ホーム 医療 高齢者福祉 芸術,哲学 京都伏見・宇治
随想 シュワィツァ−・緒方洪庵 ギャラリ 検索リンク集


随想 

平成10年9月分 10月分 11月分 12月分 

平成11年1月分 2月分 3月分 4月分 
5月分 6月分 7月分 8月分 9月分 10月分 11月分 12月分

平成12年1月  2月分  3月分 4月分 5月分 6月分 7月分 8月分 9月分 10月分 11月分 12月分 

平成13年1月 2月分  3月分 4月分 5月分 6月分 7月分  8月分 9月分10月分11月分 12月分 

平成14年1月分  
2月分 3月分 4月分 5月分 6月分 7月分  8月分 9月分 10月分 11月分 12月分

平成15年1月分 2月分 3月分 4月分 5月分 6月分 7月分 8月分 9月分 10月分 11月分 12月分

平成16年1月分 2月分 3月分 4月分 5月分  6月分  7月分  8月分 9月分 10月分 11月分 12月分

平成17年1月分 2月分 3月分 4月分 5月分 6月分 7月分 8月分 9月分  10月分 11月分 12月分

平成18年1月分 2月分 3月分 4月分  5月分 6月分 7月分 8月分  9月分 10月分   11月分 12月分

平成19年1月分 2月分  3月分 4月分 5月分

 






4月になって






温暖化によるせいか,早くに春がやってきた。桜は三月終わり頃から咲き始め,四月に入った頃にはもう満開である。

桜はいたるところ満開で,特にわざわざ桜の名所にまで足を運ぶ必要もなさそうである。

ただいわゆる桜の名所では沢山な人達が桜の下で,花を見ながらの宴会が盛んだ。

四年に一度,催されることになっている日本医学会総会が今回は大阪で開催された。

多勢の医療関係者が全国から此処大阪に集まってきた。

総会が1902年(明治35)に始まってから,丁度今年は第27回目にあたり,日本医学界総会で,大阪で開催されたのは24年ぶりのことである。

大体、日本医学界総会は四年に一度の割会で開催されきていて,東京と関西(京都と大阪が交互に開催)で開催されるのが通例だったのが

名古屋が加わりさらに福岡でも開催されるようになってきた。

今まで,医学会総会に大体参加して来ているが,前回にあたる四年前の九州福岡で開催された総会には参加しなかった。

以前一時学生運動が盛んなころ京都であった時,医学会中での出来事として,演壇上に学生がかけ登り騒然となったことがあった。

そのようなこと以外は大体総会は厳粛で真剣な雰囲気のなかで催されてきている。

東京開催時には,天皇 皇后両陛下,其のときの総理大臣が臨席されるのが普通で,当日は周辺の警備が一段と厳しくなり,

その厳重さに驚いて眺めていたこともあった。

時には多勢の人のため,総会会場には入れずに,他の部屋で大きなスクリーン上に写しだされた総会の風景を眺めてのこともあった。

今回はこれまでと少し変わったことといえば,いたつてって自由な雰囲気の中で開催されていたのが印象的である。

警備もきびしくなく,厳粛さのなかにも穏やかな普通の会場での雰囲気で丁度よかったような気がする。

三日間の日程の総会は,いつものことながら聞きたい講演が時間的に重なり合ってその講演や討論会が聞けずに終わり残念である。

昼の昼食時にはランチョンゼミナーで食事をしながら講演会をば寸暇を惜しみながら講演に聞きいった。

変わっていたのは,以前ランチョンゼミのチケットを人の手で配っていたのが,

今回はパソコンの画面で聞きたいゼミのタイトルを押すと自動的にチケットが印刷され出てきて,

さらに総会参加自体も,パソコンのインターネット上で申し込みし,参加費を払い込むと参加葉書きが送られ来る。

その葉書きの印刷されたバーコードを会場にあるパソコンに当てると自分のネームなどが印刷された名札が出てきたのには少し驚いた。

前回が参加していなかったので,今回から始まっているのかはわからない。

日々に広く,そして深く発達している医学の分野での,現代の先端知識をば全て網羅することは困難なことであろう。

内科学一つとってみても,広くて深く膨大な分野があって,l理解・吸収することは不可能に近い状態になっている。

トピックスも其の時々で変わっている。日本の各地域・分野で大いに活躍されている人たちの熱気が伝わってくる総会であった。

特に大阪城近くの展示場会場付近には四月晴れの下,大勢の花見客でにぎわっていて,それは天下泰平そのものを感じた。

だが一方では安部首相の政府のもと,着々と改憲の動きが進んできているようだ。

あれだけ第二次大戦中,沖縄全体が戦場となつて多くの市民が戦火に巻き込まれ,尚も今もアメリカ基地が多い沖縄において,

参議院補選で自民党と公明党の応援する候補が勝ったのは当然とは言えるのか,沖縄を見ていると変にも感ずる。

特に平和をば一番に掲げている公明党が改憲を目指している自民党と組する事自体が不思議でたまらない。

なんとか改憲を食い止めななければ,元岸信介首相がなしえなかった本格的再軍備による軍隊の復活となって

戦死者が出るような戦争に巻き込まれてゆくことが確実な情勢になって来そうである。大変残念なことだ。

それが岸家の遺訓であろうとも,今その孫にあたる阿部首相と一緒になって,国民全体がどうして,それに協力遂行する必要があるのか。

イキヨイずく首相阿部氏の行動からしてそのようにしか見えてこない。

日本が世界の中で勝ち残るために,企業が国際競争力をつけるためだとして,財界べったり寄りの政治が続いている。

財界優先する政府には庶民の苦しさが目に入っていないようだ。

もっと国連を中心に世界に貢献をし,日本がずーと今まで戦後維持してきた平和主義を世界に広めることこそが

これからの日本の本当の姿である

世の中の格差社会に代表される前小泉首相の市場競争原理への誘導と実利優先社会実現によって,

いろんな分野での社会で,その歪が続出してきている。

「権力者の言うことを素直によく聞きなさい,そうすればお前達にも,少しは甘い汁をば与えてやるから」の姿勢が

広く深く全てのいろんな分野の社会を通して浸透しきっている。

そのことによって格差社会はゆるぎないものとして,生き続けようとしている。

庶民は苦しいがため,少しでも権力者に擦り寄ることに懸命に努力し,なんとか自分だけでも甘い汁にありつき,

それによって少しでも豊かな生活したいがため、いろんな努力に勤めている。

その権力の甘さに魅せられた人々の支持によって,依然として戦後ずーと自民党政権は維持され続けて来ている。

自民党自身も権力による利益配分をいかにするかを公にしながら国民に向かってそれを餌にし

票固め?(こんな言葉があってよいのかどうか)しょうとしている。

これが本当の民主主義の姿なのか,国民一人ひとがりじっくり考えなおすべきことなのではないでしょうか。

沖縄参議院補選 東京都知事選などはそれらが大きな作用をしていたように思える。

改革と称した変革が自民党によって都合よく利用されているのではないのか。

格差社会が自民党政権をば維持しているといった,矛盾した悪い循環が成立しているように思えるのだが。

この悪い循環を断ち切ることこそ,真の平等,平和で自由な民主的社会が出現できる。

だが黒い暗雲は日本の空をも覆い始め,誰もが物言わぬ時代へと入りつつあるように思えてならない。

世界情勢では今だ゛にイラクでの平和の見通しがついていない。

ブッシュの誤った決断でもって,多くのイラクの人たちそしてアメリカの若い兵士達がなくなっている。

これで,このまま政権が次期アメリカ大統領に移譲されてゆけば,ブッシュは直接に手を下してはいないが,

多数人の殺人犯罪者'になるのではないかと思うのだが。その罪は認められないものだろうか。

イラクの指導者フセインは死刑により死んだ。だが,大勢イラク戦争で死んでいっている責任はそのフセイン一人に,

全て責任があるとでもいうのだろうか。

イラク戦争はフセインが仕掛けた戦争ではなかったはずである。

このままブッシュがアメリカ大統領を辞任し,悠々自適で余生を過ごし人生を全うすることになるなら,それに対して抵抗感を感ずる。

戦争を決断し,命令・実行を強要させるからには,それだけの確信と決意 責任・真剣な覚悟がなければならないはずである。

指導者は利益とか,名誉心が先行しているようなことであってはならない。

亡くなった人たちはブッシュの命令に対し命を捧げ,それでもって殺されていったような人たちである。

客観的に誰もは,ブッシュに罪がなかったとは考えられない。

戦争とは罪のない人たちが多数死んでゆき,誰のために何のために命が絶たれたのかわからないようなものなのである。

特別に戦争の一部をとりだし,決して美化してはならない。「日本の特攻隊員が愛する人のために死んでいった」とするような馬鹿げた嘘をつくのは

死んだ特攻隊員に対する冒涜である。

上官の命令により,死んでいったのであり,当時の為政者によって殺されたようなものである。

人類同士,古代から戦争が続いておりこれからも続くことになるだろう。

人類の叡智により早く戦争の愚かさにきずいてほしいものである。

勿論,イラク戦争中に病気や怪我による後遺症を持った人たちが,死んだ人たちよりも遥かに多くの人たちと,その家族がいると思う。

其の責任をば誰がとることになるのだろうか。

ブッシュのイラク開戦に対し,世界中至る所で.反対デモが再々にわたってあった。デモに参加しなくとも反対の人たちが大勢いた。

日本では前小泉首相がイラク派遣をば多くの国民の反対を押し切って強行した。

日本はアメリカの半植民地だから仕方ないのだろうか。

世界中の反対者が多数いた中でのイラク戦争を強行したブッシュの責任はどういうことになるのだろう。?

