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六月になって



六月に入ると一段と暑い日が多くなってくる。今年は梅雨時だが,雨はあまり降らずに過ぎてゆきそうである。

これも地球温暖化が関係しているようである。

子供の頃に下げた「テルテル坊主」はあまり必要としない年になりそうだ。

例年の六月は雨がよく降り,じとじととした季節だが,今年は夏を思わせる日がつづいてくる。

ゴルフするのに,雨の少ないのは大変ありがたいことである。

ゴルフは大体雨と関係なしに,開催されるものだが,でも雨の中のゴルフはあまり面白くない。

最始から雨のときはやめることにしている。

近くの宇治の三室戸寺のアジサイを見に行ったが,多勢の参拝客が訪れていた。

アジサイを鑑賞しに来ているのか,お参りしに来ておられるのかは判らない。

普段の時と比べ人出の数が多く ,アジサイ為に訪れているの人たちが増えていることに間違いない。

アジサイの規模は,近くで他の場所では見ることができないくらいに沢山植えられている。

このように,三室戸寺にアジサイが植えられたのは,こ゜く最近のことである。
,
京都深草の藤森神社も同じように此の頃の季節にアジサイ祭りが催されている。

だが境内は小さいので,その規模も当然小さくなってくる。

此処も同じようにアジサイが植えられたのは最近のことである。

神社仏閣は何処ともに最近益々,よく整備され出してきれいになって来ている。

国内に於いては内閣の指導の下に国会が延長され諸法案をば参議院選挙まて゜に通そうとして会期延長がなされた。

参議院選挙で自民党が敗北すれば諸法案が全て廃案になるからとの考えによるものらしい。

そんなに大切な法案なのだろうかどうか。?  もし大切な法案ならばもっとより慎重にとり扱うべきである。

自民党にだけ大切であって,国民を度外視しての法案なのかもしれない。

国民に信を問うてからにするのが本筋である。

国民にとって極めて大切な法案となれば,自民党は続けて大量の支持票が集まるから,それからでも遅くないと思うのだが。

憲法改正 教育基本法 年金問題 公務員の天下り禁止法などなど歴史的観点からでも,大切な法案が何の審議することなく

国会を素通りしてゆくようなことでは,国民の怒りは自民党に向けられても仕方ない事である。

何故にそんなに急ぐのか阿部さん。

参議院選挙では法案を通した事を阿部さん自分自身の実績としてあげられているようだがこれは大きな汚点である。

汚点か実績かが正確に判断がで゜きないような人に日本の政治をまかしてよいものなのか。

若さのいたりによるものか,それとも憲政史上,少しでも何らかの名を留めたいがためなのか。

自民党がなんとか支持を挽回したいため,夏休みになれば学生達か帰郷して投票率が少しでもさがることを期待しての会期延長だとか。

色々な参議院選挙のためだけの思惑が交差しているようだ。

沖縄では沖縄戦での集団自決が日本軍の指令で行われたとの

教科書改定を「軍の命令だとすることを削除」に対して反対運動が沖縄で起きている。

これは戦争体験したものとして実際に政府とか 軍の命令があったのかどうかは判らないが,

国全体が総動員体制に導かれていたのは,当時の為政者・政府にあったことには間違いない。

それは戦争時下に生活していたものとして断言できる。

当時,敵の捕虜になることは「恥だ」「虜囚の辱めに遭うぐらいならば死んだほうが良い」゛との教育が国民全体に徹底的に教育され浸透し,

それが当時の日本全体の世間一般の常識だったから

日本軍が直接間接的に集団自決を強いた可能性は大いに考えられる。

教科書からはこの記事を絶対にはずすべき事ではない

ただ軍隊が悪いのではなく,
戦争そのものが悪いのである

このことの一番大切なことは,これを教訓にし同じ過ち,戦争をば二度と繰り返し,過去の過ちを再び犯してはならないことである。


軍隊があるだけでは戦争にはならない。為政者の命令で軍隊は動くものである。

戦争だけは永遠にすべきものではない。

現在の政府が教科書からはずすことにこだわるのは,再び同じようなことがしたいが為の障害になるからと,かんぐりたくなる。

日本政府が「鬼畜米英」としての教育していたのが,戦後アメリカ軍が日本を占領し,GHQがマッカーサーを司令官として来日し

占領軍が政治を携わってからは「,アメリカという国は大変に立派な国で,模範とする国だ」との考えに180度変貌してしまっていった。

当時アメリカ占領軍ではなくて,体のよい進駐軍と言う名前に変わっていた。

そのようにして日本国家はアメリカ軍の占領統治下におかれていた。

戦時中日本軍は「敗退」をば「転進」として大本営が発表していたのと同じ手法である。

当時マッカーサーの言うことは絶対的なものであった。労働者の大規模なストライキが計画され施行されようとした前日に

マッカーサーの命令でもって,ストライキが中止されたのを覚えている。

ラジオ放送によって,当時の労働者である大人たちが,くやし涙声でもって語るラジオ放送は今も耳の底に残っている。

テレビがなく,ラジオしかなかった時代の頃のことである。

それからはずーとその後のそのような戦後教育が続き,日本の優秀な人たちがアメリカへフルブライト給付生として留学し,

アメリカで学んで帰ってからは,アメリカで学んだことが国民に伝えられ,益々アメリカが立派な国であり,憧れの国へと変貌していった。

教育によって人間はなんとでも考えが変わることを証明している。

このことは,現在の北朝鮮を見ればわかることだ。

今の金日正をば昔の天皇に変えれば,丁度戦時下の日本の社会状態が想像できる筈だ。

鬼畜米英が本当はそんなに立派で合理的なアメリカ国家であるならば,どうして日本の国が早く戦争に降伏しなかったのかと。

第二次大戦の終わりの頃には特攻隊.・人間魚雷までが繰り出され,死闘を繰り返し,サイパンの玉砕・硫黄島玉砕そして沖縄本土決戦へと

それに日本国中の大都市へは無差別空襲が繰りかえされて,最後は広島・長崎の原子爆弾投下と続いていった。

立派な国であるアメリカに何故そんなにまで日本は抵抗していたのだろうか。?

何のために戦争を続けていたのだろうか。?

何故どうしてそんな立派な国に対し,早く降伏し,その占領下においてもえれば,どれだけか多くの国民が無駄死にすることなく

多くの優秀な人たちの人生が全うできたことかと考える。

今できることは,そのような戦時中の尊い体験をば現在に大いに生かすべきことだけである。

当時の日本の国は「一億一心」「撃ちてし止まん」「贅沢は敵だ」「勝つまでは辛抱」「一人になるまで戦おう」などの

スローガンのもとに生活していた。それらのスローガンは小学校内に大きく講堂の壁に貼られていたのを覚えている。

小学校への登校時・下校時には必ず校門の近くに建てられた御宸殿の前で,必ず最敬礼をして通学していた。

少なくともお辞儀をすることを強制されていた。

御宸殿とは天皇・皇后両陛下の写真が収まっており,又各家庭の床の間の上にも天皇・皇后両陛下の写真が飾られていた。

何時から飾られ出したのか,記憶し自覚するようになった時には既に床の間の上に飾られている。

それだからそのような写真に対し,何の違和感も感ぜず子供の頃生活していた。全く今の北朝鮮を連想されるような風景である。

空襲がはげしくなって学童集団疎開し敗戦でもって,戦後のどん底生活に落とされ辛抱・苦労の生活が続いている。

:最近マスコミ報道で,自衛隊の幕僚長が現在,仮想敵国が日本を占領しようとしたとき日本国土の水際でもって敵をば撃退するため

(愛国心のためによるものか)現在日本の自衛隊ではクラスター爆弾を保持しているとの答弁しているのを聞いていて,

第二次大戦を体験したものとして,そんなこと言わず早くに敵に降伏すれば(さらに国民が幸せになるかどうかは不明だが,)

それに続くであろう数多くの悲惨な体験だけは国民はしないですむものと考える。

少なくとも多くの国民の多くがが無駄死にするにはならないと思う。

馬鹿な「愛国心」を持たされたが為に,苦労した過去の戦争体験を,今の日本では,その体験が生かされようとされていない。

それに戦後生まれの苦労知らずの首相のもとによって再び国民が支持しないような諸法案が

衆議院の議員の数だけでもって,此のときばかりに国会で次から次へと大量生産されている。

審議が十分ではない。議員数も小泉首相の「郵政民営化イエスかノー」だけの衆議院解散総選挙で,国民はそのトリックに騙された。

審議していて対立が鋭くなってくれば,「郵政民営化イエスかノか」と同様に即座に国民にその判断を任せばよいことである。

北朝鮮の核問題はかなりのスピードで進展してきている。

アメリカはイラクなどの中東問題を抱えていて,北朝鮮問題は何とか早くかたずけて中東問題に専念したいためともいわれている。

それに対して日本は完全に置き去りになっている。そして拉致問題も軽視されている。

それでも良いのではないか,早く日朝の国交が回復しお互いに仲良くなれば拉致問題も早く解決できる筈だ。

阿部首相は北朝鮮拉致問題を頭角を現すための手段として使い,政権獲得のために,内閣の支持率上昇の為の道具として使われてきている。

これは阿部首相が総理になる前から大いに利用されていることでよく判っていることである。

イラクに続いてアフガニスタンでもアルカイダの活動が活発化して,

ブッシュのイラク戦争開始の過ちは明らかになった。

今「国連の活動」は何も伝わってきていない。

韓国人の潘基文国連事務総長は何をしているのだろうか。名前も出ないくらいに何も報道もされてこない。

前任のアナン国連事務総長の方が存在感があって,色々と活躍されていた。

国連の存在意義が大切な時期,に国連事務総長は何をしているのだろうか。ブッシュのポチになり下がったのかどうか。

全く何もみえてこない。まことに残念なことである。!







