生前の記憶があると公言していたという(『ベケット伝』白水社)。 あの三島由紀夫は、生まれた直後の、産湯を使ったときのことを覚えていると言っていたというが、天才の世界とは限りの無いものらしい。 間もなく、新しい年が生まれようとしている。 ゴドーとは違って、それは確実にやって来る。 ゴドーを待ちながらということはどういうことなのか,もうひとつ理解に苦しむところがある。「二人の男が「ゴドー」なる者を待つ」というから 人を待っているのだろうか。よく理解できない。理解できないことを判ろうとする閑もない。 江戸から明治時代にかけて、 年の瀬は厳しいものだった 2月31日の天声人語からの引用 ことし最後の日をむかえた。 やれ大掃除だ、それ年賀状だ、と気ばかり焦って、ちっともはかどらない。 それでも、どうやら年は越せそうだ。 ありがたい。 江戸から明治時代にかけて、年の瀬は厳しいものだった。 つけ払いの代金をとり立てる「掛け取り」に追われる庶民の話の何と多いことか。 馬子唄(まごうた)で「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ」とくれば、結びは「大井川」だ。 だが、もとは「大(おお)晦日(みそか)」だったという。 そんな大みそかに大団円を迎えるのが、落語『芝浜』だ。 怠け者の魚屋が大金の入った財布を拾い、浮かれてどんちゃん騒ぎをする。 ところが一夜明けて、女房から財布なんぞ知らない、夢だよと言われてしまう。 それを真に受け、改心した魚屋は酒を断ち、仕事に励む。 そして3年目に財布の存在を明かされて……。 痛飲して、記憶が途切れたことのある身には、宿酔の朝に、夢だよと突き放される場面が切ない。 まさか、そんな、とほほ。 不覚にも、そんな経験をお持ちの方もおられよう。 ただ、目ざめたくない夢など、そうめったに見られるものではない。 それに比べて、ことしも悪い夢としか思えないような惨事が、世にあふれた。 親がわが子をあやめる。 いじめを苦にした自殺や、飲酒運転の事故も続発した。 イラクのフセイン元大統領が処刑されたが、現地での死者は増え続けるのではないか。 こよい、除夜の鐘が聞こえたら、耳を澄ましてみる。 忘れてしまいたい思い出と、忘れてはならぬ記憶が、胸の中に降り積もるに違いない。 そして、年が改まる。 日頃毎日が連続しているように思いながら生活している。でも大晦日と正月とでは全く違った日のように感ずる。 同じ毎日なのだが,正月はそこら中が新しくなったような気分になって新鮮な気持ちになるのが不思議である。 正月になってから,これを書いているから,大晦日はどのようにしていたのか。? 子供の頃の大晦日 正月の方が印象的に思い出される。氏神だった藤森神社に元旦の朝お参りして, 稲荷神社は正月の間は毎日のように通って,大勢の人波の中にもまれながら各店を見ながら楽しんでいた。 でも今の年齢になると人ごみを避けてお参りしている。 藤森神社も稲荷神社も身近なお宮さんであった。今では大晦日の餅つきはしなくなっている。 何処の家庭も同じと思うのだが。でも仕来たりを重んずる家庭が今もあることを知った。 近くの向島酒造の「伏見老舗造り酒屋蔵元の娘がつづる京案内」の書物は大変楽しみながら面白く読んだ。 一度近くなので直接宴会に出た伏見の酒「振り袖」を買いにいったことがある。 双栗(さぐり)神社の神木と伏見稲荷神社の千本鳥居 、海住山寺の雲海 双栗(さぐり)神社はあまり知られていない。京都の旧郷社で京都府久御山町佐山にある。 祭神は天照大神、素盞鳴命, 事代主命、品陀和気命息長帯日姫命 大雀命などとなってはいるが天照大神以外は知らない。 「延喜式」神名帳に双栗神社三座とみえ,「三代実録」の貞観元年(859)正月二十七日条の従五位下を叙位された「双栗神」に比定されている。 神社の履歴は別として,かなり古い社であることには間違いない。 大体に現在の城陽市より南は奈良平城京の影響が強く,古い神社・寺院が多くて,その反面,平安時代以降は少なくなってくる。 この社の本殿の後方に大きなクスノキがありその幹にはしめ縄が巻かれてある。 その大木の前に立つと人間が小さな者だと思い知らされてくる,そして自然に頭が下がる思いにかられる。 神木の前には小さな祠がしつられてあった。 その他にもその神社の森林には多くの巨木があるがこれほどには大きくはない。それぞれ同じように木にはしめ縄がしてあった。 木の大きさは,木の周囲に6メートル50センチの「しめ縄」が張られてあるようだ。神社関係の方から聞いた話である。 昔の人たちが巨木・巨岩のような自然に対し大変な謙虚な気持ちになってゆくのがよく理解できた。 多分此の木は,屋久杉ほどには大きくはないと思うが。 次に稲荷神社のお山を歩くと朱の小さな鳥居がぎっしりと連なって建っている。 登る際にはただただ朱の色が目に付き下の方は黒色に塗っていて,鳥居の根元が腐らないようにしてある。 色鮮やかな赤と黒のコントラストが美しく,気分が和むと同時に,朱でもって気分が高揚する感じをうける。 千本鳥居が多く建つようになったのは明治維新以後のことらしい。 稲荷山の三の峰 二の峰 一の峰とのぽって行く。その間に,ほどよいところに休憩所がある。 千本鳥居の下をくぐってお山を登るのは気分が良い。 下千本鳥居には下山の時に寄進した人達の名前がわかるようになっていて広告効果があるようだ。 途中には場所を選び至る所に塚がありそれぞれの自分の神が祀られてある。 其の塚は一万以上あるらしい。万(よろず)の神々のお山だ。 同じように伏見の上醍醐を目指し醍醐の山も登るのだが,周囲はただ景色だけで,かなり歩くと疲れを感じてくるが 稲荷神社は比較的急な階段以外は疲れを感ずることは比較的少ないように思った。 これは鳥居の朱と少しの黒色の効用によるものかと思ったりしている。 次に海住山寺は奈良寄りの京都側の山の中腹にある。正確には京都府加茂町になる。 聖武天皇が建都した恭仁京と関係があり,恭仁京が造営された際に同時に建った寺院である。 国宝の五重塔が小さいながらも大変美しい。寺院境内には恭仁京を見下ろすことのできる展望台のような場所があって そこからは下界が一望できる。 海住山寺のいわれ(由緒)を聞くと丁度雲海の中にある山の寺だからとそのような名前がつけられたと寺院関係者から聞いた。 上ったときは昼間だったので雲がたなびくようなことはなかった。 以前,東京へ行く用事があり,京王プラザホテルに泊まったとき丁度朝食をとる場所が 高層ビルの一番上階になっていて食事を取ったことがある。 そうすると食事している目の前を雲が横切るのを見た,これは恰も雲の上にいるような気分になったことがある。 多分この海住山寺も同じように眼前に雲を見て恰も雲の上にいるような気分になるような地理的な場所にある寺院ではないかと想像する。 これらの神社・寺院を数々訪れてみて昔の人達の知恵で,人間の身体に良いような工夫がなされているのではないかと思うようになった。 観音寺は大体に山の頂上に在る。 今では自動車で山上まで行けるが,昔の人達は長い旅をし山ふもとから登ることになる。 観音寺を参ると月参りしている人達に会ったりすることがある。 四国八十八箇所 西国四十四箇所参りにも,それぞれ参ることによって自然に運動をして同時に,自然の中で神仏に詣で心の平安を得る, 心身共に健康に良い効果を収めるのが,一番のご利益なのかも知れない。 これはずーと昔から続いている。昔の人たちによる長年に渡わたる知恵の結晶ではあるまいか。 戻る 11月 12月 1月分
12月1日の天声人語からの引用
