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随想
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かつて、王侯の結婚は政略的な色合いが濃かった。
オーストリアの女帝マリア・テレジアは、同盟強化のため、娘のマリー・アントワネットをフランス王室に嫁がせた。
14歳だった娘を気遣う母と、ベルサイユ宮殿で暮らす娘との間の書簡が残されている。
テレジアが、結婚の狙いを成就させるものとして繰り返したのは子を得ることだった。
「あなたにとっては、子供を授かるのが何よりも大事な使命なのですし、
子供を産むことであなたの幸せは揺るぎないものとなるのです」
(『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』藤川芳朗訳・岩波書店)。
結婚から8年たって、女児が生まれた。
次を促すテレジアは、自身の死の数カ月前にも「私たちにはどうしても王太子が必要なのです」と書き送る。
アントワネットの立場は、国の命運にかかわる「産む機械」のようだった。
後の大革命でアントワネットが断頭台に消えて、200余年がたつ。女性を「産む機械」と見るような時代は去ったはずだが、
この国の閣僚、しかも少子化を担当する厚生労働相が口にした。
今でも世間には、家の跡継ぎという言い方が残る。
国家も一つの家であり、女性には跡継ぎを残す責任があるなどという見方が、発言の背景にあるのだろうか。
アントワネットの初産にはオーストリア大使が立ち会い、テレジアに報告した。
分娩(ぶんべん)の一瞬後に痙攣(けいれん)を起こし、一時は危険な状態になったという。
立場は「産む機械」でも、命がけでお産に臨む姿は「機械」などではなかったはずだ。
昔,戦時中は貧しい中にあっても生めよ増やせよの世の中であった。何人もの兄弟がいたのが普通であった。
それがどうしてこんな時代になってしまったのか,政府の舵とりが悪かったのかどうか。
日本の古代の大王の後裔である支配者を継続させることが大切なのかどうか。
又自然体の皇室があってもよいのだが,皇族の方々に゛神経を患うまでにも,
国民が皇室に圧力を何故なんのためにそんなにあたえているのかを考え直すべきことである。
原子炉で長年、組織的にごまかしていた疑いがある
平成19年2月2日の天声人語からの引用
原子炉で異常が起きた時、速やかに水を送り込むのが、非常用炉心冷却装置だ。
原発の暴走を防ぐ砦(とりで)の一つだ。
東京電力が、それにかかわるポンプの一つの故障を隠したまま定期検査を受けて合格し、原子炉を動かしていた。
92年に新潟県の柏崎刈羽1号機であったと東電が発表した。
炉心という原発の急所に絡む所で、検査官の目をごまかしていたとは悪質だ。
他の原発でも、放射能の測定値を低く偽るといった不正が多数みつかった。
長年、組織的にごまかしていた疑いがある。
東電の体質が改めて問われるのは当然として、国が見過ごしてきたことも問題だ。
原発の規制にあたる経済産業省の原子力安全・保安院の対応は、適正だったのか。
保安院という名前にも、やや違和感がある。
「保安」より、最も重要な仕事の「規制」をうたう方が、役目がはっきりするだろう。
米国では、規制する機関は「原子力規制委員会」と名付けられている。
戦後、米国の原子力政策の根幹づくりに貢献したリリエンソール氏が、
原子力とスリーマイル島原発事故について自著で述べている。
「『誤った判断・過小評価・誤操作があれば、大災害を起こしうる基本的な力である』ということを、恐怖をもって示してくれた」
(『岐路にたつ原子力』日本生産性本部)。
人類は、今もって原子力を制御しきれていない。
それを肝に銘じ、経済性などに引き回されることなく、慎重なうえにも慎重に相対すべきだ。
偽ったり、過小評価したりしていると、いつの日か大災害を起こすことになりかねない。
原爆の恐ろしさを体験した日本の国で原子炉による事故で被害を被る事件だけは起こしてもらいたくない。
JR宝塚線(福知山線)の脱線事故で
国交省の航空・鉄道事故調査委員会は
平成19年2月3日の天声人語からの引用
これでは、まるで「我が社はどうやって事故を防いできたのか」という演説のようだ。
JR宝塚線(福知山線)の脱線事故で、国土交通省が意見聴取会を開いた。
そこでのJR西日本幹部の発言に違和感を覚えた。
国交省の航空・鉄道事故調査委員会は、
JR西の運転士の再教育制度の「日勤教育」や「余裕のないダイヤ編成」などの問題点を指摘している。
これに対して、「日勤教育」は意欲の向上に必要であり、標準的な運転をすれば定時運行はできるなどと反論した。
思う所を述べるのはいい。
しかし107人もの人が亡くなった事故は、JR西の線路で、JR西のダイヤと運転士のもとで起きたのではなかったか。
大惨事を起こしながら、原因を突き詰める姿勢がみえない。
事故の原因は運転士個人と言いたいのだろうか。
お茶を急須から大ぶりの茶わんにつぐのは易しい。
しかし茶わんが小さくなれば難しくなる。
「(産業界で使われている)機械などの中には、労働者にお茶わんどころでなく、
試験管にお茶をつがせるようなことを、やらせているのかも知れない」
(狩野広之『不注意とミスのはなし』労働科学研究所)。
調査委は、無理や緩みがあったかどうかを更に詰めてほしい。
桶(おけ)や樽(たる)にはめて、固く締めるのが箍(たが)だ。
大桶だと一番上が鉢巻箍、中ほどに口輪箍、下には底持ち箍、小尻持ち箍と、持ち場にふさわしい名前が付いている
(成田寿一郎『曲物・箍物』理工学社)。
巨大な組織ほど箍にかかる力は増し、緩みやすくなる。
一つ一つの箍の点検が欠かせない。
JRの効率化 競争に勝つための無理がしわ寄せで事故が起きることは誰もは予想できた。
過密ダイヤ 人員削減などでより収益を上げることによったことが一番の根本原因ぐらいわかる。
だが物言わぬままガス室に送られる多くの犬や猫を思うと
平成19年2月4日の天声人語からの引用
飼っていた猫が死んだとき、物理学者の寺田寅彦は詞を書き、曲も付けて童謡をつくった。
「三毛のお墓に雪がふる/こんこん小窓に雪がふる/炬燵布団(こたつぶとん)の紅も/三毛がいないでさびしいな」
甘い感傷を享楽できるのはなぜだろう、と寅彦は考えた。
人間と違って、猫との思い出には「いささかも苦々しさのあと味がない」からだと思う。
それは「彼らが生きている間に物を言わなかったためであろう」と随筆につづっている。
寅彦に愛された猫は幸せだったろう。
だが物言わぬままガス室に送られる多くの犬や猫を思うと、苦い後味ばかり残る。