イスラム圏特にイラクの混沌状態は未だに目途がついていない。






00年後のきょう、朝日の紙面は新しくなった
漱石先生のような「明星」とはいかない






平成19年4月1日の天声人語からの引用


100年前のきょう、少々思わせぶりな社告が朝日新聞に載った。

当日からの紙面刷新の知らせに続けて、ある小説家の消息を、おおむね次のように伝えた。

 「わが国の文学界の明星が、近く本社に入社することになった。

新聞小説に評論に、その才能を発揮することだろう。

さて、誰であろうか?」。

思わせぶりは功を奏し、問い合わせが相次いだ。

 翌日、二の矢を放つ。

「強いてのお尋ねだから教えよう」と勿体(もったい)ぶって、「新入社は夏目漱石君」と明かした。

東大講師でもあった漱石の転身は世を驚かせた。

その年の「虞美人草」を皮切りに、「三四郎」「それから」「門」「こころ」などと、名作を次々に連載していく。

 100年後のきょう、朝日の紙面は新しくなった。

この欄の筆者も代わった。

とても漱石先生のような「明星」とはいかない。

〈菫(すみれ)ほどな小さき人に生れたし〉は漱石の句だが、そう願う必要もない、もとより小さき人である。

 無名も、有名も、多くが新しい舞台に立つ4月だ。

進学、就職……海の向こうでは、新たな日本人選手が加わって大リーグが開幕する。

そういえば漱石の盟友の正岡子規は大の野球好きだった。

〈久方のアメリカ人(びと)のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも〉と歌に詠んだ。

 「久方の」は古来、「天(あめ)」などにかかる枕詞(まくらことば)だった。

万葉の雅語を、子規は、新しい国アメリカの「アメ」にかけた。

おおらかな茶目(ちゃめ)っけと自在の気構えに、心を開かれる思いがする。

 伝統の上に、新しい言葉を刻んでいければと思う。







此の天声人語は二人が担当されるようだが,二人による合作なのか,一日おきに筆者が変わるものなのか。

これからの「天声人語」楽しみである。毎日を楽しみにして読んでいる人たちが大勢いることだろう。







能登半島地震で被害の大きかったその輪島市へ、この週末





平成19年4月2日の天声人語からの引用


朝日歌壇のファンには、輪島市の山下すてさんを覚えている方も多いだろう。

80年代から90年代にかけて、自らの住む能登の四季を情感豊かにうたい、毎週のように入選を重ねた。

 〈遠山に雪まだあれど晴れし日は頬を包みて野火を放ちぬ〉

〈沖の蒼(あお)いよよ極まる朝市に紫蘇(しそ)も売られて梅の漬けどき〉。

もう亡くなられたが、歌には、風土に根ざした確かな暮らしが詠み込まれていた。

 登半島地震で被害の大きかったその輪島市へ、この週末、大勢のボランティアが入った。

暮らしを覆された人たちには、心強かったことだろう。


高齢の女性は、「もったいなくて」と声をつまらせていた。

駆けつけた側にも気負いはなく、阪神・淡路大震災で芽吹いたボランティアが、普通の善意として定着している印象を受けた。

 2年半前の新潟県中越地震で被災した旧山古志村(長岡市)では昨日、ようやく、すべての地域で避難指示が解かれた。

住民が立てて歩くのぼり旗には、「元気をありがとう」と、長い励ましへの感謝が染め抜かれていた。

 能登の人たちにとっても、長いのはこれからだ。

一時の関心で終わらず、能登が「忘れられた被災地」にならないよう、私たちは心したい。

ニュースの中心の輪島市だけでなく、被害の大きい志賀町や穴水町のことも忘れまい

 冒頭の山下さんに、こんな歌もある。

〈花冷えに藍(あい)大島を畳むかな帰り来る家あるは倖(しあわ)せ〉。

新潟の避難指示は解かれたけれど







「天災は忘れた頃に来る」の言葉を思い出す。能登での被害状況を見ていて心しなければならないことであるが,

戦争はしなくとも良いが,災害との戦いは是非とも勝ち抜きたいものである。











平成19年4月3日の天声人語からの引用



英国の文豪サマセット・モームが晩年、一番うれしかったことは何かと聞かれ、こう答えたそうだ。

「戦場の兵士から、あなたの小説は一度も辞書を引かずに読めたと手紙をもらったとき」だと。

平明な筆致の作家ならではの感慨だろう。

 昔から辞書は、枕にはいいが持ち運ぶのは大変、と相場が決まっていた。

だが今なら、その兵士のモームへの感謝は薄かったかもしれない。

手のひらサイズの電子辞書が、紙の辞書に取って代わりつつある。

 進学、進級の季節、売り場の新機種は実に多彩だ。辞書機能だけではない。

100冊分の実用書を取り込んだもの、外国語の音声を出すもの、と進化を重ねてきた。

業界団体によれば年間の販売は230万台を超す。

人気ぶりを詠んだ川柳が地方版にあった。〈広辞苑にあくびをさせる電子辞書〉。

 退屈しなくてもいいのは、古今の知識人が皮肉とユーモアを込めて編んだ読み物としての辞書だ。

米国の作家ビアスの「悪魔の辞典」は名高い。

たとえば「平和」を「二つの戦争の間のだまし合いの時期」と辛辣(しんらつ)だ。

 フランスには「楽天家用小辞典」なるものがあると、河盛好蔵さんの随筆に教わった。

この辞典では、たとえば「約束」は「選挙のときに使われる小銭」となる。

さらに「約束を守らない人間に対してもあまりきびしくしてはならない。

彼らは希望の種をまく人だから」と皮肉る。


 統一地方選がたけなわだ。小銭をばらまいているだけの候補者はいないのか

厳しく吟味して、地域の将来を誤らぬようにしたい。






辞典の代わりにか,パソコンによる検索が便利で,辞書はほとんど使うことがなくなってしまった。

辞書を沢山取り込んだワープロも売り出されている。

一発で検索できるのはページをめくるよりも遥かに便利である。





戦争を遂行し、支えた多くの人が、
戦後、責任をすり抜けて遁走(とんそう)した








平成19年4月4日の天声人語からの引用

 劇作家の井上ひさしさんは昨夏、先の戦争責任をテーマにした「夢の痂(かさぶた)」を舞台に載せた。

書き進めていくうちに、日本語を“被告人”にすることになったという。

 「日本語は主語を隠し、責任をうやむやにするにはとても便利な言葉だから」。

戦争を遂行し、支えた多くの人が、戦後、責任をすり抜けて遁走(とんそう)した。

それを助けたのは、主語なしで成り立つ日本語だったと、井上さんは思う。


 広島に原爆死没者慰霊碑がある。

その碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」をめぐって「主語論争」があった。

過ちを犯したのは日本なのか、アメリカではないのか、などと批判がわいた。

いまは「人類」を主語とすることで多くに受け入れられている。

 06年度の教科書検定の結果が先ごろ公表された。

太平洋戦争末期の沖縄戦で起きた住民の集団死(自決)について、

日本軍が強いたものもあった、とする表現に文部科学省が意見をつけた。

来春の高校教科書から「日本軍」という“主語”が消えることになった。

 修正後の表現は状況があいまいで、住民が自ら死を選んだ印象が強い。

これまでの検定では合格していた表現なのに、今回初めて意見がついた。

「美しい国」を掲げる政権の意をくんだかと、かんぐりたくもなる。

 様々な出来事の責任をうやむやにすれば、行き着く先はお決まりの「戦争のせい」「時代が悪かった」という、あきらめの強要だろう。

だが戦争を起こすのも時代をつくるのも、それぞれの立場でかかわる人間にほかならない。








戦争は人類始まって以来つづいている。常に正義のためにとか平和の為などの良い言葉が言い訳に使われてきた。

戦争するのもしないのも人間である。

何らかの形でその戦争を引き起こさせた時代の人にも責任がある。

我々どの時代に生きる人々も,二度と過ちは繰り返さないことを忘れないことである。

:決して必然悪でもない。愚かな人間の仕業なのである。







体重わずか265グラムで生まれた女の赤ちゃんが、






平成19年4月5日の天声人語からの引用


こんなニュースを読むと、生命を「いのち」と平仮名で書いてみたくなる。

体重わずか265グラムで生まれた女の赤ちゃんが、無事に育って東京の慶応大病院を退院した。

日本ではこれまでで最も小さく、世界でも2番目という。

 予定より15週早く生まれた。

体の機能が未熟だったため人工呼吸器をつけ、へその緒の血管から栄養の点滴を受けた。

いまは自分でミルクを飲めるようになり、体重も3000グラムに増えた。

 生まれたとき、どれほど小さかったのか。

試しに手元のバナナをはかりに載せると、

ほぼ同じ260グラムである。

たったこれだけの重さに人間の生命が宿り、消えることなく育っていった。

小さな「いのち」のたくましさに、粛然となる。

 赤ちゃんには不思議な力があるらしい。

作家の大庭みな子さんは育児体験をもとに、「放っておけば死んでしまうはかなさと哀れさで、

親の中から信じられない力を引き出す」と随筆に書いた。

わけても265グラムのはかなさは、医師や看護師から、並々ならぬ力を引き出したことだろう。

 退院していった赤ちゃんに、高階杞一さんの詩の一節が重なる。

〈……今から何十億年か前 そんな 遠い昔からの約束のように 今 ぼくが ぼくという形になって ここにいる ふしぎだ〉。

高階さんは息子を3歳で亡くした悲しみを胸に、いのちの言葉を紡いできた。

 新しい学年の始まる季節。

自分も、まわりの友だちも、みんな遠い昔からの約束のように、学校に、クラスに集う。

一人ひとり、一つずつ、いのちを持って。





此の世界に生まれてくる生命の不思議さとたくましさ,哀れさを感ずる。生まれさせてもらった生命だから

大切、大切にして生きなければならないことが良く判る。

与えられた奇跡的な不思議な命をである。







西武球団の裏金問題は野火のように、
他球団に広がる心配が生じてきた







平成19年4月6日の天声人語からの引用


 野球を見に球場へ行く。

少し暗い通路を歩いて観客席に出たとたん、目の前にまぶしくフィールドが広がる。

この瞬間が好きだ。

 試合前なら、選手はゆったりと、遠投やランニングで体をほぐしている。

間もなく始まるゲームに、心が浮きたってくる。

ファンにとって、観客席への通路は、非日常への扉なのだ。

大人も子どもも、夢を見たくてやって来る。

 その夢の舞台裏が、根腐れているらしい。


西武球団の裏金問題は野火のように、他球団に広がる心配が生じてきた。

アマチュア球界を巻き込んだ、

大がかりな不祥事に発展するかもしれない。

球春の空が、にわかにかき曇ってきた。

 調査の委員会を率いる慶大名誉教授の池井優さんは、大リーグ通で知られる。

少年時代からヤンキースタジアムで試合を見るのが夢だったそうだ。

その夢は20代の末にかなう。

胸を高鳴らせて、球場のゲートをくぐったことだろう。

 大リーグにも不祥事はあった。

なかでも1919年のワールド・シリーズでの八百長疑惑は悪名が高い。

名選手だったシューレス・ジョーら8人が球界を追放された。

裁判所で、無実を願う一少年が叫んだという「うそだと言ってよ、ジョー」の言葉は、いまも人々の記憶に刻まれている。

 祈りにも似た叫びに、ジョーが「坊や、本当のことなんだ」と答えたと伝わるのも、せつない。

裏金問題は「談合のように日本社会の構造に深く根ざしている」と池井さんは言う。

「うそだと言ってよ」と願うファンの叫びに、どんな答えが返ってくるのだろう。







お客さんに楽しんでもらうプロだから何をしても良いというのは許されない。

野球のプロ選手の倹約金を聞いて驚く。こんなことがあってよいものかと疑いたくなることもある。

ファンを楽しませれば何をしても良いのでは困る。そのなかにあってもルールというものがあるはずだ。






地球温暖化のために、美しかったキリマンジャロの頂上の氷河は、
あわれなほどやせ細ってしまった







平成19年4月7日の天声人語からの引用


30年近く前にキリマンジャロに登ったとき、友人に「豹(ひょう)はいた?」と聞かれた。

ヘミングウェーの小説「キリマンジャロの雪」に、頂上近くに凍った豹の死骸(しがい)がある、

という名高い一節があるからだ。

 いまなら、「氷河はまだあった?」と聞かれるかもしれない。

地球温暖化のために、美しかった頂上の氷河は、あわれなほどやせ細ってしまった。

遠からず消滅する恐れもあるそうだ。


 きのうまでベルギーで開かれた「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」でも、温暖化が各地にもたらす危機的な状況が示された。