傷ついた鶴だった自分を救ってくれた与ひょうのため、つうは羽根で美しい布を織る。 しかし与ひょうは、悪い男にそそのかされ、布を売って金もうけに走る。 相手を愛そうと布を織ることが、相手を自分から引き離してしまった。 この自作の戯曲「夕鶴」に、ドラマというものの本質が含まれていると、木下順二さんは述べた。 「自分が最も望んでいることをしようとする、その行為そのものが、自分の最も望んでいないものを生み出す」 (『日本語について』労働旬報社)。 「子午線の祀(まつ)り」や「オットーと呼ばれる日本人」で知られる劇作家の木下さんが92歳で亡くなった。 与ひょうのような人間の弱さや業を見据え、深みのある言葉でつづった。 ドラマについては、こんな言葉もある。 「無限の過去から無限の未来へつながっている時間、また無限定にひろがっている空間、それを、限られた上演時間と限られた舞台空間の中に、 いわば引き撓(たわ)めて凝縮的・圧縮的に表現するものである」(『巨匠』福武書店)。 特定の時と場所を超えた人間の普遍的な営みを描こうとしたようにみえる。 そして平和への強い思いは、あの戦争に至った過去を忘れては未来が無いということから来ていたのではないか。 昨日、防衛庁を防衛省に改める法案が衆院を通過した。 「庁」という形は時代に合わないということのようだ。確かに、戦後61年は短い時間ではない。 しかし、悠久の時の流れの中では「一瞬」とも言える。 時空を超えてはばたくような、木下さんの大きな視点を思い起こしたい。 自己犠牲でもつて助けられた鶴が織る布を夫の与ひょうがその布を売りさばく姿を描いているのが「夕鶴」で 何か時代を超えて我々に訴えるものがあるような気がする。 第二次大戦でなくなった人達が鶴で今の我々が夫の与ひょうのような行為をしていないものだろうか。 中国に残された子供たちを 「中国残留日本人孤児」と呼ぶ 12月2日の天声人語からの引用 日本の敗戦の混乱の中で、中国に残された子供たちを「中国残留日本人孤児」と呼ぶことが多い。 作家の井出孫六さんは、言葉の厳密さを著しく欠くと書いている。 「自らの意思で『残り留まった』ひとなどいるわけはなく、さまざまな事情で『置き去』られた人びとであった」(『終わりなき旅』岩波書店)。 置き去られた事情は個々に違っても、置き去られた状況は日本の敗戦によるものだった以上、置き去った主体は国家といってよいと続く。 「『残留』ということばからは、主体の姿も消し去られているといえぬだろうか」 その「主体」の責任を厳しく問う判決を、神戸地裁が言い渡した。 孤児の帰国の妨げとなる違法な措置を講じたうえ、帰国後も自立を支援する義務を怠ったとして、国に賠償を命じた。 孤児を日本人と認めず、外国人として扱う方針を貫いたとも指摘した。 「私は、子供を捨てて逃げた日本人のことを、冷酷だとは思いません……捨てなければ、まちがいなく皆、死んでいたでしょう。 捨てたからこそ、子供は生きられたのです」。 孤児を育てた中国の養父母の一人の言葉だ(浅野慎一・〓(にんべんに冬)岩『異国の父母』岩波書店)。 確かに「捨てたからこそ」かも知れない。 しかし、この人のように、国籍を問わず育ててくれた人たちが居たからこそ生きられたのだろう。 「落葉帰根」。 いつかは日本という根に帰りたいとの思いを込めて、孤児たちが口にする言葉だという。 中国で置き去りにされた人たちを、帰り来た木の根元で再び置き去りにしてはなるまい。 年老いた戦災孤児が今も中国に残っている。半世紀も経っても戦争の爪あと,は続いている。 戦争の罪の深さをば知るべきだ。
中国語を教える孔子学院は、 中国政府が国家プロジェクトとして 世界各国で始めた 12月3日の天声人語からの引用 「最初は儒学を教える学校だと誤解されました」。 中国大使館の1等書記官で、「孔子学院」に関する仕事を担当している胡志平さんはそう話す。 孔子学院は、中国政府が国家プロジェクトとして世界各国で始めた、中国語を教える教育機関だ。 日本では昨年、立命館大に初めて設けられた。 桜美林大や北陸大、愛知大、札幌大などが加わり、これまでに計六つの大学にできた。 このほか国公立大を含む10近い大学が、設置を希望しているという。 世界的にも大変なブームで、51の国・地域に120校以上ができている。 日本と中国の大学がそれぞれ一つずつペアを組み、中国側から講師が派遣され、教科書などの教材も提供される仕組みだ。 東京都町田市の「桜美林大学孔子学院」を訪ねると、上海の同済大から派遣されて来た女性講師が中国語の会話を教えていた。 生徒は若い人もいれば、定年退職した中高年もいる。 中国政府は孔子学院を立ち上げる際に、ドイツがドイツ語の普及のためにつくった「ゲーテ・インスティトゥート」を参考にした。 ゲーテのように国を代表する人物はだれか。そう考えて、孔子様を選んだそうだ。 桜美林大にはほかの大学からだけでなく、日本の外務省からも問い合わせがきている。 遅ればせながら、日本政府も同様の計画を考え始めたようだ。 ドイツがゲーテで、中国が孔子なら、日本は紫式部か松尾芭蕉か黒沢明か。 名前はゆっくり考えることにして、日本語と日本文化を知ってもらうための「学院」を、日本政府にもぜひ構想してもらいたい。 中国は12億人もの国民がいる国家である。歴史も古く古代からは文明が開けた地域である。 弘法大師 最澄などの留学生が彼の地で学んで日本文化が発展してきている。 一方近代には西洋文明を中国よりも早く取り入れて,飛躍的に日本は発展した。 でもまだまだである。 だが新しく日本も日本の文化を発信する基地をば創るべきである。 そうした体験を書いた「私とサッカー」が 中学生部門で最優秀賞に選ばれた 12月4日の天声人語からの引用 堂本歩さんは松山市立南中学校の2年生で、サッカー部員だ。 ただ1人の女子選手として、男子部員と一緒にグラウンドを走り回る。 違いがあるとすれば、右足に義足をつけていることだ。 歩さんは、生まれつき足に障害がある。 小学校2年生の時、一つ上の兄が地元のサッカーチームに入っているのを見て、自分もやりたい、と思った。 義足でできるか不安だったが、監督が「大丈夫」と言ってくれた。 とてもうれしかった。 それからずっとサッカーを続けている。 そうした体験を書いた「私とサッカー」が、障害者週間に内閣府が募集した作文の中学生部門で最優秀賞に選ばれた。 6日に東京で表彰式がある。 義足の右足でボールを思い切りけると、衝撃が大きい。 だから、シュートはもっぱら左足だ。 あまり激しく走ると、足が痛むことがある。 それでも、歩さんは「体なんて関係ない、気持ちが一番大切なんだと知って、サッカーを始める前より強くなれました。 障害をもっているからといって、できないことはないのです」とつづっている。 試合では、義足に対し、相手の選手や観客の視線を感じることがある。 だが、次第に物おじしないようになった。 めげそうな時には、「他の人のことは気にせず、堂々としていなさい」という両親や兄の言葉を思い起こす。 作文で「やりたいことは進んで挑戦してみたい」と書いた。 これから何に挑戦しますか。 サッカーの審判の資格を取りたい。 けがの予防や治療のテーピングの方法も学びたい。 そんな元気な答えが返ってきた。 義足をつけたハンディにも負けずに一人前以上活躍している人もいる。努力という根性が人並み以上もちあわせている。 人とはトータルで見るべきものである。 知能が劣っていても感性か人並み以上にある人に出会ったことがある。 「虎屋文庫」は 12月5日の天声人語からの引用 「虎屋文庫」は、ようかんで有名な虎屋がつくったものだ。 文庫と言っても、文庫本が並んでいるわけではなく、9人の研究員が日々、和菓子に関する資料を集めている研究機関だ。 先代の16代店主が73年に創設した。 機関誌『和菓子』を年1回出版している。 ホームページもつくっており、ここに月1回、「歴史上の人物と和菓子」というコラムが掲載されている。 美しい和菓子の写真に添えられた文章は素人にも興味深い。 今月中旬に掲載予定の「小堀遠州と十団子(とおだんご)」で70回目になる。 江戸初期の茶人で造園家だった小堀と、東海道名物の団子のかかわりを書くそうだ。 第1回に登場したのは織田信長だった。 西洋文化に関心が高かった信長は、宣教師から南蛮菓子の金平糖を贈られた。 水戸黄門で知られる徳川光圀は、虎屋に大きなまんじゅう100個を注文した。 注文の記録が社内に残っているという。 回り持ちでコラムを書いている9人の研究員の一人、今村規子さんは明治、大正の文学者を取り上げることが多い。 小説や随筆を読み、和菓子に関するエピソードを拾う。 芥川龍之介は汁粉が好きで、汁粉に関する随筆まで書いた。 夏目漱石と谷崎潤一郎はそれぞれ、ようかんの美しさを高く評価する文章を残している。 変わったところでは森鴎外の饅頭(まんじゅう)茶漬け。 ご飯の上に饅頭を載せ、煎茶(せんちゃ)をかけて食べたという。 虎屋文庫は展覧会を開くこともある。 次回は来年5月、変わった和菓子を展示する「和菓子百珍」を予定している。 饅頭茶漬けも展示されることになっている。 「とらや」は有名で聞いている。だが我が家の一番利用しているのは「総本家駿河屋」でそこでよく買い物はしている。 大手筋近くにあり,其の斜向かい前が料亭「魚三楼」だがここも古い。そして利用しているところである。 今月8日はジョン・レノンの命日だ。 12月6日の天声人語からの引用 東野圭吾さんの小説『手紙』は映画化にあわせて今年10月、文芸春秋から文庫になった。 帯に「たちまち100万部突破」とある。