救出劇で有名になった徳島市の「崖(がけ)っぷち犬」は引き取り手も決まり、まずは一件落着となった。
しかし一つの美談に隠れるように、全国で犬9万匹、猫24万匹(04年度)が命を絶たれている。
米のセントルイスで4年前、奇跡的な出来事があった。
動物管理センターのガス室に入れられた犬が、処置後に扉を開けると、なぜか元気に生きていたのだ。
他の7匹は死んでいた。
その犬だけが立ってしっぽを振っていた。
「再び扉を閉めて殺す気にはとてもなれなかった」と、取材した電話に担当者は言った。
同じ町で、捨てられた動物の保護施設を運営する男性は「身勝手な人間への動物からのメッセージとしか思えない」と涙ぐんでいた。
寅彦の猫は、あるとき4匹の子を産んだ。
手を尽くして、それぞれがもらわれていったあと、寅彦は「娘を嫁がせた父」のような感慨にふける。
良き思い出を残すには、責任も欠かせないのである。
ガス室へ入れられて多数の犬猫を殺す行為と、多数の人たちがテレビに映された一匹の野良犬救助ドラマを
ハラハラして見ている人間の不思議さを感ずる。
ほかの学校と違うのは、
松本少年刑務所の中にあることだ
平成19年2月5日の天声人語からの引用
角谷(すみや)敏夫先生(59)が「日米修好通商条約」と板書し、「何年だったかな」と聞く。
「1858年」と生徒から声が上がる。
ここは長野県松本市の市立旭町中学校の桐(きり)分校である。
丸刈りに学生服の10人が机を並べる。
ほかの学校と違うのは、松本少年刑務所の中にあることだ。
中学を終えていない全国の受刑者から希望者を募り、1年間勉強させる。
その授業を見せてもらう機会があった。
地名にちなんだ桐分校ができたのは52年前だ。
そのころ、収容されていた少年の8割が中学を出ていなかった。
所長らが政府や松本市に分校の設立を働きかけた。
生徒の受け入れにあたっては、しだいに年齢制限をゆるめた。
今は年齢を問わない。
今年度の生徒は20代から60代に及ぶ。
分校の担任を務める角谷先生の正式な肩書は法務教官だ。
大学卒業とともに、やって来た。
「ここにこそ、最も教育を必要としている人たちがいると思ったからです」。
授業は1日7時間。
ほかの受刑者は夜9時に寝るが、分校生は10時まで自習できる。
夏休みも冬休みもない。
勉強漬けの日々だ。
強盗の罪で服役している30代の生徒に話を聞いた。
母子家庭で、住まいを転々とし、ほとんど中学に行けなかったという。
「中学を出ていないことにずっと引け目を感じていた。
ここで一つのことをやり遂げる自信をつけたかった。
いかに自分に甘く、身勝手だったか。
分校生活で思い知らされました」
来月、卒業を迎える。
その後、元の刑務所に戻る。
「出所したら、この経験を大事にして、人生をやり直したい」
罪を犯した人たちの生い立ちを調べ教える必要性を,政治問題として必要があるのではないのか
そして現在の落差ある社会状況についてもだ。
それに向き合うことができる立派な教師があれば良いのたが。
世に言葉を放つことの重みと責任が感じられる
平成19年2月6日の天声人語からの引用
ドイツの詩人ハイネは、言葉を、放たれた矢に例えて述べた。
「矢は弓弦から飛び去るやいなや、もはや射手のものではない」(「告白」土井義信訳)。
世に言葉を放つことの重みと責任が感じられる。
日本列島を矢のように飛び巡った「産む機械」という言葉は、注目された二つの選挙にも影響を及ぼしたようだ。
柳沢厚生労働相は、すぐに反省という二の矢を放っていたが、第一の矢は射落とせなかった。
愛知県知事選では自民、公明推薦の現職が、北九州市長選では民主など野党3党推薦の新顔が当選した。
与党側は「2敗」を免れたとして厚労相の進退問題に幕を引きたいようだ。
しかし、この結果を単に1勝1敗とみていいのだろうか。
勝ったとはいえ、優勢を伝えられていた愛知で、最後は薄氷を踏むようだった。
北九州では水をあけられた。
票が野党側に向かう傾向は二つの選挙だけのものだろうか。
今後の攻防次第で、統一地方選や参院選に影響が残るかも知れない。
政治とは、情熱と判断力を駆使しながら「堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫(ぬ)いていく作業である」。
ハイネと同国の社会学者ウェーバーはこう述べ、続けた。
「もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束(おぼつか)ない」
(「職業としての政治」脇圭平訳)。
与党から飛び出した敵失という矢に頼ることなく、例えば「政治とカネ」の問題では、野党も身を切るようなことにアタックする。
そうでないと、政権交代など、とても覚束ない。
現在何か訳のわからんような政治家達によって政治がおこなわれている。その結果によって出来た世の中も同じである。
仲良しクラブ政治が行われている。
温暖化によるのだろうか
平成19年2月7日の天声人語からの引用
このところ東京では、暖冬というより春が来てしまったような陽気が続いている。
北国も雪が少なく、「さっぽろ雪まつり」では雪像をつくる雪を山から運んだという。
記録的な暖冬になりそうだが、あの温暖化によるのだろうか。
先日、世界の科学者らによる「気候変動に関する政府間パネル」の作業部会が、深刻な内容の報告書を承認した。
温暖化は確実に進んでおり、21世紀末には1・8〜4度ほど気温が上昇、海面は18〜59センチ上昇すると警告した。
大洋に浮かぶ島々だけではなく、海抜ゼロメートル地帯のある日本の都市にも大きな害を及ぼす。
海辺は激変し、高い護岸を巡らせた異様な姿になりかねない。
安部公房の小説「第四間氷期」は、大方の陸地が水没するような未来を想定している。
二酸化炭素の増加も出てくるが、海底火山の大噴火で放出された水蒸気で海水が増えることが水没の直接の原因と語られる。
人類の存続のため、人間は水中で生きられる「水棲人」に改造される。
ある水棲人の少年が、昔「東京」と呼ばれた水中遺跡を訪ねた後、海面からわずかに頭を出した小島へとたどりつく。
「風の音楽」を聞こうとするが、エラ呼吸なので息苦しい。
「しかし、待望の風は吹いていた。
とりわけ風が眼を洗い、それにこたえるように、何かが内側からにじみだしてくる。
彼は満足した」(新潮文庫)。
少年のDNAに刻まれた、はるか遠い記憶が、彼を地上に引き寄せたのだろうか。
小説ほどではないにしろ、温暖化で陸地を失うことは、風を失うことでもある。
地球は人類が住み続けるための唯一の場所である。排ガス規制に賛同しない大国がある限り
いずれ人類が滅亡への道を進んでいる。