まさに「待ったなし」だ。

それなのに、温室効果ガスの最大の排出国、米国政府の動きは依然として鈍い。

 ブッシュ大統領は就任するや、「経済を損ねる」と温暖化防止のための京都議定書から離脱した。

その後も経済界の代弁を重ね、「温暖化は人為的」とする根拠はないという持論を、なお捨てていないようだ。

 米の科学者レイチェル・カーソンの受難を思い出す。

60年代初め、「沈黙の春」で農薬のもたらす環境汚染を告発すると、業界は「根拠がない」と猛反発した。

「カーソンを信じれば害虫と病気が地球を覆う」などと反撃キャンペーンが渦巻いた。

 苦境を救ったのは、ケネディ大統領である。

告発の重みを見抜いて、当局に調査を指示した。

流れは変わり、カーソンの示した、農薬の使用をできるだけ減らす考え方は広まっていった。

先見の明と言うべきか。

いまさらに2人の大統領を比べて、妙に合点してしまうのはなぜだろう。







温暖化は人類の死活問題だ。ブッシュの目にはアメリカの経済を損ねるとの判断しか見えてこない。

そのあたりがブッシュの見解の幅である。ブッシュにより世界中が踊らされたこの数年間である。

本当に此の人は大学の入学にまともに受けて,^兵役もきちんとすませたのかと思いたくなるほどの人である。

そしてそのブッシュと一番に仲良かった日本の小泉首相はどうだったのだろうか。






当時の、ベルエポック(麗しき時代)のパリは
世界の若い才能を招き寄せ、いい仕事をさせた。





平成19年4月8日の天声人語からの引用


17枚の下書きで構図を固め、ピカソは真四角に近い大カンバスに向かった。

1世紀前、1907年初夏のパリ。

カーテンに絡んでポーズをとる5人の娼婦(しょうふ)は、後に「アビニョンの娘たち」(ニューヨーク近代美術館蔵)と呼ばれる。

写実にこだわらない、絵画革命の記念碑だ。

画家はスペインを出て3年、25歳だった。

 当時の、ベルエポック(麗しき時代)のパリは世界の若い才能を招き寄せ、いい仕事をさせた。

イタリアのモディリアーニは21歳で来た。

ロシアから移住したシャガールは23歳。

「一歩ごとに、あらゆるところで、街そのものが私の先生だった」と語っている。

モディリアーニの隣部屋にやってきたのは26歳の藤田嗣治だ。

 仏ポンピドー・センターが所蔵する、パリで活躍した外国人芸術家の作品が東京・六本木に集まった。

「異邦人(エトランジェ)たちのパリ」展(国立新美術館、5月7日まで)だ。

 自作が出品された抽象画家、堂本尚郎さんは「絵が売れ、いつものテラスではなく値段の高い奥の席につくと、

カフェの給仕が自分のことのように喜んでくれた」と話す。

異邦人が身を寄せる場所が、パリにはたくさんあった。

 文化はしばしば、異質の出会いから生まれる。

貧乏絵描き、路上の物売り、旅芸人、移民に異教徒。

そうした部外者をつなぎとめ包容するのも、文化の苗床としての都市の力量だろう。

 物陰が追い払われ、すべて丸見えの息苦しい街に、明日のピカソは住みつかない。

回顧展が開かれる街もいいが、できれば、それを開かせる街でありたい。







ピカソの絵そしてモディリアーニ シャガールなどは独特な絵であることはよく理解できるが,

どうして絵画として後世に名を残す絵であるのかがわからない。

同じ絵を描けといわれれば誰もが描けられないが。でも絵というのは個性があるのではないかと考える。

個性に対して優劣をばつけるのは大変困難である。

時々思うのだが国宝 とか重要美術品と区別しているのはだれで,名作だと判断するのは誰なのだろうか。








東京都知事に3選され、大衆を相手にした石原氏の






平成19年4月9日の天声人語からの引用


「私はやはり石原を作家にしておきたかったのである……しかし彼はやはり『肉体』で勝負することに賭けた」。

石原慎太郎氏が参議院議員になった68年、旧制湘南中学からの盟友、文芸評論家の江藤淳氏は月刊誌に書いた。

 同時期の対談で石原氏は江藤氏に語る。

「おれが政治という方法を通じて欲しているものと、非常に多くの大衆が欲しているものとは幸せなことに重なり得るんだ」。

東京都知事に3選され、大衆を相手にした石原氏の「肉体勝負」は続くことになった。

 20年近く前、運輸大臣と担当記者の縁で東京・田園調布の石原邸を何度か訪れた。

酒屋の御用聞きは銘柄ワインの入荷を知らせに来た。

迎えの車には朝食をのせたお盆が積み込まれた。

夫人は控えめでも、家に漂う空気は確かな上流だった。

 74歳の成功者に、いまさら庶民感覚を求めるのは難しいかもしれないが、東京は日本の格差社会の縮図だ

小さな声をすくい上げる努力は、首都の首長の責務である。

 身内を重用するような慢心は、慎太郎ファンをも失望させたろう。

だが当選が決まると、強気一本の石原節が早くも全開となった。

いま「非常に多くの大衆」が欲しているのは、頼れるが謙虚な「新太郎」ではないか。

批判に耳を傾け、地味で面倒な問題にもぶつかっていく姿勢だ。

この見立ては、自信なさそうなときはたいてい傑作、と続く。

石原さん、3期目は「自信なげ」にいきませんか。







まさか高齢の石原慎太郎が再選されるとは思わなかった。彼は作家である。右派的な言動が目に付く。

三島由紀夫が政治家になるよりましかと考えておくか。

東京都民が考え抜いて選んだ知事だから,それだけの人だと思う。

めだつような私的な所に公金をつかったり 週三日の勤務形態は誰が考えてもおかしい

これらは人を食ったような話である。それでも都民が石原慎太郎を選んでいる。

その理由はわからない。







フセイン元大統領の銅像が倒され、
バグダッドが陥落して、きのうで4年が過ぎた







平成19年4月10日の天声人語からの引用


〈砂あらし 地(つち)を削りてすさぶ野に 爆死せし子を抱きて立つ母〉。

学徒兵として東京空襲を体験した歌人、岡野弘彦さんの新しい歌集「バグダッド燃ゆ」に収められている。

 フセイン元大統領の銅像が倒され、バグダッドが陥落して、きのうで4年が過ぎた。

だがイラクは安定せず、“内戦”のような泥沼の状態が続く。


6万ともいわれる市民が死んだが、最大の犠牲者は、岡野さんも詠んだ子どもたちではないかと思う。

 空爆で死傷した子どもや家族を追ったビデオジャーナリストの綿井健陽(たけはる)さんは、「破片が命を奪う」と言う。

爆弾の金属片や、こなごなに飛び散るコンクリートが頭や体に突き刺さる。

それが命を奪い、障害を残して子どもの未来を台無しにしてしまう。

 戦火はさらに、子どもの柔らかい心を容赦なくえぐる。


先ごろ東京で、イラクの子らが描いた絵が展示された。

攻撃されたモスクから逃げる人が川に落ちていく。

負傷者が運ばれる絵には、「これが私の生活です」と書いてあった。

 血なまぐさい日常がもたらす心の傷を思うと暗然となる。

平穏な日が戻っても、傷はいつまでも残る。


訓練を受けた米兵でさえ、心的外傷のため、帰国後に暴力的になったりする者が後を絶たないのだ。

 岡野さんは、東京空襲のあと、多くの犠牲者を荼毘(だび)に付した。

中には子どもの死体もあった。

つらい体験にイラクを重ねた。

「死んだわが子を抱く母親ほど悲痛な姿はない」。

悲しみを繰り返してほしくないという願いは、時と場所を隔てても変わらない。






ブッシュは愚かなことを始めたものかと思う。それによってイラクの人たちは気の毒な状態に置かれている。

どのように収まりがつくのだろうか。







 「宵のうち」という表現





平成19年4月11日の天声人語からの引用


日に日に春がたけていく。

この季節の「宵の刻」には、そこはかとない風情がある。

 「春宵一刻値千金(しゅんしょういっこく・あたいせんきん)」で始まる漢詩が思い浮かぶ。

宋の詩人、蘇軾(そしょく)の絶句「春夜(しゅんや)」である。

「花有清香月有陰……」(花に清香あり、月に陰あり……)と続く、甘美な詩句を愛唱している人も多いだろう。

 「宵のうち」という表現が、気象庁の予報用語から消えることになり、惜しむ声が相次いでいる。

午後の6時から9時をさすが、もっと遅い時間だと誤解する人がいるからという。

新しい表現は「夜のはじめごろ」になる。


機能的だけれど、いまひとつ趣を欠く。

 気象庁は時おり用語を見直していて、10年前には「夜半(やはん)」が消えた。

そのとき「宵のうち」も危なかったが、「宵っ張り」や「宵待ち草」など身近な言葉が多かったため、

目こぼしされて残ったいきさつがある。

 時を表す古い言葉には、それぞれ“表情”がある。

「たそがれどき」は寂しげだが、「火(ひ)点(とも)し頃」は盛り場のざわめきを聞く気分がする。

夜明けの前後をいう「かわたれ」や「朝まだき」は物静かだ。

だが「払暁(ふつぎょう)」とくれば一転、まなじり決した軍事作戦をほうふつとさせる。

雰囲気のある言葉が消えていくのは寂しい。

 戦後すぐに当用漢字を定めたとき、「魅」の字はいったん選にもれたという。