政府が音頭をとって、クールビズに衣替えする初日である






平成19年6月1日の天声人語からの引用

ビジネスマンの結ぶネクタイを、武士の刀にたとえた人がいる。

ぶら下げるだけで、たたずまいが威厳と緊張感を帯びるからだ。

少々くたびれた風体でも、まずはサマになる。

そんなところも似ているという。

 けさ、いつものようにネクタイを結ぼうとして、手を止めた人もいるだろう。

政府が音頭をとって、クールビズに衣替えする初日である。

閣議で各大臣は、沖縄の夏用のシャツ「かりゆしウエア」を着用するそうだ。

 早いもので3年目になる。

最初の年は、言葉が先行する中で、とりあえずネクタイを外した。

その姿は「朝帰り」などと冷評された。

去年はおしゃれ指南も進んだ。

今年は、ピンやカフスも使いこなす「上級者の装い」が百貨店の売りになっているという。

歩く人が多くなれば、道はできていくものだ。

 みんなで外せばこわくない――。

相変わらずの横並びを揶揄(やゆ)する声も聞く。

とはいえ、襟元が涼しくなれば冷房の温度を高く設定できる。

環境省の推計によれば、昨夏は約250万世帯の1カ月分にあたるCO2を削減したという。

 高温多湿の夏に、日本人は悩まされてきた。

「家の作りようは、夏をむねとすべし」と、「徒然草」の兼好法師も古くに述べている。

当時の冬は寒かっただろうに、「冬は何とでもなる」と、法師はかたくなに夏の暑さを嫌った。

 この夏は、赤道域の海面水温が低くなる「ラニーニャ現象」で、猛暑と渇水が心配な夏になりそうだという。

武士のやせ我慢はかなぐり捨てて、温暖化の防止に心したい。






各大臣がクールビズとかしない前から,日本国民はほとんどの家庭で消夏の智恵があった。

夕方には打ち水して涼しくし,夜は縁台をもって団扇で夕涼みした。

ネクタイ姿の人たちはあまりみかけず,薄い麻の着物を着て暮らしていた。

少し生活が良くなって各家庭で扇風機で涼をとっていた。

戦後の西洋式儀礼とかの変遷が災いしているように思える。








新横綱の白鵬が、明治神宮で土俵入りを初披露した。









平成19年6月2日の天声人語からの引用


新横綱の白鵬が、明治神宮で土俵入りを初披露した。

両腕を大きく広げて体をせり上げるのは、「攻め」の姿勢を表す不知火型だ。

万緑の中、新しく打った綱の純白が際だっていた。

 清新に響くしこ名は、大鵬と柏戸が覇を競った柏鵬時代にちなむ。

周囲はずばり「柏鵬」と考えたが、少し遠慮して木偏をはずしたそうだ。

「鵬」は中国の古典「荘子」に描かれた、ひと飛び九万里の伝説の鳥。

名前負けしなかったのは、さすがである。

 名前をもらった「柏」と「鵬」は、対照的な気質と取り口で、60年代に黄金期を築いた。

柏戸が豪胆なら大鵬は緻密(ちみつ)。

柏戸は一直線、大鵬は自在。

攻めまくる柏戸を、大鵬が懐深く受けてしのぐ土俵はテレビ桟敷を熱くした。

 70年代には「輪湖」(輪島、北の湖)、90年代末には「曙貴(あけたか)」(曙、貴乃花)と双璧(そうへき)の時代があり、

来場所からは朝青龍との「龍鵬時代」である

龍も鵬も外国人なのを、新しいと見るか、寂しいと見るかは、それぞれだろう。

だが、22場所ぶりの東西横綱に、賜杯争いの興味が膨らむのは間違いない。

 名行司と言われた第28代木村庄之助さんは、横綱の土俵を数多くさばいてきた。

ある雑誌に「戦っているときは獣でいいが、その前後は常に神聖な力人(ちからびと)でなくては」と話している。

起居の美しさを欠けば、二枚看板も色あせてしまう。

 不知火型の横綱は、短命に終わるというジンクスがあるという。

しかしまだ22歳である。

片や朝青龍は雲竜型、26歳。

モンゴルも日本も熱くする心技体を磨いてほしい。






相撲は確か日本の国技であったはずだ。過酷な競技は日本人向きでないのかどうか。

横綱がモンゴル人では悲しむべきか 相撲も国際化されてきたと喜ぶべきか

日本人とモンゴル人は風貌を含んでよく似たところが多い。

古代には大陸から大勢の人たちが゜日本へ移民し混血して大和民族を形成した

歴史からして人種にこだわることでもない。








 ベンチを都に贈ると、
40字までのメッセージと
寄付者の名を刻んだプレートがつく








平成19年6月3日の天声人語からの引用


週末の朝、都心の日比谷公園を歩いた。

散策の人よりベンチのほうが多い。

背もたれ中央に「私達(たち)の路(みち)、ここで決めました」「地上の花園もきれいですよ。

たまには座りに来て下さい」などの文字がある。

東京都が03年から募る「思い出ベンチ」だ。

 ベンチを都に贈ると、40字までのメッセージと寄付者の名を刻んだプレートがつく。

すでに532基が都下の公園や霊園に置かれ、おととい、5年目の募集(100基)が始まった。

 ベンチは形により15万円か20万円

都の財政を助けて、寄付者は名刺2枚分ほどの伝言板を手に入れる。

ベンチという公共財が朽ちるまで、私的な言葉は残る。

 ベンチの役割は、いつもそこにあることだ。

公園では、そうした動かぬものたちが取り込んだ天地の恵みが、来訪者を癒やす。

ベンチはぬくもりで、木立は葉ずれの音、花壇は色彩、池はさざ波で迎えてくれる。

 新刊書『植物の生存戦略』(朝日選書)は「動かぬ生き方」に注目する。

「ヒトは動くことができるという能力を過剰に発揮し、

疾風怒濤(どとう)のごとく人生を終えていきます……その対極にある生きものとして、

地球は植物を進化させてきました」(福田裕穂氏)。

じっと動かぬことで太陽エネルギーを無駄なく使う知恵は、樹齢1000年を超す巨木を生んだ。

 思い出ベンチになる多摩産材のヒノキは、じっと動かない何十年かに続き、

いつも公園にあるという仕事を与えられる。

「疾風の人生」を駆ける勤め人、老夫婦、恋人たちを休ませ、語らせ、思い出の続きを紡がせる。






名前をつけてのベンチの寄付は良いアイディアである。広告のあるベンチはバスの停留所にみかけるが

公共財となれは寄付する人も記念になり人にやくだつことはいいことだ。








2年後に登場する裁判員も、








平成19年6月4日の天声人語からの引用


新聞社などの世論調査は、すべての有権者が同じ確率で当たるくじのような方法で回答者を選ぶ。

いざ質問という時に「宝くじはさっぱりなのに」とぼやかれることもある。

これより不人気と思われるPTA役員などは、断りにくい輪番制になっていたりする。

 さて、2年後に登場する裁判員も、貧乏くじになるのだろうか。

市民が刑事裁判に参加するといえば聞こえはいいが、どれほど厄介な仕事が、どんな頻度で回ってくるのか、気になる方も多かろう。

 裁判員は何度かの抽選と面接などで選ぶ。

一つの事件につき原則6人で、最近の事件数から試算すると毎年3500人に1人が「当たる」らしい。

事件が多い千葉県では、少ない秋田県より4倍も選ばれやすい。

 このほど東京地裁で3日間の模擬裁判があった。

協力した会社員は「体力的には1週間でも可能と思う。

仕事の都合さえつけば」と語った。

多かれ少なかれ、私的な日程への影響は避けられない。

辞退できるのは、人に代われぬ重要な仕事がある場合などに限られる。

 つい辞退「できる」と腰が引けるのは、お国に時間を制約されることがめったにないからだろう。

8割が消極的という調査もある。

だが、こう考えてみたい。

裁判員とは、被害者にも加害者にもならず、司法試験も通らずに、法廷の深奥を体験できる権利だと。

 私たちの見聞や交際範囲は意外に狭い。

生き方を異にする、見ず知らずの人たちとの共同作業は、自分の常識をほぐす機会にもなるはずだ。

なかなかの当たりくじではないか。






何故に裁判員制度が発足するのかの説明が無い。

だがより正確度の高い裁判をしたいがためだと考える。

でも今の裁判の制度には矛盾だらけである。戦後の裁判制度が発足されてずーと同じ状態が続いている。

関係し'はそのことが判っていても直そうとしていない。

まず第一にそのことをば早く直すべきことだ。








米兵だった息子をイラクで亡くしたシンディ・シーハンさん
「反戦の母」として日本でも知られている








平成19年6月5日の天声人語からの引用


 米兵だった息子をイラクで亡くしたシンディ・シーハンさん(49)といえば、「反戦の母」として日本でも知られている。

反イラク戦争の象徴的な存在だった彼女が、運動から身を引く。