自分だけ良ければとの思いの人たちばかりなのか。
安倍首相が通常国会に提出する意向を示す教育関連3法案を
「2月中か3月上旬にはまとめていただきたいと
平成19年2月8日の天声人語からの引用
通り道にある小学校の脇を歩いていると、いいにおいがしてきた。
給食室で白い前掛け姿の人が、ずらりと並んだ皿に何かを盛りつけているようだ。
ふと、給食代を払わない親たちがいるという記事を思い出した。
歓声が聞こえる。休み時間らしく校庭いっぱいに児童が遊ぶ。
ドッジボール、縄跳び、追いかけっこ。
入り乱れる様は昔と変わらない。
あどけない笑顔を見つつ、今の学校が抱える問題の多さ、深刻さを思う。
文部科学相の諮問機関の中央教育審議会の総会で、劇作家で評論家の山崎正和さんが会長に就任した。
審議を見守りたいが、文科相が気になる発言をした。
安倍首相が通常国会に提出する意向を示す教育関連3法案を巡り「2月中か3月上旬にはまとめていただきたい」と述べた。
性急な感が否めない。
山崎さんは以前、日本の教育を改める必要性を指摘して、森鴎外の小説『青年』にふれた。
「『日本人には人生がない』と嘆く一節があります。
『学校に行けば人生があるだろう』『学校を出れば人生があるだろう』と急いでいるうちに、
結局、人生を味わうゆとりもなく命が終わってしまう、というのです」(『二十一世紀の遠景』潮出版社)。
この辺りにまで踏み込んだ深い論議を期待したい。
文科相は、教育は国家百年の計とも述べたという。
それならば、設けるのは締め切りではなく、百年後に耐える議論をするゆとりにしてはどうか。
時には、校庭で歓声を浴びてみる。
一人一人が元気に育ってほしい。
そんな思いが、心の底からわき起こってくるはずだ。
「何かもつと大切なことが政治上いくらでもあるのではないですか」と言いたいような世情である。
何も国民の気持ちがわからずして,自分の思いだけの優先順位でもって政治が行われようとしているのが
現状ではないでしようか。
恋敵や三角関係もなくならない
平成19年2月9日の天声人語からの引用
男と女がいるかぎり、恋があり、失恋がある。
何とかあきらめをつけるものがあれば、おさまらないものもある。
そして恋があるかぎり、恋敵や三角関係もなくならない。
切なくも、やっかいなものだ。
米国で、宇宙飛行士の女性が、恋敵と思いこんだ相手を誘拐しようとしたなどの容疑で逮捕され
、第1級殺人未遂罪などで起訴された。
昨年スペースシャトルで宇宙を飛んだ有名人だったこともあって、日本にまでニュースが届いた。
恋敵になりそうな友を出し抜いて女性と結ばれた男の、自責の苦悩を描いた夏目漱石の「こゝろ」に、
嫉妬(しっと)についての一節がある。
「傍(はた)のものから見ると、殆(ほとん)ど取るに足りない瑣事(さじ)に、
此(この)感情が屹度(きつと)首を持ち上げたがるのでしたから……かういふ嫉妬は愛の半面ぢやないでせうか」
愛情と裏腹にあるともみえるこの感情を制御するのは、なかなかむずかしい。
シェークスピアに、有名なせりふがある。
ベネチアの貴族オセローに、彼の旗手イアーゴーが吹き込む。
「閣下、嫉妬に御用心なさいまし。嫉妬は緑色の目をした怪物で、人の心を餌食(えじき)にしてもてあそびます」
(『オセロウ』岩波文庫・菅泰男訳)。
嫉妬心をあおられて妻の不貞を疑ったオセローは、ついには無実の妻デズデモーナを絞め殺し、自分も死ぬ。
米国の事件が未遂に終わったのは、不幸中の幸いだった。
被告は、所在の確認のため全地球測位システム(GPS)受信機の装着を命じられた。
目には見えない電波のヒモを付けられて、緑の目の怪物はおとなしくなっただろうか。
恋は盲目と昔の人はよく言ったものである。
日興コーディアルグループの
利益の水増しは、
組織ぐるみとみられている
平成19年2月10日の天声人語からの引用
「誠心誠意の」は英語ではコーディアル。
日興コーディアルグループの社名は、そこから来ているという。
同時に、コード(きずな)の意味も込められている。
「誠心誠意のきずな」という看板とはかけはなれた、不正な決算が発覚して、大きく揺れている。
利益の水増しは、組織ぐるみとみられている。
不正にかかわった元役員らの責任は極めて重い。
日興が今後提出する決算の訂正報告書などを東京証券取引所が審査し、日興の株式を上場廃止にするかどうかを判断する。
1918年、大正7年に産声をあげ、来年が創業90年となる大手証券会社は、重大な岐路に立たされた。
昭和30年代の初めごろの流行語に「マネービル」があった。
「ボデービル」からヒントを得て宣伝文句にしたと、日興の社史にある。
「体をたくましくつくる」の連想から、証券貯蓄による財産づくりの代名詞のようになり全国に広まった。
「一、二、三、四マネービル/思い立ったら今すぐに/始めましょうよお父さん/ニコニコニッコーマネービル」。
この「マネービルの歌」を作詞したのは、日興証券の企画部だったという。
世間に強く訴えかける言葉を選び出す力があったらしい。
もう一つ、業界でよく知られた日興発の一句がある。
「銀行よさようなら、証券よこんにちは」。
これも30年代の作で、証券ブームを象徴する言葉となった。
当時、銀行に向けた言葉が、今は日興自身に向けられているのかも知れない。
体質をコーディアルにきたえ直さないと、さようならの日が来ないともかぎらない。
証券ブームとは縁のない生き方をしてきている。証券会社の不祥事につけ込み外資が資本買収に虎視しているようにも
新聞で見る。証券会社が外資の支配下に収まり,そして銀行まで外資下になれば,日本そのものが外国の資本下に収まってしまう。
外国のため働く時代になりはしないかと。資本主義社会の最後に行き着くところである。
チベット語になった「坊っちゃん」
平成19年2月11日の天声人語からの引用
「ヨコタテ」といえば、翻訳を少々揶揄(やゆ)した言葉だ。
横文字を縦に置き換えるだけではないか??。
だが中村吉広さん(48)の『チベット語になった「坊っちゃん」』(山と渓谷社)を読むと、翻訳が、
言葉の置き換えを超えた異文化のぶつかり合いだと分かる。
中村さんは98年から4年間、チベット仏教を学ぶため中国青海省の民族師範学校に留学した。
最後の1年は請われて日本語講師となり、チベット人教師や教え子と、漱石の『坊っちゃん』の翻訳に取り組んだ。
題名は、貴族の子息への敬称をそのまま使えた。
だが冒頭の「親譲りの無鉄砲で……」で早くも思案する。
名調子は結局、「父母の慎重さを欠く気質を受け継いでいたので」と律義な訳に落ち着いた。
以降も山あり谷あり。
「赤ふんどし」とは何?「茶代」って賄賂(わいろ)?