若い人たちによく売れているようだ。 強盗殺人の罪で刑務所に収監された兄のために、弟が社会からの差別や疎外に苦しむという話だ。 弟がジョン・レノンの「イマジン」を歌おうとする場面で、小説は終わる。 イマジンはいろいろなところで歌われる。 カンボジア内戦を描いた映画「キリング・フィールド」では最後に流れた。 今年のトリノ五輪の開会式にも登場した。 今月8日はレノンの命日だ。 熱狂的ファンを自称する男にニューヨークの自宅アパート前で銃撃され、死亡した事件から26年になる。 6年前、命日にたまたまニューヨークにいあわせたことがあった。 事件現場に行こうとしたら、地下鉄の駅であまりの人の多さに驚いた。 本当のファンに加えて、世界中からの「お上りさん」でごった返している。 日本人も数百人はいるように感じられた。 自宅アパート前のセントラルパークの一角に記念の庭園がつくられ、多くの写真や花束が供えられていた。 小雪が舞い、路面から冷気がはい上がってくる中、黙祷(もくとう)したり、大声で祈ったり、合唱したり、人々の弔意の表現方法は様々だった。 今年も多くの人たちがあの庭園に集まって、故人をしのぶのだろう。 日本でも、さいたま市に「ジョン・レノン・ミュージアム」という施設がある。 00年につくられ、年間4万人が訪れる。 8日は開館時間を午後9時まで延長して、献花を受け付けるという。 ジョン・レノンは我々の勉学途中の時代のことであまり関心が薄かった。でもベトナム戦争反戦家であることは知っていた。 この欄のちょうど裏、 本紙朝刊2面の下に毎月今ごろ、 文芸誌の広告が四つ並ぶ。 右から群像、文学界、新潮、すばるの順 12月7日の天声人語からの引用 この欄のちょうど裏、本紙朝刊2面の下に毎月今ごろ、文芸誌の広告が四つ並ぶ。 今月は新年1月号の広告で、右から群像、文学界、新潮、すばるの順だ。 公平を期すため、一番左の雑誌が、次の月は一番右に回るしきたりになっている。 いわゆる純文学を集めた雑誌が少なくとも四つあり、毎月いくつもの小説を世に出している。 そんな国はほかにもあるのだろうか。 広告を見比べて、今月はどの雑誌を買うか決める人もいるという。 広告を出す側の大川繁樹・文学界編集長は、「広告がゴージャスになるような雑誌をつくるにはどうすればいいかを最初に考えて、 原稿を依頼する作家や企画を決める」と話す。 作家の名前の字の大きさや並び順には神経を使うそうだ。 文壇での格、年齢、主要な文学賞の受賞順、そして何より重要なのは、読者が読みたい作家はだれか。 様々な角度から計算した結果が、この広告だ。 新年号の広告の移り変わりは戦後文学史そのものだ。 50年前の広告には志賀直哉や石川達三、小泉信三といった重鎮が並んでいる。 40年前の群像の新連載は、大江健三郎さんの『万延元年のフットボール』だ。 36年前の新潮の広告には、その12日前に割腹自殺した三島由紀夫の遺稿が、「天人五衰最終回140枚」と大書されている。 随分売れたことだろう。 文芸誌の部数はこれまで長期低落傾向だった。 しかし最近は吉村昭さんの遺作『死顔』のような話題作もあり、約20年なかった増刷をしたという雑誌もある。 世界でもまれな出版文化の今後のいやさかを祈りたい。 文芸誌はあまり読まなかった。月刊雑誌は「文芸春秋」で時々買う程度である。週刊誌は「週間朝日」と最近は「アエラ」もである。 米映画「父親たちの星条旗」が公開中だ 12月8日の天声人語からの引用
「妻へ 縁有つて婚姻(こんいん)してより十有余年、此(こ)の間貧しいながら五人の子宝を得て楽しい団欒(だんらん)であつた」。 敗戦の約半年前の1945年3月に、太平洋の硫黄島で戦死した日本兵の「遺書」の一節だ。 やはりこの島で戦死した別の兵士が、妻あてに書いた。 「悲壮なる決心をするだけに子供こひしさに心の鬼も防ぎ得ず。 未練がましくも幸ひ便りする機会を得て書き連ねる??常日頃 我いとし子を見つめては 心の悪魔払ひ来りし」(『昭和の遺書』角川書店)。 それぞれの思いを抱きつつ倒れた。 日米の激戦地となったこの島を舞台にした米映画「父親たちの星条旗」が公開中だ。 クリント・イーストウッド監督は、島の摺鉢山(すりばちやま)に星条旗が翻る有名な写真にまつわる人と軍、国家の相克を描く。 この写真は国威発揚に使われ、写真に絡む兵士たちは戦時国債の募集に駆り出される。 そして「英雄」に祭り上げられることに違和感を覚えながら、流されてゆく。 刻々と命が失われる戦場での営為は人の心を強くつかむ。 国民は英雄を望み、軍や国家は英雄をつくろうと試み、メディアはあおる。 もみくちゃにされる兵士たちの悲劇が、切々と伝わってくる。 ブレヒトの戯曲に、こんなせりふがあった。 「英雄のいない国は不幸だ!」「違うぞ、英雄を必要とする国が不幸なんだ」(『ガリレイの生涯』岩波文庫・岩淵達治訳)。 戦争は、妻や子や親を思いやる当たり前の青年同士を戦わせ、時には英雄の役回りまで強いる。 65年前のきょう、日本軍の真珠湾攻撃で、太平洋戦争が始まった。 戦争の中での英雄がいる時代は不幸な時代である。国家により作られた英雄は今も生きている。 日本では「楠木神社」「護国神社」「乃木神社」「明治神宮」そして「靖国神社」か。 漱石が没して、きょうで90年になる。 12月9日の天声人語からの引用 夏目漱石が自宅の「漱石山房」で面会するのは、木曜日と決まっていた。 ある木曜の晩、門下の数人が漱石を囲んでいる時、初めての客が来たと手伝いの女性が告げた。 「紹介状がなければ会わない」と漱石が言い、 女性からそれを聞いた客は「田舎から先生にお目に掛かりたくてわざわざ上京したのだから」と粘った。 座が気まずくなって誰も口をきかない。 「紹介状がなければ会わない」。 今度は漱石に怒るように言われ、女性はお辞儀をして去る。 「みんなが黙つてゐる中で、私は漱石先生を憎らしいおやぢだと思つた」と内田百〓(門の中に月)が書いている(『菊の雨』新潮社)。 漱石が没して、きょうで90年になる。 明治改元の前年に生まれた。 日本が欧米と出会い、近代国家へと移り変わる激動の時代を生きた。 漱石山房には、文壇の若い星たちが集まった。 没する年の夏、芥川龍之介と久米正雄に「牛になるように」と書き送っている。 「あせつては不可せん……根気づくでお出でなさい」 死の前月の知人への手紙には、やや驚かされる一節がある。 「変な事をいひますが私は五十になつて始めて道に志ざす事に気のついた愚物です」(『漱石全集』岩波書店)。 昨日、東京・早稲田の漱石山房跡の小公園には、時折冷たい風が吹き渡っていた。 サザンカの白い花びらにサクラの枯れ葉が散りかかる。 由来説明の板には、三四郎、それから、門、明暗などが山房で執筆されたとある。 それらは、偉大な「憎らしいおやぢ」が世界とこすれあって奏でた不朽の交響楽のように思われた。 夏目漱石の小説は今読んでも面白い。人情の機微も変わっていない。 人間である限り人間以上の考えは出てこないということなのか。 「生体認証システム」の現状は 12月10日の天声人語からの引用 「手のひら」が先行したが、「指」が追いつき、現在勢力は均衡中。 今後は指がやや有利か。 銀行の現金自動出入機(ATM)に普及し始めた「生体認証システム」の現状は、こんな感じだ。 キャッシュカードのICチップに、手のひらや指先の静脈の形状を登録しておく。 現金を引き出す際、その情報を使って本人確認をするシステムだ。 ATMに手のひらをかざす方式と、指を載せる方式がある。 数年前からATMにカメラを仕掛けて暗証番号を盗撮したり、カードの磁気情報を盗んで偽造カードをつくったりする事件が相次いだ。 対策の決め手といわれたのが生体認証だった。 先行したのは現在の三菱東京UFJで、04年10月に実用化した。 個人の識別には静脈以外にも、指紋や目の虹彩(こうさい)の形などいくつかの方法がある。 約千人の客にアンケートをしたところ、手のひらを推す声が多かったという。 しかしその後、他の大手銀行が相次いで指方式を選び、郵政公社も続いた。 中小の銀行では手のひらを選ぶところもあり、銀行数ではほぼ互角だ。 今のところ両方式の互換性はない。 当初ベータとVHSに分かれたビデオレコーダーでは、結局ベータが消えた。 統一規格を目指す動きはあるが、生体認証もどちらかが消えていくのか。 両陣営ともこれまでは間違えて違う人に支払ってしまったことはないという。 犯罪対策に万全はない。犯罪者の側も工夫を重ねるからだ。 生体認証は世界的にも日本が進んでいる分野だといわれる。 