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随想
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どうっと吹いた風が、自民党という森の木々をなぎ倒していった。
累々たる倒木。聞こえてくるのは、首相や閣僚たちへの恨み節だ。
「一票」が猛威をふるった7月の言葉から。
東京で3選をめざした自民の保坂三蔵氏は、あえなく6位に沈んだ。
「年金問題、政治とカネ、閣僚の失言など暴風雨のなか、演説の大半をおわびや経過報告に割かれた」。
本論で勝負できなかった、と悔しさをにじませる。
農村でも逆風が吹いた。
新顔が大敗した山形で、運動中に応援に歩いた衆院議員は、支持者の突き上げを食った。
「大臣の失言、なんだべ」「松岡(農水相)の後は、ばんそうこう張った男か。
安倍さんには学習してもらわねえと」
落選したほかの陣営も悲鳴を上げた。
「年金だけならいいが、余計なものがどんどん出てくる」(青森)。
「オウンゴールが4点ぐらいだ」(千葉)。
足を引っ張った代表格の赤城農水相は選挙翌日、「…………」。終始無言で登庁した。
惨敗を尻目に、首相は続投を表明した。
派閥のボスらが即刻承知したのを、作家の辻井喬さんは嘆く。
「子分を一人でも多く閣僚にしようという計算で、自民党全体のことなんて考えていない。
まして国家の将来なんて頭の片隅にもない」
追い風は民主党に吹いた。
比例区の最後に滑り込んだ山本孝史氏は、進行がんと闘う。
「天から『あなたの出番を作りましたよ』と言われた気がする。
6年は無理かもしれないが、命ある限り仕事をしたい」。
弱い人たちへの優しさを、自らに課す。
惨敗しての阿部首相の続投発言はさらに自民党に対するイメージを悪くしている。
権力・金でしか維持できない自民党をば印象付けた。
戦争の罪深さを訴えかける
平成19年8月2日の天声人語よりの引用
毎年8月になると、大阪から1冊の本を送っていただく。
庶民の戦争体験を集めたもので、『孫たちへの証言』と題がついている。
この夏で区切りの20集目を数える。
刷り上がったばかりの本が、今年も届いた。
手にとって項を繰る。
玉砕の島サイパンから奇跡的に生きて帰った女性。
学友の無残な遺体を防空壕(ごう)から運び出した男性。
子ども6人を連れて厳寒の朝鮮から逃れた母親……。
74編が収録されている。
とつとつと飾らない文が、それゆえに、戦争の罪深さを訴えかける。
出版社を営む福山琢磨さん(73)が編集してきた。
原稿は毎年募集する。
収録候補を選び、電話や手紙で筆者に問い合わせて、手を入れていく。
手間のかかる作業だが、損得抜きで、名もなき人々の苦難にこだわってきた。
大所高所からの歴史だけでは「戦争」は見えない。
だが小さな物語を丹念に集めていけば、やがてはモザイク画のように実相が浮かぶ。
そんな信念に支えられた。
20年間の応募は1万3000を超え、収録は1599編にのぼる。
「庶民の戦争史」と呼んで恥じない数だろう。
今年は100歳の人の原稿が初めて載った。
震えがちな肉筆とともに、介護ヘルパーの聞き書きが同封されていた。
「伝えたい」という執念を、福山さんは感じた。
体験者の高齢化は進み、4人に3人を戦後生まれが占める時代である。
戦争をめぐる日本人の記憶の泉から、わずかに残る水をくみ上げて、「記録」にとどめる。
涸(か)れる前に一滴でも多くをと、応募のある限り刊行を続けるそうだ。
どの人にとっても一度しかない大切な人生である。それが戦争にぶっかって短い人生に終わった人たちが多い。
その大切な苦労した戦争体験をば何,とか伝えたい気持ちが体験してきた者としてある。
その人たちが少なくなり.再び同じような戦争の足音が聞こえる現在,なんとかしたい気持ちは誰も体験者にはある。
二世 三世議員の苦労を知らずに育ってきた議員には特に知ってもらう必要がある。
亡くなった作詞家の阿久悠さんは
平成19年8月3日の天声人語よりの引用
冬の名曲もあるけれど、亡くなった作詞家の阿久悠さんは「8月の人」だろう。
瀬戸内海の淡路島で終戦を迎え、8月15日をつねづね第二の誕生日だと語っていた。
その日の晴れ渡った空を、8歳の阿久さんは、特別の青として覚えていた。
あんなに見事な青空は人生で数度の記憶しかない、と回想している(『生きっぱなしの記』)。
この日を境に、封印されていたものが一斉に飛び出してきた。
流行歌であり、映画であり、野球だった。
「民主主義の三色旗」と阿久さんは呼んだ。
なかでも野球には、「神が降りてきた感じ」を受けたという。
用具はなく、すべて手作り。
毛糸を巻いたボールで熱中した日々は、のちに小説「瀬戸内少年野球団」となって実を結ぶ。
毎年、高校野球の8月を心待ちにした。
「球児は甲子園という聖地への巡礼者」と言い、この二十数年、すべての試合を自宅で見た。
この間、仕事は入れない。
昼は丼ものしか食べなかった。
画面から目を離さずに口に運べるからである。
「三色旗」のひとつの流行歌が、本業になった。
「UFO」「勝手にしやがれ」「林檎(りんご)殺人事件」……。
破天荒ともいえる表現を次々に繰り出した。
秘話に類するのだろう、目指したのは「美空ひばりが歌いそうにない歌」だったという。
ひばりとは同い年。
畏怖(いふ)や意地など、ないまぜな思いがあったようだ。
だが彼女の死後は、それを悔やんだ。
阿久さんは自著で、一番の心残りを「美空ひばりのために歴史的な詞を提供できなかったこと」とつづっている。
軍歌しか歌わなかった少年時代 だった。
以前録画した映像の再放送はあっても,美空ひばりが生き続け,今も歌い続けている姿は想像できない。
でも心にうつような名曲は歌い継がれてゆくものである。
双葉山は後援者に
「我、いまだ木鶏(もっけい)たりえず」と
電報を打ったという。
平成19年8月4日の天声人語よりの引用
双葉山といえば戦前の大横綱である。
前人未到の69連勝を果たした。
ついに敗れたとき、館内は静まりかえった。
しばらくして、我に返ったような怒号と喚声が渦巻いたという。
さすがの「不敗の代名詞」も緊張の糸が切れたのか、翌日、翌々日と連敗した。
双葉山は後援者に「我、いまだ木鶏(もっけい)たりえず」と電報を打ったという。
木鶏は、中国の故事で、最強の闘鶏のたとえ。
木彫りの鶏さながらに、動じることなく勝負に臨む。
無心の境地をあらわす言葉だ。
相撲は心、技、体だと言う。
技と体はともかく、心はまだまだ。
電報は、未熟を恥じる意味だったろう。
土俵内外でのひたむきな姿勢で、双葉山は求道者(ぐどうしゃ)とも仰がれた。
名横綱に比べるのは無粋だが、いまの朝青龍騒動に、古き良き伝説を懐かしむファンもいるだろう。
看板役の朝青龍のいない夏巡業は、きのう群馬県を皮切りに始まった。
日本相撲協会は「おわび企画」として、急きょ力士の握手会を開いた。
騒動は、横綱を甘やかしてきた協会の、大きなツケでもある。
戦後の大横綱だった大鵬について、名アナウンサー北出清五郎さんが回想している。
当時の二所ノ関親方は、大鵬の素質を見込んで英才教育を施した。
ほかの弟子とは違う特別扱いである。
その一方で、とりわけ厳しく第一人者となるべき心構えを説いたそうだ。
大横綱がそびえ立ち、巨木を倒そうと下位の力士が精進を積む。
過去の隆盛期には、きまって理想の形があった。
真の巨木になれるのかどうか。
ここが朝青龍の土俵際である。
朝青龍の報道が毎日テレビを賑わしている。
これだけ報道され続けると何か政局の悪い報道をば避けるために毎日報道しているのかと思える位に
朝青龍が話題になっている。
生まれてから習慣も違うモンゴル力士に日本人と同じような理想像を追いかけるのは無理な話であって
朝青龍にとっても迷惑な話である。
健康なものでも,これだけマスコミで話題になれば精神異常をきたさない方がおかしい。
:横綱には降格はない。
一回きりの人生この際に引退されるのも本人にとって幸せだと考えるのだが。
オスマン帝国の都、イスタンブールの輝きを伝える
「トプカプ宮殿の至宝展」が、東京・上野の都美術館で
平成19年8月5日の天声人語よりの引用
江戸城・大奥の礎を固めたのは3代将軍家光の乳母、春日局(かすがのつぼね)とされる。
60半ばでの辞世は〈西に入る月を誘(いざな)ひ法(のり)をえて今日ぞ火宅を逃れけるかな〉。
欲に満ちた火宅を春日局が仕切った17世紀前半、はるか西方では「イスラムの大奥」が栄華を極めていた。
オスマン帝国の都、イスタンブールの輝きを伝える「トプカプ宮殿の至宝展」が、東京・上野の都美術館で始まった(9月24日まで)。
1000人もの女性が暮らしたハレム(後宮)の品々は、バラの香りに抱かれて並んでいる。
ハレム、またはハーレムと聞けば殿方は落ち着かないだろう。
この言葉は、もっぱら一夫多妻の背徳を帯びて欧州に伝わり、世界に広まった。
アングルの「トルコ風呂」(ルーブル美術館蔵)では、多くの裸婦が妖(あや)しく憩う。
現実のハレムは、世継ぎを争う場だった。
奴隷市場から連れてこられた異教徒の美女たちが、作法や教養、歌舞を身につけ、君主スルタンの寵愛(ちょうあい)を競う。
首尾よく男子を産めば、母后として国に君臨する道も開けた。
化粧箱、羽根うちわ、出産用のいす、ゆりかご。
自分を飾り、勝ち残るための道具は華やかで、どこか悲しい。
小型のうちわは、見知らぬ男との「会話」にも使われたという。
例えば、頬(ほお)からずらせば「愛してる」になった。
ハレムが育んだ文化は、時が博物館へと押しやった。
言葉には官能の澱(おり)だけが残された。
大奥と同様、その名が風俗産業に多用されていることを知れば、往時の女性たちはうちわを左耳にあてるかもしれない。
「ほっといて」と。
「千夜一夜」で読む中東の世界は夢の国の話だった。ブッシュによって踏み荒らされた国は荒んだ哀れな国のイメージしか
浮かばない。気の毒な民である。
アメリカは,あまりにもおせっかい婆さんすぎるのではないのか。
その民族の自主性と伝統的な習慣・風習に任せるのか一番だと思う。
何もわざわざアメリカ流の民主主義とかをば押し付ける必要性も無いのではなかろうか。?