そんなニュースが、先日米国から伝わった。

 決別する思いがネットで公開されている。

「(野党である)民主党の“道具”と中傷された」「イラクでの死者より、誰が次のアメリカン・アイドルになるかの方が大事な国」……。

政治と国民への失望の言葉が連なっていた。

 「なぜ息子は死ななくてはならなかったのか」。

素朴な問いが、彼女を駆り立てた。

2年前、ブッシュ大統領の牧場前に座り込むと、賛同の渦が巻き起こった。

反戦派から英雄視され、運動の「顔」として奔走してきた。

 一方で、大統領支持者からは「テロリストに味方する行為」などと非国民呼ばわりされた

もとは平凡な主婦である。

身に降りかかる称賛と誹謗(ひぼう)、どちらも大きなストレスだったに違いない。

 〈身に沁(し)みて思ふ夜のあり戦場に曝(さら)すべく子を育(はぐく)み居らねば〉。

戦後ほどなく、愛知県のある母親が詠んだ歌だ。

時代も状況も違うけれど、この母親もシーハンさんも、戦争というものを通して、「命を生み出す自分」を強く意識した人だろう。

 増派を決めた米政府はなお息子たちを戦火にさらし、イラクでも母親の悲嘆はふくらみ続けている。

シーハンさんは、戦争に終止符を打てるかどうかは「皆さん次第」だと、米国民に最後のメッセージを残した。

書き終えて、しばらく泣いていたそうだ。






シーハンさんは偉い方である。何よりも息子の戦死を無駄にさせずに一人でも自分のような

悲しい思いをする人たちを少なくしょうとしたのが,政党の道具として扱われるようになって

運動はやめられた。

アメリカとはそんなにも不自由な国かと考え直す。

戦争は馬鹿げている。アメリカでは格差で貧しい人たちが軍隊に志願して死んでいっておられると聞く。










教師は地域で「無条件に尊敬されるか
敬遠されるか」の存在だったと回想している。









平成19年6月6日の天声人語からの引用


作家の藤沢周平さんは若いころ、郷里の山形で中学教師をした。

戦後間もなくのこと、教師は地域で「無条件に尊敬されるか敬遠されるか」の存在だったと回想している。

外部から雑言が聞こえることは、まずなかったそうだ。

 いまは、理不尽な要求をする一部の親が、先生を追いつめていると聞く。

気兼ねなく学校に物を言うのは大切なことだ。


だが「ある子の学校での様子を、毎晩1時間半も電話で説明させられた」といった多くの実例からは、先生の悲鳴が聞こえてくる。

 「モンスター親」と、教育の現場ではひそかに呼ぶ。

そんな親たちいわく、能力不足の担任を替えろ/部活動のユニホームは学校で洗って/うちの子を正選手にしろ……。

これを執拗(しつよう)にやられては、先生は参ってしまう。

 教委も対応に乗り出した。

岩手県は、注文の多い親を「溺愛(できあい)型」「(プライドの高い)自己愛型」「愉快犯型」など

10に分類して処する手引書を作った。


刺激せず、ていねいに。

お客様相手さながらの慎重なマニュアルから、ことの深刻さが浮かび上がってくる。

 「学校は自分が40分の1だと初めて学ぶ場所」と、作家の高村薫さんが他紙で語っていた。

みんなで成長するための大事な公共空間である。

そのことを親も一緒に学ぶ必要があろう。

 藤沢さんは、当時の学校を「バリアーに包まれた閉鎖社会」だったと書いている。

風通し良く外部から聞こえる雑音は、学校にとって貴重な羅針盤だろう。

だがそれも「騒音」となれば、耳をふさぎたくなるだけである。







「師の影を踏まず」で育った世代である。やはり師となるような人たちはそれだけの立派さがなくてはならない。

生徒側に問題があるも,教師としての威厳は取り戻すべきである。

競争社会がゆとり教育の影響を受けているようだ。ドイツではマイスターが社会的に尊敬されているように聞く。







70年代にかけて、アースデー(地球の日)制定など
環境運動の波が世界に広がっていった








平成19年6月7日の天声人語からの引用

 鏡に映った己(おの)が姿を見ると、人は自分の存在をより強く意識するという。

電車に飛び込む自殺を防ごうと、ホームに鏡を設置した駅がある。

鏡に映る姿を見ることで、思いとどまる効果を狙ったそうだ。

 地球を鏡に映すことはできない。

長く実像を知らなかった人類は、68年に1枚の写真を手にする。

月を回るアポロが写した地球は、漆黒の宇宙に、青く、はかなげに浮かんでいた。

写真は人々の“愛球心”をかき立てる。

70年代にかけて、アースデー(地球の日)制定など環境運動の波が世界に広がっていった。

 地球を「美しい星」と呼ぶ温暖化防止の構想を携えて、安倍首相がサミットに臨んだ。

2050年までに、世界の温室効果ガス排出を半分に減らす考えだ。


話し合いを日本が先導する意気込みだという。

 これまで冷淡だった米国も、サミットを前に新提案を発表した。

「経済を損なう」と意固地だったブッシュ大統領は、「米国が主導する」と豹変(ひょうへん)した。

削減を急ぐ欧州連合(EU)にハンドルを握られると厄介だ。

そんな思惑が、チラチラのぞく。

 鯨にのまれたのに気づかず、安穏(あんのん)と泳ぐ小魚のたとえがある。

温暖化は、地球がまるごと鯨にのまれたようなものだろう。

待ったなしの危機である。

ようやく気づいたけれど、各国の事情で対策の足並みは揃(そろ)いにくい。

 アポロの写した地球を「宇宙に漂う奇跡」と呼んだ人がいた。

その奇跡の星に間借りして、私たちも、他の生き物も暮らしている。

排出ガス削減という家賃の、これ以上の滞納は許されまい。







世界中での温暖化現象は世界の人々にとり待ったなしの現象である。温暖化現象には国境が無く

被害は地球上に覆ってくる。独りよがりの国の対策だけでは解決しない。

世界が協力して解決すべきことである。自国の繁栄だけ考える時代ではない。







宙に浮いた5千万件の年金記録のほかに、
さらに1430万件の記録漏れが明るみに出た。







平成19年6月8日の天声人語からの引用

やるべき仕事が山ほどなければ、さぼる楽しみが減ってしまう――。

英国の作家が言ったという迷文句に、苦笑したことがある。

 社会保険庁の人たちは、楽しみを味わったのだろうか。

宙に浮いた5千万件の年金記録のほかに、さらに1430万件の記録漏れが明るみに出た。

作業が膨大になるからと、コンピューターに入力もしていなかった。


入力ミスと違い、知りつつ置き去りにした印象が強い。

 コンピューターを導入するときは、「1日のキータッチは平均5000以内」といった覚書も取り交わしていた。

いまなら慣れた人が1、2時間でこなす仕事量である。

「ブラ勤」「ポカ休」「親方日の丸」。

ぬるま湯職場を象徴した古い言葉が、われ知らず口をつく。

 トップの長官には、高級官僚が就いてきた。

その入れ替わり立ち替わりぶりは、天下りの“拝命待ち”さながらだ。

天下り先を転々とし、巨額の退職金をもらって、涼しい顔の人もいる。

組織あげての体たらくに、国民の憤りはいよいよ強い。

 〈年金の代わりにストレス支給され〉と、きのうの本紙川柳欄にあった。

自民党は参院選を前に、記録の照合を1年で終えると公約した。

とはいえ作業はそれこそ膨大だ。

選挙しのぎのカラ手形ではないかと、冷ややかに見る向きもある。

 だが「綸言(りんげん)汗の如(ごと)し」、と言う。

王が口にした言葉は、汗が体に戻らないように取り消せない、という意味だ

政府は責任を持ち、社保庁には大汗をかいてもらうしかない。

光陰は矢の如し。

やるべき仕事は山ほどある。





社会保険庁の問題は目に見える矛盾で,誰もが「国のやることには間違いない」の意識を変える必要があることを喚起してくれた。

全ての国民はそれで怒っている。

企業によっては利益の為のために,厚生年金を支払わないところもある。

どのような当時に企業に対して通達があったのかは判らないが,企業の犠牲者も多くいるはずである。

そこのところが調査から抜けているように考える。

それも大企業で起きている。,現在その企業が健在ならば責任をば取らすべきである。

当時は多分社会保険庁は銀行のようにドンドンお金が貯まり使い方に困っていたと想像する。

職員の窃盗も起きたりして,それに無駄使いが輪を掛けて「掛け金」が消えていったと想像する。

貯まる一方のお金だからから仕方ないのか。

税方式でもって強制的に徴収 給付すべき方法をも考えるべきである。

昔の年金の無い時代のお年寄りはどうして生活していたのだろうか。?