国語審議会である有名作家が、「これがないと日本語に魅力がなくなるなあ」と注文をつけ、それで息を吹き返したそうだ

気象庁の会議では、「天気予報に魅力がなくなる」という声は出なかったのかなあ。







時を表現する色々な言葉が消えてゆくようだが,時間の移り変わりをばじっくりと観察せず現代人は生きているようだ。

昔の人の方が心豊かに生活していたのかもしれない。







だが現職閣僚が「法さえ破らなければいい」という了見では、
首相のこだわる徳育も色あせてしまう。









平成19年4月12日の天声人語からの引用


あの「なんとか還元水」の疑惑はどうなってしまったのだろう。

統一地方選や、中国の温家宝首相来日の陰に隠れて、松岡農水相は頬被(ほおかむ)りを決め込むつもりなのか。

 安倍内閣はどうもちぐはぐだ。

一方に「貞操義務」を説く法相がいるかと思えば、他方で政治家の徳性にうとい農水相がいる。

光熱水費をめぐる疑惑に、法律に則(のっと)った報告はしている、と開き直ったきりだ。


 折しも首相直属の教育再生会議が、道徳の「教科」への格上げを提言するという。

賛否はさまざまだろう。

だが現職閣僚が「法さえ破らなければいい」という了見では、首相のこだわる徳育も色あせてしまう。

法律のすきまも埋めるのが、徳性というものだろう。

 道徳教育の強化は、夏の参院選に向けて安倍カラーを際だたせる売り物の一つだという。

33年前の参院選でも、徳性が話題になった。

田中角栄首相は経済界から巨額のカネを集め、空前の金権選挙を繰り広げていた。

そのさなかに、文部大臣が社会教育審議会に「青少年の徳性の涵養(かん・よう)について」の具体策を諮問した。

 「よくまあ、恥ずかし気もなく」。

当時、この欄の筆者だった深代惇郎記者は憤った。

青少年を憂えるより、政界について心配する方が先ではないか、と大臣を批判した。

人間や制度のウソが明々白々となりながら、それに責任を持つ人たちが、自分のことは知らん顔で説教する――。

「こうしたことこそ道徳的退廃の最たるもの」と厳しい筆を走らせた。

 同じ憤りをおぼえつつ、政治家のモラルの十年一日ぶりを嘆く。







法律さえ触れなければ何をしていても良いでは寂しいことである。法の網をくぐってだけでは政治家としては恥ずかしいことである。

法律とは政治家が作るものでなかったのか。








序列は3番ながら、トップの胡錦濤主席を
しのぐ人気があるそうだ。







平成19年4月13日の天声人語からの引用

中国の温家宝首相の国会演説を聞き、「威ありて猛(たけ)からず」を思った。

孔子の弟子が師を表した言葉で、「威厳はあるが威圧感はない」。

激しい言葉はなかったが、ゆるぎなく語りかけた印象が残った。


 名の通り、温厚な実務派として知られる。

中国国内では、気さくな人柄がメディアによって広まり、「平民総理」の愛称がある。

共産党内の序列は3番ながら、トップの胡錦濤主席をしのぐ人気があるそうだ。

 だが別の顔もある。

89年の天安門事件のとき、趙紫陽総書記の大番頭的なポストにいた。

趙氏は事件で失脚するが、温氏は生きのびる。

趙氏と立場の違う後任の江沢民総書記に引き立てられ、今に至る地歩を築いたという。

したたかな二枚腰に、氏の処世術を見る人もいる。

 この訪日で、温氏は「氷」をキーワードにした。

小泉前首相の靖国神社参拝などで日中間には分厚い氷が張っていた。

昨秋、安倍首相が訪中してその堅氷を砕いた。

砕いた氷を、今度は溶かす旅だと位置づけて、日本にやって来た。

 そして氷はゆるんだように思える。

しかし日中はまだまだ薄氷を踏む間柄だ。

中国外務省の報道官も成果は認めながら、氷を溶かす旅になったかどうかの問いには慎重だ。

歴史認識などでひとたび歯車が狂えば、たちまち硬い氷に閉ざされることになる。

 おとといの歓迎式典で、安倍首相は旧知を迎えるような表情を見せた。

北京からの来訪は、「朋(とも)あり遠方より来(きた)る」の思いだっただろう。

信頼を損ねず、薄氷を踏み抜かず、慎重な足の運びを望みたい。





中国の温家宝首相の訪日は日中にとっての関係が前進したと思う。温厚な人柄がテレビを通してよくわかる。

小泉前首相は
アメリカとの関係に専念していた人である。やはり近くの中国 アジアの人たちとはせめて友好関係を

政治家ならば心がけてほしいものである。







般若湯とは漢方薬、ではない






平成19年4月14日の天声人語からの引用


歌舞伎舞踊の「京(きょう)鹿子(がのこ)娘道成寺」。

幕あきに騒々しく登場する寺僧が、隠し持っていた「般若湯(はんにゃとう)という妙薬」を、股ぐらから取り出す場面がある。

 般若湯とは漢方薬、ではない。

僧の仲間うちの隠語で、酒のことだ。

仏教の五戒の一つに、飲酒をいましめる「不(ふ)飲酒戒(おんじゅかい)」がある。

これを破る飲んべえな僧たちが、「体の薬に少し飲むだけだから」と、言い訳がましく呼んだのが始まりらしい。

 そんな破戒僧が意を強くするような調査結果を、厚生労働省の研究班が発表した。

お酒を飲むとすぐに顔が赤くなる人でも、適度な飲酒なら急性心筋梗塞(こうそく)を予防する効果がある、という。

9年かけて2万余人を調べた結果だというから、道成寺の僧は喜び、あの世で杯をあげているだろう。


 ところが世界保健機関(WHO)から届いたニュースは、喜びに水をさす。

酒で顔が赤くなりやすい人は、そうでない人に比べて、酒量に比例して食道がんになる危険が高まるそうだ。

最大12倍のリスクと聞けば、赤ら顔の人は心配になる。

 「百薬の長とはいへど、万(よろず)の病は酒よりこそ起(おこ)れ」と古くに戒めたのは、

「徒然草」の兼好法師である。般若湯の般若は、仏教の言葉で悟りを開く知恵のこと。

今も昔も、自らの適量を悟るのが健康の秘訣(ひけつ)に違いない。

 兼好法師はまた、「酒を無理強いして喜ぶのは、理解できぬこと」と立腹する。

大学や会社で新人の歓迎会が開かれる季節である。

先輩諸氏は、愚かなアルハラ(アルコールハラスメント)などゆめゆめなきよう、自戒されたい。







適量のお酒は「百薬の長」で健康には大変良いが,大酒飲みは肝臓をまず悪くすることは間違いない。

身体全体にとってアルコールの過飲は悪い。長寿の人で毎晩少しずつのアルコールを楽しんでいる人を見かける







松田聖子さんがNHKの番組で






平成19年4月15日の天声人語からの引用


松田聖子さんがNHKの番組で語っていた。

「くじけそうになることはあるけれど、それでも私はこれが好きだから続けていく」。

8で歌手になり、結婚と子育て、離婚を経験し、45の今も前向きに仕事をしている。

 才能あっての話だが、自立した女性の典型だろう。


同性のファンが多いのは、生き方への支持とあこがれの表れとされる。

さて、聖子さんが気になる人なら、この雑誌にも思いがあるのではないか。

月2回刊の「クロワッサン」が明日で創刊30周年となる。

 発行元のマガジンハウス社史は「女性が自分自身に目覚め始めているという事実はもはや紛れもない。

新雑誌はこうした雰囲気の中で準備された」と記す。

聖子さんが世に出る3年前だ。

 「結婚からの解放」「離婚志願」といった特集は、女たちを鼓舞し、動揺させた。

女性誌に「挑発」され、家庭もキャリアも逃した30代を、88年の『クロワッサン症候群』(文芸春秋)は批判的に描いた。

著者の松原惇子さんは「この雑誌の影響力はそれほど強烈だった。

今は美容やおしゃれ中心の生活情報誌だが」と言う。

 では、人生の選択肢を増やそうという創刊当初のメッセージは、時代と社会に浸透したのか。

働く女性の過半はパートなどの非正社員で、正社員も出産で大量に辞めていく。

好きな仕事に結婚、子供も趣味も、というフルコースの人生はまだまれだ。

 働いても十分稼げない層が広がり、女ばかりか男の自立も怪しくなってきた。

聖子さんの衰えぬ輝きは、くすんだ現実の裏返しにも見える。



有名となった人の生き方にはそれなりの輝きがあるものである。




北海道夕張市で、市長選挙が告示された




平成19年4月16日の天声人語からの引用

「未来」を聴こうと街頭に出た群衆の髪や肩に、過去から追いかけてきたような雪がはりついた。

白い景色の中で、閉鎖中の「石炭の歴史村」が立ちすくんでいる。

看板には「昭和の暮らし展/貧しくとも幸せだった日々」

 財政が破綻した北海道夕張市で、市長選挙が告示された。

月給26万円、交際費、出張手当なしの職に7人が立候補した。地縁があるのは3人、あとは道外からの名乗りだ。

 「夕張へ来てみると、冬は寒いし、仲間はできんし、仕事はつらいし、毎日が面白くなくってなあ」。

77年の映画『幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ』(山田洋次監督)で、高倉健さん演じる元炭鉱マンは九州から出てきた頃をそう回想する。