又日本もブッシュの言うような第二次大戦後にアメリカから民主主義が流入されたものではない。
大正デモクラシ- その前に福沢諭吉により「人ノ上二人ヲ作ラズ」とされてきたが,
天皇家は古代から葛城氏 蘇我氏 長い期間の藤原氏 武士政権(:平氏 源氏 北条氏 足利氏) 徳川氏と明治維新後は軍人たちによって,
戦後はアメリカにより天皇が大いに利用されてきている。
そのような異常な巨大な権力のもとに,いつの時代にも何らかの形で民は苦しんできている。
真の日本の民主主義時代は未だに至ってていないと思う。
素人が歴史を趣味で調べていると,そのように思えるようになってきた。
皇族の方達を解放されるのが,日本国民にとっても皇族の方達にとっても
良い結果がもたらされるものと考えるのだが。
米ハーバード大の研究チームが
「肥満は伝染する」との説を発表した
平成19年8月6日の天声人語よりの引用
松浦理英子さんの短編に『肥満体恐怖症』がある。
巨体が苦手な女子学生が寮で肥満の先輩3人と同室になり、ねちねちいじめられる話だ。
握った手を離さず先輩の一人が言う。
「あなたさえ太ればこの部屋は肉の帝国となるのよ。美しいと思わない?」
米ハーバード大の研究チームが「肥満は伝染する」との説を発表した。
肥満の友を持つ人が太る可能性は、そうでない場合より57%高いという。
1万2000人の人間関係を32年追跡した結果だ。
兄弟姉妹や夫婦の共太りなら体質や食生活の仕業かと察しがつく。
ところが、友人間の「感染力」は兄弟や夫婦間より強かった。
研究チームは「親しい人が太っていると肥満への抵抗感が薄れる」とみる。
漫才の今いくよ・くるよ師匠のように、45年の親交にして見事に両極の体形を保つ例もある。
でも、友人の膨らみに接しているうちに肥満の許容範囲が緩み、節制する気がなくなるという理屈は分かりやすい。
米国を旅した時の、甘湯につかるような心地よさを思い出す。
歩く男も座る女も、こちらが肥満見習いに見える肥えようだ。
目が合えば「なんだい細いね」と言われた気にもなる。
バーガー屋のポテトは思わず、しかし迷わず「大」にした。
米国の成人は3割超が太りすぎという。
170センチ/85キロを肥満としない甘い基準でこれだ。
3人の仲間で1人は肥満という勘定。
交わるたび、戯れるほどに互いの許容範囲は緩まり、津々浦々、皆がぷよぷよになる。
こうして、安穏だが美しくない「肉の帝国」ができる。
肥満もそうだが,欧米では巨大な肥満者がいるが,喫煙者はアメリカより遥かに多い。
i日本は後進国並で平気でタバコを吸っている人たちを多く見かける。
あるスーパに行くと喫煙室ができていて,そこの中で大勢の人達が入り喫煙している。
部屋にはタバコの煙が充満しているにちがいない。
毒ガスとして死ぬのには時間はかかるがガス室みたいなものである。
喫煙は肥満同様に,それ以上に病気に対するリスクが高い。
肺がんは勿論のこと色んな臓器のがんを発生させる要因で心筋梗塞 脳梗塞のリスクが極めて高い。
外国産のタバコが外国では健康の為に売れなくなり,又タバコ会社は病気になると訴えられるので宣伝が足りずに
輸出に頼っているのか。
その一番の得意先が日本がなっている。
タバコ中毒になると,なかなか中毒から離脱できない人たちをみかける。
なんとかならないものか。
殆んどの人たちは大病してから止めている。それでもタバコを止められない人たちも見かける。
タバコは発売禁止すれば成人病は少なくなり,快適な老後が暮らせる。
1945年8月6日,投下された8時15分、
原爆ドームの上空を仰いでみた
平成19年8月7日の天声人語よりの引用
「原爆の日」の朝、広島の街を通り雨がぬらした。
平和記念公園の川べりを、千羽鶴を抱えた高校生が通る。
献花をたずさえ、お年寄りが歩く。
投下された8時15分、原爆ドームの上空を仰いでみた。
雲間にうっすらと青空がのぞく。
「その時」を告げる鐘にあわせて、約600メートルの中空(なかぞら)で炸裂(さくれつ)する巨大な火の玉を思い描いた。
現実なら、私は瞬時に消滅するだろう。
容赦なく抹殺される我が身を思えば、心は冷える。
想像をめぐらしたのは、『原爆詩一八一人集』(コールサック社)という本を広島の書店で見つけたからだ。
きのうが発行日である。
栗原貞子「生ましめん哉(かな)」、原民喜(たみき)「コレガ人間ナノデス」。
名高い原爆詩とともに、今の詩人の作品も多く収録している。
被爆体験者は少ない。
想像力で言葉を紡いできた。
戦後生まれの江口節さんの「朝顔」は、〈いつものようにその人は出かけた/いつものように汗を拭(ふ)きながら/
いつもの空に/6000度ものまぶしいはなびらが開くなぞ/知るはずもなかった…〉。
何十万の命に向けて炸裂した核兵器のむごさを突く。
時とともに被爆者は亡くなり、平均年齢は74歳を超えた。
原爆の日以外は記念公園もひっそりする。
風化なのだろう、広島市の小学生の5割は投下日時を知らない。
原爆の惨をどう伝え継ぐか、模索が続いている。
広島・長崎を最初で最後にしなくてはならない。
そんな思いが『一八一人集』にこもる。
年内には英語版も出るという。
被爆国の詩人の深い言葉が、世界の人々に響けばいい。
広島・長崎での被爆体験者は少なくなってきている。
今までの日本は「過ちは二度とくりかえしません」としかいえなかった。
責任所在が不明のままである。
世界に核爆弾の恐ろしさを発信できるのは世界で唯一日本しかない。
世代は変りつつあるも戦争の恐ろしさを伝えてゆきたいものである。
大学や短大を卒業したのに、
高卒者の試験で採用されていた
「学歴詐称」である
平成19年8月8日の天声人語よりの引用
年齢のサバを読むといえば、ふつうは実年齢より若く言うことだろう。
だが漫画家の手塚治虫さんは、亡くなるまで実際より2歳年上だと信じられていた。
戦後すぐ、デビュー作の掲載が決まったとき、17歳だった。
正直に年を言うと、若すぎて編集者を不安がらせるかも知れない。
大人に見せようとサバを読んだ年齢が、そのまま流布したという説がある。
偉業に花を添える逸話と違って、どこか切ない「サバ読み」が、各地の自治体で発覚している。
大学や短大を卒業したのに、高卒者の試験で採用されていた「学歴詐称」である。
神戸市、大阪市などで相次ぎ、先日は横浜市でも分かった。
免職や停職など、厳しい処分が下っている。
同情論もあるが、高卒者の就職機会を奪ったというとがめは、やむを得ないだろう。
それよりも発覚した数である。
大阪が約1000人、横浜は約700人というから、たまさかの不心得ではない。
大阪では、バブル崩壊後の就職氷河期に増えたという。
この時期に社会に出た「さまよえる世代(ロストジェネレーション)」の、背に腹代えられぬ策だったのか。
せっかく身に付けたものを捨てての身過ぎなら、暮らしは定まっても、喪失感があっただろう。
思い出すのは、〈まだ何もしてゐないのに時代といふ牙が優しくわれ噛(か)み殺す〉の歌だ。
歌人の荻原裕幸さんが、25歳の閉塞(へいそく)感を詠んだ。
時代という牙はいま、25歳から35歳の世代に、ひときわ苛烈(かれつ)に噛みついている。
切ないサバ読みは、はざまの世代からの、秘(ひそ)かな異議申し立てだったかもしれない。
高校しか卒業していない者が大学卒業を言うのは学歴詐欺であるが,大学卒業していても高校卒だけで
就職にありつかないと就職先がないというのは大変哀れな話である。
それほどの就職難にしているのは誰がしているのか。
実利主義奨励社会の小泉改革とやらの成果?である。
改革による問題が山積している中で,真の必要とする改革は落ちこぼれている。
官僚の天下りとか年金問題 政治資金改革などは行われていない。
国民は為政者によって翻弄されている。主権在民だが,自分達の栄達の為に「長いものに巻かれろ」の