心の荷を下ろせずに自殺した人が、
警察庁のまとめで昨年、
9年続けて3万人を超えた。









平成19年6月9日の天声人語からの引用


平仮名のことを「女手」とも呼ぶ。

そのせいでもないだろうが、平仮名でつづる言葉は角がとれて感じられる。

先月の朝日歌壇に、こんな作品が載った。

 〈ひらがなで なやみぜーんぶ かきだして みればたいした ことはなかった〉。

作者の有田里絵さん(30)は去年の朝日歌壇賞を受けた。


いま子育て中だ。

日々、色々な気疲れがある。

それを書き出すことで気持ちを整理するという。

少々深刻なことは平仮名で書いてみる。

心の角がとれて、軽くなってくる。


 心の荷を下ろせずに自殺した人が、警察庁のまとめで昨年、9年続けて3万人を超えた。

なかでも学生・生徒は、統計を始めた78年以降で最も多い。

遺書の多くは学校での問題に悩み、格闘した心の様をとどめていた。

 東京のある私大で新入生に聞いたら、半数が「自分は傷つきやすい」と答えたという。

柔らかい心はすぐ傷つく。

若者の特権だろうが、克服する力が弱いらしい。

小さなつまずきが絶望に結びつきかねない。

 有田さんは中学生時代、誰彼なく順ぐりに標的にするいじめに遭った。

死を思った日もあるが、悩みをノートに書くと、不思議に気分は落ち着いた

 初子を産んだ一昨年からは、小さな命をいとおしむ歌が増えた。

〈ふええんと一声泣いてまた眠る夢の中まで行けなくてごめん〉。

赤ちゃんへのメッセージを込めた歌もある。

〈人生を始めたいから生まれ出るI was bornとは言いながら〉。

悩まぬ人生はないけれど、重いものもなるべく軽く。

平仮名でつづる人生もいい。







人生悩みの無い時代はなかった。全て深刻に考えていたが今から考えれば取りとめのないことに心を煩わしている。

栄養失調になっても心は深刻ではなかった。苦しいのが当たり前だと感じていた時代であった。

でもそんな時代には二度となってもらいたくない。









救急車の出番が増え続け、
助かる命も救えない恐れがあるという








平成19年6月10日の天声人語からの引用


消防署の裏手で育ったので、「119番」には妙な親しみがある。

拡声機から流れる緊迫のやりとりに身を硬くしていると、消防車や救急車がサイレンも高らかに飛び出していく。

毎回、これぞ人助けの華だと思った。

 華が多すぎるのも考えものらしい。

救急車の出番が増え続け、助かる命も救えない恐れがあるという。

05年の全国の出動数は、10年前の1.6倍にあたる528万件。


最寄りの救急隊が出払っているなどの理由で、到着までの平均時間は6分を超えて延びつつある。

 問題は、救急車をタクシー代わりに使う行為だ。

全国に先駆け、東京消防庁が今月初めに動いた。

救急隊が現場で「緊急性なし」と判断すれば、救急車を使わずに病院に行くよう説得する試みだ。

 東京では45秒ごとに救急車が出動している。

ただの鼻血や手足の傷ならご遠慮を、となるのは当然だろう。

ただし、同意が得られなければ軽症でも運ぶ。

公共サービスの限界だ。

 自分や近親者の容体は重く見えるもので、救急隊との会話で我に返る保証はない。

動転の中で「次の人」を思いやるのが難しければ、平時から、自分なりの119番の基準を考えておくのもよかろう。

 日本の消防署が初めて救急車を備えたのは、74年前の横浜だった。

1年目の出動は213回で、市民が見物に来たそうだ(『救急の知識』朝日新聞社)。

そんな神々しさはうせたが、白い車体は今日も、か細い命の火を運ぶ公器だ。

軽率な「ちょい乗り」のために消える火もある。

その程度の想像力は持っていたい。






辺鄙な土地での病院を建てても赤字であることには真違いない。

重症患者は都会の救急病院にヘリコプターで搬送できるシステムを構築すべきことである。

これは昔から言われていてやっとそのシステムに政府が取り組もうとしている。

救急車を使う側としては,多分患者側としては病気に対する知識が無い為に切迫感があったものと考える。

結果的にはタクシー代わりになったかもしれない。

でも自衛隊に投じているお金に比較すれば微々たる物である。

現在世界中で戦争している,そしてして戦争して来たアメリカの防衛の為に邀撃ミサイルなどをわざわざ買う必要も無いだろう。

クラスター爆弾もそうだ。

日本は永久に戦争放棄して平和国家であることをば世界に宣言すべきである。

本当の自衛のためだけの軍備だけでよい。いらないものは買う必要は無い。企業や世界の軍事産業を儲けさせるだけである。

色々な不必要な軍事費をば削り,国民が安心して生活できる福祉・医療などの方面にお金を廻すべきだ。







自分の感情をひたすら押し殺して、
相手に合わせた態度と言葉で対応する。







平成19年6月12日の天声人語からの引用

 学校の先生に理不尽な文句をならべる「モンスター親」について先週書いたら、いくつか便りをいただいた。

学校ばかりでなく、いたる所に同類の横行があるらしい。

 ある薬局の薬剤師は客に処方する際、話し方が気に食わないと怒鳴られた。

心ならずわびつつ、口まで出かかる「何様ですか」をのみ込むことが、最近は増えているそうだ。

「会社万葉集」(光文社)にあった切ない歌を思い出した。

〈わたくしの正しき事は主張せず客の激しき言葉に耐へゐる 山口英子〉。

 「感情労働」という言葉を、最近、耳にすることがある。

自分の感情をひたすら押し殺して、相手に合わせた態度と言葉で対応する。

きびしい自制心を求められる仕事のことだ。

「肉体労働」「頭脳労働」に並ぶ言葉らしい。

 かつては旅客機の客室乗務員が典型とされていた。

だがここにきて、看護や介護を含むサービス業全般に、その要素が広まってきた。

身勝手がはびこり、多くの人が「堪忍袋」の酷使を強いられている。

 スーパーのレジに1日立てば「いま」が見えますよ。

そんな便りも届いた。

しかし、客として理不尽を言う人が、仕事では客に理不尽を言われる立場にいることもあろう。

そしてまた、その客も……。弱い立場の者をストレスのはけ口にする、やるせない「堂々巡り」が透けて見える。

 いまを称して「いちゃもん化社会」と呼ぶ学者もいる。

堪忍袋の緒には限度がある。

感情労働者の「燃え尽き」も心配されている。

お互いに「モンスター」にはなりたくないものだ。






世の中ストレスが満ち溢れている。国民全てが中流だといわれていた時代があった。

小泉改革でもって社会の格差が広がっている。競争原理の副作用としてプラグマチズムの欠点である

ギスギスした社会が出来上がって来ている。ストレス社会を誰かがこれを正すべきだ。







短いが、介護事業への「志」がこもる内容だ







平成19年6月13日の天声人語からの引用


19年前にコムスンを創設した榎本憲一さんは、福祉がまだ「施し」だった時代に、お年寄り本位の介護を先取りした。

03年に亡くなる前、親交のあった人に「惜別の言葉」を残している。

 「保険料という拠出で、連帯と共生によって(介護を)行うことは、日本国民の優しい英知であろう」

「介護という仕事が、人を支え励まし、誇りある人生の結実に役立つことを信じています」。

短いが、介護事業への「志」がこもる内容だ。


 コムスンを継いだ折口雅博氏は、どこで舵(かじ)を切ったのか。

その思い描く介護は「志」から離れ、いつしか「金のなる木」になっていった。

ある社員は、利用者一人ひとりを「業績」としてしか見ない幹部に幻滅し、今年退職した。

 介護もビジネスチャンスに違いない。

しかし介護報酬の不正請求などが次々に明るみに出ては、「国民の優しい英知」を罠(わな)にかけたようなものだ。

批判の中、氏の率いるグッドウィル・グループは介護事業から退場する。

 人が人を支えるのは、やはり尊いことだ。

千葉県の池下和彦さんは、ヘルパーの力も借りて認知症の母を自宅で看取(みと)り、その日々を「母の詩集」(童話屋)に編んだ。

〈たまに/ほんの数秒/母に正気の時間が与えられることがある/母は顔色を変え/訴える/

迷惑を掛けてすまないと……与えられた正気の時間を/母は感謝の言葉に充ててしまう〉。

 派遣先での感謝の言葉に、誇りを感じる介護スタッフは多いことだろう。

初志を忘れてしまった耳には、もう聞こえないのかもしれないが。







コムスンの福祉への理念の本を読んで感動したことがある。経営者が変わった。利益優先のコムスンに変貌した。

幼稚園 保育園 福祉施設など全てそうだが,幼稚園・保育園・福祉施設などへの従事者には資格がいるようにされているが

その経営者 トップに当たる人に対しては何の資格も要らない。現場の知識なくして正しい経営できるだろうか

又従業員に対して正しい指導ができるのだろうか。現場の従業員が理想に燃えていても経営方針が違えば理想はしぼむ。

以前から非常に疑問を持っていたことである。厳しい資格条件をば経営者に課すべきではないだろうか。

政治の怠慢によるものである。

医療の世界も荒廃寸前である。現場を知らない人たちによって施政が進められている。








 かつて、ウナギは特別なごちそうだった









平成19年6月14日の天声人語からの引用



作家の檀一雄が、太宰治と屋台でウナギを食べたことを回想している。