誰が市長になっても、健さんのようにどん底からの再出発である。

 炭都としては1世紀の命だった。

「地上の鉱脈」と期待した観光事業は赤字を膨らませた。

人口は往時の1割。

市民1人につき新車1台分ほどの借金を抱えている。

市職員は半減、粉飾を見破れなかった市議会も定数9に半減された。

 一つの産業に頼りきる自治体は、ひとたびそれが衰えれば倒産の危機だ。

そうでない都市でも、地方債の償還や団塊世代の退職金が財政を締めつける。

地域ぐるみで、人と金を引き留める工夫を凝らすしかない。

 夕張は教えてくれた。

役所と議会、住民は、実は同じゲームを闘っている。

東京や主要都市の引力に抗して、生活圏を守る闘いだ。

統一地方選の後半は、何かを任せる為政者ではなく、チームメートを選び取る覚悟で一票を投じたい。





自治体が破産するのを国民全体がみているだけでよいものだろうか。災害の時には援助をさし伸ばしている。

政府も政府だ。困っている国民を何故放置するのだろうか。

炭鉱で国民に貢献してくれた街でなかったのだろうか。多数で救いの手を何故出さないのかわからない。







 保険会社が売るのは“安心”だ






平成19年4月17日の天声人語からの引用


保険金などの多額の不払いがわかった生命保険各社へ、問い合わせや苦情が殺到している。

不払いは計約25万件、総額284億円にのぼる。

これはまだ、氷山の一角にすぎないそうだ。

 保険会社が売るのは“安心”だ。

「大樹」「堂堂人生」「生きるチカラ」……。

各社の広告には頼もしげな商品名が並ぶ。

だが、売るときだけ熱心で支払いは頬被(ほおかむ)り、では看板に偽りありだ。

 これを一字で表すなら、「欺」ではないだろうか。

漢字研究の白川静さんによると、「欺」の「其」は四角い大きな仮面、「欠」は人が前に向かって声を出している形という。

二つを組み合わせて、仮面を付けて人をだます意味に使われるようになった。

広告は偽りの仮面かと、疑いたくもなる。

 気骨の経済人を好んだ作家の城山三郎さんは、「もう、きみには頼まない 石坂泰三の世界」で、

戦中、戦後に第一生命社長を務めた石坂を描いた。

のちに経団連会長となり、歯に衣(きぬ)着せぬ物言いで高度成長期の財界を率いた。


城山さんは人物にひかれ、小説の題に、煮え切らない蔵相に石坂が投げつけた言葉をつけた。

 経済活動に志がともなっていた時代が終わった――3月に城山さんが亡くなったとき、五木寛之さんは、

朝日新聞に寄せた追悼につづった。

そんな時代の、顧客を軽んじる企業のトップに、城山さんが心ひかれるとは思えない。

 各社の幹部は、「もう、きみには頼まない」という石坂の叱責(しっせき)が聞こえているだろうか。

不払いの後始末だけは、頼まれてもらわなくてはなるまいが。





保険会社はお金を取るときはしっかりとり支払わせて,保険会が支払うときはなんとか誤魔化す。

支払いが起こるようなことが滅多にないから,会社のやることはむちゃくちゃで,キズイタ時には全てが遅いということだ。





米国で「平等をもたらす装置」と呼ばれるものがある。
それは銃だと、






平成19年4月18日の天声人語からの引用

米国で「平等をもたらす装置」と呼ばれるものがある。

それは銃だと、日本人が想像するのは難しい。

相手が屈強でも銃を持てば対等になれるという、開拓時代の自衛思想に根ざしている。

 米国にいた5年前、南部の町で女性を狙った連続殺人が起きた。

取材に行くと、ある銃器店で護身用の銃が300丁も売れていた。

買った9割は女性だった。

「社会に恐怖があるときは、弱い人ほど銃を買う」。

そんな店主の言葉が記憶に残る。

 銃による凶悪犯罪が起きるたびに、銃とは無縁だった人まで銃で身構える。

不毛な繰り返しを重ねたあげく、米国にはいま約2億丁もの銃が出回っている。

犯罪も多いが、手近に銃があるばかりに、ささいなトラブルで家族など身近な人を殺傷してしまう悲劇が後を絶たない。

 米国の大学で銃の乱射が起き、30人以上が死亡する米史上最悪の銃撃事件となった。

まだ不明な点が多いが、犯行に銃さえ使われなければ、これほどの惨事にはならなかっただろう。

 悲痛な声明を出したブッシュ大統領は、「国民が銃を持つ権利」を擁護してきた。

「銃が人を殺すのではなく、人が殺すのだ」が擁護派の常套句(じょうとうく)である。

だがこうした事件を見ると、やはり「銃が人を殺す」との思いをぬぐえない。

 「撃たれる前に撃つ権利がある」。

これも擁護派の言い分だ。

今回も、「他の誰かが銃を持っていたら」と残念がる声があると聞く。

それが“平等”ということなのか。

日常に2億丁の銃を潜ませる米社会の、闇の深さを見る思いがする。






銃の規制しないアメリカ社会の理由がわからない。でもあの広い国土で日本のような警察の配備が

困難なことがわかれば仕方ないとも思うが。徹底的なやはり取締りが必要である。

自分を守る銃が人殺しに使われているのが現状である。






米の政治は弾丸との戦いでもあった。
弾丸が投票を脅かす事件が、日本で起きた





平成19年4月19日の天声人語からの引用

きのうに続いて、銃のことを書きたい。

米国で銃問題を取材したとき、銃器店で、銃口を我が身に向けてくれ、と頼んだことがある。

どんな気がするのか試したかったからだ。

 弾を込めた、冷ややかな銃口が胸の前で止まると、息が詰まった。

撃たれないと分かっているのに、怖気(おぞけ)が体を突き抜ける。

わずか10秒ほどだったが、人を萎縮(いしゅく)させる「暴力」のおぞましさを、垣間見る思いがした。

 その暴力に、民主主義は何度も苦い汁を飲まされてきた。

「投票(バロット)は弾丸(ブレット)より強い」と言ったのは、米の16代大統領リンカーンである。

民主主義の象徴のように語り継がれる彼もまた、南北戦争のあと凶弾に倒れている。

米の政治は弾丸との戦いでもあった。

 弾丸が投票を脅かす事件が、日本で起きた。

長崎市の伊藤一長市長が、選挙戦のさなかに銃で撃たれ、命を落とした。

動機が何であれ、選挙の候補者を狙った凶行は、民主主義への卑劣な挑戦にほかならない。

 伊藤氏は被爆地の市長として、核廃絶に奔走してきた。

95年には外務省の圧力をはねのけ、国際司法裁判所で「核の使用は国際法違反」と証言した。

銃という、やはり人間の作った武器で命を奪われたのは、無念だったに違いない。

 「次の世代のために毎日の小さな変化を積み重ねていくのが民主主義」。

米の作家ノーマン・メイラー氏は昨年、朝日新聞に語った。

その民主主義と、暴力で人をねじ伏せるテロとは、何があっても相容(あいい)れないことを、あらためて、つよく確認したい。





投票には実弾がつきものだといえないような悲惨な民主主義の根幹に触れる事件が起きている。

どうして暴力団員がいつもわかっているのに日ごろ取り締まらないのかが不思議である。






東京ではもう桜は散り、
若葉の緑が野や山を染め上げていく。






平成19年4月20日の天声人語からの引用

萌(も)える青草を踏んで野山を歩く。

晩春の季語でもある「踏青(とうせい)」には、心はずむ明るさがある。

〈ジーパンに詰め込む肢体青き踏む 登四郎〉。

 年配の方なら、往年の流行歌「丘を越えて」を思い出すかもしれない。

作曲した古賀政男は大学を卒業する春、桜が満開の東京近郊に仲間と遊んだ。

下宿に戻ると学帽に桜の花びらが1枚、はりついていた。

その1枚から楽想をふくらませ、青春の歌を書きあげたという。

 東京ではもう桜は散り、きょうあたり、桜前線は秋田の辺か。

いまの季節の日本列島は、淡いピンクを追うように、若葉の緑が野や山を染め上げていく。

一盛(ひとさか)りの春を愛(め)でられた桜は、またもとの目立たない木となって、万緑のなかに埋もれてしまう。

 「そやから困るんです」と、「京の桜守(さくらもり)」として知られる庭師、佐野藤右衛門さんが嘆くのを聞いたことがある。

花の盛りに人はちやほやするが、季節が過ぎれば忘れてしまう。

何かで邪魔になると、大樹が安易に切られることも少なくないそうだ。

歳々年々、花とて同じでいられる保証はない。

 葉桜がまわりの緑に溶け込むと、春はいよいよ深い。

きょうは二十四節気のひとつ、穀雨である。

〈まつすぐに草立ち上がる穀雨かな 雪夫〉。

暖かい雨が土をうるおし、野山も緑を濃くしていく。

そして半月あとの次の節気は、もう立夏だ。

 古賀は自著で、「丘を越えて」は二度と返らぬ若さへの愛惜だった、とつづっている。

惜春、という季語がある。


だれにも二度とはない今年の春が、過ぎていく。




いい季節は早く去ってゆくものだ。




方言学者からは「すばらしい」と励まされた。







平成19年4月21日の天声人語からの引用

古い方言辞典をめくっていると、豊かでユーモラスな言い習わしの数々に時を忘れる。

たとえば、ある地方では、助産師(産婆)を「へそばーさん」と呼んだそうだ。

 風呂は「どんぶり」。

末っ子は「ひやめし」。

外出好きな女性は「でべそ」。

氷柱(つらら)を「ちろりん」と可愛く言う地方もある。

多くはもう死語になっているかと思うと、残念な思いがする。

 宮城県栗原市が市民憲章を制定することになった。

方言で文案をつくったが、不評に頭を痛めている。

〈眼(まなぐ) 光をにらみ……腹ん中 熱(あ)っつぐ熱(あ)っつぐ……おれらいま風を切って走る〉。

これを市民にはかると、「東北の暗さが強調される」「田舎っぽい」といった否定的な意見ばかり目立ったそうだ。

 「土地の暮らしと歴史がこもった言葉で独自性を」と、5人の制定委員は意気込んだ。

方言学者からは「すばらしい」と励まされた。


ところが、肝心の市民の胸には、あまり響いていないようだ。

 〈ふるさとの訛(なまり)なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく〉と詠んだのは石川啄木である。

寺山修司は〈ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲(コーヒー)はかくまでにがし〉とうたった。