処世術が世の中充満している。
異なる意見に根気よく耳を傾けるのが、
治の王道ではなかったか
平成19年8月9日の天声人語よりの引用
近ごろの漫才には、「もうええわ」という言葉が頻発するそうだ。
2人が掛け合い、話がかみ合わないと「もうええわ」。
捨てぜりふを放って打ち切る。
ここで客席はどっと笑うのだろう。
こちらは笑ってもいられない。
長野県に公共事業を評価監視する委員会がある。
煙たい意見を述べる委員らに、県は「もう結構」とばかり、任期半ばで辞職を勧告したという。
うち1人の有識者は、意思確認もないまま解任されてしまった。
長野は昨夏、「脱ダム」を掲げた前知事から、ダムを是とする現職に代わった。
県側は否定するが、勧告された委員らは「邪魔者の一掃か」と不信を募らせている。
行政と漫才は違う。
異なる意見に根気よく耳を傾けるのが、治の王道ではなかったか。
「議論の必要なし、問答無用。
こういう笑いに浸り続けるのは危険なことじゃないですかねえ」。
落語の桂歌丸師匠が以前、本紙に意見を寄せていた。
結びには「笑いに限った話ではありませんよ」。
異質なものを排除しがちな時代への警鐘に、わが意を得たものだ。
似たことは、国政にもある。
安倍首相肝いりの、集団的自衛権をめぐる懇談会もそうだろう。
メンバー13人をぐるり見渡せば、行使の容認に前向きな人ばかりだ。
世論を分かつ大テーマなのに、異なる声を聞く耳はないらしい。
論敵について、勝海舟が言ったそうだ。
「敵がないと、事が出来ぬ。
国家というものは、みンながワイワイ反対して、それでいいのだ」。
おおらかさと懐の深さは、今は昔の無い物ねだりだろうか。
今となれば首相が変らなければ前にすすまない。
早く政権交代することである。
今の内閣には,首相が変らない限り,誰も期待はもてない。
きのうの長崎原爆忌で、
正林さんは「平和への誓い」を
読み上げた
平成19年8月10日の天声人語よりの引用
平和祈念像の青い筋肉の上を雲がゆっくり流れる。
あの日と同じ南の風だ。
正林克記(まさばやし・かつき)さん(68)は62年前、その風の中でセミ捕りをしていて、白い光と爆風を浴びた。
「お父さん助けて」。
腹に竹が突き刺さり、思わず戦死した父を呼んだ。背中の妹は「お母さん」と小さく震えた。
きのうの長崎原爆忌で、正林さんは「平和への誓い」を読み上げた。
「立場や都合で原爆投下を正当化してはならない」。
クマゼミの合唱を超える声だった。
正林さんたちの夏を引き裂いたB29のスウィーニー機長は、直後の9月、長崎に入り、廃虚の爆心地から青空を見上げる。
この時の心境を回想録で「後悔も罪悪感もなかった」と記した。
罪悪感を抱くべきは日本の指導者たちだと。
機長はカトリック信者だった。
日本有数の信者の街、浦上を全滅させたと知る由もない。
二つの原爆が戦争を終わらせたという「落とした側の論理」を貫き、04年、84歳で逝った。
彼らの第1目標だった小倉は、近くの空襲の残煙で目視がきかなかった。
投下に3回挑んで燃料を費やし、第2目標の長崎に賭けることになった。
曇天だったが、その時だけ一瞬、雲が切れたという。
ヒロシマから74時間47分。
いくつもの必然と偶然が産み落とした二つ目は、機長に勲章を、真下の7万4000人には死をもたらした。
幾多の残酷な出会いを「しょうがない」の言葉でくくった防衛相は去り、与党は民意の報いを受けた。
被爆者の悲願、核廃絶への道は険しい。
「目を覚ませ」と南風に言わせ、また夏がゆく。
広島の原爆に続いて何故さらに長崎にも原爆を落としたのだろうか。?
不思議な話である。
当時のアメリカ人は日本人を虫コロのようにしか思わなかったのか。
当時 日本国民はアメリカ人は鬼のようにおもっていたから,そうなのだろう。
鬼畜米英で子供の頃に育ってきた。
初めて見たアメリカ人を見たときに赤鬼に見え,乗っていたジープの前の立てられたアンテナはなんだろうと
大変不思議に思った。
伝わる妖怪の数だけ、
古来の暮らしや自然に根ざした
「理由」があるようだ。
平成19年8月11日の天声人語よりの引用
夏の夜を涼しくするのは怪談だが、「幽霊」と「お化け」は似て非なるものらしい。
幽霊は、うらむ相手をねらって出るそうだ。
伊右衛門にたたる四谷怪談のお岩さんは、そのお仲間である。
お化けは土地や物に憑(つ)いて、誰が通りかかっても出る。
井戸で皿を数える皿屋敷のお菊さんは、こちららしい。
以上は、江戸風俗に詳しかった故・杉浦日向子さん監修の書に教えられた。
もともと身元のおぼろげな方々ではあるが、言われてみれば、そうかという気もする。
親戚(しんせき)筋でもあるまいが、水木しげるさんの漫画『ゲゲゲの鬼太郎』の脇役に「ぬりかべ」なる妖怪がいる。
その元の姿が、江戸時代の絵巻に描かれているのが、先ごろ分かった。
夜道を歩いていると壁にぶつかったように進めなくなる――そんな悪さをする妖怪だと伝わる。
水木さんは、巨大な壁に小さな目と足を付けて、とぼけた味わいに描いた。
絵巻は獅子の体つきをして、三つ目に牙まである。
おどろおどろしい風体は、古人がそれだけ怪異を恐れたからなのか。
寂しい夜道は、遠く感じる。
歩いてもなかなか着かない。
その感覚が「ぬりかべ」の正体なのだろう。
伝わる妖怪の数だけ、古来の暮らしや自然に根ざした「理由」があるようだ。
やわらかい感性ゆえか、「妖怪に出会う」なら子ども時代だと水木さんは言う。
目的を持たず、ぼんやりするのがコツらしい。
さて盆休み。
田舎へ帰る子もいるだろう。
都会と違う草木のそよぎ、夜の深さ。
ゲーム機は置いて、妖怪に出会う夏も悪くない。
比叡山の山頂で夏になると毎年のようにお化け屋敷があった。
お化け屋敷に行かなくとも恐ろしい事件がマスコミによって毎日のように賑わしている。
世の中妖怪はいたるところにみうけられる。
淡谷さんを泣かせた特攻を、
日系米国人が追った映画「TOKKO 特攻」が
上映されている
平成19年8月12日の天声人語よりの引用
「ブルースの女王」、と聞いて淡谷のり子さんを思う人は減りつつあるだろう。
きょうが誕生から100年と聞き、戦時中も軍歌を拒み続けた硬骨の生涯を思った。
レコードだけではない。
兵を死地に追いやる歌だと、戦地の慰問でも歌わなかった人である。
平時と変わらぬドレスで舞台に立ち、流行歌を歌った。
アイシャドーに真っ赤な口紅、つけまつげ。
「不謹慎だ」と憲兵が怒鳴ると、「(こんな不器量が)素顔でステージに立って、
どうなるのですか」と言い返したそうだ(『ブルースの女王・淡谷のり子』吉武輝子)。
一度だけ、舞台で泣いたことがあった。
九州の特攻基地でのことだ。
歌の途中に出撃命令の下った隊員らが、一人ひとり敬礼して中座していった。
こらえきれず、背を向けて涙を流したという。
淡谷さんを泣かせた特攻を、日系米国人が追った映画「TOKKO 特攻」が上映されている。
狂信的自爆のイメージばかりが米国では強い。
だがリサ・モリモト監督は丁寧な取材で、元隊員の「生きたかったよ。
死にたくはなかったよ」という本音にたどり着く。
「特攻兵」というロボットじみた人間など、どこにもいなかったのである。
「兵士」という特別な人間も。
誰もがただの人間だった。
そのことを、淡谷さんは分かっていた。
前線の慰問で、軍歌を聞きたがる兵はいなかった。
リクエストはきまって十八番(おはこ)のブルースだった。
生きて帰ることを願っているただの男たちのために。
そう念じながら歌ったと、彼女は後に述懐している。
「特攻」と言う行為は子供心に戦時中立派な行為と思っていた。
イスラムの人たちによって流行している「自爆テロ」となると常識を逸した犯罪行為に思われてくる。
だがその内容にはどれだけの違いがあるのだろうか。?