タレをつけて焼いた頭に檀がかぶりつくと、大きな釣り針に噛(か)み当たった。

 天然ものは、当時も珍しかったとみえる。

太宰は手をたたき、「人生の余徳というもんだ」と愉快がった(「檀流クッキング」)。

近ごろは深読みも必要らしい。

「針が残っているかもしれません」などと客に言いつつ、「天然」の含みをもたせる店もあるように聞く。

 相変わらずの「天然信仰」だが、たやすく口には入らない。

99.5%を占める養殖ものが日本人の腹を満たす。

その一部を担う欧州産稚魚の取引が規制される。


そんなニュースが先日届いた。

欧州の稚魚は中国で育てられ、「中国産」と表示されて日本の食卓にのぼっている。

 かつて、ウナギは特別なごちそうだった。

それが、いつしかお手頃になっていった。

並行して欧州では稚魚が激減する。

80年代の1〜5%というから深刻だ。

今度の規制は、野生動植物を保護するワシントン条約の対象になったからである。

 古くからウナギは夏やせの妙薬とされてきた。

〈恋痩(やせ)に鰻さかせる筋ちがい〉と、戯れ歌も残る。

江戸時代には食通を夢中にさせ、相撲よろしく、かば焼き屋の番付表も作られた。

そしていま、世界の需要の7割を胃袋に収めるウナギ大国である。

 幸いというか、中国の養殖池では、これまでに輸入した稚魚が育っている。

すぐに値が上がることはないという。

とはいえ、香ばしい煙も少々気になる「土用の丑(うし)の日」にはなりそうだ






ウナギは昔からは日本人にとってご馳走だった。中国などの外国産が輸入されるようになり大衆化されてきた。

だが安いだけではないらしい。抗菌剤が検出されているとの報道もある。








「いよいよ英語を話さなくてはならない」





平成19年6月15日の天声人語からの引用


行動派で知られる作家の小田実さんは、50年代に、船で米国へ留学した。

途中、初めての外国であるハワイを踏んだ。

「いよいよ英語を話さなくてはならない」。

武者震いを覚えたと、著書「何でも見てやろう」で回想している。

 今は手軽になったとはいえ、「留学」の言葉にはなお、遠くの空を仰ぐようなあこがれがこもる。

淡い憧憬(しょうけい)に、身近な「駅前」を重ねたキャッチコピーは、名案だった。

「駅前留学のNOVA」として、たちまち英会話学校の最大手に上り詰めた。

 その最大手が不正の山を築き、経済産業省から業務の一部停止を命じられた。

勧誘の際に「入学金が無料」などとうそを言った。

受講の予約が取りにくいのに、いつでも取れるかのように説明した……。

法律に反する行為は18種類におよぶ。

 ここ数年は急速に教室を増やしてきた。

なのに講師は減らしていた。

解約に応じないといったトラブルが多発しては、英語力を高めたいという受講者の向上心を、食い物にしていたようなものだ。

 英語は戦時中、敵性語として追放された。

だが敗戦のわずか1カ月後には「日米会話手帳」が出版される。

人々は飛びつき、空前のベストセラーになった。

以来、英語ブームの波は寄せては返し、その何度目かをとらえてNOVAは成長した。

 英語不如意で渡米した小田さんの信条は、磊落(らいらく)に「まあなんとかなるやろ」だった。

猿橋(さはし)望社長は低頭し、「誠意を持って対処する」と言う。

「なんとかなるやろ」と姑息(こそく)にかわすような対応は、受講者が許すまい。





NOVAの「お試しレッスン」に一度通ったことがある。そんなに悪くは無いが高価なのでやめたことがある。

利益優先 効率化を進めた結果のなれの果ての現象である。

改革・改革といわれた小泉改革の結果が至る所に露呈しだしてきている。

大企業は世界競争に勝ち抜くために保護され,庶民だけが競争の波にさらされている。

競争原理が導入されてのことである。勝つまでは我慢の政治が行われている。








生き物なら、ナメクジあたりが筆頭だろう。







平成19年6月16日の天声人語からの引用


例年より遅れながら、梅雨前線が北上してきた。

「梅雨入りお見舞い申し上げます」と、新聞に広告が載っていた。

さわやかな気分からは遠い。

けれど、煙る雨の奥に、盛んな生命の営みを感じる季節でもある。

 湿気の中から生じるものには「嫌われ者」が多い。

〈梅雨茸(つゆだけ)の咎(とが)あるごとく踏まれけり 田村コト〉。

いまごろのキノコを、俳句では総じて梅雨茸と呼ぶ。

生き物なら、ナメクジあたりが筆頭だろう。

昭和の名人、落語家の五代目古今亭志ん生の半生記「なめくじ艦隊」を思い起こす。

 志ん生一家が5人で暮らす貧乏長屋には、大小のナメクジが艦隊よろしく押し寄せた。

塩をまいても参らない。

夜になるとピシッ、ピシッと鳴いて、大きいヤツがカミさんの足の裏に吸い付いたというから、すさまじい。

毎朝、炭入れにいっぱい取って川にうっちゃっていたそうだ。

 〈滑らかに生き居ることを憎しとし蛞蝓(なめくじ)は女に塩まかれたる 斎藤史〉。

呼び名の「ナメ」は滑らかという意味だが、「クジ」には定説がないと聞く。

水回りに出没しては主婦の不興を買ったが、都会ではもう目にすることはまれだ。

 この時期には、鉢植えの下に潜んでいることが多い。

夜になると艦隊を組んで出撃し、柔らかい芽を食べてしまう。

植物の葉に銀色の「航跡」を見つけたら、園芸好きな人は要注意である。

 どうにも敵が多いけれど、やさしい目を向ける人もいる。

〈なめくぢも夕映えてをり葱(ねぎ)の先 飴山實〉。

なべて生き物に命あり。

雨も光も、へだてなく万物に降り注ぐ。






梅雨はナメクジの天国でもあるが,最近はナメクジを見なくなってきている。

同じように小川にはメダカも見ない。どうしてだろうか。

自然に目をそそがなくなった自分自身のせいによるものか,農薬などの影響によるものだろうか。







50回目となる世界報道写真展がきのう、
東京都写真美術館で始まった







平成19年6月17日の天声人語からの引用


サッカー仏代表のジダンは、ワールド杯決勝でイタリア選手に頭突きし、退場になった。

その瞬間を腕の汗まで鮮明にとらえた写真がある。

動画では「物語」に埋もれていた細部を、止まった時が見せてくれる。

ジダンは右手を握りしめ、目を閉じている。

 50回目となる世界報道写真展がきのう、東京都写真美術館で始まった(8月5日まで)。

「ジダンの退場」など、06年にメディアをにぎわせた素材が、時を止めて並ぶ。

 約8万点から選ばれた大賞は、紛争の中の日常を切り取った一枚。

イスラエル軍に爆撃されたベイルート市街を、赤いオープンカーで走り抜けるレバノンの若者たちだ。

この赤い車は数秒、頭突きは1秒の出来事だった。

報道写真は偶然に左右される。

 46年前の同じ写真展で大賞をとり、日本人初のピュリツァー賞に輝いた作品もそうだった。

60年10月12日午後3時4分、日比谷公会堂で撮られた「右翼少年に刺殺される浅沼社会党委員長」だ。

 毎日新聞の長尾靖さんが戦後史の瞬間を刻めたのは、ずぼらの功用だという(沢木耕太郎『テロルの決算』)。

報道陣の多くは、浅沼の演説をやじる客席左側の右翼を気にしていたが、

長尾さんは舞台下の記者席を動かず、右手から駆け上がった少年を新型カメラで追えた。

最後の一コマだった。

 優れた報道写真は時に、動画より多弁になる。

前に起きていたこと、後に起きたであろうこと、

裏に隠されていることまで考えさせる力があるからだ。

無論、強運を絵に残せる腕と機材があっての話である。






報道写真は絵画と同じように想像をたくましくする様相がある。そして真実て゜見る人の心に直接訴えるところがある。

だがライフという写真雑誌は消えてしまった。テレビが普及して動く映像がより強烈な印象を残すので

写真はその遅れとってしまっているのかもしれないと考えたりする。

だが「優れた報道写真は時に、動画より多弁になる」とある

いつもはデジカメはポケットに持ち歩いている。感動したものを残したいからである。








鎌倉を歩いてきた







平成19年6月18日の天声人語からの引用


梅雨が本物になる前に、鎌倉を歩いてきた。

青空を惜しむ人で大層なにぎわいだ。

JR北鎌倉駅から明月院に向かう。

あじさい寺は各地にあるが、ここの境内は日本古来種のヒメアジサイが薄青に染める。

牛歩の列から「人が多すぎる」と声がもれた。

 その先の建長寺は五山一位の禅院。

くぐれば心が清まるとする三門の下で、子どもたちが休息している。

誰にもそれと分かるウグイスの声を乗せて、初夏の風が一陣、方丈を抜けた。

 若宮大路を東に折れ、妙法寺に足を延ばす。

名高い、苔(こけ)むす石段。

深緑の重なりの上で、昼下がりの木漏れ日が遊んでいる。

散策路に人影はなく、わびもさびも独り占めである。

歩けば歩いただけのことはある。

 四季を愛(め)で、歴史や仏教を知り、静寂に浸る。

老いも若きも、鎌倉の味わい方は人それぞれだ。

明月院、建長寺、妙法寺とも拝観料は300円。


それで得られる満足のほどは、何を見に来たかにもよろう。

 鎌倉市や神奈川県は3年後を目標に、この地をユネスコの世界遺産にすべく事を進めている。

このうえ鎌倉に能書きが必要なのかと問えば、歴史と緑を守るためだという。

例えば、行政指導に頼る建物の高さ制限(15メートル)を、きっちりルール化しやすいそうだ。