「猫の額程な町内」も、無辺の地に暮らす人には分かりづらい。
「漢学教師」は「中国語の先生」とは違う、などと互いの文化、風土を行きつ戻りつ、全体の3割まで訳した。
だが中村さんの帰任で中断する。
その中村さんと、日本に留学中の当時の教え子7人が来月、小説の舞台の松山市に集う。
著作を読んだ愛媛大学の有志らが、完訳を支援しようと「翻訳合宿」を企画した。
「道後温泉」や「坊っちゃん列車」など、ゆかりの文物を見つつ翻訳を進めてもらおうとの計らいだ。
有志はチベット語対訳版の刊行をめざし、合宿中に公開のシンポジウムも開く。
教え子たちは、『坊っちゃん』がどれほど市民に愛されているかも、肌で感じることだろう。
『坊っちゃん』は少年時代に読み,今読んでも楽しい本だ。陰湿な少年犯罪が横行している時代に
広く読まれても良い本のように考える。
歌手でも役者でも、
流れの速い芸能界で
長く一線にとどまるには
平成19年2月12日の天声人語からの引用
82歳とは思えぬ声の張りに、会場は総立ちの拍手だという。
フランス歌謡界の長老、シャルル・アズナブールが、「最後の」と銘打った日本公演を続けている。
歌手でも役者でも、流れの速い芸能界で長く一線にとどまるには二つの道がある。
軽やかに時流に乗るか、がんこに自流を貫くか。
シャンソンの名手には後者が少なくない。
7日に80歳になったジュリエット・グレコが典型だ。
夜の森を思わせる深い声、語るような歌唱、黒ずくめの衣装、宙を舞う両の手。
どれも22歳のデビュー当時からだ。
自由を愛し、強者や権力を疑う生き方も変わらない。
ナチス占領下のパリで、レジスタンス活動家の娘として秘密警察に拘束された体験が原点だろう。
すでに大御所だった1981年、チリのピノチェト独裁政権の招きをあえて受け入れた。
軍幹部と家族が聴き入る御前コンサートの途中から、軍政が禁じた抵抗歌を続け、直ちに国外追放となる。
いかつい兵士に囲まれ、空港へと連行される報道写真はフランス人を熱くした。
本人は「生涯最大の勝利」と振り返った。
4月に19回目の日本公演がある。
「最後の」としない理由はパリマッチ誌との問答からうかがえる。
「私に理解できない言葉があるとすれば、ノスタルジー(懐旧の念)です」
とんがって、反骨を貫くのは、人生の損得勘定でいえば大損かもしれない。
これを不器用と笑うか、潔しとするかは人それぞれである。
80歳を迎えた水曜日の夜、彼女は仏テレビの生番組に出た後、祝宴に臨んだ。
参加者は家族ら8人だけだった。
現在でも器用に生きる人達が多い中で,戦時下の特殊な時代において反骨精神を貫くことは容易なことではない。
同じ人生を生きるならば筋を通して真理にのっといて生きてゆきたいものである。
名誉もいらない、お金も要らないとする立派な人たちが大勢いる。
そのような人たちの生き方に憧れるが。
踏切から線路内に入った女性を
助けようとした警察官が電車にはねられた
平成19年2月14日の天声人語からの引用
市街地では、鉄道は街を貫いて走っている。
あちこちで貫かれ、隔てられる町並みは、開いた踏切でつながる。
踏切は、街と街、人と人をつなぎつつ隔てている。
東京都板橋区の踏切のそばで、痛ましいことが起きた。
東武東上線ときわ台駅で、踏切から線路内に入った女性を助けようとした警察官が電車にはねられた。
意識不明となり、6日後に亡くなった。
死亡した宮本邦彦巡査部長は、踏切のすぐそばの駅前交番に勤務していた。
親身な仕事ぶりで、地域の人たちに親しまれていたという。
今度も、女性を何とか救い出そうとしたのだろう。
自らの命が危険にさらされた時、電車が頻繁に行き交う踏切に入るなどということは、なかなかできるものではない。
警察官ではないが、十余年前の冬に、東京の下町の踏切でこんなことがあった。
スキーに行く予定の青年たちが、踏切のそばで待ち合わせていた。
反対側から来たバイクが急ブレーキをかけてスリップし、遮断機が下りていた踏切の中に倒れ込んだ。
ふたりの青年が助けに入り、バイクを踏切の外に出そうとしたところに電車が来た。
一人の青年が、はねられて亡くなった。
この青年の同僚が言っていた。
「会社に新人が入ってきたとき、わからなくて悩んでいる様子を見ると声をかけていました。
見て見ぬふりができない性格だったと思います」
昨日、ときわ台の駅前交番では、人々が列をなして記帳していた。
時折、そばの踏切で警報機が鳴る。
どこででも聞くあの音の中に、宮本さんを悼む弔鐘の響きが感じられた。
このニュースをテレビで見ていて,世の中このような警官ばかりになれば,もっと世の中もっとよくなってよいものだと思うのだが
中には己の出世に目がくらむ警官がいるから一向に世の中よくならない。
警官の全部がこのような人ばかりならば,もっと世の中明るく住みよい世の中になっていないのが不思議である。
宮崎県の日向市漁協に所属する
このマグロはえ縄漁船の船体が切断し沈没
平成19年2月15日の天声人語からの引用
ちぎれた船体が、逆さまになって波間に浮かんでいる。
船尾には「幸吉丸」とあり、周りに人の姿は見あたらない。
冬の外洋での、こんな様子を知らされれば、助からないと思ったとしても無理はない。
宮崎県の日向市漁協に所属するこのマグロはえ縄漁船には、漁を取材するカメラマンが乗り込んでいた。
その父親は船体が切断されて見つかったことに絶望し、
「途中で花束を買い、海に投げよう」と都井岬に向かっている時、無事発見の知らせを聞いた。
「地獄から天国に昇る気持ちです」
鹿児島県種子島沖で連絡が途絶えてから3日間も漂流した船長ら3人は、収容された病院で体調を取り戻しつつある。
転覆した後は屋根付きの救命ボートに乗り移り、底に開いた穴から入る海水をかき出しながら救助を待ったという。
以前、幸吉丸のと似た救命ボートに、同僚の記者が乗り込んでみたことがある。
漂流を疑似体験するためだ。
船から救命ボートを海に下ろす時に水が入ってしまった。
牛乳パックでかき出そうとしたが5、6回やっただけで船酔いで気持ちが悪くなった。
幸吉丸では漂流中かき出し続け、ほとんど眠れなかったという。
生還して本当に良かったが、3人の命が脅かされ続けたことは確かだ。
悪天候などで発見が遅れれば、惨事に至ったかも知れない。
昨日になって、貨物フェリーが衝突した可能性があると報じられた。
特定されたなら、衝突後の対応も調べてほしい。
今回は鍛えられた海の男の強さと冷静さが光ったが、それが漂流で試されてはやりきれない。
大変な体験をなさった三人の漁民で明るいニュースである。でも世界にはイラクのように何十人の人たちが自爆テロで
なくなっているニュースが短く報道されているのに心が痛む。
青森市の八甲田山系の前岳で、
山スキーツアーの一行が雪崩に遭い
平成19年2月16日の天声人語からの引用
激しい地吹雪のため、雪原は雪煙で覆われていたという。
しかし、雪煙は地面から吹き上げられたものだったので、風がやむとびっくりするほど遠くが見えることがあった。
突然現れた山容を認め、神田大尉が言った。
「見ろ、あれは八甲田山の前岳だ」(新田次郎『八甲田山死の彷徨』新潮社)。
青森市の八甲田山系の前岳で、山スキーツアーの一行が雪崩に遭い、死傷者がでた。
小説が扱った雪中行軍の時ほどの悪天候ではなかったようだが、冬山が牙をむいた時の怖さを見せつけた。