強大な勝ち目のない敵に対しての行為と言う点では同じである。
強大な力に対し,その正しさを判断するきちんとした裁判所があるならば自爆テロはいらないはずだ。
茂吉ほどではないにせよ、
隣の芝生は青く見える。
平成19年8月14日の天声人語よりの引用
明治生まれの大歌人斎藤茂吉は、正直な人だった。
会食で鯉(こい)料理が出たときのこと、隣の膳(ぜん)をしげしげと眺め、鯉を替えてほしいと頼んだ。
隣のが大きく見えたからだ。
だが替えてみると、今度はそれが小さく見えてきて、また元に戻してもらった(『文人悪食(あくじき)』嵐山光三郎)。
茂吉ほどではないにせよ、隣の芝生は青く見える。
お盆休みの今なら、「隣の車線は速く見える」だろうか。
渋滞の中、あっちが速いと車線を変えたとたんに、動かなくなる。
舌打ちした経験は、だれにでもあるだろう。
ふるさとや行楽地への行き来で、各地の高速道路は激しい渋滞だ。
きのうは休みの折り返し点だったのか、午前中は下りで、夕方になると上りで、長い車の列ができた。
そしてきょうがUターンラッシュのピークだという。
自然渋滞は、ささいなことで起きるらしい。
東大大学院の西成活裕・准教授によれば、何かの拍子に一台の速度が落ちると、後続は次々にブレーキを踏む。
その減速が連鎖して渋滞になるそうだ。
防ぐには、最低でも40メートル以上の車間距離が必要だと、著書『渋滞学』で述べている。
急ぐ旅でも車間は詰めない方が、結局は早く着くのである。
あっち、こっちと車線を変えるのも、渋滞に輪をかけるだけらしい。
自分が追い抜いた車はすぐ視界から消える。
だが抜かれたときは、お尻を長く見続けることになる。
それが、自分の車線は遅いと錯覚する一因だと、米などの大学が報告している。
五十歩百歩と心得て、「隣の幸福」をねたまぬよう走りたい。
交通渋滞には変るような交通手段があればそれを利用することである。
自動車は氾濫し続けている。
新しい道路ができても直ぐに渋滞する。
夏のきわみに、この春死去した
城山三郎さんをめぐる本の出版が
相次いでいる
平成19年8月15日の天声人語よりの引用
昭和と切っても切れない人だからか。
夏のきわみに、この春死去した城山三郎さんをめぐる本の出版が相次いでいる。
17歳で入った「軍隊」が残した傷痕から出発し、生涯をかけて戦争を追究した作家である。
亡くなる前年にお会いしたとき、特攻の話になった。
戦争末期に「桜花」という特攻機があった。
着陸する車輪さえなく、体当たりだけを目的に作られた兵器である。
あるとき米国の航空博物館で、城山さんは実物を見る。
あまりにも狭い操縦席に、胸をしめつけられた。
若者が身体を折りかがめ、兵器の一部となって乗り組んでいく。
悲劇的な姿が脳裏に迫った。
人格など顧みられず、人間が消耗品扱いされた時代を痛感したという。
死んでいった兵への愛惜を語り、「行かせた者は許せない」と目をしばたかせていた。
そして、城山さんのいない8月15日が巡る。
人命を湯水のように戦場につぎ込んだ指導層の責任を、城山さんのように問う戦中派もいる。
横浜の飯田進さん(84)は、南方での餓死、病死のありさまを書き残そうと、時間と競争の執筆を進める。
自らも死線をさまよった。
軍部は拙劣な作戦を繰り返し、補給もなく、おびただしい兵を野たれ死にさせた。
その責任に目をつぶって、惨めな戦死者を「英霊」と呼べば、戦争の実相を隠すと思うからだ。
この夏の、城山さんをめぐる一冊に、若いころの本人の詩があった。
戦争を、〈暖い生命を秤売(はかりうり)する〉ものだと突いている。
気骨の作家の遺訓が聞こえてくるような、62年目の蝉(せみ)時雨(しぐれ)である。
戦争は間違った強大な権力を持った人たちによって強制的に動員され戦わされた。
動員した人たちは涼しい顔をして,後ろに隠れ戦わずに痛み対して何も感じない。
前線に立たされたものは司令官の下に必死になって戦っている。
それが戦争というものであろう。
兵士は正確に任務遂行するために命をかけて前線で戦い,働いている。
上層部は唯命令するだけである。
昔の兵隊は1銭5厘で幾らでも補充できた。
終戦の日が、盆と重なることだ
平成19年8月16日の天声人語よりの引用
戦没した人たちの思いが働いたのかと、時々不思議に思うことがある。
終戦の日が、盆と重なることだ。
迎え火、送り火、精霊流し。
戦争の記憶と相まって、日本人の情念がいちばん深まるときであろう。
いつもは静かな東京の千鳥ケ淵戦没者墓苑も、きのうは献花に埋まった。
海外での死者のうち、引き取り手のない約35万人の遺骨が眠っている。
今年は新たに、各地で収集された973柱が納骨された。
だが、なお116万人もの遺骨が祖国の土を踏めないでいる。
人の生きた証しは様々だが、骨は最も素朴なものだろう。
南方の熱帯林で苔(こけ)むしていた、日本兵のしゃれこうべに、詩人の茨木のり子さんは胸を痛めた。
〈生前/この頭を/かけがえなく いとおしいものとして/掻抱(かきいだ)いた女が きっと居たに違いない〉。
詩は、〈小さな顳●(こめかみ)のひよめきを/じっと視(み)ていたのはどんな母……〉と続く。
昨日の全国戦没者追悼式に最高齢で参列した松岡コトさん(101)は、長男を亡くした。
遺髪は届いたが骨は戻らず、母はずっと、無骨(むこつ)の墓に線香を立ててきた。
日本人ばかりではない。
戦中、朝鮮半島から大勢が日本に動員された。
日本で亡くなり、各地の寺や山野に見捨てられた遺骨は少なくない。
帰してほしいと求める声が、韓国からも起きている。
〈戦死やあわれ/兵隊の死ぬるや あわれ〉で知られる詩「骨のうたう」を書いた竹内浩三も、戦死して骨は帰らなかった。
白木の箱の軽さに泣いた多くの遺族の無念も、戦争の罪深さとして心にとどめたい。
終戦記念日は八月十五日でお盆と重なる。
第二次戦争開戦日は十二月八日でお釈迦さんが悟りを得られた日である。
竹内浩三の歌で広く知られている詩は「戦死やあわれ」である.。
戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や
白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった
ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や
戦死や哀れの根本的な改善方法は何処にあるのだろうか。
二度と過ちを犯さないようにすること以外になかろう。
為政者によって大君が大いに利用されていた。
その根本的解決はどのようにすればよいのだろうか。
お国の為に天皇陛下万歳を唱えながら死んでいった兵隊たちが多くいた。
水の貴重さに驚き、
節約の知恵に恐れいったものだ
平成19年8月17日の天声人語よりの引用
学生時代にネパールを旅したとき、街道の茶屋に入った。
主人がコップを洗うのを見ていると、まず10個ばかりをテーブルに並べ、その一つに水をいっぱい入れた。
次に、その水を隣のコップに移した。
さらに隣に、また隣に、と移していった。
それが、「洗っている」のだった。
1杯の水で10個を洗うのである。
谷川までの水くみが重労働なんだ、と主人は言った。
水の貴重さに驚き、節約の知恵に恐れいったものだ。
思い出したのは、本紙の声欄で大分市の女子中学生、小沢●(●は王へんに「争」、じょう)さんの投書を読んだからだ。
●さんは中国福建省で育ち、3年前に母親らと日本に来た。
向こうでは夏には水不足になり、日に何度も井戸の水をくみに行ったという。
水の大切さが身にしみているといい、日本での節約ぶりを書いていた。
電話で聞くと、大きなバケツを天秤棒(てんびんぼう)で担いで水を運んでいたそうだ。
いまも、洗面器に水をためて顔を洗う。
それを捨てずに掃除に使う。
学校の水場で友達が水を掛け合っていると、「もったいない」と思ってしまう。
今年上映された仏映画『約束の旅路』の一場面が、重なった。
干ばつのアフリカ難民キャンプから救われた少年がシャワーを浴びる。
少年は排水口を両手で押さえ、「ダメ」と叫んで、流れていく水を必死で止めようとする。
猛暑にうだって、水のお世話になる日々である。
水ゆたかな国土に感謝しつつ、胸に手を当てて、わが無駄遣いを自省する。
●さんにならって、せめて蛇口のこまめな開け閉めぐらいは心がけることにしよう。