利用客の安心のため、より優れた方法を追求してほしい 生体認証方式も今では優れて犯罪防止に役立つが,何時かはそれが破られる時代が来ると思う。 便利さの中には必ずその落とし穴が存在するはずだ。 3メガバンクの一つの三菱東京UFJ銀行が、 9年ぶりに献金を再開する方向 12月12日の天声人語からの引用 鉄鋼、電力に銀行を加えて政治献金の「御三家」と呼ぶ時代があった。 戦後、この3業界が献金の柱だったころだ。 近年、銀行業界は転変を重ねてきた。 今ある銀行が昔の何銀行なのかを即答出来ない人も多いだろう。しかしどの大手銀行も、 90年代末の金融危機での税金注入を機に献金を自粛してきた。 3メガバンクの一つの三菱東京UFJ銀行が、9年ぶりに献金を再開する方向だという。 みずほフィナンシャルグループと三井住友銀行も検討中と伝えられたが、これは腑(ふ)に落ちない。 先日、銀行業界が過去最高益をあげたと報じられた。 一方、預金者にはスズメの涙よりもわずかな利息を強いている。 そして、大手行はいずれも法人税を納めていない。 税務上の欠損金を抱えているから免除される仕組みだが、すんなりうなずける話ではない。 再開されれば、自民党を中心に献金されるという。 再開を急ぐように見えるのは、のどから手を出している相手がいるからなのか。 「あはれ、此国の/怖るべく且つ醜き/議会の心理を知らずして、/衆議院の建物を見上ぐる勿(なか)れ。 /禍(わざはひ)なるかな、/此処に入る者は悉(ことごと)く変性す」。 与謝野晶子が国会を厳しく詠んだのは、大正時代の初めごろだった。 「一たび此門を跨(また)げば/良心と、徳と、/理性との平衡を失はずして/人は此処に在り難し」と続く(『舞ごろも』天弦堂書房)。 90年たったが、劇的に変わったとも思えない。 ひたすら国会の方に顔を向け続けるのか、あるいは国民・利用者の方を向くのかが、各銀行に問われている。 銀行は税務上の欠損金を抱えているから免除される仕組みで法人税は支払われない。その銀行が自民党に献金しようとしている。 だが阿部首相は断った。当然のことである。当然のことが起きるように仕組まれた国民に見せるための劇かと疑いたくなる。 イラクという結び目を剣で切れば、 ブッシュ政権は混沌(カオス)の支配者になるだけだろう 12月13日の天声人語からの引用 アレキサンダー大王にまつわる伝説の一つに「ゴルディオスの結び目」の物語がある。 紀元前、小アジアの古代国家の王ゴルディオスが、誰にも解けないという結び目をつくった。 「この結び目を解く者こそアジアの来るべき支配者になる」との神託を受けたアレキサンダーは、剣で結び目を断ち切った。 この結び目は、英語では複雑な問題という意味がある。 「イラクという結び目を剣で切れば、ブッシュ政権は混沌(カオス)の支配者になるだけだろう」。 イラクで、大量破壊兵器の査察に携わった元国連査察官スコット・リッター氏が著書でこう述べたのは、イラク開戦の前だった (『イラク戦争??ブッシュ政権が隠したい事実』星川淳訳・合同出版)。 当時リッター氏が主張していたように大量破壊兵器はみつからず、米政権はカオスの中にある。 アナン国連事務総長は、イラクを内戦状態と断じて述べた。 「一般国民が、残忍な独裁者がいても、今よりもましだったと考えるのは理解できる」 米政権はカオスからの「出口」を求めているようだ。 しかし、取り返しのつかないあれだけの殺戮(さつりく)を顧みれば「出口」は簡単には語れないだろう。 攻め込んだ側は、そこから出ればひとまず終わりかも知れない。 だが、イラク国民にとっては更なる苦難への入り口でもある。 世界唯一の超大国にとって、イラクという結び目は、そう難しく見えなかったのではないか。 しかし、米国が断ち切れたと思った後に、本当のゴルディオスの結び目は現れた。 それを解く手だての持ち合わせは、無いままだ。 イラクはフセイン大統領が死刑執行されても,混沌の中にさらにある。これではブッシュの責任は非常に重い。 イラクの政権をまともな政権だと思う人は誰も世界中にはいない。 アメリカの傀儡政権である。 イラク戦争がテロとの戦いがイラク国民の自由民主化に代わり次にはイラクの秩序を回復するための戦いになるのでは。 だったら始めから戦争を始めなかったらよかったことになる。 戦争で儲けるのは死の商人で武器産業だ。石油産業と武器産業のための戦いなら,誰もがすっき理解できるのではないでしょうか。 「新型爆弾投下」の報を受けて 12月14日の天声人語からの引用 長崎市で被爆した翌日、救護所で生後4カ月の次男に乳を含ませていた若い母親が、声をかけられた。 「写真を撮らせてください」。 「新型爆弾投下」の報を受けて福岡から駆けつけた陸軍報道部員、山端庸介さんだった。 「優しか声の男の人でした。 あん時は、乳ば出しよったですが、恥ずかしいとか考える余裕もなくて、『はい』と答えたように思います」。 ほおに傷を負った母親が胸をはだけ、やはり顔にケガをした幼子が乳房に吸いつく写真はこうして撮られた (加世田智秋編著『語り継ぐあの八月を』北水)。 被爆の数日後に亡くなった長男に続いて次男も死亡する。 当時30歳だった母親、田中キヲさんが、91歳で亡くなった。 元気だったころに取材した加世田さんに、毎年の原爆の慰霊祭には、失った子どもたちのためひたすら「ゆっくりと眠りなさい」と祈ると述べた。 そして、こう続けたという。 「でも、何で半世紀過ぎても戦争がなくならんとですかな……本当に人間はしょうのない生き物だと思いますよ」 山端さんは、後に原爆撮影のメモを書き残す。 人間の記憶は、年々環境の変化や生活の変化で批判が甘くなったり、誤ったりする。 しかし、「キャメラが把握した当時の冷厳なる事実は、少しも粉飾されず……冷静にそのまま皆様方の前に報告しております」 (『ヒロシマナガサキ原爆写真・絵画集成』日本図書センター)。 山端さんとキヲさんとの出会いは、いわば一瞬のことだった。 その一瞬をとらえた一枚は、あの惨禍を永遠に語り続けてゆくだろう。
原爆被災は悲惨で゛ある。その唯一の被爆国日本は今までに何をしていたのだろう。 落とされた国のいうことだけにただ今も追従し終始しているのは情けない話である。 もつと核の恐ろしさを世界に発信し続けるべきである。 師走・極月も半ばまで 12月15日の天声人語からの引用 街角に救世軍の社会鍋が立ち、人は時に立ち止まり、また立ち止まらずに行き交う。 師走・極月も半ばまで来た。 この一年を、住友生命が募集した「創作四字熟語」を見ながら顧みる。 耐震偽装での証人喚問という重苦しい「住人怒色(じゅうにんどいろ)」で年があけたが、 2月にはトリノ五輪で「銀盤反舞(ぎんばんそるまい)」が見られた。 3月には、王ジャパンがWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で世界一に輝く「結果王来(けっかおうらい)」があり、 夏の高校野球では「投姿端麗(とうしたんれい)」ありと、スポーツ界では明るい話題が幾つか続いた。 秋には政権が交代し、「美治麗国(びじれいこく)」をうたう「晋総開店(しんそうかいてん)」があった。 全国の高校に「逸修科目(いっしゅうかもく)」が広まっていたことが判明し、 今は「いざなぎ」を超えるというが実感の伴わない「感無景気(かんむけいき)」の中にある。 これらの作品に誘われて、最近の問題について、もどきを考えてみた。 やらせのタウンミーティングは、いわば政府による「自作偽演(じさくぎえん)」だ。 これでは、ものごとが「官求事態(かんきゅうじたい)」や「官求自在(かんきゅうじざい)」にされかねない。 「岸回生風(きしかいせいふう)」の気配も漂う安倍首相は、官房長官時代の責任をとって報酬の一部を返納するという。 しかし、小泉政権が掲げた直接対話について世論誘導の疑いが指摘されたことは深刻だ。 前首相は、教育改革などで改めて本当の対話を試みてはどうか。 列島の北から南まで、知事の逮捕が相次いだ。 誰にでも、「慢心創痍(まんしんそうい)」や「思考錯誤(しこうさくご)」に陥りかねない時はあるとしても、これでは「地方自沈(ちほうじちん)」だ。 残る半月に、心が浮き立つようなことが一つでも多くあるようにと念じたい。 批判するのは,よりよい世の中になって欲しいからである。 政府に賛辞だけを送る国には是非なってもらいたくない。 教育基本法の改正を巡る国会の動きを見ていると
12月16日の天声人語からの引用