ともに東北地方の出身である。

歌には故郷の言葉への、懐かしさばかりではない微妙な思いも感じられる。

 ふるさとの言葉には、よそ者が辞典からは感じ取れない陰影が、張り付いているのかもしれない。

栗原市はさらに市民から意見を聴くそうだ。

よそ者としては、この憲章は、すてきな言葉の記念碑になると思うのだけれど






テレビでみていて田舎の方言を聞いているとこれは本当の日本語かと疑うような言葉に出くわす。

方言は親しみあるが理解できない言葉がある。

関西弁は標準語でないがテレビ放送の普及で理解されることが多い。

でも学会などで聞いているとなんとなく「おかしさ」を感じたことがあった。







京都の日本舞踊家、西川千麗(せんれい)さんがこのほど披露した
創作舞「カミーユ・クローデル」(04年作)だ









平成19年4月22日の天声人語からの引用


美しいものより美しいのは、美しいものが荒廃した姿である――オーギュスト・ロダン。

彫刻家ロダンの作品が、がぜん官能の色を帯びる一時期がある。

弟子で愛人のカミーユと暮らした1880年代だ。

 18歳で42歳のロダンと出会い、やがて身を引くカミーユ。

女として芸術家として独り立ちに挑むも、世界に飛躍していくロダンへの愛憎、孤独、貧苦の果てに心を病む。

78歳で没するまでの30年は、南仏の精神科病院にいた。

 その激しく悲しい、さまよえる魂が、浅春のパリに「着物姿」で帰ってきた。

京都の日本舞踊家、西川千麗(せんれい)さんがこのほど披露した創作舞「カミーユ・クローデル」(04年作)だ。

 フランス人の生き様を、バレエやオペラではなく日舞に転写するには、言葉や顔立ちに頼らぬ表現力がいる。

黒装束の千麗さんは、栗色の髪を垂らし、金の扇2枚で文化の壁に向かった。

舞の頂点で、ぽとり、ぽとりと扇が落ちる。

恋心、ロダンとの子、創作熱、正気。

カミーユが喪失したあれやこれやを、散る扇に込めた。

 20年ほど前にカミーユを知り、いつかは舞うと心に決めた舞踊家は「自分を空っぽにし、

心に住みついた彼女に身を任せた」という。

舞台に見入ったカミーユの縁者たちは「この美しさなら本人も幸せ」と喜んだ。

 実弟で、大正から昭和に駐日大使を務めたポール・クローデルは書いている。

「禅宗によれば、偉大なる真理は言葉ではなく、ある種の伝染により心に届く」。

日舞に織り上げた「荒廃の美」もまた、時空を超えて伝わった。






日舞をテレビでみることがあるが,何を表現しているのかはわからない。

優美さは理解できる。でも絵画などと違い瞬間の芸術で見る人の心に残るものである。






時間差のある四季だ。





平成19年4月23日の天声人語からの引用


先頃、初夏の陽気の東京から北海道に出かけた時のことだ。

出発前の空港で「到着地は雪、天候次第で引き返します」と放送があった。

横にいたご婦人がつぶやいた。

「いやねえ、同じ日本なのに。

縦に長いからいけないのよ。

横に長けりゃいいのにね」

 気持ちは分かるが、国土が南北に長いおかげで、同じ頃に異なる季節感を楽しめもする。

いわば、時間差のある四季だ。

逆に東西にうんと長ければ、米国のように国内に時差ができ、やっぱり「いやねえ」になるかもしれない。

 国土の形状は、そこで生まれ育った人の考え方にも影響する。

たとえば、島国かどうかは国民性を決定づける大きな要素といえる。

政府の世論調査(75年)で「30年後の日本」を聞いたところ、日本人の10の特性のうち、

「島国根性」は「義理人情」「勤勉性」に次いで「変わらないもの」の3位だった。

 32年後の日本社会では「愛国」のメッセージが定席を得た。

自信を持てと叱咤(しった)し、廃れゆく義理人情や勤勉性を嘆くのはいいが、

周辺への敵意をあおるばかりの、粗雑で乱暴な言辞も多い。

 島国には、大海に漕(こ)ぎ出す進取の気性も根づきうる。

一方で、水平線の先に思いが至らねば、自分の都合とモノサシだけで考えやすい。

異なる民族や文化には尊大になるか、妙に卑屈になりがちだ。


 心の中の「島」が大きすぎると、海外旅行のたびに「やだねえ、同じ地球なのに」とぼやくことになる。

祖国への誇りや愛情は国際人たる必要条件だが、そういうものは、ほどよく、賢く持ちたい。






日本の国は島だと言うが島には感じない。台湾に 沖縄に行ったときも島とは思えなかった。

外国から攻め込まれてきた経験は沖縄を除いてはない。

外国では幾たびも国が外国から攻められている経験がある。

日本にはそれがない。だが空襲と 大変な原爆の体験がある。

自然に天から降ってきたものではないことだけは決して忘れないでおこう。




テレビの普及台数が約1億






平成19年4月24日の天声人語からの引用


テレビの普及台数が約1億と聞き、今さらながら驚いた。

低俗番組を批判して「一億総白痴化」と言われた昭和30年代初めが約50万台だから、

ざっと200倍に増えたことになる。

 暮らしに寄与してきた半面、悪(あ)しき影響への心配はどこも同じとみえ、

英語には「愚者のランプ(イディオッツ・ランタン)」と呼ぶ俗語もある。

これを「阿呆(あほう)の提灯(ちょうちん)」と訳したのは誰だったか。

ともあれ1億台となれば、ほぼ国民ひとりが一つずつ、提灯を提げている計算になる

 俳人の長谷川櫂(かい)さんが雑誌で、家庭にテレビがあることを、

「家族の中にあまりガラの良くない他人がいるということ」と述べていた(「望星」4月号)。

安手なバラエティーなどに苦り切り、我が意を得たりの人も多いだろう。

 テレビ草創期以来の半世紀は、その“ガラの良くない他人”が、ぐいぐい巨人化してきた時代でもあった。

たとえば成長期の少年が、自分の腕力に無自覚なまま人を殴り、思いがけないけがをさせてしまう。

それに似た幼稚さと無責任が、なお業界にあるように見える。


 関西テレビの捏造(ねつぞう)問題を機に、政府は放送法改正案を国会に提出して会期中の成立をめざしている。

国の規制を強めようとする法案である。

テレビ側にも問題はあるが、表現の自由の阻害を心配する声も大きい。

 不名誉な呼ばれ方の多いテレビではあるが、良くも悪くも、家族の一員のような存在ではあろう。

ガラの悪さを正すのは、国家権力ではなく、作る側の良識と、見る側の批評眼でありたいものだ。






テレビの影響は大きい。ラジォを聞いている人たちがいるだろうか。そのうちインターネットの影響が一番大きくなり

言語の壁をば越える手段が出てくれば人類に一番の影響わあたえるのではないのか。







亡くなったエリツィン・前ロシア大統領は







平成19年4月25日の天声人語からの引用


まれにではあるが、時代には意志があるかのように、政治家を生み出すことがある。

亡くなったエリツィン・前ロシア大統領は、ソ連を終焉(しゅうえん)させた政治家として、そんな一人に数えられよう。

 貧しい農家の生まれだった。

自著によれば、生後すぐの洗礼のとき、司祭が桶(おけ)で水浴させたまま引き上げるのを忘れた。

母親が気づき、人工呼吸で命を取りとめたという。

厳寒の小屋で、家族は山羊(やぎ)に体をくっつけて暖を取ったそうだ。

 政治家は、大衆の心を瞬時につかむ幸運に巡り合うことがある。

エリツィン氏にとってそれは、91年8月の保守派クーデターだった。

政府ビル前で戦車によじ登り、巨体を仁王立ちさせて「抵抗せよ」と市民に呼びかけた。