豊富にあるのが当たり前のように考えている水が所により貴重なものとなっている。
炎天下での水は有り難い。
気息奄々(えんえん)、
酷暑への恐怖さえ伝わってくる。
平成19年8月18日の天声人語よりの引用
作家の吉川英治は若い頃、雉(き)子郎(じろう)と号して川柳を詠んだ。
家は貧しく、工場へ通う途中に焼き芋を買い、半分を朝飯に、半分を昼飯にした。
そのころの一句、〈貧しさもあまりの果(はて)は笑ひ合い〉。
暑さも、あまりの果ては笑い合うしかないのか。
埼玉県熊谷市と岐阜県多治見市で、国内の最高気温となる40.9度を記録した。
テレビに映る市民には苦笑いが目立った。
お天道様には勝てない。
あきらめ半分の苦笑だったかもしれない。
冷房という「逃げ場」のある現代人の、ゆとりの表情でもあろう。
これまでの記録40.8度は、74年前に山形市で観測された。
むろん冷房などない。
地元紙は、「太陽がもう一尺でも地球に近づくなら生きとし生ける北半球の動物が焼死してしまう」と書いた。
気息奄々(えんえん)、酷暑への恐怖さえ伝わってくる。
当節は、暑さを逆手に取っての「街おこし」らしい。
熊谷はもともと暑さで名高い。
猛暑を「無形文化財」に見立て、イベントなどに取り組んできた。
そして、めでたく日本一に。
反対に、王座陥落の山形からは「悔しい」の声が届く。
とはいえ、多くの命が熱中症に(命)を奪われている。
暑気あたりを総称して「霍乱(かくらん)」という。
鬼でも霍乱を病むのだから、お年寄りや子どもは注意が要る。
暑さで売る熊谷あたり、霍乱予防の先進地も目指してはいかがだろう。
なお真夏日の続くなか、雉子郎の句をもうひとつ。
〈ざんざ雨河岸に涼しい灯が一つ〉。
冷房頼みで乗り切る夏ではあるが、気持ちで「涼」を感じるゆとりも、失わずにいたい。
今年の夏は異常に暑い。クーラーのない時代だったならばどうしていたのだろうか。
お盆休みに居た京都で、
ささやかな涼味に何度か救われた。
平成19年8月19日の天声人語よりの引用
昨日の本欄は「気持ちで涼を感じるゆとり」を呼びかけている。
ゆとりと呼ぶほどの自信はないけれど、お盆休みに居た京都で、ささやかな涼味に何度か救われた。
炎天下で寺社を巡り、大原の三千院に着いたところで日が陰った。
五感が我に返ったのか、チョボチョボという手水鉢(ちょうずばち)の音に耳が行き、池のアメンボに目が届く。
虫が動くたび、雲を映す水面に同心円が薄く走る。
そういうものが随分いとおしく見える。
近くの寂光院では、天の打ち水のような通り雨に恵まれた。
嵯峨野を渡る風もうれしかった。
〈涼しさを絵にうつしけり嵯峨の竹〉と芭蕉が詠んだ情景だろうか。
竹林をくぐる細道を、葉ずれの音と、青い香が抜けていく。
そんな「ちょい涼(すず)」の体感は、再びの炎天下であえなく蒸発した。
戸外の高温多湿と、店や車内を満たす人工の冷気。
10度の差を往復するうち、わずかな温度の揺らぎはどうでもよくなる。
気持ちで涼を味わうには、なるほど心身と時間のゆとりが要りそうだ。
うだる夏、底冷えの冬。
晩年の谷崎潤一郎は京の寒暖差に耐えかね、渋々、熱海に越したという。
そういう地に都があったから、四季の移ろいを受け流す知恵、楽しむ文化が広まったのかもしれない。
負けずに遊べば、京に「さんずい」を添えるだけで涼しくなる。
清水(きよみず)の舞台には赤トンボが舞い、ヒグラシが聞こえた。
秋の気配とするのは甘かろうが、時が連れ去るのも暑さ寒さである。
川面の京名物、納涼床にせめて気持ちだけでも転がし、優しい季節を待つとする。
京都の夏の風物詩である鴨川沿いの「床」は昔ほどに涼しくない。
むしろ部屋の中でのクーラーに当たっている方が涼しい。
だが見た目には納涼「床」で料理を食べている人たちの姿は涼しく感ずるものである。
それにあやかった北海道銘菓「白い恋人」が
売れ残りの賞味期限を1カ月先に改ざん
平成19年8月20日の天声人語よりの引用
グルノーブル冬季五輪の記録映画(68年)は「フランスでの13日間」という無味乾燥な原題である。
この作品がまとう甘い記憶は、全編に流れるフランシス・レイの音楽と、邦題「白い恋人たち」のためだろう。
命名の妙だ。
それにあやかった北海道銘菓「白い恋人」が、発売30年にして失恋の危機にある。
売れ残りの賞味期限を1カ月先に改ざんするなどの不祥事に、裏切られた思いの人も多かろう。
賞味期限は4カ月。
土産物は日持ちするほうが便利だが、少しでも新鮮な品を求めるのも消費者だ。
「半年は大丈夫」(石水勲社長)という問題ではなく、「交際相手」である顧客との信頼関係が問われている。
小さなうそから始まる破局もある。
全国に名を知られた後も、「恋人」は北の土産の立場を守り続けた。
この商才がご当地ブランドを生んだ。
商品名が優美なだけに、現実との落差は哀れでさえある。
たとえば、発売前に検討されたという「冬将軍」であれば、ここまでの名前負けはなかったはずだ。
ブランドとは、買い手の頭の中にある「いい記憶」の積み重なりだという。
「悪い記憶」は消えにくいので、ブランド企業は品質の維持に腐心することになる(山本直人『売れないのは誰のせい?』新潮新書)。
石水社長は5月、地元紙に連載された自伝の最終回で「伊勢の赤福のように百年、二百年後まで愛される『伝統』にしたい」と語っている。
今年創業300年の赤福の餅は、ごまかせない「製造日限りの販売」だ。
伝統にはそれぞれ、理由がある。
賞味期限は書かれてあると気になるものである。だが賞味期限が切れているものを食べても大丈夫である。
賞味期限の少ない食物は安価になっている。直ぐに食べるならば大丈夫なので買うことがある。
戦後の食料品の不足した時代はアメリカ進駐軍(占領軍)の残飯を養豚家から分けてもらい食べさせられたが
脂肪分が多く含まれていて大変に美味しかった。
芋主食だったり豆かすが沢山入ったご飯とか雑炊の時代には栄養価の高いたべものであった。
京都では半分腐ったような臭いがする配給の魚しか食べられずいた時代であった。
そんな経験した者にとっては少々の賞味期限が切れていてもあまり気にしていないつもりだ。
毒になるものが混入しているかもしれない中国産の食品の方が気がかりであるが。
台湾から到着した中華航空機は
それが、機体は炎と黒煙に包まれた
平成19年8月21日の天声人語よりの引用
世に飛行機の苦手な人は多いが、作家の恩田陸さんも、その一人だ。
初めて乗ったとき、「この床の下には何もない」と想像し、パニックになったと自著に記している。
たしかに、地に足つかない心細さは、板の下に水のある船をしのぐ。
だからだろう。
車輪が滑走路についたとき、詰めていた息を吐くような空気が機内に流れる。
だが、それで安心するのは早いと、昨日の那覇空港の事故で思い知らされた。
台湾から到着した中華航空機は、タラップを付ける駐機場に入って止まった。
普通なら、乗客はこのあと自分で土を踏むだけだ。
それが、機体は炎と黒煙に包まれた。
漏れた燃料に何かの理由で引火したらしい。
乗客の話は生々しい。脱出シュートで外へ出て、一目散に走る背後に、爆発音が響いたという。
まさに間一髪。
全員無事だったのは奇跡的だろう。
引火が何分か早かったら、あるいは飛行中だったら、と想像すれば背筋は冷たくなる。
「墜(お)ちる」イメージの強い航空事故だが、地上で起きた例は少なくない。
30年前に、大西洋のテネリフェ島で過去最悪の583人が死亡した。
これも墜落ではなく、ジャンボ機同士の滑走路での衝突だった。
飛行機嫌いがいれば、飛行機好きも多い。
無類の後者だった精神科医、斎藤茂太さんに生前お会いしたとき、「人間が空飛ぶなんて奇跡的ですよ」と聞かされた。
奇跡を当たり前に思っては安全はおぼつかない。
謙虚かつ細心。
航空会社の気構えなしには、旅客機の「床の下」は、ますます心細くなってしまう。
最近テレビで飛行機から緊急脱出する映像を見ると益々に飛行機に乗りたくない。
でも全員無事に脱出できて何よりである。
漏れた油が引火してのことで,ボルトの不良品となると外国の飛行機には乗りたくない。
日本もアメリカのボーイング社に負けずに飛行機製造を何故にしないのだろうか。
航空力には優れていた日本なのだが。アメリカによる日本占領時に飛行機製造の中止が命ぜられた。
これも、暦と実感のずれだろう。