フランスの作家で啓蒙(けいもう)思想家のルソーは、著書『エミール』で理想的な教育のあり方を熱っぽく語った。 自然を偉大な教師とし、子どもの本性を尊重することを説く。 そして最もよく教育された者とは、人生のよいこと悪いことに最もよく耐えられる者だと述べる。 「だからほんとうの教育とは、教訓をあたえることではなく、訓練させることにある」(岩波文庫・今野一雄訳)。 従って、教える側に対しては厳しい。 「一人の人間をつくることをあえてくわだてるには、その人自身が人間として完成していなければならない」という。 これでは、資格のある人はまず居ないのではないかと考えてしまう。 しかし、教育の根本を、それほどまでに厳粛なものととらえていた姿勢は、胸を打つ。 教育基本法の改正を巡る国会の動きを見ていると、残念ながら、教育の根本を扱っているのだという厳粛さが伝わってこない。 審議の質は、これまでにかけた時間だけでは測れないはずだ。 ましてや、この改正と密接に関係する政府主催の教育改革のタウンミーティングには 「世論誘導」が指摘され、そのあきれた実態が明らかになったばかりだ。 首相や文部科学相が報酬を返納し、文科省の幹部職員ら多数が処分されたことを軽く見過ぎてはいないか。 処分が出たからといって、あの「世論誘導」の集まりそのものが消滅したわけでもない。 教育の現場や子どもたちに、国会の動きはどう映っただろうか。 子どもたちや、そのまた子どもたちの未来にかかわる法案にふさわしくない、性急な採決だった。
教育の基本の法律制定がこんな状態では泣く。戦前の愛国心に凝り固まった世の中へ一歩ふみだしたのか。 大阪市立科学館が購入した アルゼンチン製の「モバイル・プラネタリウム」だ 12月17日の天声人語からの引用
トランク二つとずだ袋一つを手押し車に載せて現れた学芸員が、15分かけて組み立てたのは、プラネタリウムだった。 扇風機で空気をドームに送り込んで膨らませ、中に投影機をセットする。 直径7メートル、高さ4・5メートルのドームに入ると、大阪の星空が広がっていた。 大阪市立科学館が購入したアルゼンチン製の「モバイル・プラネタリウム」だ。 米国製や日本製と違って機能は少ないが、軽くて持ち運びが便利、操作も簡単で、何より安いという。売れている米国製のほぼ半値の220万円だった。 タンゴやサッカーの国といったイメージだが、意外なものをつくっている。 一度に50人が入ることができる。 あすから市役所の玄関ホールにお目見えする予定だ。 今後は科学館に来られない子どもたちのために、病院や学校に「出前」をすることにしている。 科学館には、ドームの直径26・5メートルの常設のプラネタリウムがある。 日本では5番目の大きさで、世界でも5位だ。 世界のベスト5は日本が独占しているそうだ。 とはいっても大きさの話で、数では圧倒的に米国が多い。 大阪はもともとプラネタリウムとかかわりのある街だ。 科学館の前身にあたる電気科学館で37年(昭和12年)、東洋圏で初めてドイツ製のプラネタリウムが公開された。 物珍しさに東京からも客が訪れたそうだ。 プラネタリウムでは、最近もっと小さい家庭用も人気を呼んでいる。 2万円前後で、4畳半の部屋でも天井に「満天の星空」を映し出す。 癒やし効果なのか、昨年の発売以来15万台を売り上げているという。 子供の頃に見たプラネタリウムが簡単に見ることができるようになってきた。 戦前の頃に比べ多くのプラネタリュムが沢山に出てきている。 築地市場の正門に、気になる掲示板がある。 日々、落とし物や忘れものが書き出されている 12月18日の天声人語からの引用 地下鉄を降りると、魚のにおいがする。 都営大江戸線の築地市場駅。 朝日新聞の最寄り駅なので、毎朝のように鼻をくんくんさせている。 年の瀬を迎えて、市場かいわいは、おせち料理の材料を買い求める人々でごった返し始めた。 市場の正門に、気になる掲示板がある。 日々、落とし物や忘れものが書き出されている。 「ふぐ1尾、はも1尾、ひらめ2尾」「数の子」「かんぱち、あいなめ」「かわはぎ」などなど。 おいしそうな品物がいつも並ぶ。 生ものが多いので、ついつい心配してしまう。 腐る前に持ち主が現れればいいけれど、来ないときはどうするのだろう。 出入りの業者が引き取って、さばくのか。 そう思って、市場のベテラン職員に問い合わせたら、「去年まではそうでした」という答えが返ってきた。 規則に沿って、業者が買い取る。 その売上金を警察に届け出る。 半年たって、だれも名乗りでなかったら、その代金を届け主にきちんと渡す。 いまどき、ほっとするような制度があった。 それが昨夏から、「安全と安心を優先させる」という理由で、日を置かずに廃棄処分にするようになった。 「テロ対策」のひとつだという。 保管中に爆発でもしたら困ると考えてのことだ。 かつては、冷凍マグロが一匹ごろんと落ちていたり、逃げ出したスッポンが歩いていたりした。 テロの影などなかった時代のこぼれ話だ。 で、スッポンはどうなったのか。 さぞ高値がついたろうと思いきや違った。 雑食なので、逃走中にゴミも食べたかもしれないと敬遠され、売れなかったらしい。 鮮魚の落し物では困りものである。換金してから落とし主に返すのは良い考えだ。 北朝鮮の核問題を巡る6者協議が 約1年ぶりに北京で始まった 12月19日の天声人語からの引用 6人が、手を差し伸べてつなぎあう。表情は硬い。 その思いはさまざまに、北朝鮮の核問題を巡る6者協議が約1年ぶりに北京で始まった。 南北朝鮮と日米中ロの6者が並んだ写真から、ここにもう1本、「アジア」という手が差し伸べられるさまを想像した。 冷戦時代の緊張が残る朝鮮周辺の極東地域は、その動向がアジア全体の安全を大きく左右する可能性を常にはらんでいる。 6者協議が、それを意識して進められるとしても、「アジア全体」という視点が加わることは無益ではないだろう。 今回の6者協議が実のあるものになることを願いながら、その場に「アジア」というひと色が足りないような気がした。 谷川雁に、「大地の商人」という詩集がある。「 おれは大地の商人になろう/きのこを売ろう あくまでにがい茶を/色のひとつ足らぬ虹を」 七色にひとつ足りない虹は、本来の虹ではない。 しかし色がひとつ足りないことが、何かを強く希求し続けるような不思議なエネルギーや力を感じさせる。 日本が加盟して昨日でちょうど50年になった国連も、色のひとつ足りない虹かも知れない。 世界の平和を維持し、生み出すことを期待されながら、現実には大国の思惑によって動きが左右されることも多かった。 しかし国際社会に、虹になりうる仕組みは他に見あたらない。 今の国連に楽観も悲観もせず、いつかはもう一つの色が出るように磨いてゆく。 6者協議も国連による世界平和の実現も、気の遠くなるような道程が必要かもしれないが、掲げる旗は高い方がいい。 六者協議は結局に誰もが予想したとおりに終わっている。何か前進があるのかどうかは判らない。 こうした実体験や鮮烈な記憶の伝達が確実に続けば 12月20日の天声人語からの引用 夜中に突然暴れ出す父親を持った幼なじみから、加藤紘一衆院議員が聞いたという。 うなされたように叫び、家の物を手当たり次第に壊す。 戦争体験のあるその父親は我に返ると言った。 「憲兵としてやらざるを得ずにやったことだけど、一日に三人を殺すのは、それはもう大変なことなんだ」。 加藤氏は新刊の『テロルの真犯人』(講談社)で「殺した人間もまた、そのことによって苦しみつづける」と書いた。 直接には戦場を体験しなくとも、こうした実体験や鮮烈な記憶の伝達が確実に続けば、戦争の実相を次の世代に伝えられる。 しかし加藤氏は懸念する。「戦争の記憶がほぼ完全に失われようとしているいま、 フィクションがリアルにとってかわりつつあるように感じる」 安倍晋三氏は、戦後生まれで初めての首相となった。 前首相の小泉氏も戦場の体験は無い。 政治のリーダーも国民も戦争を知らない世代で占められてゆく。 そんな時代には、実体験よりもフィクション化された戦争の方が現実味を帯びて受け入れられかねない。 加藤氏は「時代の空気」が靖国参拝を是とした首相を選び、 メディアを通じて首相の参拝に反対した加藤氏の実家への放火テロを招いたとも述べている。 時代や体制を問わず、言論が暴力で封じられた時には、権力によって惨禍がもたらされる。 その権力の動向を見つめ、暴走をとどめるために力を尽くすのが、言論活動に携わる者の大きな務めのひとつだ。 あの加藤氏へのテロは、メディアへのテロでもあり、人間の尊厳に対するテロだった。 テロが一部の軍人によって天皇陛下の為になされた昭和の始め頃が思い出される。 明治維新の頃もそうであつた。 