大衆の熱狂を一身に受けて、その年の暮れのソ連解体に突き進んでいった。


 だが時代の求めは、そこまでだったのだろう。

冷戦が終わると、その後は経済の失敗、流血の武力行使、側近政治……と急速に輝きを失っていった。

人気は地に落ち、99年の辞任後は国内でも忘れられた存在になっていた。

 エリツィン氏の人生に、耳慣れたことわざが重なる。

オムレツを作るには卵を割らなくてはならない――氏はソ連という固い卵を割る役目を授かり、それを果たして、旅立っていった。

 98年春に来日したとき、首脳会談のあったホテルで、一般の結婚披露宴に顔を出してスピーチする茶目(ちゃ・め)っけを見せた。

ホテルのゴルフ場には、来日を記念して「エリツィン桜」が5本、植えられた。

今年も立派に花を咲かせたと聞く。






エリツィン氏は亡くなった。ゴルバジョフの方が好きだ。アメリカのレーガンとのやり取りでゴルバジョフがいなければ今頃

人類は破滅している。ロシアではノーマルで知的な人物である。






東京・銀座のビルの屋上で、地元の人たちがミツバチ約6万匹
蜜を求めて巣箱を飛び出し、ビル風に舞い上がっていく







平成19年4月26日の天声人語からの引用


東京・銀座のビルの屋上で、地元の人たちがミツバチ約6万匹を飼育している。

蜜を求めて巣箱を飛び出し、ビル風に舞い上がっていく。

 都会の真ん中にも花はある。

皇居のソメイヨシノ、浜離宮庭園の菜の花、街路樹のマロニエ。

収蜜の盛りを迎え、週に25キロとれることもある。

新鮮な蜜は、銀座の店でケーキやカクテルに甘みを添える。

 古くから、人はミツバチと暮らしてきた

1万年以上前のスペインの洞穴の壁画には、巣から蜜をとる人物が描かれている。

日本書紀にも、643年に奈良で養蜂が試みられたとある。

 その長い歴史のなかで、どれほどの異変なのだろう。

ミツバチの巣から、大量のハチが突然、行方不明になる異常現象が、北米に広がっている。

「集団の崩壊病」と名付けられたが、原因は分からない。

感染性の病気、農薬禍、ストレスなど諸説が飛び交う。

昨年秋から、じわじわ拡大し、養蜂家は恐慌状態だという。

授粉をミツバチに頼るアーモンドやリンゴの凶作も心配されている。

 1匹なら穏やかそうなミツバチも、集団になると神経質だ。

たとえば移送中、車の震動に驚いて1匹が騒ぎ始めると、大群が一斉に羽を震わせる。

摩擦熱で巣箱の温度が急上昇し、パニック状態のまま全滅してしまうこともある。

 環境の変化に敏感な生き物だともいう。

大量失踪(しっそう)は、自然界で何かが起きつつある兆しでは、と不安がる声も上がっている。

「蜜は甘くても、事態は甘くないよ」。

不気味な異変が、ハチから人間への警告でなければいいのだが。





ミツバチが信号機で集まっている映像を見た。あれだけのミツバチの群像を見ると恐ろしい気になる。






いまの若者は、老いて、どのタイプになるのだろう。





平成19年4月27日の天声人語からの引用


青春とは人生のある時期をいうのではなく、心のあり方をいうのだ、と言われる。

よく似た意味で、老人には三つのタイプがあるとも言われる。

すなわち、まだまだ若い人、昔は若かった人、そして一度も若かったことのない人。

 いまの若者は、老いて、どのタイプになるのだろう。

財団法人「日本青少年研究所」などが日米中韓の4国の高校生を調べたら、

いま一つ覇気に欠ける日本の若者像が浮かび上がった。

「偉くなりたい」は他国の約3分の1。

逆に「のんびり暮らしたい」は43%と他の14〜22%を断然、引き離していた。

 情けないと嘆く人、それも良しと肯(うなず)く人、考え込んでしまう人。

感慨はそれぞれだろう。

クラーク博士の「青年よ大志を抱け」は死語になったかと、ため息をつく人がいるかもしれない。

 調査ではまた、「自分の会社や店を作りたい」が他の半分以下に沈む一方、「多少退屈でも平穏な生涯を送りたい」は上回った。

立身出世に血道を上げることもないけれど、若くして閑居を望む声が多いのはどうしてなのかなあ。

 「青年は決して安全な株を買うな」と言ったのは、フランスの詩人コクトーである。

作家の沢木耕太郎さんは、生命保険に加入したときに人は青年時代を終える、と書いている。

向こう見ずは青年の美徳、とまで言うと、少し言葉が過ぎるだろうか。

 調査をした団体によれば、学級委員でさえ最近はなり手が減っているそうだ。

「いまどきの若者は……」と言いかけた口をつぐんで、そっと不安をのみ込むことにする。





世の中は少・壮・老で社会が構成されている。若い人のような気持ちで書いているが,人生の経験は年齢の数だけある。

少しでも自分の経験が社会に少しでも役に立ち社会が良くなればと思いながらを願い書いている。







荒っぽい毒舌も、親しみをもって感じられるかもしれない




平成19年4月28日の天声人語からの引用

 ある落語家が刑務所へ慰問に出かけた。

受刑者を前に、第一声は「エー、満場の悪人諸君!」。

永六輔さんの「芸人 その世界」(岩波書店)に収められている一(ひと)コマだ。

 笑う人もいれば、「言われる身になれ」と苦る人もいるだろう。

人権感覚を疑問視する向きも、あるに違いない。

だが、こういう場合はえてして、背景やいきさつを知らずに判断すると、的を外すことが多いようだ。

 たとえば落語家が過去にもその刑務所を訪ね、交流を重ねていたとしよう。

それなら荒っぽい毒舌も、親しみをもって感じられるかもしれない。


互いの間柄いかんで、言葉は丸くもなれば、とがりもする。

 「地獄へ直行」と書いた紙を廊下に張って、遅刻者の指導をした中学教諭がいた。

「イエローカード」「校長面談」などとも書いた紙に、遅刻の回数に応じて生徒の名を付箋(ふせん)でつけていた。

配慮を欠いた指導と問題視され、校長が謝罪する騒ぎになったが、川崎市教委は先ごろ処分を見送った。

「生徒との信頼関係の中での指導だった」と判断したそうだ。

 問題が表面化すると、生徒らから市教委に、「先生を責めないで」といったメールが寄せられたという。

少々荒っぽい指導でも受け入れる信頼感が、クラスにあったということだろう。



信頼なくしては何も進まない。今の政治に信頼できるか否か。不安を感ずるさてどうすれば良いのか。





中原中也生誕100年,30歳で逝く年に
「東洋一のビルヂング」をこっけいに活写した詩人





平成19年4月29日の天声人語からの引用


お祝いの弦楽四重奏の中を、人の川がゆっくりと、建物の奥に消えてゆく。

一昨日、東京駅の空を削って38階建ての「新丸の内ビル」が開業した。

向かいの丸ビルも5年前、37階に化けた。

 戦前の丸ビル風景を、中原中也の「正午」が伝えている。

〈月給取(げっきゅうとり)の午(ひる)休み、ぷらりぷらりと手を振つて/あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ〉。

30歳で逝く年に「東洋一のビルヂング」をこっけいに活写した詩人。

きょうは生誕100年にあたる。


 七五調や擬音語、繰り返しにより、声に出すと味わいを増す作品が多い。

代表作「サーカス」の中ほど、空中ブランコを描いた部分がよく知られている。

 〈頭倒(さか)さに手を垂れて/汚れ木綿の屋蓋(や・ね)のもと/ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん〉。