平成19年8月22日の天声人語よりの引用
「六月無礼」とは、暑さの盛りには服装が乱れても、大目に見られることをいう。
この「六月」は旧暦である。
今年は、旧暦と新暦とでは、ひと月半ほど季節がずれるから、「八月無礼」がふさわしいだろう。
夏の盛りの暑さを、暦の上の立秋を基準に「残暑」と呼ぶのはいかがかと、本紙の声欄に投書があった。
今年の立秋は8日だった。
たしかに、その日から天気予報などで「残暑」と言われても、実感にそぐわない。
ここは1票を投じたい気分で、ご意見を拝読した。
こうした「正確な表現」に、時々とまどうことがある。
たとえばテレビなどが、午前0時を過ぎたとたんに、前の日を「昨夜」「きのう」と言う。
だが聞く側にとっては、まだ「きょう」が続いているから、いつのことかと混乱してしまう。
これも、暦と実感のずれだろう。
新しい日が始まるには、前の日が終わらなくてはならない。
だが宵っ張りはいつも、きょうが終わっていないのに、新しい暦がめくられてしまう。
眠らなければ前の日は終わらない、と哲学者の長谷川宏さんは言う。
不眠はさまざまにつらい。とりわけ、一日の始まりを持てない精神的苦痛が大きいのではないかと、
著書『魂のみなもとへ』(朝日文庫)で述べている。
眠りづらい熱帯夜に、日々の区切りのおぼろげな方もおられよう。
秋が立つには、夏が遠ざからなくてはならない。
高校野球はきょう決勝、空にすじ雲もなびく。
ツクツクボウシも鳴き出した。
「無礼」な猛暑との付き合いも、いま少しと見受けるのだが。
今年の猛暑にはこたえた。それは年齢によるものか地球温暖化現象に猛暑によるものかは正確でない。
多分後者によるものだろう。
那覇空港で中華航空機が炎上した事故は
「犯人捜し」ではなく、「再発の防止」が、
調査の目的なのである
平成19年8月23日の天声人語よりの引用
75年前の冬のこと、5人の乗った飛行艇「白鳩号」が大阪から福岡へ向かっていた。
折からの吹雪に艇は針路を失う。
空中分解して山に墜落し、全員が帰らぬ人となった。
原因は詳しく調べられたようだ。
調査はまず、機体の散乱具合をもとに、時計の針を戻しながら、どんな順序で分解が進んだのかを突き止めた。
さらに、さまざまな実証をへて、空中分解の端緒となった「翼の銅線の切断」にたどり着いた。
物理学者の寺田寅彦は、報告を読んで感心したらしい。
「下手な探偵小説よりおもしろい」と感想を残している。
そして、「銅線を強くすれば、少なくとも同じ原因による事故はなくなるわけだ」と事故調査の本質を突いた。
「犯人捜し」ではなく、「再発の防止」が、調査の目的なのである。
那覇空港で中華航空機が炎上した事故は、調査が進むにつれて、相当な燃料漏れがあったとわかってきたようだ。
目撃者によれば「ジャージャー漏れていた」らしい。
水も漏らさぬはずが、なぜ蛇口でもひねったようになったのか。
突き止め、対策が取られなければ、同じ旅客機に命を預ける気にはなれない。
ベストセラー機で知られ、国内でも10機が飛んでいる。
75年前の新聞には、白鳩号の操縦士は「日本屈指」だったとある。
腕前で飛んだ時代から、いまや技術の粋を集めたハイテク機である。
800人を乗せる超大型機など、寅彦は想像もしなかっただろう。
だが、力説した「真相を明らかにして後難をなくす」大切さは、時を経ても変わってはいない。
飛行機での惨事は大きい。汽車ならば助かる可能性もあるが,飛行機では墜落・火災では完全に助からない。
でも汽船で外国に行く時代でもない。
九州から朝鮮半島まで地下の高速列車でも走るようになれば又変る。
不人気な内閣は、「気付け」を改造に頼むしかないのだろう
平成19年8月24日の天声人語よりの引用
芝居の入りが思わしくないとき、客足を取り戻す切り札と頼む演目は、日本なら「忠臣蔵」、西洋なら「ハムレット」だと聞く。
「忠臣蔵は芝居の気付け」とも言い習わされる。
どちらも、名場面と名せりふで、観衆を飽きさせることがない。
不人気な内閣は、「気付け」を改造に頼むしかないのだろう。
7月の参院選では、主役の安倍首相はじめ、脇役大臣の「大根」ぶりに、国民から「引っ込め」の声が飛んだ。
だが、大敗もものかは、早ばやと続投を決め、週明けには新たな組閣に踏み切る。
珍場面と迷せりふの安倍一座に憤った国民の目は、なお厳しい。
宿敵、民主党の小沢代表は「政府は脳死状態」とばっさり。
連立を組む公明党の太田代表からも「安倍政権がだらしないのは皆さんの言うとおり」とやられた。
自民党内からも退陣論が噴いてやまない。
文字通り、四面に楚歌(そか)を聞きながらの改造である。
「私の内閣」「私の国造り」などと、首相は天動説さながらの発言を続けてきた。
なお続くなら、民意を読めない鈍感ぶりは極まることになろう。
挙党一致であれば見栄えはいい。
だが、意見の合わない先輩らを迎えたとき、うまく手綱をさばけるのか。
国民注視の組閣劇で、「お友達」を集めてすむはずもない。
ハムレット随一の名せりふは「生か死か、それが問題だ」だろう。
外遊先で安倍さんは、「生」と「死」にいろいろな名前を当てはめて、悩んでいるに違いない。
いずれにしても脇役陣のみが入れ替わり、なぜか主役は変わらぬ第2幕となる。
安部内閣が改造しても国民の支持率はあまり変り映えしない。
そこで突如阿部さんは政権を投げ出した。無責任も極まりない。
福田さんに変るが支持率は如何ばかりになるのだろうか。
古来、稲は雷の光を浴びて実ると考えられた
平成19年8月25日の天声人語よりの引用
初夏に田植えをした房総半島の棚田へ、草取りの作業に行った。
しばらく見ぬ間に稲は伸び、もう色づき始めている。
草を刈り終えて、汗だくの体を冷ましていると、「それでよろしい」という風情で、稲穂も風に吹かれている。
〈私の植えたものは黄金色の/なまめかしいものとなった。
/風のままにはためいてさざなみをおこし/夕陽(ゆうひ)の中でくだけては又もりあがる〉。
農村に暮らして詩を書いた永瀬清子さんが、実りの穂波を描いた一節が思い浮かぶ。
だが地元農家に聞くと、今年の稲は、恵まれていたわけではないらしい。
7月は雨が多かった。
田んぼから早めに水を抜くと、8月に入って烈(はげ)しい太陽が照りつけた。
実をはらまずに枯れた穂が、所どころにある。
夕立も少なかったらしく、田はひび割れている。
古来、稲は雷の光を浴びて実ると考えられた。
雷光を稲妻や稲光(いなびかり)と呼ぶのは、その名残である。
カミナリ様にも冷たくされたと聞けば、わが稲も少しばかり不憫(ふびん)である。
夏の好天は豊作を約束するとされてきた。
だが近年は、天気が良いと高温障害が起きる。
温暖化ゆえか、「米どころ」が北へ移っているともいう。
北海道産はかつて、食味が劣って売れ残り、「やっかいどう米」と揶揄(やゆ)された。
いまや、本州米に並ぶ人気らしい。
人が植えて刈るけれど、稲を育てるのは太陽と土と水だろう。
秋の日には、感謝をこめて収穫を祝う。
だが気候の歯車が狂えば、高らかな祭り囃子(ばやし)は遠ざかってしまう。
兆(きざ)しなきにしもあらず、なのが気がかりだ。
人は自然には勝てない。自然と仲良く生きてゆくことである。
05年に38歳で逝ったプロウインドサーファー、
飯島夏樹さんの半生の映画化だ。
「弱くなってみて、初めて見えるものがたくさんある」
平成19年8月26日の天声人語よりの引用
御前崎を訪ねた。
灰色の遠州灘から、波頭の連なりが静岡県南端の浜へと向かっていた。
晩夏の眠る海は、秋から春、強い西風で表情を一変させる。
84年から10年間、ウインドサーフィンの世界大会を開かせた一級の風である。
「Life 天国で君に逢(あ)えたら」がきのう全国公開された。
05年に38歳で逝ったプロウインドサーファー、飯島夏樹さんの半生の映画化だ。
御前崎で出会い、共に世界を転戦し、病と闘った妻寛子(ひろこ)さんや、4人の子供との家族愛の物語でもある。
肝臓にがんが見つかった02年から17回の入退院、そして余命3カ月の宣告。
一家は最後の時を過ごすため、選手時代の拠点、ハワイに移る。
それから半年、飯島さんは闘病記を執筆した。
薄黄色と水色の夕焼けに記す。
「生の営みの最終章で、家族が仲良くひとつになって、誠実な仲間に囲まれ、ここに暮らせる事をとても幸せに思う」(『ガンに生かされて』新潮文庫)。