 すでに世界遺産に登録された京都や奈良との違いとして、鎌倉は武家の文化を強調する。


サムライ、ショウグンの源流である。

ただし、いびつに国際化し、拝観料が高いだけのカマクラになるくらいなら、「世界」の看板は無用だ。

武士は食わねど高楊枝(ようじ)でいい。






京都 奈良の神社仏閣 名所にはいつも歩いて観ているが,鎌倉は遠い。一度も訪れたことは無い。

東京在住の人たちにとっては古都は鎌倉になるのかもしれない。

古都に囲まれた所に住んでいる者として当たり前のことが,当たり前でないことに感謝しなければならない。






木々があるとないとでは
毎朝の趣は随分違うだろう。





平成19年6月19日の天声人語からの引用

 わが家から駅への途中、歩道に沿ってケヤキの大木が9本並んでいる。

目測だが背丈は20メートルを超す。

いまの季節、緑の枝を存分に広げて、威風堂々たるものだ。

木々があるとないとでは、毎朝の趣は随分違うだろう。

 そう思ったのは、杜(もり)の都・仙台市が、ケヤキの処遇をめぐって紛糾していると聞いたからだ。

青葉通のケヤキ並木といえば街のシンボルである。


223本あるうち50本が、地下鉄駅の新設のために撤去される。

これを伐採するか、よそに移植するかで市民の意見が割れている。

 伐採なら1本60万円だが、移植だと320万円かかる。

親しみ深い樹木でも、5倍以上となれば考え込む人は多いのだろう。

先日、市民1万人にアンケートをしたら、回答者の半数強が伐採を支持した。

「非常に悩ましい」と移植派の市長は困惑しているそうだ。

 岐阜県の「荘川桜(しょうかわざくら)」を思い起こす。

60年代初め、御母衣(みぼろ)ダムの建設で水没する村に、2本の桜の巨樹があった。

それを40日がかりの移植で救った。

いま、村の記念樹のようにダムのほとりで毎春花を咲かせる。

 難事を決行したのは、電源開発の初代総裁だった高碕達之助である。

そのときの心情を「この巨樹が……青い湖底に、さみしく揺らいでいる姿がはっきり見えた」と述べている。

 地方の財政はどこも厳しい。

「感傷」に予算を割く余裕などないのかもしれない。

だが50本のケヤキを救う物語は、杜の都なればこそ、語り継がれる市民の財産になるようにも思う。

仙台市は、秋までには結論を出すそうだ。





若い頃に仙台に短期逗留したことがあるが,:ケヤキ並木は記憶には無い。仙台城の伊達政宗の銅像 小さくても古い大松八幡神宮

当時の市電, 足を伸ばし観光しての風光明媚な松島などか思い出される。

大木が見られるところには古い神社か寺院がある。都会化した町にとって大木は都会のオアシスである








一向につながらない社会保険庁の電話は、
どれほどの不満を国民にもたらしただろう





平成19年6月20日の天声人語からの引用


大手時計メーカーの調査によれば、仕事の電話を保留にされて、気持ちよく待てるのは「30秒以内」らしい。

それを過ぎるとイライラする。

保留どころか一向につながらない社会保険庁の電話は、どれほどの不満を国民にもたらしただろう。

 それも一因かどうか。

本社の世論調査で安倍首相には厳しい結果が出た。

「最後の一人に至るまでチェックし、年金はすべてお支払いする」。

首相のこの発言を「信用できない」という人は67%を占め、「信用できる」の25%を大きく引き離した。

 「言葉は翼を持つが、思うところには飛ばない」。

英国の作家ジョージ・エリオットの至言は、首相の身にしみるだろう。

不安を一掃すべく繰り出した決意表明だが、国民の胸には届いていなかったようだ。

 内閣の不支持率も51%と、初めて5割を超えた。

参院選への暗雲と見てとれる数字である。


憲法や教育など、理念の高みを仰ぎ見るうちに足をすくわれた形だ。

一転して年金対決となった土俵から、「記録照合は1年」「責任を徹底的に調べる」……と首相の大声が飛ぶ。

 待たされればいら立つが、時の流れは早いものだ。

時のもたらす忘却を、荷物をまとめて去っていくサーカスに例えた人がいる。

責任をめぐって、自民党内には早くも「選挙が終われば『何のこと?』になる」とタカをくくる声があると聞く。

 選挙が済めば、サーカスの人波が引くように幕、とは問屋が卸すまい。

国民に約束した言葉である。

あらぬ翼が生えてどこかに消えることなど、ないとは思うが。








社会保険庁での不始末を安部総理は行政に在るも,それに従事していた職員が悪いと

さらに初めのころには民主党の管代表の頃に始まっていたと逃げようとする姿勢が醜い。

国民に納得するような解決をするのが国の最高責任者の取る道である。

勿論政権交代があればその政権が全ての責任を負って遂行すべきことである。

逃げるとは最高責任者としてふさわしくない態度である。








娯楽やマッサージを備えた
「都市型温泉」が急増している。
 その一つで惨事が起きた。








平成19年6月21日の天声人語からの引用


日本の地図を眺めてみる。

無味乾燥な記号が多い中で、温泉の●だけは味わい深い。

地図上、山峡などにこの記号を見つけると、ランプの宿のひなびた風情が思い浮かんだりする。

 ビルの密集する姿からは想像しにくいけれど、東京にも温泉はある。

深く掘りさえすれば湧(わ)くらしい。


名うてのストレス都市である。

癒やしを求める人は多いとみえ、娯楽やマッサージを備えた「都市型温泉」が急増している。

 その一つで惨事が起きた。

従業員休憩室などのあった施設が、ごう音とともに爆発した。

温泉水に含まれていた天然ガスが充満して引火したらしい。


女性3人が犠牲になった。

冥福を祈りつつ、入浴客のいる建物だったらと思うと、背筋はさらに冷たくなる。

 湯けむりの中に日常を沈めるのが、温泉の醍醐味(だいごみ)だろう。

温泉好きで知られるドイツ文学者の池内紀さんは、それを「再生のいとなみ」だと言う。

湯につかって、よみがえる。

そう実感するには、温泉物質がほどよく溶けた素朴な湯でなくてはならないそうだ。

 事故のあった温泉では、地下1500メートルから温泉水をくみ上げていた。

あまりの深さに、SF小説の古典『地底旅行』を思い出す。

物語ではアイスランドの火山に地球内部への道があった。

当節は東京の各所が「地底」とつながっている。

そこから危険なガスも上がってくる。

 首まで湯につかれば体重は約9分の1になるという。

疲れも憂いも忘れられるリフレッシュの場だ。

安全への備えに怠りのない、やすらげる●であってほしい。

 ●は温泉マーク




インターネットで住所を入れると地図にその場所が瞬時に示されて航空写真でも見ることができる。

何度か試みてみて,知らない土地を上空から見えるとはこれは面白いと世の中も便利になったと思う。

検索で温泉名を入れるとその情報は一度に沢山提供してくれるようになっている。





基地を通じて、沖縄はいくつもの戦争にかかわってきた







平成19年6月22日の天声人語からの引用

 沖縄はきのう梅雨明けの空が広がった。

その空へ向けて、米軍嘉手納基地から訓練の戦闘機が盛んに飛び立つ。

基地を見渡せる、通称「安保の見える丘」に立つと、ごう音で空気が震えていた。

 朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争……。

基地を通じて、沖縄はいくつもの戦争にかかわってきた。


憲法9条に庇護(ひご)された本土とは異なる戦後を、島は生きてきた。

目下のイラク戦争でも、兵員や兵器が、ここから戦場へ向かっている。

 「基地の島」の象徴が嘉手納である。

先月、周囲17.5キロを手をつないで包囲し、平和を訴える「人間の鎖」があった。

だが参加者が3キロ分ほど足りず、鎖は途切れた。

80年代から4度目だが、初めてのことという。

「平和への思いが薄れたのか」と、多くが落胆したそうだ。

 太平洋戦争の末期、沖縄は本土を守る「捨て石」になった

戦争が終わると、今度は米国の世界戦略の「要石(かなめいし)」とされた。

沖縄生まれの詩人、山之口貘(ばく)は、虐げられる島を悲しんだ。

〈戦禍の惨劇から立ち上り/傷だらけの肉体を引きずって/どうやら沖縄が生き延びたところは/不沈母艦沖縄だ……〉。

 沖縄県の面積は国土の1%に満たない。

そこに国内の米軍専用施設の75%がひしめく光景は異様だ。

「基地の中に沖縄がある」状況は、本土復帰から35年たっても変わらない。

 失業率は全国平均の2倍近く、とりわけ若い世代を苦しめている。

平和を願いつつも、基地の経済的恩恵に頼らざるをえない。

相克の中で、沖縄はあす62回目の「慰霊の日」を迎える。







沖縄の歴史には何故とおもうような悲惨な歴史が刻まれている。

過去は戻すことはできない。再び悪魔のような経験をしないように監視してゆくべきである。

台風も必ず沖縄を通ることが多い。でも戦争は自然現象では決して無いことだけを心に刻むべきだ。








きょうは沖縄にとって、重い一日である






平成19年6月23日の天声人語からの引用

 沖縄戦の激戦地となった本島南端に、20万人余の死者の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」がある。