ツアーのガイドのリーダーは、今年の冬は暖かいので雪崩の危険はあると思い、普段通るルートを変更していたという。
樹林帯を通れば大丈夫だと思っていたが、「結果的に起きてしまった」と記者会見で言って絶句し、机に突っ伏したという。
山のベテランにも計り知れない「白魔」の振る舞いだったのか。
今回の雪崩は、青森地方気象台が全県に雪崩注意報を出してから10分後ぐらいに起きたのではないかという。
気象情報にも、可能な限り、注意が必要だ。
小説の題材となった青森歩兵第五連隊の行軍は明治35年、1902年の1月下旬に行われ、210人のうち199人が死亡した。
時期は今とあまり違わない。
ツアー客が滑り降りていたコースの先には、連隊遭難の記念像が立つという。
雪の行軍がスキーツアーに変わるまでの約100年は、人間にとっては長い年月だった。
しかし、自然にとっては、いわば一瞬のことなのだろう。
変わらない悠久の営みへの畏(おそ)れを、忘れないようにしたい。
変わらない悠久の営みへの畏(おそ)れを忘れ去って過ごすのが凡人で,目先のことばかりが気にかかる。
変わっている自分,変わっている自然の毎日だとあまりきずかない。
でも大きな期間で見るならばおおいに変化はあると思う。
自然への畏れは科学万能時代には薄れている。でも人間である限り自然に比べ,自分の小さな存在であることに
謙虚に認めるようにしょう。
米航空宇宙局(NASA)の火星探査機
マーズ・リコネッサンスが撮影したもの
平成19年2月17日の天声人語からの引用
地球の隣の軌道を公転する火星は、その赤く光る姿が印象的だ。
ダンテも「神曲」で「見よ、朝(あした)近きとき、わたつみの床(ゆか)の上西の方(かた)低きところに、
濃き霧の中より火星の紅(あか)くかゞやくごとく」とうたった(岩波文庫・山川丙三郎訳)。
赤い星の地表に、白っぽい線が幾重にも重なって見える画像が届いた。
米航空宇宙局(NASA)の火星探査機マーズ・リコネッサンスが撮影したもので
、峡谷にある層状の地形の亀裂に沿って、白っぽい帯状のところが見える。
画像からは大きさがつかめないが、この峡谷は全長が約4千キロもあり、太陽系で最大級だという。
米アリゾナ大グループによれば、白いところは「水が流れたらしい痕跡」だ。
昨年の暮れにも、NASAが「過去7年以内に水が流れたと考えられる痕跡」がみつかったと発表している。
今も、火星の一部の地下などには液体の水がある可能性があるという。
今回の画像の繊細な波紋のような白い線の重なりを見つつ、水がゆったりと流れている様を思い浮かべた。
地球で命を育んだ水は、この星にも生命の息吹をもたらしたのだろうか。
「何か面白い事はないか?」「俺(おれ)は昨夜火星に行って来た」。
石川啄木のユーモラスな短編「火星の芝居」の一節だ。
夢の中で行って、芝居を見てきたと言う。
「火星の人間は、一体僕等より足が小さくて胸が高くて、最も頭の大きい奴が第一流の俳優になる」
火星は地球人の想像をかきたててきた。
そこで生まれた火星人には、地球人もまた一種の宇宙人だと思わせるところがあるようだ。
現在の科学の時代とは石川啄木の時代と違って,宇宙ロケットで火星の写真を見る機会が多くなれば夢も壊れる。
火星は科学の対象である。夢が育たなくなってきた。将来地球が核汚染され火星に大量移住する人類の時代があるかもしれない。
「幸せは適度な鈍感にあり」と45年前の週刊朝日に書いた。
平成19年2月18日の天声人語からの引用
反骨の名文記者として知られた門田(かどた)勲は、食べ物の記事を好んで書いた。
ある時、竿(さお)釣りのカツオは身が締まってうまいと食通から聞き、繊細な舌に感心しつつ、考えた。
最高の食材が常に手に入るわけではあるまい。
ならば鋭い味覚の持ち主は、味を楽しむより不満を感じる方が多くはないだろうか。
そして、「幸せは適度な鈍感にあり」と45年前の週刊朝日に書いた。
松岡利勝農水相の味覚は、鈍感ではないのだろう。
外遊して、日本料理とはかけ離れた「日本料理」を出す店が多いのを憂えたそうだ。
正しい和食を広めようと、海外の店に政府がお墨付きを与える制度づくりに乗り出した。
所変われば食文化も変わるものだが、面妖なニホン料理は見過ごせないらしい。
そんなことに国費を使うのか、政府のする仕事か、という声が与党からも出た。
だが2億7千万円の予算が付き、07年度からの実施に向けて準備が進む。
欧米のメディアは、日本から「スシ・ポリス」がやって来ると警戒のまなざしを向けている。
海外の和食店はざっと2万4千、うち日本人料理人のいる店は1割という。
「正しい和食」は大切だろう。
だがここは力まずに、「よき鈍感さ」で、世界各地に芽吹いた和食文化を見守ってはどうか。
ところで門田は、ある蒲焼(かばや)きの老舗(しにせ)で、
いかに上物のウナギか、いかに丹精込めて焼くかと、さんざん能書きを聞かされた。
げんなりしてしまい、「いい加減なやつを気楽に食べさせてほしい」と書き残している。
洋の東西を問わない、気取らぬ庶民の思いでもあろう。
「正しい和食」とはなんだろう。日本で西洋料理 中華料理を食べているが本場の人たちにとっては
奇怪な食べ物だとおもう。日本料理も其の国にあった料理に変わっても一向に変でもない。
松岡利勝農水相の言葉を借りれば面妖でもない。
むしろこのようなことに口出す大臣こそ面妖な大臣である。
本当に常識有るのかと思える閣僚達によって,日本が動いている。大丈夫かな。
沿岸部で進んだ埋め立てや干拓の産物だ。
平成19年2月19日の天声人語からの引用
海面は、月に近づいた部分とその逆側が同時に盛り上がる。
これが満潮だ。
「熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」(万葉集、額田王)。
太古から潮は毎日ほぼ2回ずつ、満ちては引いてきた。
日本地図の海岸線は満潮時の水ぎわを示す。
それに囲まれたところが国土というわけだ。
国土地理院によると、昨年10月1日時点の国土面積は、1950年当時に比べ2・6%広い。
奄美諸島や沖縄が国土に復帰した後の増加は、沿岸部で進んだ埋め立てや干拓の産物だ。
18日の東京マラソンも、終盤5キロほどは昔の海の上を走った。
最近の国土増加は、海上空港の建設に伴うものだ。
海岸線が膨らみ続けた結果、日本の干潟は戦後半減した。
かつて有明海に次ぐ規模だった東京湾の干潟は9割が消えた。
湾の最奥、千葉県船橋市沖などに広がる三番瀬は、首都圏に残る貴重な干潟・浅海域だ。
埋め立て計画を01年に撤回した千葉県は、干潟の保全と再生に向けた最初の事業計画を近く公表する。
東京湾の浅瀬にある藻場は、すしだねで名高い江戸前の魚介類を育ててきた。
微生物が多い干潟は生活排水の汚れを浄化する力を持ち、ハマシギやスズガモなど水鳥の楽園だ。
万葉集にも千葉の干潟を詠んだとされる「夏麻(なつそ)引く海上潟(うなかみがた)の沖つ洲に 鳥はすだけど君は音もせず」
(作者不詳)の恋歌が残る。
満潮になると姿を消す干潟は国土の面積には算入されない。
わずかでも地面が増えたと聞けばなんだかうれしくなるが、その陰で失われたものの大きさにも思いを巡らせたい。
日本の国土は狭いというものの広くて昔盛んだった宿場町が廃れて廃村化しているところも有るが,一方では