最近の言葉から 12月21日の天声人語からの引用 最近の言葉から。 ドーハでのアジア大会開会式で、20年ぶりにイラク国旗が翻った。 クウェート侵攻での資格停止が解けた。 「国民の心になじんだこの国旗の下で戦えることを、誇りに思う」と選手。 太平洋戦争の開戦から65年。 京都市の陶芸家小川文齋さんは特攻隊で戦死した兄を思い、トンボを描いた作品を作ってきた。 詩もある。 「子供の頃の思い出は/とんぼとりに魚つり……落ちた兄貴よ海中の/花となるより願わくば/とんぼとなりて大空を飛べ」 開戦前夜、ナチスの青少年組織ヒトラー・ユーゲントが来日し、熱狂的な歓迎を受けた。 伊勢神宮の近くで見た高橋三男さんが語る。 「戦争なんて誰も内心は喜んでいなかった。 しかし、気がつけば、それが言えない世の中になっていた」 貧しい人向けの無担保融資でノーベル平和賞を受けたバングラデシュのグラミン銀行のユヌス総裁が述べた。 「テロに軍事的に対処しては、うまく行きません。 当面の問題は消えても、不公正の意識は残るからです」 徳島県の大田正・前知事は、故郷の山で「きこり」として働く。 最近の自治体の問題について。 「特定の人のためにでなく、すべての県民のためにお金を預かっていると肝に銘じれば、官製談合などできないはずなのに」 青色発光ダイオードを開発した中村修二さんが語る。 「まだだれも行ったことがない場所を、飛行船にのって探検している気がした」。 徳島大で学生結婚し地元に残った。 「一番大きかったのは、私が日本の主流からはずれていたことかもしれない」
岸田今日子さんが、76歳で亡くなった。
12月22日の天声人語からの引用
幼い頃から、とにかくよく眠る人だったようだ。 「学校の授業も、半分以上眠っていただろう」。 長じて俳句を詠むときには、俳号を「眠女(みんじょ)」にした(岸田今日子『あの季(とき)この季(とき)』知恵の森文庫)。 岸田さんが、76歳で亡くなった。 睡眠過多症の他に高所恐怖症、方向音痴などを自認していた。 ぼんやりとたたずめば、そのとらえどころのないようなところに確かな存在感が宿るという不思議な俳優だった。 長い眠りからさめた大きな目には独特の輝きがあり、まなざしは人を現実から別世界へと誘うかのようだった。 映画の「砂の女」や「秋刀魚(さんま)の味」、アニメのムーミン、そして童話の朗読。 妖艶(ようえん)さや霊妙さに穏やかさと純真さを備えた独特の声を、ゆったりと転がすようにして演じ分けた。 手元に1枚の手書きの資料がある。かつての本紙連載「新人国記」の取材班に岸田さんが寄せた。 生年月日欄の生年が空白で、脇にこうある。「もう書かないことにしました」 名前の欄は当然ながら「岸田今日子」だが、ひときわ大きく書かれた「今」の字に妙な味わいがある。 「ラ」のような部分が、あのふっくらとした唇を大きく開いて笑っているように見えてくる。 父は劇作家の岸田国士で、中学2年の時に岸田家で開かれた家族ら4人の句会が初めての句会だったという。 〈黒猫の影は動かず紅葉散る〉はその時の一句で、大人びた感性がうかがえる。 後年にはこんな句を詠む。 〈春雨を髪に含みて人と逢う〉。 少女と女とが早くから、そしていつまでも同居していたのかも知れない。 映画「砂の女」を戦後に学校の運動場で上映されたのが大変記憶に残っている。 男と女の置かれた状態が抽象的に表現された映画だったように記憶している。 税金の取り方を議論する政府税制調査会の、 就任したばかりの会長が辞任に 12月23日の天声人語からの引用 永井荷風の日記「断腸亭日乗」には、税金に関する記述が繰り返し出てくる。 税務署の指摘の細かさや厳しさについても記す。 「楊枝の先にて重箱のすみをほじくるとは実にかくの如きことを謂ふなり」(『荷風全集』岩波書店)。 昭和6年の日付だから70年以上も前だが、この感想には、そう古びた感じがしない。 納税は憲法で定められた国民の義務だが、いつの世にも税の悩みは尽きないのだろう。 古代の世界では、税の徴収は厳しく行われたという。 エジプトにサッカラという都市があり、紀元前2300年ごろの浮き彫りに徴税の仕方が記されている。 3人の租税義務者が王の税務書記の前にひざまずき、もう1人の義務者が監視人に肩をつかまれ、むち打たれてひざまずかされている。 違反者が柱に縛られ、むち打たれている場面もある(シュメルダース『租税の一般理論』中央大学出版部・中村英雄訳)。 こんな体罰こそないが、むち打たれる思いで税金を納めている人も少なくないだろう。 その税金の取り方を議論する政府税制調査会の、就任したばかりの会長が辞任に追い込まれた。 「一身上の都合」が辞任の理由だという。 東京都心の格安の官舎に妻以外の女性と暮らしていたとすれば、納税する側は釈然としない。 『国富論』で知られるアダム・スミスは、租税の原則のひとつに「公平」を挙げた。 税の基本を議論し取りまとめる立場の人に、不公平感を招く優遇はそぐわない。 安倍首相が事情を知っていたかどうかは分からないが、任命責任は決して軽くない。
税は憲法で定められた国民の義務だが,税金の取り方を論議する最高責任者が不正していることがわかれば 税金も納めたくなくなるのも当然である。 太宰が書いた短編小説「メリイクリスマス」
2月24日の天声人語からの引用
歳末の混雑の中、高速道路の車が、歩くようにゆっくりと動くのが見える。 街角には無数の豆電球が瞬き、どこからともなくクリスマスの歌が流れてくる。 いつもながらの季節の光景だ。 終戦の翌年というから今から60年前に、作家の太宰治からクリスマスプレゼントをもらった母と娘がいた。 それは、ふたりをモデルにして太宰が書いた短編小説「メリイクリスマス」の載った雑誌「中央公論」だった。 小説は、主人公の笠井が東京郊外の本屋で久しぶりに娘と出会うところで始まる。 娘の母親は笠井にとって「思ひ出のひと」のひとりで、成長した娘の姿はまぶしく映った。 娘は、はじめは母は健在だと言うが、笠井を案内して家の前まで来た時に突然泣き出し、空襲で亡くなったと告げる。 ふたりは、母をしのんでしばらく店で飲む。 居合わせた酔客が、通りを行く米兵に向かって出し抜けに叫ぶ場面で小説は終わる。 「ハロー、メリイ、クリスマアス」。 後味に敗戦の苦さも感じられる。 小説で娘の「シヅエ子ちゃん」として出てくるのが、当時18歳だった林聖子さんだ。 実際には、母の富子さんは終戦から3年後に亡くなった。 やがて、聖子さんは新宿に酒場「風紋」を開く。 今月、45周年を迎えた。 風に吹かれて姿を変えてゆく風紋のように、時代は移り変わった。 「あっという間でしたね」と聖子さん。 60年前、太宰は着物の懐から雑誌を取り出して言った。 「これは、ぼくのクリスマスプレゼント」。 その時の、ひどくまじめな顔は、今も鮮やかに胸に残っているという。 クリスマスもいつの間にか過ぎたようなクリスマスだった。 有馬記念でのディープインパクトの勝ち方は 2月25日の天声人語からの引用 今年最後の大レースを、このレースが最後となる馬が制した。 昨日の有馬記念でのディープインパクトの勝ち方は、胸のすくものだった。 後方からぐんぐん抜いていって、大きく引き離す。 これは、いつも通りの勝利の形だという。 しかし、激しく地をけって抜け出してゆく時の躍動感あふれる姿には、 最後のレースにふさわしい輝きがあり、馬名のように大きくて深い衝撃があった。 10月にパリで凱旋門賞に挑んだが3着で、欧州で禁止されている薬物が検出されて失格とされた。 この暗い影を完全に吹き飛ばすような雪辱のレースにもなった。 結局、国内で敗れたのは、昨年の有馬記念だけだった。 歴戦でのディープインパクトの勝利の陰には、敗れ去った馬たちがあり、賭けに敗れたファンたちも居た。 競馬を愛した寺山修司は「賭博には、人生では決して味わえぬ敗北の味がある」と述べている(『両手いっぱいの言葉』新潮文庫)。 馬の勝ち負けと賭けの勝ち負けは別ものだが、勝利と勝者は限られ、敗北と敗者が限りなく多いところは通じている。 そのことが、競馬が人を引きつける魅力の一つなのかも知れない。 ディープインパクトとは逆に、敗れ続けることで全国にその名が知れ渡ったのは、高知競馬のハルウララだった。 勝たないことで人気が出る馬があり、勝ち続けて名を残す馬がある。 ほかの多くの馬の歩みは、この2頭が描いてきた極端な軌跡の幅の内側にある。 今年限りで引退の2頭に、人生の幅というものを重ねて見てきた人も少なくはないだろう。 競馬には興味がない。ディープインパクトは一番でハルウララは常にびりで名を馳せている。 その中間の馬たちはどうだったのだろうか。 