中也自身、この詩を好んで朗読してみせた。

肉声は残っていないが、友人によると、なかなかの名調子だ。

 「ハスキーな低音で、しかも胸に泌(し)みこむようなさびしさとキリモミのような痛烈さ」と草野心平。

聞かせどころの〈ゆあーん〉の行は「仰向いて眼(め)をつぶり、口を突き出して、独特に唄(うた)った」(大岡昇平)という。

ふと、100歳の中也がいたら、と夢想する。

 中也に詳しい詩人、佐々木幹郎さんは「季節感をなくした街に戸惑いながらも、身体感覚で詩を作るでしょう」と語る。

〈汚れつちまつた悲しみに/今日も小雪の降りかかる〉。

過ぎし青春をそう嘆き、すねた中也。

「悲しみ」をどこかに忘れてきたような東京の、何を、どんな調子で聞かせてくれるのか。


 教師の言動がいじめに結びつくこともあるから、判断はなかなか繊細だ。

しかし先生たちの持っている“人間力”も封じ込んでしまう杓子(しゃくし)定規は、学校の魅力まで一緒にそいでいくように思える。

角を矯(た)めて牛を殺す。

そんな故事もある。




昔の人の方が今よりも大勢優れた人たちがいたのかとふと思うこともある。



それぞれの旅立ちである






平成19年4月30日の天声人語からの引用


欧米や中国の新学年は9月に始まるが、違う国も多い。

ケニアは1月、豪州は1月下旬から2月、韓国は3月、そして日本


門出に添える4月の言葉から。

 「大切な教室を使用させていただき、ありがとうございました」。

能登半島地震に見舞われた石川県輪島市。

春休みの間、避難所になっていた小学校の黒板に、被災者が感謝の言葉を残した。

 財政破綻(はたん)した北海道夕張市では、1年後に閉じる市立幌南(こうなん)小で新入生2人の入学式。

校舎はまだ使えそうだが、「もったいないといえば、夕張はもったいないことだらけなんです」(森井智江校長)。

市の職員は半減され、16人が嘱託として再雇用された。

3月までの総務課長は「気分を新たに下働きしていきたい」

 「人生は1回きり。

自分の責任で悔いなく生きたい。


事故があってそう思えるようになった」。

JR宝塚線(福知山線)の脱線事故で右脚を複雑骨折した大学生、西尾和晃さん。

2年ぶりに草野球のマウンドに。

 大リーグでは初登板。

「待ちに待った舞台だったけど、驚くぐらい普通に試合に入れた」とレッドソックスの松坂大輔投手。

初勝利への初球は予告通り、93マイルの直球だった。

 4年前の鹿児島県議選で初当選した直後、選挙違反容疑で逮捕された中山信一さん。

無罪確定を受けての出馬で、自民現職らを大差で破る。

ひどい捜査が奪った時間は戻らないが、「この4年間は8年分の仕事をします」。


こんなに楽しい選挙は初めてだ、と運動員

桜前線が駆け上がった列島、それぞれの旅立ちである。





四月は新しい学年が始まる。心改めて今年も健康で少しでも社会に役立つようなことをしていきたいと考えている。

せめて同じ過ちに陥らないように努力していきたいものである。







欽明天皇と秦大津父




山城風土記の中には欽明天皇が「夢」の中で山背の深草郷の秦大津父を登用するならば政治がうまく行くとのお告げがあり

秦大津父を探して登用したとの逸話が載っている。

欽明天皇と秦大津が出会った頃が歴史上丁度蘇我氏が活躍していた時代と同じ頃であることがわかった。

欽明天皇の父継体天皇が越前から二十年の歳月を経てから飛鳥の宮に入られている。

それだけの日数が飛鳥の宮に入るのに何故にかかったのかは確かなことは判っていない。

想像としては飛鳥に反対勢力がいたからともと言われている。

この第26代継体天皇は応神天皇から五世も後の人物とされてのことである。

歴代皇室からすれば異例な出来事になる。

武烈天皇が506年に後嗣を定めずに亡くなったので,大連 大伴金村が越前に赴いて大王になることを薦めて王が承諾された。

そして翌年の507年継体天皇は58歳で河内国樟葉宮で即位し,武列天皇の姉(妹との説もあり,仁賢天皇の皇女)にあたる

手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。

大戦後,皇室に対する言論の自由が許されるようになってからは いろんな説が出て万世一系は否定され

出自不明の第26代継体天皇から新たな大王家がはじまったとされる説もある。

また近年には,継体以前の頃は大王の地位が特定の血縁なくして定まったともされる意見がある。

継体天皇は西暦502年2月,には樟葉宮 大阪市枚方市樟葉丘の交野天神社付近の伝承地へ。

そして次に西暦511年10月に 筒城宮 京都府京田辺市多田羅都谷辺りへ。

次に西暦518年3月 弟国宮 現在の乙訓神社のあたりで京都府長岡京市今里付近か 

最後西暦526年9月磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)奈良県桜井市池之内か

以上の遷宮の通りならば継体天皇が大和にいたのは5年だけである。

第29代欽明天皇は西暦509年生まれで西暦571年4月14日に亡くなっている。

第28代宣化天皇の皇女石姫を皇女として第30代敏達天皇をもうけている。

そして蘇我稲目の娘である蘇我堅塩姫の間に第33代推古天皇 第31代用命天皇を 

同じく稲目の娘の蘇我小姉君の間には穴穂部皇女 穴穂部皇子そして第32代崇峻天皇をもうけている。

用命天皇は皇女として穴穂部皇女との間に聖徳太子が生まれている。聖徳太子の息子には山背大兄王がいる。

その山背大兄王は蘇我入鹿の遣わした巨勢徳大臣に攻められて斑鳩寺に入り三輪文屋君からひとまず「深草屯倉」に移り

東国で兵をおこすように言われたがそれを断り一族と共に首をくくって死んでいる。(西暦643年)

蘇我稲目の娘である蘇我堅塩姫と穴穂部皇女の弟が蘇我馬子である。馬子の姉二人ともが欽明天皇と后(きさき)となっている。

だから蘇我馬子は絶大な権力を持ちえたことがわかる。

欽明天皇は幼い頃には継体天皇と一緒に樟葉宮 筒城宮 弟国宮を巡っているので,

その間に深草郷に居たとされる秦大津父とも会合する機会はあった。

深草郷からは樟葉宮 筒城宮 弟国宮はそんなには遠くはない。

其の間に山背一帯の豪族達である和田氏 物部氏 息長氏 茨田氏 大伴氏 中臣氏 河内馬飼氏

それに秦氏など親しく交流するにいたったことは予想されることである。

継体天皇と蘇我稲目がどのようにして接触しえたかが問題である。 

筒城宮が一番飛鳥に近い土地となる。 蘇我氏の起源は詳しくはわからない。欽明天皇の前の宣化期に稲目が「大臣」に就任している。

蘇我氏には渡来人説や葛城氏支説があるが 稲目の父は高麗(こま)となった記事が「公卿補任」の「蘇我石川系図」には載せられており

「紀氏家蝶」(平安初期成立)にも高麗(こま)の別名として(馬背)が載っている。高麗(こま)の子が稲目である。「記・紀」には載っていない。

稲目の娘二人が欽明天皇の妃となつており,このことから継体天皇が蘇我稲目と親しくなってのことだと推測する。

稲目の二人の娘の兄が馬子で欽明天皇のもと権力をふるえることができたと考える。

当時大和では大伴金村.と物部麁鹿火(あらかい)が大連でそれに宣化期に蘇我稲目の大臣が加わったことになる。

欽明天皇の妃として宣化天皇の娘石姫をそして稲目の娘堅塩姫と小姉君を迎えている。

深草郷で天皇になる前の欽明天皇が秦大津父と知り合ったのは深草郷に一番近い場所となる弟国宮在住していた頃ではないかと想像する。

二人は現実に会っていたから山城風土記に「夢」の中とは言え書くことができたものと考える。

秦大津父は蘇我稲目・馬子のもと大蔵官僚として活躍したのではなかろうかと考える。

深草郷での秦大津父の記事と深草屯倉の記事が出ている期間が約120年間で秦大津父と深草屯倉は何らかの関連があると考えられる。

記事としては深草屯倉は此の時初めて出ているが,かなり以前から深草屯倉は成立していたものと考える。

又それに藤森神社の真幡寸神社や 城南宮近くの地域の真幡寸里や深草西浦町周辺からは弥生中期から後期の遺跡が発見されており

それらも深草の秦氏と何らかの関連があると考える。深草は秦大津父の存在した頃,秦氏の一大拠点であったことはその後の稲荷大社が

創建されたことからもうかがえる。

聖徳太子と葛野郡太秦の秦河勝との関係は河勝が太子の警護する私兵だったとも言われるぐらい親密であった。

子供の山背大兄王に山背という名前が何故ついたのか興味のあることで,山背大兄王が建てたとされる法輪寺 法起寺で聞いても

判らないとされている。生まれたのは岡本宮とされているから, 秦氏を含めて,山背地方と何らかの関係が

あったと考える。特に父親の聖徳太子が山背地方の秦氏と密接な関係があったのは,それは間違いないことだろう。

法輪寺 法起寺ともに法隆寺の近くで三重塔がそびえ建っている。

だが法隆寺はやはり五重塔も立派でたくましい伽藍配置をそなえた大寺院である。

八坂の法観寺は聖徳太子との関係の伝承逸話が聞かれる,深草の法禅寺も何らかの影響関係があったものかどうか。

法隆寺 法輪寺 法起寺 法観寺に,そして法禅寺もそうだったのかどうか。法の字に気になる。


戻る

                                   3月分       4月分      5月分