都会に人が集まり過密化している。
今住んでいる場所も昔は巨椋池といわれて木津川・宇治川・鴨川・桂川が流れ込み,下流には淀川一つで
大阪湾に流れている。昭和の始め頃に食料増産のために埋められてしまっている。
今残っていれば情緒ある大池だったと思う。一部は宅地化されているが,大部分広い田園地帯がまだ残っていて
京都のここだけに高速道路が建設されようとしている。
旧市街は不便だが京都情調をば残して置いてほしいものである。
東京マラソン
平成19年2月20日の天声人語からの引用
走り終えて、後ろを向く。
そして深々と首(こうべ)を垂れた。
東京マラソンのゴール地点で有森裕子さんが見せたお辞儀に、心引かれるものがあった。
深い安堵(あんど)や感謝の気持ちが、テレビ画面からも伝わってきた。
それは、この「最後のマラソン」までたどってきた長い道のりへの思いであり、
この日まで走り続けてきた自分や、支えてくれた人たちに対する思いだったのではないか。
マラソンには、独特の魔力のようなものがある。
レースの中に、人が人生行路で出会うのと似たようなものが幾つも見てとれる。
坂道があり、曲がった道がある。
時には靴が脱げたり、転んだりする。
気を取り直して走り続けることもある。
そうしたことが、走る人たちだけではなく、見る側をも強く引きつけてきた。
メキシコ五輪で銀メダルに輝いた君原健二さんは、人生は、マラソンより駅伝に似ていると自著に書いている。
先人から受けたタスキを、責任を持って次の世代に渡す。
「私という個人の人生は、実は、人類の発祥以来やむことなく続いている
途方もなく長いレースのほんの一部分なのである」(『人生ランナーの条件』佼成出版社)。
3万人以上が参加した初の東京マラソンでは、人々が都心の通りを駆け抜ける姿、特に角を曲がる瞬間が印象深かった。
銀座にしろ、浅草にしろ、ずっと前の世代から人は様々な思いで角を曲がり続けてきた。
いわば降り積もった都市の記憶をかすめて、現代のランナーが行く。
記憶というタスキを、次世代に渡す力が、東京マラソンにも備わるようにと願った。
初の東京マラソンも石原慎太郎知事の思いつきによるものと思えてくる。東京オリンピックもそうである。
つい近々に都知事選挙がある。
四人の候補が名乗り挙げているが,週三日しか出てこない知事に対して東京都民が投票するとは思えない。
長く政権にあれば奢りも出てくる。石原知事に投票するほどに都民は馬鹿ではないだろうと思うのだが。
安倍内閣支持率が37%、不支持率が40%で、
支持と不支持が初めて逆転した。
平成19年2月21日の天声人語からの引用
世論調査には、その時々の世の中の風の向きと強さが表れる。
安倍内閣への逆風が一段と強まったことが、本社の調査でわかった。
支持率が37%、不支持率が40%で、支持と不支持が初めて逆転した。
「まずは政策をわかりやすく説明し、実行をしていくことによって信頼を得ていきたい」と首相は述べた。
政策がよく見えないとの批判に応えるつもりのようだが、強い逆風が説明不足だけから来たとは思えない。
安倍政権は、小泉政権の最後に吹いていた風を引き継いでスタートした。
その風は、一時のような強い順風ではなかった。
風はやがて厳しい方に向きを変えて吹き募り、ここまで来たと思われる。
首相の統率力の弱さや、閣僚の辞任、不適切な発言など、逆風を強めたものは様々だ。
その一つに、小泉政権のイラク戦争への同調を引き継いだことがあるのではないか。
米国では、ブッシュ大統領の掲げた増派に下院が反対決議をした。
安倍内閣では、防衛相が開戦は間違いだったと述べた。
世論調査でも、防衛相に「共感する」が57%で、「共感しない」の26%を大きく上回った。
昨日、チェイニー米副大統領が来日した。
「米国人は戦う根性がないとテロリストに言われる。それが最大の脅威だ」。
副大統領が、米国で高まる米軍撤退論に、いらだちをあらわにして述べたという。
小泉政権では米国への追随が目立った。
厳しいことでも指摘し合うという同盟国同士の本来の交わりが、安倍政権でできるのかどうか。
あるいはそれが、今後の風の向きを左右するかもしれない。
安部首相の支持率低下は当然のことである。国民がして欲しいことはしてくれず,自分がやりたいことだけに
かなり熱心である。防衛相の所感は正直でよい。誰もが思っていることである。
アメリカからの独立 即ち対等に話しすることはどう見ても無理な話である。
早く政権交代すべきである。ハンサムな阿部首相も閣僚の「生む機械」発言で女性からの支持も期待できないだろう。
熊楠は、環境の保護運動のさきがけ
平成19年2月22日の天声人語からの引用
民俗学や博物学に通じていた南方熊楠は、100年近く前にエコロジーにあたる言葉を記した。
「千百年来斧斤(ふきん)を入れざりし神林は、諸草木相互の関係はなはだ密接錯雑致し、
近ごろはエコロギーと申し、この相互の関係を研究する特種専門の学問さえ出で来たりおることに御座候」
古来の鎮守の森の保存を訴えた、和歌山県知事あての手紙の一節だ(『南方熊楠全集』平凡社)。
熊楠は、環境の保護運動のさきがけでもあった。
先日、「南方熊楠賞」の受賞者に決まった伊藤嘉昭・名古屋大名誉教授は、害虫のウリミバエを根絶する研究で知られる生態学者だ。
放射線で不妊にしたハエを利用し、農薬に頼らない技術で防除が可能なことを示した。
戦後の農薬の乱用を憂え、ベトナム戦争では、米軍による枯れ葉剤の散布を批判する運動を進めたという。
今年は、農薬などによる公害をいち早く告発したレイチェル・カーソンの生誕100年にあたっている。
「沈黙の春」は、春になっても自然が沈黙したままの死の世界を描いた。
ある講演で彼女が述べた。
「鳥の渡りの中には、真実の美が表現されております。
それはまた、潮の満ち干の中にも、そして春の訪れを待つ芽のふくらみの中にも」。
そして、続けた。
「自然のくり返し??夜の次に朝が、そして冬の次に春が訪れるといった確かさ??の中から、なにかしら限りない柔らぎが生れてきます」
(ブルックス『生命の棲家』新潮社)。
今年も、春の足音が聞こえている。
それが永遠に繰り返されるかどうかは、人間次第だ。
環境破壊は続いている。でも一方で環境の大切さを説く人たちや保護する人たちがいる。
地球環境保護はは自分達が生きている間だけのことではない。
勝手に鳴りだした半鐘が悪い、
平成19年2月23日の天声人語からの引用
約200年前の江戸で、町火消しと力士とが喧嘩(けんか)になり、集団で大立ち回りを演じた。
この「め組の喧嘩」では、半鐘が急に打ち鳴らされて、火消し仲間が集まったとも伝えられる。
「仲裁に入った奉行所が解決に窮し、火の見の半鐘を流罪にしたというのは、おそらくフィクションであろう」。
演劇評論家の戸板康二さんが、この喧嘩をもとにしてできた芝居「神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)」の
解説に書いていた。
火事でもないのに半鐘を鳴らした人間の罪は問わず、勝手に鳴りだした半鐘が悪い、として島流しにする。
裁かれても物言わぬ半鐘の姿には趣もあるが、最近、北関東の茨城県や栃木県では、何十もの半鐘が鳴ることもなく姿を消したという。
換金を狙った盗みとすれば、背景には銅価格の高騰があるとの見方がある。