青い海へまっすぐ伸びる中央の園路に立つと、円錐(えんすい)のモニュメントが見える。

その突端から、「慰霊の日」である6月23日の太陽は昇ってくる。

 この日の太陽が沈む方位に向けて、宜野湾市にある佐喜真美術館が立っている。

屋上のコンクリート壁に20センチ四方ほどの「窓」が開けてある。

そこへ、東シナ海に没する夕日が正面から差し込む設計だ。

きょうは沖縄にとって、重い一日である。

 美術館にはいま、約400人もの、おじい、おばあの顔写真が張り巡らされている。

沖縄の方言である「島クトゥバ(言葉)」で、悲惨な地上戦の証言を残したお年寄りたちだ。

 証言する姿を、字幕つきの映像で見ることもできる。

弾雨の中の逃避行、累々たる死者、集団自決……。

つらい回想である。


だが使い慣れた島の言葉で話すと、心を許し、表情まで豊かになるようだ。

伝えたいという「熱」が、画面から感じられる。

 写真も映像も、地元の写真家比嘉豊光さん(57)が手がけてきた。

80代や90代なら、伝聞ではなく体験をじかに語れる。

残り時間と競争しながら、とにかく、とりあえず聞いてきた。

「一人の声はか細くても、集まれば確固とした全体像が見えてくる」という。

 比嘉さんだけではない。

多くの研究者や志ある人々が、「沖縄戦の実相」を営々と積み上げてきた。

悲惨な歴史から見えてくる教訓は何か。


沖縄の重い一日を沖縄だけのものとせず、考えをめぐらせたい。







沖縄も日本本土である。戦艦大和が特攻艦として派遣されていて何故に何のために抵抗したのか。

そして次に広島 長崎の原爆の投下が続いている。

神が戦争を指揮したとは思えない。

今の内閣と同じような人たちによって指揮されていたと考える。

再び同じ過ちを起さないように真の指導者の責任は徹底的に洗い出し原因究明すべきことである。








北海道の食肉業者が豚肉入りの「牛ミンチ」を出荷し、
全国の生協で冷凍の「牛肉コロッケ」として売られていた。








平成19年6月24日の天声人語からの引用

肥満の大敵だが、揚げ物はうまいから困る。

熱した油をくぐらせるだけで、食材は滋味を増す。

タマネギに優しい甘さが満ちる様子などは神秘的だ。

自作となると意外に難しいのがコロッケで、具の水気、パン粉のつき、油温のどれを間違えても衣が破れる。

 北海道の食肉業者が豚肉入りの「牛ミンチ」を出荷し、全国の生協で冷凍の「牛肉コロッケ」として売られていた。

牛肉の赤みを出すため、内臓や血液も混ぜたという。


産地や鮮度の偽りなど、疑惑が次々と解凍されている。

 「混ぜれば分からない」(社長)の読み通り、偽ミンチ入りのコロッケはなかなかの人気だったという。

たいていのものをうまくする揚げ衣の中の、ジャガイモに紛れた肉片だ。

ソースもついたホクホクを口にして、なお「豚じゃないか」と見破れる舌は多くない。

 店頭から撤収された冷凍食品の袋には「牛肉」の文字が「コロッケ」の何倍もの大きさで表示されていた。

偽ミンチは、そんな日本人の牛肉信仰につけ込む悪知恵でもある。

 牛は豚より上という肉の序列は、簡単に揺るがない。

豚肉などを混ぜることは「安くする工夫」(社長)だった。

記者会見で言い逃れが尽きたら、身もふたもないことを言う。

これでは、ささやかなぜいたくも興ざめだ。

豚肉を禁忌とする宗教があることも忘れてはいけない。

 この醜聞に救いがあるとすれば、豚肉を混ぜた人たちの告発が、「企業秘密」の厚いコロモを内から破ったことだ。

人の良心や正義感を侮るなかれ。

どちらも舌ほど甘くない。





中国ではダンボール入りのミンチのコロッケの報道がされていた。

判らなければ何をしてもよいことにはならない。豚と牛とは違う。

改革による営利追求の結果であるならば悲しい改革である。








「手元供養」の商品群を見た




平成19年6月25日の天声人語からの引用

欧州に住んでいた女性の話である。

6年前の夏、日本の母親が信号無視の車にはねられ、急死した。

一番早い飛行機と新幹線で帰郷し、スーツケースを引きずって斎場に駆け込むと、火葬が始まっていた。

後日、実家の洗面所で母を見つけ、そっとティッシュにくるむ。

ブラシの毛髪だ。

 横浜市で開かれた葬祭見本市で、「手元供養」の商品群を見た。

たとえば、遺骨や遺髪から合成するダイヤモンドは、炭素の結合力を故人とのきずなに見立てる。


遺骨と石の原料を溶かして飾りにする業者は、工程を遺族に見せるという。

 「愛する人たちとの死別に比べれば、他のことはいずれも、人生で取るに足らない」。

物理学者の米沢富美子さんは『二人で紡いだ物語』(朝日文庫)で、夫との別れをこう書いた。

 風になると思えば、いくらかは安らぐ。

でも、「人の世の悲しみをよそに、自然は容赦なく営みを継続し、春がゆき、夏が来ようとしている」(同書)という心境になれば、

愛する人の「かたち」を欲することもあろう。

 日本の死者は03年に年100万人を超え、葬祭関連の市場も膨らんでいる。

一方で、介護や医療の負担もあって、葬儀1件あたりの出費は減る傾向という。

都会では、お墓や仏壇が縁遠くなりつつある。

 死者をしのぶ行為は本来、すぐれて個人の心の問題だ。

しきたりや世間体を離れ、簡素でも自分に正直に、気が済むようにすればいいとも思う。

私事にわたるが、冒頭の話は今回、手元供養をめぐるやりとりの中で、妻から初めて聞かされた。





此処までする必要も無い。全ては無常である。








ストレスの多い職場では「のむ」「うつ」「かう」が
はやると聞いたことがある。









平成19年6月26日の天声人語からの引用

 ストレスの多い職場では「のむ」「うつ」「かう」がはやると聞いたことがある。

昔ながらの三拍子ではない。

当節、「のむ」のは胃腸薬や胃カメラ、「うつ」は博打(ばくち)ではなく「うつ病」なのだそうだ。

 「かう」のは宝くじである。「当たったら辞めてやる」。

晴ればれと辞表を差し出す我が姿を、誰でも一度ぐらいは夢見たことがあろう。

だが、まずは当たらないから、幸か不幸か今日のレールは明日も続く。

 うらやましい6億円の大当たりが、それも2本、スポーツ振興くじ(サッカーくじ)で出た。

日本のくじ史上で、最高の額という。

Jリーグ14試合の勝ち負けが、すべて的中した。

確率は約480万分の1というから、針の穴を通り抜けたようなものだ。

 老婆心ながら、在米中の取材を思い出す。

くじで当時米史上最高の3億ドル余(約370億円)を当てた男性がいた。

満面の笑みが報じられた何カ月か後、風俗クラブで泥酔して約3000万円を盗まれ、再びニュースになった。

 生活が一変したらしい。

「大金を持ち歩き、歓楽やギャンブルに入りびたり」と警察はあきれ顔。

仏の詩人コクトーの皮肉、「金持ちになった貧乏人は、贅沢(ぜいたく)な貧しさをひけらかすだろう」(「恐るべき子供たち」)が頭をよぎったものだ。

 人の幸運を「禍福はあざなえる縄」と見るのは、運つたなき者のひがみか。

濡れ手で粟を夢見て筆者も年に何度か買う。

だが、これまでの当選金は最高で3000円である。

身を持ち崩すような「幸運」に巡り合ったことは、幸か不幸かない。






飲む打つ買うは昔から悪の道楽として称されてきたが

現在ののむ うつ かうは悲しい現実である。







日本で初めてボーナスを出したのは、
三菱の創始者岩崎弥太郎だったという








平成19年6月27日の天声人語からの引用


伝わるところでは、日本で初めてボーナスを出したのは、三菱の創始者岩崎弥太郎だったという。

三菱史料館によれば、明治9年、英国の船会社と上海航路の覇を競い、勝って相手を撤退させた。

 弥太郎は喜んだ。

「社中各員別(わ)けて勤勉事務を担任し其(そ)の功績を見ること少なからず」。

幹部から給仕まで、給料のほぼ1カ月分にあたる報奨金を奮発したそうだ。

ボーナスは働きに報いて支給されたものだった。


 「勤勉事務」とは縁遠かった社会保険庁が、全職員にボーナスの自主返納を求めることになった。

幹部から末端までを対象とし、退職者にも応分の「寄付」を求めるという。

安倍首相や柳沢厚労相も率先して返納する。

官邸主導による、政官あげての「総ざんげ」の趣だ。

 「当然だ」と言う人、「まだ甘い」と収まらない人、さまざまだろう。

だが、国民の不満をそらす演出を感じる人も、少なくないのではないか。

参院選は1カ月の後に迫っている。


 総ざんげの元祖といえば、終戦直後の「一億総ざんげ」である。

その正体を、「緊急の場面に直面した支配層の放ったイカの墨」と突いたのは政治学者の丸山真男だった。

今度のざんげも選挙前の目くらましではないのか。

いぶかる声も聞こえてくる。

 弥太郎は、英国会社との競争の際、経費節減のために自らの報酬を半分にした。

社員もならって3分の1を返上したという。

目的のある返納なら張り合いもあろう。

だがイカの墨となってやがて消えるなら、国民にも職員にも、残るのはむなしさだけである。







ボ-ナス返上しても国民の心を打たない。二度と再び過ちを犯さないことである。

同じように歴代の内閣がボ-ナス返上しても過ちを繰り返していれば何もならないことである。

議員を見ていると悪いことするような感じの人たちが議員になれるように思えてきて仕方がない。








人が樹木に寄せる愛着のほどを、





平成19年6月28日の天声人語からの引用


 しばらく前のことだが、NHKの「みんなのうた」で『ねっこ君』という愉快な曲が流れていた。

地中で踏ん張って大木を支える根っこの歌だ。

切ってしまえば、桃栗3年柿8年、木がまた育つには長い時間がかかります――。