「感どうする経済館」は 2月26日の天声人語からの引用 壁に、赤い数字がずらりと並んでいる。 773兆5630億とあって、それ以下の万単位の数は見ている間にどんどん増えてゆく。 内閣府が東京都内に昨年開設した「感どうする経済館」に表示されている「日本の借金」のすさまじい増え方だ。 計算すると、1分間に1千万円近くが増えているという。 20分で増える約2億円分の1万円札に見立てた紙を詰めたリュックサックが床に置いてあり、背負ってみることができる。 約20キロあるという。 両手でも、そう軽々とは持ち上がらない。 係の人に手を添えてもらって背負うと、後ろに引っ張られる感じがする。 もちろん歩けるが、これを背負って遠くまで行くのは容易ではない。 政府が07年度の予算案を閣議決定した。 一般会計の総額は約82兆9千億円で、借金にあたる国債の新規の発行額は少し減るものの残高は膨らむ。 所得税の負担増がある一方で、企業の方には減税が用意された。 企業に比べて家計への恩恵は乏しいようだ。 首相は「財政健全化の意思を内外に示すメッセージ性の強い予算編成になった」と述べた。 しかし税収の伸びに恵まれた面があり、借金頼りの財政難は続く。 「感どうする経済館」は昨日、家族連れなどでにぎわっていた。 「子どもが驚き 大人がうなる 日本経済のミュージアム」がうたい文句だという。 途方もない借金に子どもたちが驚くことは確かだが、大人はうなっていればいいというものではない。 国会や官庁の面々もリュックの重みを体験し、荷を少しでも軽くするすべを真剣に探ってほしい。 経済のことは良くわからないが,借金をしようとすると担保と保証人が普通必要である。 国が簡単に借金できるのはどうしてなのだろうか。? 東京都のど真ん中に宮城と明治神宮の膨大な土地がある。そして至る所全国にある御陵これも膨大な土地で, そんな土地を全て売り払えば借金返済できて,さらに余りがあるのではなかろうか。 せめて平安時代までの御陵の考古学的な調査ができるようにすべきである。 我々の庶民の墓は50年経つと土に返り五輪塔の中に先祖が全員が一緒に埋葬されることになっている。 万世一系というものの不確かな時代が沢山ある。でも天皇家ほどに履歴の判った家庭はない。 一般の老舗でも非常に古くとも室町時代からで,それも極めて珍しい。 死刑廃止運動に加わり、 2月27日の天声人語からの引用 刑場まであと少しの所で男が言った。 「すまんけど、目隠しを……」。 「きつかったかい」と尋ねる係官に「いいえ。 一度はずしてください」 。しばり直すわずかの間に天を仰ぎ、つぶやいた。 「……広い空ですね」。 名古屋刑務所の刑務官だった板津秀雄さんの『死刑囚のうた』(素朴社)の一節だ。 その日は今日か明日かとおびえ、あるいは、従容として刑場に向かう。 いくつもの「死刑の現場」に立ち会った人の証言は重い。 後に死刑廃止運動に加わり、98年に亡くなった。 法務省が、4人の死刑囚の刑を執行したと発表した。 1年余ぶりの執行で、一度に4人は97年以来だ。 背景には、死刑確定囚が100人を超えることへの法務省の懸念があるともいうが、ことは数の多少で左右されるものだろうか。 昨日は名古屋高裁で、死刑囚の再審請求についての決定があった。 61年に三重県で起きた「名張毒ブドウ酒事件」で、同じ高裁が昨年認めた再審開始の決定を取り消した。 事件がむごたらしいことや、裁判官によって判断が異なりうることは分かる。 しかし、長い歳月、冤罪を訴えつつ死と隣り合わせになってきた身も思われた。 刑法学界の重鎮の団藤重光さんは、東大教授を経て最高裁判事になった。 実際に死刑事件を扱う立場に立ってから、取り返しのつかない誤判の恐ろしさを心底理解したという。 「いまさらながら事実認定の重さに打ちひしがれる思いでした」(『死刑廃止論』有斐閣)。 09年に裁判員制度が始まれば、誰もがその重さを背負う可能性が出てくる。 素人が裁判に加わるのはアメリカ映画でよくみる。其のまねをして日本でも導入されるようだが,伝統も風習・習慣が違う 日本でうまく行くかどうか。東洋人には東洋的な制度があってよいように感ずるのだが。 耐震強度偽装事件の判決公判で、 2月28日の天声人語からの引用 鉄筋の量を減らした「経済設計のできる有能な建築士」との評価を得るようになり……。 耐震強度偽装事件の判決公判で、東京地裁の川口政明裁判長は、 元1級建築士の姉歯秀次被告が偽装を続けるようになった経緯を、こう述べた。 裁判長は、マンションの購入を「一生に一度の買い物ないし人生で最大の買い物」とした。 その最大の買い物が、命を保障する最低限の水準すら満たさないばかりか、 住むことができないのにローンの支払いを迫られるという被害者のつらい立場にも言及した。 姉歯被告は国会の証人喚問で、木村建設側からの圧力を機に偽装したと述べた。 しかし判決は「市場原理の前に屈した犠牲者のように演じた」と批判した。 国民の注視する国会で、いわばもう一つの偽装をしていたとすれば、罪は重い。 今年も偽装や詐欺といった、だましの絡む事件が目立ったが、今度は閣僚の足元で「偽装」の問題が浮上した。 佐田行革担当相が、実体のない事務所を政治団体の所在地として届けていたと報じられ、辞任に追い込まれた。 この政治団体の政治資金収支報告書によると、90年から00年までに事務所費などの名目で約7800万円が支出されたという。 それが何か別の目的での支出だったのではないかとの疑いもある。 事実なら、報告書を「偽装」したことになる。 安倍内閣が発足して3カ月。 政府税調会長が官舎使用の問題で辞任したばかりだ。 耐震偽装では、建物を支える鉄筋の量が問題になった。 内閣の方は、それを支える屋台骨の質が問われている。 耐震強度偽装事件は何もかも民営化,民営化で引き起こした事件のひとつである。 民営化がなければ起きることのない事件だった。 効率を求めると必ずにこのようなことが出てくる事わかっていなかった。 会社は利益が優先してことが動くものである。 静岡県浜松市のイトーヨーカドー 浜松駅前店にある「子ども図書館 2月29日の天声人語からの引用 目を丸くし、手を握りしめ、主人公と一体化して物語の世界に入り込んでいく。 小さな子に絵本を読み聞かせると、そんな純粋さが伝わってくることがある。 その喜びを、いつまで感じられるのだろうか。 静岡県浜松市のイトーヨーカドー浜松駅前店にある「子ども図書館」の司書たちは、不安になった。 3階のおもちゃ売り場近くの約130平方メートルに、絵本や児童書約1万冊が並ぶ。 19年前にできて、買い物途中の親子らが利用してきた。 しかし、年々郊外店に客を奪われ、この店は年明けに閉店となる。 子どもの目線に合った図書館だ。 絵本は表紙を前向きに棚に置かれ、色や形の違う本がそれぞれ「読んで」と訴えてくるようだ。 棚は高さ120センチ以下で、小さい子も自分で手を伸ばして取っていく。 何世代も繰り返し読まれてきた本が多く、頼めば司書が朗読してくれる。 「子どもの心を育める場を残して」。 この地域の親たちが、今年の夏から秋までに約1万3千人の署名を集めた。 「親子2代で親しんできた」「人見知りだった娘が司書さんとなじみ、少しずつ自立していった」。 そんな思いが積み重なった。 当初は年5万冊を超えた貸し出しが、少子化や活字離れもあって約1万冊に減っている。 ヨーカドーはコスト減か社会貢献かで揺れたが、「署名に後押しされました」。 来年、最寄りの店に移すことが決まり、図書館は生き残った。 「子どもたちを育て、子どもたちに育てられた図書館です」と司書の山本准子さんは話す。 冬休みに入り、いくつもの絵本を読み聞かせている 小さな便利な図書館でもいうものか。でも現在使い捨てのじだいかどうか100円で本がかえるようになってきている。 情報入手の方法がパソコンのインターネット検索からでも情報が手にいれることができる。 これが今後大きな情報獲得手段となるのかどうか。今ではまだまだ図書に頼ることが多い。 アイルランド出身のノーベル賞作家 サミュエル・ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」 2月30日の天声人語からの引用