作家の井伏鱒二が、「め組の半鐘」として新聞に載った写真を切り抜いて、
半鐘や梵鐘(ぼんしょう)の鋳物工場を経営している友人に送ったことがあった(『井伏鱒二自選全集』新潮社)。
鋳型職人は「ツブシ値にすれば大体五千円」と言ったという。
50年ほど前のことで、今回盗まれている半鐘は、10万から50万円ぐらいだそうだ。
近年、街中では、火の見やぐらが周りの街並みに埋もれてしまった。
半鐘も、火事を知らせる道具としては、ほぼ役目を終えている。
しかし使われなくなったとしても、何か捨てがたいものがある。
半鐘は火の見やぐらから地域を見守り、人々は見上げつつ行き来してきた。
鋳つぶせば、金には換え難いそのささやかな歴史をも、つぶすことになる。
世界的な金属高騰であちこちの金属ものが盗まれる犯罪が横行している。カメラが捕らえた映像がテレビで
映し出されている。金物はいたるところに使われている。盗む側には容易に盗める。
其の後での不始末がおこることを考えず盗んでいる。映像で見る限りにおいて堂々と盗みをしているようだ。
保護者が育てられない新生児を預かる
「赤ちゃんポスト」について
平成19年2月24日の天声人語からの引用
今昔物語集には、京の都の門前に捨てられていた子が、犬の乳で育つという話が出てくる。
幼子ふたりを養えないのでやむなく捨てると泣いている女から、ひとりをもらい受ける話もある。
実際にも捨て子は多かったという(服藤早苗『平安朝の母と子』中公新書)。
この時代の「金葉和歌集」には、大路に捨てられた子を包んだおくるみに記された一首がある。
〈身にまさる物なかりけり緑児(みどりご)はやらんかたなくかなしけれども〉。
我が身のために愛児を捨てる苦悩がにじむ。
熊本市の慈恵病院が市に申請していた、
保護者が育てられない新生児を預かる「赤ちゃんポスト」について、厚生労働省が設置を認める見解を示した。
これには賛否が分かれそうだ。
安易に利用されたら問題だという見方がある一方で、何の罪もない子の命が助かるなら意義深いという意見もあるだろう。
厚労省は医療法や児童福祉法などに違反していないというが、法令違反がないことは最低の条件だ。
新生児を受け取る側には、いわばその子の一生を引き受けるような覚悟と備えが求められる。
「赤ちゃんポスト」という名前には、物を入れるような冷たい印象がつきまとうが、
慈恵病院では「こうのとりのゆりかご」と呼んでいるという。
無機的な物を入れる印象を避け、「こうのとりが運んでくれた大切な命」という気持ちを込めて付けたそうだ。
設置が本決まりになった場合は、ポストのような箱ではなく、命を育むゆりかごになってほしい。
その行方には、この社会のありようも映し出されているはずだ。
赤ちゃんが捨てられる場所として「赤ちゃんポスト」はなんともわびしい話である。
少子化の時代にどうしてすてるのだろうか。
「アンネの日記」のアンネ・フランクの父親が
平成19年2月25日の天声人語からの引用
「アンネの日記」のアンネ・フランクの父親が第二次大戦の初期に書いた手紙が米国で見つかった。
米への移住ビザの仲介を知人に頼んだ数通で、先ごろ公表された。
移住の理由を、父は「2人の娘のために」とつづっている。だが結局ビザは得られず、
一家はナチスに捕らえられ収容所に送られる。
多感な日記をつづった次女アンネは、過酷な日々の果てに15歳で息をひきとった。
手紙の公表の際、説明役の歴史学者は「(もしビザが出ていれば)アンネはいま、
ボストンに住む77歳の女性であったかもしれない」と語ったそうだ。
悲しい名を残さず、人が平凡に生きられる。その重みに思いを寄せた言葉だろう。
思い起こすのは、同じ大戦初期にリトアニア領事代理だった杉原千畝(ちうね)のことだ。
迫害におびえる多くのユダヤ人に、日本を経由して第三国へ抜けられるビザを出した。
外務省はドイツとの関係に配慮して発給不可を指示したが、杉原はビザを出し続けた。
その「命のビザ」の物語を、東京の劇団銅鑼(どら)は15年にわたり上演してきた。
9年前のニューヨーク公演で「スギハラに救われた」という女性が名乗り出た。
団員を郊外の自宅に招き、古びたビザを見せて、来し方を語った。
ビザを受けたとき、アンネの享年と同じ15歳だった。
姉と2人でシベリア鉄道を経て敦賀に着き、横浜から船で米に逃れたという。
戦後に米国人と結婚し、5人の孫のいる静かな暮らしを送っていた。
この人とアンネの運命は、入れ替わる可能性もあっただろう。名もない人生を築けることの幸せを思う。
アンネの日記は若い頃に読んだことがある。あの若さで強制収容所に行き死ななければならない運命を背負った日記である
達者な文章に引き込まれて読んだ記憶がある。
少しの違いでもって運命がきまるもののようである。
短期のアルバイトで食いつなぐフリーターは、
ワーキングプア(働く貧困層)の象徴となった
平成19年2月26日の天声人語からの引用
コンビニや居酒屋に置いてある無料の求人情報誌は、どのページも「スタッフ」大募集だ。
出前といわずにデリバリースタッフ、警備はセキュリティースタッフで、窓ふきはウインドークリーンスタッフと呼ぶ。
若ければ、お金はなくても可能性がある。
それぞれの夢へと時給千円からの出発だ。
でも、不安定な「スタッフ」ばかりを転々とするとなれば話は違う。
短期のアルバイトで食いつなぐフリーターは、ワーキングプア(働く貧困層)の象徴となった。
「はたらけど はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る」。
石川啄木がそう詠んだのは明治43年(1910年)夏、24歳だった。
前年、東京朝日新聞の校正係に正規採用されており、生活苦は浪費が一因といわれる。
「個人的な事情はあったにせよ、時代や社会の貧しさを詠み込んだからこそあれほどの共感を呼んだ。
いま、この歌が盛んに引用されるのは時代が悲しくつらいからでしょう」。
ニートなどの社会病理に詳しく、啄木研究者でもある明治大学教授、池田功さんの解説だ。
短歌の腕を見込まれた啄木は、ほどなく朝日歌壇の選者に登用され、
この作品を含む最初の歌集『一握(いちあく)の砂』が出版される。
ただ、彼の人生の残り時間はあと1年だった。
日本の労働者の3割はパートやアルバイト、派遣などの非正社員だ。
就職氷河期に定職を逃した25〜34歳のフリーターは約100万人いる。
国会での格差論議を大急ぎで具体策につなげたい。
青壮年が、じっと求人誌を見ながら老いていく国が「美しい」はずもない。
ニートとかフリーターと言う新しい造語が良く目に付く。正規社員と臨時社員のの給料の差は大変な額である。
仕事内容もほとんど同じで臨時社員にとってはたまらない話である。
格差社会を見事に小泉前首相は作り上げた。その本人が自慢する鈍感力でもってだ。
三遊亭円楽さんが、高座で
「芝浜」を演じた後に引退を表明した
平成19年2月27日の天声人語からの引用
神谷幸右衛門。落語の「大仏餅」は、しゃべり慣れた演目なのに、その名前が出てこない。
「申し訳ありません。もう一度、勉強しなおしてまいります」
昭和の名人といわれた八代目桂文楽が高座で絶句したのは1971年で、以後高座にあがることはなかった。
精巧で、寸分の狂いもない芸を極めた文楽だが、
晩年は、高座で絶句するという恐ろしい日に備えて、あのわび口上のけいこまでしていたという