一日刻みで生きる人の励みになればと、日々ゆれる体調を波回りや風向きに例え、死の5日前まで心情をつづった。
未明の月に命をかみしめ、谷の朝風に元気をもらう。
「弱くなってみて、初めて見えるものがたくさんある」。
映画の「明るさ」は、主人公の前向きな姿勢に負うところが大きい。
エンドロールに飯島さん一家の笑顔の写真が重なる。
〈海鳴る風に抱かれ/口ずさむメロディ……〉。
桑田佳祐さんが寄せたバラードは、ハワイの貿易風のように優しく、切ない。
涙を一度こらえたら、温かい勇気に満たされた。
飯島夏樹さんは知らない。肝臓がんで38歳でなくなった。肝臓がんはまずC型 B型肝炎がある。
そしてアルコールの飲みすぎ 肥満 遺伝的なものが考えられる。
「アルコールの飲みすぎ」と「肥満」は特に要注意である。早期ならば治療法は沢山ある。
癌は今でも大変な病気である。意識が最後まで鮮明で気の毒な病気である。
誰に来るかは判らない。
ダイアナ元皇太子妃は交通事故で逝った
平成19年8月27日の天声人語よりの引用
斜陽をあびてバラが咲き誇っている。
中の一輪にハサミを入れ、加藤楸邨(しゅうそん)は詠んだ。
〈薔薇剪(き)れば夕日と花と別れけり〉。
鮮烈な喪失感が漂う、不思議な句だ。
英王室の大輪のバラが、異境の庭で散ってはや10年になる。
かの国が香港を手放した夏の終わりに、ダイアナ元皇太子妃は交通事故で逝った。
36歳だった。
謀殺説を封じて、運転手の飲酒とスピード超過が原因とされている。
パリにいた頃、毎週末の買い出しの帰りに、その短いトンネルを通った。
ほぼ直線で幅もある。
通るたび、ここをどう走れば大型車で死亡事故が起きるのかと、いぶかったものだ。
故人の後半生とは対照的に、セーヌ河岸の現場はありふれた道だった。
別居と離婚、新しい恋人。
地位がなければ、これまた平凡な愛憎劇だろう。
エリザベス女王は「民間人」の死に沈黙を通し、国民の批判を招いた。
当時の内幕を描いた英映画「クィーン」には、世論に折れた女王が「大げさな涙とパフォーマンスの時代ね」と嘆く場面がある。
今年のアカデミー主演女優賞に輝いた女王役のヘレン・ミレンは王室の昼食に誘われた。
脚本はだから、絵空事ではなかったようだ。
ミレンは「こうした映画を作れる国に生きるのはすてきです」と語っている。
女王が願う「模範の家庭」からは遠いが、英王室の懐は深い。
元妃も時にメディアを手玉に取り、薄幸ぶりをさらしたという。
その人間味は王室の命脈に寄与したのか、逆か。
希代の一輪。
ひと昔にしてなお強烈な残り香に、花と棘(とげ)の大きさを思う。
イギリスの皇室と日本の皇室とは明らかに違っている。歴史もそうだが国民との距離も違うように感ずる。
少なくとも日本の皇室もイギリス並みに変るべきである。
ダイアナ妃のような現象は日本では想像がつかない。日本では失語症か ウツ傾向になり大変気の毒なことである。
今で言えば「抜擢人事」である
首相の確信と民意との距離はしかし、
リフォームで歩み寄れるほど近くはない
平成19年8月28日の天声人語よりの引用
江戸後期、不人気な田沼意次(おきつぐ)に代わって幕府老中に就いたのは、白河藩の名君と聞こえた松平定信だった。
そして「寛政の改革」を行う。
田沼時代のコネと賄賂(わいろ)による人事から、能力と人柄を重んじる方法に改めた。
「見出(みいだ)し」という言葉が、当時流行したそうだ。
人を見いだす。
今で言えば「抜擢人事」である。
家格は不問。
そのかわり、人物の吟味には相当な手間ひまをかけたらしいと、歴史学者山本博文さんの著作に教わった。
前回の組閣では論功行賞を重んじたらしい安倍首相が、定信のひそみに倣ったかどうか知らない。
だが、不出来な大臣に悩まされた後悔から、今回は、かなり慎重に人物を吟味したとみえる。
政治とカネにからむ、さらなる醜聞は命取りになる。
「身辺」の検査とともに、忠誠という「心辺」の調べも怠りなかったに違いない。
前の大臣らは、閣議での雑談あり、頭越しの「続投しません」発言ありで物議をかもした。
このうえ軽んじられては面目はついえてしまう。
定信の「見出し」は、今の「サプライズ人事」でもあろう。
今回なら舛添厚労相か。
参院選の後にも、歯に衣(きぬ)着せない批判を首相に浴びせていた。
起用が挙党一致と映るか、受け狙いの外連(けれん)に見えるかは紙一重だろう。
「1000万人といえども吾(われ)ゆかん」が首相の座右と聞く。
この故事には「省みて正しいと確信できれば」と条件がつく。
そう思えばこその内閣改造なのだろう。
首相の確信と民意との距離はしかし、リフォームで歩み寄れるほど近くはないと見受けるのだが
まず閣僚の検査よりも首相自身の検査が第一であった。何故にこのような首相がなったのか不思議である。
若いのが一番致命傷で苦労をせずに育ってきている。従順不断。
庶民の苦労が何も理解できていない。
日本国はダッチロールしながら事故なしに飛んできた飛行機のようだ。
首相が業績だと自慢している無理やりに国会を通した法律の中には問題のものがある。
「朝青龍」なるしこ名を眺め、「これは一体誰なのか」と
平成19年8月29日の天声人語よりの引用
凜烈(りんれつ)な作風で知られた小説家立原正秋が、筆名について書いていた。
ほとんどの郵便はペンネームで来るが、まれに本名で届くものがある。
本名をしげしげと眺め、「これは一体誰なのか」と妙な気分になる。
そんな内容だったと記憶する。
似た気分を、モンゴル人のドルゴルスレン・ダグワドルジも味わっているのかもしれない。
「朝青龍」なるしこ名を眺め、「これは一体誰なのか」と。
謹慎の様子はうかがい知れない。
だが日を重ねるほど、彼の心の中で、本名の嵩(かさ)が増しているように思われる。
きびしい状況への配慮だろう。
日本相撲協会は横綱の帰国を認めた。
早ければ今日にも発(た)つ。
帰ったきり、二度と「朝青龍」には戻らない可能性も、なくはないらしい。
ここまでこじれた責任の一端は、丁寧な意思疎通を欠いた師匠と協会にもあろう。
この世界で師匠といえば、実の親も同然と聞く。
横綱審議会委員だった作家の舟橋聖一が、双葉山父子を回想している。
双葉山は幼い時、友達の吹き矢が当たって右の目を失明した。
父親は、だれが矢を吹いたのか知っていながら、死ぬまで口を閉ざし続けたという。
恨まれる者より、恨む本人にとってどれだけマイナスになるか。
分別を踏まえた深い愛情のゆえだった、と作家は書いている(『片目の横綱双葉山』)。
この父親にして、品高き名力士ありだろう。
双葉山も隻眼のハンディを秘したまま、無敵の相撲を取り続けた。
鑑(かがみ)もあれば不出来な親子もあるとは知りつつ、騒動の口直しに紹介してみたくなった。
「朝青龍」には早く引退させてあげることが彼にとって最善の人生だと考える。
異国の地でその国の慣習に慣れるのは大変なことである。
特に相撲界は閉鎖的で厳しいところがあるから大変だ。
中国でいま、日本産のナマコが大人気らしい
平成19年8月30日の天声人語よりの引用
南シナ海のスプラトリー(南沙)諸島は、中国やベトナムなどが領有を主張して、紛争の海と呼ばれてきた。
中国がこだわるのは、ここで高級食材の「ツバメの巣」がとれるからだと聞いたことがある。
真偽のほどは知らない。
だが、海底資源より珍味が大事と、もっともらしく語られるのは、かの国の「食」への情熱のゆえだろう。
足が4本のものは机以外、飛ぶものは飛行機以外なんでも食べる。
そんな冗談もある中国でいま、日本産のナマコが大人気らしい。
たとえば、北京にある名店では、たっぷりのネギと香味野菜でナマコを煮込んだ料理が評判だ。
中国通の同僚によれば、ナマコは客が自分で見て選ぶ。
産地、等級別にずらりと並んでいて、最高級に日本からの輸入ものが鎮座している。
それを、富裕層がこぞって指名する。
精がついて美容にもいいから、姿かたちは不気味でも値段は跳ねる。
乾燥ものの日本からの輸出価格は、ここ5年で5倍ほどに高騰したらしい。
うまい儲(もう)けに密漁船も暗躍する。
生態がよく分からないため、取り尽くす心配も出てきているようだ。
〈何の故に恐縮したる生海鼠(なまこ)哉(かな)〉と漱石は、寡黙でつましい生き物を詠んだ。
日本では料理でも地味な脇役だ。
せいぜい酢ナマコか、このわたか。
大陸へ渡ってひと花咲かせたような人気ぶりは、こちらのファンには少し寂しくもあろう。