掛け合いの歌声を面白く聞いた。

 思い出したのは、仙台のケヤキ並木の「処遇」について先日書いたら、多くの便りをいただいたからだ。

「切らずに残して」がほとんどだった。

人が樹木に寄せる愛着のほどを、あらためて思った。

 その割には、ほうぼうで簡単に切られることが多い。

開発ばかりではない。


近ごろは、薄暗い、目が届かないといった防犯上の理由で、公園や校庭の木が切られている。

 『私たちは本当に自然が好きか』。

問いかけをそのまま題名にした本を、塚本正司さんが著した(鹿島出版会)。

住宅地の計画に長く携(たずさ)わった人で、冷遇される木々に心を痛めてきた。

新緑、万緑と愛(め)でられる。

その一方で、落ち葉が邪魔、虫が多い、など人の都合で厄介者にされてきたからだ。

 桜に生涯をささげ、岐阜の荘川(しょうかわ)桜の移植を手がけた故・笹部新太郎も、樹木の生命を軽んじる人間の身勝手を憤った。

植物は動物と違い、死ぬのと殺されることに区別を付けにくい。

「木を殺す意味の漢字を一字だけ作ってほしい」と、たぎるような言葉を残している。

塚本さんの思いにも通じるものがあろう。

 『ねっこ君』の歌には、近ごろ森が少なくなったと嘆くモグラが登場する。

一本の木に育まれる生命の多彩さにも思いをめぐらせたい。







切られた 自然に倒れた樹木は再び戻らない。開発と称して樹木の伐採が続いている。

考え計画的に行って欲しいものである。

今も神社には神木としてシメナワが張られ礼拝している大樹を見かけることがある。







エジプトで確認されたハトシェプスト女王,
紀元前15世紀に栄華を極めたという女帝である








平成19年6月29日の天声人語からの引用


大正の流行作家、田村俊子の代表作に「木乃伊(みいら)の口紅」がある。

一人の女性が夢で、唇に鮮やかな紅をさしたミイラを見る話だ。

言われてみればミイラは、冷徹な「死」の中にも「生」を引きとめて離さない、不思議な表情を持っている。

 エジプトで確認されたハトシェプスト女王のそれも、幽明の境に漂うような、生の名残を宿している。

紀元前15世紀に栄華を極めたという女帝である。


「ツタンカーメン王以来の重要な発見」と考古学界は興奮気味らしい。

 ツタンカーメンの墓を1922年に発見した英国の考古学者カーターらが、それより前の03年に発見していた。

だが誰だかわからず、1世紀余を身元不明で過ごしてきた。

DNA鑑定の進歩によって素性が明らかになった。

 「この光景を前にしては、人間のはかない命を基準にした時間など展望を失ってしまう」。

ツタンカーメンの棺を開けたカーターの回想である。

古代エジプト人は霊魂の不滅を強く願った。

その宿る所として、肉体にも永遠を与えようとした。

 カンヌ国際映画祭で受賞した河瀬直美監督の「殯(もがり)の森」を思い起こす。

殯とは、死者の本葬前に霊の復活を願いつつ鎮める、古代日本の風習だった。

河瀬さんは、殯という「死者と生者の間にある結び目のような時空」を、深い森に求めて、現代の物語を撮った。

 女王は3500年のあいだ霊魂を待ち続け、死者として存在してきた。それ自体が「結び目」のようなものだろう。

荘厳さの漂う面ざしには口紅よりも、王冠の方が似合うようである。






エジプトは日本と比較して化け物のような国である。紀元前15世紀とは驚きである。

日本は縄文時代 そのときに既に文明がエジプトには有った。

霊魂不滅の説は誰もは今の科学をもってしてもどちらとも証明できない。








亡くなった宮沢喜一さんが






平成19年6月30日の天声人語からの引用


亡くなった宮沢喜一さんが、日米学生会議の一員として初めて渡米したのは昭和14年だった。

日中戦争のさなか、日米の空気は険悪の一途である。

往路の船中、日本の立場を弁護しようと、仲間と盛んに意思統一をはかった。

 会議に臨むと、向こうの学生は思い思いに意見を述べた。

日本を悪く言う者もいるが、自国を批判する者も随分いる。


「言論の自由というのはこれか」。

知米派で聞こえた元首相の、原風景になった。

 そうした体験をへて身についた「冷静な合理主義」が、政治家としての持ち味になり、弱みにもなる。

期待株と目されながら、初入閣から首相就任までに29年かかった

田中角栄氏ら親分肌のボスに疎まれたためである。

「泥田をはいずり回れない」といった陰口もついてまわった。

 首相時代、指導力に疑問符がついたこともある。

だがハト派の象徴としての存在感は、最後まで揺るがなかった。

自衛隊のイラク派遣に反対し、憲法9条の改正には慎重であり続けた。

 〈どの論理も〈戦後〉を生きて肉厚き故しずかなる党をあなどる 岡井隆〉。

ふと胸をよぎるのは、この歌だ。

宮沢さんのような「しずかなる民主主義者」をあなどる、粗っぽい空気が、いまの政界を覆ってはいないだろうか。

 「総理大臣が刀を抜いて、『進め、進め!』なんていうのは戦国ドラマの見過ぎ」と、宮沢さんは言っていた。

民主主義は、ときに遅々としてじれったいものだ。

初入閣から1年で首相の座に就いた現職には、その辺の理解がないのかもしれない。






宮沢喜一さんはリベラル派の筆頭で良識派と理解している。今の自民党にはこのような人たちが少なくなっているのを嘆く。

大蔵大臣を何度か勤めておられるが首相になった年月は少ない。

このような人が自民党にいなくなれば自民党ももうおしまいである。








清和天皇と貞観寺





清和天皇の時代.貞観寺は山城国紀伊郡深草(:現在の京都市伏見区深草の地)に嘉祥三年(850)に仁明天皇が崩じ

山陵の側に始め嘉祥寺が建てられ,その西院が後に貞観四年(862)に独立して貞観寺と改められた。

人臣として初ての摂政になった藤原良房が娘明子(文徳天皇妃)の産んだ惟仁親王(後の清和天皇)を加護するために空海の弟子真雅と図って

建立されている。現在は,仁明天皇の御陵,それに嘉祥寺・貞観寺跡なども深草の地にあるが,

その正確な場所については近くにあることだけは判るが正確な場所は判っていない。

:現在,京都深草の土地の人たちでも貞観寺(じょうがんじ)が深草に在った寺院だと知っている人は少ない。

貞観寺は定額寺で格式があって真言宗血脈集には歴代の座主が記載されている。

かなり広い伽藍をば維持していたことは想像できる。

記録によると観音堂 南堂・念誦堂・五大堂・経蔵・鐘楼・南大門等が建立されていたようで広大な伽藍をほこっていたようである。

初代座主には弘法大師の弟の真雅がなっている。

伽藍の規模は少し後に建てられた仁和寺が御室において仁和二年(886)光孝天皇の御願寺として出発し,最初の門跡寺院とされて建てらたが

同三年に光孝天皇が亡くなり,宇多天皇によって仁和三年(887)に仁和寺が完成した。貞観寺  仁和寺ともに年号が寺院名となっている。

仁和寺は貞観寺の約25年後に建てられたことになる。仁和寺は現存しているので大体の規模や伽藍配置はわかっている。

昌泰二年(899)iに宇多天皇は譲位して寛平法皇といわれ当寺で出家している。

東寺第一長者益信より戒を受けて,仁和寺の第一世(法名空理)となっている。同年に法皇は寺内に室(むろ)を設けて法務の在所とした。

室とは僧坊を意味している。尊称として御室といった。その後この一帯を御室と称している。

仁和寺の二世には三条天皇第四皇子親明親王で寛仁二年(1018)のことである。

貞観寺の伽藍の様子が判る資料として文安二年(1445)頃の伏見近辺を示す古図(田中勘兵衛氏所蔵)をみると貞観寺などが示されている。

僧坊町 それに 筋違橋通りの東の辺に内垣外の地名があり,古図では七瀬川の南側 大和大路の西側 藤森神社の東北に当たる場所に

貞観寺が記載されている。

僧坊町には現在も醍醐寺の創立者である理源大師聖宝を埋葬した塚が存在している。聖宝は貞観寺の子院である普明寺で亡くなった。

現在の大岩街道は奈良時代以前からの古道であるが,その道筋とは少しはずれている東伊達町,西伊達町町辺りに貞観寺の南大門が在り

立派な伽藍をもった寺院であったことは,古図からも現在の仁和寺からも推察できる。

貞観寺,仁和寺ともに空海と関係した真言宗である。

清和天皇は貞観寺の第一世座主だった真雅には師事せずに空海の孫弟子にあたる禅林寺の第三世宗叡に師事して受戒している。

禅林寺の隣に円覚寺を建て,出家後山林寺院を歴訪して最後は丹波の水尾で,そこの土地が気に入って

終いの住処と考え寺院を建立途中に病に倒れ,粟田口の円覚寺に移り,亡くなった。

今,円覚寺は水尾に移り,貞観寺の仏像があるというが,一度訪問してみたいと考えているが,山奥で遠くて実現するにいたっていない。

清和天皇は天安二年(858)に即位が9歳の時で,藤原良房が摂政となっている。

 元服は貞観6年(864) 17歳時で,基経の妹高子を妃に迎えている。貞観10年19歳の時に貞明親王後の陽成天皇が生まれて

27歳の時の貞観18年(876)に譲位し元慶3年(879)に出家し元慶4年(880)30歳で亡くなる。

師事した禅林寺の宗叡は禅林寺開祖の真紹の弟子で,真紹は実恵の弟子にあたる。

実恵は貞観寺の東に在った檜尾寺に住んでいて,檜尾僧都とも称されていて,空海の一番弟子で,東寺の二代目長者になった人である。

清和天皇の第6皇子の貞純親王が後の清和源氏の祖となる。又同じく宇多天皇の子の敦実親王は宇多源氏の祖となる。

清和天皇の御陵は丹波の水尾の山奥に在る。

近江源氏は宇多源氏からの出である。系図の始めは全て天皇家から始まっているようになってい.る。

昔,武士が仕官する時には必ず系図が必要だった。




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