(『日本人の自伝』平凡社)。
三遊亭円楽さんが、高座で「芝浜」を演じた後に引退を表明した。
「ろれつが回らなくて、声の大小、抑揚がうまくいかず、噺(はなし)のニュアンスが伝わらない」。
一昨年に脳梗塞(のうこうそく)で倒れ、リハビリを続けて高座に戻ってきたのに、残念なことだ。
「お客さんは『まだまだできる』と言って下さると思いますが、それに甘えてたんじゃ、あたし自身が許さないんです」。
一時代を担ってきたという誇りと芸への厳しい思いがにじむ。
「芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさむ事」と、世阿弥の「風姿花伝」にある(『日本思想大系』岩波書店)。
多くの人を楽しませ、感動させることが芸能の目的だとすれば、円楽さんもそうした芸のために才を磨いてきたのだろう。
世阿弥は、50歳を超えたら「何もしないこと以外には手段もあるまい」とする一方で、
52歳になった父観阿弥の舞台が「ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり」とも記した。
円楽さん特有の花が、枯れることなく、後進に伝えられるようにと念じたい。
円楽さんが脳梗塞を起されて,後遺症で十分発音できないまま高座を勤められることは気の毒なことである。
十分国民を楽しませてもらってきた。後は自由な余生を満喫していただきたいものである。
81年以来6回目のノミネートで
初の監督賞を受けた、マーティン・スコセッシ監督
平成19年2月28日の天声人語からの引用
アカデミー賞の授賞式は、過去に幾つもの印象的なスピーチを生んできた。
それに、もうひとつが加わった。
「もう一度封筒を確認してくれるかな」
81年以来6回目のノミネートで初の監督賞を受けた、マーティン・スコセッシ監督の念押しのジョークだ。
生まれ育ったニューヨークを舞台にした「タクシー・ドライバー」などで名匠とうたわれてきたが、アカデミー賞では無冠だった。
友人で、授賞式ではプレゼンターとなったスティーブン・スピルバーグ氏が述べている。
「僕の映画が囁(ささや)きならば、マーティの映画は叫びだ」(『スコセッシはこうして映画をつくってきた』文芸春秋)。
確かに、「タクシー……」などで描かれた暴力の場面はすさまじく、それは「叫び」の世界と呼べるだろう。
しかし、見終わって感じるのは、単なる後味の悪さなどではない。
主人公たちの振るう暴力の源は、個々人を超えた普遍的な所にあるように見える。
暴力は、いわば時代の叫びであり、それは見る側の耳に残ってしまう。
そういう意味では、危険な監督でもある。
監督は以前、アカデミーはある程度ハリウッドの“黄金時代”の価値観に忠実な組織だが、
自分の映画はそれとは正反対のものを描いているようだと述べたという。
そして、「私は賞を取るよりはむしろ自分の好きに映画を作るほうを選ぶ」とも語った
(『スコセッシ・オン・スコセッシ』フィルムアート社)。
アカデミー賞での、無冠の時代は終わった。
しかし、時代の叫びを描く仕事に、エンドマークは出そうもない。
若い頃は映画は唯一の娯楽だった。今のようにテレビはなく簡単にビデオとかDVDで簡単に映画を楽しむことはできない。
映画のDVDが普及するにつれて映画館に通うことは少なくなって。
だが稀に映画館でみる映画は家庭で小さな画面で見るのと違って迫力がある。感動が違う。
でも家庭で気楽に見る映画が見られることは大変に有り難いことである。
アカデミー賞をとった映画は何時の時代に見ても考えさせられることがあり感動がある。
既に何回もストリーがわかっていても不思議と感動するものである。名作には人類の普遍性が描かれている。
世相が廃れてきた世の中,何か心が穏やかでない今日この頃,映画鑑賞は娯楽の楽しみの一つでもある
奈良県立万葉文化館と飛鳥寺
奈良の飛鳥に奈良県立万葉文化会館が約六年前に創立されているようだ。今回初めて訪れてみた。
自動車で行ったが約一時間半以上はかかっている。
飛鳥寺はその万葉文化館からはすぐ近くで10分もかからない。
万葉文化会館は新しい施設で色々と工夫がほどこされていて新しくて綺麗である。
あまり世間に知られていないの,で訪れる人が少ないせいによるものかも知れない。
それに奈良の飛鳥(明日香村)という地域は現在の都会地域からすると大変な辺鄙なところにあたる。
辺鄙故に日本の古い面影が色濃く残しているのかもしれない。
万葉文化館は飛鳥考古資料館と対を成しているような存在である。一方は国が建てて,一方は県が建てていることになる。
万葉集に疎いものにとっては入門的知識をえるのに良いところでもある。
古代の人々の暮らしの一端が偲ばれる場所である。古代時代の飛鳥考古資料館がハード面を
そして万葉文化館はソフト面を教えてもらえるところでもある。
多分,万葉文化館はもっと将来充実してゆくと考える。初心者にとっては中途半端で そして万葉通の人には物足りないところがあるかもしれない。
高校生頃の万葉の知識しか持たないものにとって,飛鳥時代から奈良時代前期までに読まれた4500余首の歌が集められているのが万葉集である。
,
額田王と柿本人麻呂の二人ががドラマ化してそれにアニメもあるらしい。現代音楽でアレンジした歌と其の頃の情勢が解説されているのが楽しかった。
休息室のカフェイで五穀米のゼンザイをたべたが珍しく始めて口にしてお美味しく感じた。
万葉関係を題材とした日本画が展示されてあり,広いところなどで見ていないところが沢山のこっているようだ。
万葉文化館職員に飛鳥寺を教えてもらうと10分もかからないような近道を教えてもらった。
途中には富本銭なと゛と和銅開珎を作った飛鳥工房池遺跡があった。普通の池の大きさである。
飛鳥寺は期待に反して小さな寺で,そこいらで普通に見かける大きさの寺と同じである。
蘇我馬子が建てたとする日本で一番古い飛鳥大仏が,東金堂に当たるところに昔からのそのままの状態で
座しておられるとの解説を,少し小柄な男性の方からl流暢な話し方でしていただいた。修学旅行の学生がバスで大勢訪れてきている。
寺名は現在安居寺 その他方興寺 元興寺ともいうらしい。
第32代崇峻天皇元年(588)初願され、第33代推古天皇4年(596)に創建された日本最初の寺である。
その後は藤原氏の寺として元興寺として奈良に移されている。 塀の外は長閑な田園がずーと広がっている。
飛鳥の里には拝観したい寺院は沢山有るが一つの寺を拝観するだけでも時間が過ぎてしまう。
別の日に當麻寺を訪問しているが,これも驚くほどすばらしい寺で一番日本で古い白鳳時代の灯篭に感動した。
布目瓦が境内に落ちている。中条姫とそれにまつわる浄土信仰の當麻曼荼羅 美しくそびえる東,西の両三重塔,
新しく出来た浄土の石庭は二上山を背景にして新しい名所になることであろう。
普通石で作られたものは壊れないものと思いがちだが,石も必ず壊れてゆくことを知る。
勿論,全ての墓碑も壊れて失くなってしまうことでもある。長い目で見て我々の存在も何も跡に残るものはないということである。
今,人間同士がしている戦争 争いの虚しさや愚かさがわかるような気がする。
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