今年も、明日の大(おお)晦日(みそか)を残すのみとなった。 一年を顧みながら、近づく新しい年の足音に耳を澄ます。 どんな年が来ようとしているのか。 歳末のあわただしさやざわめきの中に居つつ、何かを待つことが身にしみる時節だ。 「田舎道。一本の木。夕暮れ」。 そんな舞台の上で、二人の男が「ゴドー」なる者を待つ。 アイルランド出身のノーベル賞作家サミュエル・ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」の始まりの場面だ。 いつまで待っても、ゴドーは現れない。 そして、二人はこう言い合う。 「じゃあ、行くか?」「ああ、行こう」。 二人は、動かない??幕(安堂信也、高橋康也訳『ベケット戯曲全集』白水社)。 二人は、動かないのではなく、動けないのかも知れない。 それは、閉塞(へいそく)感が濃く漂う時代や、そこで営まれる人々の生や孤独といったものを示すようにも思われる。 パリでの初演から半世紀余りになる。 ひたすら待ち続けるだけという、それまでの作劇法を否定する手法は衝撃的で、「不条理演劇」の代表作として世界で広く演じられてきた。 今年は、ベケットの生誕100年にあたっていた。 ダブリン近郊の生まれだが、彼は、母親の胎内にいたころの、誕生前の記憶があると公言していたという(『ベケット伝』白水社)。 あの三島由紀夫は、生まれた直後の、産湯を使ったときのことを覚えていると言っていたというが、天才の世界とは限りの無いものらしい。 間もなく、新しい年が生まれようとしている。 ゴドーとは違って、それは確実にやって来る。
ゴドーを待ちながらということはどういうことなのか,もうひとつ理解に苦しむところがある。「二人の男が「ゴドー」なる者を待つ」というから 人を待っているのだろうか。よく理解できない。理解できないことを判ろうとする閑もない。 江戸から明治時代にかけて、 年の瀬は厳しいものだった 2月31日の天声人語からの引用 ことし最後の日をむかえた。 やれ大掃除だ、それ年賀状だ、と気ばかり焦って、ちっともはかどらない。 それでも、どうやら年は越せそうだ。 ありがたい。 江戸から明治時代にかけて、年の瀬は厳しいものだった。 つけ払いの代金をとり立てる「掛け取り」に追われる庶民の話の何と多いことか。 馬子唄(まごうた)で「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ」とくれば、結びは「大井川」だ。 だが、もとは「大(おお)晦日(みそか)」だったという。 そんな大みそかに大団円を迎えるのが、落語『芝浜』だ。 怠け者の魚屋が大金の入った財布を拾い、浮かれてどんちゃん騒ぎをする。 ところが一夜明けて、女房から財布なんぞ知らない、夢だよと言われてしまう。 それを真に受け、改心した魚屋は酒を断ち、仕事に励む。 そして3年目に財布の存在を明かされて……。 痛飲して、記憶が途切れたことのある身には、宿酔の朝に、夢だよと突き放される場面が切ない。 まさか、そんな、とほほ。 不覚にも、そんな経験をお持ちの方もおられよう。 ただ、目ざめたくない夢など、そうめったに見られるものではない。 それに比べて、ことしも悪い夢としか思えないような惨事が、世にあふれた。 親がわが子をあやめる。 いじめを苦にした自殺や、飲酒運転の事故も続発した。 イラクのフセイン元大統領が処刑されたが、現地での死者は増え続けるのではないか。 こよい、除夜の鐘が聞こえたら、耳を澄ましてみる。 忘れてしまいたい思い出と、忘れてはならぬ記憶が、胸の中に降り積もるに違いない。 そして、年が改まる。 日頃毎日が連続しているように思いながら生活している。でも大晦日と正月とでは全く違った日のように感ずる。 同じ毎日なのだが,正月はそこら中が新しくなったような気分になって新鮮な気持ちになるのが不思議である。 正月になってから,これを書いているから,大晦日はどのようにしていたのか。? 子供の頃の大晦日 正月の方が印象的に思い出される。氏神だった藤森神社に元旦の朝お参りして, 稲荷神社は正月の間は毎日のように通って,大勢の人波の中にもまれながら各店を見ながら楽しんでいた。 でも今の年齢になると人ごみを避けてお参りしている。 藤森神社も稲荷神社も身近なお宮さんであった。今では大晦日の餅つきはしなくなっている。 何処の家庭も同じと思うのだが。でも仕来たりを重んずる家庭が今もあることを知った。 近くの向島酒造の「伏見老舗造り酒屋蔵元の娘がつづる京案内」の書物は大変楽しみながら面白く読んだ。 一度近くなので直接宴会に出た伏見の酒「振り袖」を買いにいったことがある。 双栗(さぐり)神社の神木と伏見稲荷神社の千本鳥居 、海住山寺の雲海 双栗(さぐり)神社はあまり知られていない。京都の旧郷社で京都府久御山町佐山にある。 祭神は天照大神、素盞鳴命, 事代主命、品陀和気命息長帯日姫命 大雀命などとなってはいるが天照大神以外は知らない。 「延喜式」神名帳に双栗神社三座とみえ,「三代実録」の貞観元年(859)正月二十七日条の従五位下を叙位された「双栗神」に比定されている。 神社の履歴は別として,かなり古い社であることには間違いない。 大体に現在の城陽市より南は奈良平城京の影響が強く,古い神社・寺院が多くて,その反面,平安時代以降は少なくなってくる。 この社の本殿の後方に大きなクスノキがありその幹にはしめ縄が巻かれてある。 その大木の前に立つと人間が小さな者だと思い知らされてくる,そして自然に頭が下がる思いにかられる。 神木の前には小さな祠がしつられてあった。 その他にもその神社の森林には多くの巨木があるがこれほどには大きくはない。それぞれ同じように木にはしめ縄がしてあった。 木の大きさは,木の周囲に6メートル50センチの「しめ縄」が張られてあるようだ。神社関係の方から聞いた話である。 昔の人たちが巨木・巨岩のような自然に対し大変な謙虚な気持ちになってゆくのがよく理解できた。 多分此の木は,屋久杉ほどには大きくはないと思うが。 次に稲荷神社のお山を歩くと朱の小さな鳥居がぎっしりと連なって建っている。 登る際にはただただ朱の色が目に付き下の方は黒色に塗っていて,鳥居の根元が腐らないようにしてある。 色鮮やかな赤と黒のコントラストが美しく,気分が和むと同時に,朱でもって気分が高揚する感じをうける。 千本鳥居が多く建つようになったのは明治維新以後のことらしい。 稲荷山の三の峰 二の峰 一の峰とのぽって行く。その間に,ほどよいところに休憩所がある。 千本鳥居の下をくぐってお山を登るのは気分が良い。 下千本鳥居には下山の時に寄進した人達の名前がわかるようになっていて広告効果があるようだ。 途中には場所を選び至る所に塚がありそれぞれの自分の神が祀られてある。 其の塚は一万以上あるらしい。万(よろず)の神々のお山だ。 同じように伏見の上醍醐を目指し醍醐の山も登るのだが,周囲はただ景色だけで,かなり歩くと疲れを感じてくるが 稲荷神社は比較的急な階段以外は疲れを感ずることは比較的少ないように思った。 これは鳥居の朱と少しの黒色の効用によるものかと思ったりしている。 次に海住山寺は奈良寄りの京都側の山の中腹にある。正確には京都府加茂町になる。 聖武天皇が建都した恭仁京と関係があり,恭仁京が造営された際に同時に建った寺院である。 国宝の五重塔が小さいながらも大変美しい。寺院境内には恭仁京を見下ろすことのできる展望台のような場所があって そこからは下界が一望できる。 海住山寺のいわれ(由緒)を聞くと丁度雲海の中にある山の寺だからとそのような名前がつけられたと寺院関係者から聞いた。 上ったときは昼間だったので雲がたなびくようなことはなかった。 以前,東京へ行く用事があり,京王プラザホテルに泊まったとき丁度朝食をとる場所が 高層ビルの一番上階になっていて食事を取ったことがある。 そうすると食事している目の前を雲が横切るのを見た,これは恰も雲の上にいるような気分になったことがある。 多分この海住山寺も同じように眼前に雲を見て恰も雲の上にいるような気分になるような地理的な場所にある寺院ではないかと想像する。 これらの神社・寺院を数々訪れてみて昔の人達の知恵で,人間の身体に良いような工夫がなされているのではないかと思うようになった。 観音寺は大体に山の頂上に在る。 今では自動車で山上まで行けるが,昔の人達は長い旅をし山ふもとから登ることになる。 観音寺を参ると月参りしている人達に会ったりすることがある。 四国八十八箇所 西国四十四箇所参りにも,それぞれ参ることによって自然に運動をして同時に,自然の中で神仏に詣で心の平安を得る, 心身共に健康に良い効果を収めるのが,一番のご利益なのかも知れない。 これはずーと昔から続いている。昔の人たちによる長年に渡わたる知恵の結晶ではあるまいか。
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