旬は冬。
「きわめて冷潔、淡美。
肴品中の最も佳(よ)いもの」と江戸の『本朝食鑑』も讃(たた)える。
少しナマコを見直して、食わず嫌いを改めるもよし。
ナマコは変った食だ。今までに2-3回あるだけで美味しいとは思わない。
中国の人たちは変った食品に対して興味があるようだ。
62年が過ぎて、
なお終わらぬ戦争を抱える人、
いまを「戦前」にすまいと心を砕く人。
平成19年8月31日の天声人語よりの引用
追悼の夏が去る。
62年が過ぎて、なお終わらぬ戦争を抱える人、いまを「戦前」にすまいと心を砕く人。
戦争と平和を問う8月の言葉から。
被爆地は元防衛相の「しょうがない」発言に憤った。
長崎で被爆した池田道明さん(68)には、語り部になる決意をした矢先の冷や水だった。
風化を懸念しつつ「被爆体験は平和の教科書。
私もその一冊になり、多くの人に読んでもらいたい」と気を新たにする。
広島で原爆に遭った竹内勇さん(87)はがんと闘いながら、集団訴訟で国に原爆症の認定を求める。
あの日、「亡くなっていく人に一杯の水もあげられなかった」と悔恨は深い。
そしていま、「年老いた私たちに一杯の水をください。
私にとって一杯の水とは原爆症の認定です」
新潟生まれの蓑輪喜作さん(78)は、東京の武蔵野公園で憲法9条を守る署名を集めて、6000を超えた。
「9条おじさん」と慕われている。
趣味で詠む歌に、〈田舎弁まるだしなれど若者は戦争体験聞いてくれたり〉。
動員学徒らの遺稿展が、東京であった。
受付の井室美代子さん(80)は神宮外苑の壮行会で学徒兵を送った。
「悲惨な現実を名誉のように演出するものだった。
その片棒を担いだ。
悔しいし、やりきれない」。
ゲートルを巻いた学徒兵のすねの細さが脳裏に残る。
抵抗の詩人金子光晴。
戦時中に編んだ私家版詩集が見つかった。
〈人よ。
なぜ人生を惜しまない。
/こまやかな人間の生を、/なぜもっといつくしまない。……〉。
その反戦は、深い家族愛に根ざしていた
戦争は自分から好んでするものでもない。時代の流れだった。
これからは原爆が世界中に氾濫している時代に戦争はできなくなる。
金儲けの為だけの戦争が各地で美名のもとに頻発している。
戦争ビジネスとして会社に戦争を委託しているアメリカである。
自衛隊がそんなところと一緒に組することができだろうか。
法性寺から東福寺へ
東福寺へ久しぶりに訪れてみた。境内は大きくてとっても広い。
三門は 京都で知恩院に次いで大きいそうだ。
観光案内のタクシ−の運転手からそのような話を聞いた。知恩院は何度も訪れているが大きいが
でも京都で一番とは思わなかった。三門は国宝である。
南北朝時代に焼失して至徳二年(1385)造営が始まり応永十二年頃(1405)に完成している。
東福寺が以前には此処に東福寺より大きい法性寺という寺が建っていた事を知っている人は少ないようだ。
現在の東福寺の広さの約4倍もあった大きな寺院である。
深草に極楽寺を藤原時平によって完成された後,その弟の藤原忠平によって法性寺が建立された。
寺域は北は法性寺大路(:現伏見街道)一の橋(泉涌寺道) 南は稲荷山(伏見深草) 西は鴨川
東は東山山麓という広大な地域にあった。
藤原氏の氏寺として何代にもわたり増建され子院なども含まれていて,現在の東福寺もこの中に含まれている。
藤原忠平(貞信公)によって延長三年(925)に新堂が完成した。「貞信公記」によると延長二年二月十日に「参法性寺、始聞鐘」
九月に鐘楼がなり,十一月に南堂に四菩薩像安置し,八月に五大尊を新堂(東堂)に安置とされている。
「扶桑略記}iによると本堂・ 東堂・南堂・大門・礼堂・鐘楼等があり,密教寺院様式の建築とされる。
承平年間(931-938)に朱雀上皇が御願寺二宇を建てて御願寺となし,承平四年十月十日(934)に定額寺になった。
天暦三年(949)八月十四日に藤原忠平は亡くなっている。
藤原忠平の曾孫の藤原道長の時に(寛弘二年(1005)朱雀院の御願堂と礼堂が焼亡しているので
法性寺座主が造料を負担してもらうよう道長に願い出て御願作料を送ってもらっている。
子院の東北院は小野宮流一門の氏寺になっている。
道長の子頼道の孫の師通,その孫に当たる忠通の時に御所(邸)が作られ、忠通は法性寺殿と通称されることになった。
白河法皇 鳥羽上皇の院御所と御堂にならったものとみられる。久安三年(1147)の頃のことである。
久安六年(1150)十一月に最勝金剛院が忠通室の藤原宗子によって,この堂の建立された。
この頃の院家の四至は東は山科境 西は河原 南は遠坂南谷 北は貞信公御墓所を限るとされている。
これは従来の法性寺領域の大部分を領していることになる。
最勝金剛院は現在も東福寺の子院として現存しているが,当時は法性寺の主たる存在だったようだ。
忠通の子 建久二年(1191)九条兼実は法性寺の東北に自ら御所を作り月輪殿と称された。
これには鎌倉殿の援助もあった。鎌倉幕府の開府は建久三年(1192)のことである。
兼実は実母のために光明院も建造した。法性寺の子院は最勝金剛院,・報恩院・光明院・
そして白河上皇の曼荼羅堂 一音院 報塔院・妙覚院などがみられる。
兼実の孫であり,良経の子道家の時代の延応元年(1239)八月五日に九条道家によって法性寺の地に東福寺が上棟され,
寛元元年(1243)八月二十二日には東福寺の鎮守成就宮の祭礼が始めて行われた。
現在も東福寺の北門通り,南門通りの間,本町通りの東側に面して:法性寺が現存している。
この法性寺は明治維新以後に旧名を継いで再建されたもので、本堂に安置する千手観世音菩薩像(国宝)は、
旧法性寺の潅頂堂(かんちょうどう)の本尊と伝えられ二十七面千手観音「厄除観世音」の名で知られている。
尼寺であって,現在浄土宗西山禅林寺派に属していて,こじんまりとした寺院である。
拝観するには前もって予約しておく必要がある。
東福寺は東山連峰月輪山山麓に位置している。南北に走る東大路通と東西の九条通りの接合する辺りから
南側に広大な寺域とそこに伽藍と塔頭がある。山号は恵日山、臨済宗東福寺派本山で本尊は釈迦如来である。
かっては新大仏と称されていた。開基は聖一国師円爾弁円である。九条道家により嘉偵二年(1236)に発願して
延応元年(1239)八月五日に上棟され建長十九年(1255)jまで十九年を費やし完成している。
円爾弁円は宋より帰国後九州の崇福寺に住しており工事半ばの寛元元年(1243)に上洛,道家に招かれて禅を説き
深い帰依を受け東福寺一世に請じられた。
円爾弁円は寛元四年(1246)にいたっても堂宇は完成せずに普門院を営み居所とした。
東福寺の名は規模は東大寺につぎ,教行は興福寺にとったとされる。
建長四年(1252)に九条道家は仏殿が完成しないままに亡くなる。
建長七年六月に大仏の落慶をみている。仏殿本尊の釈迦如来像は15メートル 左右の観音弥勒菩薩は7,5メートルで
新大仏寺と呼ばれている。その後東福寺も栄枯盛衰があり天正十五年(1585)豊臣秀吉から寺領1500石余を寄進され
惟杏永哲や 安国寺恵瓊の尽力で伽藍の修理が行われた。通天橋も慶長二年(1597)秀吉により架け替えられる。
その後徳川家康・家光により保護修理が加えられた。明治維新により莫大な寺域を失い塔頭七十余ヶ寺も合廃寺の制令により
半数以上がなくなってしまった。最盛時には八十余ヶ寺あった塔頭・子院は現在二十五ヶ寺でそれでも多い。
万寿寺 退耕庵 盛光院 霊源院 龍眠庵 海蔵院 勝林寺 善慧院 大機院 同聚院 霊雲院 一華院 天得院など
塔頭を廻るだけでも大変なことである。拝観できる場所は通天橋と方丈である。
秋の紅葉の盛んなときには沢山な人盛りで近ずくのも大変だ。
京都深草の地に,平安時代には北から貞願寺 道澄寺 極楽寺 稲荷神社 法性寺などが甍を並べている。
南北朝時代には持明院統の北朝の天皇たちが十二帝陵に祀られており,一方南朝(大覚寺統)は嵯峨野の大覚寺に居を構えていた。
御陵としては十二帝陵はいたって質素であるが,当時の藤原氏は常に権勢を誇り続けていた。
深草の地に法性寺は小さな浄土宗の尼寺として名前だけが今も伝わっている。極楽寺も浄土宗の寺院として今もあるようだ。
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